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三橋 みはし




「安政江戸図」(「日文研所蔵地図」が公開しているものを使用、
ここ。日文研のこの古地図のサイトは、とても有用です。)

地図は、右が北。不忍池の南東隅(左下隅)からクランクしながら東へ(下へ)流れ出るのが忍川、そこに「ミハシ」とあるのが三橋。地図では分からないが橋が3つ並んで架かっている。そこへ南()から至る道が「下ヤ ヒロ小チ」すなわち下谷広小路。

志ん生の落語などにも登場する貧民窟「下谷の山崎町」は地図下部中央のやや右寄り、白地に「山サキ丁」とある。明治二年1869に下谷万年町と改称された。


◇+◇


『江戸名所図会』の 東叡山黒門前 忍川 三橋

次に示すのは、『江戸名所図会』(斎藤月岑げっしん 作画は長谷川雪旦 天保年間)の巻之五にある、「黒門前の三橋」。大名行列が今しも三橋中央の橋に差し掛かって来たところ。これから黒門前の広場に入って行こうとしている。広場の突き当たりに「黒門」があるのだが、図では左に切れていて描かれていない(『江戸名所図会』では、この次の図となる「忍ハすの池 不忍の池」に出ている)。
黒門は寛永寺に入るための門。寛永寺は三代将軍・家光のとき天台宗の僧・天海が造営した。徳川将軍家の祈祷所であって、将軍15人のうち6人がここに眠る。なお、多くの堂宇は維新の際に焼失した。


上図は十分に鮮明でなく細字は読めないので、説明を付ける。なお国会図書館が公開している図は拡大可能で、かなり鮮明である(ここの第23コマ)。

【ア】不忍の池。ここは池の南東隅で、忍川が流れ出している。。

【イ】:「みはし」、三橋。中央が大名が東叡山寛永寺へ参拝するための橋。庶民は両側の狭い橋を渡るとされるが、中央が空いているときは庶民も中央を使った。橋の幅は、中央が6間半(11.7m)、左右が2間ほど(3.6m)ずつ、いずれも長さは3間2尺(6.0m)であった(「御府内備考」の上野元黒門町『大日本地誌体系 壱』のp482 国会図書館デジタル公開)。故に橋の幅だけで18.9mあった。道幅全体では30~40mあったのだろう。確かに広い道だったが、上図は道幅を強調するために、人間を小さく描いている。

【ウ】:「しのぶ川」、忍川。三橋の下を流れて三味線堀を抜け、隅田川に出る。三味線堀は「秋葉の原 (2・1)」の地図に出ているが、佐竹屋敷の正門前にあった水面で、その形から三味線堀と呼ばれた。
忍川は近年発掘調査がなされ、立派な石垣水路が出て来た。不忍の池の排水のために造られたのだそうだ。忍川は明治末に暗渠となり、三橋も消え去った(三橋遺構 台東区教育委)。

【エ】:「仁王門跡」。黒門前広場にかつて存在していた「仁王門」の柱跡が残っていた。これに関してはなかなか面倒な歴史的事情がある。
まず、歌川豊春(享保二十年1735~文化十一年1814)の「江戸名所 上野仁王門之図」を見てもらおう。


この素晴らしい錦絵は、手前の三橋と黒門前広場、広場の中の仁王門と黒門、更にその奥にそびえる上野のお山の東叡山寛永寺がきちんと描いてあって、それらの位置関係が良くわかる。三橋の様子も分かりやすい。なによりも多数の人々の多様な姿が詳細に描き込んであって、興味深い。歌川豊春は遠近法を早くに体得した「浮絵」の名手として評価されている。
三橋のうち中央の橋を庶民らしい女性が渡っているのが注目される。これが実態だったのだろう、将軍が寛永寺参拝のための橋だというが、平常時には庶民も使っていたのである。但し、【イ】で参照した「御府内備考」と違い、3つの橋の幅がほぼ等しく描いてある(三橋そのものに変遷があったのか、豊春の描写が不正確だったのか。【カ】で掲げる広重「下谷広小路」はやや曖昧だが「御府内備考」に近いか)。

