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古川かさむについて





はじめに

小論は古川かさむ安政七年(1860)1月1日~昭和5年(1930)11月16日、享年71歳)というそれほど知られていない人物について扱います。この人物は美濃に生まれ、「魔物が棲む」と恐れられていた大台ヶ原を開くことを宿願として30歳を過ぎてから山中苦行に精進し、山麓の村民たちの強い支持を得ました。明治32年40歳で山上に「大台教会」を建てることをなし遂げました。

わたしはこの人物の生き方を明らかにすると共に、彼の「山神」思想の問題点を追求したいと考えて取り組みました。おそらく、わたしとはまったく異なった道筋で古川嵩に関心をお持ちの方も多いのだろうと思います。小論が、読者に何か問題を投げかけることが出来ていれば幸いです。

小論が底本としたのは、池田晋「大台ヶ原山と大台行者」( 岡本勇治編『世界乃名山 大臺ヶ原山』大台教会本部 大正12年(1923)所収)で、これは古川嵩自身の口述を池田晋が筆記したものです。




お断り
  1. 明治五年以前の旧暦の表記は漢数字を用います。年齢は「数え」です。
  2. 明治・大正・昭和の年号を用います。西暦はときに併記します。
  3. 文献の引用は原則として当用漢字を用いますが、書名と桂月全集は出来るだけ原文に従いました。振り仮名は随意につけました。
  4. ブラウザ上で読み易いように文字の色を変えています。基本はですが、わたしの注は茶色、他の文献などからの引用は空色を使います。更に色が必要な場合は緑色を使ったところもあります。




目次

題名内容
第1節経歴 1「災厄の子」として誕生し丁稚に出される。名古屋で店を持ち家庭も持つ。
第2節経歴 2「大台開山」の志を宣言し、父母・妻子を捨て、単身上北山村へ入る。
第3節明治24~25年頃大台ヶ原入山を許可され、97日の山籠修行を果たす。上京し神習教に加入。
第4節神習教芳村正秉。明治政府の宗教政策。
第5節山神 1池の明神へ90日の参籠。大台教会建設の計画を持つ。
第6節山神 2冬の山籠修行。
第7節教会建設大臺ヶ原山頂に教会を建設、資金集めに東奔西走。
第8節白井光太郎白井光太郎と大台ヶ原山。
第9節大町桂月大台教会に4泊、大蛇嵓を上下す、 松浦武四郎追悼碑。
第10節古川嵩の山神信仰山神信仰と自然保護 神武天皇像。
年譜年譜古川嵩の年譜
追悼碑の碑文松浦武四郎追悼碑の碑文








【1】経歴 1    目次

古川嵩は、 美濃国郡上郡嵩田たけだ村の富裕な家に生まれた。安政七年(1860)1月1日、5人きょうだいの末子である。村名の一字をとって「かさむ 」と名付けられた。父・古川栄治は御嶽おんたけ教の信者で強い迷信家であったという。嵩が生まれたとき栄治は厄年四十二歳であり「家にとって災厄の子」と考えられたという。
初めわたしはこの出生地を知らなかったので、「嵩」という重量感ある名前について、「古川嵩」は宗教家となってから付けた名だろうと思っていた。村名から取ったというのは意外な気がした。

底本の本文は「栄治が四十二歳の万延元年一月元日かのゑ申の元日、屠蘇の匂と共に」誕生したと述べているが、「万延」と改元があったのは同年三月三日の「桜田門外の変」などを受けて三月十八日のこと。したがって、ここは日付が問題になる記述だから「安政七年」とすべきところだ
目出度い生ぶ声は、父の膽にある強い衝撃を与へた。それは『四十二の厄年の子』と云ふ古来から伝へたいまはしい凶兆の迷信であった。一家の災厄は、雄々しい第一声と共に古川家に降って来た。『悪い子だ古川家にとっては災厄の子だ』父の眉は健やかな赤児のかすかな息にすらおびえて曇った。 p3 以下このように単に頁数だけを示すのは、底本である
嵩の誕生を迷信深い父親がそれを強い凶兆と考え、後に嵩を丁稚奉公に出すのであるが、ここの記述にわたしは納得いかないところがある。迷信として知られているのは「四十二歳の二つ子」である、すなわち「42歳で2歳児を持つ」ことが凶事だという迷信である。42歳で2歳の男児を持てば父子合わせて「四十四(死死)」となり、親を殺すなどという。それで、いったん棄て児にし、誰かに拾ってもらうなどすることがある。つまり、父親が41歳のときに男児を得ると(数えで1歳)、その子が「災厄の子」と言われた。翌年正月元旦に父が大厄の42歳となりその子が2歳となるから。底本の記述では正月元旦に父42歳、誕生した子は1歳で「四十二歳の二つ子」を免れている。
嵩の実際の誕生は、父・栄治が41歳であった前年師走の内だったのではないか。それで凶兆を逃れるために翌年の元旦に生まれたことにした。だが栄治はそのようなゴマカシが怖ろしくなってきて、後に嵩を丁稚に出したというのが真相だったのではないか。
嵩が高等小学校を卆業すると岐阜の豪家に丁稚奉公に出された。嵩はのちのち「私は今でも私の名を示すだけの字しか知らない」と語っていたという(p4 )。それは誇張で、彼は名古屋で商売で稼ぐ時期があるのだから、“読み書きソロバン”は不自由がなかったであろう。だが、古川嵩は大台ヶ原の開山をめざす宗教家として一心に修行にうち込む後半生においても、山野での苦行には傑出していても、先人の教えや遺訓に学ぶなどの勉学スタイルを持つ修行とは無縁だったようだ。

嵩は岐阜の豪家・堀江家で3人の男の子の子守として使われることになった。子供を背に乗せて「馬」となって「四つ這ひ」で駆け回った(p13)。彼は自分が父親に憎まれ捨てられたという意識がとても強く後年まで忘れられなかったようである。
翁は六十幾歳の今もその当時を追想して『自分は生きながらに親に捨てられた。生きながらに屍のやうに古川の家から出された。父の無慈悲と迷信は、血と肉を分けた子をすら捨てた。此上はどんなことがあっても再び古川の家には帰るまいと決心した』と云っている。そして『嵩の名が丁稚の桝吉鈴木林『大台ヶ原開山記 古川嵩伝記』では増吉)と変った時、初めて故郷を離れ父母の膝下を離れたやうに悲しかった。私の一生を通じてあれほど寂しい悲しい思ひ出はない』と云って居る。 p12 下線は引用者、嵩が60歳になるのは大正8年だから、口述筆記がそれ以降に取られたことが分かる。
この幼少期の記憶は古川嵩の生涯に深く影響している。
父は)一日翁を膝下に呼んで、つぶさにその因果をふくめて『ただ家の為親の為に、古川家を出てくれ』と嘆願した。母の深い愛は,この時熱い涙と共に父をいさめたが、迷信と恐怖に蝕まれた父の心は石のように冷たくそれを拒んだ。 p5
嵩は12歳で丁稚に出されてから、藪入りなどの際にも一度も実家に戻らず、ついに16歳の春に「狂気」を発した。「一日、呆として座敷の隅に涙を流して居る」(p21)という状態だった。強度のノイローゼとでもいう状態だったのだろう。堀江家の主人はすぐさま父栄治を呼び寄せて事情を聞き、狂気の原因は父にあると諭して、父に手を突かせて嵩に謝らせた。

父子は家に戻り、やがて「療養の旅」(p23)に出る。かなりの富家であったからであろう、1年近くをかけて名古屋、伊勢、伏見、京都などを巡って、名医といわれる医師の治療を受けたという。が、はかばかしい効果はなく、翌年には木曽の御嶽山に出掛けた。明治十年(1877)の夏のことである。
医師の治療を離れて、この夏を費やして御嶽山での宗教的修行に励んだものと思える。父は御嶽教信者であったのだから、通り一遍ではない修行がなされたと思われ、嵩の心に質的な変化をもたらしたようだ。また、この御嶽山の滞在で「祈祷」や「火渡り」などの御嶽教の施術の実際を具体的に何度も体験したであろうことは嵩にとって後々重要な財産となった。(この御嶽山参拝の中で「御嶽山に優る霊山を開く」という願いを得た(p25)といっているが、この段階で「霊山を開く」という誓願を得たというのには無理がある。わたしはこの御嶽修行が嵩に何らかの宗教的回心をもたらしたというのではなく、彼に山岳修行の原形を実地に体験させたことが重要だと思う。彼はいわば「肉体派」であり、御嶽山での一夏の修行体験で、多くの実技や技術を経験したことに意味がある、と思う。

翌年明治11年には嵩は健康を取り戻し、名古屋に出て薪炭や雑穀を扱う小さい店の商人としての生活が始まる。「十九の春」という言葉を用いて古川嵩が実社会へと再出発したことを記している(p26)。父栄治の悔悟の意味もあって、嵩を援助して名古屋で商人として出発させようとしたのであろう。
ところが、嵩にはまじめに商人の道を学ぶという気持ちは生まれず、「草深い美濃の農家の子には、商道はあまりにわずらはしいものに見えて、どれもこれも手がつけられなかった」。代わりに彼は色町に耽溺する(p26~27)。この遊蕩の日常は数年しても収まらないため心配になったのであろう、父母から結婚をすすめられ、同じ村の2歳年上のナカ女を娶る。明治14年、22歳の時である。ナカ女は貞淑でよく働き、木材・米穀の商売は順調に発展していった。1男2女を得るが、嵩の遊蕩は一向に収まらなかった。小三こさんという芸妓に深く溺れ、「こうした矛盾の生活が二十九歳まで続いた」(p30)。投機に失敗し「一万四千円」という巨額な損失を出し、小三と心中沙汰を起こすところまで突き進む(p37)。二十九歳は明治21年(1888)である。

名古屋での十九歳から二十九歳までの十年間の生活で、嵩は遊蕩生活に溺れていたが、同時に米穀や木材を扱う商人としてのまっとうな経験も積んでいた。商人としての出張旅行の際に「山めぐり」も行っていた。
春がすぎ夏が来る度、商用を帯ては旅に出る嵩は、そのたびに身を堅めて行く先々の国々の高山を尋ねた。家に帰れば耽溺外に出づれば山めぐり・・・斯うした矛盾の生活が二十九歳まで続いた。その間大和峻峰大峰山へは三四回登山した、その昔役の行者が開いたこの霊山は御嶽にもまして心をひいたのである。p30
大台ヶ原を初めて目にしたときの印象深い感動が次のように述べられている。
大峯山の頂上、露に濡れた草鞋を踏みしめつゝ見渡す四方の連峰・・・たづさへた強力は、その連峰の名を一々教へた。然もその山頂四顧の間にあって南方一帯さながら横雲をひいたる如くそびゑた連峰を指さし『彼の山は大台ヶ原』と教へられた時、何故か心の上を一抹の霊気さっと掠めるのを覚えた。 p31
後の回想であるから都合よく変形されているだろうが、この頃から「大台ヶ原開山」の夢は生まれていたようである。が、同時にこの時期は、木材と投機事業の「大損害」(p32)にあえぐ我が商売、妻子が待つ家庭、さらに美妓小三との「歓楽の美酒」という三重の重荷として古川嵩の背にのしかかってきていた。これが彼の二十代であった。この重荷を支えながら夢見る「大台ヶ原開山」について、次のように自己分析している。
五度六度(大峯山系へ)登山する内、大台開山の念は火のように燃え上がり『我が開くべき山は大台ヶ原!!』決心した。けれどその決心の裏には何時も『金を儲けて他力でやらう』と云ふ邪念は家運再興の欲望と共に、清い『開山』の信仰を汚した。今や人生に苦闘する嵩は片手に古川家再興の炬火を、片手に大台開山の野心を掲げ、その背に一家四人妻子を負ふて、最後の戦線に立った。のるか・・・そるか・・・この重たい責の中にも美妓小三のぜうを忘れかね、切々と相逢ひ、歓楽の美酒に苦しみを忘れんとして居た。 p32 下線は引用者
この三重か四重かの重荷と格闘しのたうち回る中で、最終的には嵩は小三との心中を選び「白い死装束」となって入水する直前にまで至る。その間際に別の入水者が出現し思いとどまる(p32~37)。
「他力でやらうといふ邪念」という語は屈折しているが、「大台ヶ原開山」の望みが「商売」による成功の延長上に考えられているということであろう。この「邪念」は重たいと思う。十分な財力を手にしてそれを手段として開山をするという功利的なソロバンをはじく自分を打ち消せなかったのだ。結局心中にも失敗して、自分を無一文の境涯に投げ出すことになる。


【2】経歴 2    目次

明治23年(1890)の暮れ、古川嵩は店をたたみ家をたたみ、名古屋での生活をすべて閉じて郷里に戻った。妻子は親にあずけることにし、無一物となった嵩は年が明けた正月、故郷の家で両親や親戚たちを前に「大台開山の心」を打ち明ける。一同から「嘲笑はれ切諫せっかんされ極端な反対の洗礼を受けた」(p43)。が、嵩はそれらの反対を押し切って、「単衣木綿の白衣」に一本の杖と一丁の鎌を手に郷里を出た。

岐阜には知人が多く、そこでの「盛んな送別の宴は友達との間に七日続けられた」(p44)。伊勢神宮までは友達4人が送ってくれ、由緒のある遊郭古市に入込んだ。その時嵩の懐中には父からの餞別がたんまり残っていた。(p45 )
伊勢の大廟までは、四人の信人友達がにぎやかに送ってくれた。古市に宿をかり、大廟参拝後『浮世の名残』とばかり、古市の郭に入込んだ。その時翁の懐中には故郷を出るとき父から受けた二百両がまだ百五十両あまり残ってあった。p45 下線は引用者
「二百両」は200円のこと、これは大金で今で言えば100万円以上にも相当するか(明治四年の新貨条例で両=円となったが、明治20年代頃までは「両」とも言われていた。お金の価値換算は難しいが、明治初期の白米の値段比較で1円が約5千円という説もある)。古市は外宮と内宮の中間にある遊郭として古くから有名で、伊勢参りの精進落としなどで賑わった。
たとえば十返舎一九『東海道中膝栗毛』(五編追加)には弥次喜多コンビが古市で大騒ぎをする場面がある。良い挿絵があるので引いておく。下図の男三人のうちキセルを持って渋い表情の男は案内人で、手を挙げて踊る仕草が弥次さん、扇を持ってかなり酔っているらしいのが喜多八。狂歌は「お銚子を はやう/\と いそのかみ 古市客の うつや柏手」(「早く/\といそがせる」と「いそのかみ」を掛けている。「いそのかみ(石上)」は「ふる(古る)」にかかる万葉以来の枕詞で「古市」を引き出している。もちろん「柏手」は酔客の「拍手」と重なっている。この挿絵は、弥次さんの仕草や表情がとてもいいので引用したくなった。弥次さんはこの夜、汚れたふんどしで大恥をかくという落ちになるのだが


なお、十返舎一九は絵も達者で、膝栗毛シリーズはほとんど自分で絵も描いている。狂歌も自作であり多くの場合、(旅行その他で)世話になった人の名前で作中に狂歌を出してその人への謝意を表しているという(このことは中村尚夫「『続膝栗毛』シリーズ三編について」(2011)(ここ)で知った)。

古川嵩はこの遊興で本当の無一物となり、「雲水」となり「物乞ひ」をしながら家々をわたり歩き、尾鷲にたどり着く(後で出てくるが、彼は「乞食風情」と村長から蔑まれたりする。お伊勢参りの街道には「乞食」が多かったといわれる。伊勢商人を「伊勢乞食」と揶揄することがあるのも、そういう背景があってかも知れない)。父親が「災厄の子」として丁稚に出した我が子に対し、悔悟の意味を込めて餞別として渡した大金を、伊勢神宮参拝の後、歴史も深い古市の遊郭で使い切ってしまったという遊蕩には、上引では「浮世の名残」とあったが、この世からあの世にわたるというほどの人生論的な意味が込められているのであろう。また、《無一物の身》となることも宗教的な意味があったと思われる。《乞食こつじき》の身になって、現世に向かっては《祈祷》しかお返しするものを持たない《行者》に身を落とすのである。

この遊蕩の終わった月日は書いてないが、岐阜を出たのが「一月二十日の朝」(p44)としているから、すでに1月の月末ごろになっていたであろう。いずれにせよ厳冬期である。彼は乞食姿で尾鷲からさらに足を運んで上北山村河合区に達し、村長・日下部守完に「大台登山の許可」を願い出た。村長は単衣に跣足はだしの姿を見て、冬の登山は死ぬばかりである、「信心なれば四国西国の霊地も数多いから今はその方面を巡錫して大台へは雪が解けてから登山せられたい」と常識的で穏当な見解を述べ、登山を許可しなかった(p51)。

古川嵩は村内のあちこちのの庭先に一夜の宿を求め、北山川で寒中の水行を続けた。そのうち「北山川に水行する行者」がいるという噂が広がりその真剣な修行ぶりが評判となった。山仕事のけが人の止血や風邪の病人のための祈祷などを求められるままに懸命に行ったところ、霊験あらたかなことが多く、段々とその存在が知られるようになった。ここで、10年前に彼が父と一緒に御嶽山で行った修行経験が生きているのであろう。また注意しておくべきことは、この地域の山村では、まじめに修行する行者・山伏に宿を提供することや祈祷を頼むことなどは古くから行われてきた習俗であったと考えられるということである。
北山川に水行する行者・・・翁の水行はいつとなく噂の的となり、翁を見る村民の口からは『不思議の行者』と呼ばれた。たま/\一村挙って悪熱に苦しめられ、呑むに薬なく、頼むに医師なき凡夫は、苦しさのあまり遂に神仏に倚頼いらい依頼と同じ)したが、目に触れ噂にきく『不思議の行者』はいつのまにか苦しみ苦しむ村民から『助けの神』『生き神』と呼ばれ、門に立って経を唱へれば、家内やうちからは老いも若きも走りいでゝ『生き神の御来迎御祈祷を願へ』と迎へられ、翁の名はいつのまにか『生き神』と変わってしまった。(p55

翁は区民の切なる願ひにまかせて、暫らく足を大家平伊三郎氏及び池原区に止めたが、ゆくりなくも区内二里の山奥に石屋燈いしやとうと称する岩窟の所在する事をきいて、当分の住居と心身鍛練の為にこゝに行場を拓くべく移り住んだ。(中略)行場には行ひ済ます翁を取巻き慕ひ寄る病者信者が群れて毎日賑やかであった。(p56

石屋燈の行者の功徳は村内隈なく伝はる内、同村寺垣内てらがいとに住む北栄蔵氏は、熱病からひいて発狂した弟の為に一夕祈祷を依頼して来た。当時氏の弟は四隣の人々から『狐つき』と呼ばるゝ程気が狂ってゐた。朝夕の食もとらず只管ひたすら狂ひわめく『狐つき』の狂者は間断なく多くの親族知己に囲まれ狂ひ出す度に抑へられて居た。(中略)翁は願はくはこの病者を治癒せしめ給へと心を込めて神に祈りを捧げた。心をこらし真を致せば鬼神に通ずるものか一夕の祈祷はよくこの瀕死の病者を救ふ事が出来た。(p57
【石ヤ塔】底本は「石屋燈」、現在は村役場などは「石ヤ塔」としている
下北山村の池郷川の上流に存在する岩峰がそそり立つ場所。奇景が展開し、容易に近づけないところらしいが、近頃はロック・クライミングの愛好者たちの人気の場所として知られるようになってきた。下北山村は「ハーケンや鉄くさび」の使用を禁ずる旨のメッセージを出している。下北山村HPに石ヤ塔が記入してある地図や写真がある(ここ)。また「石ヤ塔」で検索すれば、クライマーたちによる美しい写真が多数ヒットします。
古川嵩は北山川で熱心に寒中水行を行い、ついで石屋燈を活動拠点として村人たちの祈祷の要望に熱心に応えた。このようにして、伊勢の方から流れ込んできた乞食修行者が村民の信頼をかちえて村内での存在を許されるようになった。そういう経緯いきさつが示されている。
一般に村民の支持を得た行者が、村落の近くの「岩窟」などを行場とし、そこへ定着するという典型的な具体例が述べられていて、貴重である。そもそも修行者は村民からの一定の支持があり村の責任者の許しがなければ行場へ入ることすらできない。また、このような村民の尊崇と支持・支援があって初めて、人里離れた場所で長期間の修行が可能なのであった。村民の定期的なサポートがなければ長期の修行は成り立たない。つまり、「千日行」などはけしてひとりの行者の個人的で孤立的行為と考えるべきではなく、地域(ないし寺院など)の支持集団が行者の背景に存在していてはじめて可能な修行形態であると考えるべきなのである。村落の側からすると、病人・けが人や衰弱した老人また心を病む者は一定の割合で必ず発生・存在するので、祈祷のできる真面目で信頼できる行者は常に求められていた。(ここでは省略しているが、乞食行者に対する不信派も村内には当然あり、それらとの対立や困難があった。

