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清水晴風『世渡風俗図会』とは




目次
はじめに

《1》 『世渡風俗図会』とは
《2》 三代目広重
《3》 『世渡風俗図会』の製作時期
《4》 「目次」について



  はじめに   「おもちゃ博士」で知られる清水晴風が『世渡風俗図会』という稿本を残していた。そこには約580図という多数の図が含まれるとても魅力的な作品である。わたしは5,6年前に、それを国会図書館がデジタル公開していることを知り、ダウンロードして楽しみながら少しずつ読んできた。

清水晴風のおもちゃ研究に関しては、ファンも多く研究書もいろいろとあるようだ。しかし、どうやら『世渡風俗図会』について公にされているまとまった研究書はないらしい。この方面についてまったくの素人であるわたしは、ともかくまず晴風の達筆な文字を『解読字典』と首っ引きで読んで、パソコン上の文字に置き換えていくのが最初の作業であった(不明字は幾つも残っているが、□で表示している)。
その次に必要となった作業は、類似の絵を探して江戸時代の資料を調べることだった。晴風は相当数の絵について過去の絵画資料を模写しているが(「臨模」は日本画の伝統的な修練方法である。なお、たまたま読んだ『日本のおもちゃ』(芸艸堂2009)は「うなゐの友」1~10編の絵を再編集した書籍であるが、それに寄せられた畑野栄三(全国郷土玩具館館長)「『うなゐの友』誕生の秘話」は、「うなゐの友」の絵は晴風が人形や玩具などを写生して得たものばかりではなく、江戸の書籍その他から「写し取った」ものもあることを指摘している)、どれがオリジナルな晴風独自の絵なのか、そういうことを1枚ずつ調べながら進んでいった。これは専門家にも易しくない作業で、わたしは極く初歩的な段階の解明しかなしえていない。

この分野の専門家に対してわたしがもしアドバンテージを持つとすれば、HTML(ブラウザー上に文章・画像を表すためのプログラム言語)を日常的に使っていることぐらいであろう。それで、約580図という多数の図をあちらからこちらへ自在に飛び回れること、参照したい多様な文書・図像をリンクしておくことなど、HTMLの特長を生かした文書にしたいと考えて、わたしの『世渡風俗図会』鑑賞を書き進めた。



【1】  『世渡風俗図会』とは   TOP

    清水晴風が生涯かけて「世渡風俗」の分野に関心と表現意欲を持ち続けたことは疑いなく、同分野について次のような3種の作品を残している。それらは相互に重なり合う部分があるが、独特の面も持っているようである。いずれも生前には出版されず、稿本の形で残された。(所載図の枚数は、見開き頁を1枚と数えるか2枚とするかなどで若干の相異がありうる。

      (1) 『晴風翁物賣物貰盡』1冊、東京都立中央図書館・加賀文庫蔵、180図を収む。(「加賀文庫」は加賀豊三郎(1872-1944)の旧蔵書2万4千冊余で、特に黄表紙・洒落本の蒐集で知られる。「晴風翁物賣物貰盡」の命名は加賀豊三郎によるもの。

      (2) 『街の姿』昭和58年(1983)大平書屋450部刊、274図を収む。(昭和58年1983に神田古書店で浅川征一郞・太平主人が発見した稿本。「街の姿」の命名は浅川征一郞によるもの。『晴風翁物賣物貰盡』と「同じ図が79ある」といい、この両稿本に深い関連がある事が推察される。

      (3) 『世渡風俗図會』8冊、国立国会図書館蔵、約580図を収む。

    わたしは『晴風翁物賣物貰盡』は実見していない。幸いに『街の姿』には、『晴風翁物賣物貰盡』と『世渡風俗図会』に関してもかなり詳しく比較や考証がなされている。ポイントだけ『街の姿』から引用する。

    • 『街の姿』は出版に際してつけた名前で、原本は「無題、無署名」であった。その稿本は「丹念な仕上がりと、首尾一貫した体裁、さらに不満の線は薄紙を貼って描き直した箇所が十箇所ほどある、などの点から推して、版行を目的に編集、浄書された版下ではなかったか」(『街の姿』の1頁分を丸ごと頂戴したのが 両國猫ふ院佛施 である。第二巻-23「本所回向院佛施」にリンクしている。太平主人の評語を確かめていただきたい。
    • 『晴風翁物賣物貰盡』には『街の姿』と「同じ図が79ある」、『街の姿』に比して少し小振りだが「良く描いてある」。
      その「同じ図」には『晴風翁物賣物貰盡』の詞をも引いているが、168「づぼんぼといふ手遊びうり」の詞に「明治三十年の頃」とあるので、『晴風翁物賣物貰盡』がそれ以降に完成した作品であることが分かる。
    • 『晴風翁物賣物貰盡』の 002~041 はすべて鍬形蕙斎「近世職人尽絵詞」からの模写で彩色図である。

    『晴風翁物賣物貰盡』には『街の姿』と「同じ図が79ある」というのは重大な情報だが(『晴風翁物賣物貰盡』180図の44%にあたる)、しかも、いずれも丁寧な仕上がりで「版下」ではなかったか、と言う。どちらかがどちらかの親本になってる、というようなことが分かる可能性もあろう。
    『世渡風俗図会』と『晴風翁物賣物貰盡』および『街の姿』との関係を専門研究者に調査してもらいたいものだ(わたしは「第3節」で『世渡風俗図会』の製作時期を調べている。)。

    『街の姿』の解題(大平主人)には、『世渡風俗図会』の第六,七,八巻の279図を、明治風俗としてまとめて、『続・街の姿 明治編』として「近日続刊の予定」であると述べている(それから34年経つが、残念ながらまだ刊行されていない。もし刊行されていれば、わたしはそれを読んで楽しんだかも知れないが、拙稿が成らなかったことは確かだ。

    ◇+◇

    清水晴風がこの分野に強い関心を持ち続けていたことは間違いない。「この分野」を和歌と画像の組合せで表現することはわが国では古くから幾種類もの「職人歌合」として行われて来ており、鎌倉時代からの作品例が残っている。江戸時代になると多種多様の作品が制作され、多くの版本も出されている。つまり、「この分野」はわが国で伝統的に活発に行われてきた分野である。晴風は得意の画像を用いてこの伝統の流れに加わろうとしたと考えることが出来る。

