【1】経歴 1 目次 古川嵩は、 美濃国郡上郡 初めわたしはこの出生地を知らなかったので、「嵩」という重量感ある名前について、「古川嵩」は宗教家となってから付けた名だろうと思っていた。村名から取ったというのは意外な気がした。嵩が高等小学校を卆業すると岐阜の豪家に丁稚奉公に出された。嵩はのちのち「私は今でも私の名を示すだけの字しか知らない」と語っていたという(p4 )。それは誇張で、彼は名古屋で商売で稼ぐ時期があるのだから、“読み書きソロバン”は不自由がなかったであろう。だが、古川嵩は大台ヶ原の開山をめざす宗教家として一心に修行にうち込む後半生においても、山野での苦行には傑出していても、先人の教えや遺訓に学ぶなどの勉学スタイルを持つ修行とは無縁だったようだ。 嵩は岐阜の豪家・堀江家で3人の男の子の子守として使われることになった。子供を背に乗せて「馬」となって「四つ這ひ」で駆け回った(p13)。彼は自分が父親に憎まれ捨てられたという意識がとても強く後年まで忘れられなかったようである。 翁は六十幾歳の今もその当時を追想して『自分は生きながらに親に捨てられた。生きながらに屍のやうに古川の家から出された。父の無慈悲と迷信は、血と肉を分けた子をすら捨てた。此上はどんなことがあっても再び古川の家には帰るまいと決心した』と云っている。そして『嵩の名が丁稚の桝吉(鈴木林『大台ヶ原開山記 古川嵩伝記』では増吉)と変った時、初めて故郷を離れ父母の膝下を離れたやうに悲しかった。私の一生を通じてあれほど寂しい悲しい思ひ出はない』と云って居る。 (p12 下線は引用者、嵩が60歳になるのは大正8年だから、口述筆記がそれ以降に取られたことが分かる。)この幼少期の記憶は古川嵩の生涯に深く影響している。 (父は)一日翁を膝下に呼んで、つぶさにその因果をふくめて『ただ家の為親の為に、古川家を出てくれ』と嘆願した。母の深い愛は,この時熱い涙と共に父をいさめたが、迷信と恐怖に蝕まれた父の心は石のように冷たくそれを拒んだ。 (p5)嵩は12歳で丁稚に出されてから、藪入りなどの際にも一度も実家に戻らず、ついに16歳の春に「狂気」を発した。「一日、呆として座敷の隅に涙を流して居る」(p21)という状態だった。強度のノイローゼとでもいう状態だったのだろう。堀江家の主人はすぐさま父栄治を呼び寄せて事情を聞き、狂気の原因は父にあると諭して、父に手を突かせて嵩に謝らせた。 父子は家に戻り、やがて「療養の旅」(p23)に出る。かなりの富家であったからであろう、1年近くをかけて名古屋、伊勢、伏見、京都などを巡って、名医といわれる医師の治療を受けたという。が、はかばかしい効果はなく、翌年には木曽の御嶽山に出掛けた。明治十年(1877)の夏のことである。 医師の治療を離れて、この夏を費やして御嶽山での宗教的修行に励んだものと思える。父は御嶽教信者であったのだから、通り一遍ではない修行がなされたと思われ、嵩の心に質的な変化をもたらしたようだ。また、この御嶽山の滞在で「祈祷」や「火渡り」などの御嶽教の施術の実際を具体的に何度も体験したであろうことは嵩にとって後々重要な財産となった。(この御嶽山参拝の中で「御嶽山に優る霊山を開く」という願いを得た(p25)といっているが、この段階で「霊山を開く」という誓願を得たというのには無理がある。わたしはこの御嶽修行が嵩に何らかの宗教的回心をもたらしたというのではなく、彼に山岳修行の原形を実地に体験させたことが重要だと思う。彼はいわば「肉体派」であり、御嶽山での一夏の修行体験で、多くの実技や技術を経験したことに意味がある、と思う。) 翌年明治11年には嵩は健康を取り戻し、名古屋に出て薪炭や雑穀を扱う小さい店の商人としての生活が始まる。「十九の春」という言葉を用いて古川嵩が実社会へと再出発したことを記している(p26)。父栄治の悔悟の意味もあって、嵩を援助して名古屋で商人として出発させようとしたのであろう。 ところが、嵩にはまじめに商人の道を学ぶという気持ちは生まれず、「草深い美濃の農家の子には、商道はあまりにわずらはしいものに見えて、どれもこれも手がつけられなかった」。代わりに彼は色町に耽溺する(p26~27)。この遊蕩の日常は数年しても収まらないため心配になったのであろう、父母から結婚をすすめられ、同じ村の2歳年上のナカ女を娶る。明治14年、22歳の時である。ナカ女は貞淑でよく働き、木材・米穀の商売は順調に発展していった。1男2女を得るが、嵩の遊蕩は一向に収まらなかった。 名古屋での十九歳から二十九歳までの十年間の生活で、嵩は遊蕩生活に溺れていたが、同時に米穀や木材を扱う商人としてのまっとうな経験も積んでいた。商人としての出張旅行の際に「山めぐり」も行っていた。 春がすぎ夏が来る度、商用を帯ては旅に出る嵩は、そのたびに身を堅めて行く先々の国々の高山を尋ねた。家に帰れば耽溺外に出づれば山めぐり・・・斯うした矛盾の生活が二十九歳まで続いた。その間大和峻峰大峰山へは三四回登山した、その昔役の行者が開いたこの霊山は御嶽にもまして心をひいたのである。(p30)大台ヶ原を初めて目にしたときの印象深い感動が次のように述べられている。 大峯山の頂上、露に濡れた草鞋を踏みしめつゝ見渡す四方の連峰・・・たづさへた強力は、その連峰の名を一々教へた。然もその山頂四顧の間にあって南方一帯さながら横雲をひいたる如くそびゑた連峰を指さし『彼の山は大台ヶ原』と教へられた時、何故か心の上を一抹の霊気さっと掠めるのを覚えた。 (p31)後の回想であるから都合よく変形されているだろうが、この頃から「大台ヶ原開山」の夢は生まれていたようである。が、同時にこの時期は、木材と投機事業の「大損害」(p32)にあえぐ我が商売、妻子が待つ家庭、さらに美妓小三との「歓楽の美酒」という三重の重荷として古川嵩の背にのしかかってきていた。これが彼の二十代であった。この重荷を支えながら夢見る「大台ヶ原開山」について、次のように自己分析している。 五度六度(大峯山系へ)登山する内、大台開山の念は火のように燃え上がり『我が開くべき山は大台ヶ原!!』決心した。けれどその決心の裏には何時も『金を儲けて他力でやらう』と云ふ邪念は家運再興の欲望と共に、清い『開山』の信仰を汚した。今や人生に苦闘する嵩は片手に古川家再興の炬火を、片手に大台開山の野心を掲げ、その背に一家四人妻子を負ふて、最後の戦線に立った。のるか・・・そるか・・・この重たい責の中にも美妓小三のこの三重か四重かの重荷と格闘しのたうち回る中で、最終的には嵩は小三との心中を選び「白い死装束」となって入水する直前にまで至る。その間際に別の入水者が出現し思いとどまる(p32~37)。 「他力でやらうといふ邪念」という語は屈折しているが、「大台ヶ原開山」の望みが「商売」による成功の延長上に考えられているということであろう。この「邪念」は重たいと思う。十分な財力を手にしてそれを手段として開山をするという功利的なソロバンをはじく自分を打ち消せなかったのだ。結局心中にも失敗して、自分を無一文の境涯に投げ出すことになる。 【2】経歴 2 目次 明治23年(1890)の暮れ、古川嵩は店をたたみ家をたたみ、名古屋での生活をすべて閉じて郷里に戻った。妻子は親にあずけることにし、無一物となった嵩は年が明けた正月、故郷の家で両親や親戚たちを前に「大台開山の心」を打ち明ける。一同から「嘲笑はれ 岐阜には知人が多く、そこでの「盛んな送別の宴は友達との間に七日続けられた」(p44)。伊勢神宮までは友達4人が送ってくれ、由緒のある遊郭古市に入込んだ。その時嵩の懐中には父からの餞別がたんまり残っていた。(p45 ) 伊勢の大廟までは、四人の信人友達がにぎやかに送ってくれた。古市に宿をかり、大廟参拝後『浮世の名残』とばかり、古市の郭に入込んだ。その時翁の懐中には故郷を出るとき父から受けた二百両がまだ百五十両あまり残ってあった。( p45 下線は引用者)「二百両」は200円のこと、これは大金で今で言えば100万円以上にも相当するか(明治四年の新貨条例で両=円となったが、明治20年代頃までは「両」とも言われていた。お金の価値換算は難しいが、明治初期の白米の値段比較で1円が約5千円という説もある)。古市は外宮と内宮の中間にある遊郭として古くから有名で、伊勢参りの精進落としなどで賑わった。 たとえば十返舎一九『東海道中膝栗毛』(五編追加)には弥次喜多コンビが古市で大騒ぎをする場面がある。良い挿絵があるので引いておく。下図の男三人のうちキセルを持って渋い表情の男は案内人で、手を挙げて踊る仕草が弥次さん、扇を持ってかなり酔っているらしいのが喜多八。狂歌は「お銚子を はやう/\と いそのかみ 古市客の うつや柏手」(「早く/\といそがせる」と「いそのかみ」を掛けている。「いそのかみ(石上)」は「ふる(古る)」にかかる万葉以来の枕詞で「古市」を引き出している。もちろん「柏手」は酔客の「拍手」と重なっている。この挿絵は、弥次さんの仕草や表情がとてもいいので引用したくなった。弥次さんはこの夜、汚れたふんどしで大恥をかくという落ちになるのだが) なお、十返舎一九は絵も達者で、膝栗毛シリーズはほとんど自分で絵も描いている。狂歌も自作であり多くの場合、(旅行その他で)世話になった人の名前で作中に狂歌を出してその人への謝意を表しているという(このことは中村尚夫「『続膝栗毛』シリーズ三編について」(2011)(ここ)で知った)。 古川嵩はこの遊興で本当の無一物となり、「雲水」となり「物乞ひ」をしながら家々をわたり歩き、尾鷲にたどり着く(後で出てくるが、彼は「乞食風情」と村長から蔑まれたりする。お伊勢参りの街道には「乞食」が多かったといわれる。伊勢商人を「伊勢乞食」と揶揄することがあるのも、そういう背景があってかも知れない)。父親が「災厄の子」として丁稚に出した我が子に対し、悔悟の意味を込めて餞別として渡した大金を、伊勢神宮参拝の後、歴史も深い古市の遊郭で使い切ってしまったという遊蕩には、上引では「浮世の名残」とあったが、この世からあの世にわたるというほどの人生論的な意味が込められているのであろう。また、《無一物の身》となることも宗教的な意味があったと思われる。《 この遊蕩の終わった月日は書いてないが、岐阜を出たのが「一月二十日の朝」(p44)としているから、すでに1月の月末ごろになっていたであろう。いずれにせよ厳冬期である。彼は乞食姿で尾鷲からさらに足を運んで上北山村河合区に達し、村長・日下部守完に「大台登山の許可」を願い出た。村長は単衣に 古川嵩は村内のあちこちのの庭先に一夜の宿を求め、北山川で寒中の水行を続けた。そのうち「北山川に水行する行者」がいるという噂が広がりその真剣な修行ぶりが評判となった。山仕事のけが人の止血や風邪の病人のための祈祷などを求められるままに懸命に行ったところ、霊験あらたかなことが多く、段々とその存在が知られるようになった。ここで、10年前に彼が父と一緒に御嶽山で行った修行経験が生きているのであろう。また注意しておくべきことは、この地域の山村では、まじめに修行する行者・山伏に宿を提供することや祈祷を頼むことなどは古くから行われてきた習俗であったと考えられるということである。 北山川に水行する行者・・・翁の水行はいつとなく噂の的となり、翁を見る村民の口からは『不思議の行者』と呼ばれた。