この地方にはかつて大台ヶ原の牛石で修行していた実利じつかが行者という優れた修験が「信仰の的」(p58)として崇拝されていた。その実利行者について、古川嵩が語るところがどのように池田晋に書き留められているか、すこし抜粋しておくが、ここには古川嵩の信仰の質について重大な問題が暗示されている。。
北山村民には、その昔信仰の的があった。それは美濃国恵名郡阪下村の産で、林実利と云ひ、大台ヶ原牛石ヶ原で行を収めて以来、村民からは生き神と尊称され,信仰の柱と頼られていた。実利行者は遠く大峰山を開いた役の行者を崇拝思慕し、煩累を大台ヶ原に避けて一意行ひすまして居た。実利行者在山当時下北山村を中心として、行者を尊崇する弟子は近村に数多くあったが、行者は其後東牟婁郡那智山に行場を移し茲に庵を構へて、遂に一生を辛酸の苦行にをへ高齢を保って霊山那智一ノ瀧で大往生をとげた
今迄信仰の柱となり、人神の介在者となってゐた行者の大台退山と共に信仰上の流浪者となって居た村人は、偶々壮年の行者、古川嵩翁が入村し苦行、つぶさに憂患の村民を奇跡的に救助するので一村忽ち『実利行者の再来』と称して胆仰した。
p58 下線は引用者
実利行者は那智の大滝で捨身往生した(明治17年4月21日 42歳)ことで弟子や全国に広がり始めていた彼の信者たちに強い衝撃を与えたのであるが、古川嵩は明治24年6月から大台ヶ原に入り、8年後には壮大な神殿を山上に作り上げるというめざましい活動をするのだが、すでに実利行者の捨身往生が伝わっていなかったことになる。実利の熱心な弟子たちが何人も古川嵩の弟子になっているのであるから(例えば北栄蔵、福山周平など)、これはちょっと信じがたいほどの事実である。底本は口述筆記によって大正12年に出版されているのだが、実利行者の最後が“高齢で大往生”と述べられても、その深刻な誤りを訂正する人物が古川嵩の周辺にひとりとして居なかったことを意味する。これは誤認や不注意というものではなく、信仰の核心に触れる問題である。

中古から江戸期を通じて営々と伝えられてきた修験道の伝統を古川嵩はまったく自覚しておらず、彼にあってはその宗教的情熱の根源は彼の個人的力量と一徹さに求めるしかなかった。このことは彼の心情の純粋さを表しているとはいえるが、その宗教的信念はか細いもので、容易に通俗化する弱さを併せ持っていたといわざるを得ない。


【3】明治24~25年ごろ    目次

古川嵩は明治24年(1891)正月に郷里の嵩田村を出て、上北山村に至り寒中水行を重ね、石屋燈の行場に入ったのはその春のうちであった。それから間もなくして彼は付近の五田狩温泉の行場に移った。寺垣内・浦向・佐田の3区が合同で、行者に依頼して村内に流行していた「熱病」のために「大鎮火祭」を催したのだが、その効果はめざましかったという(p60~62)。「五田刈の行者」の評判は高まり「生神」と呼ばれるようになった。「生神」は北山村の豪家・山本氏の長男・丑之助の夫人・あさ子の難病治療に呼ばれ、「七日の厳修」によってあさ子の病苦がみごとに全癒した(p64)。
これらの霊験あらたかな祈祷活動を通じて村人たちとの信頼関係が強固になってゆき、古川嵩は「大台の山を開く」宿願をもって当地に来たこと、その足で上北山村長に登山を願い出たが拒否されたことなど、これまでのいきさつを打ち明けた。村人たちは古川嵩の身元一切を引き受けて登山の願いを村長と再交渉することにした。
北栄蔵氏が代表として交渉に当たったが)当時翁が『生神』の名は四隣に響き加ふるに北山其他各村豪家の後援があったので、日下部村長も最初の様に手厳しく拒絶しなかったが、直ぐには許可を与へなかった。村長の意図には矢張り『乞食坊主に何うして大台ヶ原が開発出来るか』という侮蔑があり、一面伝説におぢ怖れられている『一つたたら』の怪や『義経笹馬の怪』の噂の出るのを恐れたからであった。 p66
われわれが底本としている池田晋「大台ヶ原山と大台行者」は古川嵩の語るところを池田晋が記録したこと、しかも嵩が健在なときに大台教会本部から発行されていることも大事である。つまり、この本の内容は古川嵩自身の目が通っていると考えてよいだろう。彼が無一文となり、その風体だけでなく実際に物乞いをして歩いたことは前述した。「乞食坊主に大台ヶ原が開発出来るか」という侮蔑は彼の人生で何度も自身に向けられた実体験なのであろう。山伏・修験者を信仰しこの上なく有り難く思う庶民がいる一方で、「乞食風情」と見下す役人・インテリなどがいたことも事実である。
ここでは詳述できないが、維新政府の宗教政策の中に、(1)神道と仏教の峻別、(2)修験道・陰陽師の廃止、(3)呪術的な病気治癒の禁止などが重要な項目として存在し、合理的開明的な姿勢が重視された。(4)欧米諸国と対等なつきあいをするのに重要であったキリスト教の解禁(厳密に言うと黙認)は、太陽暦採用の明治6年からであった。
つまり、役人・教師・学者などのインテリの多くが山伏・修験者や無智な村民らを蔑視し否定しがちなのは、単にインテリが無学者を軽蔑するということだけではなく、開明的な国家として世界の一流国となるという新政府の根本方針が背景に存在していた。新政府は、やがて欧米のキリスト教をまねて「一神教」を創ろうと考え、記紀神話と伊勢神宮を基軸に据えた「国家神道」を整備し国民に強制する。
奥村善松も村長説得に力を注ぎ、最終的に日下部村長は古川嵩の入山を承諾する。
善松氏は,執念しゅうねく日下部村長に、翁の入山を願ひ出た。そして氏の熱烈な意気は、遂に日下部村長を、やむなく承諾せしめた。入山許可・・・この交渉約一ヶ月、頃は梅雨に近い六月上旬であった。 p66
さらに村長は行者の験力を見せることを条件としたので、6月23日に鎮火祭を催すことにした。小学校校長はかねて呪術・祈祷などは民を迷わせる迷信であると非難していたが、その祭の場では村の青年たちを糾合して多量の糞尿を投げ散らすなどの妨害行為をおこなった。しかし大釜の熱湯を古川行者がかぶり信者らが火の中を歩くなど験力が充分に示され、鎮火祭は成功裏に終わった。それで古川嵩の大台登山が許された(p68~70)。
日をおかず6月24日に、山に精通した4人(奥村寅治・奥村善松・福山周平・平喜平治)が選ばれ、総勢5人が大台ヶ原をめざして入山した。古川嵩はこの日はじめて念願の大台ヶ原に足を踏み入れたことになる。彼はそのまま下山せず、続けて3ヶ月の独居・山籠が始まるのである。簡単に要点だけ書き出しておく。
6月24日 ワサビ谷の「開拓」に残っていた開拓小屋に泊まる。
  25日 元木屋谷の松浦小屋に泊まる。狼の群れが吠え、ホラ貝を吹いて対抗する。
  26日 名古屋谷の松浦小屋に泊まる。狼の群れに対し、古川嵩が「語りかけ」鎮める。
  27日 同行4人の反対を押し切って古川嵩は独りとどまることにする。4人は下山する。
9月28日 3ヶ月後、奥村藤十郎と善松の父子が、別々の道で名古屋谷の小屋を訪ねて来た。古川嵩の無事に驚いた。嵩は父子と共にその日のうちに下山した。入山から97日目である。
【松浦小屋】
松浦武四郎は明治18,19,20年の3回にわたって大台ヶ原の登山をなし、しかもその年ごとに旅行記を作って記録を残している。明治18年(1885)の登山は「乙酉いつゆう紀行」にまとめられ、その最初に「行年六十八歳」と記している。この時代ではすでに相当の高齢者であった(明治21年に死去)。小屋建設の許可願いが出てくるのは翌年の「丙戌へいじゅつ前記」だが、北海道開拓以来明治新政府の官僚機構をよく承知している松浦は大阪府知事(当時、奈良県はなく大台ヶ原は大阪府に属していた)に「大台へ小堂建設の義、お聞置願書」を出している。
勢州多気郡大杉谷の山分、距離およそ十里余の間人跡未通、杣猟人等これを審する者ご座なく候。依て山中にゆくゆくは通路ともなるべき地脈、飲水の地、両三ヶ所へ小堂を補理しつらひ、近郷の里民平日信心の神仏を安置し小鍋まさかり敷物を備え置き候はば自然山稼の者これに止宿つかまつり(中略)、また山岳湿沢の字、往々里民ごとに異なり、何分確定仕らず候間、これまた取調べ実考の上、地名を併せて神仏の名号石標に記しおよそ十余ヶ所え建設つかまつりたく(以下略引用は読み易くしている 『松浦武四郎大台紀行集』p58
この願い出た「三ヶ所」というのが元木屋谷、牛石、名古屋谷で松浦武四郎の道案内をした山民たち(じつは実利行者の弟子だった山伏たち)に依頼してすぐに建設されている。それから5年ほど経過して、古川嵩一行がその小屋を使った。
注意すべき点は、大阪府へ出す願書においてさえ松浦武四郎は、小屋建設の目的に関して山地開発・農業開拓などの開明的スローガンを一言も述べていないことである。山仕事に立ち寄る山民が喜んで利用出来るような小屋を造り、「近郷の里民平日信心の神仏を安置し」たいとする。また、「里民」ごとに異なる地名を使用していることがあるので、よく調査の上で最適の地名を神仏名号とともに「石標」に記して設置したいとしている。「山稼やまかせぎの者」のためになる道標を建てたいという意図が明瞭である。費用はすべて「私自費」を充てるとしている。
松浦は、明治政府から弾圧されて牛石ヶ原を追われ、大峯の奥駆道の再興に努め、最後は那智の瀧に捨身往生した実利行者を高く評価し、その行状を『松浦武四郎大台紀行集』で様々に記述している。松浦を明治期知識人にありがちの近代的開発主義でくくるのは間違いであることを、わたしは強く指摘しておきたい。

小論との関連でぜひ指摘しておきたいことは、古川嵩は松浦武四郎の小屋を幾度も利用し、松浦が建立した実利の修行地跡を示す石標の傍を数え切れないほど通っていたであろうに、松浦がこ実利行者に対して抱いていたような敬意の念や修験道を尊重する姿勢を、受け継いでいないように思えることである。
ただし第9節で扱うが、松浦武四郎の追悼碑は大台教会の「御霊丘」に建っており、そこには古川嵩の夫人の墓などもある。破損した追悼碑の一部の保存に配慮するなど、彼が追悼碑に対して敬意を示している様子がうかがわれる。が、彼は破損した松浦碑の再建の労をとっても良かったのではないかとは思う。
古川嵩は97日間の山中生活を終えて、上北山村に帰り着いた。それから3日目に「東京の御嶽教の副管長」2人が古川嵩を訪ねてきた(p176)。副管長らは厳かな衣冠束帯を準備しており、その教理を難解な熟語をちりばめて滔々と語り、能筆を見せて村人たちを惹きつけた。対する古川嵩は弊衣跣足で黙然として教理問答には加わらなかった。村民の中が、御嶽教を支持する側と苦行から戻ったばかりの「大台行者」を支持する側に二分して、はげしい議論が長時間にわたり交わされた。
さらに下北山村池原に移動して御嶽教と大台行者の信仰論争を継続することになった。約四里の道を副管長二人は駕籠に乗って進み、古川嵩は相変わらずの破衣跣足で駕籠について歩んだ。やがて始まった懇談会の席で、行者側の村民から「大台行者をどうしようというのか」という質問に、副管長側は次のように答えた。
『大台行者は、もともと御嶽山神の加護によって救命され、今日大台ヶ原に登って幾多の難行に打克つ事を得たのも、偏へに御嶽山神の庇護によるものである。御嶽を発祥地とした翁だから、大台ヶ原は、当然御嶽山御嶽教の分身として今後の開山事業を継続して欲しい』といった。両副管長はまた言葉を揃へて、大台ヶ原の管長としては、当然翁がその位置に就くことを勘説した。 p186
これでは御嶽教の勢力拡大のために大台行者を取り込もうとしていることがあからさまである。大台行者側の者たちは二人の副管長らも大台行者と同じ水垢離をして神に仕える者として清浄な体となってこい、と「荒行」を要求した(p184)。西山村で2日間の大祭を催すことになった。「鳴動式、大鎮火祭」などの火を用いる大祭を副管長らが執行できないことが露わになり、結局いたたまれなくなった副管長二人は逃げ帰ってしまう。これが「明治廿四年十月末」のことであった(p189)。

【御嶽教、御嶽講】
御嶽山(3067m)は活火山で広い裾野を持つ独立峰であって、その偉容は振り仰ぐ多くの人々の崇拝対象となっていた。二の池・三の池などの美しい火口湖は神秘的である。「御嶽おんたけ講」と呼ばれる宗教組織の由来は非常に古い。古代の修験者による信仰はともかくとして、御嶽山の登拝が盛んに行われるようになったのは室町時代の中期頃からとされる。百日ないし七十五日の厳しい精進潔斎を行った「道者」と呼ばれる人たちが山麓の村落から集団的に登拝することが盛んに行われるようになった。
寛政年間(1789~1800)に刊行された『翁草おきなぐさ』の下巻には、「御嶽権現(土人は御嶽といふ)は世に知る霊山なり。麓に社家有り寺有り、六月十二・十三日祭礼あり、近郷の男女群参す。此日五穀成就の祈祷、大般若転読勤行なり、御山禅定おやまぜんじょうは百日精進せずしては上り得ず、其間は行場に入りて修行をなす、昼夜光明真言を誦し、水垢離をとるなり。其の料金三両二歩百日の間の行用とす。如斯なれば軽賦の者は登り得ず生涯大切の旨願ならねば籠らずとなり」。 (生駒勘七「御嶽信仰の成立と御嶽講」『富士・御嶽と中部霊山』(名著出版1978)p141)
この登拝に参加する道者たちは3月から精進潔斎に入り6月12、13日の祭礼に参加して山中で一泊、頂上をきわめる。日数もかかり、お金もかかるので登拝に参加するのは容易ならざることだった。道者たちの範囲は「王滝・黒沢両村を中心に木曽谷一円にわたっていた」。なお、道者の中には女子も加わっており、中腹までの登拝が許されていたが「井田イタ」道者ないし「湯田ユタ」道者と呼ばれていた。これは東北のイタコや沖縄のユタなどとの関連が想像され、御嶽信仰で盛んな「憑依」現象とも関連するか、と生駒勘七は指摘している(同前 p143)。

尾張の覚明行者が木曽を訪れたのが天明五年(1785)で、御嶽登拝の簡素化を黒沢村御嶽神社神主武居家に嘆願したが、地域の既得権の重大な侵害となるわけで、容易には許されなかった。藩庁や代官所にも申請したが許されなかった。しかし覚明は山麓の村民に従来の「七十五日の重潔斎」の代わりに「水行だけの軽精進」を主張し強行した。登山道の整備にも力をつくし、登拝者が増加していった。
はじめは反対していた各村の支配層も、登山者の増加が経済的利益をもたらすことに気付き、登山口の福島・黒沢村は登山精進の簡便化による経済的潤いを受けるようになる。王滝村は江戸の修験者普寛を援助して新たな登山道をつける努力をし、王滝口登山道が完成した(寛政六年1794)。普寛行者は同時に、江戸や関東方面の御嶽信者が大いに増加することにも尽くした。
これらの信者達は、村落毎の「講」を作って活動した。上掲の生駒勘七の論文には「木曽谷の御嶽講」という一覧表が出ているが、そこに取りあげられている講は26ある。つまり、多数の講が存在していて、覚明系や普寛系やその他の有力な指導的行者ごとに様々な特色をもちながら、全国に広がっていった。

注意すべきは、江戸時代には「講」と呼ばれており(その名は御嶽講、覚明講、大元講、滝本講など様々)、「御嶽教」という語は明治になってからのものであることだ。しかし、「講」であったものが新たに出来た「御嶽教」に加入したのはその一部であり、多くの「講」はたまたま縁のある教派神道に属したり、維新前と変わらず「講」のまま御嶽山の登拝を続けていたりしていた。
この間御嶽講社が分散していくのを嘆いて、その大同団結をはかり、講社を結集して一派を創立しようとしたのが下山応助で、彼は明治6年に御嶽教会を設立し、初めは大成教に所属していたが明治15年9月ついに独立して一派を立てるにいたった。(中略)しかしもとの講社の全部が復帰したわけではなかったものであり、現在神道大教・神理教・みそぎ教・大成教・修成派・実行教・丸山教・稲荷教・天台宗寺門派および山門派等の旧教派神道系の教団に所属する講社(教会)のなかに御嶽登拝を行っているものが沢山あるが、これらの講社の前身はもともと御嶽講社であり、それぞれの講社の伝統を受けついで毎年御嶽登拝の行事を固く守っていることがこのことを有力にものがたっている。 (同前 p152)
もう一つ重要な点は、これらの御嶽講の多くでは「御座おざを立てる」といって、憑依(神がかり)によって卜占や病気治療などを行っていることである。これが講の構成員にとっては強い魅力になっていて講の結束力となっている場合も多い。小林奈央子「テクストとしての御嶽信仰」PDF(2007)(ここ)は、現代生きている御嶽講の「御座」を詳しく知らせてくれるので貴重。
このように御嶽と御嶽の由来を調べてみると、上で底本が「東京の御嶽教」と述べていたのは重要なポイントであったことが分かる。無数に存在する由来の古い御嶽講が公式にはその活動を認められず、新政府の論理に合うように新造したのが「御嶽教」なのであった。その本部は東京にあり、そこから古川嵩らを勧誘に来たのである(本来御嶽山の麓にその本部があるのが当然なのに)。

古川嵩とその支持者たちはこの山村に降って湧いた宗派論争によって、大台ヶ原に教会(神社)を建てることは単なる山麓における神信心の問題にとどまらず、東京の新政府の宗教政策と否が応でもつながってしまうことを知った。つまり、自分たちの信仰は新政府公認のどの教派神道に加わることになるかという重大で深刻な政治的問題であることをはじめて知らされた。御嶽教が山深くへ入って来てこのタイミングで予期せぬ宗教論争を巻き起こしたことは、考えようによっては、やがて結成される大台教会にとって幸運だったとも言える。

