歯磨をめぐって |
《1》 歯磨の起源 どうやら人類は原始時代から歯や口の手入れをやっていた、と考えられる。抜歯や歯を削るなどの加工風習(歯牙変形というらしい)が太古からあったように、人類は口腔の手入れについて早くから意識的であったようだ。歯の間に何かが詰まったとき手近の細い枝や茎で突っつきたい気持ちは、現代人の私たちと遥か太古の人びととそれほど違いがないのだろう。指に塩をつけて歯をみがく、指に紐を巻き付けてみがく、布や海綿を用いて歯をみがく、様々な小枝・草の茎を用いる歯磨などの多様な方法が行われて来たことは確かなので、人類は自然発生的に、どの地域のヒトも歯磨(それに類するもの、口腔清掃)を始めていたと考えられる。「ナショナル・ジオグラフィック」(2013-10/24 ここ)は、初期人類ホモ・ハビリス(160万年前まで)およびネアンデルタール人(2万年前まで)の口腔清掃について述べている。 スペイン、Institut Catala de Paleoecologia Humana i Evolucio Social(IPHES:人類の古生態学と社会進化のカタロニア研究センター)のチームによれば、数万年前に絶滅したネアンデルタール人は、楊枝で食べカスを掃除しながら、歯周病の痛みも和らげていたという。この習慣は、槍の使用より前に始まっていた可能性が高いと研究者は考えている。 ネアンデルタール人は現代人と同様、歯の間に 詰まる食べカスを快く思っていなかったようだ。 Photograph by Ira Block, National Geographic 文献的に判明している歯磨の歴史は、古代エジプトやバビロニアへさかのぼるという。古代インドでは「ニームの木」(センダンの一種)の小枝をかみつぶしたもので歯を磨いたという。サンスクリット語ではダンタ・カーシュタ(Danta-kashtha、直訳は「浄歯具」これが英語のデンタル(dental 歯の〜)の語源だそうだ)。楊枝ないし 日本での歯磨の歴史でよく参照される考古学者・清野謙次(明治18年1885〜昭和30年1955)が古墳時代の歯に「側面摩耗」を見出したという記述を見ておこう。清野謙次『日本原人の研究』(岡書院 大正14年1925 ここ)に次のようにある。 今日でも日本人の或る者の歯には、側面摩耗が現はれて居る。之れは歯根から現はれて居る歯冠部の側面、即ち頬粘膜に接する面が、著明に平かに摩り耗らされて居るのを意味する。統計を取って見ないと分からぬが、京大医学部解剖学教室所蔵の数百個の現代日本人骨中、二個著明なる例があると足立先生(足立文太郎1865-1945 解剖学 京大教授)が語られたから稀なものに相異無い。清野謙次は「呑気な好人物」という言い方をしているが、「古墳骨」のなかにときに「側面摩耗」を示す頭蓋骨が見出されることを証言している。それは、歯磨を習慣にしていた人がいた証拠であるというのである。現代日本人の中にも稀にあると足立文太郎が証言している。 清野謙次はもともとは京大医学部出身の医師であり、ドイツ留学中に開始した「生体染色法の研究」で知られる医学者である(帝国学士院賞 大正11年)。それと同時に、少年時代から始めていた考古学発掘で、早くから考古学者の間に知られていた。医学者としての知識を生かして人骨測定を組織的に行い、日本の人類学・考古学を主導する学者の一人となった。次に引用するのは、戦火はげしい中で校正を進めた『日本民族生成論』で、その「序」には「昭和十八年十二月下旬」と記している。実際の出版は、戦後半年ほどの昭和21年2月20日。 ただ此時代に(古墳人骨に)私の発見した歯の人為的変化としては側面摩耗がある。これは備前国西軽部村の石棺から発見せられたる二例に見られたものであったが、犬歯よりも後列の歯の側面(頬面)に浅く平たく横走せる溝が各歯の歯冠部に存在して居る。これはたとへば砂利の様な不良歯磨粉を使用して過度に歯の側面を摩擦した結果として生ずるのであって、近代の日本人骨にも見ることがある。人為的に生じたのであるが、抜歯や歯加工とは異なって、意企的に故意に生じたものでは無く、歯と口腔を清掃せんとして出来た副産物なのである。(『日本民族生成論』日本評論社1946 p219)先の大正14年の書物と同じ主張である。これらによって、仏教と共に伝わったインド発祥の歯木による歯磨とは別に、わが国において遅くとも古墳時代から歯木を使う口腔清掃に熱心な習慣を持つ人が存在していたことは確実である。 (ところが詳細は不明なのだが、清野謙次は京都の古寺から教典や古文書を盗む窃盗事件を起こし(昭和13年)、逮捕され控訴審で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受けた。そのため京大教授を免職になるが、社会的に葬られることなく太平洋協会(国策調査研究機関)の理事となり、また、731部隊の病理解剖の最高顧問になっている。なお、731部隊長の石井四郎は京大医学部で清野に卒業研究の指導を受けている。 清野謙次は膨大な著書を残しているきわめて多才な人間である。戦後も多くの著書を残しており、大著『日本考古学・人類学史』(上・下 岩波書店1954)がある。太平洋協会の実質的運営は鶴見祐輔であり、清野謙次を呼んだのだとされる。太平洋協会は大東亜共栄圏のイデオロギー上で南方部分を受け持ったということだろう。清野には『南方民族の生態』1942(ここ)、『インドネシアの民族医学』1943、『太平洋民族学』1943(ここ)などこの分野の著作も豊富である。 大東亜共栄圏・731部隊などと親和的であったというだけで、清野謙次を切り捨ててしまうのは誤りであると思う。江戸期以前の考古学の伝統に丁寧に目を向けている仕事や太平洋諸島の民俗の記録など、評価すべき点が多いことは間違いない。) 《2》 『日本霊異記』の「楊枝」と、『正法眼蔵』の「洗面」 目次 多くの宗教で、礼拝の前に体を清潔にし・洗面し・口中を清潔にしすすぐというような儀式を置くことが見られる。古代インドの小枝を噛みつぶして口をすすぐ習慣が、仏教とともに中国を経て日本に渡ってきたと考えられている。(楊枝が日本へ伝わった)その年代は明かではないが、おそらく平安朝時代に行われた密教の潅頂式(頭頂に水をそそぐ儀式)の「楊枝の儀」に用いる楊枝が民間に伝わったものであろうといわれている。(『ライオン歯磨八十年史』序章その2「わが国における歯刷子の歴史」)古代インドにおいて、仏教儀礼の一部として歯木(楊枝)が取り入れられていたことは確かなので、わが国には仏教伝来とともに「噛み楊枝」で口中をすすぐことが知られるようになったことはまちがいない。ただし、そのこととは別に、清野論文が示すように、日本列島に住む人びとの間には「歯磨楊枝」を使用して「側面摩耗」を生じるほどの習慣をもつ人も既に存在していた。清野論文は「既に奈良朝以前に於いて」と述べている。 以下、『日本霊異記』と『正法眼藏』において楊枝使用が明記されていることを示し、日本では仏教僧侶の間で楊枝が用いられていたことを確認する。 景戒『日本霊異記』(平安時代初期弘仁年間・9世紀初めに成立した)に「楊枝」が登場しているということを松田裕子ら『改訂 歯ブラシ事典』(学建書院2001)で知り、調べてみた。わたしは『日本霊異記』2カ所で見つけたが、そのうちの下巻「序文」の方を紹介する(他の1カ所は上巻第26話「持戒の比丘、浄行を修して、現に奇しき験力を得る縁」。岩波「 日本古典文学大系」70の読みを使用するが、漢字は読みやすいものに変えている)。 下巻の序の中に、「比丘斎食おはりて後、楊枝を噛み、口を 昔ひとりの比丘あり。山に住みて坐禅す。斎食の時ごとに、飯を分かちて烏に仏教哲学の基本理念のひとつに「因果」ないし「因縁」がある。「無記」とは、因果関係のうちで善悪の範疇を超えた因果関係のことをいう(善でも悪でもない「無色透明」な関係、というニュアンスか)。その「無記」は別の「無記」と因果法則でむすばれている、と筆者は述べている。「無記」同士の関係性さえ厳重な因果で結ばれているのであるから、まして、悪心が起こした因果は悪い結果に厳重な因果で結ばれていることは言うまでもない、上の例話が主張したいのはそういうことだ。 