    「職人歌合」の歴史的な流れを、ごくかいつまんで見ておく。
    東北院職人歌合」(5番[つがい] 鎌倉時代 「建保職人歌合」ともいう)が職人歌合の最も古いものとされ、東京国立博物館が所蔵する作品(重要文化財)をネット上で見ることができる(ここ 、 以下 これを用いる)。「5番」というのは、職人を左・右ふたりを組み合わせて、5組に和歌を詠ませるという意味である。番となった職人2人は、それぞれ画像で紹介される。そして月と恋に関する歌を詠む。したがって10種の職人が登場し、計20首の和歌が詠まれることになる。さらに判者として経師が加わる。実際の職人たちが和歌を詠み判を下したというのではなく、貴族・知識人たちが職人に仮託して作者となったのである。
    番[つがい]の順に列挙しておく(ふりがなは底本にある)。
    醫師いし陰陽師おんやうじ)、(鍛冶かぢ番匠ばんじゃう)、(刀磨とぎ鋳物師いものし)、(みこ博打ばくちうち)、(海人あまびと賈人あきびと)、経師きやうじ
    「東北院職人歌合」がどういうものであるかを紹介するために、「第四番」の全部を切り出してみた。右に座っている婆さんが「左」の「巫」である。左の全裸の男が「右」の「博打」である。この男はバクチに負けたのか陰嚢まで丸出しなのだが、烏帽子をつけている。


    巫は和歌を2首詠んでいる。初めが「月」、次が「恋」である。恋のほうが面白いので、そちらを紹介する。
    君とわれ 口を寄せてぞ寝まほしき つづみも腹もうちたたきつゝ
    鼓は巫女の縁語なのだが、率直というかあからさまというか、恋の願望をそのまま詠んでいる。少しも後ろめたさも秘め事らしいところもないのが朗らかで素晴らしい。
    これは狂歌であるが、和歌の文学的純化が進む一方で、鎌倉期以前から狂歌は盛んに作られていた。よく知られている定家の作と伝えられる
    うらやまし こゑもおしまず野らねこの 心のままにこひをするかな(「遠近草」)
    は面白い(吉岡生夫「狂歌大観」を参照しました)。和歌に精進する貴族たちの間に、一方ではこういう狂歌を喜びそのセンスが広がって共有されていなければ、職人歌合も作成されなかったであろう。

    巫に対する右(博打)の恋も紹介してみる。
    我こひは かたおくれなるすくろくの われても人にあはんとそおもふ
    図の盤と筒(サイコロを2個入れて振る)は、双六の道具。双六に「片おくれ」という熟語があるらしい。
    これらの「恋」の2首についての判定は、次のようになっている。
    左の恋の心あさからす 右たより面白く侍 持と申へし
    「持」は引き分け。(東京国立博物館のサイトで「e国宝」によって十分に拡大して見ることができます。画像だけでなく、難字も拡大してみることで読みやすくなります。
    なお「双六」は「すぐろく」と言っていた、例えば『和漢三才図会』第十七「嬉戯部」には「雙陸 すぐろく」とある。双六について知りたい方は、竹軒楽人『新撰雙陸独稽古』(青木嵩山堂 明治30年1897)が国会図書館でデジタル公開されています (ここ)。


    その後、「東北院職人歌合」の増補版(12番)、「鶴岡放生会歌合」(12番)、「三十二番職人歌合」、「七十一番職人歌合」などが室町時代末までに成立している。

    ◇+◇

    次に、最も規模の大きい『七十一番職人歌合』を覗いておく。
    『七十一番職人歌合』は室町時代中期(明応九年1500 ごろ)成立した。職人歌合は上で挙げたようにいろいろあるのだが、これが最も規模の大きな職人歌合である。71番[つがい]、142種の職人の姿絵があり、歌合だけでなく、職人同士の会話・口上(画中詞)がついている。歌合の和歌をきちんと読解していくのは骨が折れ分量もあるが、画中詞は面白く短い。ただし口語が使われていたりして易しくはない(岩崎佳枝・網野善彦ら『七十一番職人歌合 等』(新日本古典文学大系61 岩波書店1993)は労作で、この脚注ができて、素人に画中詞が分かるようになった)。『七十一番職人歌合』で初めて採用された「画中詞」は、清水晴風『世渡風俗図会』の詞書の淵源はここにあるともいえるので、小論にとって重要である。

    第二十五番の「琵琶法師女めくら」である。表情がいずれも良い。

    琵琶法師 :あまのたくも()の/夕けぶりおのへ(尾上)の/しかの暁のこゑ (平家物語

    女めくら :宇多天皇に/十一代のかうゐん(後胤)/伊東のちゃくし(嫡子)に/かはづ(河津)の三郎とて(曽我物語
    盲目ふたりを番わせている。いずれも杖で自分の履物を通している。(画像は、下で紹介している「東博本」から。画中詞の出典は、『七十一番職人歌合 等』(新日本古典文学大系61)の脚注に教えてもらった )。
    上の絵の中に書かれている文句が「画中詞」で、いわば絵中の人物がセリフを吐いている趣になっている。現代の漫画の「吹き出し」の源流とも言えよう。もちろんこれ以外に、この人物たちが月および恋の和歌(ないし狂歌)を読み、それぞれについて「判詞」が付くのだが、ここではいずれの引用も省略している。

    『七十一番職人歌合』も、やはり、原本は伝わっていない。現在知られているものはすべて江戸時代の写本である。その中でも善本とされ、ネット上で公開されているのは東京国立博物館本(略して東博本)である(ここ)。画像が精細で色の出もよい(ただし、この東博本は写真撮影したものを1枚ずつ公開している。はじめからPDFファイルとしてダウンロードできた方が閲覧には便利だが、それは国会図書館がデジタル公開している伴信友写本[1]~[5]がお勧め。「職人歌合画本」。このうち[1]、[2]、[3]が『七十一番職人歌合』上中下、[4]が『三十二番職人歌合』、[5]が「東北院職人歌合」(増補版、12番)と「鶴岡放生会歌合」です。すべて彩色があり、異本も並記してある)。