明治政府は国家理念の背骨となるものを西欧の一神教をまねた「天皇制神道」としたいと考えていたが、我が国には“八百万やおよろずの神”といわれるほど無数の神があり、しかもそれらは平安貴族の「本地垂迹説」理論によって、「仏」が本地で「神」が垂迹(仮の姿)であるという神仏を区別しない信仰形態として社会に広く受け入れられていた。幕末・明治初めに「神道」と「仏教」と並べてみると分かるが、仏教にはそれぞれの教祖があり長い教団活動をなしてきた実績がある。江戸時代には寺請制度があって戸籍制度の代わりをなしていた。それに対して「神道」の側には、富士講なり御嶽講なり出雲大社教なり伊勢大神宮なりのそれぞれの伝統を持つ独特の組織と活動形態があったが、それらを共通に束ねる「神道」という理念が日本民族を蔽うほどには成熟していなかった。すなわち「神道」は、近代国家の統治機構の「部品」としての使用に耐えない未熟な状態で存在していた。言い換えれば、それらは太初の原始的信仰の名残をいまだ色濃く留めていて、それだけ「純粋さ」を保っていたと言ってもよい。
明治政府は天皇神を祀る神道を「国家神道」とし、それは宗教ではない日本人なら生まれながらに持っている心性である)という強引なきめつけを国民に押しつけた。「神社神道」である。それ以外の無数に存在していた八百万神を祭神とする様々な神道を「教派神道」として個別に審査して認める(ないしは認めない)ことにしたのである。

3ヶ月の山籠を済ませて下山してきた古川嵩には、いずれかの宗教を立てて新政府から承認される必要があるという難題が待ち受けていた。あるいは東京に出て、どの教派神道が良いか実地に調べてそのうちの一つを選択する必要があるのだった。山中で苦行に邁進することに比して、信仰の本質とは何の関係もない何と隔たった世界であることか。

古川嵩・奥村善松・福山周平・山本清五郎・谷向一清の5名で上京することになった。出発の直後に濃尾地震(明治24年10月28日朝6時半ごろ)が発生し、一行は柏木で地震情報を聞いた。東海道線は止まっており一行は四日市から横浜まで船で行っている。東京の地理などまるで分からぬので、ともかく上野に宿を取り、市中を歩き回った。
時、明治24年11月中旬、帝都の秋風は汚れた白衣、一本の自然木をついて歩む跣足の翁の身に、そぞろ冷たくしみるのであった。(p197)
明治前半の教派神道の教派の消長は、数年毎に変転し複雑でなかなか理解が難しいのだが、底本は次のように述べている。
当時、日本に神教として存在していたのは。神道本局、実行教、扶桑教、大社教、大盛教、神習教、御嶽教、新宮教の八教で、その本部はいずれも東京に在ったが、各教とも財政いづれも窮乏し、管長以下、教職の主なるものを挙げて、ひとへに理財の考へに汲々として居た。 p199 強調は引用者)(2か所の訂正は井上順孝『教派神道の形成』(弘文堂1991)による
実際には、黒住教、神道修正派、神理教、禊教、金光教、天理教を加えて14教派があった。口述した古川嵩の記憶にあったのが上の「八教」であったということなのだろう。神宮教は明治32年(1899)に神宮奉斎会となって離脱し、13教派が太平洋戦争ごろまで続いたので、神道十三派と呼ばれることが多い。

古川嵩は御嶽教を本命として考えていた。それで御嶽教本部へ行き「御嶽教の支部を大台に置いて、教理を世に広めて、汚辱の人々を救はう」と志を述べたのだが、次のような説明が返ってきたという。
大台教会設置は、直轄教会ならば1万5千円、大教会ならは1万円、分教会ならば5千円を本部に納入し、之に付随して教導職名大教正は1千円、中教正は7百円、小教正は5百円を納入せよ。さらば御嶽教会の分身とせん。 p198
既述のように、歴史の古い「御嶽講」はまとまった神道理論を持たず、各地に多数分立していた強固な「講」組織が活発で多様な活動をしていた。そのうちで山下応助の呼びかけに応じた講が「御嶽教」に集まっていたに過ぎない。したがって、古川の記憶には誇張があるかも知れないが、次節に示す神習教のような理論的な説得をすることができず、実際に、入会金に類するような話題しか出なかったのかも知れない。



【4】神習教   目次

古川嵩の一行が御嶽教本部でお金の話ばかりを聞かされたことに憤慨し絶望していたところ、日本橋近くの船着き場で偶然に古川と同郷の知人・長井兼藏氏に出会う。古川嵩の純なる求神の志と上京して今直面している困難とを聞き、長井氏は亀戸天神の神官・青木氏を紹介してくれる。青木氏は多くの神道の各教派が烈しく変動している明治の新世界で「ひとり神教の面影を厳として得ているものに神習教があり、その神習教管長に芳村正秉氏がある」と紹介してくれた。

この神習教の管長芳村正秉まさもち天保十年1839~大正4年1915)は美作みまさか国(岡山県)出身で維新前に京都で倒幕志士たちとの交わりがあり、明治新政府内にも名が知られていた。彼は明治初年の神祇官(明治初年に敷かれた太政官制の官庁組織名、神事を管轄する)に推されたのを躊躇していると、西郷隆盛が彼の“引っ込み思案”を批判したので出仕することにしたという(井上孝順前掲書p280)。その後、組織改編にしたがって教部省に所属しさらに教導職となり、明治6年ごろ伊勢神宮に移る。前に記したが、明治6年は太陽暦採用の年でありキリスト教を解禁した年である(正確にはキリスト教禁止の高札を撤去したが、信仰の自由を認めたわけではない。黙許の状態で過ごしキリスト教の活動を認めたのは明治32年)。芳村正秉はまじめな理論家だったようだが、ちょうど時流に乗ったことになる。
日本全国の村落に分布していた神社をすべて束ねて「神社神道」とし、それの頂点を伊勢神宮とするというのが新政府の宗教的国家構想であり、伊勢神宮は能う限りの高みに置かれたのである。国民はすべて神社神道に包摂されるのであるから、神社神道は宗教でさえないという、宗教国家が生まれつつあった。芳村正秉は必ずしもその国の方針に賛成したわけでなく、自身で修行を実践し、最終的には神習教を創って独立する。
伊勢神宮に移った正秉は、やがて神宮の財政立て直しに努力することになる。当時神宮の財政状態は極度に悪化していたのである。一方、近衛忠房、本庄宗秀らと共に、神宮教会の開設や神風講社の結集にも尽力した。また、各地における布教伝道にも加わった。
彼は伊勢神宮での神への奉仕活動の中で神秘な体験をして、それをきっかけに神との直接的交流というものを体験的に感ずるようになった正秉は、やがて各地の霊山とされている霊地に赴いて修行を始めることになる。その背景には、宗教として見た場合の神道の衰退を憂える心があったのである。(中略)最初、四〇日間にわたり断食を行ない、祓除法を修めたときは、親戚や友人は,体を損なうことを心配して止めるようにいい、隣人などは狂人とみなして笑ったという。しかし、修行はその後も繰り返し行われる。やがて、家を去って諸山での修行にはいることとなる。御嶽山、富士山、茶臼山、吾妻山、鞍馬山などの高山、霊嶽に山籠し、木食生活を重ねた。また四八日間の断食経験ももっている。
このような修行は前後三年間続いたとされている。あるときには、妻子を伊藤博文に託して修行に出たとも言う。また、神習教を立教後も、しばしば修行に出て難行苦行を重ねた。こうした修行によって神道を興すことが、国家が治まり、皇室も栄えることにつながる、というのが彼の考えであった。
井上孝順前掲書p281
芳村正秉はやがて伊勢神宮を辞し、神道布教に専心することを選び、「教導職」となり、明治14年に神習教会を許可された。正秉を信奉する神官教導職が増加し、各地に分教会・支教会が設立されていった。内務省から神習教管長を認可されたのが明治17年9月。

明治24年11月中旬、古川嵩ら一行と面会したとき芳村正秉は53歳で、当時としてはすでにかなりの長老である。嵩は32歳、大台ヶ原山での激しい山籠修行を経験しているとはいえ、彼の修行はいわば自己流であり無手勝流である。少年時代に父と共に御嶽登拝をしそこで御嶽教のエッセンスを体験しているが、修験道や山岳修行を本格的に学んだわけではない。先達とか先師というべき人と出会っているわけではない。
正秉に対して嵩は自分が神習教本部に来ることになるまでの事情、大台ヶ原山で体験してきたことを包み隠さずそのまま述べた。
翁は既往今来の事情を、なにの修飾もなく、裸のまゝ芳村氏の前に投げ出した。そして只管ひたすら大台ヶ原の頂きに、神習教会の分教会設置をうべなはれん事を頼み入った。(中略)『よい哉、よい哉、大台の行者、御身こそ世に云ふ仙人、御身こそ神に奉仕して恥じない人!!』と云って、破れ汚れた翁の白衣を,さながら慈父が子を愛撫するやうに撫ぜたのであった。(中略
芳村氏は、また一行の人々に向って、翁の如き神に等しい精進の人が、世に出でた事を歓び、はるばる非才を訪ねて来てくれた事は、ひとへに神の加護によるもの、吾が身も神に仕へて今日に至った生涯が、今日という今日、初めてその労を神から報ひられたやうに思ふのであるとさへ云った。
p204~207
芳村正秉は、当時の神道についてもっとも理論的に突き詰めて、また、断食修行や山籠修行などの実践を重ねたまじめな神道家であった。彼の経歴や付き合のある人脈からして、当時のわが国における一流のインテリでもあったと言ってよいであろう。下で紹介するように、神習教は外交官などの在留外国人達にも注目されていた。その芳村は古川嵩という熊野の山中から出て来た無学の男が、自分がとうてい到達できない「高み」を大台ヶ原山で体験してきたことに気づいたのだろう。自分を訪ねてきてくれたことを「神の加護によるもの」といって喜んだという率直さが芳村の偉いところである。

翌日から神田猿樂町の神習教会で35日間にわたって「芳村氏から、教理、諸式、其他神習教に関する一切を習得した」。35日間というのは随分長いと思うが、その後しかるべき認可証などを授けてもらい、12月の上北山に戻ったのである。
実際、上北山の山奥から,帝都の真中へ、一本の杖、一枚の汚衣、然も跣足のまんまで飛び出して行って、秋から冬まで都中をぐる/\と廻り歩き、金は失くなる、寒さに攻められる,都の人々からはそれ狂人よと嘲笑される・・・人間に生まれてあれほど辛酸を舐めた事はなかった。 p208
当時を回想して嵩はこう語っている。正直な回想だと思うが、この時の上京に要した2ヶ月間ほどは、単に心身の痛苦というだけでなく、自然林山中で突き詰められた「山神」を求める純な心がそのままでは世に容れられず、明治新政府が創出しつつあった「教派神道」という秩序にはめ込まれざるを得ない変容の時間でもあったのである。この後わたしたちは古川嵩が進んでいく道筋をたどるのだが、大台教会がどのような歪みを受け、変容していったか、という観点が必要であると考えている。

【パーシバル・ローエルと神習教】
神習教とその管長・芳村正秉が「教派神道」のなかで理論的に最も突き詰められ洗練されていたと考えられると述べたが、関連することだが当時の神道の中では神習教が欧米人らに最もよく知られ、訪問をも受けていた点を指摘しておきたい。パーシバル・ローエルの著作・講演活動などが影響するところが大きかった(ニューヨークで新聞記者をしていたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が来日の意欲をかき立てられたのは、ローエルの日本に関する最初の著作『The soul of the Far East(極東の魂)』(1888)だと言われる。ハーンの来日は1890年(明治23年)である。)。
神習教副管長・菅野正照『教義の栞』(大正3年、国会図書館デジタル公開)の一節「神習教と外国人」から抜萃する。
前略)明治廿四年十月北アメリカ合衆国、ボストン府の紳士、哲学博士パルシバル・ローウエル氏が、外務大臣(陸奥宗光)の紹介に依り、我が管長閣下に神道の原理よりあらゆる宗教上の質問、及び神の実在を質さんとて、その当時外務省参事官、宮岡法学士、竹中医学士を通訳とし、来教ありしに依り、管長閣下は学理上より懇切丁寧に之を説明し、且つ論より証拠目に見ぬ神様を、大中臣家の神事かみわざを以て目前に示されければ、博士は管長閣下の神道の奥義を極めらるゝの深きに感じ、遂に門人となり、神道を研究し、博士帰国して後は『日本の神習教は、神道唯一の祭壇、万国無比の霊場なり』と大声疾呼し、演説に或は著書に於て、熱心を以て本教を世界の学者紳士に紹介さるゝが為め、外国人が招かずして陸続参拝せらるゝに至ったのである。 以下、ベルギー公使館の男爵ド・アネケン氏、オーストリア大使、アール・エフ・マツダックス氏及び同夫人、にはじまる各国大使館関係者の名前が延々と並ぶ)(同書p122~4、引用の用字は読み易くしている)
神習教の大祭の間は実際に欧米人の参拝客が多かったと、新聞記事にまでなっている。
「外国人も参拝の神習教大祭」 東京市神田区今川小路二丁目五番地神習教本祠に於ては、例年の通り来る(四月)八,九,十の三日間大祭を執行する由。同大祭には毎年内国人は勿論外国人の参拝する者多く、本年も去三月中旬より東京、横浜在留の英、米、独、仏の諸紳士等より続々参列申込みあり、目下其参拝場の準備中なりと云ふ。尚ほ大祭式の日割は八日探湯式、九日鎮火式、十日御動事御供式等を執行する筈。 (日本新聞明治36年(1903)4月2日「新聞集成明治編年史」14による)
上記のパーシバル・ローエル(1855~1916)は明治16年が初来日で、その後幾度も離日・来日をくり返している。彼はボストンの名家の出であり、極東情勢に詳しいことが米国政府に知られていたのであろう、米政府の依頼で李氏朝鮮の外交顧問団に加わってワシントンの外交交渉に参加している(明治16年)。能登旅行を行ったのが明治22年5月(『能登 人に知られぬ日本の辺境』十月社1991)、御嶽山登山を行って御嶽教の「憑依」を何度も見ることができたのが明治24年8月(『神々への道』国書刊行会2013 口絵写真20枚あり)、そのあとすぐ芳村正秉について神道を学んでいる。伊勢神宮を正式参拝したのが明治26年で、その年末に日本を離れて二度と来日しなかった。ローエルは日本に興味を持ち、独特の視点で欧米世界へ紹介してくれた点で大事な人物だが、『能登』は珍しい旅行記だから別として、彼の書物にある日本文化論は19世紀の欧米文化人にありがちの「近代化」至上で、案外つまらない。『神々への道』が収載してくれた口絵写真がもっとも見るべきものだ。
アリゾナ州にローエル天文台を創設したのは1894年(明治27年)で、火星人や火星運河説を唱えたが今となればSF的に興味が持たれるぐらいだ。数学的計算によって海王星の外に惑星Xが存在すると予言したが、同天文台で弟子のクライド・トムボーによって実際に冥王星が発見されたのは死後14年経った1930年のことだった。この天文学的業績は不滅である。



【5】山神 1   目次

古川嵩らの一行が神習教の認可を得て、上北山村へ戻ってきてすぐに明治25年(1892)の新年となった。古川嵩は大台山に確固たる自らの宗教をうち立てるべく「五田狩温泉の行場」(p210)に入っていた。さらにそこで池峰明神に90日間の夜中参籠の願を掛けて修行を始めた。五田狩温泉の行場から約50丁(5.5㎞)の明神池の池畔に池神社がある(現代の地理院地図では「五田刈谷」と出ている(ここ)。この地図に明神池と池神社も記載されている)。
翁が明神の神姿を拝し、池の神秘を正目に見んとしたのは、一つは翁の求神の念からもあるが、その大因は、これによって、正に開かんとする大台一宗の基礎を堅め、翁が信仰の上に確固とした『神』を得んとしたに外ならない。

毎夜十時から五田狩を出て深更一時池の峰に着き、丑満二時から社前に詣でるのであった。(中略)参籠は、社前に座して,無言の行をつゞけつゝ、心に『神の姿を見せさせ給へ』と祈るのであったが、
p212~213
寒中の積雪を踏み例の白衣・跣足で連夜の参籠を続けるのであるが、嵩の目的は自分の前に「神が姿を現す」のを確かに見たいということにあった。
九十日の満願日までには、乃至満願の日には、神は必ず姿を見せてくれるであらう。

自分の信ずるやうな神は、果して世にあるかどうか。果して世に云ふ神と云ふものは、人間の目に見得るものかどうか。

神は今宵、嵩の前に姿をみせてくれるであらう。
p215
これは実に素朴で単純な問であるが、この問を真っ正面から堅持して譲らないところに嵩の独自な神観念があった。これは、嵩が非インテリで一徹な心性の持ち主でなければあり得なかったことだったと思える。
90日目の満願の夜、嵩は神の示現を今か今かと待っていたが、何のしるしも無かった。ついに彼は大声で叫んだ。
池の峰明神、願くば満願の一夜に、九十夜の嵩が祈念の真心を知らせ給へ。 p216
驚いたことに、そのとたん大音響とともに白み始めた空に黒雲のような巨大な生物が現れ動いているようであった。嵩は度肝を抜かれ、池の汀に膝を屈して座り込んで
あゝ神は、今こそ神秘を見せ給ふ。p218
何と云ふ光栄、何と云ふ幸福。p220
と感激に震えた。実際の底本本文では多くの頁数をつかって詳しく述べているのであるが、数刻の後、彼の感激はすべて自身の誤認であって、水鳥の大群が飛び立ち、朝日が差してきて神社の金具が輝いたりしたに過ぎなかったことに気づく。それにより、嵩は強い衝撃を受け、深く失望する。
『神もこの調子で信じて行くと、とんだものになってしまふ。私のあの時の心が、おちつきを欠いて居たら、私は私の錯誤を、すっかり霊験と信じてしまったであらう。神に頼った私に、神が授けたものは実に皮肉な喜劇の一幕であった。然し私はこれで世に云ふ神秘や伝説とい云ふものが、人間の恐怖感念乃至迷信感念から来て居る事の多いのをます/\深く信じたのであった』

『神ほど人を弄ぶものはない。神ほど人を失望させるものはない』
p222~223
絶望の心を抱いたまま、嵩は五田狩の修行場を切り上げ、寺垣内の木田栄蔵氏宅へ戻ってしまう。彼の立つ位置は《神の実在》を前提としたもので、その煩悶のなかに自分をひたすら落と込み、そこで出口のない苦悩の悪無限に懊悩するばかりであった。
『実際私の魂は、あの朝かぎり私の身体から抜け出してしまったのだらう。私はうまれて初めて失望落胆と云ふものの痛々しさを知った。行もなにもすっかり厭になり、只だも此上は考へるより外に仕様がないように思って、蹌踉と木田氏の許へ引き上げるなり、物をも云はず、離れ座敷の中へ転げ込んで、世の中も自分の身も神も信者も一生の事業も成るようになれと思って、昏々と眠りに就いたのであった』 p224
逃れようのない苦悩の淵に陥った古川嵩には、数年前、名古屋で一度女とその極点にまで至ったことがある《自死》しか解決の道筋がないのである。妥協を知らない嵩は、不器用な本質を持つ人間であるとも言えるが、木田氏宅の手近にあった鎌を研ぎそれで自分の首を掻き切ろうとする。そして、ぎりぎりの極点で或る《回心》に達する。
感情は,声あるものゝ如く、翁に叫んだ。それは
『悩める者よ。悩みを拂はずして悩みの為に生命を堕すことは愚かではないか。悩める者よ。お前の命はお前の自由にするにはあまりに価が高い。お前の命はお前の自由に出来ない命である事を忘れたのか。お前の命は大台ヶ原と共にする事を忘れたか』
翁は咽喉に当てた鎌を止めた。叫びは翁に、大雷のごとくひゞいたのであった。
p227
《自死》は、自分の意志より自分の命の方がはるかにその由来が深いということを忘れ、自身を裏切る行為である。“自分の命は大台ヶ原に預けた”のではなかったか。 上引は何十年か後に多数の信者に尊敬される立場になった古川嵩が、かつての《回心》の内実を語ろうとしている場面なのである。ゆえに、私たち後世の者がここから引き出せるのは、古川嵩という男が彼の人生で何度か超えなければならなかったであろう《極点》を愚直に突き進み、その最後の一瞬に《悟り》の妥協に達したという事実である。自分の内にぎりぎり存在する信念、それが即ち《大台ヶ原山神》であると。
そこに大悟があった。九十夜の苦行は,死を以て臨んで初めて報ひられたのであった。
『悟れた。悟れた』
翁の口からは,溌剌たる声、はっきりとした言葉が洩れた。翁は神を見んとして神を見ず、遂に自分自身の内に神を見、神を霊感した。
大台ヶ原山頂の堂宇に祭祀すべき神は漸やく見つかった。』
p228 強調は引用者
古川嵩は木田氏に明神池参詣九十夜のいきさつと自分の得た心境を吐露した。そして、木田氏宅に主だった信者・弟子を集めて「いよ/\大台ヶ原に教会建立着手の決心を打ち明け」、建設資金を「万人の喜捨による」として、「上北山村を中心として奈良三重和歌山の三県を行脚勘説」する計画を述べた(p229)。つまり、大台ヶ原の山中に「大台ヶ原山神」を祀る教会を建てて山を開きたい、という計画を周辺山麓の人々に周知し賛同をもらおうというのである。