その例話が妥当な論理であるかどうかは別問題として、比丘が行うべき戒律に則った食事作法として「斎食おはりて後、楊枝を噛み、口を 道元は『正法眼蔵』(13世紀成立)洗面の巻で、まったく呆れるほどの詳細さで、顔を洗い、歯を清潔にすることを延々と叙述している。「洗面は西天竺国よりつたは つぎにこのあと舌をきれいに「こそぐ」ことに及ぶのだが、引用は略す。「四指」は、指を4本並べた幅の長さをいう。なお、後に歯ブラシを扱うときに、もう一度『正法眼蔵』を参照する。 寺島良安『和漢三才図絵』(正徳二年1712成立)の第二十五巻「容飾具」に「楊枝」がある。 楊枝「律」は仏教の戒律のことで、戒律を述べた経典のこともいう。「僧祇律」は正式には「 漢文脈であるから「牙歯中の滞食を剔刷す」とものすごい言い方だが、歯に着いたり挟まってる食べ物のカスをほじくり、こすり取りなさい、と当たり前のことを述べている。「律」のような古い経典はインドで成立し、いわゆる南伝仏教といわれるものは戒律を非常に厳格に守る。中国を経て日本に伝来した仏教は、悟りなどの精神論を重視し、戒律厳守が序々に崩れていった。ともかく、「律」に楊枝が出ているのは、歯木(楊枝)が古くインドに始まる仏教の流れに乗って日本まで到達したことの有力な証拠であると考えてよい。 柳が歯の薬となると広く信じられていたことから、「楊枝をかんで、その汁を飲む」という記述がなされた。『和漢三才図絵』の第八十三巻「喬木類」に次のようにある。 柳枝 風を去り腫れを消し痛みを止む。浴場膏薬、歯牙の薬と先に紹介したインドのニームという木は薬用植物として有名で、現代においても楊枝はもとより各種の民間療法に使用されている(『改訂 歯ブラシ事典』に撮影者・撮影場所・撮影年月日を明示した写真があるので、使わせていただく)。 ニームは、インド原産の栴檀科の常緑樹で、アジア、アフリカ、フィージー、南アメリカなどに分布する薬用木で、別名「ミラクル・ハーブ」、「森の薬局」とも呼ばれている。上で、『和漢三才図絵』を援用して示したように、 なお、20世紀に入り歯木に代わり歯ブラシが広く普及するようになったが、歯木の材が担っていた薬用成分は「歯磨粉」に混ぜるという方向へ進んでいった。引用は省略したが、『改訂 歯ブラシ事典』には、上引の写真に続いてニームの薬用成分を用いて作られた歯磨剤などが紹介されている。 河内長野市の楊枝メーカー「広栄社」のサイトは一見の価値あります(つまようじ資料室)。 《3》 江戸の歯磨粉 目次 わが国で庶民階層の間に歯磨の習慣がいつ頃から広まり定着したのか、よくわからない。平安時代から「歯固め」の風習(正月の儀式として、堅い物などを食べて長寿を祈るなど)は広く行われていたらしく、古くから歯が健康・長寿などと関連して意識されていたことは間違いない。「歯」には「よわい」の訓がある。商品としての歯磨粉のはじまりは、 歯磨のはじまりは、寛永廿年(1643)丁子屋喜左衛門朝鮮人の傳を受て、これを製しけるより、近来に至りて世上に種類多し、されど喜左衛門が家を元祖江戸一番問屋と称す。昔は大明香楽砂と号し、歯を白くする、口中あしきにほひをさると記したる一袋行はれけるが・・・・朝鮮人から製法をきき、丁子屋喜左衛門という商人が「大明香楽砂」と名づけて歯磨粉を売り出したのがはじまりだとしている。これを江戸での歯磨粉のはじまりとすれば、京阪地方のほうではそれより以前に歯磨粉が販売されていた可能性がある。江戸時代も初期は京阪が文化的中心であり、上方文化が新興の武家都市・江戸へ流れ込んでいったからである。江戸時代中期以降は江戸が文化的にも中心となり、殊に文化・文政期(1804〜1830)には江戸が文化的に成熟した、いわゆる江戸文化の頂点をなした。 『道聴塗説』はもう一度とりあげるが、大郷信齋が上引記事を書いたのは文政十二年1829のことで、まさしく化政期の江戸文化が成熟しきっている段階にあって、江戸前期の寛永二十年を振り返って歯磨粉のはじまりを証言しているのである。 次に紹介するのは、大阪で享保十五年(1730)初版ができたとされる『絵本 水平な平面の屋根を持つ、露店のような店のノレンに「はみかきや」と書いてある。3人の男たちが店に来ているが、どうも彼らは連れのようではない。右手を挙げている男は左手を露店の柱に掛けており、主人と何か問答をしているらしく見える。主人は細い竿をもっているが、白鼠に芸をさせているのだろう。鼠がくぐり抜けるのか水平の竹籠があり、滑車に箱がついた仕掛け(「井戸」と呼ばれるものか)もある。 中の見える引き出しには、紙包らしいものが多数入っており、これが商品の歯磨粉なのであろう。白鼠(二十日鼠)に芸をさせて客を集め、歯磨粉を売っている店である。店内の3文字「入は仕」は「入歯仕ります」の意だろう。 画像の上部の狂歌は 歯磨粉を買って歯をきれいにする人は多いが、心の垢を落とすことが大事であることに気づいていない、というような事だろう。 『絵本御伽品鏡』は国会図書館でデジタル公開されている(ここ)。全部で60頁ほどの冊子。なお、これを活字に解読してくれているのは日本庶民生活史料集成 30巻『諸織風俗図絵』(三一書房1982)(「正編」は図版のみ、「別冊」が解題と活字翻刻) ついでながら、江戸時代の中期(18世紀後半)に京阪地方で鼠の愛玩用飼育がブームになっていたことを記しておく。文献を紹介する。
・『珍玩鼠育草』(天明七年1787 京都で出版)(白鼠の飼育法、交雑研究の記録として後に世界的に注目される) ・寺嶋俊雄「ミュータントマウスを愛玩した江戸文化の粹」(ミクロスコピア 1992)(その1、その2、その3) ・安田容子「鼠飼育−『養鼠玉のかけはし』を中心に」(2010、東北大学国際文化研究) 安田容子の論文は、江戸時代には趣味の小動物飼育や園芸植物の流行があり、特にそれらの「奇品」と呼ばれるものが高額で取引されていたこと、その中で鼠飼育も流行していたことなどを述べてあり、有用であった。 大郷信齋(安永三年1774〜弘化元年1844)は林述斎に学んだ儒学者、鯖江藩に儒者として仕え、鯖江候・ 『道聴塗説』から、同じところを再度引用する。文政十二年1829の記事である。 春の目出たきためしに、江戸中の歯磨を角力に取組み合わせて、八十種を献進す。歯磨番付に並べたのが80種あったというのだから、取り上げなかった歯磨粉をふくめれば、江戸市中に出回っていた全体は100種を超えていただろう。たしかに「新奇を競ひけるなり」と言ってよかろう。 日本審美歯科協会というところ「歯のおはなし」には歯磨粉の商品名が並べてある。 知名度の高かった歯磨は文化年代(18704〜1817)には「おもだか屋歯磨」、伊勢屋兼康制「梅見散」、兼康制「松葉しほ」、式亭三馬製「箱入御はみがき、梅紅散、井口の歯磨」、尾上菊五郎製「匂ひ薬歯磨」など、文政年代(1818〜1829)には、為永春水製「丁字屋歯磨」、美濃屋製「一生歯のぬけざる薬」、小野玄入製「固歯丹」、萬屋製「含薬江戸香」、式亭小三馬製「助六歯磨」、長井兵助製「清涼歯磨粉」、百眼米吉「梅勢散」などがある。長井兵助や百 《3の付録1》 「永井兵助」 目次
