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清水晴風 のこと

(嘉永四年1851 ~ 大正2年1913)
( 享年62歳 )



清水晴風は外神田の旅籠町一丁目で、元禄年間から運送業を営なんでいた旧家に、嘉永四年(1851)に生まれた。幕末・明治初期の動乱期には人々の移動が激しく、引っ越しなどで運送業は大いに重用され繁盛した。しかし父は遊び人で、晴風は若くして家業を継ぐことになる(慶応元年、15歳)。第11代目・清水仁兵衞にへえを襲名したのは明治三年(1870)二月で、20歳であった。
父方の祖父は本所の有名な菓子屋で葛飾北斎や柳亭種彦らと交際があった人物。晴風は子供の頃から書を書き、絵を描くことが好きで、能装束師の関岡家に年季奉公するが、能装束の下絵の模写を好んだという。明治6年 頃から俳諧を学び、雅号を芳華堂晴風とする。

明治7年頃から各地の郷土玩具に興味を持ち、明治12年 に仮名垣魯文・坪井正五郎・巌谷小波らと「竹馬会」を結成し、玩具研究・蒐集を本格的に始めた。明治13年3月6日に竹内一久(久遠)らが主宰した「竹馬会」は、向島の貸席「植半 うえはん」で行われ、参加者が子供の扮装で玩具を1品もって来るという趣向だった。この時集まった全国の玩具を見て(この日は天神の祭礼日で、天神の人形が多かったという)、晴風は深く感動し本格的に玩具蒐集に乗り出すことになる。明治24年9月30日に『うなゐのとも』初編を発行するが、その跋文に次のように述べている。
明治13年の春、わが友竹内久遠ぬしの、向島言問が岡にて竹馬會てふことを催し、友垣結ぶたれかれうち集ひける席に、国々のいにしへより傳はりし手遊の品を集めつらね人々に示されぬ。予もその席にありて、この品を見、「美術とはかかるものをいふなるべし」と深く思ひを起こし、今世に美術と称するは繪畫彫刻物をはじめ数々ありと言へども、皆これ高尚にすぎて予が如き者の愛しえらるべきにあらず、ただこの手遊品に至りては自ずから天然の古雅を備へ、土もて造れるあり、木にて刻めるあり、その國々の風土情体を見るに足るべしと感ずるあまり、諸國の手遊び品を集めむことを思ひたちて自ら京阪又は奈良地方その他の國々へ遊歴せしをり/\、或は親しき友の旅行を聞きてはこれに言づてなどして集めしに、はじめ思ひ起こしゝよりはや十余り二とせを過ごし、数は三百點を超え類は百餘種に及びしものから、朝夕此品々を側に置て愛撫し、いささか美術心を養ふもとゐとはなしぬ。以下略

【上で略した部分の概要】
明治24年の春、近所の木版彫刻師の仙秀・木村徳太郎が晴風を訪ねてきて、全国の玩具を集め画帖に描き溜めるだけでは惜しい、ぜひ出版すべきだと説いた。晴風にもその気持ちがあったので即座に承知し、晴風が版下を描き木村が版木を彫ってその秋に初編が完成した。
なお、木村徳太郎も竹馬会の気心の知れた親友であった。
上の引用は読みやすくするために、漢字を増やし、濁点を打ち、句読点を施している。出来るだけ原文に忠実に表記したものも用意した 『うなゐのとも』初編の跋文

なお『うなゐのとも』1~6編は、秋田図書館が公開している(ここ)。ただ、惜しむらくは、ダウンロードを許容する拡大率がやや不足なことで、文字の解読に困ることがある。しかし、晴風の絵をモニターで鑑賞するには十分楽しめる。晴風生前の手によるのは「1~6編」で、その後、西沢笛畝(てきほ 画家)が継ぎ、10編まで発行し完結した。(通常『うなゐの友』と表記されることが多いが、原本1~6編はすべて『うなゐのとも』である。

晴風は少年時代に竹内兼五郎と知り合うが、のちの彫刻家・竹内久一である(東京美術学校彫刻科の最初の二人の教授が竹内久一と高村光雲であった)。晴風と久遠・竹内久一の二人には好みや気風の通じ合うものが自ずとあったようで、信頼しあう終生の友であった。
明治28年1895 に晴風は父祖伝来の家業であった運送業の一切を番頭に譲り、玩具蒐集などの美的生活一本に絞ることになる。明治39年に『うなゐのとも』第3編が発行され、そのあとがきに「玩具はかせと自称する晴風云爾しかいふ」と記している。「玩具博士」は自称から始まっている。世間的にも有名人となり、例えば明治44年の還暦の際には新聞が「玩具博士の還暦祝い」を報じている程である。 大正2年(1913)6月に竹内久一が病床を見舞ってくれた際に、遺言を述べ息子に記録させている。それから一月後の7月16日に清水晴風は死去した。