一行の実際の行脚は一月後から始まった。明治25年4月中に開始したと思われるが、その年の秋までかかった。上北山村から始まり、北山村、南牟婁郡木本町、東牟婁郡新宮町、9月には奈良県吉野郡十津川村まで足を伸ばしている。いずれに於いても大台ヶ原への教会建設は好意を持って受け止められた。各地の信者はもとより祈祷などで縁のあった豪家などを頼りに行脚が行われ、大成功のうちに終わったのである。
古川嵩は芳村正秉に授けられた神習教の正式の「教導職」として説教をすることを公許されていたのであるが、この行脚の旅の中で「神教の道」を初めて説くことになった。
『何しろ下手な説教だから、聴く人には気の毒ではあったが、どうしても語らねばならないと決心すると、言葉は自然と真実を吐くもので、後で考へると私の口から、よくもあゝした言葉が出たかと疑われる位だ』 p231
と述懐している。嵩の説教が実際にはどのようなもので何を語ったか、資料がなく残念ながら分からない。大台ヶ原の「山神」について語ったのだろうと想像するが、前年秋に東京の神習教本部で芳村正秉から35日にわたって学習したことなども含まれていたのであろうか、そういうことについて何も分からない。
この時点で古川嵩が得た信仰の核心は2つあると思う。
) 彼の信仰は自然崇拝ないし山林・山岳賛美というもので、何らかの人格神を表象しなかった。
) 山神を祀る殿舎(教会、神社)を山頂に建て、山小屋機能を持たせようとした。
周辺山麓の人々に「行脚勘説」してまわったのは、大台ヶ原を開き、大台教会を建設することを知ってもらうこと(了承してもらうこと)、教会建設への喜捨を求めるためであったが、そこで何らかの宗教的宣伝や入信を求めるような働きかけが行われた様子はない。古川嵩と村人達との関係も教祖と信者という関係ではなかったようである。


【6】山神 2   目次

半年に余る周辺県をふくむ行脚を終え、大台山頂に教会を建て山を開くことについて大方の賛成を得た。その段階で古川嵩は冬の大台ヶ原での山籠修行を行うと言い出した。多くの村民が、その企てが無謀であり生きて帰ることは出来ないと説得するのを振り切って、明治25年12月10日に雪の大台ヶ原に登って行った(底本は明治24年12月10日と誤っている p233)。

なお、明治初年に実利行者は牛石ヶ原で3ヶ年の修行を行ったし、修験道史では中古以来大峯での冬の山籠苦行は有名で山伏の名誉ある修行であると考えられていた。「笙の岩屋の冬籠」はよく知られていた(五来重『修験道入門』(角川書店1980)の「冬の峰入」が分かり易い。年代のはっきりしている例として円空が延宝三年(1675)から四年にかけて笙の岩屋で冬籠を果たしたことを挙げている)。古川嵩が誇張しているほどには大台ヶ原での越冬が前人未踏で怖ろしい試みとは言えない。実利行者の弟子であった福山周平などが古川嵩に付き従っており、冬の大台ヶ原でも小屋があれば過ごせるという情報はあったものと思われる。逆に言うとこの辺りの『大台ヶ原山と大台行者』の語り口は、誇張に過ぎると思われる。
「奈良県立八木測候所」が設立されたのは明治30年のこと(昭和14年に国営移管)。「奈良県気象年報」の古いものが、国会図書館デジタルコレクションで公開されているが、明治40年分からすでに「大台ヶ原」という観測点名が出ている。岡本勇治編『世界乃名山大臺ヶ原山』所収の「大臺ヶ原気象一斑」によると、
大台ヶ原観測所は明治三十一年九月同山の開拓者大台教会主古川嵩氏にその雨量観測を嘱託せしに始まり、同三十六年六月寒暖計を併置し毎日一回午前十時其観測を共に施行せし来たりしが益々精細なる気象観測所の必要を認め大正八年末農商務省山林局に於て松山山林測候所附属雨量観測所を設置せられ之が専門的気象観測所を施行するにいたる、其間全く古川氏の熱心なる観測を続行すること二十余年、之が功績の顕著なるを認め大正七年我大日本気象学会より賞牌を贈り其功を表彰せられ今日に及びたり。(「大臺ヶ原気象一斑」 p102)
古川嵩は「山神」を信奉し、山民に護摩・祈祷を行って絶大の尊敬をかちえてきたとされる宗教者であるが、彼には合理性を重んじる開明的な面があり、大台ヶ原に降る大雨が何時間後に大台ヶ原を水源とする川(吉野川・宮川・熊野川)の増水につながるか、という問題に関心を持っていた。筏流しの林業業者らにとって重大問題であるという問題意識からである。林業組合との間に電話線を引くことなどの重要性を早くから理解していた。したがって、山岳気象の重要性を良く認識しており、雨量・気温の観測などを引き受けている。
吉野林業は江戸時代以前から杉桧の造林と組み合わせた人工林造成を長期に渡って維持してきたことはよく知られている。その大規模な美林は有名である。しかし、林業が資本主義的に強大化した段階で、自然林保護と矛盾する面が露呈してくる。世界的な製紙業のために大台ヶ原の天然林を皆伐するという暴挙を行うようになったのは大正期であるが、古川嵩が有効な反対運動をなした形跡はない。この点は第8節で取りあげるつもりであるが、古川嵩が早くから林業と親和的であったことと関連があるのかも知れない。
上掲の「大台ヶ原気象一斑」の最後は次のように終わっている。大台ヶ原・八木・札幌・網走の冬期平均気温、雨天日数、降水量を比較した上で、
之に依りてみれば五月より十一月に至る七ヶ月は容易に登山することを得、且つ寒中といえども越年に困難ならず。(強調は引用者 上掲書 p111
この「大台ヶ原気象一斑」(大正9年以降の作成)は、小論が底本としている池田晋「大臺ヶ原山と大臺行者」と同様に岡本勇治編『世界乃名山大臺ヶ原山』(大臺教会本部 大正12年)に含まれている。上引のように大正7年に「大日本気象学会」から古川嵩が表彰されたことが記載されており、古川嵩ないしその周辺の人々の目に触れていることは間違いない。それゆえ再度掲げておこう、この辺りの底本の語り口は誇張に過ぎる、と。

古川嵩は奥村藤十郎・善松親子と福山周平の3人を先達として名古屋谷の小屋へ入った。そば粉と稗の挽き割りを食料として運び上げた。嵩は例の白衣で跣足である。翌日下山する3人に対して、嵩は次のように述べている。
私は大台ヶ原山神の試みに飽迄堪え様としてゐるのである。私が好んでこの苦行についたのは、決して好奇や虚名を売る為ではない。私には斯うしなければならない運命がある。私の信ずる処は、大台ヶ原山神の命ずる處と知って頂きたい。私の生命は大台と共に在ってこそ価値がある、だから決して私の身を案じて頂かなくともいゝ。 p236
積雪が序々に深まっていく小屋の中でチラ/\と火を燃やしながら、嵩の日課は座を組んで黙然と瞑想することであった。小屋を守るために雪除けをし、薪にするために雪の下から枯れ枝を集めた。除雪した雪で小屋の外側に雪壁を築いたが、それは防風にもなった。
やがて体が寒さに順応してきたので、小屋の火を消してしまい、生のそば粉や稗粉を雪と混ぜて団子として食べた。雪に埋もれた小屋の中で座し続ける嵩を山雀(ヤマガラ)が訪ねてくるようになった。嵩は山雀との交渉について詳しく語っている。
その翌日、翁は小屋でいつものやうに蕎麦粉と稗の実の朝餉をとって居た。その朝は稀に雪が晴れて、うすれ日が、雪雲の間から洩れていた。すると突然、二日ほど聴き馴れた山雀の啼鳴は、小屋の背後の雪壁のあたりで、はっきりときかれた。(中略)翁はその音色を楽しんだ。果ては翁の唇からも、その音色に合すやうに微かな口笛さへ出て来た。すると山雀は、その音色を自分の友の啼鳴とでも思ったのか、朗らかな囀をつゞけながら、表戸の方へ移って来た。そして開け放った表戸に止まって、また暫く啼いて居たが、やがて翁の居るのも知らぬがに、小屋の内へと飛んできた。翁は人をおそれぬげの山雀を、心にくいばかりいとおしいものに思った。そして口笛を吹きつゞけた。すると山雀はその口笛をたづぬるものゝやうに、身を軽く翁の肩に飛移った。そして余念もなく、やっぱりたへな啼鳴をつゞけた。翁は、肩のあたりに、一種こそばゆさを感じたので、目を細く開いて山雀を見た。(中略

大台ヶ原山神の使はしものが、翁が苦行の有様を、ひそかに見に来たのではなかろうか・・・・翁はそんなにも思ったのであった。更にまたこの人跡絶えた荒涼たる風雪の中に、独り瞑想する翁の苦行を哀れんで、慈悲深い山神はかりに小鳥に姿をかり自分を慰め給ふのではなからうか。
p245~246
ここで注目したいことは、古川嵩の「山神」が徹底して彼の個人的な体験に基づいた内発的な発想に固定され、彼個人の領分に足を置くところから飛躍していかないことである。嵩以前に「大台ヶ原山神」を言い出した者はおらず、その神は独自であって係累をもたない。と同時に、その「山神」がいかなる性格の神であるのか、嵩はすこしも語っていない。中身がまるで空白なのである。もし神習教の芳村正秉であれば、仮に類似の体験をしたとすれば、大中臣の末裔たる自分という“理念の遠近法”が即座に起動して、自分が直覚した「神」を、おそらく記紀神話の世界に結びつけてただちに理念化し高度化したことであろう。

1月も終わる頃のある朝、嵩は不思議な「感」を覚えた。その感覚について彼は「神人感通」の微妙な恍惚境であるという言い方をしている(p251)。ふたりの知人が雪中を登ってくることを予感し、名古屋谷の自分を訪ねて来る2人のために久しぶりに火を焚き湯を沸かして待った。到着したのは奥村善松と福山周平の2人であった。
いわゆる「虫の知らせ」とか「第六感」というものだろうが、南方熊楠も良く体験したと「履歴書」(矢吹義夫宛書簡、大正15年)に書いている。
かくて小生那智山にあり、さびしき限りの生活をなし、昼は動植物を観察し図記して、夜は心理学を研究す。さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ずるゆえ、自然、変態心理の研究に立ち入れり。幽霊とまぼろし(うつつ)の区別を知りしごときこのときのことなり。(中略)小生フロリダにありしとき見出せし、ピトフォラ・ヴァウレユリオイデスという藻も、明治三十五年ちょっと和歌山へ帰りし際、白昼に幽霊が教えしままにその所にゆきて発見致し候。今日の多くの人間は利欲我執事に惑うのあまり、能力くもりてかかること一切なきが、全く閑寂の地におり、心に世の煩いなきときは、いろいろの不思議な脳力がはたらき出すものに候。
小生旅行して帰宅する夜は、別に電信等出さざるに妻はその用意をする。これはrapportラツポールと申し、特別に連絡の厚き者にこちらの思いが通ずるので、帰宅する前、妻の枕頭に小生が現われ呼び起こすなり。東京にありし日、末広一雄など今夜来ればよいと思い詰めると何となく小生方へ来たくなりて来たりしことしばしばあり。
(『南方熊楠全集7』p31)
古川嵩の「神人感通」も実際にあり得たものとわたしは考えたい。常人にはなかなか体験できないような心身の長期の静寂の境地にあったのだろう。
名古屋谷の小屋に元気な嵩を見出した奥村と福山の2人は、嵩の凍れる遺体を雪中から掘り出してくるつもりで登って来たと語り、「あの雪の中で火も焚かず白衣一枚で居る事はどうしても奇跡だ」と述べている。嵩は
今思ってもあの大雪の中で、よく生き永らへて居られたものであると思ふ。不思議と云はうか何と云はうか。私は大台山神が山神を信ずる私を深く加護してくれたのであらうと思ふ。 p255
と述べている。大台ヶ原山の大雪の中で冬籠りが実現できたことを「大台山神の加護」として「山神」への深い感謝の気持ちを述べている。
この感想には無理はないのだが、ここで古川嵩が特徴的に示しているのは、中世以来連綿として続いてきた大峯の冬籠り修行の伝統(歴史性)を意識していないことである。明治初年の実利行者まで受け継がれてきた千日行や冬籠りが示す修験道の伝統に、自分が連なっているという自覚や誇りがなく、雪中の冬籠りが肉体的な防寒の問題に集約されており、それを実現させてくれたのが「大台山神」であるというふうに矮小化されている。彼の心中は純粋だが、それは「スポーツ登山」などと地続きになっている。日本の「山の神」は山中で孤独の作業をすることの多いきこりや猟師(マタギ)が守り神としてきたのが起源で、女神とされる。そこにはある種の実体化された想念がある(女を作業現場へ連れて行くと祟りがあるなど)と思われるが、古川嵩の場合はそれがなく、たんなる理念的な対象とされているように感じられる。

古川嵩の冬山籠りは、既述のように開始は明治25年12月10日であるが、終わりの日にちは分からない。「山に入って足掛け三ヶ月目」(p255)といっている。したがって2月、立春を過ぎた月半ば頃になるか。65日間ほどの山籠であったとしておく。


【7】教会建設   目次

明治24年(1891)10月末に、97日間の夏の大台ヶ原山籠を成就し村へ帰ってきた時、村の人々から異口同音に出た言葉は「魔物は居たか」であったという。
人々の口を衝いて出た言葉は、先ず大台の怪魔、一つたゝら義経の笹馬、其他怪魔として、古来伝説されて来た妖奇の実物に遭遇したか、またそれらの魔性の有無であった。然も人々は、依然として、魔の存在を信ずるものゝやうで、
『魔が有ったならば有ったと腹蔵なく語りきかせて欲しい。今後の処置も考へねばならないから』
と、今にも、翁がその魔の一つにでも逢ったと云ふ話しを、その口から切って出すかのやうに、固唾を呑んで待った。
翁は、これらの人々に対して、『魔』の存在に代わるに在山中、つぶさに舐めつくした苦行の始終を、残りなく語ったのみであった。
『世に奇怪はない。怪性魔物はこれみな自分の心から生み出すもので、大台の神秘伝説は只だ里人の迷説迷信に外ならぬ』
と喝破した。翁は更に語をついで
『大台山水の美は天下屈指、雲の壮大は俗人のはらを清めてあまりある。老樹のなびく處、幽厳の音おのづから起り、谷水の交響をきくところ、山に対する尊崇の情おのづから起り、名山大台の價は、四顧黄金を以て代ふる事は出来ない』
p192 強調は原文傍点
呪術・祈祷によって難病平癒を試みて、信者たちに奇跡のような効き目を幾度ももたらした験者・古川嵩であるが、彼自身は極めて合理的で開明的な思考をする。「山神」に逢おうとして逢えず、見ようとして見ることができなかったことを次のように村の信者たちに告白している。
翁は在山中、神に逢はうとして、逢ひ得ず姿を見んとして見るを得なかった一事を強く人々に云ひ進めた。そして、山頂に堂宇を建立し、永遠に大台ヶ原山神をこゝに祭祀する事は決して徒でないと説いた。 p194
大台山中でやり遂げた孤独・長期間の修行において、古川嵩は山神の存在を直感することはあったが、しかし、山神そのものを遂に目にすることは出来なかったし、逢うこともできなかった。彼が直感した山神は実体的な存在ではなかった。それだからこそ、大台ヶ原の山頂に堂宇を建立して山神を祀り込めるのだ、と。この一点こそが古川嵩の唯一の神がかりの超論理であったと言えよう。
翁が、大台ヶ原山頂に、一つの堂宇を建立する事を建言したのは此時であるp194 強調は引用者
すなわち、古川嵩は山神を祀る堂宇を大台山頂に建立するといっても、天理教の中山みきや大本の出口ナオがそうしたように、何か自分の信じる「山神」を唱え出したというわけではない。彼は大台ヶ原の山中で長期の山籠修行をすることで、厳しい風雨や動植物やの天然自然の総体に合一した、ある恍惚境を感得し得たというのである。
その日の朝、翁の心霊の上に奇蹟にもたとへまほしい或る『感』が湧いてきた。翁はその『感』を『神人感通』と名づけて居るが、翁の知る限りの言葉では到底表現出来ない微妙の感じであった。
 その感覚は、翁の全身を慄はせるほど明るく妙で、翁の心は、ほとんど人間としての自分を忘れるほどに快感・・・・恍惚の境へと導かれて行くのであった。翁はこの霊威とも何とも名づけやうのない『感』を不可思議に思った。翁はこれまでに、山中生活の途上、色々な霊感を得た。けれど、今日・・・・今受ける感じは、これまでとは全く異ったものであった。翁は、自分の信仰が、今や或る極に達した事を知らず知らず悟ったのであった。
p251
これが古川嵩が宗教を立てた拠り所である。この『感』は近代的な個が大自然に包まれた状態で感得する一種の感覚と通底しており、宗教的な霊感とは違う。つまり、この『感』は美しく純粋なものであるが、民族の意識の底に根を下ろしている太古からの宗教意識とは異なる。

古川嵩は明治26年春に冬山籠りを果たし、夏・冬両期の単独山籠りを達成した。この事実は信者たちに大きく熱い盛り上がりをもたらし、嵩と信者達は上北山村長・日下部守完に対し、大台ヶ原の山頂に教会を建立する許可を一同連署の上で改めて求めた。村長は「大台ヶ原で夏・冬の苦行をなし遂げたことは認めるが、山頂に教会を建てるとなると膨大な資金を必要とする。苦行は出来ようが金は出来るか」と反問して建設許可を出さなかった(p256)。古川嵩らは政府公許の教派神道である「神習教」の教会を建てるとしているのであるから、教会建築に関する法的な基本問題はクリアしている(逆に、上京して神習教に加入していなければ、この段階でストップがかかった可能性があった)。村長としては古川行者と信者たちに財政的な基盤があるのかどうか確かめて、有名無実の建設許可を出したのではないことの保証を求めたのであろう。

実際のところ資金集めが出来なければ、古川嵩の夢も理想もまったく現実的な力を持つことができないのは確かである。資金集めに成功するかどうかは「大台ヶ原山神」に対する信者達の信仰がどこまで本物であるかが試されているとも言えた。
この(大台教会建立の資金集めの)報一たび東牟婁郡北山村に伝るや、かねて翁を崇信する山本平治右衛門氏は、豪家橋詰島右衛門、山本丑之助、中西友吉の諸氏を説ひて、資金中へ各一千円ズツを寄進せしめ、諸氏もまた二百円を寄進したのであった。
この援助に力を得た翁と信者弟子共は、潮のやうに、近村を廻って、基金を募り、僅々二十日あまりに、五千に近い資金を収める事が出来た。
p257
この実績を突きつけられて、日下部村長はここに初めて教会建設の許可を与えた。