《4》 房州砂 目次 平賀源内(享保十三年1728〜安永八年1780)が作製した「平賀源内のアイディアは、従来の20袋を一箱にして安く売るということ、まとめて売るので、売り手もすこし利益が出る。色々な名前を付けて歯磨粉を売っているが、歯磨粉は要するに房州砂に匂いをつけたものに過ぎない、と言っている。 房州砂については下で詳しくのべるが、房総半島に産する良質な陶土で、「 上の平賀源内の引札より半世紀以上経た化政期に、物産家によって再び房州砂が記録されている。佐藤成裕『 歯磨の沙は、房州より出る故に房州沙と云ふ。この沙、水「房州沙」と「房州砂」の語感はだいぶ違う。「砂」を使われると歯磨粉がジャリジャリしているように感じられる。もちろん実際の歯磨粉はそんなことはなかった。ただし、「房州沙」を使ったのは『中陵漫録』だけで、通常は「房州砂」である。 江戸では房州砂を原料としたが、「諸国おのおのその土地より」白砂を製して用いた。「浮石 ふせき、うきいし」は、 「東都のごときはなし」と言っているから、房州砂をもちいた江戸の歯磨粉が一番良かったと佐藤成裕は評価したわけである。また、全国各地で(「諸国」で)歯磨粉の使用が広まっていることも分かって、興味深い。先に示した『絵本御伽品鏡』の「はみがきや」は大阪の例であった。 小野蘭山『重修本草綱目啓蒙』(享和三年1803 李時珍『本草綱目』を参考にしつつ、小野蘭山が弟子たちに講義した講義録)の「三 土」には「白亜 (白土)」という陶土に関する記述の中に、房州砂が登場するので、紹介しておく。 白亜このように、「白亜」ないし「白土」と呼ばれる土は全国あちこちに産出し、すぐれた陶土として利用されていた。そのうちで、特に房州砂は「歯磨砂」として名が広まっていた。(異称)肥前伊萬里及唐津にて、茶碗類を焼くを本山茶碗と云。其上品は、南京の偽物とす。此処に用る土なる故に、「南京つち」の名あり。(中略)其他ゥ州よりも出れども、肥前を上品とす。安房より出るものは、「房州砂」とも「齒磨砂」とも云ふ。信濃にもあり。江州 房州砂は房総半島南部の館山地域から産出し、江戸前期から歯磨粉の原料として利用されていた。明治・大正期にかけて鉱物資源としてさかんに採掘され、歯磨粉だけでなく磨き砂、「 川上俊介・宍倉正展「館山地域の地質」(産業技術総合研究所 2006 PDFファイル ここ)が学術的で詳細な情報を提供してくれる。 館山地域の採掘資源としては,上記の「白土」がある.白土とは白〜淡いピンク色を示す極細粒の珪長質酸性凝灰岩である.白土はガラス質火山灰層であり,水に対する膨潤性に富み粒子の淘汰が良く極細粒である事から研磨剤や歯磨粉の原料として利用されてきた.ほかに精米用の磨き砂,ビール瓶などの着色料,瓦やセメントなどの建築資材などとして多様な利用がなされてきたが,大正関東地震による採掘坑の崩壊や需要の低下から多くが廃坑となった.(前掲論文のP42 第11章応用地質)「粒子の淘汰が良く」というのは粒子径がそろっていること。「珪長質」とは石英や長石に富むということ(ケイ素系)を意味している。「凝灰岩」は一般に火山灰が凝結したものを言うが、それがいったんガラス質に溶融した後に、極微細粉となり粒子がそろっている。きめ細かい白い粘土質ということである。後の議論のために、同じ白い粘土質であるが、石灰岩系(カルシウム系)の陶土とはまるで異なることを頭に入れておいて欲しい。 この原料の白土を一旦水に溶き、その上澄みを集めて乾燥させて歯磨粉に使ったという。『中陵漫録』が言うように、この上質な粘土を原料にして作られた歯磨粉はとても上等なものができたのであろう。 《5》 房楊枝の店 目次 次図は花王のサイトにあるもので、房楊枝などの各種映像が含まれるので掲げた。小皿にのっているのは歯磨粉である。小枝の一端をかみ砕いて歯磨の道具とするという昔から行われていた方法が洗練されて房楊枝となったと考えられる。今われわれが知っている、毛を植えたブラシ式の歯磨(歯ブラシ)は、明治以降西洋から入ってきたものである(後述)。 花王の古今東西「歯みがき」のお話 に置いてある「昔の歯みがきの道具」 エドワード・S・モース(米国 動物学者 1838−1925)が腕足類(貝類)の研究で来日したのは明治10年(1877)6月18日で、横浜上陸後、初めての上京の際、汽車の窓から大森貝塚に気づいたのはよく知られている。彼は日本での生物採集を許可してもらうために文部省に出向き、そこで、創立されたばかりの東京大学の動物学・生理学教授になることを要請された。7月に教授に就任。江ノ島に臨海実験所を作り、生物採集と標本作りに没頭する。 モース『日本その日その日』の初めの方に、明治10年夏の江ノ島での活動が豊富な挿絵を交えて記してある。その中に、「楊枝」のスケッチが出てくる。 洗面した時、我々は真鍮製の洗面器の横手に、木製の楊枝が数本置いてあるのを発見した。それは細い木片で、一端はとがり、他端は裂いて最もこまかい刷毛にしてある。これ等は一度使用するとすてて了うものだが、使えばはけの部分がこわれるから、いつでも安心して新しいのを使うことが出来る。(『日本その日その日』石川欣一訳 東洋文庫(上)p130)モースは実に多才な人で、巧みなスケッチをし、講演が上手で、左右両手で同時に黒板に素晴らしい絵を描いたという。『日本その日その日』は、明治十年代の日本をこまごまと、しかも、挿絵が多く楽しく読めるように書いてある。なによりも、モース自身が本心から日本に惚れ込んでいたことが伝わってくるのが、素晴らしい。一読をお勧めします。 江戸では歯磨粉が多種製造され流行したというだけでなく、当然、楊枝販売も盛んであった。男性用の楊枝は房の部分が小さく出来ている。女性用は、お歯黒がはげないように、房を長く柔らかく作ってあった。 先に紹介した『ライオン歯磨八十年史』から。 ようやく歯磨の種類がふえはじめた江戸時代に及ぶと、歯みがきの用具としての楊枝も、いろいろの種類のものが多数つくられて、浅草を初めとして各所に楊枝を売る店ができ、歯磨とともによく売られたようである。その現れは、黄袋の歯磨入れに灌木の楊枝を突きさして、それを 「浅草観音の奥山にはこのような楊枝店が軒を並べ」ていたという同時代の図が『江戸名所図会』(寛政期1790年代に編纂がはじまり、天保年間1830年代に刊行)「巻之六」に出ている。銀杏の巨樹の下に何軒も楊枝屋が出ていた。図の左下の看板には「御やうじ所 本やなぎ屋」とある。 この図はとても興味深いもので、当時の奥山の雰囲気がよく分かる。画の上には説明文が有り(上図では省略している) 楊枝店 境内楊枝をとある。楊枝店がとても多いこと、しかもどの店も「柳屋」を称して自分が「本源」であることを宣伝していると。(「楊」も「柳」も「やなぎ」であり、第2節で論じたように、柳は薬用木としての効能を踏まえて「楊枝」として利用された。インドのニームも同様である。それで、多くの楊枝屋の店名に「柳」が使われたのも納得がいく。なお、木の小枝で作られた楊枝という意味で、「 ついでに、鶏が図中に4羽描いてある。浅草寺境内には鶏が多かった。その理由も『江戸名所図会』の同じ「巻之六」に出ている。 酉の市の「旧例」によって浅草観音の境内に鶏が放し飼いになっていた。奥山の店では常に鶏のエサも売っていたという(古くは「酉の祭」の意で「酉のまち」といい「酉の町」とも書いた。例えば広重「名所江戸百景」では「浅草田甫酉の町詣」となっている)。 この鷲大明神社は、現在は 浅草奥山の大銀杏の下にあった楊枝屋のひとつ本柳屋の看板娘・お藤と、谷中の感応寺の笠森稲荷にあった水茶屋のお仙の優劣を比較した太田南畝の戯文が「 「飴売土平伝」(分かり易いのでこのようにも書かれる。舳羅山人(太田南畝)の戯文で、序文は風来山人(平賀源内)。『ライオン歯磨八十年史』p33は、誤って「平賀源内の戯著『飴売土平』」と書いている。)の初めに「笠森お仙」の春信による挿絵があり、「お仙お藤優劣の弁」の初めに、春信による「 女2人男1人の客が本柳屋に近づいてきた。店に座るのが銀杏お藤である。お藤の前に石臼がある。これで歯磨粉を作るのだろう。棚には様々な楊枝が並んでいる。奥に見えるのは「楊枝 本柳屋」、「酒中花」。店先にある看板には「源氏 にほひふし 仁平治」(この意味は分かりません。別の春信に「源氏 香ひふし 本柳屋」とあり「匂ひふし」ともある。「ふし」はお歯黒に使う「