    江戸時代に入ると版本(木版印刷の出版本)によって、何種も出版された。絵と文字の組み合わさった「職人歌合」に人気があったのであろう。
    われわれが今一番手ごろに幾つもの版本を見ることが出来るのは、早稲田大学図書館の古典籍総合データベースの「七十一番職人歌合」であろう。なお、普通の読者は活字に翻刻してないと手も足も出ないと思うが(わたしのことです)、お勧めの第一は、上で紹介した解説も優れた岩崎佳枝・網野善彦ら『七十一番職人歌合 等』(新日本古典文学大系61 岩波書店1993)。その次は大きな図書館なら備えている「群書類従 巻503」は活字版で絵もついている。(ネット上の解説としては、weblio辞書七十一番職人歌合はスグレモノで、特に様々な「諸本」を示してくれているのは、知識の整理になる。

    「歌合」という形式は平安時代からあり、和歌創作に一種のゲーム性を加味して、大いに発展した。そのゲーム性と狂歌的なものとは無関係ではない。また、番となった和歌の優劣を述べる「判詞」のために和歌鑑賞の理論が深まった。
    職人に仮託して詠じた和歌(狂歌)と、職人の姿絵とを組み合わせたのが職人歌合である。江戸時代に入り刊本が盛んに出るようになり、歌合と切り離されて「職人」の絵姿百科のようなものも盛んとなった。もともとの「職人」という語もひろがって、「生活」とか「生業 なりわい」とか「風俗」というほうがふさわしくなっていった。

    清水晴風『世渡風俗図会』は、こういう職人風俗をまとめた絵姿百科とでもいう伝統に連なる作品である。その詞書は『七十一番職人歌合』から始まった画中詞を先祖とし、狂歌のセンスは神田っ子・晴風も充分に引き継いでいる。


    ◇+◇

    江戸時代の「職人風俗」ないし「絵姿百科」で、わたしが実際に使ってみて参考となりそうだと思った文献を集めてみた。絵が中心の文献である。見てその雰囲気を楽しむのも良いだろうと考え、彩色のあるものを多くしている。
    リンクは、複数巻がある場合は第1卷だけにリンクしているのでそのつもりで。
資料名作者成立時期メモ
職人尽倭画菱川師宣17世紀彩色、巻物、1856写、国図
人倫訓蒙図彙不明元禄三年1690刊本、国図
彩画職人部類橘民江天明四年1784彩色、和本、国図
四時交加北尾重政寛政十年1798白黒。和本、国図
近世職人尽絵詞鍬形蕙斎文化年間色彩。巻物、国博
江戸職人歌合石原正明文化五年1808白黒、和本、国図
一掃百態渡辺崋山文政元年1818白黒、刊本明治17年、国図
楠亭画譜西村楠亭文政九年1826彩色、和本、ARC
盲文画話-色彩猿水洞蘆朝文政十年1827彩色、和本、国図
あづまの手ぶり大西椿年文政十二年1829彩色、jpg、ARC
廣重人物画稿初代広重19世紀半ば稿本、国図
浮世絵巻目賀田文村幕末か彩色、巻物 国図
江戸年中風俗之絵橋本養邦幕末彩色、巻物、国図
街頭生活者絵巻不明幕末?彩色、巻物、国図
    上表で、「国図」は「国立国会図書館」、「国博」は「東京国立博物館」、「ARC」は「ARC古典籍ポ-タルデータベース」の略。いずれも、そのサイトでダウンロード可能。実際にわたしが手元にダウンロードして、利用しているもののみを表示している。「成立時期」は十分に調査したものではなく、目安程度です。

    『世渡風俗図会』は、第5卷-09「乞喰芝居」、第8卷-64「乞喰の演説」とか、第1卷-48「乞喰諸々」などの乞喰と名称の付いた対象を取りあげている。彼らはなにがしかの芸をやって、米銭の喜捨をもとめる者たちであって、必ずしも“乞食”と名付けられていなくとも乞食であった。
    盲人や脚の不自由な人を扱っているが(「盲目の尺八」、「びっこの玉賣」)、子供連れの哀れみを乞うだけの物貰いや癩病者などの座って低頭している病者は描いていない。唯一の例外はやや間接的な表現であるが、第二巻-43「宿なし乞喰の類」だけであろう。

    江戸の役人の視点からは、これらの乞食たちは「非人」であったり、あるいは「穢多」であったり「乞胸」であったりしたであろうが、江戸町人の目からは彼らは等しなみに「非人」であると見做されていた。
    江戸町人の多くは非人と物貰いをほぼ同一視していた。もちろんそこには差別のまなざしもあったが。そもそも江戸時代、抱非人(人別帳に登録された正規の非人)以外の者が私的に物貰いをすることは許されていなかった。江戸における物貰いは許可制であって、各非人頭はそれを一種の専売権と考えていたのである。(浦本誉至史『江戸・東京の被差別部落の歴史』p106)
    けして「物貰い乞食」が少数だったからではなく、明治以降は描く(書く)のを憚る気持ちが強くなったのではないか。この点に関心を持ち、乞食の画像表現を歴史的に調べてみた、「乞食(物貰い)」(長文)。



【2】  三代目広重   TOP
    晴風が「第11代清水仁兵衞」を襲名したのが19歳のとき、明治三年1870であった。この年から俳諧を始めており、師は孤山堂山月といい、号は「車人しゃじん」としている。自らの家業である「車力」をそのままあからさまに「車人」と名乗ったのである。仁兵衞は俳諧に「没頭」したというが、3年を経過して相当上達したのであろう「芳華ほうか晴風」を雅号とした。明治6年22歳である。ここにはじめて清水晴風が生まれたことになる。

    晴風はこの頃から俳人の手跡や古書画の収集・研究を始めたと考えられるが、絵画に関しては生涯師を持たず独修だった。子供の頃から絵が好きで、筆を手放さないような子であったことの反映であろう。晴風が三代目広重といつからつきあいがあったのか良く分からないが、遠慮のいらない、かなり濃い付き合であったようだ。
    第三巻-60「虚無僧」で詳しく述べたが、三代広重が明治27年、享年53で没した際にその遺品として、初代広重の画稿「広重人物画稿」を譲り受けている。葬儀やその後の世話など晴風はかなり骨折ったという(林直輝「清水晴風の生涯」による)。(三代広重が没して広重の画系が途切れることになり、晴風は未亡人に協力して初代広重以来の縁があった菊池貴一郎に4代目を継がせたという。第三巻-24 櫻草賣 でも記した。