数日後、古川嵩と日下部村長それに信者らは教会の地所選定のために登山を行った。その登山隊の一行は4日間を費やして、大台ヶ原の西部から北部・東部・南部を丁寧に調査して廻り、最終的に教会を建設するのは「名古屋谷の名古屋平」と決し、そこに木標「福寿大台教会建立敷地」を立てた(p259)。
教会工事の設計一切は、神社殿堂の建築家として熊野地方で有名であった南牟婁郡市木村の工匠・城内兵次に依頼した。その設計図は、敷地一丁七畝十七歩(10649m2)、社殿十三間三尺四面(約180坪=360畳)であった。
工事初めは明治26年(1893)4月26日で、建築一切の「総支配」は福山周平であった。会計主任・奥村善松、大工棟梁・城内兵次、土普請・松田茂八、杣頭梁・田垣内正藏。
【土普請】(つちぶしん)
近ごろは使われない語だと思うので、註を付けておく。すこし古い土木関係の文書には、道普請・川普請などと並んで土普請の語が出てくる。地面を均したり、土手を造ったりする土木作業をいう。ヨイトマケなどが典型か。
雪が降りはじめる10月には工事を中断して工事関係者は山を下りるので、当然その時点で各人へ給金を支払う必要があった。五千円の資金はすぐに底を突き、嵩の仕事は金算段に東奔西走することだった。明治27年4月から第2期の工事が開始されたが、同年10月の第2期工事終了時までに必要な資金は、第1期分も入れて、「実に一万二千余円に達し、予算は既に倍額に近くのぼっていた」(p269)。時代はちょうど日清戦争(明治27年7月25日から明治28年4月17日)にかかっており、物価の高騰にみまわれていたのである。

古川嵩にとっては苦心惨憺の建設資金集めであったが、その過程で多くの地元有力者、近畿地方の実業家・代議士などの名士・有力者とのツテが出来た。また新聞社などにもその名が広く知られることになった。これらのことは宗教活動の本質とは別のことだが、宗教団体として存続していくためには重要なことであった。
最も多額の寄附をしてくれたのは「山林王」とも呼ばれる土倉どぐら庄三郎であったという。
第四年目・・・・日清役の血腥い風が吹きおさまった翌年、最後の工事に着手した。たま/\此の時。大和の豪家土倉庄三郎氏は、三途の川落ち(通称 さんずこうち 三津河落山あり)の水上に位する、宮内省山林の払下を受けた。この山林は,当時日本に於ける最大の山林と称された処女林であった。伐木搬出の道路は、伐木に先立って着工されたが、この延長十二里、道巾八尺、吉野郡川上村柏木を基点として,大台を貫き北牟婁郡船津村に至る。この工費約十二万円を要したのであった。
中略)この道路開鑿を機として,伊勢大和の国境に位する大台辻から,名古屋平まで五十丁(道巾八尺)の参詣道開墾の寄進を翁の許に申出でた。この工費二万円、当時大台教会に集められた寄進中の最高額であった。
p271
大台教会が完成しその開殿式は明治32年8月17日に行われたが、「この日参列した名士乃至信者無慮千余名、神習教副管長大教疔菅野正輝(正しくは 正照。第4節で紹介したが、神習教のNO.2)、土倉庄三郎、青野郡長、上北山・川上両村長、岩本代議士、各新聞記者団」らは登山隊を組み8月12日に奈良市を出発し、吉野山・川上村・柏木・大台教会宿坊(16日)へと登ってきた。その先頭を歩むのが古川嵩であった(p273)。


上図は岡本勇治編『世界乃名山 大台ヶ原山』の口絵。現存の教会は建て替えられている。

既述のように本殿はすべて畳を敷き詰めれば約360畳余の広さで、数百名の宿泊が可能である(第9節で紹介する大町桂月は「優に千人を収容するに足れり」と述べている)。『世界乃名山 大臺ヶ原山』に女学校生徒たちの大台登山の感想文が寄せられているが、引率の奈良県立桜井高等女学校長・野村伝七は「女生徒約三十名、其他二十名足らず」の50名近い人数であったと述べている。生徒の感想の中に「山上の宿の完全や、贅沢な馳走には驚いた。富士山の宿等を想像していた私達は心から驚きもし、教会長さんに感謝した」(p39)とある。
大台教会の開設の後、古川嵩はそこに定住し気象観測なども積極的に行った。「魔物が棲む山」と恐れられていた大台ヶ原が、「登山」の対象として、また自然の美や動植物の神秘を味わう「秘境」として知られるようになっていく。

だが、古川嵩が目標として掲げていた「大台ヶ原山の開山」とは、こういうものだったのだろうか。つまり、建物を建てそこに比較的自由に宿泊を認めるのなら、山小屋を作ったのとそれほど変わりがない。彼は、大台教会の設立まではきわめて熱心で体を張って全力で努力していたが、その目標がひとまず達せられた後には、彼の宗教的展開とよべるものが乏しい。

ここで振り返ってみると、数百人泊まれるという大台教会本殿と松浦武四郎が幾つか大台ヶ原に造った小屋とは、その発想がまるで異なっていることがよく分かる。松浦の小屋は「山稼ぎ」の山民のために途を開き石標を立て、小屋には山民が日常信仰している神仏の名号を掲げておくというものだった。それに対して大台教会は、不特定多数の「自然」を求める登山者などが利用出来ることをめざしている、としか考えられない。それを「観光の客」と喝破したのは大町桂月が最初だろうと思う(第9節で紹介する)。
古川嵩は雨量観測などで初期から林業業者と親和的だった。再度引用するが、「森林王」と呼ばれた土倉庄三郎に教会までの「参詣路」を寄附してもらって得々としているのも見過ごせない。
吉野郡川上村から大台ヶ原を越えて熊野側の船津村に至るいわゆる「土倉街道」の)開鑿を機として、伊勢大和の国境に位する大台辻から、名古屋平まで五十丁(道巾八尺)の参詣道開鑿の寄進を翁の許に申出でた。この工費二万円、当時大台教会に集められた寄進中の最高額であった。 p271
つまり、古川嵩は土倉庄三郎の手の平の上で踊らされていた、と言われてもしかたがない。むろん土倉庄三郎が、遠くまで視力の届く幅広い仕事をなした人物であることを、ひとまず置いてであるが。

彼があれほど熱情を傾け尊重していた大台ヶ原の森林を、どうにかして守ることが次の課題とならなかったのか。太古から神社が「鎮守の森」を大事に守ってきたように、教会を中心とした森林を教会を荘厳する宗教的礼拝の対象として位置づけ、周辺の森林を可能な限り購入して自然林皆伐から守るというようなことが出来なかったのか。四日市製紙会社が15万円で山林を買った、というような情報を見ると大台教会として手がまるで届かないことはなかったのではないかと思う。(昭和3年に牛石ヶ原に完成した「神武天皇像」については第10節で扱うが、これの鋳造費だけで約3万円であったという。鈴木林『古川嵩伝』p125

意地悪く言えば、「山神」についてその宗教的信念の内実を何も展開しない(憑依されない)古川嵩の「大台ヶ原山神」信仰は、自然賛美にほぼ等しいとするほかなく、それは「自然愛好」や「観光登山」と地続きの価値観に過ぎないのではなかったか。この問題について、その後大台教会が宗教思想として痛切な自己批判をしているとは思えない。
ちょうどその頃(大正に入った頃)、大台ケ山では、明治32年に古川嵩が土倉庄三郎らの援助で建設した大台教会は、しだいに増加してくる登山者の拠点となっていた。大台ケ原登山者は、大正の初めには200名ほどだったが、「このころようやくスポーツ登山が注目されはじめ、吉野群山は大阪にちかい山々として紹介され、「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」などの記事もややふえてきた。」といわれている。白井光太郎は、大正4、5年には大台ケ原登山者は、年数千人にたっしたと指摘している。村串仁三郎「吉野熊野国立公園成立史」pdf 2004 法政大学学術機関リポジトリ (ここ
つまり、大台教会が大台ヶ原山上に建てられ、宗派にこだわらない登山者の山小屋機能を果たすようになったそのタイミングは、大杉谷から大台ヶ原にかけての手付かずの森林を格好の資源と見なして、その森林を資本主義社会に組み込もうとする貪欲な動きが始まっていた時期にちょうど重なっていた。木材を消費するためには、単に木材伐採するだけでは意味がない。少なくともそれを山奥から運び出すことが必要であった。河川ないし主要道路まで材木を運び出す道を付けることがどうしても必要であった。が、それは快適な登山道としても機能する。宗教者・古川嵩は自らが立てた大願=「大台ヶ原開山」が実現したことがどのような社会的意味を持つか、自身の宗教理念と照らし合わせて見直す必要があった。大台ヶ原山神を感得しそれを祀るだけでは不充分であって、その山神が踏みにじられる事態となっている状況に、大台教会がどう立ち向かうかという新たな課題が生じてきていた。われわれはその難しい課題に対して古川嵩がどうふるまったかを問うことになる。


【8】白井光太郎   目次

植物学者の白井光太郎みつたろう東大教授)が明治28年(1895)夏に大峯山系から大台ヶ原付近を踏査した記録を残している。大台教会を建築中3年目の様子や、松浦武四郎が建てた小屋に古川嵩と共に2泊していることなどが記されており興味深い。ただし白井はその山行直後に記録を公開しているのではなく、「大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記」(「山岳」明治40年6月)は、実際の山行の12年後の公開である。かなり長文の踏査記録であるが、ここには建築中の大台教会が登場する二日分の一部を引用する。
明治28年8月1日
十時半畿場(「筏場」を指すか)に休み、昼食をなす、ここには土豪土倉氏伐木の山小屋あり。ここより山上に向ひ、三里の間土倉氏が三万円を費して造りし木馬きんま道あり。今盛んに山上より扁柏(桧に同じ)材を運出せり。この道につきて上る。道長けれど困難ならず。途中サワラトガ多し。上り詰め(「大台辻」あたり)より名古屋谷の松浦氏の小屋まで一里ばかりあり。この間は森林の中をたどり行く事にて、すこぶる嶮岨なり。道といふ道なし。やうやくにして松浦氏の小屋に達す、名古屋谷は山上平原の一部にして、真の山巓はこれよりなほ一里も上にあり。名古屋川といふ小流あり。小屋の辺より先二十余町を流れて太さを增し、幅三間ばかりとなり、懸崖に至りて落下し、一大瀑布をなす。これを中の滝と云ふ。高さ三十五間ありと云ふ。この辺草木茂り、深山の趣あり。白桧しらべ帯と山毛欅ぶな帯との堺の辺ならん。(植物名3行省略
松浦氏の小屋は二間四方にて数人を入るるに足れり。当時は神道の行者小森增吉、此小屋に居て、大台原山神社経営の事に任じ、信者より寄附を募り、総桧にて十間四面高四丈六尺の社殿を建築中にて、近傍に作事小屋などありて、大に賑へり。松浦氏小屋は、当時神社の仮神殿となしありしが、予は行者と共にこの神殿中に宿せり。導者(案内人)二人は、他の大工小屋に宿れり。

8月2日
八月二日。行者の案内にて中の滝の落口に往き、また小屋の近傍西の方なる小高き処にある松浦武四郎氏の追悼碑を見る。(以下、碑面の文字16行省略。この碑のことは「第9節 大町桂月」でより詳しく扱う。
それより雨を犯して、ここより東北の角に位する山中第一の高峰日の見岳に上る。(中略)天気晴朗なれば伊勢の海まで見えて、眺望佳絶なる由なれども、今日は雨にて何も見えず、遺憾かぎりなし、雨はますます降りしきり、全身濡れ鼠の如くなりしも、大に勇を鼓して仆れ木を越え、荆棘を分け、一生懸命に馳せ下り、一里ほど下りて、牛石の原といふ所に出づ。ここはすでに曠原の一部にて、地勢平坦なり。牛石といふ大石あり。昔時、最澄上人魔性を降伏し、牛石へ伏せ篭めし処と言ひ伝ふ。途中にまさきの原と云ふ処あり。ここにカタワラ池と云ふあり。義経鯛の片身を捨てたるもの、変じて池となると云ひ伝ふ。建石ありて「大弁財天影向地」の七字を刻す。真田八十八、松浦武四郎の両氏の建つるところなり。またその近処に大盤石あり。その上に「実利行者修行地」と彫刻せる石碑あり。これまた松浦氏の建つるところなり。その側に八大竜王の小祠あり。シホカラ谷小字元小屋谷を過ぐ。ここに九尺四方の小堂あり、明治の初年実利行者なる者、三年間篭居して修行せし処といふ。この堂明治七年、官よりこれを焼棄つ。今あるものは明治二十年、松浦武四郎氏の建つるところなり。ここより南の方へ二三町の処に、大蛇倉といふ一枚岩の懸崖あり。ここより眺れば右に中の滝、西の滝の二瀑を見る。前面には山上大峰の諸峰相連り、下は幾千百ひろの深𧮾にして、風景絶佳なり。すでにして雨止み空晴れたり。(植物名三行省略
それより七つ池を経て、松浦氏の小屋に帰り、今夜もここに宿す。牛石よりこの小屋まで三十町ばかりあり。行者と四方山よもやまの話をなし、松浦氏の功績を思いつづけて、この度新築中の大台原山神社之祭神を問ひしに、造化の三神なるよしをきき。

    逸はやくまつらまほしく思ふかな君が恵のいほに宿りて
    優婆塞うばそくもひじりも未だ分け入らぬ深山の奥を拓く君はも

の二首を詠じ、君が神霊に捧げ、いささか追悼の志を述べぬ。
『白井光太郎著作集5』p280~283、強調は原文傍点、日付と下線は引用者、「造化の三神」は「第10節 山神信仰」で論じる予定
2つ目の和歌は、松浦武四郎「乙酉紀行」にある松浦の
優婆塞もひじりもいまだ分けいらぬ深山の奥に我は来にけり 「松浦武四郎大台紀行集」p37
を借りて、松浦への敬意を表したものである。(1首目は第10節で取りあげる。

上掲「8月1日」の初めのところは、土倉庄三郎が開いた吉野側の東吉野街道と熊野灘側の船津を結ぶ「土倉街道」(船津街道)が明治28年8月1日の時点で、すでに木材伐採が始まり木馬道として機能していることが如実に分かるように書いている。更に、「大台辻」から枝分かれして大台教会にまで行く「参詣道」はまだまったく手も付けられておらず、「道という道のない」「すこぶる嶮岨」な「一里ばかり」であったことが分かる。これらの証言は貴重である。

「行者小森増吉」という表現に違和感を覚える人は多いだろう。「行者古川嵩」ではないのか、仮に小森増吉という場合でも「行者小森増吉」と言うべきではないのか。松浦武四郎に対しては例外なく「氏」を付けている、それどころか短歌二首では「君」と敬している。また、ここでは引用しないが8月4日、5日に出てくる前鬼山の中之坊の五鬼上義正、森本坊の五鬼継義円などにも例外なく「氏」を付けている。要するに古川嵩に対しては「行者」と呼んで軽く見ている。
「増吉」は少年時代に嵩が岐阜の堀江家に丁稚に出され、子守をしていたときの呼び名である(資料によっては「枡吉」とも)。大台教会建設の普請現場ではおそらく最高の敬意を払われていたはずの古川嵩であるが、仮神殿として使用していた旧松浦小屋で白井光太郎と2泊することになる。当然その間に白井は「行者」に名を尋ねたであろうが、嵩は「小森増吉」と答えたのであろう。「古川嵩」と本名を言わず、「子守増吉」と軽口ニュアンスの偽名を応えたと考えられる(真面目な宗教家として褒められる態度ではないと思うが、古川嵩には時にわかりきったホラ話などで笑いを取る癖があったという。後に触れる)。もちろん白井にはその軽口は伝わらなかった。嵩の方からすれば、小学校卒業だけの自分に対する白井帝大教授の態度に、“ちょっとからかってやるか”と思わせるようなところがあったのかも知れない。
ついでながら、植物学者としてだけでなく本草学や博物学・考古学でも大きな仕事を残した白井光太郎は、和歌に関する知識や実力も相当なものだったようで、南方熊楠が昭和4年(1929)に田辺の神島かしまで昭和天皇を案内し、軍艦「長門」上に移ってご進講も行ったが、それを記念する歌碑を神島に建てるに際して、熊楠は白井宛て書簡(昭和5年3月12日)で和歌の添削を求めている(なお、白井が4歳年長で文久3年1863生まれ)。
一枝も心してふけ時津風 天つ日嗣の・・・・せし森ぞ
右の・・・・せし森ぞ、の・・・・は、感賞ましませしという意なるが、小生近ごろ多難にて歌書など見ざるゆえ、ことばを多種知らず。登臨巡望賞美という意味をわずか二、三音で表示するところがことだまの邦語だが、小生には多種多様の辞の心得がないからだうしても思い付かず候。何とぞ御審査の上御教え下されたく願い上げ奉り候。
(「南方熊楠全集」9 p500 強調は原文傍点)
この後わずか2週間の間に、両者には繁く書簡往復があり、例によって熊楠の極めて長文のものも混じるが、最終的には3月26日付け熊楠書簡で決着したようである。それには「一枝も心して吹け沖津風 わが天皇すめらぎのめでます森ぞ」がある(同書p528)。
なお、碑に彫られた決定稿は「一枝もこゝろして吹け沖つ風 わが天皇の めてましゝ森そ」。
明治28年8月に建設工事中の大台教会を訪ねたことを白井はその後何度か講演の中で触れており、その記録が残っている。わたしは以下で二つ取りあげたい。
始めに、大正5年(1916)4月10日、「吉野山保勝会」での講演「吉野名山の保護について」。場所は吉野山東南院で、徳川頼倫よりみち(侯爵)・三好学(植物学 東大教授)・関野貞(建築学 東大教授)などのお歴々が列席していた。四日市製紙による大台ヶ原の大規模伐採が現実のものとなった時期で、この時の講演は今わたしが読んでも、なぜ自然保護が重要かについて視野広く気持ちのこもった良い講演であったことを思わせる。若い岸田日出男(24歳)もこの白井光太郎の講演を聞き強く影響されたと後に述べている(この部分は、大淀町の「近代の吉野」pdfを参考にしました)。
その講演で、明治28年に建築中の大台教会を訪れたことに触れている個所。
私が明治二十八年に登山した時に宿泊したのは、即ち松浦氏の建つるところの小屋で、二間四面で数人を納るるに足りる。当時神道の行者小林増吉氏がこの小屋にいて、大台原山神社経営の事に任じ、信者より寄附を募り、総檜にて十間四面、高さ四丈六尺の社殿を建築中にて、近傍に作事小屋等があって、おおいに賑わっていた。松浦氏の小屋は当時神社の仮神殿となっていたが、私は行者とともにこの神殿に泊ったのであります。その後大台原山神社の社殿落成し、数百人を宿泊せしむるに足りる様になったので、団体旅行の登山家ようやく増加し、年々数百人の登山人を見るに至ったと云ふ。(『白井光太郎著作集』第4巻 p249 下線は引用者
前引の「小森増吉」がここでは「小林増吉氏」となっている。「小森」と「小林」は単なる記憶違いか誤植ということもあり得るが(「小林」だと「子守」のひねりは消えるのだが)、「氏」を付けているのはこの講演の場の雰囲気がそうさせたのかも知れない。しかし、文章の流れを追ってみればすぐ分かるが、この部分は上で示した「山岳」(明治40年)掲載の文章を下敷きにしていることは間違いない。

