巻1-48「乞喰諸々」



乞食(物貰い)





目次
(1) 江戸と明治以後の断絶
(2) 江戸時代の絵画資料の乞食
(3) 『洛中洛外図屏風』の乞食
(4) 『一遍聖人絵伝』の乞食


(1) 江戸と明治以後の断絶(浅草公園の乞食)

江戸時代の乞食と明治以降の乞食とは質的にまったく異なる。
江戸時代は身分制社会であって、職業・服装・住居などと身分が一体のものとなっていた。乞食であるためには、いわば、“乞食身分”となることが必要であった。すなわち、「士農工商」の身分制度の外に被差別身分(賎民)として穢多(長吏)・猿飼・非人・乞胸ごうむねその他があったが、それらに属する者だけが乞食をすることができた。つまり、乞食は許可制であって、それ以外の者が行うと非合法であった。
賎民の代表的な仕事を挙げておく。
    穢多(長吏、かわた):刑吏、町の警備、斃馬牛の処理、革製品の製造販売、灯心の製造販売
    猿飼:中世以前からの歴史を持つ馬への祈祷。猿廻し芸で銭を乞う。
    非人:堀・下水などの清掃、芥拾い、長吏の下役として刑吏・刑務を行う、溜での病人の世話、そして物貰い
    乞胸:大道芸で銭を乞う
乞食(物貰い)を本業のうちに数えていたのは非人であるが、他の賎民たちの行為も非人の「物貰い」行為と重なっており、その厳密な区別は困難であった。

非人のうち「非人人別帳」に記載されているものを「抱非人」という。これが正規の非人である。それに対して、飢饉や災害で食い詰めて江戸に流れ寄ってきた者たちは「野非人」と言われた。野非人は、寝る場所も持たない浮浪者たちであり、自然発生的に物貰いをせざるを得ない。そこには大都市・江戸に現れる根源的な問題があるのだが、幕府が行ったことは野非人狩りによって一旦収容し、人別帳に記載して抱非人とするか、追い払うかであった。
江戸時代中期以降、商品経済の浸透や都市の人口拡大がおこると、野非人の増加は重大な社会問題になった。幕閣や町奉行たちは、つねに大きな関心を持って野非人問題に対処したが、その政策の多くは「臨時の非人小屋を作ってそこに収容する」(元禄期など)、「弾左衛門に命じて(追い)はらわせる」(享保期)、「弾左衛門に狩込ませ、非人頭の手下(抱非人)に組み入れる」(中期以降)など到底抜本的対策とはいえなかった。 浦本誉至史『江戸・東京の被差別部落の歴史』明石書店2003 p92
野非人の数は、「幕府の施米」などに集まった人数の記録などから、最大で8000人程にまで達していたという。

幕末には政情不安定が募り、一時は江戸も無政府状態にさえなった。江戸城明け渡しが慶応四年(1868)四月十一日に行われ、上野戦争は五月一五日にわずか1日でけりが付いて彰義隊が敗北した(その間、閏四月をはさみ2ヵ月余)。多くの広大な敷地を持つ藩邸も空家同前となり、江戸城の大奥まで浮浪者が入り込んだという。治安の悪化はひどかった。新政府となっても市中警備の警察力や傷病人の看護にあたる者がどうしても必要であり、戦死者・行き倒れ人もふくめた死者の処置も求められる。
上野戦争の際の負傷兵ら80人余をフランス騎兵伝習所の付属医院「戸部病院」において手術・治療した。その際の日本人たちの驚きが中外新聞(慶応四年1868六月三日)の記事に残っている。
戸部病院では)当時医士ウリヰス、スカンネル、ゼンキンス専らその治療をつかさどる。右の怪我人は大抵鉄砲疵の者多し。その疵の重き者は、コロロホルムと云ふ麻薬を用ひて截断術を行ふ。日本人この如き治療を見慣れざるに故に、当人は勿論傍観の者に至るまで、驚嘆せずといふ事無し。さればこれに依って、日本古来の外科術と比較すれば,遥かに勝れたる欧羅巴風の治療を始めて目撃し,信仰の思を起して皆喜び合へり。
医療は最も分かり易い実例だが、大きな社会変動に際して治安・警備や福祉など都市生活に必須の部門の担い手が継続的に求められる。社会生活の“連続性”の面である。それを引き受けたのは大都市・江戸の賎民階層の者たちであった。それゆえ、弾左衛門(穢多頭)・車善七(非人頭)らはこれまで通りの仕事を続けるように、新政府から依頼されている。被差別=賎民こそが都市社会の連続性の面を担っていたことは記憶に値する。

興味深いことに、明治二年(1869)八月に明治維新政府が東京府の乞食の人口を弾左衛門に尋ねている。次に示すような詳細な数字が可能であったのは、弾左衛門らが仕事を継続していたからである。