    「集古會誌」(大正2年9月刊行)の「會員談叢(三) 清水晴風談」の始めに、晴風は次のように語っている。晴風は大正2年7月16日に没しているから、没後の刊行である。生の三代目広重評が出ているのが面白い。
    私は、元来繪を習ったことはないので、自己流で書き出したのです。或時、先年死んだ三代目の廣重が来て、「弟子といっチャー何んだけれど、社中になって呉れ」といふので承知をすると、私に重春といふ名を呉れた。それから錦繪などに廣重門重春などゝ署名して出した。つまり自分に弟子のあるのが吹聴したかったのです。此人は頭のない人故、少し困難な繪になると何時も私のところへ智恵を借りにくる。つまり活きた粉本にされたのです。(『おもちゃ博士・清水晴風』の「文献集」p154、原文には句読点なし
    江戸っ子らしい塩っ辛い表現である。「此人は頭のない人故、少し困難な繪になると何時も私のところへ智恵を借りにくる」、これはおそらく事実だったのであろう。三代目広重は、自分が晴風のように頭が回り一流の知識人たちと付き合える人間ではないことを承知していて、難しいところを平気で訊きに来た、ということであろう。わたしは、そう理解する。なぜなら三代目広重は文明開化の独特の平明さとその熱気を表現しえた絵師であり、「製作数は当代随一を誇る」(浅野智子 下で紹介する)人気絵師であったからである。単なる凡庸な絵師であったわけではない。

    ただし、これまでの三代目広重評は、ほとんど、ゼロ評価であったようである。藤懸静也『増訂 浮世繪』(雄山閣 1946 国会図書館でデジタル公開)から引く(藤懸静也(明治14年1881~昭和33年1958)日本美術史、浮世絵研究、東京帝国大学教授)。
    三代広重 初代広重門人で初名を重政といった。二代を名乗った重宣が離縁されて後、程なく、お辰の後の夫となって、広重の名を継いだ。特に天才と称すべきほどの人でもなく、且つ錦絵衰退の時期とて、概して見るべき作品はない。俗称後藤寅吉、一笑斎と号す。弘化二年十二月生れ、明治二十七年三月廿一日没す。享年五十三。 (前掲書 p270)
    わたしなどが今、三代広重の作品を眺めると、彼はいわゆる浮世絵画家というよりむしろ、イラストレーターの世界に半身を乗り出している新時代の画家であったことを評価すべきである、と思う。初代広重のような伝統的な情趣がないということをもって三代目を否定しても、あまり意味がない。明治新時代において人々が獲得しつつある新しい感覚や美意識を表現する先端にいた画家の一人である。

    次図は明治9年1876の三代目広重「東京名所 兩國報知社圖」で、上が全図、下が部分図。日の丸のところに「郵便報知新聞」の看板がある。




    郵便制度を始めた前嶋密らが「郵便報知新聞」を創刊したのは明治五年1872で、全国の郵便網を利用してニュースを集めたので、地方記事に強かったという。上図には黒い制服の郵便夫が描かれている(日の丸の左下)。西南戦争(明治10年)では犬養毅による従軍記事が掲載され、明治14年には矢野龍渓・大隈重信らが同社を買収し、犬養や尾崎行雄が入社して立憲改進党の機関紙となった。「郵便報知新聞」は自由民権運動の拠り所の一つとなった。
    三代目広重の平明で明解な絵柄は、明治開化期の楽天的な明るさを表現し得ている。そもそも明治9年の段階で、郵便報知新聞から錦絵で社屋を描く注文をされていることから、三代広重が新時代の旗手たちから評価されていたことがうかがえる。

    浅野智子「『大日本物産図会』と殖産興業政策」(2002 ここ)から引用する。『大日本物産図会』は明治10年1877の第1回内国博覧会の出品作品であり、三代広重が作画し大倉孫兵衛が出版した全150枚の錦絵からなる大作である。
    三代広重は)同時代の国芳や国輝らに比べ、画質が荒いために美術的な評価は低いが,当時は有数の人気開化絵師であり、製作数は当代随一を誇る。開化絵の作品はいずれも鮮やかな輸入顔料を多用して西洋文化の新画題を扱い、これまでは専ら、その資料的な価値が高く評価されてきた。しかし、江戸末から明治初期の行政・文化の大変革の中で、いち早く新画材を取り入れた新しい画題を獲得し、成功させた画家としての功績は大きい。(浅野論文 第1章)
    上掲の三代目広重「東京名所 兩國報知社圖」は、サイト「浮世絵検索」からダウンロードした(Ryogoku Hochi で検索のこと)。「東京名所 兩國報知社圖」は郵政博物館も所有していて、解説文もあるので参考になる。ただし、日本の多くの博物館・美術館などが運営するサイトの例にもれず十分に拡大させず、ダウンロードを許していない。

    上で紹介した『大日本物産図会』は、まとまったものが早稲田大学図書館で公開されている(ここ「乾」「坤」の2部で81枚、「浮世絵検索」サイトにもあるが、早稲田の方が画質が良い。なお、『大日本物産図会』はこれまでに118枚が発見されている。全作品が見つかっているわけではないそうだ)。

    ◇+◇

    二代広重は弘化(1844~47)の頃、初代広重に入門している。初め重宣と称していた。重宣は丁寧な作風で『名所江戸百景』の中の「赤坂桐畑雨中夕けい」などは初代広重より優れているという評価があるぐらいである。わたしがサイト「浮世絵検索」で鑑賞したのでは「諸国名所百景 周防岩国錦帯橋」の雪景が素晴らしいと思った。
    初代広重の没後、重宣は初代の養女お辰の入り婿となり二代広重を襲名した。お辰との年齢差が20歳ほどあったという。そのせいか夫婦仲が良くなく慶応元年に離縁となり、安藤家を出た。そのあとは、喜斎立祥の画号をもちいて横浜絵や「輸出向きの茶箱に版画を作り、茶箱広重の名で,外人間に重宝がられた」(前掲 藤懸静也『増訂 浮世繪』p270)。惜しいことに明治二年に44歳で没しており、彼の横浜絵などの新境地が開化時代にどのように展開するか、見ることができなかった。
    二世立斎広重『諸職画通』(松林堂 文久三年1863)という絵手本が出版されている(ARC古典籍ポータルデータベースでデジタル公開 初編 )。その初編の終わり頃にある「たよりや」(町飛脚)を晴風が『街の姿』および「晴風翁物賣物貰盡」に写している。右図は、二世広重『諸職画通』初編の「たよりや」。
    マンガであるが、一ノ関圭『茶箱広重』(小学館文庫 初出は「ビッグコミック」1981)がある。絵がすぐれている。お辰は「おかや」となっている。初代広重没後の安藤家は、広重未亡人のお蔦が取り仕切っていたという設定で、説得力をもって描かれている。物語は「茶箱広重」の二代目が中心になるのは当然であるが、三代目広重については「“鉄道錦絵”でその本領はいかんなく発揮されたが、毒々しいまでの配色、イラスト的表現はすでに江戸錦絵とはかけ離れたものだったため、ある人には草創を思わせ、ある人には終焉と映った」と適切な評が示されている。