橋の周囲に傘が幾つも立っているのが見えるが、【コ】で説明する「傘見世」である。
三橋を渡って広場の右手奥に入っていく道が描かれているが、その辺りから先が【カ】の「山下」となる。

上で仁王門に関する「面倒な歴史的事情」と言ったが、それを説明する。要するに火災のために幾度も建て替えられている(場所も変った)ということなのである。4段階の変遷があった。
    (1):天海僧正(慈眼大師)によって東叡山寛永寺が創建されたのは寛永二年(1625)。寛永四年(1627)黒門が入口に、奥に入って大仏の下に仁王門が創建された(上図・豊春の錦絵のように仁王門と黒門が並んでいたのではない)。61年後の貞享二年(1688)焼失。
    (2):元禄十一年(1698)黒門の右に並べて仁王門を再建したが、同年、1ヶ月後に焼失。
    (3):22年後の享保五年(1720)(2)と同所に再建したが、翌年、焼失。
    (4):35年後の宝暦六年(1756)(3)と同所に再建した。18年後の明和九年(1772)の大火で焼失。この後仁王門は再建されなかった。黒門は「江戸名所図会」の「下馬」の位置まで奥へ退いて再建された。
豊春が生まれたのが享保二十年(1735)であるから、(4)の仁王門再建の時、豊春は21歳。彼が描いたのは(4)の仁王門であることになる。上掲錦絵を公開している国会図書館はこの作画の時期について「明和五年1768頃~没年」としているが仁王門焼失以前の作であろうから、明和九年1772迄となる(豊春三十八歳迄)(「明和五年1768頃」というのは不明だが、豊春の画歴から出てくる年代か)。上図仁王門の向かって左側に木柵と瓦屋根がみえるのが焼失以前の、仁王門と並んでいる黒門である。(この項目は玉林晴朗『下谷と上野』(1932)の第6編p151~160を参考にしました)。

【オ】:「下馬」 敬意を表すために騎乗していた馬から下りること。ここでは社寺の境内に入る際の作法としての下馬。それを示した高札を「下馬札げばふだ」という。他に城、役所、貴人の邸宅などでも設けられることがある。

【カ】:「山下」 『江戸名所図会』が製作された天保年間(1831~45)の頃、山下は大変な賑わいを見せていた一大盛り場であった。上掲「東叡山黒門前 忍川 三橋」には横雲の向こうに、巨大なザルのようなものが見えるが、「かるわざ」の見世物小屋の櫓らしい。山下は茶屋や浄瑠璃や曲馬などで客を引きつけるだけでなく、「ケコロ」(けころばし)と呼ばれる低級な売春婦でも有名であった。
山下とは「上野のお山の下」という意味で、黒門に向かって黒門広場右手の狭い地域を指すにすぎない。不忍の池から今のJR上野駅に至る途中であるが、すっかり様子が変わってしまっている。『江戸名所図会』ではこの一大歓楽地を表すのに多くの頁数を取りたいので、黒門広場から見てはるか遠くまで歓楽街が広がっているかのような、描き方をしている。

江戸時代後半の同時代の地図で、「山下」ときちんと描き込んである地図はなかなか見つからなかった。狭い地域を指す言葉であったことと、下層庶民が蝟集する下劣な歓楽地という偏見が支配的であったからであろう。次に掲げるのは「東都下谷絵図」(嘉永四年1849)の部分図である。右が北。(最初に掲げた「安政江戸圖」部分図でもほぼ同じ地域を示しているが、「山下」の書き込みがない


左から来る大通りが「下谷広小路」であり、「三橋」がある。まっすぐ行けば仁王門と黒門がありその先に寛永寺がひかえている。三橋から黒門広場の右手(下側)に進み、五条天神の前を過ぎると「山下ト云」と書いてある広場に至る。ここが狭い意味の「山下」なのである明暦大火(1657)のときに設けられた火除地が始まり)。更にその先に進むと「普門院」に始まる多くの寺院が並んでいる。その寺院を「下寺 したてら」と呼び、そこの道を「下寺通り」と言った。顕性院と住心院の間の道をあがっていくのが「車坂」である。
『江戸名所図会』の「山下」は2枚絵になっていて三橋のあたりから山下方向を見た俯瞰図である。始めに示す下図「山下」が奥側、ふたつめに示すのが「其二 そのに」で三橋寄りのところ。『江戸名所図会』の文字を書き起こしたが、赤字は上図の「東都下谷絵図」に描き込んだ赤字と同一対象を示している。