◇+◇

「玩具博士」と呼ばれて記憶されている清水晴風の死に際して友人たちが作って墓前にささげたという『神田の伝説』(神田公論社、遺稿「神田の伝説」の他に「清水晴風翁小伝」を収める。国会図書館デジタル公開)には、興味深い晴風の一面が述べてある。
晴風清水仁兵衞翁は、純粋チャキ/\の神田ッ子である。翁の家は元禄年間から今日にいたるまで二百十余年引続いている旅篭町草分けの旧家で、代々清水仁兵衞と称し大名諸侯の人夫請負を業として居た。翁は其十一代目の仁兵衞で、嘉永四年正月十日を以て此世に生まれた。(中略

十五歳の年(慶応元年1865)に家督を相続した。当時年若い身を以って七八十人の荒くれ男を自由自在に働かせるのは容易の業ではなかった。そこで膂力の必要を感じて、十六七歳から十八九まで専心技を練り、二十歳の頃(明治三年1870)には上達して米二俵位ゐは片手で自由に差上げる呼吸を覚えた。そして力というものに興味を感じて屡々力持の興業に加はり、遂に二十七八の頃(明治11~12年)には力持ち番附の幕の内にまで列するにいたった。其後神田昌平河屋彦右衛門という米屋で十俵の米を三度に運んで誤って負傷し、大に悟る處があって全く力持と遠ざかった。
(「清水晴風翁小伝」)
「安政江戸図」(国際日本文化研究センター(京都市西京区 以下「日文研」と略す)による(ここ)の、旅籠町。右が北、神田川は東(下)へ流れている。神田明神の左下に「ハタゴ丁 一」、「ハタゴ丁 二」が読める。「旅籠町一」などである。
神田川にかかるのが昌平橋、その下に筋違すじかい御門と筋違橋。晴風の家は筋違御門の橋を外神田側へ渡った先に位置し、旅籠町の草分けといわれる旧家であったというのもうなづける。

ウィキペディア「清水晴風」は「運送業」と言い、「清水晴風翁小伝」は「人夫請負を業」としたと言い、つぎに紹介する朝倉無声は「車力」と言っている(『世渡風俗図会』第三巻43が車力)。そういう家業を継いだ晴風は、力自慢を盛んに修練した時代が明治12、3年頃まであって、そのあと、上の「小伝」がいうように「誤って負傷し」悟るところがあって「力持ち」と遠ざかった。その時期がいつなのか確定的なことは分からないが、「竹馬会」に参加し、おもちゃの蒐集を始めたのが明治13年(29歳)であるというので、そのあたりのことであろう。

晴風自身は幼い頃から筆や絵筆を持つのが好きであったことを、『唾玉集』(明治39年1906)所収のインタビューで次のように述べている。彼は十歳のとき明神下の芳林堂先生の下で書道を始めている。
何だか味噌を上げるやうに聞えますが、幼少からや字をかく事が好きで、しかし昔ですから無教育で育ちましたが、他処ほかへ年季奉公に参りましても他の小僧と違ツて、宿入やどいりに来ると筆や絵の具画手本ゑでほんを買ツて、いたづかきを慰みに致しました。其のお陰で今日でも生活の補助たしびらなどを描いて、是れが殆ど本業よりも割のよい収入となります。 (『おもちゃ博士・清水晴風』所収 p139)
寺子屋時代の秀才ぶりは有名だったようだ。彼の年季奉公は文久二年12歳の時、日本橋馬喰町の能装束師・関岡長右衛門方に上がっており、そこで能装束の下絵などを模写することを楽しみとしたという。字や絵を書くことが好きで、筆を離さない生活習慣がごく幼い頃から身についていたことが分かる(『おもちゃ博士・清水晴風』p17など)。