浅草(非人頭は車善七)
700人浅草非人頭配下で、物貰いをしている者。老若男女と子供。
500人乞胸頭二大夫方から出てくる者
550人神田橋本町から出てくる者。願人たち。
180人下谷万年町の裏店から出てくる者。
900人市中場末の裏店などから出てくる者。
750人往来にいる野非人たちで、日々増減がある。
以上小計 3558人(総計の81%)
品川(非人頭は松右衛門)
200人手下のうちで、物貰いをする者。
160人野非人と有宿を合わせた人数
深川(非人頭見習の佐助)
56人手下のこじき。
138人霊巌寺裏通りに借家しており、そこから乞食に出る者。
30人西大工町裏通りから出てくる者。
代々木(非人頭は久兵衛)
79人手下のこじき。
100人野非人と「不行歩」の者。
木下川(きねがわ 東墨田三丁目)(跡引受人の文次郎が回答した)
8人手下のうちの乞食。
30人野非人
以上総計 4373人
(この表は、塩見鮮一郎『乞胸 江戸の辻芸人』河出書房新社2006 p180~182による。)
平民に姓名を名乗ることを許したのが明治三年九月、賎民解放令が明治四年八月であった。これで法律的な建前では賎民は消滅したことになった。

◇+◇

E.S.モース『日本その日その日』第25章「東京に関する覚書」の中に、 明治15年(1882)11月の本郷通りのお祭りに出かけて女の乞食を見かけた体験が、印象深く書き留められている。
先夜私は、屋敷の召使いの子供である小さな女の子を二人連れて、お祭りが行われつつある本郷通りを歩いた。私は彼等に、銅貨で十銭ずつやった。どんな風にそれを使うかに興味を持ったのである。それは我国で、同様な場合、子供に1ドルをバラ銭でやったのと同じ様であった。子供達は、簪を売る店に、一軒一軒立ち寄り、一本五厘の品を一つか二つしか買わぬのに、あらゆる品を調べた。地面に座って、悲しげに三味線を弾いている貧しい女――即ち乞食――の前にさしかかると、子供達は、私が何もいわぬのに、それぞれが一銭ずつを彼女の笊に落とし入れた。 E.Sモース 石川欣一訳『日本その日その日』東洋文庫第3巻 p179
お祭りの夜の本郷通りである。「地面に座って、悲しげに三味線を弾いている貧しい女」はかつての非人の乞食にすこしも変わりがない。少なくとも明治15年秋のころまで、たまたま余分なお金を持った女の子が、自然に、女乞食に対して一銭銅貨を投げる気持ちに誘われるような習慣が残っていたことも確かめられる。

◇+◇

明治の近代国家となってから物乞いをすることは、「その人が怠惰であるか、他の生活手段がない人(不具者など)である」と社会的に位置づけられるのが必然である。怠惰な人の場合は教育や強制を伴う施設が必要だとみなされ、後者の場合は憐憫の対象として養護院のような社会的援助の対象となる(はやくも明治二年に「麹町救育所」などで職業訓練を行っている (ここ)。いずれにせよ、近代の「平等」な社会においては「勤労」が要求され、それに耐え得ない「不具」の場合は社会的援助の対象となる。それらを社会正義として実現するために「博愛」(ヒューマニズム)を普遍的価値とみなす必要があった。

近代の日本で乞食の人数が少なかったわけではない。が、乞食の画像や記述は少ない。乞食についての記載や、画像とすることが避けられていたのである。乞食は憐憫の対象として見下すしかないことと関連していよう。夏目漱石『三四郎』で団子坂の菊人形を見に行く雑鬧の描写の中で声を上げて低頭する乞食を描写しているが、新聞小説に乞食を登場させた漱石の表現者としての勇気を思わざるを得ない。しかし、当時は盛り場や寺の門前などに乞食が座っていることは珍しくなかったのである。癩病者がすわっていることもあった。(E.S.モースの『Japan Day by Day』がボストンで出版されたのは1917年(大正6年)であって、日本での表現の「勇気」の問題には関わりがない。

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次に示すように、大正10年代の調査では明治二年(半世紀以上前)に比べて東京の乞食の人数は10~20分の1になっている。調査主体が異なるし、そもそも乞食の社会的位置づけが大きく変わったので、直接数字を比べることにさしたる意味は無いが、興味深い調査である。

草間八十雄『浮浪者と賣笑婦の研究』(文明協会1927)が国会図書館でデジタル公開されているので、この文書から浅草公園の「乞食」の実態を報告している個所を引用する(草間八十雄明治8年1875~昭和21年1946は、和仏法律学校卒業後警視庁に入り1903年に退職。その後、様々な新聞社の記者をへて、21年に内務省細民調査時務取扱へ、ついで東京市へ移り29年に主事・社会保険局、33年東京市幼少年保護所長、46年死去)。