たま/\一村挙って悪熱に苦しめられ、呑むに薬なく、頼むに医師なき凡夫は、苦しさのあまり遂に神仏に 【石ヤ塔】(底本は「石屋燈」、現在は村役場などは「石ヤ塔」としている)古川嵩は北山川で熱心に寒中水行を行い、ついで石屋燈を活動拠点として村人たちの祈祷の要望に熱心に応えた。このようにして、伊勢の方から流れ込んできた乞食修行者が村民の信頼をかちえて村内での存在を許されるようになった。そういう 一般に村民の支持を得た行者が、村落の近くの「岩窟」などを行場とし、そこへ定着するという典型的な具体例が述べられていて、貴重である。そもそも修行者は村民からの一定の支持があり村の責任者の許しがなければ行場へ入ることすらできない。また、このような村民の尊崇と支持・支援があって初めて、人里離れた場所で長期間の修行が可能なのであった。村民の定期的なサポートがなければ長期の修行は成り立たない。つまり、「千日行」などはけしてひとりの行者の個人的で孤立的行為と考えるべきではなく、地域(ないし寺院など)の支持集団が行者の背景に存在していてはじめて可能な修行形態であると考えるべきなのである。村落の側からすると、病人・けが人や衰弱した老人また心を病む者は一定の割合で必ず発生・存在するので、祈祷のできる真面目で信頼できる行者は常に求められていた。(ここでは省略しているが、乞食行者に対する不信派も村内には当然あり、それらとの対立や困難があった。) この地方にはかつて大台ヶ原の牛石で修行していた 北山村民には、その昔信仰の的があった。それは美濃国恵名郡阪下村の産で、林実利と云ひ、大台ヶ原牛石ヶ原で行を収めて以来、村民からは生き神と尊称され,信仰の柱と頼られていた。実利行者は遠く大峰山を開いた役の行者を崇拝思慕し、煩累を大台ヶ原に避けて一意行ひすまして居た。実利行者在山当時下北山村を中心として、行者を尊崇する弟子は近村に数多くあったが、行者は其後東牟婁郡那智山に行場を移し茲に庵を構へて、遂に一生を辛酸の苦行にをへ高齢を保って霊山那智一ノ瀧で大往生をとげた。実利行者は那智の大滝で捨身往生した(明治17年4月21日 42歳)ことで弟子や全国に広がり始めていた彼の信者たちに強い衝撃を与えたのであるが、古川嵩は明治24年6月から大台ヶ原に入り、8年後には壮大な神殿を山上に作り上げるというめざましい活動をするのだが、すでに実利行者の捨身往生が伝わっていなかったことになる。実利の熱心な弟子たちが何人も古川嵩の弟子になっているのであるから(例えば北栄蔵、福山周平など)、これはちょっと信じがたいほどの事実である。底本は口述筆記によって大正12年に出版されているのだが、実利行者の最後が“高齢で大往生”と述べられても、その深刻な誤りを訂正する人物が古川嵩の周辺にひとりとして居なかったことを意味する。これは誤認や不注意というものではなく、信仰の核心に触れる問題である。 中古から江戸期を通じて営々と伝えられてきた修験道の伝統を古川嵩はまったく自覚しておらず、彼にあってはその宗教的情熱の根源は彼の個人的力量と一徹さに求めるしかなかった。このことは彼の心情の純粋さを表しているとはいえるが、その宗教的信念はか細いもので、容易に通俗化する弱さを併せ持っていたといわざるを得ない。 【3】明治24~25年ごろ 目次 古川嵩は明治24年(1891)正月に郷里の嵩田村を出て、上北山村に至り寒中水行を重ね、石屋燈の行場に入ったのはその春のうちであった。それから間もなくして彼は付近の五田狩温泉の行場に移った。寺垣内・浦向・佐田の3区が合同で、行者に依頼して村内に流行していた「熱病」のために「大鎮火祭」を催したのだが、その効果はめざましかったという(p60~62)。「五田刈の行者」の評判は高まり「生神」と呼ばれるようになった。「生神」は北山村の豪家・山本氏の長男・丑之助の夫人・あさ子の難病治療に呼ばれ、「七日の厳修」によってあさ子の病苦がみごとに全癒した(p64)。 これらの霊験あらたかな祈祷活動を通じて村人たちとの信頼関係が強固になってゆき、古川嵩は「大台の山を開く」宿願をもって当地に来たこと、その足で上北山村長に登山を願い出たが拒否されたことなど、これまでのいきさつを打ち明けた。村人たちは古川嵩の身元一切を引き受けて登山の願いを村長と再交渉することにした。 (北栄蔵氏が代表として交渉に当たったが)当時翁が『生神』の名は四隣に響き加ふるに北山其他各村豪家の後援があったので、日下部村長も最初の様に手厳しく拒絶しなかったが、直ぐには許可を与へなかった。村長の意図には矢張り『乞食坊主に何うして大台ヶ原が開発出来るか』という侮蔑があり、一面伝説におぢ怖れられている『一つたたら』の怪や『義経笹馬の怪』の噂の出るのを恐れたからであった。 (p66)われわれが底本としている池田晋「大台ヶ原山と大台行者」は古川嵩の語るところを池田晋が記録したこと、しかも嵩が健在なときに大台教会本部から発行されていることも大事である。つまり、この本の内容は古川嵩自身の目が通っていると考えてよいだろう。彼が無一文となり、その風体だけでなく実際に物乞いをして歩いたことは前述した。「乞食坊主に大台ヶ原が開発出来るか」という侮蔑は彼の人生で何度も自身に向けられた実体験なのであろう。山伏・修験者を信仰しこの上なく有り難く思う庶民がいる一方で、「乞食風情」と見下す役人・インテリなどがいたことも事実である。 ここでは詳述できないが、維新政府の宗教政策の中に、(1)神道と仏教の峻別、(2)修験道・陰陽師の廃止、(3)呪術的な病気治癒の禁止などが重要な項目として存在し、合理的開明的な姿勢が重視された。(4)欧米諸国と対等なつきあいをするのに重要であったキリスト教の解禁(厳密に言うと黙認)は、太陽暦採用の明治6年からであった。奥村善松も村長説得に力を注ぎ、最終的に日下部村長は古川嵩の入山を承諾する。 善松氏は,さらに村長は行者の験力を見せることを条件としたので、6月23日に鎮火祭を催すことにした。小学校校長はかねて呪術・祈祷などは民を迷わせる迷信であると非難していたが、その祭の場では村の青年たちを糾合して多量の糞尿を投げ散らすなどの妨害行為をおこなった。しかし大釜の熱湯を古川行者がかぶり信者らが火の中を歩くなど験力が充分に示され、鎮火祭は成功裏に終わった。それで古川嵩の大台登山が許された(p68~70)。 日をおかず6月24日に、山に精通した4人(奥村寅治・奥村善松・福山周平・平喜平治)が選ばれ、総勢5人が大台ヶ原をめざして入山した。古川嵩はこの日はじめて念願の大台ヶ原に足を踏み入れたことになる。彼はそのまま下山せず、続けて3ヶ月の独居・山籠が始まるのである。簡単に要点だけ書き出しておく。 6月24日 ワサビ谷の「開拓」に残っていた開拓小屋に泊まる。 【松浦小屋】古川嵩は97日間の山中生活を終えて、上北山村に帰り着いた。それから3日目に「東京の御嶽教の副管長」2人が古川嵩を訪ねてきた(p176)。副管長らは厳かな衣冠束帯を準備しており、その教理を難解な熟語をちりばめて滔々と語り、能筆を見せて村人たちを惹きつけた。対する古川嵩は弊衣跣足で黙然として教理問答には加わらなかった。村民の中が、御嶽教を支持する側と苦行から戻ったばかりの「大台行者」を支持する側に二分して、はげしい議論が長時間にわたり交わされた。 さらに下北山村池原に移動して御嶽教と大台行者の信仰論争を継続することになった。約四里の道を副管長二人は駕籠に乗って進み、古川嵩は相変わらずの破衣跣足で駕籠について歩んだ。やがて始まった懇談会の席で、行者側の村民から「大台行者をどうしようというのか」という質問に、副管長側は次のように答えた。 『大台行者は、もともと御嶽山神の加護によって救命され、今日大台ヶ原に登って幾多の難行に打克つ事を得たのも、偏へに御嶽山神の庇護によるものである。御嶽を発祥地とした翁だから、大台ヶ原は、当然御嶽山御嶽教の分身として今後の開山事業を継続して欲しい』といった。両副管長はまた言葉を揃へて、大台ヶ原の管長としては、当然翁がその位置に就くことを勘説した。 (p186)これでは御嶽教の勢力拡大のために大台行者を取り込もうとしていることがあからさまである。大台行者側の者たちは二人の副管長らも大台行者と同じ水垢離をして神に仕える者として清浄な体となってこい、と「荒行」を要求した(p184)。西山村で2日間の大祭を催すことになった。「鳴動式、大鎮火祭」などの火を用いる大祭を副管長らが執行できないことが露わになり、結局いたたまれなくなった副管長二人は逃げ帰ってしまう。これが「明治廿四年十月末」のことであった(p189)。 【御嶽教、御嶽講】このように御嶽 古川嵩とその支持者たちはこの山村に降って湧いた宗派論争によって、大台ヶ原に教会(神社)を建てることは単なる山麓における神信心の問題にとどまらず、東京の新政府の宗教政策と否が応でもつながってしまうことを知った。つまり、自分たちの信仰は新政府公認のどの教派神道に加わることになるかという重大で深刻な政治的問題であることをはじめて知らされた。御嶽教が山深くへ入って来てこのタイミングで予期せぬ宗教論争を巻き起こしたことは、考えようによっては、やがて結成される大台教会にとって幸運だったとも言える。 明治政府は国家理念の背骨となるものを西欧の一神教をまねた「天皇制神道」としたいと考えていたが、我が国には“ 明治政府は天皇神を祀る神道を「国家神道」とし、それは宗教ではない(日本人なら生まれながらに持っている心性である)という強引なきめつけを国民に押しつけた。「神社神道」である。それ以外の無数に存在していた八百万神を祭神とする様々な神道を「教派神道」として個別に審査して認める(ないしは認めない)ことにしたのである。 3ヶ月の山籠を済ませて下山してきた古川嵩には、いずれかの宗教を立てて新政府から承認される必要があるという難題が待ち受けていた。あるいは東京に出て、どの教派神道が良いか実地に調べてそのうちの一つを選択する必要があるのだった。山中で苦行に邁進することに比して、信仰の本質とは何の関係もない何と隔たった世界であることか。 古川嵩・奥村善松・福山周平・山本清五郎・谷向一清の5名で上京することになった。出発の直後に濃尾地震(明治24年10月28日朝6時半ごろ)が発生し、一行は柏木で地震情報を聞いた。東海道線は止まっており一行は四日市から横浜まで船で行っている。東京の地理などまるで分からぬので、ともかく上野に宿を取り、市中を歩き回った。 時、明治24年11月中旬、帝都の秋風は汚れた白衣、一本の自然木をついて歩む跣足の翁の身に、そぞろ冷たくしみるのであった。(p197)明治前半の教派神道の教派の消長は、数年毎に変転し複雑でなかなか理解が難しいのだが、底本は次のように述べている。 当時、日本に神教として存在していたのは。神道本局、実行教、扶桑教、大社教、大盛(成)教、神習教、御嶽教、新(神)宮教の八教で、その本部はいずれも東京に在ったが、各教とも財政いづれも窮乏し、管長以下、教職の主なるものを挙げて、ひとへに理財の考へに汲々として居た。 (p199 強調は引用者)(2か所の訂正は井上順孝『教派神道の形成』(弘文堂1991)による)実際には、黒住教、神道修正派、神理教、禊教、金光教、天理教を加えて14教派があった。口述した古川嵩の記憶にあったのが上の「八教」であったということなのだろう。神宮教は明治32年(1899)に神宮奉斎会となって離脱し、13教派が太平洋戦争ごろまで続いたので、神道十三派と呼ばれることが多い。 古川嵩は御嶽教を本命として考えていた。