「絵びら」というものは今ではあまり知られていないが、祝い事などの際に製作されて配られる「絵入りのビラ」のことで、晴風は絵びら書きの名手であった。「国会図書館月報」(2005年6月号)に晴風の自筆冊子『繪比良圖考』が紹介されている(川本勉)。
川本勉によると、
現存する絵びらの多くは刷物だが、明治六,七年から三〇年頃(中略)手書き絵びらが流行した。この絵びらは、商店の開業や書画会開催などの際、祝いの寄贈品を掲示したもので、後に進上びらと呼ばれた。
晴風は手書きで、1枚ごとに変化を付けて描いたという。自作の絵びら35点と、代表的な絵びら作者を解説し絵びら36点を自ら模写し、合わせて冊子『繪比良圖考』(明治41年夏)とした。国会図書館所蔵であるが、公開されていない。
上記「国会図書館月報」には絵びら4枚が紹介されているが、その中から晴風自作の絵びらをひとつ示す。右図。
明治二六年一二月五日、江東中村楼で開かれた書画会の際、晴風が画家の落合芳幾に贈った絵びらで、「大鐘を引き上けてのち年暮る」とは「大金を占めて年を越す」の意味。(川本勉)
上で引用した『唾玉集』所収のインタビューの同じ個所で、晴風は自分の父親(元次郎)は「古物」への趣味はない人だったが、祖父や曾祖父が「風雅」を好む人であったことを述べている(ただし、晴風を能装束師へ年季奉公へ出したのは父であったといい、息子の適性を認識していたと考えられる。単なる「遊び人」ではなく時代の流れを読める人物だったようだ。維新動乱の時期には京都で店を出していて戦火の直前に売り抜けて大もうけしたという)。晴風が北斎や柳亭種彦などという江戸末の文化の濃い流れに直接浴していたことが分かる。
父は斯様かやう古物こぶつなんぞは嫌でありまして、只父の実家(戸崎氏)が有名な本所の石原いしはらオコシで、其の父の親に当る私の祖父ぢゝいごく風流な人で、狂歌も狂句もやり、葛飾北斎翁、柳亭種彦、先代の川柳せんりうなどと交際しまして、それから、其の前の私の曾祖父ひいぢゝいが矢張風雅な男で、文々舎蟹丸ぶんぶんしゃかにまるの弟子となツて繁美しげみといひ、又文鴻ぶんこうとも、申しました。祖父ぢゝい文子ぶんしといふ別号がありましたが、左様さういふのが、祖父ぢゝい曾祖父ひいぢゝいで、それから好事が私に遺伝して来たんだらうと思ひます。 (前掲『唾玉集』)
飯島半十郎・虚心『葛飾北斎伝』(明治26年1893)(国会図書館がデジタル公開、岩波文庫にもある)の下巻の初めは、北斎が「下戸げこ」であるという説に疑いを持つ筆者虚心が、北斎と付き合いのあった人から話を聞いてまわるという筋で、なかなか面白い。その中に、清水晴風も出てくる。「北斎酔中筆」と落款している北斎の作品が幾つも実在し、中にはすでに出版されているものさえある。従って、北斎が下戸であったはずはない、というのが虚心の論法である。なお、ついでながら北斎の没年は嘉永二年1849(享年90)で、晴風の生まれる2年前。
一日関根只誠氏(せきねしせい、演劇通の人物、著作多い、明治26年没)を訪ふて、閑談、(北斎)翁が事におよぶ、同氏曰く、翁ハ、下戸なり、酒を飲まざりしなり、余(虚心)甚これを疑ふ、後清水晴風氏に就き、これを問ひしに、同氏もまた曰く、下戸也、菓子を嗜みしと。 (下二)
同氏(横浜在住の前園氏)ハ、北斎と交り深かりしといふ本所石原の戸崎氏の家(晴風の父の実家)に至りしに、その座に居りし一老媼と談話中に,上戸なりしといひしを證として、酒を飲みし人ならんといふ、(中略)数日を経て再び清水晴風氏を訪ひ、(北斎に)酔中筆の挿画あることを説き,又其の親戚なる戸崎氏の老媼のことを話せしに、同氏ハ疑ふ色なく「決して上戸にあらず、下戸なり」といひ、しかして「戸崎氏の老媼ハ,今朝我が家に来れり、即この老媼なり」と指しけれバ、老媼すゝみ出でゝ曰く「過日横浜の人(即ち前園氏なり)我家に来りしが、妾ハ、他出せしあとにて、近辺の老媼某が留守にありて、何か返答におよびし由、彼はもとより、北斎をしらず、北斎は酒を飲まざりし人なり、酒のみにあらず、すべて辛きものハ、一切食ハざりし」といふ。(下三)

戸崎氏(晴風の祖父)曰く、「翁は酒を飲まずして、菓子を嗜めり、故に翁を訪ふごとにかならず、大福餅七ツ八ツを懐にして、おくりしが、翁大に喜び、舌を鳴らして食ひたり、其の頃、大福餅の價ハ、一ツ四文なりし」(下九)
濁点、「」は引用者
虚心は北斎と交わりのあった人を訪ねて、「北斎が下戸であったというのは本当か」と訊いて回った。北斎と実際に交わりの深かった人たちはみな下戸であったというのだが、虚心は納得できない。しかし、結局彼は下戸であったことを納得するのだが、それは虚心が日常参照していた『北斎漫画』の第11巻に寄せた柳亭種彦の序に、北斎が「酒をたしなまず,茶をこのまず」と記しているのを発見したからである。北斎自身が時に「酔中筆」としたためているのは、自分の意に沿わない出来の絵でも手放さざるを得ないことがあり(同一の紙に蕙斎と並んで描いた作などの例を挙げている)そういう場合に「画の拙なるを覆う」ためであったであろう、と。