まず、草間八十雄が信頼を置けるとする東京市社会局による「野宿者調査」(大正11年(1922)2月25日)の表を掲げる(草間は他に2種の調査の数値を挙げているが、東京市の野宿者合計人数は281人(大正13年10月1日)、383人(同14年10月1日))。

麹町神田日本橋京橋麻布赤坂四谷牛込小石川本郷下谷浅草本所深川
1222231211-395596781543253
浅草区には総員の3割強(30.8%)のものが野宿をして居た。之れは、此界隈に吉原遊郭と浅草公園とがあって、此處に入込む人々の中には妓楼に登り、或は料理店に上り飲食物を求める者が多いので、その喰残しを浮浪者が貰うわけで、従って此地区に野宿者の漂ふ数が多く、又深川に多いのは洲崎遊郭があるからである。前掲書p16
同じ調査で、この253人の「野宿者」がどのような仕事で収入を得ているかを、人数の多い順に並べると、
乞食(66)・雑役夫(50)・立ちん坊(45)・行灯かつぎ(15)・広告配り(12)・土工(7)・使歩き、空俵拾い(各3)・書籍雑誌行商(2)・鋳掛けや、新聞売り子、青物行商、按摩、外交員、辻占売り、刃物とぎ、天理教布教人、売笑婦(各1)・求職中(17)・不詳(14)

以上合計 253人。「立ちん坊」は坂の下などに立っていて、荷車などが来ると後ろから押してチップをもらう。「行灯かつぎ」とはサンドイッチマン。
野宿者のうち約4分の1(26%)が乞食をしていることになる。ただし、野宿をしない乞食もいるわけで、乞食の実数はもっと多く、実態も単純ではない。「紙屑拾い」ないし「屑屋」があってもよいように思うが、「空俵拾い」しか挙がっていない。「雑役夫」に数えているか。

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『浮浪者と賣笑婦の研究』の第3章は「最近に於ける浅草公園の浮浪者と其の内面観」という題となっている。ここでは、浅草公園に限っても乞食が相当数存在していたことを示すことを目標に、適宜引用する。時代ははっきりしないが、大正後半のことであろう。参照に便利なように、「浅草公園地図」を下に掲げておく(明治40年作製、国会図書館デジタル公開)。
彼の浅草公園だけに日にうろつく浮浪者は、二百人余りに上ってゐる。この中で野宿をする者は百人余で、以外の者は夜に入ると、木賃宿に行くもの、簡易宿泊所に辿り行くもの、又は荒川堤下にある俗に言ふミノ虫小屋へ帰へるもの、それぞれ目差す塒に行くのであるが、かかる塒を定めることの出来ない百人余の野宿者の中には、乞食があり、立ちん坊が居り、又失業せる日雇人夫なども居る。前掲書p48
人数の点では曖昧さを残したまま、話を進めるしかない。浅草公園を日中にうろついている「浮浪者」は200人余おり、その中には「乞食」もいるが、「立ちん坊」や「日雇人夫」なども含まれている。夜になるとその半数ほどは野宿するが、木賃宿などのそれぞれの零細な塒に戻るものもいる。


浅草公園地図、北はほぼ真上、明治40年作製

乞食たちはグループを作って、公園内の決まった場所に、決まった人数が出ていた。
浅草公園の観世音御堂階段下二ヶ所と、それから御堂西口の階段下と更に仁王門並に仁王門横の不動尊門前と、次に淡島社境内と以上五ヶ所に出て居る乞食は、俗に「ケンタ」と称する類である。(中略)此「ケンタ」は定まった場所に出て現金を主に貰ふのである。乞食の中でも上位である。一ヶ所に五人又は三人、或時は一人か二人位出てゐるのであるが、五ヶ所を合わせると少ないときで拾五人、多いときは二拾五人位は出ている。 前掲書p49

境内観音堂の西側に淡島尊堂がある。第五卷-39「淡島さま」があった。本山は和歌山市だが、全国に1000社余の淡島社がある。
この乞食が活動する場所と人数は「其筋」から大目に見られていたのであるが、これ以上の人数が出てくると「其筋の役人が厳しく追払ふ」のである。それで貰いが平等に広がるように、グループ交代制で参詣客の前に出ていた。
然し此種の乞食は、拾五人や二拾人ではなく、少なくも四五拾人は出没するのであるが、前に言ったやうにそれらの輩が悉く顔を揃へて出ることは、厳しい取締から出来得ない。そこで一から拾五までは午前中に出て、拾六から三拾迄は午後に出ることに何れも申し合わせてある。(中略)殊に警官によると、人数の多い少ないに拘わらず、絶対に乞食物貰ひをさせないで、ドシドシ追ひ払ふので、こうした時を乞食等は、今日は「ヤバイヤブ」だと言って、銘々に注意し姿を晦まして終ふのである。前掲書p50 「ヤバイ」という語がすでに記録されている。
草間八十雄の記述によって浅草公園の中に、少なくとも4,50人の乞食がいて、極めて組織だった行動をして「お貰い」を入手していたことが分かる。「其筋」と通じ合って安定的な収入の途を確保することは乞食たちにとって大切であったろうし、官憲側からしても浅草公園の安定的な維持は意義があると考えられていたであろう。
ともかく、乞食が浅草公園では多数の参詣客の前に集団で現れていたことは、こういう文献によって確かめられる。そして、乞食グループを統率する親方など、階層性が生じていたことも、必然的である。