それで御嶽教本部へ行き「御嶽教の支部を大台に置いて、教理を世に広めて、汚辱の人々を救はう」と志を述べたのだが、次のような説明が返ってきたという。 大台教会設置は、直轄教会ならば1万5千円、大教会ならは1万円、分教会ならば5千円を本部に納入し、之に付随して教導職名大教正は1千円、中教正は7百円、小教正は5百円を納入せよ。さらば御嶽教会の分身とせん。 (p198)既述のように、歴史の古い「御嶽講」はまとまった神道理論を持たず、各地に多数分立していた強固な「講」組織が活発で多様な活動をしていた。そのうちで山下応助の呼びかけに応じた講が「御嶽教」に集まっていたに過ぎない。したがって、古川の記憶には誇張があるかも知れないが、次節に示す神習教のような理論的な説得をすることができず、実際に、入会金に類するような話題しか出なかったのかも知れない。 【4】神習教 目次 古川嵩の一行が御嶽教本部でお金の話ばかりを聞かされたことに憤慨し絶望していたところ、日本橋近くの船着き場で偶然に古川と同郷の知人・長井兼藏氏に出会う。古川嵩の純なる求神の志と上京して今直面している困難とを聞き、長井氏は亀戸天神の神官・青木氏を紹介してくれる。青木氏は多くの神道の各教派が烈しく変動している明治の新世界で「ひとり神教の面影を厳として得ているものに神習教があり、その神習教管長に芳村正秉氏がある」と紹介してくれた。 この神習教の管長芳村 日本全国の村落に分布していた神社をすべて束ねて「神社神道」とし、それの頂点を伊勢神宮とするというのが新政府の宗教的国家構想であり、伊勢神宮は能う限りの高みに置かれたのである。国民はすべて神社神道に包摂されるのであるから、神社神道は宗教でさえないという、宗教国家が生まれつつあった。芳村正秉は必ずしもその国の方針に賛成したわけでなく、自身で修行を実践し、最終的には神習教を創って独立する。 伊勢神宮に移った正秉は、やがて神宮の財政立て直しに努力することになる。当時神宮の財政状態は極度に悪化していたのである。一方、近衛忠房、本庄宗秀らと共に、神宮教会の開設や神風講社の結集にも尽力した。また、各地における布教伝道にも加わった。芳村正秉はやがて伊勢神宮を辞し、神道布教に専心することを選び、「教導職」となり、明治14年に神習教会を許可された。正秉を信奉する神官教導職が増加し、各地に分教会・支教会が設立されていった。内務省から神習教管長を認可されたのが明治17年9月。 明治24年11月中旬、古川嵩ら一行と面会したとき芳村正秉は53歳で、当時としてはすでにかなりの長老である。嵩は32歳、大台ヶ原山での激しい山籠修行を経験しているとはいえ、彼の修行はいわば自己流であり無手勝流である。少年時代に父と共に御嶽登拝をしそこで御嶽教のエッセンスを体験しているが、修験道や山岳修行を本格的に学んだわけではない。先達とか先師というべき人と出会っているわけではない。 正秉に対して嵩は自分が神習教本部に来ることになるまでの事情、大台ヶ原山で体験してきたことを包み隠さずそのまま述べた。 翁は既往今来の事情を、なにの修飾もなく、裸のまゝ芳村氏の前に投げ出した。そして芳村正秉は、当時の神道についてもっとも理論的に突き詰めて、また、断食修行や山籠修行などの実践を重ねたまじめな神道家であった。彼の経歴や付き合のある人脈からして、当時のわが国における一流のインテリでもあったと言ってよいであろう。下で紹介するように、神習教は外交官などの在留外国人達にも注目されていた。その芳村は古川嵩という熊野の山中から出て来た無学の男が、自分がとうてい到達できない「高み」を大台ヶ原山で体験してきたことに気づいたのだろう。自分を訪ねてきてくれたことを「神の加護によるもの」といって喜んだという率直さが芳村の偉いところである。 翌日から神田猿樂町の神習教会で35日間にわたって「芳村氏から、教理、諸式、其他神習教に関する一切を習得した」。35日間というのは随分長いと思うが、その後しかるべき認可証などを授けてもらい、12月の上北山に戻ったのである。 実際、上北山の山奥から,帝都の真中へ、一本の杖、一枚の汚衣、然も跣足のまんまで飛び出して行って、秋から冬まで都中をぐる/\と廻り歩き、金は失くなる、寒さに攻められる,都の人々からはそれ狂人よと嘲笑される・・・人間に生まれてあれほど辛酸を舐めた事はなかった。 (p208)当時を回想して嵩はこう語っている。正直な回想だと思うが、この時の上京に要した2ヶ月間ほどは、単に心身の痛苦というだけでなく、自然林山中で突き詰められた「山神」を求める純な心がそのままでは世に容れられず、明治新政府が創出しつつあった「教派神道」という秩序にはめ込まれざるを得ない変容の時間でもあったのである。この後わたしたちは古川嵩が進んでいく道筋をたどるのだが、大台教会がどのような歪みを受け、変容していったか、という観点が必要であると考えている。 【パーシバル・ローエルと神習教】 【5】山神 1 目次 古川嵩らの一行が神習教の認可を得て、上北山村へ戻ってきてすぐに明治25年(1892)の新年となった。古川嵩は大台山に確固たる自らの宗教をうち立てるべく「五田狩温泉の行場」(p210)に入っていた。さらにそこで池峰明神に90日間の夜中参籠の願を掛けて修行を始めた。五田狩温泉の行場から約50丁(5.5㎞)の明神池の池畔に池神社がある(現代の地理院地図では「五田刈谷」と出ている(ここ)。この地図に明神池と池神社も記載されている)。 翁が明神の神姿を拝し、池の神秘を正目に見んとしたのは、一つは翁の求神の念からもあるが、その大因は、これによって、正に開かんとする大台一宗の基礎を堅め、翁が信仰の上に確固とした『神』を得んとしたに外ならない。寒中の積雪を踏み例の白衣・跣足で連夜の参籠を続けるのであるが、嵩の目的は自分の前に「神が姿を現す」のを確かに見たいということにあった。 九十日の満願日までには、乃至満願の日には、神は必ず姿を見せてくれるであらう。これは実に素朴で単純な問であるが、この問を真っ正面から堅持して譲らないところに嵩の独自な神観念があった。これは、嵩が非インテリで一徹な心性の持ち主でなければあり得なかったことだったと思える。 90日目の満願の夜、嵩は神の示現を今か今かと待っていたが、何のしるしも無かった。ついに彼は大声で叫んだ。 池の峰明神、願くば満願の一夜に、九十夜の嵩が祈念の真心を知らせ給へ。 (p216)驚いたことに、そのとたん大音響とともに白み始めた空に黒雲のような巨大な生物が現れ動いているようであった。嵩は度肝を抜かれ、池の汀に膝を屈して座り込んで あゝ神は、今こそ神秘を見せ給ふ。(p218) 何と云ふ光栄、何と云ふ幸福。(p220)と感激に震えた。実際の底本本文では多くの頁数をつかって詳しく述べているのであるが、数刻の後、彼の感激はすべて自身の誤認であって、水鳥の大群が飛び立ち、朝日が差してきて神社の金具が輝いたりしたに過ぎなかったことに気づく。それにより、嵩は強い衝撃を受け、深く失望する。 『神もこの調子で信じて行くと、とんだものになってしまふ。私のあの時の心が、おちつきを欠いて居たら、私は私の錯誤を、すっかり霊験と信じてしまったであらう。神に頼った私に、神が授けたものは実に皮肉な喜劇の一幕であった。然し私はこれで世に云ふ神秘や伝説とい云ふものが、人間の恐怖感念乃至迷信感念から来て居る事の多いのをます/\深く信じたのであった』絶望の心を抱いたまま、嵩は五田狩の修行場を切り上げ、寺垣内の木田栄蔵氏宅へ戻ってしまう。彼の立つ位置は《神の実在》を前提としたもので、その煩悶のなかに自分をひたすら落と込み、そこで出口のない苦悩の悪無限に懊悩するばかりであった。 『実際私の魂は、あの朝かぎり私の身体から抜け出してしまったのだらう。私はうまれて初めて失望落胆と云ふものの痛々しさを知った。行もなにもすっかり厭になり、只だも此上は考へるより外に仕様がないように思って、蹌踉と木田氏の許へ引き上げるなり、物をも云はず、離れ座敷の中へ転げ込んで、世の中も自分の身も神も信者も一生の事業も成るようになれと思って、昏々と眠りに就いたのであった』 (p224)逃れようのない苦悩の淵に陥った古川嵩には、数年前、名古屋で一度女とその極点にまで至ったことがある《自死》しか解決の道筋がないのである。妥協を知らない嵩は、不器用な本質を持つ人間であるとも言えるが、木田氏宅の手近にあった鎌を研ぎそれで自分の首を掻き切ろうとする。そして、ぎりぎりの極点で或る《回心》に達する。 感情は,声あるものゝ如く、翁に叫んだ。それは《自死》は、自分の意志より自分の命の方がはるかにその由来が深いということを忘れ、自身を裏切る行為である。“自分の命は大台ヶ原に預けた”のではなかったか。 上引は何十年か後に多数の信者に尊敬される立場になった古川嵩が、かつての《回心》の内実を語ろうとしている場面なのである。ゆえに、私たち後世の者がここから引き出せるのは、古川嵩という男が彼の人生で何度か超えなければならなかったであろう《極点》を愚直に突き進み、その最後の一瞬に《悟り》の妥協に達したという事実である。自分の内にぎりぎり存在する信念、それが即ち《大台ヶ原山神》であると。 そこに大悟があった。九十夜の苦行は,死を以て臨んで初めて報ひられたのであった。古川嵩は木田氏に明神池参詣九十夜のいきさつと自分の得た心境を吐露した。そして、木田氏宅に主だった信者・弟子を集めて「いよ/\大台ヶ原に教会建立着手の決心を打ち明け」、建設資金を「万人の喜捨による」として、「上北山村を中心として奈良三重和歌山の三県を行脚勘説」する計画を述べた(p229)。つまり、大台ヶ原の山中に「大台ヶ原山神」を祀る教会を建てて山を開きたい、という計画を周辺山麓の人々に周知し賛同をもらおうというのである。 一行の実際の行脚は一月後から始まった。明治25年4月中に開始したと思われるが、その年の秋までかかった。上北山村から始まり、北山村、南牟婁郡木本町、東牟婁郡新宮町、9月には奈良県吉野郡十津川村まで足を伸ばしている。いずれに於いても大台ヶ原への教会建設は好意を持って受け止められた。各地の信者はもとより祈祷などで縁のあった豪家などを頼りに行脚が行われ、大成功のうちに終わったのである。 古川嵩は芳村正秉に授けられた神習教の正式の「教導職」として説教をすることを公許されていたのであるが、この行脚の旅の中で「神教の道」を初めて説くことになった。 『何しろ下手な説教だから、聴く人には気の毒ではあったが、どうしても語らねばならないと決心すると、言葉は自然と真実を吐くもので、後で考へると私の口から、よくもあゝした言葉が出たかと疑われる位だ』 (p231)と述懐している。嵩の説教が実際にはどのようなもので何を語ったか、資料がなく残念ながら分からない。大台ヶ原の「山神」について語ったのだろうと想像するが、前年秋に東京の神習教本部で芳村正秉から35日にわたって学習したことなども含まれていたのであろうか、そういうことについて何も分からない。 この時点で古川嵩が得た信仰の核心は2つあると思う。 (1) 彼の信仰は自然崇拝ないし山林・山岳賛美というもので、何らかの人格神を表象しなかった。周辺山麓の人々に「行脚勘説」してまわったのは、大台ヶ原を開き、大台教会を建設することを知ってもらうこと(了承してもらうこと)、教会建設への喜捨を求めるためであったが、そこで何らかの宗教的宣伝や入信を求めるような働きかけが行われた様子はない。