もう一つ参照したいのは、講演「大和名山の保護に就て」である(『大和アルプス並に大台ヶ原山』(大和山岳会編 大正10年)に収録、国会図書館でデジタル公開)。間違いやすいのだが、実はこの講演はすぐ上で引用したばかりの「吉野名山の保護について」と同一の講演の記録なのであるが、用字や表現がわずかずつ異なっている。講演の題も「大和名山の保護に就て」と「吉野名山の保護について」と異なっている(同一年月日の講演であることは、両資料ですぐ確かめられる)。上の該当部分を引く。
予が明治二十八年に登山せし時宿泊せしは即松浦氏の建てる所の小屋にして二間四面にして数人を納るゝに足れり。当時神道の行者小林増吉此小屋に居て大台原山神社経営の事に任じ信者より寄付を募り総檜にて十間四面高さ四丈六尺の神殿を建築中にて近傍に作事小屋等ありて大に賑へり。松浦氏小屋は当時神社の仮神殿となしありしが、予は行者と共にこの神殿に宿せり。
其後大台原山神社の社殿落成し数百人を宿泊せしむるに足るを以て団体旅行の登山家漸く増加し、年々数千人の登山人を見るに至れりと云ふ。(上掲『大和アルプス並に大台ヶ原山』 p95 下線は引用者)
先の引用は「私」から始まり「です、ます、あります」等で、実際の講演速記を起こした感じがする。こちらは、「予」から始まり「あり、れり、せり」など文章体に改めたもののようだ。だが、松浦武四郎については「松浦氏」としつつ、古川嵩については「神道の行者小林増吉」と「氏」を取ってしまっている。この文体の差は白井光太郎が自身の講演に自ら手を加えたことを示しているが、明らかに松浦武四郎と古川嵩とでは敬意の程度に差を付けている。
明治28年に古川嵩と旧松浦小屋でいっしょに泊まることがあり、その時に古川嵩から教えられた「小森増吉」という少年の悲しい記憶がこもる名前に、白井光太郎は何の疑問を持たず21年後(大正5年)の吉野山東南院での講演で使用したということになる。その時点で大台教会が宗派を問題にせずひろく登山者に宿泊所を提供し、大台ヶ原開山の意義が果たされていること、それは古川嵩の功績であることを白井は認識していたはずである。
この自虐的軽口を含む「小森増吉」(あるいは「小林増吉」)という名を講演で使用することに、無論白井には何の悪意もなかったのであるが、それだからこそ松浦と古川に対する敬意表現の差はこの時代の知識階層が持つ社会的意識が反映していると言わざるを得ない(なお古川は1860年生、白井は3歳年下の1863年生)。

翌年の大正6年8月6日に白井光太郎は大台教会で催された「山林学講習会」において、「名山大台原山の保護」という講演を行っている。この講演は『白井光太郎著作集』4に集録されているが、この講演では大台教会の成り立ちとか、教会主・古川嵩のことなどについてはまったく触れていない。
ところが、この山行は徳川頼倫を中心とし新聞記者も加わった文化人たち十数名の大台ヶ原登山という注目すべき催しであり(東京発7月28日~奈良、柏木~大台教会31日・8月1日~2日雨中下山開始、柏木泊~3日豪雨の中を下り吉野駅を経て奈良泊)、『大台か原登山の記』(吉野郡役所 大正7年5月5日 国会図書館デジタル公開)というかなり詳細な紀行文・素描が残されている。なお、侯爵一行の下山の時、白井らは柏木まで見送りに同道しており、豪雨の中引き返して大台教会で予定されていた6日の講演に備えている。この時の豪雨は生やさしいものではなく、『大台か原登山の記』の巻末に付いている「大台ヶ原山上気象観測表」によると、8月2日雨量40.2㎜、3日467.0㎜、4日219.4㎜であり、遭難事故が生じても不思議ではなかった。途中の吉野川の増水の模様、流失する木材を拾いあげる筏師のふるまいなど興味深い。その中を徳川頼倫らは歩いたり俥に乗ったりで下った。
この時の白井光太郎について、岸田日出男「吉野群山の歴史」(「山上」改1,昭和10年)は「ヌ 白井光太郎」の項に
大正六年八月六日大台教会に於て大台ヶ原山の保護の必要なるを力説せらる。(これ所有者たる四日市製紙会社が大規模の伐採を開始せるを以て。悲憤の余りこの講演となりしものなり)。大正六年七月三十日より八月七日まで大台ヶ原登山。 「山上」改1、p13
と記している。下でも触れるが、実際に一行は自然林を伐採する轟音の中を山歩きするような体験をしている。

徳川頼倫の加わった山行の記録『大台か原登山の記』は、現在あまり参照されないようである。旧字体の美文調で読みわずらう。しかし、非常に興味深いところがある(「其一」~「其三」があり、以下で引用するのは遅塚麗水「其一」、引用は読み易くするため、漢字や句読点に手を加えているところがある)。
【徳川頼倫】
ついでながら、徳川頼倫よりみち(明治五年1872~大正14年1925)について、小論に関連するところを記しておく。彼は田安徳川家の6男として生まれ、明治13年に紀州徳川家に養子として入る。明治23年に養父・徳川茂承もちづぐ(最後の第14代紀州藩主)の長女と結婚する。したがって徳川頼倫について、紀州の人々の間には“世が世であれば、第15代の「紀州の殿様」”という気持ちが、明治時代の半ばを過ぎても残っていた。
紀州田辺出身の南方熊楠は在英中、ケンブリッジ大学に留学していた頼倫を大英博物館案内などしており親交を深め、帰国後も交渉があった。大正11年には「南方植物研究所」設立のため上京した熊楠のために、頼倫は文化人らに声を掛け設立発起人となっている。田辺の熊楠邸を訪れたこともある。

『大台か原登山の記』の遅塚麗水「大台ヶ原登山ノ記 其一」に、一行が奥入の波おくしおのはの桜井小学校を見学する場面がある。生徒数男7女11であるが、代表して「高等一年生梅田久寿枝」が挨拶を述べる。
私の祖先は信州真田氏の臣海野氏でございました。私の祖父は守田虎之助と申しまして、紀州候に仕へたものでございます。祖父は日頃私共に、殿様の御恩は決して忘れてはならぬと諭されました。今日料らずもこんな淋しい山里に殿様をお迎へいたしました私の喜びは、申上げるに言葉がございません。何なりと御用を仰せ下さいませば難有く存じます。これから先は、嶮岨な山路でございます。どうぞ御大切にお登り遊ばすやうに祈りあげます。
と言い訖りて扇子を侯爵に捧げたり。声、肺腑より出づるごとし。余等聴くもの皆な感動す。
その扇子には生徒達それぞれの氏名や「朱肉もて楓葉のごとき手判」が押されてあったりした。
徳川頼倫ら一行が大台教会に泊まったのは大正6年7月31日、8月1日の2日間である。その間の山上での見聞が記されている。8月1日「古川教会主」の案内で松浦武四郎碑に参拝している。一行の中には孫・松浦孫太もあり、玉串を捧げて参拝した。ついで日の出岳に向かう。その途中の「唐檜の平林」の描写の後に、次のように、その「原始林」が「濫伐」される様が語られる。
かくばかり蒼古曠閑なる境域を破壊し去らんとするもの現はれたるは、悲むべくまた嘆ずべし。伯母が峰より続く当面の辻堂山、橡が谷、北山川の峡谷にへる西原一帯の原始林は、今より十数年前に、四日市製紙株式会社の買収するところとなりしが、欧州大戦の影響によりて紙価の騰貴したるを奇貨居くべしとして、にわかに斧斤をこの山に入れ、製紙原料として、今や盛んに濫伐しつゝあり。かつては頽嵐峭緑[厳しき風、尖った大樹]美しかりし古林の峰は、とみ童禿かむろ短髪]の山となりて、無数の切株の参差しんし不揃いな]として碑碣ひけつ様々な形の石碑]のごとく立てるさまは、さながらの大墓田を見る心地して、満目荒寥たり。実に此の山の懐より、吉野川・熊野川・宮川の水は湧いて、和・紀・勢三州の土を潤す。かくてあらばいかでその源を涵養し得べきぞ。山に代へたるその価は十四万五千円とぞ聞く。三県の有志、保安林に録せらるべく政府に訴願しつゝあれど、その採決の下らん日までに、製紙会社は数百人の工夫を督して,慌だしくも、木を伐り倒しつゝあるなり。
一行の秀ヶ岳にむかふ途中、伐られたる巨木のたおるゝ響の、遥雷の渡るが如きを聞く。その声山谷に谺して物凄く、古林の木精、声を合せて慟哭するものに似たるなり。僵木の声を聞くごとに、古川道場主は鉄枵てっきょう鉄の木の根]のさましたる例の杖を掲げて、あれ/\又た悪魔が木を倒すよと叫ぶなり。一行惆悵ちゅうちょう恨み嘆く]として低回去るに忍びず。
『大台か原登山の記』p61 下線は引用者
     
上図《左》底本口絵にある「修業時代の古川翁 三十一歳」、《中》遅塚麗水「大台か原登山の記 其一」の素描「古川会長」、《右》動画「吉野群峰第3巻大正11年」のスクリーンショット(4分23秒頃)。《左》《中》に見える杖が「鉄枵のさましたる例の杖」。
自然林の巨木がつぎつぎに切り倒されていく轟音に「あれ/\又た悪魔が木を倒すよ」と古川嵩が叫んだことは、何を意味しているだろう。その叫びは悲鳴であり怒りであるだろう。「四日市製紙株式会社」は西大台の自然林を「十四万五千円」で買い占め、その大木たちは「製紙原料」としてチップにされるべく切り出されている。日本の大企業の目には欝蒼たる森林の生える山が「金を生む山」としか見えていないのである。したがって容赦なく巨木を切り倒すのである。すでに日本の資本主義は世界市場をターゲットにしており、なにはばかることなく山中に線路を敷き、ロープウェイを掛け、火薬を仕掛ける。
だが、大台教会は「造化の三神」を主神としていたのではなかったのか。製紙会社を悪魔呼ばわりする《主体》は何なのだ。古川嵩は「造化の三神」になり代わって製紙会社に抵抗すべきではないのか。それこそが宗教者としての抵抗であり、宗教理念の実現ではないのか。主神が古川嵩に憑依して、すなわち彼は主神と化して悪魔に立ち向かっていくべきではないのか。(この問題は、次の最終節で改めて考える。

午後、一行が大蛇ぐらから「中の滝」を眺め、保田広太郎という人が測量して「八十一丈」(243m)あったと記録があるなどの話題の後、大蛇嵓には大蛇が棲んでいたそうだという話になり、古川教会主の見解を訊かれる。
大蛇岩、もと巨蠎きょぼううわばみ]ありて棲めりと伝ふ。古川教会主に問へばいふ。余かってこの岩頭に上がりて、遥かに大こしき岩の崖腹に巨蠎の過るを見たり。長さ数丈、吐く舌は火よりも朱く、長さ一間に余るべく見えたりきと。この人時に荒誕の事を語る。一行譁然として[かまびすしく]笑ふ。絶壁の高さ若干ぞと問へば、かって二十貫に余れる大石を抛げ下したるに、五分時にして始めて壑底がくてい谷底]に□然たる音響の起るを聞きたりと。滝の高さ幾尺ぞと訊せば、中の滝は三百六十間(648m)、西の滝は二百六十間、共に平時は十五六間の幅なれど、大雨の時は六十間に亘ると答ふ。また誇張の言なり。たまたま脚下に爆声を聞けり。四日市製紙会社の木材を運搬すべく岩を割いて木馬道を作るなりといふ。 同前 p75 下線は引用者
上北山村ホームページ(ここ)では中の滝の落差は「約250m」としている。古川嵩は時に「荒誕」を語るというのは本当だとしてよいだろう。古川は遠来の客たちへのサービスのつもりもあって、誇張話をして笑いを取るということがあったのかもしれない。名前を訊かれて白井光太郎へ「小森増吉」と応えたのも、こういう心性に関連があるようにも思える。真面目で終生精力的に広範囲な学問的仕事に精進した白井光太郎は、こういう古川嵩を見抜いてその後敬遠したのかも知れない。(底本としている池田晋『大台ヶ原と大台行者』(大正12年)は古川嵩が語るところを池田晋が記録したものであるが、夏の山籠苦行(明治24年6~9月)の途中、三つの滝を「発見」したこと(中の滝は「その高さ実に三百六十間」p141)、大蛇嵓で大蛇を見た(「その舌の長さは五六尺」p143)と述べている。いずれも誇張話ではあるが、「三百六十間」も大蛇の舌の「長さ一間に余る」も大正6年と同一数値であるのが可笑おかしい。


【9】大町桂月   目次

大町桂月(明治二年1869~大正14年1925)は日本中をよく歩いた随筆家として知られ、多数の美文の紀行文を残した。土佐の生まれで雅号桂月は名所桂浜にちなんだものだそうだ(本名は大町芳衛よしえ)。大部な『桂月全集』(12巻、別巻上・下)があり、以下の小論で引用するのは、『別巻 上』である。

大正12年(1923)の夏、大町桂月は吉野から大峯山系に入り、前鬼から大台ヶ原へ進み大台教会で4泊している。吉野で雇った荷物持ちの榮吉を連れただけの単独旅行である。なお、古川嵩は9歳年長で、桂月はこの旅行を「奥吉野の山水」(大正13年)にまとめ、その「八 古川嵩翁と大台教会」、「九 大台山の四泊」の2節で、終始「翁」の尊称を使用している(なお「奥吉野の山水」に「角谷榮吉といふもの、天秤棒にて、余の荷物を舁ぐ」とある。同全集別巻上 p216)。しかし、桂月もさすがに大物で、大蛇嵓・中の滝を案内する古川嵩の方針に納得せず、決して妥協しないために2日間にわたって嵩を憤慨させる(後述)。両者とも信じられないほどの健脚である。

大町桂月の簡潔にして引き締まった文章を、まず紹介しておく。
この大臺ケ原山の大部分は大和國吉野郡に屬すれども、伊勢に界し、紀伊にも界す。山の水北に落ちては吉野川となり、吉野山の麓をいて萬古南朝の恨を流し、東に落ちては宮川となり、太神宮の御手洗川となりて伊勢湾に入り、南に落ちては北山川となり、瀞八町の奇境を開きて熊野川に合す。教會堂の地點は海拔五千百六十八尺、日出嶽が最高峰にて海拔五千四百八十四尺、日本全體にては高山と云ひ難けれど、西日本にては高山の部類也。大峯連山は長く、大臺ケ原山は大也。大峯連山の特色は絶壁の長きにあり。大臺ケ原山の特色は頂上の廣きにあり。大臺ケ原山とても、三里の大蛇嵓ある也。高さ八十一丈の中瀧は天下の偉觀也。日出獄よりは伊勢湾を見下し、熊野灘をも見下し、遙に富士山をさへ望む。優にこれ天下の名山也。かゝる名山なるに、天地開闢以來、古川翁が教會を開くまでは、観光の客なかりき。古川翁大臺教會を開くに及びて、始めて大臺ケ原山は天下の名山として世に知らるゝに至れり。同前 p231 下線は引用者
「観光の客」と言っているのには驚いた。まったくその通りで、思い切った表現。だが、もう少し読み進める。
古川翁の前に、天台宗の丹誠上人登り來りて、高野谷に草庵を結びたることありき。弘法大師が深山の平地は禪を修するに適すとて、高野山を開きし例に傚ひて、早くも開拓の平地に着目したるも、空しく志をもたらして逝きぬ。明治三年になって、京都興正寺の僧も、開拓に目を付け、この地を開拓して、田園を開けり。老樹は切り倒されたり。されど成功せざりき。開拓の名空しく存して、若木今や林を成せり。實利行者は開拓に目を付けずに、牛石ケ原に苦行して去れり。明治十八年に、松浦武四郎來りて、開拓に目を付けたり。ここを開拓して田となさば、三萬石を得べしとの見込をつけ、いよ/\資本を調へて、東京を發せむとせしに、天は年を假さず、七十一歳にて卒中に斃れたり。 同前 p232
「丹誠上人」が高野谷(「開拓」のある谷)に「草庵を結」んだという説ははじめて知った。天台宗の僧である丹誠上人が「古川翁の前に」大台ヶ原に入ったということも含め、桂月の扱い方はかなりラフである。丹誠上人は江戸初期の慶長年間の足跡が判明している修行僧で、大台ヶ原に「七本の卒塔婆」を立てて魔物を封じ込めたなど、かなり伝説化した言い伝えが残っている(「弾誓」、「謄西」などと用字を変えて松浦武四郎が「乙酉掌記」および「乙酉紀行」で記していることは、拙論「福山周平の「由来記」」の(5)座禅石で扱った。そこには松浦武四郎のスケッチ「中の瀑布の図」を揚げておいたので、見て欲しい。下で「中の滝」を扱う)。
松浦武四郎が病で倒れる直前に、「開拓」は「三萬石」の田になると見込んで資金を準備していたというのは、「松浦武四郎追悼碑」の冒頭句から得た情報なのだろう。追悼碑の初めの数行を取りあげる(碑文全文は「付録」として下に置いた、ここ)。

大臺山跨和紀勢三國其嶺夷曠有水利拓之可獲三萬石北海
大台山は和紀勢の三国に跨がる。その嶺は平らで広く水利もある。これを開拓すれば三万石を得よう。

翁欲拓之年過耳順而登五次大有所經畫焉既而罹病不果遺
北海翁はこれを拓かんとして耳順過ぎて5回も登った。大いに計画する所が有ったが病に倒れ果たさず。

言曰我死葬此山及歿嗣子一雄將従遺言而官不許因建追悼
碑於山中名古屋谷(以下略) 
「我死せばこの山に葬れ」と遺言した。没するに及び嗣子一雄は遺言に従おうとしたが官は許さず、
追悼碑を山中名古屋谷に建てた。

白井光太郎『本草学論攷4』p533 碑の上部が尖って
いることに注意。後に碑の上半分が欠けた。
撰文は南摩綱紀なんま つなのり高等師範学校教諭)、筆者は市河三兼いちかわ さんけん書家)である。碑文によれば「大台ヶ原に葬ってくれ」と松浦武四郎は予め遺言してあった。嗣子一雄はその通りにしようとしたが、その地に墓を造ることが官から許可されなかったので「追悼碑」を名古屋谷に建てた。公には「追悼碑」であるが実際は「遺歯」を埋めて分骨碑とし、出来るだけ武四郎の遺志に添おうとした。
日付など詳細が分かる情報が松浦武四郎の出身地の松阪市ホームページに置いてある「週刊武四郎」という面白い新聞の第13号pdf に出ていた(筆者は河治和香、全51号が2019年3月27日で最終刊になっている)。そこに「伊勢新聞」の松浦武四郎訃報記事が写真版(発刊日付不詳)で出ているので、両紙を混ぜて引いておく。
松浦武四郎が脳卒中で倒れたのが明治21年(1888)2月4日で、小雪の降る日だったという。鷲津毅堂(明治15年にすでに没している旧友。永井荷風の母方の祖父で、尾張藩儒者だった)を訪ねて家に上がったところで倒れた。人力車で神田の自宅まで送られた。その後昏々と眠り続け、うわごとの様な言葉はあったが同10日に没した。葬儀は12日に今戸の称福寺で行われた。
日暮里火葬場に於て一端荼毘の煙と為し白骨は東京より大臺原山に移し氏が熱心に開拓を企図したる祈念の為にトドむる趣きなり。(伊勢新聞、「週刊武四郎」第13号2018年7月4日から孫引)
出身地元紙の訃報記事であるから、逝去からそれほど日数は経ていないと思われるが、遺言にしたがって遺族も遺骨を大台ヶ原へ葬るつもりでいた。しかし大台ヶ原に墓をつくることは許可されず、「追悼碑」ということにして石碑を建てたのである。

[追悼碑の情報、古いものから]
○ この追悼碑について明治21年の「伊勢新聞」の次にわたしが目にした情報は、前節で扱った白井光太郎が明治28年8月に行った踏査の記録である。白井は碑文の全文を返り点付きで記録し、石碑のスケッチも残している(上図)。