浅草公園におけるような組織だった乞食集団に加われない者は、寺社の周辺や人通りのある所や橋の上などで、それぞれ工夫して座ったのであろうことは推測される。また、戸別に訪ね歩いて銭や食べ物をもらおうとしたことは、自然の成り行きであったろう。
川上峨山『魔窟之東京』(国民評論社 明治35年1902)は、興味本位に書いたところもあるが、明治30年代のデータは類書が少ないので参照しておく。まず、東京の乞食の総数について、
全体東京は他の都会に対して、比較的乞食の多い所である。今其の数を調ぶるに、実に二千四百三十一人に達するそうだ、勿論普通の窮民は乞食の部類とは見做さぬのである。同書 p56
「乞食」たちの活動場所について、本書は次のように述べている。
其の稼ぎ場所は固より一定しない、終日市中を徘徊して、合力を乞ふもあれば、祝義不祝義を当込んで、残飯やお恵みを貰ふのもある、亦た各所の公園に出張って人の袂に縋るもあれば、寺院の門に平伏して参詣人を目的とするもの、又は縁日の場所を撰んで、哀れな声を叫ぶもの、破れ三味線を小脇に抱へて人の門辺に立つもあれば、燐寸の如き品を並べてお情け頂戴を極めるのもある。同前p59
続けて、「日暮里、桐ヶ谷等の火葬場付近」に出没するものなど示しているが、巡査が来ると「飯の上の蠅同様」かき消すように逃げてしまう、と。「浅草公園、深川不動の境内は、子供乞食の最も盛んな場所である」としている。
「子供乞食の売買貸借」という項から
目下最も流行するのは、子供の損料貸借である、相場は概ね一日五六銭から七八銭、稀には拾銭以上のもあるが、是れは余程の貰ひ上手の子供である。其の他は多く二三歳の痩せ衰へた子供であって、自然哀れを催させる機械ママの為に、故意に滋養を供給せずして、所謂骨と皮ばかりの商売道具で日々に貸借されるのである。同前p53



(2) 江戸時代の絵画資料の乞食   TOP

喜田川季荘『近世風俗志』(國學院大學出版部1908 原著名は『守貞漫稿』であるが、活字化される際に『近世風俗志』とした。いずれも国会図書館でデジタル公開)は、「非人」と「乞食」を並べて説明している。
今世非人と云うは、京師悲田院、坂の四ヶ所、江戸の善七・松右衛門等配下の者を云。多くは小屋に住し、市中に出て銭を乞ふことあれども、食を乞ず。

乞食 京阪にてはこじきと云、江戸にてはやどなしと云。無宿也。大阪にては銭を得たる者は、長町のぐれやどに一宿する也。銭を得るの少き者は、橋上及び市民の軒下等に夙すこと也。是は米銭及び残食の類を乞ふ也。江戸にては乞食の宿屋なし。
前掲書 第6編「雑業」p200 強調、下線は引用者
「乞食」と名付けられている江戸時代の絵画資料を次の2つ紹介する。左は寺嶋良安『和漢三才図会』(正徳二年1712)の第七巻「人倫類」にある。右は石原正明『江戸職人歌合』(文化五年1808)の「乞食」であり、「穢多」と番えられている。

  

左の『和漢三才図会』の乞食は、絵は面白いのだが、寺島良安の説明は漢学者流の形式的な説明でつまらないので、省略する。右の『江戸職人歌合』の乞食は穢多と番えられている。「月」について
月影に一皮かかるうき雲を はぎとるわざの などなかるらん  (左、穢多)
竹やぶにかくれてすめる じく谷の こやもあらはにはるゝ月影  (右、乞食)
これは「じく谷のこやもあらはになど、おかしうも侍るかな」という判定が出て、右の勝となった。「じく谷」というのは東京では「市谷いちがやじく谷」という地名が現在も残っているが、谷地やちでじくじく湿っている谷間の意味か。そういう谷間の竹藪の小屋に、月影が差している情景をうたっている。穢多をうたって「うき雲を はぎとるわざ」という直接的な表現をしているのに比べて、勝としたのだろう。わたしは皮剥が得意の穢多に対して「うき雲をはぎとるわざの などなかるらん」と言い放ったのに吹き出したが。