これは慶雲寺と車坂口の間を描いている。「かるわざ」と「曲馬」の二ヵ所に高い櫓が組んであった。「土弓」は弓を引かせるところ。「講尺」は「講釈」。「うなぎ屋」や何軒もの「茶屋」などの食べ物屋があった。「居合抜」の読解には自信ありません。

次図が「山下」の「其二」、「五条天神」の鳥居が左下に見えるのがよい目印になる。先の「東都下谷絵図」の「五条天神」と引き比べて下さい。「こま」をやっている角を右へ曲がっていくと、上の車坂のある「山下」の図につながるわけです。


上図右下の説明文は
五条天神祠
毎年 節分の夜 白朮おけらの神事 修行あり
とある。「白朮」は「おけら、うけら」などと言われるが、元々はキク科の植物で、その根を火種にして新年の雑煮を炊くという京都八坂神社の「おけら参り」が有名。

最後に、広重の「東都三十六景」の中から「下谷廣小路」を掲げておく。三橋の奥に、山下へ続く密集した家並みが描かれていて、特に五条天神の鳥居が明瞭に見えることに注目したい。
花の残る上野の山と早くも来ている燕を配し、驟雨に白い脛を見せて傘をすぼめるお姐さんたちで下谷広小路の華やかさを表したのだろう。広小路そのものには背を向けて山下を描いたのが広重の粋なところだ。(ただし、広重には下谷広小路の松坂屋を描いたよく知られている「名所江戸百景」の一枚がある、下谷広小路


国会図書館デジタルライブラリより(ここ



【キ】:「此邊薬屋おほし この辺り薬屋多し」。【カ】で触れたが、三橋から山下への入口のところに「五条天神」という人気のある古い神社があった。この神社の祭神は大己貴命(おおむなち 大国主命と同じ)と少彦名命(すくなびこな)で、この2神は神話の中で衰弱した日本武尊を手当てし助けた。それによってこの2神は「薬祖神」として崇めらて来た(神社の由来のほかに、東京薬事協会を参考にした)。おそらく、五条天神の門前町的な性格を持っている薬売店が集まっていたのではないか。
なお、『江戸名所図会』には時々この種の「○○多し」の書き込みがあり、「三橋」の少し先の上野の「清水観音堂」の林の中には「此辺さくら多し」とある。

【ク】:「六あミた 六阿彌陀」、広小路側から三橋に向かって右手の家並みに、文字が描き込んであり、寺院のような様子もうかがえる。上図ではまったく分からないので、右に切り出した。【カ】の「東都下谷絵図」に「六阿彌陀・常楽院」を書き込んであるので、位置を確かめて欲しい。

これは、「秋葉の原」の(2・1)「佐竹氏と佐竹屋敷」で取りあげた、「六阿彌陀詣」の左回り出発点である「第五番 常楽院」なのである。サイト「東京紅團」で教えて頂いたのだが、永井荷風が大正3年に行った「六阿彌陀詣」の出発点がこのお寺であったという。震災・戦災を経て現在はここには存在しない。その辺りの事情も「東京紅團」は余すところなく記している。

「江戸名所図会」は「六阿彌陀」の参拝について、とても熱心に取りあげている。左図は「巻之六 開陽之部」に出ている常楽院の様子である。われわれが取りあげている「東叡山黒門前」は「巻之五 玉衡之部」であるから、まったく離れた所に出ていることになる。左図の文字は
  常楽院
   六阿彌陀五番目
   なり春秋二度
   の彼岸中賑ハし
本文中にある説明文は、
宝王山常楽院 長福寿寺と号す。天台宗五条天神の南、忍川の向にあり、本尊阿弥陀如来は行基大士の作にして、六阿彌陀第五番目なり。二月八月の彼岸中甚賑はへり。
「江戸名所図会」が六阿彌陀を取りあげているのにわたしが気づいたものをあげておくと、
 第一番 西福寺 (巻之五)、其角の「六阿彌陀かけてなくらむほととぎす」を掲げる。
 第二番 延命院 (巻之六)、院の図はないが、六阿彌陀巡りを紹介している。
 第三番 無量寺 (巻之五)、画像なし
 第四番 興楽寺 (巻の五)、「田畑八幡宮」の図のなかにあり。
 第六番 定光寺 (巻の七)、参道に物売や布施を求める坊さんなど並ぶ様子を描く、
「江戸名所図会」は膨大なもので、全体をもれなく把握するのは容易ではない。