拙論においては、北斎が下戸であったかどうかは主要なことではない。虚心が訊いて回った人々のなかに晴風はもちろん、晴風の祖父・戸崎氏があったことが貴重なのである。戸崎家は有名なお菓子屋であって、いつも大福餅を手みやげに北斎を訪ねて喜ばれたと。娘と暮らす極貧の北斎という画家に、親しみと敬意を感じていて、しばしば訪れたのであろう(ここでは省略しているが、北斎の貧乏生活について『葛飾北斎伝』は繰り返し述べている)。
戸崎家の祖母が晴風の家へ日常的にやって来ていたことが分かるのも重要だ。晴風が江戸末期のこのような豊かな文化的環境で生まれ育ち、日常的に接していたことが分かる。晴風が後世『うなゐのとも』などのすぐれた仕事を残して「おもちゃ博士」と呼ばれるようになるのも、けして、偶然ではなかったのだと思える。晴風の資質と幼少期からのたゆまぬ努力があってのことであるが、彼が祖父・曾祖父以前の代から伝わっていた江戸文化の精髄に浸って育っていたことを強調しておきたい。

◇+◇

朝倉無声(明治10年1877~昭和2年1927)は「江戸文化史研究の先駆者として知られる」(裕川添)といわれるが、朝倉無声『見世物研究』(ちくま学芸文庫2002)の「伎術篇 力持」には、「車力を稼業としていた」晴風が若年から「力持ち」を鍛練し、その経験をもとにした談話を朝倉無声が記録している。興味深い内容なので、その部分全文を引用しておく。
 玩具博士で有名の故清水晴風は、通称を仁兵衛といって、車力を稼業としていただけに、若年から力持ちを練習して、終に力持番付の幕の内に列したほどである。されば、幕末から明治へかけての素人力持に就いては、活字引とも云はれる程精通してゐた。曽つて筆者が同人の力持談を聞書きして置いたが、当時素人力持の状態を窺ふに足る唯一の資料であるから、左に掲げることにした。

 素人力持の興行は、多く神社仏閣の開帳の折に催すので、それも主に春から夏にかけてであった。力持に出る程の者は執れも力自慢で物好きの寄合ひであるが、其中給金を取る頭株は一二人、其外は道楽に演ずる素人連中で、勿論無給であったから、興行人は是をオスケと呼んで、優待したものである。
 興行場は三尺程高く盛り土をしたので、前芸として樽の曲持や力石を差すのである。是等の演者は所謂オスケと呼ばれた素人で、服装は浴衣の着流しや印半纏であった。かく前芸は米俵や酒樽を種々曲差した後石を差上げるのであるが、此時は介錯人三人付きで、先ず力士は腰を落し、両手を差出して身構へてゐる所へ、三人がゝりで石を載せると、力士のヨシといふのを合図に、手を離すのである。此石には芋(廿五六貫目)、大さわ(三十貫目)、米饅頭(卅四五貫目)、玉子(四十貫目以上)の四種あって、夫々オスケが力に応じて試みるのである。石は唯持上げるだけであるが、俵又樽には種々の曲持があった。其主なる曲名を挙げると、俵にはモヂリざし、こばざし、鶯の谷渡り、大返し、さしもんどり、重ねもんどり、腕だめ、腕木ざし、片手どめ、七分どめの十種。又樽にはのっきりざし、鏡ざし、鼓返し、ニンベンざし、横一、大返し、腕だめ、邯鄲夢の枕、七分留の九種であった。
 右の前芸が終ると、次に中芸として腹やぐら(腹の上に米七八俵を載せる)、腹うけ(腹の上に臼を載せて米を搗かす)、五人男(手や肩に五人乗る)、長柄うけ(二人で長柄を持ち、米俵を投合っては受留める)、臼の蛇の目ざし等を演ずるのである。
 真打は多く足の曲持である。三百貫目と称する大王石(実は百五十貫)程を足にて差上げ、又田舟に米十俵(牛を米の代りとする事もある)を載せ、足で曲持をするのであるが、此曲が終るので一切りとするのであった。
 一体力持の俵及び樽は、特別に製したもので、普通の伊丹樽に水一杯張ると、二十貫目以上となって取扱ひ悪いから、特に十四五貫目入りの物を誂へ、又俵も十六貫跳切りと称してゐるが、実は八掛けの十二貫余の物であった。
 力持につかう囃子は、馬鹿囃子の中でテン/\ドヽドンドンといふ「しゃうでん」とテン/\テン/\テンドヽドンドン/\といふ「きざみ」を主に用ゐたのである。