赤ん坊を背に、歩ける子供と共に物貰いをしている画像は貴重だ。母親は扇子を差し出しており銭を求めている。子供は器に米を求めているのであろうか。親子ともにまともな服装をしており草履を履いている。ある程度「豊かな乞食」であることを感じる(先に引用した明治中期資料の「子供乞食の売買貸借」のような無残な印象はない。彼らは正当な稼ぎをしているのだろう)。

◇+◇

「街頭生活者絵巻」という作者不明の絵巻に、大変興味深い乞食の画像が描かれている。国会図書館がデジタル公開している絵巻であるが、タイトルが「中世近世 街頭生活者繪巻」とあること以外は、書誌が何も分かっていない。作者や製作年代はもとよりタイトルも図書館がつけたのかさえ不明である(わたしは、「街頭」とか「生活者」という語から、おそらく帝国図書館が受け入れる際につけたタイトルではないかと考えている)。

  
「街頭生活者絵巻」の乞食

左は、道ばた(川ばたと言うべきかもしれない)で、裸足で腰に巻いた布以外は裸で皿を前に置いて、跪いている男である。頭髪がまったく無いのは僧であることを表しているのか、老人であることを表しているのか、分からない。皿にはいくつかの小銭が投げ込まれているようである。
右はイザリである。笠をかむり、左手の短い杖で動かせる車つきの箱に乗っている。右手に浅い椀を乗せて、銭か米などを貰おうとしている。

次は、ちょっと類例のない場面だと思う。「街頭生活者絵巻」の終わりの所に出ているのだが、きちんとした商家の出入り口から木桶に食べ物を乞食たちに施している光景である。商家側の人間が4人描かれ、木桶を下げているのが3人、出口には商家の者が1人、空になった木桶を受け取ろうと待ちかまえている。食べ物を追加してやるのだろう。
貧者たちの群れの中にいる木桶を持った者(左)は柄杓から食物を鉢に注いでいる。中央で手桶を持つ者は右から黒い鉢を差し出している乞食になにか応答している様子だ。


「街頭生活者絵巻」の食べ物を貰う乞食たち

ここで切り取った画面には乞食が33人描かれている(左隅の別の騒動の連中と、右上の邸内の僧侶らしい者たちは数えない)。乞食の中に女が二人描かれており、右の女は子供を連れ、赤ん坊が乳房を吸っている。食物を配られ、ほとんどの者たちが地面に座り込み大喜びで歓声や笑い声が上がっているらしいことが思われる。
邸内で仏事が行われている事からすると、乞食たちに対して何かの法事に伴う喜捨がなされているのかも知れない。


上図の部分図

上図は類例のない多人数の乞食の群れを描いていることを示したかったのだが、残念ながら人物が小さく不鮮明になってしまう。それで部分図を出した。個々の人物の仕草や持ち物、表情が変化をもってよく描かれている。食物を恵まれて喜んでいる顔ばかりではないのが見る者の心を打つ。関心を持った方はぜひ「街頭生活者絵巻」をダウンロードして全体をじっくり鑑賞していただきたいと思う(ここ)。どういう画家の作品であるのか、専門家にぜひ作者を突き止めてもらいたいものだ。

「街頭生活者絵巻」の初めの方に、坊さんたちに食べ物を施している場面があるので、それも取りあげておく。


「街頭生活者絵巻」の施しを受ける僧たち

「丸に釘貫紋」の大きな暖簾を分けて出て来た人物が、大皿を抱えている。早くも集まっている僧たち、図には10人描いてある。中央下の3人は尼僧か。
家紋を染め抜いた大きな暖簾からして、由緒ある料亭などの可能性がある。食べ残しなどを朝早く施業する、というような光景なのであろう。僧たちは遠慮なく鉢を突き出している。駆け寄ってくる者もいる。(「喜捨」の本来の精神は、僧に喜捨することで仏に救われる途を開く行為であり、僧からすれば迷える庶民に救いの機会を与えているという積極的行為なのである。巻一 28「八丁坊主」でも「お仏餉 おぶっしょう」に関連して触れた。


江戸時代の初期の乞食画像として『守貞漫稿』24編の「正保慶安(1644-52)の古図 京師芝居の図」を、一部掲げる。芝居小屋の前にずらりと僧たちが座っていて、仏画像を掛けて鉦をならして経を唱えている。右方の2人の前には筒状のものが積んであるが、喜捨した者に経巻を配るのか。左の僧は立って鉦を打ちつつ踊っているらしい。左手に柄杓を持っているか。
その右の笠を被っている者は足なえらしい、イザリが使用する下駄が見える。此の者は僧ではなく、純然たるイザリの乞食で、黒い容器を前に置いている。他の3組の僧たちが莚を敷いてそこへ銭を投げて喜捨を受けているが、それとは様子がはっきり異なる。笠も頬被りらしい白布も、顔を隠すためなのだろう。僧侶の間に交じって、このように不具の乞食が施しを乞うこともあったのだ。