式亭三馬閲 歌川豊国著『絵本 次図は、店の部分を切り出したものである。 店の中に「やうじやの娘」が描かれていて、姉さんかぶりをして、房楊枝を作っている。太い丸太の輪切を台とし、小さい木槌で房楊枝の頭を打っている。丸太の側の床に幾本もの作業中らしい楊枝が置かれている。他の登場人物に比べて、この娘の着物は地味で、作業着であることを示している。こういう実際的な作業場面が描かれているのは珍しい。この絵がどれだけリアルなものか分からないが、楊枝屋の看板娘と言いながら、客に媚びを売るだけの女性という存在ではなかった可能性がある。 左手の看板には「かん木 御楊枝所 名代 根元 やなぎや」と書かれている。上で「潅木楊枝」という語について説明しておいた。「根元 やなぎや」が「本柳屋」を指すのかどうか、わからないが、姉さんかぶりの娘の上に差し出ているのは銀杏の葉のように見えるので、「銀杏お藤」として良いかもしれない。それに、暖簾には「柳屋」がある。 店の中の棚にはたくさんの多様な房楊枝が陳列してあり、紙包みは歯磨粉であろう。奥の壁の額には水を張った大盃に紅の花が3輪浮いているのが見えるが、これは「酒中花」の看板である(半分見える文字は「花」)。 店の前に居る女性2人は「お小性(姓)」(文字は足元にあるのでカットされている)。右に手を取り合っている女性が描かれているが、実は3人連れで、3人が手を取り合っている。「若としより」と説明がある。(やや年かさの女性ということなのだろうが、3人が手を取り合っているというのが何を意味するのか、分かりません。わたしがカットしたために上図には省かれているが、その3人の更に右にひとり、文字の書いてある扇をもっている女性がいる。画面の一番左に、「いちこ」と説明の付いた笠をかぶった地味な服装の女性がいる。) 《6》 歯ブラシ 目次 道元は『正法眼藏』に、自分が宋で見聞してきた歯磨の状況を書き残している。さきに引用した「洗面」のつづきの部分である。しかあるに大宋國、いま楊枝たえて見えず、嘉定十六年癸未(貞応二年1223、このとき道元24歳)四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺を見るに、僧侶の楊枝を知れるなく、朝野の貴賎おなじく知らず。僧家すべて知らざるゆゑに、もし楊枝の法を13世紀の宋では、僧侶が楊枝を使っていなかった。牛の角に馬の尾を植えたものを使う者があった。・・・・・これは歯ブラシである。道元はケモノで出来た用具を口中に入れるので「不浄の器」とし、大乗の教えが廃れている状況を軽べつして記述している。 中国で、歯ブラシが使われはじめたのはさらにさかのぼる。『改訂 歯ブラシ事典』に次のような記述がある。 1953年、中国で、959年ころの墓葬の出土品の中から発見された歯ブラシの柄は象牙で出来ており、植毛の跡と思われる穴が8つあいていた。植毛については、腐敗していて抜けており、なんの毛か分かっていないが、馬毛であったのではないかと推測されている。(このあと『正法眼藏』の洗面の巻が引いてあり、道元が宋に渡った13世紀末には楊枝の使用は廃れていたが、歯ブラシに似た器具の使用があったようだ、と述べる。)当時の中国で、一部に今日の歯ブラシに似た器具を用いた歯磨の習慣があったことがうかがえる。 小論では、日本での(それも江戸時代の)歯磨について調べるつもりであるから、ヨーロッパでの歯磨については手を伸ばさないことにする。『改訂 歯ブラシ事典』もそれ程詳しくは扱っていない。 西洋での歯ブラシの使用は、17世紀ごろのフランスで、獣骨の柄に馬毛が植えられたものが使われていたと伝えられている。したがって、このころから歯ブラシの製造がはじまったものと考えられる。しかし、記録としては、1640年、イギリスのハノヴァ選帝侯夫人の『ソフィアの伝記』に歯ブラシのことが記されているという。また、イギリスでは、1780年に獣骨に穴を開けた柄に、獣毛を針金で止めた歯ブラシがつくられている。そしてこれを機に各国で多くのものがつくられるようになり、発展したといわれている。(前掲書p8)日本に西洋から歯ブラシが入ったのは、イギリス製のものがインド経由で来たのが最初らしい。それを模倣して大阪で「鯨楊枝」というものが造られた。 1872年(明治5年)、大阪の田部某ほか2〜3名が、共同事業で、鯨の鬚の柄に馬毛を植えた「『ライオン歯磨八十年史』には、自社での歯ブラシ製造・発売に至る過程を次のように述べている。 明治にはいり、ようやく、急激な外来文化の輸入の影響を受けてわが国では歯 西洋風の歯ブラシを使う好い絵がないので、英泉(寛政三年1791〜嘉永元年1848)のよく知られている「浮世 四十八手」のひとつを掲げる。 総楊枝を使う女が肩を柔布で包んで前で縛っているのも艶めかしい。左手に赤い袋の「御はみがき」粉を持っている。この英泉の原画はボストン美術館(ここ)から、ダウンロードした。わたしはだいぶトリミングして掲げている。そのため見えていないが、文字は「浮世 四十八手 夜をふかして 朝寝の手」朝顔の鉢を持った姐さんが若い女を「今頃歯磨かい」と嫉妬半分で睨んでいる。英泉の素晴らしさがよく分かる。 《7》 精米の際に少量の搗粉を加えて搗くと、搗き上がりが早くなることは江戸時代から知られていて、実際に使用されていた。また「早搗粉」とも言われていた。次図は「江戸年中風俗之絵」の「大道米搗」である。(橋本養邦「江戸年中風俗之絵」は国会図書館がデジタル公開している。養邦は橋本雅邦の父で、武蔵国川越藩の御用絵師であった。歿年 弘化四年1847(生年は不詳)。幕末の江戸の庶民生活、職人風俗を描き残してくれた、すぐれた作品で貴重である。国会図書館のコマ番号[2][28]) 玄米の上にリングを置きそこに杵を打ち下ろすのは、臼の中で米の循環がスムーズに行われ精米が効率的になるという工夫。図の大道米搗きたちが搗粉を使用しているかどうかは分からないが、細粉を数%混ぜて搗くことで搗き上がりが早くなる。 後ろにある箱を積み重ねたような器械は、搗いた玄米を上から入れて、米とヌカを分離する装置であろう。桶に真っ白い精米が出てきている。なお、固定店舗の搗米屋では足踏み式の杵を使っていたようだ。 精米によって得られる真っ白な米粒が消費者に喜ばれるのであるから、精米業者は精米の仕上げとして「白亜」(白土)を化粧砂と称して少量振りかけることも行われた。白米の商品として見栄えをあげるためと同時に、重さを稼ぐことにもなった。 佐伯 精白の際に混入する微細砂にはふたつの目的があり、ひとつは「搗粉」として搗作業の経済性であり、もうひとつは「化粧粉」としてできあがりを「雪白」に見せるねらいがある、としている。(佐伯矩(明治19年1886〜昭和34年1959)は、アメリカで生理学・生理化学を修めて帰国し、大正3年(1914)に私立栄養研究所を創立した。そののち研究所は内務省に属して国立となり(大正9年1920)、現在は独立行政法人国立健康・栄養研究所(大阪府茨木市)。佐伯矩は日本で栄養学を創始した人物。栄養学だけでなく食糧政策についても持論を展開した。米については「七分搗、無洗米」を標準米にすることを主張し、「精白」と「 当然、この混入物質について、食べて有害ではないかという疑いが早くからもたれていた。より深刻に考えられていたのは、糠を飼料として使う場合である。自家で飼育している牛や鶏が、搗粉として混入された細粉砂の大部分を引き受けて食べることになるからである。 上の論文に「搗粉」について歴史的に振り返っている箇所があるので、参照しておく。 搗粉の歴史を考察するに、これが用ひ初められたるは徳川時代の後期にして、即ち嘉永年間(1848〜54)尾張・駿河に出現せるものを以てその起始とす可きが如し。爾来各地に流行し、明治10年頃には全国至る處使用されざるは無きの状をを呈するに至り、此に於いて大変興味深い貴重な情報が含まれている。まとめておくと、