 さて力持は明治十年前後迄流行したが、其後次第に衰微する計りで、それも大正の御代となっては、其俤も止めなくなったと、語り終った晴風の太い眉は、宛然感慨無量といふやうに、ピクリと動いたのであった。
(前掲書p165~167)

◇+◇

清水晴風は、文・画を幼少期から好み筆を離さないような子供であったが、その一方で若くして運送業の家業を継ぎ荒くれ男たち6,70人を使うという家業をこなした。彼が何重もの異質な内面性を秘めた、単純ならざる人格であったことが推察される。優美で繊細な感性をもつと同時に、強い胆力と剛直さを備えた人物であったのだろう。

長年の「車力」の家系と若い頃に「膂力」を鍛え力自慢の素人「興業」に出たりした体験とが、「世渡風俗図会」にも生かされていると思う。「チャキチャキの神田っ子」で字も絵もよくするが文弱の徒ではなく、剛毅な胆力を感じさせる人物で、往来や路地を徘徊する乞食や遊芸者・テキ屋へ好意ある視線を向けられる十分な余裕を、自ずと備えていたのだと思う。
既述のように、明治28年(1895)、45歳のときに晴風は父祖伝来の家業の一切を手放し、それ以降の人生を玩具蒐集と玩具絵の制作などの美的生活一本に絞ったのである。



晴風遺文『神田の伝説』より


遺言で蒐集物をすべて分配することを言い残して、逝去する。辞世は

    今の世の玩具博士の晴風も 死ねば子供に帰る故郷

墓は巣鴨の本妙寺にあると『神田の伝説』で述べているので、そこを尋ねてみたのが、次節「記念碑」。




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【記念碑】

中山道(国道17号)がJR山手線の内側から外へ出るのが巣鴨駅である。巣鴨駅から北西方向へ中山道を数百メートル歩くと中央卸売市場・豊島市場の広い敷地がある。その豊島市場を通り過ぎたところで市場にそって右折し、真っ直ぐの道を突き当たれば本妙寺の山門である。山門前には遠山金四郎や千葉周作の墓地など史跡案内の立て札がある。遠山金四郎については東京都教育委員会の「旧跡」案内も立っている。
この本妙寺は明治43年1910 に本郷の帝国大学赤門近くから移ってきたもので、現在は本郷三丁目近くに「本妙寺坂」という地名が残っている。本郷三丁目の交差点から東京大学に沿って北上する通りが中山道であり、本妙寺は中山道沿いに移ったことになる。ついでながら、旧中山道は筋違御門を通っていたから、晴風は中山道に縁があった。

寺域に入ると様々な案内が出ているが、清水晴風に関する案内はひとつもない。しかし、山門を入ってすぐ左手の木立の下には「清水晴風記念碑」が建っている(下図)。わたしはこの寺に数時間滞在したが、その間に墓参ではない“史跡散策”という感じの方が何人もみえていたが、晴風記念碑に関心を示す人はまったくなかった。


この記念碑のデザインなどの一切は竹内久一が引き受けた。中央の「涅槃図」は晴風が林若樹のために描いた「玩具涅槃図」を用いたもの、彫ったのは田鶴年でんかくねん。周囲には友人の名前が彫ってあるが、寄付を募る際に各自の自筆名を求めたのだそうである。

村松梢風『近世名匠列伝』(改造社1924 国会図書館がデジタル公開)には竹内久一がとり挙げてあり、その中に晴風の墓に関して、次のように述べてある(やや疑義もあるが、このままにしておく)。
大正二年に彼(竹内久一)の知己であった清水晴風が没した時、彼は其の墓を巣鴨の本妙寺へ自費で建てた。碑面には、晴風が嘗て林若樹の為に畫いたところの、玩具涅槃の圖を其の儘に彫刻した。(前掲書 p225)
右が記念碑の碑面全体を写したもの。一番上に横書きで「清水晴風記念碑」とあり、俳句
涅槃會や 御伽這子は 蘇生の日
がある。「御伽這子おとぎぼうこ」とは、原義は幼児の枕元に置くお守りの人形(形代、御伽母子)のことだが、ここではおもちゃの人形のことと解してよいだろう。

その下が、晴風による「涅槃會の図」を刻んだ壁画である。中央に釈迦が横たわって寝ているが、その周囲を取り囲むのが通常の涅槃会に見る動物などばかりではなく、コケシやだるま、熊に乗った金太郎や張り子の虎。雀やうさぎ、猪など。
いかにも晴風が愛しおかなかった者たちが集まっている。しかも、釈迦の死を悲しんでいるという図ではなく、彼らは釈迦に対して慈しみや親しみを表す風情で集まっているように見える。