芝居小屋前に並ぶ僧体の乞食たち

いうまでもないが、まっとうな僧侶であれば自分たちへの喜捨を仰ぐばかりでなく、真の困窮者にたいして施しをする(再配分する)こともあった。念仏聖たちが乞食へ施行したとして知られているのは、その一例である。



(3) 「洛中洛外図屏風」の乞食   TOP

『洛中洛外図』は「六曲一双」(6枚折りの屏風が左右で一対となっている。それぞれ左隻させき右隻うせきという)で、大きく豪華なものである。したがって、これを画家に製作させ、所有して展覧・鑑賞する人物というのは、通常の庶民ではありえず、大名クラスの権力者や特別の豪商などに限られると考えてよいだろう。「洛中洛外」すなわち京都の市街の内外、有名な寺社や町並み、賀茂川や祭りの様子、人々で賑わう様子などが主題となる。賀茂川での水遊びや郊外での農作業の様子なども描かれている。京都の様子を地方に住む人々に伝え、「都とはどんなところだろう」というその関心に応えるのが一義的な目的であったと考えられる。京都の立派な建物や着飾った人々を描くことはもちろんだが、「京に田舎あり」という側面を伝えることも意味があったであろう。(ここまでは一般論であって、実際には注文主の意向に沿うように強調すべき建物を強調し、配置すべき人物を描き出すなどの配慮が重要になってくる。逆に「金雲」をうまく使って、強調したくないものを隠すなども必要になる。小論ではそういうレベルには手が届かなかった

戦国時代の半ばから製作が始まったとされ、『実隆公記』の永正三年(1506)に、越前の朝倉氏が発注した土佐光信の屏風について書かれているのが最初の文献資料という。ただし、その屏風は現存せず、戦国時代に作製された『洛中洛外図』は4点のみが現存している(下で紹介する 「歴博甲本」=「三條本」といわれるのが、現存最古)。さらに、江戸時代に作製された『洛中洛外図』は170弱という多数が報告されている。

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『洛中洛外図屏風』(舟木本 東京国立博物館蔵)は、岩佐又兵衛筆で、江戸時代初期の元和初年(1615)頃の作とされているが、実に素晴らしい作品だと思う。登場人物たちが生き生きしていて感嘆する(国宝。「e国宝」というシステムで十分拡大して鑑賞できるので、お勧めです。ここ。このリンクで「e国宝」に入ると、まず見えているのは「左隻」です。次に示す2画面はいずれも「右隻」にあるので、画面下部の「画像一覧」に行って「右隻」を選んでください。)。

右隻の左半分で最も目立つのは、五条の大橋である(「五条のはし」と張り紙がある)。橋の上を桜の花枝を持って踊る一団が中心の画面だが、その左に椀をさし出して物乞いする乞食が座っている。


「舟木本」 五条の橋の上で桜花を掲げて踊る集団と乞食

豪華な服装の男女が、激しく体を曲げて足を上げ踊っている。踊り手たちは扇をかざし桜花の枝を持っている。その左、橋の上で裸足で半裸の男が曲げ物らしい容器をさし出して、近づいてくる踊りに向かって身を乗り出し、なにか恵を乞うている。彼の唯一の財産らしいござを背後に置いている。
この男が乞食であることは疑い得ないが、この『洛中洛外図屏風』右隻の目立つ場所に置かれていることに、わたしは驚いた。おそらく五条の橋などに乞食が並んでいることは普通のことであったのであろう。

同じ右隻の最右端下(第1扇の一番下)は、三十三間堂で通し矢を試みている武士が描かれている。その建物の裏に「休み所」らしきところがある(お茶を出している)。そこの客の男に膝を突いてしきりに何かねだっている者がいる。この男が持っている容器は、五条の橋の上にいた乞食と同種の曲げ物のようである。


「舟木本」 何かをねだる乞食のような男

この男は腰下まである着物を羽織っており、足ごしらえもしっかりして杖を持っている。頬かむりをしてあごの下で縛っている。ござを背負っている。ベンチに右膝をあげて座っている男に、何かをおねだりしていることは間違いない。乞食らしき男、と言っておく。
ベンチの男は現代人も着るような上っ張り(小袖)を着て、足によくフィットした草履(革草履?)を履いていて、表情もよい。この男と乞食の目線が合っている。どんな男であるのか興味を持つ。舟木本がいかに優れた表現力で描写されているかが分かる。

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国立歴史民俗博物館(略称「歴博」)が所蔵する「洛中洛外図屏風」(歴博甲本)というものがある。これは現存最古の「洛中洛外図屏風」で重要文化財になっている。旧蔵者名をとって「三条本」あるいは「町田本」とも言われる。描かれている景観の年代は、戦国時代後期の大永五年(1525)とされている。