(2) 明治13年に使用禁止が発令されたが、明治17年には解除された。 (3) 内務省東京衛生試験所は化学試験によって、「房州砂」および「混砂淘洗米」は有害ではないことを、数度にわたり発表した。 (4) 昭和7年時点で、玄米の3〜4%の搗粉を使用して精米するのが通常である。 (広島縣布)13年10月7日第213号 近頃米穀を精白するに早搗粉と称し結麗土とは、蘭語「ケレイト」に対して「結麗土」を宛てた、白土・豊後土・ 上の布達の趣旨は、精米の際に白土などを「早搗粉」として用いるのは、胃に悪く健康の妨げとなる。特に牛馬は多量に摂取することになる。今後は搗粉の使用を禁止する、というものである。「牛馬」などは糠などに混じっている搗粉を全量食べてしまう可能性がある。人間の場合は炊く前に米を「とぐ」ので、仮に搗粉が米粒表面に付着していてもほとんどが洗い落とされてしまうであろう。 この布達は、胃を悪くするという確かな事実があって発せられたと言うより、搗粉および化粧砂を体内に入れるのは健康を損ねることになるだろう、という憶測から布達が発せられたのだろう。それで、数年のうちに判断が逆転して、布達が解除されたと考えられる。 しかし、「搗粉は胃に悪い」という評判は消えず、東京衛生試験所は搗粉を化学的試験によって調べて、搗粉には毒性はない、という結論を何度も出すことになった。 東京衛生試験所が行った化学的試験は、房州砂に有毒物質が含まれていないか、という試験である。銅・鉛・アルカロイドなどの毒物を念頭に試験をしたのだろうと後に佐伯矩は講演で述べている(下で紹介する「栄養学と其進境」昭和7年)。「混砂淘洗米の化学分析」とは搗粉を用いて精白した米を淘洗した場合に、有毒成分が残存しているか、という試験である。いずれも否定的な結果であった。それ故、搗粉使用は安全であるという見解が内務省東京衛生試験所から出されたのである。 昭和7年(1932)の佐伯矩らの論文は、食品への添加物の試験として、東京衛生試験所が行った化学的試験は不十分であることを正面から問うものである。搗粉そのものに有毒物質が含まれていなくとも、搗粉はあきらかに消化できない微細砂であり、それを日常的に体内に入れることが有害ではないかどうか動物実験がなされるべきである、という発想で佐伯らの実験が行われた。 実験動物としては「白鼠」(マウス)を49頭用い、1頭ずつ個別に金網カゴで飼育する。その飼料に搗粉(房州砂)を混ぜるのだが、対照群9頭のほかは、10頭ずつ4群を作り、毎日摂取させるべき搗粉を体重%で3%、1・5%、0・3%、0・03%の4群として飼育した。対照群には搗粉は混入しない。すべての白鼠が死亡するまで飼育しつづけ、その間、詳細に観察し、必要な解剖を行っている。(強制的に食べさせるわけにいかないので、個々の白鼠ごとに毎日の食べるであろう「予想飼料摂取量」を算出して搗粉の配合量を決めている。全数が死亡するのに22ヶ月掛かっているので、手数のかかる、とても面倒な実験である。) 「病理解剖学的所見」のうち「肉眼的所見」の一部を引いておく。 肉眼的所見中最も顕著なる変化を認めたるは、胃特に前胃なり。著明なるものに於いては、粟粒大〜大豆粒大の潰瘍様面を形成し、其の周囲に限局性乳嘴状肥厚或は灰白顆粒状肥厚を認めしむ。又潰瘍様面を形成することなく単に灰白顆粒状肥厚として或は乳嘴状として認めらるゝあり、汎発性肥厚状を呈するものあり。この実験により、搗粉(硅素性の房州砂)の混入は直接的に有害であること(上の論文の附記において「直達的有害作用」)が証明された。それを受けて、滋賀県が搗粉禁止を打ち出したそうである。 (小論では「房州砂」を主題としているために、搗粉をめぐって考えているが、日本の近代史の中では、搗粉混入問題よりも精白問題の方がずっと大きな社会的問題であった。脚気の原因がビタミンB不足であることが確定したのが大正13年(1924)だそうであるが、糠からの抽出物質が脚気に有効であるとして薬として発売されたのは既に明治44年(1911)のことであったが(都築甚之助の「アンチベリベリン」開発)、陸軍と海軍の対立もあり、事態の推移は複雑であった。海軍では「食物原因説」が強く、陸軍では「伝染病原因説」が強かった。佐伯矩は「無淘洗の七分搗米」を日本の標準米として食べるべきであることを繰り返し説いている。 上の論文以外に、佐伯矩の講演などが残っているが、「搗粉の有害性」については『栄養学と其進境』(明文堂 昭和7年1月、国会図書館ここ)の p17〜23が分かり易いので勧めておきます。搗粉や化粧粉が入っているとどうしても米を 搗粉が這入ったり、化粧粉が這入って居ると、其米を用ひる場合に、必ずそれを十分に磨いで洗はんければならぬ、磨いで洗ふと云ふことは、非常に莫大な損失である、例へば日本の主婦がやるやうに、三四回磨いで洗ふと云うと、蛋白質は大抵十五〜六パーセント流れてしまふ、大きい分量であります。それから含水炭素が二パーセント、それから脂肪が四十三パーセント、無機質が七十三パーセント、それから此頃能く問題になるヴィタミンと云ふものが殆ど全部此磨いで洗ふ為に流失する。(佐伯矩『栄養学と其進境』p20)しかし国会の審議では、“鼠で有害であったからといって、それを直ちに人間に適用できるのか”という反論があり、「生産者側の反対運動も相当盛んで」、直ちに法律を作って搗粉を禁止するというところまで行かなかった(p23)と述べている。 ) 清水晴風「大道米搗」 「世渡風俗図会」第4巻 《8》 宮澤賢治と房州砂 目次 《8・1》 宮澤賢治が生まれたのは明治29年(1896)。少年時代から石を集めたりするのが好きだったが、地質学の本格的勉強をし始めたのは盛岡高等農林学校に入学してからである(大正4年1914 賢治は農学科第二部首席入学している)。 農学科第二部の主任教授は関豊太郎で独・仏に留学して前年帰国したばかり(46歳)、専門は土壌学であった。賢治は入学時から指導を受け、たびたび関先生の引率で野外実修や研究旅行に出かけている。卒業研究の指導をも受けた(当時は「得業研究」と言ったが、その論文名「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」(「校本宮澤賢治全集」第十二巻(下)所収))。そして、大正7年3月卒業すると、「地質土壌、肥料」の研究のため、研究生として引き続き在学を許される。同年5月には関教授から実験助手(正式には「盛岡高等農林学校実験指導補助」)を嘱託される。 同級生たちが賢治の学業に関する思い出を述べている中に、次のようなのがある。 宮沢君は関先生の土壌学の試験は英語で答案を書いた。関先生が教室で「この組で英語で答案を書いた人がありますエー、満点をやりましたよエー」と言われたことがある。(大谷良之「賢治君を思う」)この時期、賢治は法華経信者として寮で早朝から大声で読経するような学生であったが、専門の学業方面では優秀な学生であった。研究生が終了する大正9年5月に関教授は父・宮澤政次郎に賢治を助教授に推薦する意向を示したそうであるが、「父子ともに実業へ進む考えがあったので、この話は辞退ということになった」(賢治24歳 校本全集第14巻p525)。 宮澤家は質屋・古着屋を営み、富裕であった。父・政次郎は勤勉・努力家で、理財の才に恵まれていた。第一次世界大戦の景気上昇の時期には、株式投資に才を発揮した。「政次郎は関西・四国方面まで買い出しに出たほど能動的で、もっぱら安くて小ぎれいな衣類の販売で店を拡張した」(堀尾青史、校本全集14巻p413)。 宮澤家は浄土真宗の信仰に熱心な一家であったが、研究生を終了した賢治が寮生活から帰宅して、法華宗入信を明かにしたために、父と激しい宗教論争が起こる。父子ともに譲らず、賢治の死(昭和8年1933 37歳)の直前に父が譲るまで続く(なお、父・宮澤政次郎は町会議員を長年勤める名士であり、昭和26年1951には調停委員としての功労により藍綬褒章を授与されている。昭和32年1957死去享年83歳)。 宮澤賢治は県立盛岡中学校の頃から短歌は作っていた。早熟で読書家であった。堀尾青史「年譜」が作品「家長制度」について、「最初の散文作品として注目される」と記しているのは大正5年(1916)盛岡高等農林学校2年生のときである(校本全集第14巻p472)。既述のように大正9年には研究生も終了し、賢治は無職の肩身狭い身の上となる。父・政次郎は長男・賢治に何らかの起業をさせたいと考えていたようであり、賢治自身は東京に出て「宝石業」を始めることを考えていた。その一方で父子の間には激しい宗教論争があり、大正10年1月に、賢治は突然上京する。これは一種の家出であり、当初は国柱会に住み込みで信仰生活を行う積もりがあったようだが、断られる。本郷に下宿し、東大赤門前の印刷所で校正係として働く。4月になり父が上京し、いっしょに比叡山に参詣旅行をする。父の方から和解が図られたわけであるが、賢治は一緒に帰省することは拒否し、上野駅に父を送る。8月に妹・トシ喀血の電報があり、帰郷するがその際、上京していた8ヶ月余りの間に書きためた原稿を詰めた大トランクを下げていた。