清水晴風『街の姿』(太平書屋1983)の太平主人による解題には
晴風自筆の涅槃図を刻したもので、だるま、金太郎、張り子の虎、一文人形、飛んだりはねたり、などなどの、沢山の玩具手遊びとにとりかこまれた寝釈迦
である、と述べてある。わたしはどれが「一文人形、飛んだりはねたり」なのか分からないのだが、巻6-26「器械の手遊び賣」の説明の中に、晴風の『人形百種』に登場する「浅草名物飛人形」を引いておいた。

「一文人形」については、別にまとめて置いたので見て下さい(ここ)。

次図は、寝釈迦と取り囲む人形や動物の拡大図。

絵の下に晴風の署名があり「明治丁未初冬 晴風謹画 印」と書かれている(「明治丁未 ひのとひつじ」 は明治40年1907)。外枠下段には「巣鴨丸山本妙寺 大正四年乙卯四(月同友)建之」とある(カッコ内は碑石が欠け落ちて現在は読めなくなっている。『街の姿』解題(大平主人)によって補った)。

◇+◇

わたしは漠然と「清水晴風記念碑」の近くに晴風さんの墓石もあって、それに「今の世の玩具博士の晴風も死ねば子供に歸る故郷」と刻んであるものとひとり合点していた。しかし、記念碑のあたりに墓石は見あたらない。
それで、沢山の墓石が一杯一杯に並んでいる本妙寺の墓地をひとしきり歩きまわってみた。いくつかの「清水家」と記した墓域があることに気付いた。その中には、清水建設のかなり重量感のある大きな「慰霊碑」もあった。しかし、清水晴風の墓を見つけることは出来なかった。

社務所の窓を叩いて、「清水晴風さんの墓はどこにあるのですか」と訊いた。初めは中年の婦人が対応してくださったが、すぐ、その夫らしい住職と代わった。坊主頭に黒い作務衣風のものを身につけていて、ごく腰の低い対応である。
わたしの問に対して「晴風記念碑がありますが・・・・?」と住職が言う。「記念碑は丁寧に見て、写真も撮影させてもらいました。晴風さんのお墓はどこにあるのですか」というと、「私どもでは存じません」と言う。「でも記念碑が建てられたのは、お墓があったからでしょう。そう考えて来てみたのですが」と押してきくと、「私はまだ1年前に来た者で、分からないのです」という。「清水家というお墓が沢山にございましたが・・・」というと、「ええ、清水建設を創業された清水家のお墓がありますので」という答だった。

おそらく、いくつもある清水家のうちの一つに晴風さんも葬られているのだろうが、単に本名(もしくは戒名)でしか表示されていなければ、ちょっと探しようがない。墓石ばかりが林立する墓地を再度歩きまわったが、それという発見はなかった。

本堂横の階段を登って、都心方向を見て墓地を写した。この写真がカバーしているのは、本妙寺墓地のせいぜい3分の1ぐらいのものだろう。通路のほかはすべて墓石で埋まっている都会の墓地である。晴風の墓を求めて丹念に歩いたが、一つの寺の墓域としてはかなり広いものであると思った。スカイ・ツリーが小さく写っている。


10月12日(2015)
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【本妙寺再訪】

晴風の墓石を探し当てることができず、不満の残る本妙寺訪問であった。

それからしばらくしてわたしは林直輝・近松義昭・中村浩訳『おもちゃ博士・清水晴風』(社会評論社2010)という本が出版されていることを知った。さっそく購入したが、215頁で写真版が32頁あり、充実した内容であった。特に、晴風自身が雑誌・新聞などに書いたもの、インタビュー記事などを苦心して集めている「清水晴風文献集」(近松義昭)は貴重で、ありがたい。