「歴博WEBギャラリー」で、「屏風」の一番最初の行に示されているリンクから入れば「歴博甲本」の左隻である(使ってあるFlash版アプリは上の「e国宝」アプリと同じです)。

その第5扇(右から数えて5つ目の画面)の中央よりやや下に「誓願寺」があり、その前が「小川通り」。誓願寺の門前に高貴な身なりの女性が腕をさしだす乞食に、おそらく銭を与えている。おつきの侍女が橋の上にいる。川に沿った築地にもたれるようにして、二人の乞食がいる。彼らの持ち物はゴザと杖、それにお椀。この三人の乞食はいずれも腰に布をまとうだけの裸である。


『洛中洛外図』(三條本) 誓願寺前の乞食たち

小島道裕教授の講義が聞ける「eラーニング版」はお勧めですが、後編「都市の点景」にはこのシーンが取りあげられていて、「物乞いを取りあげているが、喧嘩や刃傷沙汰のような無秩序は描かない」ことを指摘し、秩序の下にある都市を描くのは権力者の視点である、と述べている。

大名などが『洛中洛外図』を大広間などに飾って、日常的に鑑賞したり客たちに見せたりしたのであろうから、乞食たちが道ばたに何人も裸で座っている情景が描かれていることを、当然の日常的な都市風景として受け入れていたことがうかがわれる。


(4) 『一遍聖人絵伝』の乞食   TOP

渋沢敬三編著『日本常民生活絵引』(全5卷 角川書店1965~68)は絵巻物などを見る際に、実に役立つ書物であるが、その第2巻は『一遍聖人絵伝』(『一遍聖絵』ともいう)をとりあげている。この絵巻には乞食と癩者が多数描かれている点でも、特色がある。

一遍が生まれたのは伊予国、延応元年(1239)で、正応二年(1289)に兵庫で没している。その間に「賦算の札」を25万1724人に配ったという。あまねく全国を回り、「遊行の聖」と言われた。一遍の没後10年ほどして、弟子の聖戒(弟とも近しい親族とも言われる)が絵伝を作製するために一遍が巡遊した跡を再度回ったが、そのとき画師の円伊も一緒に回ったと考えられている(前掲書5卷p2)。つまり、この絵巻『一遍聖人絵伝』には一遍死後それほど年月を経ていない鎌倉時代後半のわが国の様子がリアルに描かれていると考えてよいのである。しかも、貴族などの上流階級の生活は描かれず、下層民の生活や農作業や旅人たち、山や川がこまごまと描かれている。

左に蓑笠姿の農民が二人おり、農道の先に荷を一杯背に積んだ赤牛がやってくる。井桁の井戸と水汲み用の竹竿がある。
良い身なりの女たちが数名連れだって農道から右へ曲がって、村へ入る道にかかった。この道の先に一遍聖人一行の滞在する寺がある。


『一遍聖人絵伝』第七巻「洛西かつら」、村はずれの乞食たち

道の両側に、仮屋根を斜めに差し掛けただけの粗末な小屋とも言えない小屋に、乞食たちが座ったり横になったりしている。一遍たちの居る寺へ参詣に来た女たちに椀を差し出して、物を乞うている。大きな曲げ物の容れもので何か作業している白衣の女乞食?がいる。その先には椀を置き膝を突いて、物乞いの用意をしている裸の男。横になって体の上に蓆でも掛けている人がいるが、これは病人だろう。

次図は、同じ第七巻の空也上人の「市屋道場」と付箋のあるところ(空也は一遍より340年ほど前の宗教者、「踊念仏」の祖とされる)。図の左端の青は「堀川」で、そこから引き込まれた小流が画面を区切っている。水辺の空地に乞食たちが粗末な小屋を作っている。それを見ている白い法衣の僧や市女笠の女たちは、この先で行われている一遍聖人たちの遊行念仏に集まってきた者たち。何台もの牛車が集まっている。


『一遍聖人絵伝』第七巻「空也上人遺跡市屋道場」、河原空地の乞食小屋

白布で覆面をしているのは癩病者であると考えられている。半裸の姿で椀を持って何か食べているのだろうか、男が二人向き合っている。御簾を立てまわしたところに蓆でも敷いているようだ。背後に曲げ物が2つ見える。
頬杖をついて寝そべる男、今も変わらぬ日本人の仕草だ。箸を使って飯を食う半裸の人(女か?)の髪はざんぎりになっている。裸ん坊の子が這い寄っている。話し相手の水色の着物を着た人物は、市女笠が置いてあるから女だろう。
その右には、手と尻に(膝に)下駄をつけたイザリが二人、話している。この者たちも腰布だけの姿だ。(以上、第七巻は国立博物館がデジタル公開しています。ここ