古川嵩と村人達との関係も教祖と信者という関係ではなかったようである。 【6】山神 2 目次 半年に余る周辺県をふくむ行脚を終え、大台山頂に教会を建て山を開くことについて大方の賛成を得た。その段階で古川嵩は冬の大台ヶ原での山籠修行を行うと言い出した。多くの村民が、その企てが無謀であり生きて帰ることは出来ないと説得するのを振り切って、明治25年12月10日に雪の大台ヶ原に登って行った(底本は明治24年12月10日と誤っている p233)。 なお、明治初年に実利行者は牛石ヶ原で3ヶ年の修行を行ったし、修験道史では中古以来大峯での冬の山籠苦行は有名で山伏の名誉ある修行であると考えられていた。「笙の岩屋の冬籠」はよく知られていた(五来重『修験道入門』(角川書店1980)の「冬の峰入」が分かり易い。年代のはっきりしている例として円空が延宝三年(1675)から四年にかけて笙の岩屋で冬籠を果たしたことを挙げている)。古川嵩が誇張しているほどには大台ヶ原での越冬が前人未踏で怖ろしい試みとは言えない。実利行者の弟子であった福山周平などが古川嵩に付き従っており、冬の大台ヶ原でも小屋があれば過ごせるという情報はあったものと思われる。逆に言うとこの辺りの『大台ヶ原山と大台行者』の語り口は、誇張に過ぎると思われる。 「奈良県立八木測候所」が設立されたのは明治30年のこと(昭和14年に国営移管)。「奈良県気象年報」の古いものが、国会図書館デジタルコレクションで公開されているが、明治40年分からすでに「大台ヶ原」という観測点名が出ている。岡本勇治編『世界乃名山大臺ヶ原山』所収の「大臺ヶ原気象一斑」によると、 大台ヶ原観測所は明治三十一年九月同山の開拓者大台教会主古川嵩氏にその雨量観測を嘱託せしに始まり、同三十六年六月寒暖計を併置し毎日一回午前十時其観測を共に施行せし来たりしが益々精細なる気象観測所の必要を認め大正八年末農商務省山林局に於て松山山林測候所附属雨量観測所を設置せられ之が専門的気象観測所を施行するにいたる、其間全く古川氏の熱心なる観測を続行すること二十余年、之が功績の顕著なるを認め大正七年我大日本気象学会より賞牌を贈り其功を表彰せられ今日に及びたり。(「大臺ヶ原気象一斑」 p102)古川嵩は「山神」を信奉し、山民に護摩・祈祷を行って絶大の尊敬をかちえてきたとされる宗教者であるが、彼には合理性を重んじる開明的な面があり、大台ヶ原に降る大雨が何時間後に大台ヶ原を水源とする川(吉野川・宮川・熊野川)の増水につながるか、という問題に関心を持っていた。筏流しの林業業者らにとって重大問題であるという問題意識からである。林業組合との間に電話線を引くことなどの重要性を早くから理解していた。したがって、山岳気象の重要性を良く認識しており、雨量・気温の観測などを引き受けている。 吉野林業は江戸時代以前から杉桧の造林と組み合わせた人工林造成を長期に渡って維持してきたことはよく知られている。その大規模な美林は有名である。しかし、林業が資本主義的に強大化した段階で、自然林保護と矛盾する面が露呈してくる。世界的な製紙業のために大台ヶ原の天然林を皆伐するという暴挙を行うようになったのは大正期であるが、古川嵩が有効な反対運動をなした形跡はない。この点は第8節で取りあげるつもりであるが、古川嵩が早くから林業と親和的であったことと関連があるのかも知れない。上掲の「大台ヶ原気象一斑」の最後は次のように終わっている。大台ヶ原・八木・札幌・網走の冬期平均気温、雨天日数、降水量を比較した上で、 之に依りてみれば五月より十一月に至る七ヶ月は容易に登山することを得、且つ寒中とこの「大台ヶ原気象一斑」(大正9年以降の作成)は、小論が底本としている池田晋「大臺ヶ原山と大臺行者」と同様に岡本勇治編『世界乃名山大臺ヶ原山』(大臺教会本部 大正12年)に含まれている。上引のように大正7年に「大日本気象学会」から古川嵩が表彰されたことが記載されており、古川嵩ないしその周辺の人々の目に触れていることは間違いない。それゆえ再度掲げておこう、この辺りの底本の語り口は誇張に過ぎる、と。 古川嵩は奥村藤十郎・善松親子と福山周平の3人を先達として名古屋谷の小屋へ入った。そば粉と稗の挽き割りを食料として運び上げた。嵩は例の白衣で跣足である。翌日下山する3人に対して、嵩は次のように述べている。 私は大台ヶ原山神の試みに飽迄堪え様としてゐるのである。私が好んでこの苦行についたのは、決して好奇や虚名を売る為ではない。私には斯うしなければならない運命がある。私の信ずる処は、大台ヶ原山神の命ずる處と知って頂きたい。私の生命は大台と共に在ってこそ価値がある、だから決して私の身を案じて頂かなくともいゝ。 (p236)積雪が序々に深まっていく小屋の中でチラ/\と火を燃やしながら、嵩の日課は座を組んで黙然と瞑想することであった。小屋を守るために雪除けをし、薪にするために雪の下から枯れ枝を集めた。除雪した雪で小屋の外側に雪壁を築いたが、それは防風にもなった。 やがて体が寒さに順応してきたので、小屋の火を消してしまい、生のそば粉や稗粉を雪と混ぜて団子として食べた。雪に埋もれた小屋の中で座し続ける嵩を山雀(ヤマガラ)が訪ねてくるようになった。嵩は山雀との交渉について詳しく語っている。 その翌日、翁は小屋でいつものやうに蕎麦粉と稗の実の朝餉をとって居た。その朝は稀に雪が晴れて、うすれ日が、雪雲の間から洩れていた。すると突然、二日ほど聴き馴れた山雀の啼鳴は、小屋の背後の雪壁のあたりで、はっきりときかれた。(中略)翁はその音色を楽しんだ。果ては翁の唇からも、その音色に合すやうに微かな口笛さへ出て来た。すると山雀は、その音色を自分の友の啼鳴とでも思ったのか、朗らかな囀をつゞけながら、表戸の方へ移って来た。そして開け放った表戸に止まって、また暫く啼いて居たが、やがて翁の居るのも知らぬがに、小屋の内へと飛んできた。翁は人をおそれぬげの山雀を、心にくいばかりいとおしいものに思った。そして口笛を吹きつゞけた。すると山雀はその口笛をたづぬるものゝやうに、身を軽く翁の肩に飛移った。そして余念もなく、やっぱりここで注目したいことは、古川嵩の「山神」が徹底して彼の個人的な体験に基づいた内発的な発想に固定され、彼個人の領分に足を置くところから飛躍していかないことである。嵩以前に「大台ヶ原山神」を言い出した者はおらず、その神は独自であって係累をもたない。と同時に、その「山神」がいかなる性格の神であるのか、嵩はすこしも語っていない。中身がまるで空白なのである。もし神習教の芳村正秉であれば、仮に類似の体験をしたとすれば、大中臣の末裔たる自分という“理念の遠近法”が即座に起動して、自分が直覚した「神」を、おそらく記紀神話の世界に結びつけてただちに理念化し高度化したことであろう。 1月も終わる頃のある朝、嵩は不思議な「感」を覚えた。その感覚について彼は「神人感通」の微妙な恍惚境であるという言い方をしている(p251)。ふたりの知人が雪中を登ってくることを予感し、名古屋谷の自分を訪ねて来る2人のために久しぶりに火を焚き湯を沸かして待った。到着したのは奥村善松と福山周平の2人であった。 いわゆる「虫の知らせ」とか「第六感」というものだろうが、南方熊楠も良く体験したと「履歴書」(矢吹義夫宛書簡、大正15年)に書いている。名古屋谷の小屋に元気な嵩を見出した奥村と福山の2人は、嵩の凍れる遺体を雪中から掘り出してくるつもりで登って来たと語り、「あの雪の中で火も焚かず白衣一枚で居る事はどうしても奇跡だ」と述べている。嵩はかくて小生那智山にあり、さびしき限りの生活をなし、昼は動植物を観察し図記して、夜は心理学を研究す。さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ずるゆえ、自然、変態心理の研究に立ち入れり。幽霊と古川嵩の「神人感通」も実際にあり得たものとわたしは考えたい。常人にはなかなか体験できないような心身の長期の静寂の境地にあったのだろう。 今思ってもあの大雪の中で、よく生き永らへて居られたものであると思ふ。不思議と云はうか何と云はうか。私は大台山神が山神を信ずる私を深く加護してくれたのであらうと思ふ。 (p255)と述べている。大台ヶ原山の大雪の中で冬籠りが実現できたことを「大台山神の加護」として「山神」への深い感謝の気持ちを述べている。 この感想には無理はないのだが、ここで古川嵩が特徴的に示しているのは、中世以来連綿として続いてきた大峯の冬籠り修行の伝統(歴史性)を意識していないことである。明治初年の実利行者まで受け継がれてきた千日行や冬籠りが示す修験道の伝統に、自分が連なっているという自覚や誇りがなく、雪中の冬籠りが肉体的な防寒の問題に集約されており、それを実現させてくれたのが「大台山神」であるというふうに矮小化されている。彼の心中は純粋だが、それは「スポーツ登山」などと地続きになっている。日本の「山の神」は山中で孤独の作業をすることの多い 古川嵩の冬山籠りは、既述のように開始は明治25年12月10日であるが、終わりの日にちは分からない。「山に入って足掛け三ヶ月目」(p255)といっている。したがって2月、立春を過ぎた月半ば頃になるか。65日間ほどの山籠であったとしておく。 【7】教会建設 目次 明治24年(1891)10月末に、97日間の夏の大台ヶ原山籠を成就し村へ帰ってきた時、村の人々から異口同音に出た言葉は「魔物は居たか」であったという。 人々の口を衝いて出た言葉は、先ず大台の怪魔、一つたゝら、義経の笹馬、其他怪魔として、古来伝説されて来た妖奇の実物に遭遇したか、またそれらの魔性の有無であった。然も人々は、依然として、魔の存在を信ずるものゝやうで、呪術・祈祷によって難病平癒を試みて、信者たちに奇跡のような効き目を幾度ももたらした験者・古川嵩であるが、彼自身は極めて合理的で開明的な思考をする。「山神」に逢おうとして逢えず、見ようとして見ることができなかったことを次のように村の信者たちに告白している。 翁は在山中、神に逢はうとして、逢ひ得ず姿を見んとして見るを得なかった一事を強く人々に云ひ進めた。そして、山頂に堂宇を建立し、永遠に大台ヶ原山神をこゝに祭祀する事は決して徒でないと説いた。 (p194)大台山中でやり遂げた孤独・長期間の修行において、古川嵩は山神の存在を直感することはあったが、しかし、山神そのものを遂に目にすることは出来なかったし、逢うこともできなかった。彼が直感した山神は実体的な存在ではなかった。それだからこそ、大台ヶ原の山頂に堂宇を建立して山神を祀り込めるのだ、と。この一点こそが古川嵩の唯一の神がかりの超論理であったと言えよう。 翁が、大台ヶ原山頂に、一つの堂宇を建立する事を建言したのは此時である。( p194 強調は引用者)すなわち、古川嵩は山神を祀る堂宇を大台山頂に建立するといっても、天理教の中山みきや大本の出口ナオがそうしたように、何か自分の信じる「山神」を唱え出したというわけではない。彼は大台ヶ原の山中で長期の山籠修行をすることで、厳しい風雨や動植物やの天然自然の総体に合一した、ある恍惚境を感得し得たというのである。 その日の朝、翁の心霊の上に奇蹟にもたとへまほしい或る『感』が湧いてきた。翁はその『感』を『神人感通』と名づけて居るが、翁の知る限りの言葉では到底表現出来ない微妙の感じであった。これが古川嵩が宗教を立てた拠り所である。