その「清水晴風文献集」の中に、「書画骨董雑誌」42号(明治44年(1911)11月号)の記事で、晴風の談話筆記らしいものが有り、自身の父親の放蕩ぶりを述べ、やむを得ず家督を継ぎ、力業の練習に精を出した若い頃を語っている。他では得がたい情報なので、すこし長いが引用しておく(原文は総ルビ、旧漢字)。
 運送業と云ふと荒々しい職業で、大名諸侯旗本の出入りを勤め大勢の仲仕なかし人足を使ってやる仕事で、却々なかなか繁昌したものである。(中略
 わたくしの父と云ふのは非常な放蕩もので、所謂いはゆる宵越しの金は持たぬと云ふやり方、金銀を湯水の様に使ふので、相当に収入みいりのある家計もいつも台所には貧乏神がつき纏ふと云ふ風であった。遊里に半月程もとまって家に帰らなかった事もあります。芸人なぞとも交際し宅にも出入りをさして居ました。
 その内に私の父は家計が苦しくなったので、丁度御維新ごゐっしんよりすこし以前の事、京都へていよく逃げて行ってしまゐました。
 その逃げ方もすこぶずるいやり方で、矢張やは諸家しょけの御用達しの名義で大小を手挾てばさ空尻馬からしりうまを召し連れて東海道を下るので何の不自由はない。京都へ行っている内に新門辰五郎しんもんたつごろうの子分となり、四條川原に江戸前の紫紅亭しこうていと云ふお茶屋を出し大層流行しました。
 伏見戦争の丁度前に、又江戸へ帰りくなって茶屋の株も高価に売り払ひ江戸へ帰りましたが、それが非常に親爺おやぢ節の好運だったので、親爺が帰ると間もなく伏見鳥羽の戦争で茶屋のあった辺は滅茶/\。

力持ち
 親爺が帰って来た頃はうちの家業は非常に忙しい時でした。世間の他の家業は皆不振ですのに、運送と云ふ様なげふですと諸侯が国へ引き揚げるので、人が有っても有っても足らずと云ふ風で、自然商売はますます景気がいい。景気がよければ――つまり懐中ぽっぽあつたまれば親爺は例の病気が出る矢っ張り金子かねあまらない。
 私は丁度、日本橋の富沢町。関岡と云ふ能装束をつくる店へ年季奉公に行って居ましたが、二三年居る内に親爺が逃亡する、仕方が無く暇をとって宅に帰り十五の年に家督を相続しました。其の時私は考へました。年の若いものが荒くれ男を自由に働かせるには何か一ッ彼奴等あいつらを閉口させる腕前が無くちゃならんわい
 十六七歳の頃から十八九まで、専心力技ちからわざり、その頃片手で米俵一俵位自由に差し上げる事が出来。二十をこすと米俵二俵位差し上げるのは平気でした。うなると妙な道楽が出て、丁度鍛冶町に力持ちの興業があってそれに飛び入りをやり、明治九年の力持の番附にはつヾけに幕内に入った位です。
 右の様な訳で、人夫などが此方こっち見綺みくびって居ると其れを引ったくって米俵位なら手玉にとる位だから彼奴等きゃつらもそれっきり収まって手出しをせなくなりました。
(前掲書p147~148)
晴風の談話を速記で記録したらしい。神田っ子らしい語り口が感じられる(明治44年は満60歳)。江戸っ子が身内を辛く言っている面があり、父親への評価はその辺りを勘案する必要があろう。父親・元次郎(戸崎家から婿入り)は遊び人には違いなかっただろうが、桁外れの才気と目先がきいた人物だったように思える。

なお、速記が盛んになって来たのは明治14年1881 の「明治二十三年国会開設」の詔勅がきっかけで、議事録作成も予告されたからであるという。その後、講談や落語の速記本が出回って人気を博したことも知られている。
次の新聞記事は、明治16年1883には速記訓練を終了した者たちが実修に就いたというもの。
日本傍聴筆記学会にて、此程定期試験を行はれしに、卒業したる者廿四名あり、此等は会則に依り実地練習に従事せしめらるゝ由にて、すでに此程四ッ谷区会、水産会、工学会等より招聘せられたる由。 (東京横浜毎日新聞 明治16年5月22日)
ついでに蛇足、百川ももかわ如燕じょえんの講談速記を出版した『百猫伝』(明治18年1885)が国会図書館でデジタル化公開されている。速記者は「速記法学会」となっている。『百猫伝』の前書の一部
議会演説の席に於て、その言語を直写するは甚だ難し、況んや、法庭に是非曲直を弁争し、議場に利害を弁じ得喪を駁するが如き、その間髪を容れざるの際に於いてをや。而して、能くその言語を直写し、片言隻辞細大漏らす事なく、読者をして真に、その境に接するの感あらしむる者あるは、唯一の傍聴速記法あるのみ。
なお、漱石『吾輩は猫である』(明治38年1905)第2章で、「吾輩」は近頃有名になったと言って、「桃川如燕以後の猫か、グレーの金魚をぬすんだ猫」等と自らを比較しているところがある。

◇+◇

前掲の『おもちゃ博士・清水晴風』には墓石について、次のように記してあった。
晴風の墓石には力持ちを誇った若き日に持ち上げた「さし石」を用い、正面に「泰雅院晴風日皓善男子」と法号が彫られている。(前掲書p70)
また、「晴風がねむる、東京・巣鴨の本妙寺と晴風の墓」として墓石の写真も掲げてある(p128)。