    三代広重は天保十三年1842生まれ、本名は後藤寅吉で、彼は晴風より9歳の年長である。初代広重が没するのは安政五年1858であるから、寅吉はその時15歳であった。彼がいつ初代広重に入門したか不詳だが、その年齢からして初代から十分に薫陶を受けたというほどではなかったであろう。文久頃(1861~64)から重政と称する作画が残っている(前掲、浅野論文)。二代目広重が離縁して家を出たため、慶応三年1967にお辰に婿入りし「二代目広重」を自称する。それは二代目を否定・抹殺しようとするためであろうという。三代広重は興味深いが、本論では正面から扱う余裕がない。ここでは、彼の作品をいくつか掲げる。

    まず最初は、明治元年1868の作品とされる「東京名勝図会 日本橋御高札」。官軍の鼓笛隊(笛は見えないが)らしき者たちが行列を組んで行進している。行列行進それ自体が新時代のものであった。先頭の菊花紋旗はすこし怪しげだが、全体として官軍による新都東京の秩序樹立と新時代の到来を表している。地方から動員された官軍兵士たちが、東京土産としてこのような錦絵をあらそって購入した。
    「東京名勝図会」が全部でどれほど作られたか分からないが、サイト「浮世絵検索」に相当ある(この「日本橋御高札」はボストン美術館所蔵のもの)。たしかにこの錦絵は美術品として鑑賞するというより、江戸が東京に変わり天皇制が復活した大変動を目の当たりに表現するのが主眼である、というべきだろう。すなわち、錦絵が報道絵画(報道写真)の役割を果たし始めている。

      新聞に報道写真が出た最初が明治21年(1888)だそうだ。出版物に写真カットが一般化するのは明治27年から、カラー絵葉書が流行するのは日露戦争からだという。猪瀬直樹『ミカドの肖像』(小学館 1986)から引用する。
      新聞に写真が初めて掲載されたのは、明治二十一年七月十五日の会津磐梯山の噴火を『読売新聞』が現地に写真師を派遣して撮影したときである(島屋政一著『印刷文化史』)。それまでの雑誌や新聞はイラスト(版画)が写真の代わりをつとめていた。出版物に写真カットが一般化するのは、明治二十七年に博文館が発行した『日清戦争実記』からである(前掲p477)。

      明治三十七年に日露戦争がはじまるとセピア一色刷りの戦争写真の周囲に石版多色刷りで菊花と旭日国旗を組み合わせたカラー絵葉書が印刷された。その絵葉書が戦地から送られ、「絵葉書の熱狂的流行」(樋畑雪湖『日本絵葉書史潮』)の時代が到来する。浮世絵に代表される木版画多色刷りの伝統は絵葉書のカラー印刷化によってようやく駆逐され、名所図会的な木版画が写真版の絵葉書に取って代わられたのである(前掲p497)。
      『ミカドの肖像』はいうまでもなく猪瀬直樹の力作であるが、「週刊ポスト」76回連載(1985/1/18~1986/8/1)をまとめたもので、幾人もの優秀な取材助手陣の尽力があって完成したものである。個人の取材力では難しいと思えるほど広範囲に探索の手が伸びている。精緻な参考文献表と人名索引が付属している点も評価できる。

    三代広重が当時有数の作者であったことを示す力作をもうひとつ紹介する。「明治九年六月二日奥羽御巡幸萬世橋之眞景」は楽隊を先頭に明治天皇の馬車が奥羽地方へ向けて出発する様子を描いた3枚つづきの大画面で、数百人に達すると思える群集が細かく描き込まれている。ボストン美術館は2000×1039pixelでダウンロードを許している(次図は画面の制約から900×468。サイト「浮世絵検索」でダウンロードして鑑賞することを勧めます。“Manseibashi”で検索せよ)。
    この万世橋は筋違御門を解体し、熊本から石工を呼んで石垣の石材で「眼鏡橋」を造った評判の橋であった。新都・東京を象徴する建造物のひとつであった。北を目差す若き天皇にとって、宮城から外堀(神田川)を越えて最初に渡る橋であり、「奥羽御巡幸」の第一歩として記念すべき万世橋の渡橋光景なのである。この光景を描くことを選んだ三代広重のセンスを評価すべきだ(「広重」の署名の横に「定價六銭」が読める)。
    第七巻-24「かっぽれ踊り」に「秋葉の原」という長文コメントをつけたが、その中に明治15年、眼鏡橋の上を鉄道馬車が開通した時の錦絵(歌川国利)を掲げておいた。比較すると、歌川国利に対して三代歌川広重の空間把握や動きの表現がずっと優れており、洗練されていることが感じられる。


    次図は、明治10年1877の「大日本物産図会 東京錦繪製造之図」。すでに記した第1回内国博覧会の出品作品の内の1枚である。この大作の制作期間はわずか約1年間であったと考えられ、『日本山海名物図会』*(宝暦四年1754刊)や『山海名産図会』*(寛政十一年1799刊)や『養蚕秘録』*(享和三年1803刊)などの有名な諸国物産図会類を安易に写しているものも少なくない(前掲 浅野論文)。この点は企画・制作の主導権を持っていたと思われる大倉孫兵衛の意向もあろうし、江戸期から先行作品の借用は普通に行われていた(絵の勉強はまず模写から始めた)。白描画を錦絵にするだけでも意味があると考えられていた可能性もある( * はいずれもネット上にデジタル公開されている)。
    三代広重が『大日本物産図会』の多くの図を『日本山海名物図会』などから借用していたことも、短い制作期間という背景に併せて、当時そうした図様の転用が一般的に行われていたという事実があったのである。しかし中には「越中國鉄物細工之圖」や「東京錦絵制作之圖」のようにあらわされた図が当代的な内容であるために、典拠を持たない独自の調査に基づく作品も共に掲載されている。(前掲 浅野論文)
    ここに言及されている「東京錦絵制作之圖」を次に示す。
    上の錦絵中の説明文
    大日本物産圖會 東京錦繪製造之図 錦繪武州東京の名産にして奉書或絹雁皮紙などに摺と雖も伊豫の国西条より出す政紙マサシ摺もの多し板は櫻木を用ひ一色毎に一枚宛を刻し先墨板より摺始めて色毎にとり合せ上品のもの三十篇より四十篇の色をすり合せツヒに一枚の錦繪となる宇ちハ房州より出す処の女竹を凡六十に割て窓をあく錦繪を張ヘリをとる也 (強調は引用者
    「政紙」は柾紙(まさがみ)とも書く。奉書紙のひとつで「伊予柾紙」という語もある。「宇ちハ」は団扇(うちわ)。団扇の手元の紙を貼らない所を「窓」という。図中の文字は「ドウサ引した紙を掛ル」、「ゑを摺」、「団扇張」。余白の文字は「画工 大鋸町四番地 安藤徳兵衛」、「出版人 日本橋通一丁目十九番地 大倉孫兵衛」