この『感』は近代的な個が大自然に包まれた状態で感得する一種の感覚と通底しており、宗教的な霊感とは違う。つまり、この『感』は美しく純粋なものであるが、民族の意識の底に根を下ろしている太古からの宗教意識とは異なる。 古川嵩は明治26年春に冬山籠りを果たし、夏・冬両期の単独山籠りを達成した。この事実は信者たちに大きく熱い盛り上がりをもたらし、嵩と信者達は上北山村長・日下部守完に対し、大台ヶ原の山頂に教会を建立する許可を一同連署の上で改めて求めた。村長は「大台ヶ原で夏・冬の苦行をなし遂げたことは認めるが、山頂に教会を建てるとなると膨大な資金を必要とする。苦行は出来ようが金は出来るか」と反問して建設許可を出さなかった(p256)。古川嵩らは政府公許の教派神道である「神習教」の教会を建てるとしているのであるから、教会建築に関する法的な基本問題はクリアしている(逆に、上京して神習教に加入していなければ、この段階でストップがかかった可能性があった)。村長としては古川行者と信者たちに財政的な基盤があるのかどうか確かめて、有名無実の建設許可を出したのではないことの保証を求めたのであろう。 実際のところ資金集めが出来なければ、古川嵩の夢も理想もまったく現実的な力を持つことができないのは確かである。資金集めに成功するかどうかは「大台ヶ原山神」に対する信者達の信仰がどこまで本物であるかが試されているとも言えた。 この(大台教会建立の資金集めの)報一この実績を突きつけられて、日下部村長はここに初めて教会建設の許可を与えた。 数日後、古川嵩と日下部村長それに信者らは教会の地所選定のために登山を行った。その登山隊の一行は4日間を費やして、大台ヶ原の西部から北部・東部・南部を丁寧に調査して廻り、最終的に教会を建設するのは「名古屋谷の名古屋平」と決し、そこに木標「福寿大台教会建立敷地」を立てた(p259)。 教会工事の設計一切は、神社殿堂の建築家として熊野地方で有名であった南牟婁郡市木村の工匠・城内兵次に依頼した。その設計図は、敷地一丁七畝十七歩(10649m2)、社殿十三間三尺四面(約180坪=360畳)であった。 工事初めは明治26年(1893)4月26日で、建築一切の「総支配」は福山周平であった。会計主任・奥村善松、大工棟梁・城内兵次、土普請・松田茂八、杣頭梁・田垣内正藏。 【土普請】(つちぶしん)雪が降りはじめる10月には工事を中断して工事関係者は山を下りるので、当然その時点で各人へ給金を支払う必要があった。五千円の資金はすぐに底を突き、嵩の仕事は金算段に東奔西走することだった。明治27年4月から第2期の工事が開始されたが、同年10月の第2期工事終了時までに必要な資金は、第1期分も入れて、「実に一万二千余円に達し、予算は既に倍額に近くのぼっていた」(p269)。時代はちょうど日清戦争(明治27年7月25日から明治28年4月17日)にかかっており、物価の高騰にみまわれていたのである。 古川嵩にとっては苦心惨憺の建設資金集めであったが、その過程で多くの地元有力者、近畿地方の実業家・代議士などの名士・有力者とのツテが出来た。また新聞社などにもその名が広く知られることになった。これらのことは宗教活動の本質とは別のことだが、宗教団体として存続していくためには重要なことであった。 最も多額の寄附をしてくれたのは「山林王」とも呼ばれる 第四年目・・・・日清役の血腥い風が吹きおさまった翌年、最後の工事に着手した。たま/\此の時。大和の豪家土倉庄三郎氏は、三途の川落ち(通称 さんずこうち 三津河落山あり)の水上に位する、宮内省山林の払下を受けた。この山林は,当時日本に於ける最大の山林と称された処女林であった。伐木搬出の道路は、伐木に先立って着工されたが、この延長十二里、道巾八尺、吉野郡川上村柏木を基点として,大台を貫き北牟婁郡船津村に至る。この工費約十二万円を要したのであった。大台教会が完成しその開殿式は明治32年8月17日に行われたが、「この日参列した名士乃至信者無慮千余名、神習教副管長大教疔菅野正輝(正しくは 正照。第4節で紹介したが、神習教のNO.2)、土倉庄三郎、青野郡長、上北山・川上両村長、岩本代議士、各新聞記者団」らは登山隊を組み8月12日に奈良市を出発し、吉野山・川上村・柏木・大台教会宿坊(16日)へと登ってきた。その先頭を歩むのが古川嵩であった(p273)。 (上図は岡本勇治編『世界乃名山 大台ヶ原山』の口絵。現存の教会は建て替えられている。) 既述のように本殿はすべて畳を敷き詰めれば約360畳余の広さで、数百名の宿泊が可能である(第9節で紹介する大町桂月は「優に千人を収容するに足れり」と述べている)。『世界乃名山 大臺ヶ原山』に女学校生徒たちの大台登山の感想文が寄せられているが、引率の奈良県立桜井高等女学校長・野村伝七は「女生徒約三十名、其他二十名足らず」の50名近い人数であったと述べている。生徒の感想の中に「山上の宿の完全や、贅沢な馳走には驚いた。富士山の宿等を想像していた私達は心から驚きもし、教会長さんに感謝した」(p39)とある。 大台教会の開設の後、古川嵩はそこに定住し気象観測なども積極的に行った。「魔物が棲む山」と恐れられていた大台ヶ原が、「登山」の対象として、また自然の美や動植物の神秘を味わう「秘境」として知られるようになっていく。 だが、古川嵩が目標として掲げていた「大台ヶ原山の開山」とは、こういうものだったのだろうか。つまり、建物を建てそこに比較的自由に宿泊を認めるのなら、山小屋を作ったのとそれほど変わりがない。彼は、大台教会の設立まではきわめて熱心で体を張って全力で努力していたが、その目標がひとまず達せられた後には、彼の宗教的展開とよべるものが乏しい。 ここで振り返ってみると、数百人泊まれるという大台教会本殿と松浦武四郎が幾つか大台ヶ原に造った小屋とは、その発想がまるで異なっていることがよく分かる。松浦の小屋は「山稼ぎ」の山民のために途を開き石標を立て、小屋には山民が日常信仰している神仏の名号を掲げておくというものだった。それに対して大台教会は、不特定多数の「自然」を求める登山者などが利用出来ることをめざしている、としか考えられない。それを「観光の客」と喝破したのは大町桂月が最初だろうと思う(第9節で紹介する)。 古川嵩は雨量観測などで初期から林業業者と親和的だった。再度引用するが、「森林王」と呼ばれた土倉庄三郎に教会までの「参詣路」を寄附してもらって得々としているのも見過ごせない。 (吉野郡川上村から大台ヶ原を越えて熊野側の船津村に至るいわゆる「土倉街道」の)開鑿を機として、伊勢大和の国境に位する大台辻から、名古屋平まで五十丁(道巾八尺)の参詣道開鑿の寄進を翁の許に申出でた。この工費二万円、当時大台教会に集められた寄進中の最高額であった。 (p271)つまり、古川嵩は土倉庄三郎の手の平の上で踊らされていた、と言われてもしかたがない。むろん土倉庄三郎が、遠くまで視力の届く幅広い仕事をなした人物であることを、ひとまず置いてであるが。 彼があれほど熱情を傾け尊重していた大台ヶ原の森林を、どうにかして守ることが次の課題とならなかったのか。太古から神社が「鎮守の森」を大事に守ってきたように、教会を中心とした森林を教会を荘厳する宗教的礼拝の対象として位置づけ、周辺の森林を可能な限り購入して自然林皆伐から守るというようなことが出来なかったのか。四日市製紙会社が15万円で山林を買った、というような情報を見ると大台教会として手がまるで届かないことはなかったのではないかと思う。(昭和3年に牛石ヶ原に完成した「神武天皇像」については第10節で扱うが、これの鋳造費だけで約3万円であったという。鈴木林『古川嵩伝』p125) 意地悪く言えば、「山神」についてその宗教的信念の内実を何も展開しない(憑依されない)古川嵩の「大台ヶ原山神」信仰は、自然賛美にほぼ等しいとするほかなく、それは「自然愛好」や「観光登山」と地続きの価値観に過ぎないのではなかったか。この問題について、その後大台教会が宗教思想として痛切な自己批判をしているとは思えない。 ちょうどその頃(大正に入った頃)、大台ケ山では、明治32年に古川嵩が土倉庄三郎らの援助で建設した大台教会は、しだいに増加してくる登山者の拠点となっていた。大台ケ原登山者は、大正の初めには200名ほどだったが、「このころようやくスポーツ登山が注目されはじめ、吉野群山は大阪にちかい山々として紹介され、「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」などの記事もややふえてきた。」といわれている。白井光太郎は、大正4、5年には大台ケ原登山者は、年数千人にたっしたと指摘している。(村串仁三郎「吉野熊野国立公園成立史」pdf 2004 法政大学学術機関リポジトリ (ここ))つまり、大台教会が大台ヶ原山上に建てられ、宗派にこだわらない登山者の山小屋機能を果たすようになったそのタイミングは、大杉谷から大台ヶ原にかけての手付かずの森林を格好の資源と見なして、その森林を資本主義社会に組み込もうとする貪欲な動きが始まっていた時期にちょうど重なっていた。木材を消費するためには、単に木材伐採するだけでは意味がない。少なくともそれを山奥から運び出すことが必要であった。河川ないし主要道路まで材木を運び出す道を付けることがどうしても必要であった。が、それは快適な登山道としても機能する。宗教者・古川嵩は自らが立てた大願=「大台ヶ原開山」が実現したことがどのような社会的意味を持つか、自身の宗教理念と照らし合わせて見直す必要があった。大台ヶ原山神を感得しそれを祀るだけでは不充分であって、その山神が踏みにじられる事態となっている状況に、大台教会がどう立ち向かうかという新たな課題が生じてきていた。われわれはその難しい課題に対して古川嵩がどうふるまったかを問うことになる。 【8】白井光太郎 目次 植物学者の白井 明治28年8月1日:2つ目の和歌は、松浦武四郎「乙酉紀行」にある松浦の 優婆塞もひじりもいまだ分けいらぬ深山の奥に我は来にけり (「松浦武四郎大台紀行集」p37)を借りて、松浦への敬意を表したものである。(1首目は第10節で取りあげる。) 上掲「8月1日」の初めのところは、土倉庄三郎が開いた吉野側の東吉野街道と熊野灘側の船津を結ぶ「土倉街道」(船津街道)が明治28年8月1日の時点で、すでに木材伐採が始まり木馬道として機能していることが如実に分かるように書いている。更に、「大台辻」から枝分かれして大台教会にまで行く「参詣道」はまだまったく手も付けられておらず、「道という道のない」「すこぶる嶮岨」な「一里ばかり」であったことが分かる。これらの証言は貴重である。 「行者小森増吉」という表現に違和感を覚える人は多いだろう。「行者古川嵩」ではないのか、仮に小森増吉という場合でも「行者小森増吉氏」と言うべきではないのか。松浦武四郎に対しては例外なく「氏」を付けている、それどころか短歌二首では「君」と敬している。また、ここでは引用しないが8月4日、5日に出てくる前鬼山の中之坊の五鬼上義正、森本坊の五鬼継義円などにも例外なく「氏」を付けている。要するに古川嵩に対しては「行者」と呼んで軽く見ている。 「増吉」は少年時代に嵩が岐阜の堀江家に丁稚に出され、子守をしていたときの呼び名である(資料によっては「枡吉」とも)。大台教会建設の普請現場ではおそらく最高の敬意を払われていたはずの古川嵩であるが、仮神殿として使用していた旧松浦小屋で白井光太郎と2泊することになる。