これを見て、確かに本妙寺に晴風の墓石が在ることは間違いないと分かり、力を得て、台風が去った残暑の厳しい日、再度本妙寺に出かけた。本堂では何か講習会が行われていて、「晴風碑」のある庭には乗用車が多数止めてあり、「晴風碑」に近づくのも難しいほどだった。
前掲書には晴風墓石の位置は書いていないので、前回同様「清水家」の墓石が林立している辺りから探し始めた。前回は「さし石」を使った墓石であることを知らなかったので、「晴風」の文字が刻んである石碑を探したが、今回は丸い自然石の形を見つければよい。しかし、なかなか見つからない。清水建設の慰霊碑などのある辺りにはない。

一息入れに遠山金四郎の墓に行ってみることにする。これには、矢印看板がいくつも出ている。ところが、なんと、遠山金四郎の墓の手前5mほどのところに晴風の墓石はあった。


「清水」と大書してある四角い台石の上に、晴風の墓石が据えられている。少し赤味のある良い形の自然石で、「さし石」としてかなりの重量級に思えた。
中央に大きく「泰雅院晴風日皓善男子」とあり、その右に「十一代目」「俗名 清水仁兵衛」と2行に書かれ、左には「大正二年 七月十六日歿」とある。裏面にはなにも書かれていない。

晴風は食道がんであった。明治43年(1910)ごろから発症していたらしい。大正元年(1912)には飯坂温泉や塩原温泉に療治に出かけている。その度に友人に所蔵品を譲って費用を工面している。『うなゐのとも』第6編が出版されたのは、死の一月前の大正2年6月10日である。6月16日に親友の竹内久一(彫刻家)や親戚に対して遺言を行った、「玩具その他の遺物はすべて生前の知友に分配してもらいたい」。
7月16日に自宅で死去。20日に本妙寺で葬儀。三回忌の大正4年4月に友人一同により清水晴風石碑が建てられる予定であったが、実際には大正6年(1917)4月16日に除幕式が行われた。(前掲書「晴風の最後」p67~74によった。)

9月8日(2016)


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付 【一文人形】

小さい泥人形に簡単な彩色をしたもの。実際の値段は不明だが、ごく安いものであったのだろう。まずは、晴風『人形百種』(原稿を綴じたもの、国会図書館デジタルライブラリに有り)の「江戸時代一文人形」を見てもらう。


わたしたちが読んでいる『世渡風俗図会』には、残念ながら「一文人形」は登場しない。しかし、それの姉妹編とも言うべき『街の姿』の「和尚今日は」(p239)に、次のように登場する。乞喰が一文人形を小道具として使用しているのである。
和尚今日ハ、「是ハナア、是でもナア、妻恋稲荷が大明神云々、といゝつゝ一文人形といふ土製の小人形を、数ゝ敷居の上に並べて、銭を貰う乞喰にて、願人坊主の壱人なり。
この話は『守貞漫稿 巻七』にすでに取り上げられていて、そこでは子供の乞喰が「土偶」を使うとなっている。土人形ということ。
和尚今日 天保ころ 乞丐こつじき童 小き土偶数品を袂に入れ 毎戸閾居しきい上にこれを並べ 初ひとつの土偶を置く時「和尚今日は御金がなあ。どっさりと、もうかりました。是は是でもな。日本は総鎮守。伏見の御稲荷大明神な。こちらに立せ玉ふはな」と云つゝ次第にこれを並べて 諸稲荷の名に戯言等を交へて 雄弁に是を云 三都ともに流布す原文はカナ書き
京都、大阪、江戸のいずれでも、このような乞喰がはやった。


上図は目賀田文村(介庵)「浮世絵巻」(国会図書館でデジタル公開)の一画面で、往来に拡げた敷物の上で、泥人形らしきものを売っている。「一文人形」かも知れないとわたしは思っている。目賀田介庵は文化十年1813~明治13年1880、享年68。わたしは介庵「浮世絵巻」が気に入って、第五卷-19「あやつりの手遊賣」、第五卷-44「蝶々賣」などでリンクしています。

大阪府立図書館の「おおさかeコレクション」に川崎巨泉の彩色画「江戸一文人形」が掲げられている(ここ)。そこには「大阪一文人形」や「大阪ねりもの小人形」、「伏見一文人形」など色々ある。風情のあるもので、一見の価値あります。
なお、川崎巨泉に関してネット上で入手できる資料、森田俊雄「おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉のおもちゃ絵展」(2006 講演レジメ)(ここ)がお勧めです。

今ネット上で「一文人形」を検索すると、大分の「浜の市」で首人形が、一文人形とよばれて販売されていることが分かる(ここ、1個400円)。「子供の着せ替え遊びの人形」として江戸時代から製作されていたそうである。

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