「どんぐりと山猫」、「月夜のでんしんばしら」、「注文の多い料理店」などのなじみ深い作品が、この年(25歳 大正10年)に創られている。 妹・シゲの回想に そのころ兄は書きたいことが、次から次へ湧き出すようで、それがもどかしくていちいち字にはしていられないというような時が多かったようでした。(「回想」大正11年7月6日、校本全集第14巻p549)とある。この頃から創作家としての情熱が湧き上がってきているようだ。その一方で、父との一定の和解なのであろうか、大正10年の年末に 大正11年「春と修羅」が書き始められている。 この年に妹・トシが11月27日に死去、賢治の「永訣の朝」など、忘れがたい作品が生まれた。(トシは大正4年4月に県立花巻高等女学校から日本女子大学へ進学した。その背景には富裕な宮澤家の存在があったわけだが、すぐれて聡明な女性であったという。大正7年年末スペイン風邪で東大病院分院に入院、すでに結核にも罹病していたようである。母イチと賢治が上京して看病。大正8年3月賢治らとともに花巻へ帰郷。結核で闘病しつつ、3月末卒業証書を受け取る。同9年、母校・花巻高等女学校教諭心得となり英語・家事を担当していた。大正10年8月喀血し、退職。) 「銀河鉄道の夜」初稿が成ったのは大正13年のこと。この年、3月『春と修羅』刊行、12月『注文の多い料理店』刊行。 『春と修羅』について佐藤惣之助の評 (宮澤賢治氏)彼は詩壇に流布されてゐる一個の言葉も持ってゐない。彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた。奇犀、妙徹、そのるゐをみない。僕は十三年度の最大収穫とする。(「日本詩人」大正13年12月号)ただし、『春と修羅』は自費出版、『注文の多い料理店』も初版1000部で、父から借金して300部は賢治が引き受けている。両書ともほとんど売れなかったという。 大正15年1926 30歳 3月31日花巻農学校を依願退職。4月に羅須地人協会を設立。 花巻農学校の教諭職は4年半続いた。依願退職の本当の理由は分からないが、大正14年11月中旬に豪放磊落な校長・畠山栄一郎が転出して、几帳面な新校長・中野新佐久と替わったことがきっかけとなったようだ。弘前歩兵連隊にいた弟・静六への手紙で、 この頃畠山校長が転任して新しい校長が来たりわたくしも義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあったものですから・・・・(大正14年12月1日封書)と書いている。森佐一宛12月23日封書では「学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。伸びました。夏には村に居ますから・・・・」と書いている。 いずれにせよ、農学校の教諭としての生活が生ぬるいものと感じられていて、退職し、独居・自炊の生活を始めた。やがて羅須地人協会をつくり会員が集まり賢治を中心に農民講座がもたれ、レコードコンサート・演劇などが行われた。賢治の祖父喜助が別宅として建てた二階屋を改造して協会の建物とした。賢治は土壌や肥料のことについて、協会の講座で話すだけでなく、各地に講師として招かれることもあった。花巻地方では、土壌や肥料に詳しい先生として知られるようになっていた。 この年12月2日にセロを持って上京。オルガンの練習、エスペラントの勉強、図書館で調べ物など活動は多岐にわたっている。父に200円無心したりもしている。年末に花巻に戻った(12月25日に昭和へ改元)。 昭和2年(1927)2月1日の「岩手日報」は写真入りで次のように報じた。 花巻川口町の町会議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十余名と共に羅須地人会を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになった。地人会の趣旨は現代の悪弊と見るべき都会文化に対抗し農民の一大復興運動を起こすのが主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活にたち返らうといふのである。 (校本全集第14巻p614)農民劇「ポランの広場」や、協会員全員によるオーケストラ演奏などを企画していると。しかし、この頃「社会主義教育をしている」との風評があり、賢治は花巻警察署の事情聴取を受けている。 《8・2》 東北砕石工場 目次 昭和3年(1928)3月30日、花巻の 固い羅紗の鳥打帽、茶羅紗の大き目の洋服、大きなゴムのだるま靴、かばんを左にかかえ右腕を大きく元気よく振ってくる。この日の会場は柳原町長の尽力でポスターもはられ、照井源三郎の世話を下店先の八畳間と土間。既に10人余りの農民が待ちうけており、設計が進むにつれ、なお人がふえる。昼食1時過ぎ。午後は例の講義用図解が十数枚はられ、稲作と肥料についての講演を行う。人はあふれ、戸外にむしろをしいて耳を傾ける状況であった。(菊池信一「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」校本全集14巻p627)非常に盛況であったことがよく分かる。賢治は相談会や講演ばかりでなく、 この年(昭和3年)6月には、父の言いつけでスルメなど水産品に関する調査を兼ねて3週間ほど掛けて上京し、伊豆大島まで行っている(友人の妹との見合いも兼ねていたという)。上野図書館で調べものをするのはいつものことだが、この時は「御大典記念」の浮世絵展が上野府立美術館で開かれており、それを見ることも上京の目的のひとつであった。(賢治は浮世絵を熱心に収集していて、数百枚持っていたという。) ところが賢治は8月10日から発熱、「両側肺浸潤」の診断で、40日間苦しむ。小康状態となることもあったようだが、事実上、この闘病で羅須地人協会は中絶された。12月に急性肺炎を発し、翌昭和4年春となっても賢治は病床にあった。 そこに、東北砕石工場の鈴木東蔵の見舞いを受ける。初対面であるが、この訪問のいきさつが興味深い。 鈴木は前年花巻町上町の渡辺肥料店から石灰石粉2車の注文を受けたが、この年は注文が得られないので同店を訪れた。渡辺肥料店の話によると宮澤という人が石灰をすすめた年は売れ、病気で倒れると全然注文がなくなったという。その人はもと農学校の先生で肥料の神さまといわれ、農民のために奔走したことを教えられ、その足で賢治を見舞ったのである。このとき石灰の効用について科学的知識を与えられ、その後「石灰石粉の効果」と題する広告を作製した。(昭和4年春 校本全集14巻p640) 鈴木東蔵は明治24年1891生まれで、賢治より5歳年長。苦学力行の人で、小学校卒業後役場の給仕として働き、やがて書記となる。17年間勤務の後、郷土出身の弁護士を頼って上京し、小新聞社に勤める。自身の生まれ故郷である長坂村(現一関市東山町長坂、猊鼻渓近く)の資料をもとに『農村救済の理論及実際』(中央出版社1917)を出版。これは国会図書館でデジタル公開している(ここ)。その一節。貧農を論じて「 彼等の大正9年には『理想郷の創造』(中央出版社1920)を出版している。これも国会図書館デジタル公開で読むことが出来る(ここ)。「第二章理想郷の農業組織」の中に「科学的農業の改造方法」という節があるので拾い読みしたが、ダイナマイトを使った深耕法などをのべていて、つまらない。むしろ「結論」の「三 小使いの見たる村長様」が傑作だ。村長にありがちのタイプを挙げて、素描しているのである。「大法螺吹きの人、唯々諾々の人、酒好きの人、早呑込の人、出張好きの人、返事をせぬ人、半可通の人・・・・」これらの一つ一つについて、寸評がある。ゴーゴリを思い出させるような面白さだ。 鈴木東蔵が凡庸ならざる人物であったことは確かである。 鈴木東蔵は東山町一帯が石灰岩地層であることに着目し、砥石製造の仕事を始めようと貨車に砥石を積んで、自身ともに上京するが、不運にも関東大震災に遭遇し、身一つでその年の冬にやっと帰郷した。