当然その間に白井は「行者」に名を尋ねたであろうが、嵩は「小森増吉」と答えたのであろう。「古川嵩」と本名を言わず、「子守増吉」と軽口ニュアンスの偽名を応えたと考えられる(真面目な宗教家として褒められる態度ではないと思うが、古川嵩には時にわかりきったホラ話などで笑いを取る癖があったという。後に触れる)。もちろん白井にはその軽口は伝わらなかった。嵩の方からすれば、小学校卒業だけの自分に対する白井帝大教授の態度に、“ちょっとからかってやるか”と思わせるようなところがあったのかも知れない。 ついでながら、植物学者としてだけでなく本草学や博物学・考古学でも大きな仕事を残した白井光太郎は、和歌に関する知識や実力も相当なものだったようで、南方熊楠が昭和4年(1929)に田辺の明治28年8月に建設工事中の大台教会を訪ねたことを白井はその後何度か講演の中で触れており、その記録が残っている。わたしは以下で二つ取りあげたい。 始めに、大正5年(1916)4月10日、「吉野山保勝会」での講演「吉野名山の保護について」。場所は吉野山東南院で、徳川 その講演で、明治28年に建築中の大台教会を訪れたことに触れている個所。 私が明治二十八年に登山した時に宿泊したのは、即ち松浦氏の建つるところの小屋で、二間四面で数人を納るるに足りる。当時神道の行者小林増吉氏がこの小屋にいて、大台原山神社経営の事に任じ、信者より寄附を募り、総檜にて十間四面、高さ四丈六尺の社殿を建築中にて、近傍に作事小屋等があって、おおいに賑わっていた。松浦氏の小屋は当時神社の仮神殿となっていたが、私は行者とともにこの神殿に泊ったのであります。その後大台原山神社の社殿落成し、数百人を宿泊せしむるに足りる様になったので、団体旅行の登山家ようやく増加し、年々数百人の登山人を見るに至ったと云ふ。(『白井光太郎著作集』第4巻 p249 下線は引用者)前引の「小森増吉」がここでは「小林増吉氏」となっている。「小森」と「小林」は単なる記憶違いか誤植ということもあり得るが(「小林」だと「子守」のひねりは消えるのだが)、「氏」を付けているのはこの講演の場の雰囲気がそうさせたのかも知れない。しかし、文章の流れを追ってみればすぐ分かるが、この部分は上で示した「山岳」(明治40年)掲載の文章を下敷きにしていることは間違いない。 もう一つ参照したいのは、講演「大和名山の保護に就て」である(『大和アルプス並に大台ヶ原山』(大和山岳会編 大正10年)に収録、国会図書館でデジタル公開)。間違いやすいのだが、実はこの講演はすぐ上で引用したばかりの「吉野名山の保護について」と同一の講演の記録なのであるが、用字や表現がわずかずつ異なっている。講演の題も「大和名山の保護に就て」と「吉野名山の保護について」と異なっている(同一年月日の講演であることは、両資料ですぐ確かめられる)。上の該当部分を引く。 予が明治二十八年に登山せし時宿泊せしは即松浦氏の建てる所の小屋にして二間四面にして数人を納るゝに足れり。当時神道の行者小林増吉此小屋に居て大台原山神社経営の事に任じ信者より寄付を募り総檜にて十間四面高さ四丈六尺の神殿を建築中にて近傍に作事小屋等ありて大に賑へり。松浦氏小屋は当時神社の仮神殿となしありしが、予は行者と共にこの神殿に宿せり。先の引用は「私」から始まり「です、ます、あります」等で、実際の講演速記を起こした感じがする。こちらは、「予」から始まり「あり、れり、せり」など文章体に改めたもののようだ。だが、松浦武四郎については「松浦氏」としつつ、古川嵩については「神道の行者小林増吉」と「氏」を取ってしまっている。この文体の差は白井光太郎が自身の講演に自ら手を加えたことを示しているが、明らかに松浦武四郎と古川嵩とでは敬意の程度に差を付けている。 明治28年に古川嵩と旧松浦小屋でいっしょに泊まることがあり、その時に古川嵩から教えられた「小森増吉」という少年の悲しい記憶がこもる名前に、白井光太郎は何の疑問を持たず21年後(大正5年)の吉野山東南院での講演で使用したということになる。その時点で大台教会が宗派を問題にせずひろく登山者に宿泊所を提供し、大台ヶ原開山の意義が果たされていること、それは古川嵩の功績であることを白井は認識していたはずである。 この自虐的軽口を含む「小森増吉」(あるいは「小林増吉」)という名を講演で使用することに、無論白井には何の悪意もなかったのであるが、それだからこそ松浦と古川に対する敬意表現の差はこの時代の知識階層が持つ社会的意識が反映していると言わざるを得ない(なお古川は1860年生、白井は3歳年下の1863年生)。 翌年の大正6年8月6日に白井光太郎は大台教会で催された「山林学講習会」において、「名山大台原山の保護」という講演を行っている。この講演は『白井光太郎著作集』4に集録されているが、この講演では大台教会の成り立ちとか、教会主・古川嵩のことなどについてはまったく触れていない。 ところが、この山行は徳川頼倫を中心とし新聞記者も加わった文化人たち十数名の大台ヶ原登山という注目すべき催しであり(東京発7月28日~奈良、柏木~大台教会31日・8月1日~2日雨中下山開始、柏木泊~3日豪雨の中を下り吉野駅を経て奈良泊)、『大台か原登山の記』(吉野郡役所 大正7年5月5日 国会図書館デジタル公開)というかなり詳細な紀行文・素描が残されている。なお、侯爵一行の下山の時、白井らは柏木まで見送りに同道しており、豪雨の中引き返して大台教会で予定されていた6日の講演に備えている。この時の豪雨は生やさしいものではなく、『大台か原登山の記』の巻末に付いている「大台ヶ原山上気象観測表」によると、8月2日雨量40.2㎜、3日467.0㎜、4日219.4㎜であり、遭難事故が生じても不思議ではなかった。途中の吉野川の増水の模様、流失する木材を拾いあげる筏師のふるまいなど興味深い。その中を徳川頼倫らは歩いたり俥に乗ったりで下った。 この時の白井光太郎について、岸田日出男「吉野群山の歴史」(「山上」改1,昭和10年)は「ヌ 白井光太郎」の項に 大正六年八月六日大台教会に於て大台ヶ原山の保護の必要なるを力説せらる。(これ所有者たる四日市製紙会社が大規模の伐採を開始せるを以て。悲憤の余りこの講演となりしものなり)。大正六年七月三十日より八月七日まで大台ヶ原登山。 (「山上」改1、p13)と記している。下でも触れるが、実際に一行は自然林を伐採する轟音の中を山歩きするような体験をしている。 徳川頼倫の加わった山行の記録『大台か原登山の記』は、現在あまり参照されないようである。旧字体の美文調で読みわずらう。しかし、非常に興味深いところがある(「其一」~「其三」があり、以下で引用するのは遅塚麗水「其一」、引用は読み易くするため、漢字や句読点に手を加えているところがある)。 【徳川頼倫】徳川頼倫ら一行が大台教会に泊まったのは大正6年7月31日、8月1日の2日間である。その間の山上での見聞が記されている。8月1日「古川教会主」の案内で松浦武四郎碑に参拝している。一行の中には孫・松浦孫太もあり、玉串を捧げて参拝した。ついで日の出岳に向かう。その途中の「唐檜の平林」の描写の後に、次のように、その「原始林」が「濫伐」される様が語られる。 かくばかり蒼古曠閑なる境域を破壊し去らんとするもの現はれたるは、悲むべくまた嘆ずべし。伯母が峰より続く当面の辻堂山、橡が谷、北山川の峡谷に 上図《左》底本口絵にある「修業時代の古川翁 三十一歳」、《中》遅塚麗水「大台か原登山の記 其一」の素描「古川会長」、《右》動画「吉野群峰第3巻大正11年」のスクリーンショット(4分23秒頃)。《左》《中》に見える杖が「鉄枵のさましたる例の杖」。自然林の巨木がつぎつぎに切り倒されていく轟音に「あれ/\又た悪魔が木を倒すよ」と古川嵩が叫んだことは、何を意味しているだろう。その叫びは悲鳴であり怒りであるだろう。「四日市製紙株式会社」は西大台の自然林を「十四万五千円」で買い占め、その大木たちは「製紙原料」としてチップにされるべく切り出されている。日本の大企業の目には欝蒼たる森林の生える山が「金を生む山」としか見えていないのである。したがって容赦なく巨木を切り倒すのである。すでに日本の資本主義は世界市場をターゲットにしており、なにはばかることなく山中に線路を敷き、ロープウェイを掛け、火薬を仕掛ける。 だが、大台教会は「造化の三神」を主神としていたのではなかったのか。製紙会社を悪魔呼ばわりする《主体》は何なのだ。古川嵩は「造化の三神」になり代わって製紙会社に抵抗すべきではないのか。それこそが宗教者としての抵抗であり、宗教理念の実現ではないのか。主神が古川嵩に憑依して、すなわち彼は主神と化して悪魔に立ち向かっていくべきではないのか。(この問題は、次の最終節で改めて考える。) 午後、一行が大蛇 大蛇岩、もと上北山村ホームページ(ここ)では中の滝の落差は「約250m」としている。古川嵩は時に「荒誕」を語るというのは本当だとしてよいだろう。古川は遠来の客たちへのサービスのつもりもあって、誇張話をして笑いを取るということがあったのかもしれない。名前を訊かれて白井光太郎へ「小森増吉」と応えたのも、こういう心性に関連があるようにも思える。真面目で終生精力的に広範囲な学問的仕事に精進した白井光太郎は、こういう古川嵩を見抜いてその後敬遠したのかも知れない。(底本としている池田晋『大台ヶ原と大台行者』(大正12年)は古川嵩が語るところを池田晋が記録したものであるが、夏の山籠苦行(明治24年6~9月)の途中、三つの滝を「発見」したこと(中の滝は「その高さ実に三百六十間」p141)、大蛇嵓で大蛇を見た(「その舌の長さは五六尺」p143)と述べている。いずれも誇張話ではあるが、「三百六十間」も大蛇の舌の「長さ一間に余る」も大正6年と同一数値であるのが 【9】大町桂月 目次 大町桂月(明治二年1869~大正14年1925)は日本中をよく歩いた随筆家として知られ、多数の美文の紀行文を残した。土佐の生まれで雅号桂月は名所桂浜にちなんだものだそうだ(本名は大町 大正12年(1923)の夏、大町桂月は吉野から大峯山系に入り、前鬼から大台ヶ原へ進み大台教会で4泊している。吉野で雇った荷物持ちの榮吉を連れただけの単独旅行である。なお、古川嵩は9歳年長で、桂月はこの旅行を「奥吉野の山水」(大正13年)にまとめ、その「八 古川嵩翁と大台教会」、「九 大台山の四泊」の2節で、終始「翁」の尊称を使用している(なお「奥吉野の山水」に「角谷榮吉といふもの、天秤棒にて、余の荷物を舁ぐ」とある。同全集別巻上 p216)。しかし、桂月もさすがに大物で、大蛇嵓・中の滝を案内する古川嵩の方針に納得せず、決して妥協しないために2日間にわたって嵩を憤慨させる(後述)。両者とも信じられないほどの健脚である。 大町桂月の簡潔にして引き締まった文章を、まず紹介しておく。 この大臺ケ原山の大部分は大和國吉野郡に屬すれども、伊勢に界し、紀伊にも界す。山の水北に落ちては吉野川となり、吉野山の麓を「観光の客」と言っているのには驚いた。まったくその通りで、思い切った表現。だが、もう少し読み進める。 古川翁の前に、天台宗の丹誠上人登り來りて、高野谷に草庵を結びたることありき。弘法大師が深山の平地は禪を修するに適すとて、高野山を開きし例に傚ひて、早くも開拓の平地に着目したるも、空しく志を「丹誠上人」が高野谷(「開拓」のある谷)に「草庵を結」んだという説ははじめて知った。天台宗の僧である丹誠上人が「古川翁の前に」大台ヶ原に入ったということも含め、桂月の扱い方はかなりラフである。丹誠上人は江戸初期の慶長年間の足跡が判明している修行僧で、大台ヶ原に「七本の卒塔婆」を立てて魔物を封じ込めたなど、かなり伝説化した言い伝えが残っている(「弾誓」、「謄西」などと用字を変えて松浦武四郎が「乙酉掌記」および「乙酉紀行」で記していることは、拙論「福山周平の「由来記」」の(5)座禅石で扱った。そこには松浦武四郎のスケッチ「中の瀑布の図」を揚げておいたので、見て欲しい。下で「中の滝」を扱う)。 松浦武四郎が病で倒れる直前に、「開拓」は「三萬石」の田になると見込んで資金を準備していたというのは、「松浦武四郎追悼碑」の冒頭句から得た情報なのだろう。追悼碑の初めの数行を取りあげる(碑文全文は「付録」として下に置いた、ここ)。