    丁寧に描かれ作られた錦絵で、明治初期の錦絵製作場の様子が良く分かる。天井に団扇が吊してあったり、男女が同じ仕事場で作業していることなども物珍しく感じられる。この錦絵は美術鑑賞のための芸術作品とはいえないかも知れないが、歴史資料的価値を超えた独特の存在感がある。

    ◇+◇

    三代広重は「口蓋がん」で死んでいる。ウィキペディアで知ったが、死の床にあって友人に宛てた手紙に
    悪口を不断いいたるむくひにて おのれとなやむ真の悪口
    と認めてあったという。「真の悪口」とは口蓋がんを意味することは言うまでもない。強い痛みと不快の病床でこういう狂歌を述べうるのは、凡庸な心境ではない。なお、辞世としては
    汽車よりも早い道中双六は 目の前を飛ぶ五十三次
    を残している。彼が生涯の表現を掛けた文明開化のシンボルたる「汽車」であっても、江戸文化の「道中双六」にかなわないと、人生最後に自嘲気味に判じているかのようだ。




【3】  『世渡風俗図会』の製作時期   TOP
    清水晴風のこと」で述べたが、晴風は子供の頃から字を書いたり、絵を描いたりするのが好きだったと自ら懐古している。10歳のとき書道入門し、12歳のとき能装束司・関岡長右衛門方へ年季奉公に入り能装束の下絵を模写するのを楽しみとしていた。15歳で家業を継ぎ、運送業の力自慢の労働者たちを使いこなす生活に入る。俳句を始めたのが20歳で、晴風を名乗ったのが23歳(明治6年)であった。

    おそらく、俳句を始めたころから「俳人の手跡や古書画を愛好し、筆法等の研究にもいそしんだ」のだろうと林直輝「清水晴風の生涯」が述べている(『おもちゃ博士・清水晴風』p20)。晴風の絵がその描く目標を見出すのは、明治13年1880の「竹馬の会」に参加しおもちゃの魅力にとらえられた体験をしてからであろう。それから彼はおもちゃ・人形などを画帖に描き溜めていった。晴風のもとには「十年程の間に百余種、三百点あまりの玩具が集まっていた」が(同前 p33)、豊かになっていく彼の画帖の評判が友人達の間に広まる。明治24年1891春に木版彫刻師の木村徳太郎が画帖の出版を強く勧めた。それで出来たのが『うないのとも』初編、明治24年10月である。

    晴風はおもちゃを描くだけではなく、おそらく同時に江戸時代の「職人尽し」や「絵姿」の世界に興味を惹かれていて、身近に目にしていた江戸絵本を粉本として絵を勉強したり、彼が歩き回る外神田ふきんの町並みの中で日常的に見聞きする「世渡風俗」を描きとめ始めていたであろう。これは根拠なしで言うのだが、『世渡風俗図会』の初めの方はそのようにして描き継がれていったのであろうとわたしは想像している。
    『うないのとも』の絵を描くのと同時に、晴風は「世渡風俗」を描いていた。彼の目線は、玩具や人形に対して注がれるのと同じ質で、明治の道ばたや広場で飴を売り芸を売る者たちに注がれていたのである。また、かつて若い彼が見聞きした江戸の物貰い・乞食たちへも。

    ◇+◇

    初代広重の絵「広重人物画稿」を手本に独修したのは、明治27年1894以降と考えられる。なぜなら、「広重人物画稿」を三代広重の遺品として譲られたことが晴風自筆で明記してあるからである(「二世」は晴風の字でわざわざ訂正してある。遺品をもらった挨拶文なので晴風は、客観的には「三代広重」なのに「二代広重」と自称した故人の遺志を尊重したのであろう)。これが『世渡風俗図会』で最初に出てくるのは第三巻60の「虚無僧」からである。
    初世立齋廣重翁の筆嘉永より安政
    年間末に至る浮世人物の草稿画なり
    此本は二世広重安藤徳兵衛君の遺物
    として予に与へられしもの
    其当時の風
    俗を目のあたりに見る心地して昔時
    の人の生活のありさまを今時にしるの
    栞ともなりていとめでたきことなりと
    思ひ侍るまヽを筆のついてに記し置ぬ也

                清水晴風
                   蔵(印)
    三代広重・安藤徳兵衛が没したのは明治27年3月28日である。このとき晴風は43歳。第三巻の60~83(巻末)の24枚の内、巻三-77「葛西金町半田稲荷」を除いた23枚はすべて「広重人物画稿」を原画としていることが確かめられ、それらは明治27年3月28日以降の製作であるとしてよい。

    第三巻は原画を明記してあるので、それを確かめるのが容易である。第三巻全83枚の内、合計77枚が原画をもつことを確かめられた。表示しておく。

    原画第三巻の番号
    大西椿年『あづまの手ぶり』04~1916
    小林永濯『温故年中行事』22~33、12
    石原正明「江戸職人歌合」34~4916
    渡辺崋山「一掃百態」50~59 10
    初代広重「広重人物画稿」60~83、77「半田稲荷」を除く23


    結局わたしが第三巻で原画を見つけられなかったのは、つぎの6図である。
    01勧化僧、02流しあんま、03初かつを賣、20一ぱい/\、21豆奴人形賣、77半田稲荷