【ケ】すが糸凧売り。巻五-37「めかつら賣」にすが糸凧が出ていた。そこで晴風が描けるすが凧の絵を見ると、雀のような小鳥やセミもいる。が、全身が黒い「烏凧」は見えない。
齋藤亮輔(編)『日本人形玩具辞典』には「烏凧」の項目があり、それによると
「江戸末期から上野黒門で参詣・行楽客相手に売られ、江戸名物の一つとされた。烏に型どった黒紙製のもの」
明治二七年(1894)発行の「風俗画報」(5月10日号)に烏凧として「四季ともにあり、露店の商人の売るものにて細き竹の頭に色々の鳥の形したる凧をすが糸に結びつけ風のまにまに飛ばし売るなり」
烏凧は本来は黒い烏を型どりすが糸で揚げる凧を指すのであるが、様々の小鳥の姿に色づけした小型凧も烏凧と言うことになった、ということではないか。

玉林晴朗『下谷と上野』(東台社1932 国会図書館デジタル公開)は黒門前広場のすが凧(菅凧)について、次のように言及している。
「飛鳥川」は「そもそも下谷広小路は四季ともに菅凧の烏群れて、左には蓬莱の酒楼、無極むきょくの切蕎麦、右は翁屋の取肴、金澤の菓子屋」と言ふて居る。(『下谷と上野』p374
この本にはもう一個所、「菅凧」が出ているところがある。
又「菅凧」は前の飛鳥川にも記してあったように(上の引用のこと)四季を通じて黒門の名物として有名であった。
あけぼのの前を飛んでる烏凧  (古川柳)
『下谷と上野』p378
曙の空を背景に烏凧が揚がっているという情景、黒門広場の広さが詠み込まれている。古川柳と言われる時代からすでに烏凧が名物になっていたのである。

ここに引いた玉林晴朗にはもう一つデジタル公開されている大著『蜀山人の研究』がある。実はわたしはこの玉林晴朗なる人物をまったく知らなかったのだが朝倉無声『見せ物研究 姉妹編』(平凡社1992)の延広真治「序」に、朝倉無声や宮武外骨が借家に入居していた上野桜木町十七番地の家主(の一人)が玉林晴朗であったと記してあるので仰天した。外骨がこの借家に入ったのが大正4年(1915)9月のことである。

【コ】 広場に大きな傘を置いて、その陰でおもちゃ(手遊び)などを売る小商いをした。前掲図には 5,6個所は見える。
「傘見世」という語もあったようだ。「水戸藩史料 上編坤巻三十」(Googlebooks検索 )の大雪の朝、桜田門外で井伊直弼襲撃を見届ける役の武士(畑以徳)の証言の中に、
それより和田倉門へ貫け日比谷御門を通り、また(所定の)場所へ参り候ところいまだ出仕これ無き様子、傘見世へ入り茶碗酒など呑み居り候、(更に顔見知り数名がいたので)また場所へ戻り候ところ傘見世二軒に入り込み、てんでに食ひ、よそながらの挨拶にて罷りあり候ところ(以下略前掲書p813 引用は読み易くしている
傘見世には酒や軽食を出す店もあったことが分かって興味深い。雪の早朝から2軒出ていた。筆者はこの後、実際の戦闘場面を目にしているのだが「烈しき風雪に血煙立て戦い、合言葉太刀音かまびすしく、たばこ二服ばかりの間にて、只々夢の心地」という頼りない報告になっている。実際に戦闘を行った者たち(総勢18名)の報告が数通あり、生々しいものだ。見届け役の者の報告も更に1通ある。しかし、それらには「傘見世」に類する報告はない。

三橋 みはし】  おわり

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