『大臺か原登山の記』p96
「松浦武四郎翁の碑」上部
が欠けている様子を伝える
貴重な図
○ 前節で紹介した『大臺か原登山の記』(大正6年)の中に次の様に碑に関して述べられている。
惜しむべし、碑は半ば欠けたり、記録によりて其の碑文を読む。 (『大臺か原登山の記』p56)
碑がなかば欠けていて「記録」によって碑文を読んだと言っている。そして「大臺か原登山の記 其一」には本文がすべて載せてあり、句点が打ってあるが返り点はない。この碑文の「記録」とは、おそらく拓本が取ってあったということであろう。白井光太郎の碑文記録もその拓本を参照している可能性がある。いずれにしても、碑の上部が欠けたのは大正6年以前であることが分かる。
○ 大町桂月の見聞がその次に来る。大正12年8月である。
朝食を終へたる後、余一人、古川翁に導かれて、御靈岡に至り、翁の夫人の墓に詣で、松浦武四郎の墓碑を拝す、 南摩羽峰の撰文に係る。碑の上半缺けて無し。紛失を恐れて、古川翁之を教會に蔵すといへり。この一帶の丘には、木の墓碑多く立並べり。(『桂月全集』 別巻上 p234)
経緯は不明だが、大台教会が墓地造成の許可を取ってその一帯を「御靈岡」と名づけたのであろう。ともかく碑石の「上半」が欠けたので、その部分は教会に持ち帰って保存している、というのである。
○ 岡本勇治『世界乃名山 大臺ヶ原山』(大正12年)には碑文の全文があるが、そこに次のように記されている。
松浦翁の碑は通路より約半町の處にあり、文は明治初年の碩儒南摩羽峯先生の撰、書は市河三兼翁の筆にして松浦翁の閲歴と共に三美を以て称せらる、臺原名蹟の一なりしが、惜ひ哉前年烈風の為倒され、上半部を砕き去られしこそ恨みなれ。 (p53 注意:小論底本の池田晋「大台ヶ原山と大臺行者」にあらず)
強風で吹き倒されて、上部が欠けたということが分かる。
○ 最後に現代の資料であるが、佐藤貞夫「『大台山頂眺望図』をめぐって」(ここ)に碑文(の拓本)の映像が置かれているのが、貴重である。特に漢字ばかりの碑文では、筆記や活字化の過程を経ていない直接の資料がどうしても欲しくなるのである(誤字や脱字の可能性を消すために)。
ナゴヤ谷を左岸から右岸に渡って暫く行くと右の高みに緩やかに登って行く道がある。御霊丘と呼ばれている(たぶん大台教会の用語)。木々に見え隠れして松浦武四郎追悼碑が現れる。分骨碑とも呼ばれている。武四郎のなくなったのは明治二十一年二月であるが、遺言に従って建てられたものだ。建てたのは息子の一雄で翌二十二年のことであった。市河万庵の字、幹事には井場亀一郎や岩本弥一郎の名もみえる。白井光太郎は同碑もスケッチしている。この追悼碑はのち倒れて折れてしまった。現在あるのは一志郡三雲村(当時)の宇野村長の肝いりで再建されたものである。
碑には「幹事」として8名が上がっているが、その部分だけ拡大して別掲しているのも佐藤貞夫らしい心遣いである。この幹事たちは松浦武四郎の道案内などして付き合が深く、おそらく碑の建立にも手を尽くした地元の人たちであろうから。なお、碑の再建は1965年であると、安藤正彦「実利行者の足跡めぐり」の「牛石」の項にある(ここ)。(自分でも碑文に目を通すために、上記碑文映像を活字に起こしてみた。小論付録のつもりで、置いておく。ここ

色々話が広がったのでまとめる。松浦武四郎が東京の自宅で没したのは明治21年(1888)2月10日で、墓は染井墓地に造られた。大台ヶ原の名古屋谷に追悼碑が建てられたのが明治22年9月である。明治28年8月に白井光太郎が碑の状況をスケッチして残してくれたのは貴重である。(上の白井のスケッチ図を頂いた『本草学論攷 4』(春陽堂1936)は浩瀚なものだが、幸いに国会図書館がデジタル公開している。上記「大和吉野より大臺原山、・・・」の他に、「吉野名山の保護に就いて」(大正5年)、「名山大臺原山の保護」(大正6年8月)、「名山と天然記念物」など本論に有用な論文が収録されている。

松浦武四郎が最晩年に大台ヶ原に3年連続で通って残した記録(乙酉紀行・丙戌前記・丁亥前記)には、大台ヶ原を開墾して農地にするというような開発主義の発想は出て来ない。むしろ山村に住み山林を生活の場として利用する人たちに寄り添う姿勢が強く出ている。
つまり、松浦武四郎は生前「大台ヶ原を開く」というような言い方をしたことはあったであろうが、「農地を開いて収穫を上げる」という意味で語ったのではなく、大台ヶ原で「山稼ぎ」をする人々のために役立つ山道や道標や小屋を造りたいということであった、とわたしは考えている。それは古川嵩が「大台ヶ原開山を宿願とする」というのが農地開拓の意味でないのと同様である。
右図は松浦武四郎「丁亥前記」(明治20年, 札幌図書館デジタル公開)の「護摩修行之図」で松浦自身の毛筆スケッチである。「松浦武四郎大台紀行集」所収の「丁亥前記」にはこの護摩供養に参加した村人達の氏名と年齢を、老若も男女も記録している。六十数名の名前が有り、個々の村人を大事にする松浦の姿勢がよく表れている。明治知識人にありがちの知識人と庶民の差別感がない。
「余しきりに涙を催しぬ」と、護摩修行の様子を感情をこめて記している。
およそ理趣経、不動経おわりて、「なふまく三まん陀」の声はり上げて、護摩木に燃えたつ烟、パチ/\/\/\と天をもくらますばかり、土倉よりあらゝぎ嶺つゞき、南海に靉靆あいたい烟が棚引くさま)満山どよめきわたりけるには、いかなる悪魔も跡をとゞめまじと開路の志願も成就すること疑なしとその声烟も共に薄らぎけるに、五人の者ども(護摩を焚く5人の修験者)、檀上の餅を四方に投るや、その笹原に満々たる参詣の者、上に下にと重りたち、我先と是を拾ふ。この中には八大童子もいますかと思ふばかりにそ有たりける。 (「八大童子」はコンガラ、セイタカなど不動明王に付き従う八童子のこと)(「松浦武四郎大台紀行集」p128 引用は読み易くした)
祝い餅を大騒ぎをして拾う人々を見ていて「この中には八大童子もいますかと思ふばかり」と述べる武四郎の純で高揚した心境に感動する。「いかなる悪魔も跡をとゞめまじ、開路の志願も成就すること疑なし」としているがそれは山に暮らす者たちの生活のために大台ヶ原の山道が開かれることを意味していよう(上で紹介した「『大台山頂眺望図』をめぐって」で、佐藤貞夫がこの護摩供養は「別の見方をすれば大台ヶ原開山式とも言える」と指摘しているのは、深い洞察だと思う。古川嵩が巨大な大台教会を建てることで大台ヶ原の開山が成ったという普通の理解を問い直してみることを教えてくれる)。
しかし桂月は古川嵩が大台ヶ原の開山をなしとげたことについて、その総体をつぎのように全面評価している。
古川)翁は明治二十四年の夏(大臺へ)登りて、九十七日間苦行し、翌年の冬より春にかけて、三箇月の間又苦行し、二十六年より建築に着手し三十三年まで、満六箇年かゝりて、教會堂を建て、こゝに始めて大臺ケ原山を開きける也。明治以後、各方面に偉才出てたるが、五千尺以上の山嶽に偉力を伸べたるは、唯古川翁のみ也。今の世の神變大菩薩とも云ふべくや。同前 p232
桂月の「奥吉野の山水」は全10節からなっていて、その第1節「蔵王の吉野」の冒頭は、光格天皇が寛政十一年(1799)に役小角に対して「神變大菩薩」という諡号しごうおくり名)を贈ったことから書き始められている。その布石があってここ第8節で、古川嵩に対して「今の世の神變大菩薩」と称しているのは最上級の褒め言葉である(褒め過ぎとわたしは思うが。なお、「日記二十一」には和歌「再来の役の行者を目のあたり 大臺の原に見るぞうれしき」が書き留められている。桂月の通俗性が強くにおってくる)。
しかし、続いて桂月は次のような看過すべからざることを書き記している。
大臺教會堂は天照皇太神を主神とす。宮川の末には、伊勢太神宮ありて、皇祖を祀り、その水源の大臺教會にも、同じく皇祖を祀る。帝國の臣民は太神宮に詣でざるべからず。更に進んで雲表の皇祖に詣でざるべけむや。 同前 p232 強調・下線は引用者
「天照皇太神」は「天照大神あまてらすおおかみ」のことで、イザナミ(女神)とイザナギ(男神)の間に生まれた女神とされる。その4代の子孫が神武天皇である。「天照皇大神」は伊勢神宮で通常呼ぶ呼び方で、天皇制神話の中心となる祖先神である。35年前に白井光太郎が建築中の大台教会を訪ねた時、古川嵩は主神は「造化の三神」と言っていたのが、ここでは、はっきりと天皇制の祖神を主神としていることが分かる。それは、万世一系の天皇神系列を祀っていることを意味する。「帝国の臣民」は皇祖を祀る伊勢神宮に詣でるのは当然であるが、その川上にある大台教会を「雲表の皇祖」を拝するつもりで詣でるべきだと桂月は言っているのである。白井光太郎の頃と大町桂月の頃との間で比較すれば、大台教会は完全に天皇制に呑み込まれてしまっている。これは古川嵩の山神信仰の核心に関わる問題である。

大町桂月の大台教会2日目は、まず早朝に日出ヶ岳に行くが東方が霧におおわれ陽の出は見えなかった。しかし西方の大峯山系はよく見え、自分が踏破してきた山々を感慨を込め熱心に観た。朝食の後古川嵩に案内されて歩くが、周辺一帯の描写が興味深い。自然林が残っている部分と皆伐が進みつつある所が混在しているのを記録している。
北の上層を行くに、伊勢に屬する部分は御料林にて、唐檜太古のまゝに繁れるが、教會を中心とする一面の地帶は、民有に屬し、四日市製紙會社の斧にて、原生林を破壊せり。線路さへ縦横に通ず。(中略
日出嶽の櫓に上りて、二時間も四方を眺めつゝ、翁と共に飲み、共に午食して、正木ケ原に至る。數町四方平らかにして、短き姫笹に蔽はれたり。虎尾樅とらのおもみ唐檜の別名)の葉おもたげに、四方を圍む。牛石ケ原はなほ一層廣く、同じく虎尾樅に圍まれ、同じく姬笹に蔽はれたるが、こゝには牛に似たる牛石あり、御腰掛石あり、神武天皇御手洗池あり、片腹鯛池あり。二池の水は長き日旱りに枯れたり。泥炭の地にて、草木生せざる也。御手洗池は神武天皇の御手を洗ひ給ひし處、御腰掛石は神武天皇の御腰を掛け給ひし處なりといふ。神武天皇の熊野より吉野に入り給ひし際、十津川に沿へる西熊野街道は無かりしならむ。北山川に沿へる東熊野街道も無かりしならむ。大峯連山にも路なかりしならむ。必ずや何處かこの大臺ケ原山の一部を通過あらせ給ひしことゝ思はるゝ也。
同前 p234 下線は引用者
ここの下線部では、随分変な理屈を大町桂月は述べたものだと思う。「神武東征」神話には神武たちは大阪湾から海路熊野に進んで上陸し、吉野を経て大和の宇陀へ達したとあるが、吉野までの山中の道には定説はない。確かに当時「西熊野街道」や「東熊野街道」はなかっただろうが(当たり前だ!)、それらの祖型である川沿の道や、けもの道に学んだ山中の道の存在は否定できまい。縄文人たちがすでに遠隔地と交通していたことは黒耀石・ヒスイなどの遺物から実証されており、古くから川沿いの道と尾根道があったらしいことも知られている。後世まで主要な道が通過していなかった大台ヶ原を、古代の神武一行が通ったとするより、後世に「街道」とよばれる道ができた地形に沿って神武一行が辿った蓋然性の方が大きいと考えるべきだろう。桂月は神武らが大台ヶ原を通過したと言いたくて、嗤うべき屁理屈を述べたことになる。
ちょっとネットで検索しただけで分かるが、「腰掛石」や「影向ようごう石」(神の出現した石)などは全国各地に無数に分布しており、表面が平らであったり目立つ形状の巨岩であったりすると偉人や天皇が腰掛けた石だ、というような伝説が生まれた。柳田国男は「坐禅石」とも関連づけて考えているようである(「腰掛石」(大正5年)『柳田国男全集11』 p59)。わたしは大台ヶ原には中の滝に「座禅石」が存在することから、いずれかの時代に大台ヶ原山中で修行した修験者などが、山中の巨石を「謄西上人の座禅石」とか「神武天皇の腰掛石」などと名づけたのだろうと考えるのが妥当だと思う。

神武東征神話を実在の歴史だと全国民に強制したのは明治政府である。「教育勅語」は明治23年(1890)に発布された明治天皇による勅語で、全文暗唱が全小学生に対して強く求められたのは明治末年ごろからのようだ。「朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・・」。西欧先進のキリスト教に対抗できる一神教を全国民に広め定着させようとする明治新政府の強引な企てが日清・日露の戦役を通じて、国民に深く浸透していった。「天照皇太神」はまさしく「皇祖」そのものである。
教育勅語の暗誦が小学生に全国的に実施されたのは、明治40年(1907)の牧野伸顕文相辺りからという。
明治40年の牧野文相下で、小学校児童をして勅語を暗記させる施策が採られ、明治43年には勅語を児童に浸透させるべく教科書の改訂がおこなわれた。また、明治43・44年に師範学校・中学校・高等女学校でも教育勅語暗記が義務づけられた。これらの施策は視学制度を通して学校現場に徹底された。明治末年には義務教育の就学率が98%に達していたから、学校での暗記暗誦を通じた教育勅語普及策は大いに功を奏したと考えられる。 鈴木理恵「教育勅語暗記暗誦の経緯」pdf 1999 (ここ)p60
作家の正宗白鳥は明治22年に小学校高等科に入学し、「教育勅語は私など小学生として暗誦させられた」と言っているという。体験した人によって小学校で暗誦させられた時期の違いもあったようだ。蔵満逸司「暗誦の教育史素描 11」(ここ

大町桂月の3日目は、昨日大蛇嵓から「中瀧」を眺めたが、滝の上部だけしか目に入らなかったので、今日はその全体を見たいと一行8人で出発する。
人よりも高き篠竹を押し分けて、凡そ一里も來つらむと思ふ頃、古川翁つる/\と猿の如く木に登りて、中瀧の全體見ゆといふ。一同みな登る。余ひとり登らず。木に登らずに見ゆる處まで行きたきものなりと云へば、翁不滿の顔付にて、先きに進む。中瀧の上段悉く見ゆる處に腰をおろす。余も一寸腰をおろしたるが、下段をも見たきものなりと云へば、翁はむつとして、聲を荒く、瀧壷まで下るが承知かといふ、人の行ける處ならば、何處までも行かむと云へば、さらばとて、又進む。 同前 p235
大町桂月は景色・風物を眺め鑑賞するためには決して妥協しない。大峯を踏破してくる間にも荷物持ちの榮吉と幾度も衝突している。古川嵩は大台ヶ原の第一人者であり大台山中でその指示・意向に逆らう人物が出現したのは桂月が初めてだったのだろう。翁は「むっと」するが行けるところまで行ってやろうと、むかっ腹半分で更に進む。東の滝の側から滝の下へ降りて行った。
絶壁又絶壁、あぶないぞ、石を落すな、周章てるな、靜に下れなどと戒め合ひ、數十段を四五町も下り、東瀧の下の溪谷に出でて、更に下る。溪谷一落して、手掛りもなく、足掛りもなく、左右も巖壁直立す。一落の長さは三丈もあらむ。同前 p235
古川翁は大台ヶ原山中踏み入らなかったところはないが、この谿は初めてだ、と言い出す。そして、綱を使って降りなければどうにもならない難所にぶつかった。
流石の翁も、はたと當惑す。唯天祐とも云ふべきは、上に綱を引掛くる岩のあることゝ、中腹凹みて足を托する段のあることゝ、下に丸太の自から斜に巖にたてかけられてあることゝ也。一行中にて、勝藏年最も若く、最も元氣にて、身體矯捷也。綱を輪にして岩に引掛け、その綱にすがりて下りて、中腹に足を託し、綱を放して丸太を抱きながら、ずる/\と下れり。一同みな下りて、綱を解く。最早登ることは出來ざる也。一同顔見合せて、無事を祝し合ひ、巖陰に就いて午食し、酒は飲める口の古川翁と分つ。雨いたりたるが、今下りたる時の思に比ぶれば、雨などは、何の苦にならざる也。 同前 p235
谿を下って西の滝と中の滝からの谷川が合流するところまで出て、改めて中の滝へ登っていく。中の滝の滝底に達し念願の下段をも見ることができて桂月は満足する。そこから今度は帰りの登りが待っている。
右に轉じて急斜面を攀づ。篠竹を攫まずんば登れず。篠竹を攫めば、その葉にたまれる雨落ちて、全身悉く霑ふ。またその上に危險なるは、前者の誤って 石を踏落すこと也。石を落すなと戒め合ひ、自分にても落さぬつもりなれど、あやまちは致し方なし。一尺大の石余に落ち來る。手にて拂ひのけたるはよかりしが、余も誤って踏落す。はっと驚きて顧みれば、幸に後者の身を外れ居りたりき。峯稜を行くやうになりて、一とまず安心せしに、一頓して(しばらく留まって)大巖壁に行き詰り、又も氣をもみしが、巖壁にそひて右に急斜面を下れば、巖壁横に凹みて、火を焚きたる跡あり。明治天皇御危篤の際、古川翁こゝに籠りて祈禱したりきと聞き、さてはここより教會までは、翁の熟路なりと安心し、火を焚いて、一同雨に冷えし身を煖む。 同前 p236
翁ひとり焚火にあたらず先行し「おうい/\と呼ぶ。まて/\、火に當りに来られよと云へど、來らず。」結局、一同は翁の声に導かれつつ進み、何とか教会に全員無事に帰り着く。さすがの桂月も「生まれて始めて怖ろしき目に逢ひたり」と告白している。榮吉は「先生のお伴はもういやなり」という。
皆がそれぞれ休んでいるところに嵩の息子・悦二が出て来て、語る。
教會を開いて以來、こんな難物に逢はずとて、父はぷんぷん怒り居るといふ。今日は午後より雨となりて寒氣甚しきに、世にも恐しき大蛇嵓の絶壁を上下したることゝて、墜落、凍死、落石の諸難、交も/\こもごも到り、死傷ありては相すまずと心配するにつれ、執念くも觀瀑を主張し、呼ばれても焚火に動かざりし余に対して怒れる也。 同前 p236
しかし、古川翁はやがて機嫌を直して出て来て、桂月の「山水に対する信念を了解せり」と語った。翌日の4日目は雨で、疲れ直しもあったのだろう、嵩の父母の遺品などを見せてもらって過去の苦行に思いを馳せ、「一日を雲の上におくれり」。

それにしても今と比べればたいした登山装備もなかったであろうに、古川嵩(64歳)、大町桂月(55歳)はもとより、一行の体力や足腰の強靱さと大蛇嵓におびえていない胆力に驚く。


【10】古川嵩の山神信仰   目次

明治28年(1895)8月、白井光太郎が大台ヶ原の踏査途中に、建設中の大台教会の仮神殿として使われていた松浦武四郎が建てた小屋で古川嵩と2泊した。そのとき新築中の「大台原山神社」の「祭神」は何か、と古川に訊く。古川は「造化の三神」と答えた(第8節、(ここ)。白井は、晩年の松浦武四郎が大台ヶ原山と山民たちへ向けた敬意と山岳への信仰心を思慕しつつ
逸はやくまつらまほしく思ふかな君が恵のいほに宿りて
と詠んで、松浦武四郎をこそ山神として祀りたいという気持を吐露した。「造化の三神」は創造主でありここの山神であり、さらに最後まで大台ヶ原山に心を残した松浦と重ね合わせているのである。上手じゃないがその場にふさわしい率直な良い歌と思う(強調は原文傍点、「まつら」と「松浦」とを掛けた)。