第四巻京都因幡堂。一遍聖人一行を迎えるために慌ただしく畳を移動している坊主。その縁の下では乞食が二人寝ている。


『一遍聖人絵伝』 第四巻「因幡堂」

渋沢敬三編著『日本常民生活絵引』は次のようにコメントしている。
寺僧たちが、にわかに畳をはこんで寝所をつくっているところ。このころ畳にはすでに床がついて今日とあまりかわらぬようになっていたことがわかる。(中略)乞食たちが寺社の床下を巣にした歴史は長く、明治時代までいたるところに見られた。(同書p65)
鎌倉時代の寺の床下に寝る乞食について、このような素晴らしい絵画資料が残っていることに、改めて感嘆する。この絵巻を作った人達は、「乞食を描いちゃマズイかな」というようなケレン味とは無縁の視線で、寺の床下も見ていたのである。

『日本常民生活絵引』第二巻は『一遍聖人絵伝』のみを扱っているのだが、巻頭の「概説」に『一遍聖人絵伝』が描く「乞食」について次のようにまとめてある。優れたまとめなので引用させてもらう。
またこの絵巻を見るといたるところに乞食がいる。およそ人のあつまりそうなところに乞食のいないところはない。神社寺院の門前、市場をはじめ、道ばた村はずれなどに乞食小屋がずらりとならんでいる。乞食小屋はいたって粗末であり、莚一枚の上で生活している。多くは蓬頭で髷をゆうたものはない。むろん狩衣や水干を着たものもおらず袴もつけてはいない。裸が多く、着物を着ているにしても小袖である。顔を白布でつつんでいるのは癩病だと見られる。生活の苦しさが乞食を輩出させたのであろうが、その乞食にまた食うものを与える者が少なくなかったことを忘れてはならない。 前掲書第二卷p24
つぎの(大阪の)四天王寺の乞食たちは、やや「豊か」そうにみえる。築地塀の外に、乞食小屋が多数あった。


『一遍聖人絵伝』第二巻 「四天王寺」

長い築地塀がきちんと描かれ、その下に意外にしっかりした屋根を持った小屋が並んでいる。これまで見てきたような、小屋とも言えないようなみすぼらしいものとは違う。“都市の乞食”は絶えざる収入があり、乞食社会にも階層性が生じて、「富かな乞食」も可能であった。室内には人がおらず、外に出ているようだ。何かを敷いてその上で横になっている二人がおり、杖に縋って立っている者が一人いる。しかし、いずれも衣服を身につけており、「富かな乞食」と言うべきなのであろう。
家に車が付いているものがある。だいぶ大き目の車である。

◇+◇

『日本常民生活絵引』第五卷の「法然上人絵伝」に、動けないほど衰弱した乞食に法然が粥を匙で与えている場面を取りあげている。念仏聖たちは念仏を唱えて自らが人に食を乞いつつ、乞食たちへの施行も行った。念仏聖たちは「乞食たちとはもっとも近い生活をしていた」という。その個所で『一遍聖人絵伝』の上引の画面に言及している。
四天王寺の乞食の絵は「一遍聖絵」にも見えていて、その絵の中には乞食小屋に車がついていて、どこへでもひいてゆけるようになっていた。夜になればそういう小屋で寝たであろうが、昼間は門前にたむろして参詣する人に食を乞うたのである。そしてそれらの乞食の群れは最近までいたわけで実に長い歴史をもっていた。(中略四天王寺から南の和泉地方には昭和20年以前までは乞食がきわめて多かった。彼らは葬式があると、その供え物をもらいにやって来た。ずっと以前は埋葬の手伝いもし、念仏もとなえていったもので墓聖といわれたもののなごりであろう。死者のある家ではそういう者への施与は死者への供養になるとして、おしまなかった。 同書第五卷p70
第2次大戦前までは乞食は日常的によく見かけたものであること。戦後しばらくは「傷痍軍人」の乞食がいて、「異国の丘」を唄ったりアコーデオンを弾いたり、国電に乗り込んで来て寄付を乞うたのをわたしも体験している。わたしは子供だったが、なにがしかを恵まなくてはいけないような気がして、身を固くしていた。

近代になるに従って乞食を可視化するのをはばかるような意識ができてきたのじゃないか、「人権」とか「ヒューマニズム」と言って。ことに江戸時代と明治以降との断絶ははなはだしい。そういう問題意識を持って、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、それに明治時代の乞食を概観してみた。

使用した画像の内『一遍聖人絵伝』第二巻「四天王寺」、第四巻「因幡堂」の2枚は日本絵巻大成別巻『一遍聖人絵伝』(中央公論社1978)をカメラ撮影した。それ以外は、すべてネット上に公開されているデジタル画像を利用した。


 【乞食】  おわり 
TOP         き坊 2017/11/15


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巻1-48「乞喰諸々




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