夫人の叔父が小岩井農場(岩手県岩手郡雫石町)に勤務しており、土壌改良のために田畑・牧場などへ撒く石灰岩粉を北海道や福島から購入しているので、東蔵が製造するなら運賃も安くあがるので話を通してやるという申し出があった。さっそく大正13年に人力で石灰岩を砕き、8トン車で小岩井農場に送ったが粒が大きすぎるというので、人夫を2人雇い半月かかって砕き直したが、儲けにならなかった。翌大正14年に大船渡線が開通したのでクラッシャー(砕石機)を購入し、陸中松川駅近くに東北砕石工場を建てたのである。 ウィキペディア 大船渡線 の地図へ加筆。大船渡線の開通は 大正14年(1925)。 もちろん一関駅は東北本線が通っている。 同年(昭和4年)12月の鈴木宛の賢治書翰(校本全集第13巻p263)は「金肥連用」の問題点などの相談に答えているが、土壌学の立場から科学的な厳密さをもって、挿絵を交えて丁寧に述べているのが印象的である。 石灰石粉に関する東北砕石工場の広告文は、毎春、印刷配布されており、賢治は細心の配慮を持って添削して、改良に努めている。校本全集には賢治が関わった最終形として昭和8年版が本文に収められている(「肥料用炭酸石灰」校本全集第12巻下p245) 佐伯矩が「搗粉の害作用」を論文として発表したのは、《第7節》で示したように「栄養研究所報告」第4巻第2号(昭和7年7月)である。しかし、その巻頭言に佐伯矩が次のように述べていることが注目される。 搗粉の害作用に関する本研究は昭和5年4月15日第24回栄養学会に於て初めて其の第一報告を発表して以来、引続き之が作業の完成に腐心し、得たるところはその都度之を栄養学会に於て公にし、又之を以て国民の実際生活に資せむが為、内務省に於ける地方長官会議警察部長会議衛生技官会議、其の他各所栄養講演を行ふ際、常に之に言及することを怠らず、越て昭和7年5月12日に至り本研究は文書を以て公式に之を内務大臣に報告せり。すなわち、正式な論文として発表される2年以上前から栄養学会でたびたび速報していたのである。搗粉の販売も行っていた東北砕石工場としては、経営の死活問題として「搗粉の害作用」にたいして敏感に反応したのは当然であった。 おそらく、栄養学会における佐伯矩の速報は新聞が伝えたであろうから(未確認)、鈴木東蔵や宮澤賢治は昭和5年4月下旬にはその研究結果を承知していたと思われる。われわれが見ることが出来る賢治の一番早い反応は、翌月の5月29日付の鈴木東蔵宛書翰(下に全文を引く)である。 鈴木氏は搗粉の危険性を述べる佐伯矩の研究に対して賢治の見解を問うたものと思われる。賢治はかねて関豊太郎・村松舜祐の両教授から学んでいたことであり、佐伯矩が研究対象とした「白土」(房州砂)と、東北砕石工場の石灰岩粉とはまったく違うことを力説している。 賢治が土壌の専門家として、行き届いた明確な説明を与えていることがよくわかるので、少し長いが、あえてそのまま全文を引用する。 拝復 御照会の米搗用白土の件賢治は包括的に「白土」と言っているが、硅酸系(ケイ酸、 酸化ケイ素が主成分となっている物質を指す。「珪」、「硅」のどちらも使われるが、宮澤賢治は「硅酸」を使っているが、例外もある。)である白土は胃酸に溶けず、針状結晶などが胃壁に悪作用をする。それに対して、石灰岩粉は胃酸に溶けるのでその点の心配はない。溶けて(塩化石灰となって)体内に入っても、白米に付いているのは微量なので心配ないだろう。米糠と共に牛馬が多量に摂取すれば、白土でも石灰でも下痢することは考えられる。石灰は適量であれば鶏に与えれば有効であることは確かであり、牛馬にも(必要なカルシウムを摂るのだから)「幾分の効」はあるだろう。 なお、大正6年(賢治は高等農林3年生)に関教授の談話が2日間にわたって岩手日報に掲載されている。当時の農業では、石灰岩を焼いて生石灰とするか、それを水と反応させて消石灰とするか、いずれかの使い方しか知られていなかった。関教授はヨーロッパで見聞してきた石灰岩粉末(およそ径2ミリ以下の粉末、篩によって分ける)をそのまま田畠、牧草地へ散布し・すき込むことで遅効性の土壌改良ができることを啓蒙したのである。殊に雨量が多く酸性土が普通であるわが国で効果的であること、わが国には良質の石灰岩地層が豊富に存在することなどを説いている(校本全集第14巻p486)。 盛岡高等農林学校には賢治にとって大事な教授がもうひとりいた。納豆の研究で名高い村松舜祐教授(明治14年1881〜昭和40年1965 享年84歳)である。氏が盛岡高等農林学校教授として赴任したのは明治42年であるが、賢治が入学した大正4年にはアメリカ留学中で、賢治が研究生になったころ帰国している。研究生を終了した大正9年には、村松教授は関教授の後任として農芸化学部長に就任している。 「搗粉の害作用」が賢治の周辺で緊急の話題となったのは、すでに記したように昭和5年4〜5月からである。それから1年近く遅れて、村松舜祐「飯米の精白法に就て」が「糧食研究(67)」(昭和6年3月 )」に掲載されている。硅質系の搗粉(房州砂)と、石灰石粉との比較研究である。(村松舜祐は東北地方では冬期には野菜が少なく、納豆は重要な食品であるとして注目した。その時期は、明治42年盛岡高等農林学校に赴任以後と考えられている。当時、納豆業者にとって品質の良い納豆を安定して作ることが難しかった。村松は納豆から納豆菌を3種分離することに成功し、そのうちの1種のみで高品質の納豆が出来ることを発見している。 ただし、盛岡高等農林学校には納豆研究の伝統とでもいうべき流れがあり、「昆虫博士」として知られる門前弘多教授は、すでに明治39年に得業研究(卒業研究)として「納豆の細菌に関する研究」を発表している。門前弘多の名は特に虫えい(Gall ゴール)の研究で知られる。なお、この部分はネット上のPDFファイル「同窓生が語る宮澤賢治」(ここ)によった。このファイルは他では得られない情報が盛られていて、貴重で興味深い。このファイル作者・若尾紀夫 は岩手大学農学部教授で勤続37年の後、平成18年2006年に定年退職した。 21世紀の現在から振り返ると“たかが農林学校じゃないか”と勘違いする人があるかも知れないが、けしてそうではない。当時農業・林業は日本の基幹産業であった。創立当時(明治35年1902)全国唯一の農林専門学校であった盛岡高等農林学校には、気鋭の教授連がいた。 盛岡高等農林学校はなぜ盛岡に設置されたのか。(中略)なによりも、その直接的な要因は深刻な凶作問題であり、度重なる冷害や干ばつによって疲弊していた東北農業の振興であった。そこには教授たちも学生たちも、志ある者たちが集まっていた。「日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」という宮澤賢治の精神はけして孤立していたのではなかった。その後、盛岡高等農林学校は敗戦直前(1944)に盛岡農林専門学校と改称され、新制大学(1949)で岩手大学農学部となった。) 鈴木東蔵の要請に応えて、房州砂に対して石灰岩粉の利点を論証し、東北砕石工場の広告文を製作しようとしていた賢治にとっては、村松教授の論文はまさに渡りに船であった。搗粉の問題は、土壌学・肥料学の分野にととまらず、人畜の栄養学や有害成分の分析などが必要であり、村松教授の得意分野であった。宮澤賢治作製の広告文「精白に搗粉を用ふることの可否に就て」は村松教授の専門的な分析を「飯米の精白法に就て」から相当分量を引用している(昭和7年3月に村松舜祐が京都高等蚕糸学校の校長へ栄転するとき、賢治は東北砕石工場からできたら謝状を送って欲しい、自分は祝賀状と記念品代5円を送った、と鈴木東蔵へ書翰を出している)。 この広告文のなかで、「房州砂」という語を使用している箇所を引用しよう。精米において搗粉を混ぜることで精白作業が短時間となり、経済的に有利であるが、身体には有害であると言われている。しかし、それは硅酸系の「房州砂」などを使用した場合のことであり、石灰岩粉とは根本的に異なる、というのが賢治の主張である。 搗粉の害と称したものは3、4年前迄殆ん どその全部でさへあった房州砂のそれに該当するものであります。 房州砂といふのは浮岩質凝灰岩乃至火山灰等を乾かして砕いたもので、大部分硅酸から成り、中には針状の玻璃質物や石英の斑晶なども入って居りますから、これを用ひて精白した米は、もしその水洗が不充分でありましたら、丁度ガラスの粉を食ったと同じ害をなす場合なしとも全く云へないのであります。ところが同じく搗粉といっても、只今まで房州砂の原料のない処や、或は単に化粧粉として用ひられてゐた石灰石粉(大理石粉)でありましたら、事情は全く之と異るものであります。 (校本全集第12巻下p239)「精白に搗粉を用ふることの可否に就て」からの引用はこれだけで止めて、全文はこのリンク先に置いてあるので、興味のある方はご覧になって下さい。 代わりに、東北砕石工場における「石灰石粉」広告文の決定版ともいうべき長文の「肥料用炭酸石灰」について、賢治は尽力しており、その中に「精米麥用搗粉」という項目がある。これは「精白に搗粉を用ふることの可否に就て」のエッセンスを手短にまとめているとも言えるので、参考になると思う。(原文は総ルビであるが、ここでは必要と思われる所にのみルビを振った。)