    晴風は、『世渡風俗図会』を描き始めて、初めの頃は江戸期の作品の模写から始めたのだろうと考えられる。第一巻66図のうちで原画が判明しているのは次の34図。

    原画第一巻の番号
    一無軒道治『難波鑑』01、04
    岩瀬醒『骨董集』02、03、05
    「中村吉兵衛似顔絵」06
    柳亭種彦『用捨箱』07、08
    『人倫訓蒙図彙』10、11、12、13、14、15、17
    「英一蝶図」16
    古閑『人物草画』49~6618

    第一巻-09「よねまんちゅう賣」を除くと、01~17はすべて原画があることになる。18以降は最後の66まですべて彩色になっている。一続きの仕事であろう。特に18~48の31図については原図がある可能性が大きい。

    第二巻には彩色画はない。また、原図が(わたしに)判明している図もない。第四巻~第八卷のどれにも、原図が判明しているものはない。結局、上に表示した111図(第一巻34+第3巻77)が,目下原図が判明しているすべてである。もちろん、わたしのようなこの分野の素人が、デジタル公開されている資料に限って気分に任せて探す程度のことだから、少しも徹底していない。今後も努力して1枚でも見つけたいと思っている。

    「模写」という方法で独修したことと、『世渡風俗図会』の作成時期を考えることとは、絡み合っている。しかも、目下、わたしが発見し得ている「模写」は第一巻と第三巻に限られているのであるが、そのことをどのように理解すべきか考えが定まっていない。ともかくここでは、現状をそのまま報告しておくことにとどめておく。

    ◇+◇

    第八卷について述べておきたい。というのは、わたしは漠然と《『世渡風俗図会』は第一巻から第八卷まで、巻数の順に作製された》と考えているが、その理由の一つが、第八卷にある。次に述べるように、第八卷を最後に描いたらしい証拠があるからである。

    晴風は、作画の対象を自分が観察した年月を図に記入していることがある。例えば第五卷-20「めがね賣」には「明治十六年の頃」とあるし、第六卷-03「手遊風船賣」には「明治廿三年十一月」とある。第六卷-07「酒落講釋」には「明治廿五六年の頃」となっている等々。
    そこで、全図について、年号や年月が書き込まれているものを調査して書き上げてみた。

    年号、年月の書き込まれているもの一覧表、ただしスペースの関係で
    左欄に第一,二,三,四,六巻を、右欄に第五,七,八巻を置いた。
    第一巻
    番号年号、年月の記載
    1-01延宝年頃
    1-02元禄のはじめ頃
    1-03享保の頃
    1-05天和貞享の比
    1-07天和年間

    第二巻
    番号年号、年月の記載
    2-01明和年の頃
    2-02安永の頃
    2-03安永の頃
    2-37安政の末頃
    2-45明治前

    第三巻
    番号年号、年月の記載
    3-04天保ヨリ安政年頃
    3-34文化五年

    第四巻
    番号年号、年月の記載
    4-38明和頃
    4-43安政の頃

    第六巻
    番号年号、年月の記載
    6-03明治廿三年十一月
    6-07明治廿五六年の頃
    6-11明治廿二三年の頃
    6-12明治廿二三年頃
    6-14明治廿壱年頃
    6-16明治廿四五年の頃
    6-20明治三十四五年頃より  ☆
    6-25明治十五六年の頃より
    6-27明治廿四年の頃
    6-35明治廿四五年頃
    6-45明治廿三年頃より
    6-46明治十四年頃
    6-50明治二十年頃
    6-51明治八九年の頃、明治十一年頃
    6-53明治廿五年の春頃より
    6-54明治廿五年頃より
    6-55明治二十五年の夏
    6-57明治三十三年の頃
    6-58明治三十四五年の頃  ☆
    6-60明治十五六年の頃
    6-62明治廿四年の夏頃
    6-64明治十七八年の頃
    6-66明治廿四五年の頃
    6-71明治廿四年の頃より
    6-73明治二十年頃
    6-78明治廿年頃より
    6-79明治廿二三年の頃
    6-81明治廿壱弐年の頃
    6-89明治廿年頃

    第五巻
    番号年号、年月の記載
    5-01明和の頃
    5-04安政の頃
    5-20安政頃
    5-21安政頃明治の初年に至る
    5-22安政年頃
    5-27明治前
    5-47安政のはじめ

    第七巻
    番号年号、年月の記載
    7-01明治三十五年夏の頃より ☆
    7-06明治廿二三年頃
    7-09明治十年以前
    7-13明治廿七年頃
    7-23明治三十年頃
    7-32明治廿六七年の頃
    7-34明治十一年頃
    7-39明治廿四五年頃より
    7-50明治十四年の頃
    7-65明治廿四年頃より
    7-66明治廿五年の夏の頃より
    7-96明治廿五年八月頃より

    第八巻
    番号年号、年月の記載
    8-01明治三十五年頃   ☆
    8-02明治三十五年の秋   ★
    8-04明治三十五年の秋の頃 ★
    8-05明治三十五年    ☆
    8-06明治三十四年頃より
    8-09明治三十五年の頃より  ☆
    8-11明治三十五年の初夏頃より ☆
    8-12明治三十五年頃    ☆
    8-14明治三十三年頃より
    8-15明治三十五年九月   ★
    8-18明治三十五年の秋   ★
    8-21明治三十三年頃より
    8-39明治三十三四年頃ヨリ
    8-55明治二十六七年頃より
    8-56明治三十五年夏頃より  ☆
    8-56明治三十五年夏頃より  ☆
    8-61明治二拾年以後
    8-63明治三十年頃
    8-62明治十五六年の頃
    8-64明治三十二年の頃
    8-69明治七八年頃
    8-70明治三十四五年頃  ☆
    8-71明治十二三年の頃
    8-72明治三十五年の夏  ☆
    8-77明治三十五年夏   ☆
    8-79明治参拾五年之夏  ☆
    8-81明治三十一二年頃
    8-82明治三十五年の夏  ☆
    8-83明治廿八年の頃
    8-84明治三十五年の夏頃  ☆
    8-90明治三十五年の春頃より ☆



    第一~五巻では第五-21「十露盤屋」に「安政頃明治の初年に至る」とあるのを唯一の例外として、明治以降を意味する記入は存在しない。
    それに対して、第六,七,八巻は明治の年号が入っているものがとても多い。これらの巻では、晴風が“明治の現代風俗”を描こうとしていると考えてよいだろう。