日付など詳細が分かる情報が松浦武四郎の出身地の松阪市ホームページに置いてある「週刊武四郎」という面白い新聞の第13号pdf に出ていた(筆者は河治和香、全51号が2019年3月27日で最終刊になっている)。そこに「伊勢新聞」の松浦武四郎訃報記事が写真版(発刊日付不詳)で出ているので、両紙を混ぜて引いておく。 松浦武四郎が脳卒中で倒れたのが明治21年(1888)2月4日で、小雪の降る日だったという。鷲津毅堂(明治15年にすでに没している旧友。永井荷風の母方の祖父で、尾張藩儒者だった)を訪ねて家に上がったところで倒れた。人力車で神田の自宅まで送られた。その後昏々と眠り続け、うわごとの様な言葉はあったが同10日に没した。葬儀は12日に今戸の称福寺で行われた。松浦武四郎が最晩年に大台ヶ原に3年連続で通って残した記録(乙酉紀行・丙戌前記・丁亥前記)には、大台ヶ原を開墾して農地にするというような開発主義の発想は出て来ない。むしろ山村に住み山林を生活の場として利用する人たちに寄り添う姿勢が強く出ている。日暮里火葬場に於て一端荼毘の煙と為し白骨は東京より大臺原山に移し氏が熱心に開拓を企図したる祈念の為に出身地元紙の訃報記事であるから、逝去からそれほど日数は経ていないと思われるが、遺言にしたがって遺族も遺骨を大台ヶ原へ葬るつもりでいた。しかし大台ヶ原に墓をつくることは許可されず、「追悼碑」ということにして石碑を建てたのである。 つまり、松浦武四郎は生前「大台ヶ原を開く」というような言い方をしたことはあったであろうが、「農地を開いて収穫を上げる」という意味で語ったのではなく、大台ヶ原で「山稼ぎ」をする人々のために役立つ山道や道標や小屋を造りたいということであった、とわたしは考えている。それは古川嵩が「大台ヶ原開山を宿願とする」というのが農地開拓の意味でないのと同様である。 右図は松浦武四郎「丁亥前記」(明治20年, 札幌図書館デジタル公開)の「護摩修行之図」で松浦自身の毛筆スケッチである。「松浦武四郎大台紀行集」所収の「丁亥前記」にはこの護摩供養に参加した村人達の氏名と年齢を、老若も男女も記録している。六十数名の名前が有り、個々の村人を大事にする松浦の姿勢がよく表れている。明治知識人にありがちの知識人と庶民の差別感がない。しかし桂月は古川嵩が大台ヶ原の開山をなしとげたことについて、その総体をつぎのように全面評価している。 (古川)翁は明治二十四年の夏(大臺へ)登りて、九十七日間苦行し、翌年の冬より春にかけて、三箇月の間又苦行し、二十六年より建築に着手し三十三年まで、満六箇年かゝりて、教會堂を建て、こゝに始めて大臺ケ原山を開きける也。明治以後、各方面に偉才出てたるが、五千尺以上の山嶽に偉力を伸べたるは、唯古川翁のみ也。今の世の神變大菩薩とも云ふべくや。(同前 p232)桂月の「奥吉野の山水」は全10節からなっていて、その第1節「蔵王の吉野」の冒頭は、光格天皇が寛政十一年(1799)に役小角に対して「神變大菩薩」という しかし、続いて桂月は次のような看過すべからざることを書き記している。 大臺教會堂は天照皇太神を主神とす。宮川の末には、伊勢太神宮ありて、皇祖を祀り、その水源の大臺教會にも、同じく皇祖を祀る。帝國の臣民は太神宮に詣でざるべからず。更に進んで雲表の皇祖に詣でざるべけむや。 (同前 p232 強調・下線は引用者)「天照皇太神」は「 大町桂月の大台教会2日目は、まず早朝に日出ヶ岳に行くが東方が霧におおわれ陽の出は見えなかった。しかし西方の大峯山系はよく見え、自分が踏破してきた山々を感慨を込め熱心に観た。朝食の後古川嵩に案内されて歩くが、周辺一帯の描写が興味深い。自然林が残っている部分と皆伐が進みつつある所が混在しているのを記録している。 北の上層を行くに、伊勢に屬する部分は御料林にて、唐檜太古のまゝに繁れるが、教會を中心とする一面の地帶は、民有に屬し、四日市製紙會社の斧にて、原生林を破壊せり。線路さへ縦横に通ず。(中略)ここの下線部では、随分変な理屈を大町桂月は述べたものだと思う。「神武東征」神話には神武たちは大阪湾から海路熊野に進んで上陸し、吉野を経て大和の宇陀へ達したとあるが、吉野までの山中の道には定説はない。確かに当時「西熊野街道」や「東熊野街道」はなかっただろうが(当たり前だ!)、それらの祖型である川沿の道や、けもの道に学んだ山中の道の存在は否定できまい。縄文人たちがすでに遠隔地と交通していたことは黒耀石・ヒスイなどの遺物から実証されており、古くから川沿いの道と尾根道があったらしいことも知られている。後世まで主要な道が通過していなかった大台ヶ原を、古代の神武一行が通ったとするより、後世に「街道」とよばれる道ができた地形に沿って神武一行が辿った蓋然性の方が大きいと考えるべきだろう。桂月は神武らが大台ヶ原を通過したと言いたくて、嗤うべき屁理屈を述べたことになる。 ちょっとネットで検索しただけで分かるが、「腰掛石」や「 神武東征神話を実在の歴史だと全国民に強制したのは明治政府である。「教育勅語」は明治23年(1890)に発布された明治天皇による勅語で、全文暗唱が全小学生に対して強く求められたのは明治末年ごろからのようだ。「朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・・」。西欧先進のキリスト教に対抗できる一神教を全国民に広め定着させようとする明治新政府の強引な企てが日清・日露の戦役を通じて、国民に深く浸透していった。「天照皇太神」はまさしく「皇祖」そのものである。 教育勅語の暗誦が小学生に全国的に実施されたのは、明治40年(1907)の牧野伸顕文相辺りからという。明治40年の牧野文相下で、小学校児童をして勅語を暗記させる施策が採られ、明治43年には勅語を児童に浸透させるべく教科書の改訂がおこなわれた。また、明治43・44年に師範学校・中学校・高等女学校でも教育勅語暗記が義務づけられた。これらの施策は視学制度を通して学校現場に徹底された。明治末年には義務教育の就学率が98%に達していたから、学校での暗記暗誦を通じた教育勅語普及策は大いに功を奏したと考えられる。 (鈴木理恵「教育勅語暗記暗誦の経緯」pdf 1999 (ここ)p60)作家の正宗白鳥は明治22年に小学校高等科に入学し、「教育勅語は私など小学生として暗誦させられた」と言っているという。体験した人によって小学校で暗誦させられた時期の違いもあったようだ。蔵満逸司「暗誦の教育史素描 11」(ここ) 大町桂月の3日目は、昨日大蛇嵓から「中瀧」を眺めたが、滝の上部だけしか目に入らなかったので、今日はその全体を見たいと一行8人で出発する。 人よりも高き篠竹を押し分けて、凡そ一里も來つらむと思ふ頃、古川翁つる/\と猿の如く木に登りて、中瀧の全體見ゆといふ。一同みな登る。余ひとり登らず。木に登らずに見ゆる處まで行きたきものなりと云へば、翁不滿の顔付にて、先きに進む。中瀧の上段悉く見ゆる處に腰をおろす。余も一寸腰をおろしたるが、下段をも見たきものなりと云へば、翁はむつとして、聲を荒く、瀧壷まで下るが承知かといふ、人の行ける處ならば、何處までも行かむと云へば、さらばとて、又進む。 (同前 p235)大町桂月は景色・風物を眺め鑑賞するためには決して妥協しない。大峯を踏破してくる間にも荷物持ちの榮吉と幾度も衝突している。古川嵩は大台ヶ原の第一人者であり大台山中でその指示・意向に逆らう人物が出現したのは桂月が初めてだったのだろう。翁は「むっと」するが行けるところまで行ってやろうと、むかっ腹半分で更に進む。東の滝の側から滝の下へ降りて行った。 絶壁又絶壁、あぶないぞ、石を落すな、周章てるな、靜に下れなどと戒め合ひ、數十段を四五町も下り、東瀧の下の溪谷に出でて、更に下る。溪谷一落して、手掛りもなく、足掛りもなく、左右も巖壁直立す。一落の長さは三丈もあらむ。(同前 p235)古川翁は大台ヶ原山中踏み入らなかったところはないが、この谿は初めてだ、と言い出す。そして、綱を使って降りなければどうにもならない難所にぶつかった。 流石の翁も、はたと當惑す。唯天祐とも云ふべきは、上に綱を引掛くる岩のあることゝ、中腹凹みて足を托する段のあることゝ、下に丸太の自から斜に巖にたてかけられてあることゝ也。一行中にて、勝藏年最も若く、最も元氣にて、身體矯捷也。綱を輪にして岩に引掛け、その綱にすがりて下りて、中腹に足を託し、綱を放して丸太を抱きながら、ずる/\と下れり。一同みな下りて、綱を解く。最早登ることは出來ざる也。一同顔見合せて、無事を祝し合ひ、巖陰に就いて午食し、酒は飲める口の古川翁と分つ。雨いたりたるが、今下りたる時の思に比ぶれば、雨などは、何の苦にならざる也。 (同前 p235)谿を下って西の滝と中の滝からの谷川が合流するところまで出て、改めて中の滝へ登っていく。中の滝の滝底に達し念願の下段をも見ることができて桂月は満足する。そこから今度は帰りの登りが待っている。 右に轉じて急斜面を攀づ。篠竹を攫まずんば登れず。篠竹を攫めば、その葉にたまれる雨落ちて、全身悉く霑ふ。またその上に危險なるは、前者の誤って 石を踏落すこと也。石を落すなと戒め合ひ、自分にても落さぬつもりなれど、あやまちは致し方なし。一尺大の石余に落ち來る。手にて拂ひのけたるはよかりしが、余も誤って踏落す。はっと驚きて顧みれば、幸に後者の身を外れ居りたりき。峯稜を行くやうになりて、一とまず安心せしに、一頓して(しばらく留まって)大巖壁に行き詰り、又も氣をもみしが、巖壁にそひて右に急斜面を下れば、巖壁横に凹みて、火を焚きたる跡あり。明治天皇御危篤の際、古川翁こゝに籠りて祈禱したりきと聞き、さてはここより教會までは、翁の熟路なりと安心し、火を焚いて、一同雨に冷えし身を煖む。 (同前 p236)翁ひとり焚火にあたらず先行し「おうい/\と呼ぶ。まて/\、火に當りに来られよと云へど、來らず。」結局、一同は翁の声に導かれつつ進み、何とか教会に全員無事に帰り着く。さすがの桂月も「生まれて始めて怖ろしき目に逢ひたり」と告白している。榮吉は「先生のお伴はもういやなり」という。 皆がそれぞれ休んでいるところに嵩の息子・悦二が出て来て、語る。 教會を開いて以來、こんな難物に逢はずとて、父はぷんぷん怒り居るといふ。今日は午後より雨となりて寒氣甚しきに、世にも恐しき大蛇嵓の絶壁を上下したることゝて、墜落、凍死、落石の諸難、しかし、古川翁はやがて機嫌を直して出て来て、桂月の「山水に対する信念を了解せり」と語った。