既述のように賢治が「搗粉の害」に取り組み始めるのは昭和5年5月ごろからである。「肥料の神さま」として東北砕石工場に助言をするという立場から、この企業の内部に入って活動することを考えるように変わっていく。その背景には、経営の才があったと言われる父・政次郎の意思があったと思われる。 賢治は東北砕石工場への協力を申し出る。賢治が東北砕石工場を初めて訪問したのは同(昭和5年)9月13日のことだった。 「いずれかの一地方御引受、各組合乃至各戸へ名宛にて広告の上、売込方に従事致しても宜敷」、「先づ全能力を挙げて需要の開拓をし、製品をも産出し」うまくいけばその後で工場を「現今の十倍位の設備」にしたらどうか、と熱を込めて語っている(昭和5年9月2日、9月14日鈴木東蔵宛書翰)しかし、賢治の体調は完全に回復したわけではなく、「この冬さえ越せばもう元の通り何をしてもいいと医者も云ってゐます」(同11月18日手紙)。仙台に出て仕事をするとか、東北砕石工場の仕事を受け持ってもよいなどと語っている。 結局、父・政次郎の主導権の下に、東北砕石工場と嘱託の契約を結ぶことになる(契約書は昭和6年2月21日付、校本全集第12巻下p263)。 賢治は、東京府下農林省農事試験場に異動していた関豊太郎先生宛に、東北砕石工場の嘱託を引き受けることについて先生の賛否を伺う手紙を出している。その中に、契約内容を分かりやすく説明しているので、引用しておく。 同工場は大船渡松川駅の直前にありまして、すぐうしろの丘より石灰岩(酸化石灰54%)を採取し職工十二人ばかりで搗粉石灰岩抹及壁材料等を一日十噸位づつ作って居りまして、小岩井へは六七年前から年三百噸(三十車)づつ出し、昨年は宮城県農会の推奨によって俄に稲作等へも需要されるやうになったとのことでございます。関先生からは、3月5日に賛同する旨の返書があり「小生の宿年の希望が実現しかかったのをよろこびます」とあった。 「給、年六百円を岩抹で払ふ」というのは、年俸600円だが、現物支給であるという意味。ついでに、契約書には上で触れられていない1条がある。賢治が東北砕石工場の嘱託として就職するに就いて、工場へ500円を資金援助する、更に必要になる場合には1000円まで増額することもありうる、という内容。鈴木東蔵は「五円の都合も出来ない私に、五百円(当時人夫賃1円、酒1升1円)とは大きかった」と書いている(伊藤良治「宮澤賢治と炭酸石灰(第3回)」)。技師として長男・賢治を送り込むに際して、経営がうまく回るようにと、父・政次郎が強力に手を入れていたのである。 嘱託として契約した2月から販路を広げるために上京する9月までの7ヶ月ほどの間、東北砕石工場の外交員としての活動が猛烈に行われた。見本や広告文などを持ち、疲労困憊するまで汽車で移動し歩き回るという猛烈社員ぶりであった。 この年の9月19日に東京で諸店をまわって販路開発すべく、仙台を経て上京する。各種見本40キロを下げていったというのだが、信じがたいほどだ(校本全集14巻p683)。上京直後に発熱、病臥することになる。9月21日には遺書を書くほどであったが、鈴木東蔵が自分の東京での活動に望みを託していることを慮り、発熱で倒れたことを知らせることが出来ない。しかし、ついに同27日に父へ「最後にお父さんの声を聞きたくなった」と電話する。驚いた父は、直ちに寝台車で帰花する手配をする。9月28日花巻着。11月に「雨ニモマケズ」を書く。 昭和7年いっぱい、病気療養。3月「グスコーブドリの伝記」発表。 昭和8年9月22日急性肺炎で死去。37歳。死の床で父に「法華経千部を作り、配ってくれ」と頼み、父は承知し忠実に約束を果たした。 実際の読者数は少なかったのだろうが、宮澤賢治に対する詩人としての評価は生前から高かった。彼の死没の翌日、岩手日報は「詩人宮澤賢治氏/きのふ永眠す/日本詩壇の輝かしい巨星墜つ」と報じた(校本全集14巻p717)。 《8・3》 石灰石粉を用いた佐伯矩の実験 目次 佐伯矩らは、房州砂を白鼠に与え続けると「胃の病変」が発生するという、厳密で定量的な実験を行い、第24回栄養学会で昭和5年(1930)4月15日に研究発表を行った。 つづいて、「カルシウムを主成分とする」搗粉を用いた場合の実験を、まったく同一方法でおこない、「腎臓・輸尿管 ならびに 膀胱の結石症」が起こることを発表している。第25回栄養学会 昭和6年1月29日である。ただし、この発表はいまだ白鼠のうち12頭が生存中のデータに基づいており、最終的な完全なデータによる研究論文は「栄養研究所報告」第8巻2号(昭和11年7月 ここ)に見ることができる。その題名は「搗粉(石灰石粉)を混和せる飼料を以て白鼠に発生せしめたる腎臓・輸尿管並に膀胱の結石症」である。その緒言の一節 吾曹は前回、代表的搗粉にして硅素性成分より成る房州砂の食用に因り、実験的に発生せしめたる白鼠の胃の病変を報告し、搗粉の直達的害作用に就て立證する處ありしが、更に重要なる別種の搗粉即ちカルシウムを主成分とするものを用ひても亦、これが生物学的研究を続行し、硅素性搗粉とは別様の害作用を呈するものなるを確認し得たるにより、茲にこれを報告せむとするものなり。(「栄養研究所報告」第8巻2号)佐伯らが使用した石灰石粉は、「広島県豊田郡木之江町岩白 岩白石粉製造所」のもので、「白色の粉末にして引湿性乏しく、其の他の物理的性状に於て稍々房州砂に似たり」と説明している。先に東北砕石工場の石灰石粉の成分表を示したので、岩白石粉製造所のものも示しておく。いずれも炭酸石灰約97%で、ほぼ同質のものであることが分かる。
カルシウム過多で結石症が起こる可能性が大きくなることは、合理的だ。佐伯矩は房州砂を与えた場合に生じた「前胃の病変」について、石灰石粉を与えた白鼠について、次のように結論している。 若干例に於ては前胃の潰瘍性並腫瘍性病変を観たり。胆石の形成は之を認めず。また対照白鼠にして石灰石粉を混和せざる同一飼料を與へたるものに於ては斯の如き病変を呈することなかりし。石灰石粉を搗粉として用いることは、宮澤賢治が力説したごとくには、無害とは言えなかった。だが賢治は、関豊太郎・村松舜祐の学問的教えを背景に主張していた、搗粉としての《房州砂の欠点、石灰石粉の利点》という理論的枠組を最後まで疑うことはなかったように見える。 しかし、論理的に言えば、硅酸系の搗粉が胃に有害であることを白鼠による佐伯らの研究を根拠に主張するのであれば、石灰石粉がおなじ白鼠の実験で腎臓・膀胱系に結石を作る有害物質であるという研究結果を無視することは許されない。それらは同等に有効な実験事実である。 佐伯矩らの研究が発表されたのは賢治が東北砕石工場の嘱託社員として猛烈に活動し始めるタイミングであるから、賢治が学会の動向をとらえていなかったことはあるいは免罪されるかも知れないが、関豊太郎・村松舜祐の両学者はどう振る舞ったのであろうか。 わたしの探究はこのあたりまでとする。
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