    年月の記入の一番最後はいつであるかを調べようと、「明治35年」に対して☆印を付けてみた、特に「明治35年秋」は★印としている。それ以降を意味する記載はない。
    数は少ないが第六卷にすでに☆印が現れるので、第六卷は明治35年以降に完成したとしてよい。晴風は明治35年以降になってから、相当の集中度で第六,七,八巻を手がけたのであろう、と考えられる。

    ◇+◇

    国会図書館が発行している参考書誌研究の雑誌「清福図録」というものがある(Web上で検索しPDF文書として入手できる)。「清福図録(61)」(2008-10-24)は『世渡風俗図会』を紹介しており、筆者は川本勉。それに、次のような重要な情報が入っている。
    本書は延宝年間(1673-81)から明治35年(1902)頃までの世渡人の変遷を、玩具や風俗之研究で知られ、江戸の生き字引といわれた清水晴風が描き残したもの(一部手彩色)。明治37年(1904)5月14日購求。字体や絵の特徴から晴風自筆と思われる。昭和61年(1986)、国書刊行会から複製本(2冊)が刊行されている。(以下略下線は引用者

    なお、われわれは帝国図書館が押した「明治37年5月14日購求」の印影を直接に確かめることが出来る。各巻の01番(例えば 第一卷-01「庚申七色菓子賣」)の右下隅に丸印があり「明治三七・五・一四・購求・」と読むことが出来る。「購求」の「求」は左半分が欠けている。
    すなわち、国会図書館が明治37年5月14日に「購求」している。また、「延宝年間から明治35年頃までの世渡人」を描いているとして、下限を明治35年頃と明示していることも注目される(「世渡人」という見馴れない語がある。「よわたりびと」と読ませるのだろうか。『世渡風俗図会』を意識した造語であろう)。この点は、わたしの「年号、年月の書き込まれているもの」の調査ともまさしく符合する。

    清水晴風は明治35年秋すぎまで『世渡風俗図会』の製作を行い、各巻を描き上げるごとに、題簽をつけ綴じたのであろう。明治36~37年に掛かっているのかどうかは不明である。(題簽の「第八」には、「八」と八の横に小さい「止」が書いてあることを、「天王寺の庚申堂」の末尾の写真で示しておいた。これは第八巻が最終巻として作成されたことの証拠のひとつである。
    その後、晴風にどのような事情があったのか分からないが、国会図書館が明治37年5月14日購求したのである。

    『晴風翁物売物貰尽』と『街の姿』がいずれも稿本のまま、いつ、どういう事情で晴風の手元を離れたのかについても、分かっていない。



【4】  小論の「目次」について   TOP
    清水晴風『世渡風俗図会』には全8巻に約580枚の絵が含まれている。稿本のまま残されており、十分に整理されているとは言えない状態で存在している。各巻の内容は晴風のその時々の思いつきや興味で、江戸時代の本を手本として模本を作成したり、町中に出かけて目にした情景を作画したり、様々である。

    そのために内容的には順不同と言ってもよい配列であり、「巻別目次」にしたがって見ていって充分に楽しむことが出来る。『世渡風俗図会』全8巻を巻頭から順々にページを繰って眺めていくということで、各ページにつけた「前へ」「次へ」で移動するのは、この順序に従っている。

    同じ主題や関連する類似主題などが、離れた個所にあることがしばしばである。まったく同一の題名が付いているものも、いくつかある。最初、わたしは巻一から巻八まで順に読んでいったのであるが、その際に、自分が気付いた限りで、参照したいページへのリンクを作成した。クリックするとリンク先に飛ぶ。しかし、それはわたしの気分次第であって、組織だって徹底して行ったわけではない。

    「巻別目次」が完成した段階で、それを50音順に並べてみることを思い付いた(50音別目次)。その際、同じ題名を2個所に置く場合があった。例えば、
    女のなっとふ賣」を女の「」に置くだけでなく、「なっとふ」の「」にも置いた。つまり、ある項目が2個所に置かれていることがある。
    そうすれば、「納豆賣」と「女のなっとふ賣」が並ぶことになる。しかし、このようにした場合の欠点は、50音順が乱れるということである(細字を用いたりして、50音順からの逸脱を出来るだけ分かるように工夫はした)。わたしは、関連するものが並ぶという方のメリットを重視してそういう処置をした。約60件についてそうしている。

    清水晴風『世渡風俗図会』の目次の順に、各ページにある「次へ」で移動していって、見ていくという読み方が基本であるが、かなりのページに置いてあるリンクをクリックし、リンク先に飛びながら読んでいくのも面白いはずである。第一~五巻は明治以前、第六~八巻は明治時代、ぐらいを頭に置いておけばよいです。

    ◇+◇

    各巻ごとの絵図の枚数は次のようであった。ただ、見開きの絵を2枚と見なすかどうか微妙なところがあるので、2~3の数字の瞹眛さは存在する。

    合計
    6654834647929692577

    卷一~巻五には、合計297図ある。それらは江戸時代の風俗を写したものであるが、その内のかなり多くが『人倫訓蒙図彙』、『あづまの手ぶり』、『人物草画』、「広重人物画稿」などからの模写である。巻六~巻八には合計280図を収め、いずれも明治時代の風俗を写したもので、晴風オリジナルである。

    第3節で述べたように、わたしの調査では「模写」数は、第一巻に34,第三巻に77の合計111あった。他の巻には見つけていない。
    『街の姿』の解題(太平主人)は、次のように述べている。
    『世渡風俗図会』は中本八冊、全二九一丁、五八一図を収めるが、第六,七、八の三冊に収める二七九図は、すべて明治の風俗である。従って江戸のものは三〇二図で、本書(街の姿)よりその数は多いが、第一冊所載の七一図は『人倫訓蒙図彙』、僧古閑筆『人物艸画』(享保九年刊)等からの写しで、元禄から明和、安永期のものである。この他七〇図ほども、『江戸職人歌合』(文化二年刊)、『あづまの手ぶり』(文政十二年刊)、鮮斎永濯『温故年中行事』、それに崋山や広重の画稿からの写しで、他書に見ぬオリジナルな図は一五〇図ほどで、この国会本(世渡風俗図会)にあって本書にない図は下の三十二図である。(以下略(『街の姿』p23)
    「第一冊所載の七一図」は、わたしの数え方より多いが、見開きの図をすべて2図と数えているのだろう。それにしても、それら全部が「写し」であるとしているので、いまだわたしが見つけていない「写し」が40図ほどあることになる。




    【以上】
    き坊 2017-10/26

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