造化ぞうか三神さんしん」とは、『古事記』本文の一番最初に出てくる3つの神たちのことである。
天地あめつち初めてひらけし時、高天たかまの原に成れる神の名は、天之御中主あめのみなかぬしの、次に高御産巣日たかみむすひの、次に神産巣日かみむすひの。此の三柱みはしらの神は、並独神みなひとりがみと成りして、かくしたまひき。 岩波「日本古典文学大系1」 p51 強調は引用者
言うまでもなくこれは日本神話のいちばん最初のところであって、
天と地ができたとき、神々の住まう高天が原には、天の御中主の神世界の中心となる神)・高御むすびの神天界の現象を生む神)・神むすびの神地上界の現象を生む神)が生まれた。これらの根源的な三神はそれぞれの働きを済ませると、係累をつくらず消えてしまった。
これはわたしの解釈だが、ほぼこんなことと思う。この「三神」には実体が想定されておらず、理念だけに名前を付けた神様たちということだ。「天と地」とそこで働いている諸々の運動を創り出した主体を「造化の三神」といい、大台ヶ原山神社(教会)にはこの三神を祀るのだ、と古川嵩が考えていたということだ。白井光太郎は「行者」のこの答えを聞き、肯定的に受け止めている。そのことが白井の二首の和歌から分かる。
古川嵩は、何かの既成の宗派的背景を持たずに彼個人の独自の修行によって「大台ヶ原山神」を感得し、その「山神」を祀るのが大台ヶ原教会であるとした。彼がそれまでに学んだ山岳宗教は、御嶽信者であった父と一緒に過ごした御嶽修行であったろうし、神習教の芳村正秉から35日間の教習を受けているのでその影響はあったと思われる。しかし、彼が「大台ヶ原」の自然に包まれて感得した山神はあくまで直感的なものであり、この天と地ができたときに森羅万象を生み出した「造化の三神」そのものである、というのが古川嵩の理解であるように思える。純然たる自然崇拝と言ってもよい。白井光太郎もその理解に共感しているようだ。

「造化の三神」を祀ると言っていながら、天皇制神話に直結する「伊邪那岐神 いざなぎのかみ」「伊邪那美神 いざなみのかみ」「天照大神 あまてらすおおかみ」などを持ち出していないところが値打ちである。この段階では、古川嵩は自らの感得した「山神」にひたすら信心を集中するという立場をとっていると考えられる。

この「山神」は自身の苦行の中で感得したものであるが、創唱宗教家の幾人かのようになにがしかの「憑依神」があったようではない。大台ヶ原の自然界を見つめ、その霊妙さと偉大さにひたすら崇拝の頭を垂れる自然崇拝そのものと言ってよい。山神が古川嵩に憑依して、彼の口を通して何事かを主唱するということはなかった。
古川嵩はただひたすら大台ヶ原山の自然を崇拝し賛美するのである。大台ヶ原山のありのままの自然全体を純粋に崇拝の対象として感得し、それを「福寿大台教会」という大きな建築物に祀り込めようとしている。しかも、その教会は法的には神習教の分教会であるが宗派的な主張はまったくせず、大台ヶ原の登山者たちに対して分け隔てなく開かれていた。宿泊しても何らかの読経やミサなどの席に列するような強制もまったくなかった。信者を獲得し信者数の増加をめざすというような宗派的活動も行われていないと思える。これは大台教会の“広さ”と言えるがそれはまた“弱さ”でもあった。
【出口なおの憑依】
同時期であるから対比のために挙げるが、大本おおもとの出口なおは京都市綾部で困窮のうちに生きてきた無名の老女(56歳)であったが、明治25年の正月から「艮の金神うしとらのこんじん」が神憑りして様々の終末論的な見解を述べはじめた。さらに、「 国常立尊くにとこたちのみこと」の神示も加わり「お筆先」と称する自動筆記が生涯を通じて行われ、膨大な量になっている(半紙20万枚が『大本神諭』全7巻として出版されている)。女婿・出口王仁三郎の協力があり(対立もあって、実際は複雑)、大正期に入ると大きな宗教勢力となって社会に影響を与えた。天皇制を脅かすものとして日本国家は大正10年、昭和10年に大規模で徹底的な宗教弾圧を行った。通常「大本事件」と呼ばれる。
なお、憑依現象を近代的に理解して非科学的で迷妄な心理と考える向きがあるが、それは浅い理解であると思う。「政治権力」のような人間社会の根源的理念の始源には、憑依現象が潜んでいる。
大正6年(1917)から大台ヶ原の自然林が製紙業のために本格的に皆伐されるという状況を前にして、「大台ヶ原山神」は怒っておられる、というような抵抗の仕方がありえたはずである。宗教者としての異議申し立てである。自身が「大台ヶ原山神」になり代わって(憑依されて)抵抗することがありえた。また大峯山系に祀られている由緒深い多数の神々・山霊たちと連帯するというような動き方もあり得た。それこそ、「神変大菩薩・役行者のお怒りをおそれぬか!」という立ち上がり方である。
つまり、古川嵩は「大台ヶ原山神」を見出し大台教会に祀ったが、その「大台ヶ原山神」は終始無言のままで在り続けたのだった。山神が嵩に憑依するということはなかった。「大台ヶ原山神」が主語となって大台ヶ原山の自然を守ると主張することはなかった。

白井光太郎は数千年、数万年間の生物環境の蓄積が保存されている大台ヶ原の自然林は地球の至宝であり、保護・保存されるべきであることをたびたび主張している。「第8節 白井光太郎」で徳川頼倫が大台教会に2日宿泊した大正6年夏の山行を取りあげたが、その8月6日に行われた「大台山上講習会」での白井光太郎の講演「名山大台原山の保護」から引く。
この如く大台原山は三県の境に屹立する名山で、いままで世に知られておらぬが、実際は世に比類ない名山であるは確実でまたと得難いもので、その日出ヶ岳の眺望、大蛇倉()の奇観、唐檜とうひの天然林、植物帯、奇草異木、三大瀑などは天下の奇観で、これを破壊し濫伐するは、実に惜しむべきの至りである。然るにこの貴重惜しむべき名山は現今瀕死の状態にあるもので、命脈の絶えざることぼろきれ)の如き有様で、昨年より伐木を始め本年は殊に多数の樵夫を使役して大濫伐を実行しつゝあり、伐木の制限の如きは有名無実で、実に悲惨視るに堪へぬ有様である。
何故かくの次第であるかといふに、今より十年以前に地元の村民が代金十五万円を以てこの山を立木と共に四日市製紙会社へ売り払ったもので、ソレがこの頃洋紙の値段が騰貴したがため、多年蓄積して置いたこの大台原山の材木をいよいよ製紙の原料にせん為に伐木するのであるといふ。会社では十五万円の原価を払ひ、その上道路開鑿に十余万円を支出したとの事で、勢ひ伐木せざるを得ざる有様になって、昨年より伐木に着手してすでに幾万本の伐木を実行し、追々全山を赤裸々にせざれば止まざるの有様である、ダイナマイトで大蛇倉の岸壁を破壊する音に老樹巨幹の伐採せらるゝ斧斤の音に和しスサマジキ勢である。
(『本草学論攷4』p174 一部を平仮名にし当用漢字を使用)
大木が次々に倒れる轟音に古川嵩が「あれ/\又た悪魔が木を倒すよ」と叫んだのはこの山行の時である(第8節 徳川頼倫ら一行の山行(ここ)。「悪魔!」と叫ぶ非難の心は古川嵩のどこにあるのだろう。彼は自らの心の根底を宗教的に深めることなく、感情的反応のレベルにとどめてしまったのではないか(明治20年牛石で行われた護摩修行について、松浦武四郎がこの護摩供養によって「いかなる悪魔も跡をとゞめまい」と記したことを思い出す。古川は松浦の思想につながり得たのである)。
上引の前年、吉野山保勝会で行われた講演「吉野名山の保護に就て」で白井光太郎は大峯連山に関しても詳細に触れている。
吉野より玉置山まで、峯通り七十五なびきが間は、折掛け八町の伐木を厳禁してあった。「折掛け八町」とは峯より左右の谷へ幅八町(約872m)の間を云ふので、延々長蛇の如く数十里間の原生林が左右八町に亘って保存せられて居ったのである。聞くところによれば、この良法は既に今日国有林払下げの悪制の為にその効力を失ひ、振古しんこ太古)以来の銘木巨樹まさに斧鉞ふえつの災に罹からんとするもの、すでに斬伐せられたるもの、かれこれ相貌の状にありと云ふは、痛嘆するも余りあり。 同前 p104 一部を平仮名にし当用漢字を使用
南方熊楠が「神社合祀」に反対する意見を最初に公にしたのは明治42年9月の「牟婁新報」だというが、白井光太郎へ宛てて「神社合祀に関する意見」を送ったのは明治45年2月である(なお、植物学者・松村任三宛の南方熊楠の書簡を柳田国男が「南方二書」として刊行して世にその意見を広めたのは、前年の明治44年)。この「神社合祀に関する意見」の中に次のような印象深い美しい語句が含まれているので、忘れられない。
定家卿なりしか俊成卿なりしか忘れたり、和歌はわが国の曼荼羅なりと言いしとか。小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん『南方熊楠全集7』 p559 強調は引用者
熊楠の「天然風景」の中に見えているのは、樹木や草に限らず菌類から粘菌や極微の細菌まで、鳥獣や魚類から昆虫・みみずなどすべての生きとし生けるものが構成しているこの風水山河・天然宇宙の総体を意味している。すなわち曼荼羅を。
まさに大台教会で開かれた「大台山上講習会」で、大台ヶ原の自然環境が破壊されつつあることに対して白井光太郎が理論的立場を明示して熱弁を振るっていたのであるから、それに呼応して古川嵩は宗教的な立場から白井に教えを請うことがあり得たと思う、「わが、大台ヶ原の山神は怒っておられる」という気持ちを込めて。
伊勢神宮はもとより全国各地の神社や、比叡山や高野山などの巨大寺院や無数の各地寺院が、それぞれの附属森林の保護について大きな力を発揮したのは歴史的によく知られている。大台ヶ原教会が南方熊楠の神社合祀に対する反対運動とも結びつき得る可能性は大いにあった。「大台教会を守る森林を創る」という発想もありえたのである。四日市製紙会社から森林を買い戻す運動を起こせば、かなりの力を持ち得たことだろう。数年後に「神武天皇像」を作るために巨額の寄附が集まったことを考えれば。

次の桂月の証言は前節に続いて2度目の引用だが、白井光太郎の「造化の三神」証言から28年を経てすでに古川嵩の信仰が質的に転換していることは明らかだ。残念ながら古川嵩は自らを「山神の立場」に立たしめてその怒りを叫ぶことがなく、大日本帝国の宗教戦略の内部に取り込まれてしまっていた。
大臺教會堂は天照皇太神を主神とす。宮川の末には、伊勢太神宮ありて、皇祖を祀り、その水源の大臺教會にも、同じく皇祖を祀る。帝國の臣民は太神宮に詣でざるべからず。更に進んで雲表の皇祖に詣でざるべけむや。 『桂月全集』別巻上 p232
このように、大正12年には大台教会が完全に天皇制の内部に取り込まれた神社になっていたということだ。桂月は大台ヶ原は伊勢神宮の水源地だから、「帝国の臣民は」伊勢に参拝した後は大台教会の「雲表の皇祖に詣でざるべけむや」と当時の政治と世俗に迎合したまとめを行っている。

日本神話が実在の歴史として声高に叫ばれ、全国すべての小学校で「皇祖皇宗・・・・」が暗唱されるようになってから大正末期はすでに年を経ていた。東京の皇居に生活する天皇はその「皇祖皇宗」の直系の子孫であることを疑うことは許されなかった。帝国憲法第1條「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」に反するからである。(幸徳秋水の大逆事件で死刑判決24名が出たのが明治44年(1911)である。秋水は「ひとりの証人調べさえもしないで判決を下そうとする闇黒な公判を恥じよ」と陳述したと伝えられている。(ウィキペディア「幸徳事件」)
残念ながら古川嵩は、日本神話のレベルで体制に疑義を呈する思想的動機も宗教的観点から異論を提出する情熱も持っていなかった。東征神話から創り出される、神武天皇が大台ヶ原を通過したとする空想話に依拠して、神武天皇像を造ろうという話が出れば容易にそれに飲み込まれた。

小論が底本としている池田晋「大臺ヶ原と大臺行者」は大正12年の口述筆記であり、大正末期から昭和初めにかけて建立された大台ヶ原の「神武天皇像」については扱われていない。そこで鈴木 しげる『大台ヶ原開山記 古川嵩伝記』(近代文芸社 2001)を使わせていただく。
当初は小さな木像を祀る神殿を考えていたが、当時は大正末期から昭和初期の頃で第一次大戦と関東大震災後は日本経済は恐慌におそわれ、インフレや倒産が沈静せず国民生活を圧迫したことから社会主義思想が台頭し、これに対して政府は弾圧を加える一方、皇国思想を高揚しつつ軍国化に向けられていたから、国民感情としては神武天皇なら大きな立派な銅像でなければならないと要望したのである。嵩は国民の感情は無視できないと考えて神武天皇銅像の建立を決意した 前掲書 p122
大正15年に大阪の鋳造所に制作を発注し、完成は昭和3年(1928)だった。銅像の総重量4600㎏余という巨大なもので、6つに分解して山頂まで30人の人力で揚げたという。木馬など使えるところでは使い、最後は人の背で運び上げたが、大変な難作業であった。荷揚げ運搬のコースは「神武東征」道筋におおよそ従って、大阪から海路を熊野にゆき、紀伊山地を大台ヶ原まで上がるという道筋を採用した。実際は尾鷲-木津集落-水無峠-木組峠-台高山脈の尾根筋-堂倉山-大台ヶ原というコースをたどったという。
大台ヶ原の「御輿石みこしいし」は神武天皇が腰掛けたという伝説があり、そこに銅像を建造するのがふさわしいということになった。銅像が左手に持つ弓に「金鵄きんし」(金の鳶)が止まるが、『古事記』には登場せず『日本書紀』にだけ出てくる「金色のあやしき鵄」である。神武天皇の軍が「長髄彦ながすねひこ」を討ち大和の地に定着する最後の戦で登場し、金鵄が放つ神秘的光線で敵を一気に滅ぼした。戦前の教科書や絵本などでは「金鵄」が神秘の光線を放射して敵軍を一気に討ちこらすという名場面は繰り返し掲げられ、日本人みなが知っていた。つまり、「神武東征神話」を都合良く解釈した典型場面を「大台ヶ原の神武天皇像」にとりまとめたのである。

戦前の「皇国史観」に対する強い反省から、戦後、学界全体に記紀神話そのものに対する反省の時期があった。「神武東征」はたんなる神話であるとしてまともに扱われなかった。しかし、「神武東征」神話には記紀が作られた時期(8世紀ころ)に創作された空想話とは考えられない古い時代の事実を反映している部分があるのではないか、という反省が出て来た(たとえば、古田武彦(1926~2015)の仕事やサイト新古代学の扉など)。
上述の通り小論では、神武天皇像は古川嵩の山神崇拝が皇国史観に屈服した記念像というとらえ方をした。わたしはそれで正しいと思っているが、21世紀の現在からすれば「神武東征」神話にもなにがしかの太古の真実が含まれているのではないかという立場は、正当だと思っている。だがそれは小論の範囲を遥かに超えている。また、あり得べき山林業のことや自然保護と山林育成などの難しい課題の検討も残っている。

小論は古川嵩の「大台ヶ原山神」信仰の在り方を主題にしてきたのであるから、その観点から最後にまとめておこう。


  1. 古川嵩は単独で大台ヶ原に入り厳しい苦行を始め、周辺山民の尊敬を集めた。山民の支持のもと大台教会を建設し、大台ヶ原を開いた。その功績は認められる。だが、白井光太郎らの営為と結びつくことがなく、大正期に行われた企業による大規模な天然林伐採に抵抗することが出来なかった。

  2. 彼の山神崇拝は、太古から連綿と続いてきた大峯山系の山岳信仰や、明治初めの実利行者まで受け継がれてきた修験道の伝統とは、繋がっていない。

  3. 大台教会は、大正・昭和(戦前)期には日本帝国の「皇国史観」に呑み込まれてしまった。大台教会は思想的に山岳信仰としての独自性を維持することなく、後のスポーツ登山や観光登山に安易につながった。




[終]


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古川嵩の略年譜年齢は「数え」)(目次

西暦:年齢出来事
安政七年一月一日1860: 1美濃国郡上郡嵩田たけだ村に誕生、5人きょうだいの末子
明治四年1871:12岐阜の堀江家に丁稚に出され「桝吉」(「増吉」とも)と呼ばれる
明治8年1875:16堀江家で“発狂”、帰郷し父と治療の旅をする
明治10年夏1877:18父と御嶽山に参詣する
明治11年1878:19名古屋で商人としての生活、材木や米穀を扱う
明治14年冬1881:22同村のナカ女と結婚、1男2女を得る
明治21年1888:29名古屋で芸妓と心中沙汰
明治23年暮1890:31名古屋の店をたたみ、妻子に別れを申し渡す
明治24年正月1891:32郷里で両親・親戚に「大台開山」の志を述べ、家を出る
明治24年春1891:32上北山村の村長に登山許可を求め、拒否される
明治24年6~9月末1891:32大台ヶ原で97日間の山籠修行
明治24年10月初~1891:32来村した御嶽教の副管長らと、宗教上の論争
明治24年10月末~年末1891:32古川嵩ら上京、神習教本部で芳村正秉と会う。年末に帰村
明治25年1~3月1892:33池明神に90日の参籠祈願 大台教会建設の展望を村民に述べる
明治25年4月~秋1892:33周辺の山村を巡り、大台山開山の理解を求める
明治25年12月~翌2月1892:33大台ヶ原で冬山籠り
明治26年春1893:34教会建築の資金集めに奔走す
明治26年4月1893:34村長が大台山頂に教会建築許可を出す
明治26年4月26日1893:34大台教会建築の「工事初め」式
明治28年8月1、2日1895:36白井光太郎、建設中の教会傍の旧松浦小屋に嵩と泊する
明治32年8月17日1899:40大台教会の開殿式
大正6年~1917:58四日市製紙による森林の大規模伐採はじまる
大正6年7~8月1917:58徳川頼倫一行大台教会に2泊。白井光太郎が山上講習会で講演
大正12年8月1923:64大町桂月が大台教会に4泊した(8月19~22日)
大正15年4月3日1926:67神武天皇銅像の制作を大阪の鋳造所に依頼した
昭和3年8月19日1928:69神武天皇像の除幕式
昭和5年11月16日1930:71死去。田垣内政一が2代目会長となる







【松浦武四郎追悼碑の碑文】目次

追悼碑   高等師範學校教諭従六位南摩綱紀撰

大臺山跨和紀勢三國其嶺夷曠有水利拓之可獲三萬石北海
翁欲拓之年過耳順而登五次大有所經畫焉既而罹病不果遺
言曰我死葬此山及歿嗣子一䧺將従遺言而官不許因建追悼
碑於山中名古屋谷以表其綣繾意謁余文余乃併記翁平生曰
翁夙有志拓蝦夷屡往相其地理風土人情物産等著蝦夷沿海
圖廿餘員三航蝦夷日誌卅六卷既而幕府置箱館奉行拓之明
治維新置開拓使擢翁任判官敍従五位改蝦夷稱北海道定國
郡地名以致今日之盛盖翁之力居多焉翁乃造大鏡五背刻日
本地圖殊詳北海道納之西京北野社東京東照宮大坂天滿宮
太宰府菅公廟吉野大峯山以傳不朽翁好遊足跡遍四陲其至
深山窮谷無人之境也毎負三小鍋自炊而起卧林中後瘞之近
江稱鍋塚甞遍探菅公遺蹟皆建石表之又獻所蓄古錢數百文
於朝廷朝廷賞賜千金翁爲人志大識遠而氣鋭克勤克儉而勇
於義臨事不惜千金宜其爲非常之事也嗚呼國家政教日新開
拓之業月進意必不出數十年大臺山荊榛變爲禾黍豊饒之地
猶北海道於是乎翁泉下之喜可知也翁諱弘稱多氣志郎北海
其號松浦氏伊勢小野江村人壽七十一
明治廿二年九月 東京市河三兼書 男松浦一䧺建石

          西村晧平     奥村淺太郎
          玉置良直     井場龜一郎
       幹事 奧田守亮     岩本武平
          奧田利平     岩本弥市郎

                  東京下田喜成刻
サイト佐藤貞夫「『大台山頂眺望図』をめぐって」に置いてある碑文(の拓本)の映像を使用しました。感謝いたします。
なお、碑文の異字体が表現出来ていないところがあります。


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    き坊 (2020年12月)






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