翌日の4日目は雨で、疲れ直しもあったのだろう、嵩の父母の遺品などを見せてもらって過去の苦行に思いを馳せ、「一日を雲の上におくれり」。 それにしても今と比べればたいした登山装備もなかったであろうに、古川嵩(64歳)、大町桂月(55歳)はもとより、一行の体力や足腰の強靱さと大蛇嵓におびえていない胆力に驚く。 【10】古川嵩の山神信仰 目次 明治28年(1895)8月、白井光太郎が大台ヶ原の踏査途中に、建設中の大台教会の仮神殿として使われていた松浦武四郎が建てた小屋で古川嵩と2泊した。そのとき新築中の「大台原山神社」の「祭神」は何か、と古川に訊く。古川は「造化の三神」と答えた(第8節、(ここ))。白井は、晩年の松浦武四郎が大台ヶ原山と山民たちへ向けた敬意と山岳への信仰心を思慕しつつ 逸はやくまつらまほしく思ふかな君が恵のいほに宿りてと詠んで、松浦武四郎をこそ山神として祀りたいという気持を吐露した。「造化の三神」は創造主でありここの山神であり、さらに最後まで大台ヶ原山に心を残した松浦と重ね合わせているのである。上手じゃないがその場にふさわしい率直な良い歌と思う(強調は原文傍点、「 「 言うまでもなくこれは日本神話のいちばん最初のところであって、 天と地ができたとき、神々の住まう高天が原には、天の御中主の神(世界の中心となる神)・高御むすびの神(天界の現象を生む神)・神むすびの神(地上界の現象を生む神)が生まれた。これらの根源的な三神はそれぞれの働きを済ませると、係累をつくらず消えてしまった。これはわたしの解釈だが、ほぼこんなことと思う。この「三神」には実体が想定されておらず、理念だけに名前を付けた神様たちということだ。「天と地」とそこで働いている諸々の運動を創り出した主体を「造化の三神」といい、大台ヶ原山神社(教会)にはこの三神を祀るのだ、と古川嵩が考えていたということだ。白井光太郎は「行者」のこの答えを聞き、肯定的に受け止めている。そのことが白井の二首の和歌から分かる。 古川嵩は、何かの既成の宗派的背景を持たずに彼個人の独自の修行によって「大台ヶ原山神」を感得し、その「山神」を祀るのが大台ヶ原教会であるとした。彼がそれまでに学んだ山岳宗教は、御嶽信者であった父と一緒に過ごした御嶽修行であったろうし、神習教の芳村正秉から35日間の教習を受けているのでその影響はあったと思われる。しかし、彼が「大台ヶ原」の自然に包まれて感得した山神はあくまで直感的なものであり、この天と地ができたときに森羅万象を生み出した「造化の三神」そのものである、というのが古川嵩の理解であるように思える。純然たる自然崇拝と言ってもよい。白井光太郎もその理解に共感しているようだ。 「造化の三神」を祀ると言っていながら、天皇制神話に直結する「伊邪那岐神 いざなぎのかみ」「伊邪那美神 いざなみのかみ」「天照大神 あまてらすおおかみ」などを持ち出していないところが値打ちである。この段階では、古川嵩は自らの感得した「山神」にひたすら信心を集中するという立場をとっていると考えられる。 この「山神」は自身の苦行の中で感得したものであるが、創唱宗教家の幾人かのようになにがしかの「憑依神」があったようではない。大台ヶ原の自然界を見つめ、その霊妙さと偉大さにひたすら崇拝の頭を垂れる自然崇拝そのものと言ってよい。山神が古川嵩に憑依して、彼の口を通して何事かを主唱するということはなかった。 古川嵩はただひたすら大台ヶ原山の自然を崇拝し賛美するのである。大台ヶ原山のありのままの自然全体を純粋に崇拝の対象として感得し、それを「福寿大台教会」という大きな建築物に祀り込めようとしている。しかも、その教会は法的には神習教の分教会であるが宗派的な主張はまったくせず、大台ヶ原の登山者たちに対して分け隔てなく開かれていた。宿泊しても何らかの読経やミサなどの席に列するような強制もまったくなかった。信者を獲得し信者数の増加をめざすというような宗派的活動も行われていないと思える。これは大台教会の“広さ”と言えるがそれはまた“弱さ”でもあった。 【出口なおの憑依】大正6年(1917)から大台ヶ原の自然林が製紙業のために本格的に皆伐されるという状況を前にして、「大台ヶ原山神」は怒っておられる、というような抵抗の仕方がありえたはずである。宗教者としての異議申し立てである。自身が「大台ヶ原山神」になり代わって(憑依されて)抵抗することがありえた。また大峯山系に祀られている由緒深い多数の神々・山霊たちと連帯するというような動き方もあり得た。それこそ、「神変大菩薩・役行者のお怒りをおそれぬか!」という立ち上がり方である。 つまり、古川嵩は「大台ヶ原山神」を見出し大台教会に祀ったが、その「大台ヶ原山神」は終始無言のままで在り続けたのだった。山神が嵩に憑依するということはなかった。「大台ヶ原山神」が主語となって大台ヶ原山の自然を守ると主張することはなかった。 白井光太郎は数千年、数万年間の生物環境の蓄積が保存されている大台ヶ原の自然林は地球の至宝であり、保護・保存されるべきであることをたびたび主張している。「第8節 白井光太郎」で徳川頼倫が大台教会に2日宿泊した大正6年夏の山行を取りあげたが、その8月6日に行われた「大台山上講習会」での白井光太郎の講演「名山大台原山の保護」から引く。 この如く大台原山は三県の境に屹立する名山で、いままで世に知られておらぬが、実際は世に比類ない名山であるは確実でまたと得難いもので、その日出ヶ岳の眺望、大蛇倉(嵓)の奇観、大木が次々に倒れる轟音に古川嵩が「あれ/\又た悪魔が木を倒すよ」と叫んだのはこの山行の時である(第8節 徳川頼倫ら一行の山行(ここ))。「悪魔!」と叫ぶ非難の心は古川嵩のどこにあるのだろう。彼は自らの心の根底を宗教的に深めることなく、感情的反応のレベルにとどめてしまったのではないか(明治20年牛石で行われた護摩修行について、松浦武四郎がこの護摩供養によって「いかなる悪魔も跡をとゞめまい」と記したことを思い出す。古川は松浦の思想につながり得たのである)。 上引の前年、吉野山保勝会で行われた講演「吉野名山の保護に就て」で白井光太郎は大峯連山に関しても詳細に触れている。 吉野より玉置山まで、峯通り七十五南方熊楠が「神社合祀」に反対する意見を最初に公にしたのは明治42年9月の「牟婁新報」だというが、白井光太郎へ宛てて「神社合祀に関する意見」を送ったのは明治45年2月である(なお、植物学者・松村任三宛の南方熊楠の書簡を柳田国男が「南方二書」として刊行して世にその意見を広めたのは、前年の明治44年)。この「神社合祀に関する意見」の中に次のような印象深い美しい語句が含まれているので、忘れられない。 定家卿なりしか俊成卿なりしか忘れたり、和歌はわが国の曼荼羅なりと言いしとか。小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん。 (『南方熊楠全集7』 p559 強調は引用者)熊楠の「天然風景」の中に見えているのは、樹木や草に限らず菌類から粘菌や極微の細菌まで、鳥獣や魚類から昆虫・みみずなどすべての生きとし生けるものが構成しているこの風水山河・天然宇宙の総体を意味している。すなわち曼荼羅を。 まさに大台教会で開かれた「大台山上講習会」で、大台ヶ原の自然環境が破壊されつつあることに対して白井光太郎が理論的立場を明示して熱弁を振るっていたのであるから、それに呼応して古川嵩は宗教的な立場から白井に教えを請うことがあり得たと思う、「わが、大台ヶ原の山神は怒っておられる」という気持ちを込めて。 伊勢神宮はもとより全国各地の神社や、比叡山や高野山などの巨大寺院や無数の各地寺院が、それぞれの附属森林の保護について大きな力を発揮したのは歴史的によく知られている。大台ヶ原教会が南方熊楠の神社合祀に対する反対運動とも結びつき得る可能性は大いにあった。「大台教会を守る森林を創る」という発想もありえたのである。四日市製紙会社から森林を買い戻す運動を起こせば、かなりの力を持ち得たことだろう。数年後に「神武天皇像」を作るために巨額の寄附が集まったことを考えれば。 次の桂月の証言は前節に続いて2度目の引用だが、白井光太郎の「造化の三神」証言から28年を経てすでに古川嵩の信仰が質的に転換していることは明らかだ。残念ながら古川嵩は自らを「山神の立場」に立たしめてその怒りを叫ぶことがなく、大日本帝国の宗教戦略の内部に取り込まれてしまっていた。 大臺教會堂は天照皇太神を主神とす。宮川の末には、伊勢太神宮ありて、皇祖を祀り、その水源の大臺教會にも、同じく皇祖を祀る。帝國の臣民は太神宮に詣でざるべからず。更に進んで雲表の皇祖に詣でざるべけむや。 (『桂月全集』別巻上 p232)このように、大正12年には大台教会が完全に天皇制の内部に取り込まれた神社になっていたということだ。桂月は大台ヶ原は伊勢神宮の水源地だから、「帝国の臣民は」伊勢に参拝した後は大台教会の「雲表の皇祖に詣でざるべけむや」と当時の政治と世俗に迎合したまとめを行っている。 日本神話が実在の歴史として声高に叫ばれ、全国すべての小学校で「皇祖皇宗・・・・」が暗唱されるようになってから大正末期はすでに年を経ていた。東京の皇居に生活する天皇はその「皇祖皇宗」の直系の子孫であることを疑うことは許されなかった。帝国憲法第1條「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」に反するからである。(幸徳秋水の大逆事件で死刑判決24名が出たのが明治44年(1911)である。秋水は「ひとりの証人調べさえもしないで判決を下そうとする闇黒な公判を恥じよ」と陳述したと伝えられている。(ウィキペディア「幸徳事件」)) 残念ながら古川嵩は、日本神話のレベルで体制に疑義を呈する思想的動機も宗教的観点から異論を提出する情熱も持っていなかった。東征神話から創り出される、神武天皇が大台ヶ原を通過したとする空想話に依拠して、神武天皇像を造ろうという話が出れば容易にそれに飲み込まれた。 小論が底本としている池田晋「大臺ヶ原と大臺行者」は大正12年の口述筆記であり、大正末期から昭和初めにかけて建立された大台ヶ原の「神武天皇像」については扱われていない。そこで鈴木 当初は小さな木像を祀る神殿を考えていたが、当時は大正末期から昭和初期の頃で第一次大戦と関東大震災後は日本経済は恐慌におそわれ、インフレや倒産が沈静せず国民生活を圧迫したことから社会主義思想が台頭し、これに対して政府は弾圧を加える一方、皇国思想を高揚しつつ軍国化に向けられていたから、国民感情としては神武天皇なら大きな立派な銅像でなければならないと要望したのである。嵩は国民の感情は無視できないと考えて神武天皇銅像の建立を決意した (前掲書 p122)大正15年に大阪の鋳造所に制作を発注し、完成は昭和3年(1928)だった。銅像の総重量4600㎏余という巨大なもので、6つに分解して山頂まで30人の人力で揚げたという。木馬など使えるところでは使い、最後は人の背で運び上げたが、大変な難作業であった。荷揚げ運搬のコースは「神武東征」道筋におおよそ従って、大阪から海路を熊野にゆき、紀伊山地を大台ヶ原まで上がるという道筋を採用した。実際は尾鷲-木津集落-水無峠-木組峠-台高山脈の尾根筋-堂倉山-大台ヶ原というコースをたどったという。 大台ヶ原の「 戦前の「皇国史観」に対する強い反省から、戦後、学界全体に記紀神話そのものに対する反省の時期があった。「神武東征」はたんなる神話であるとしてまともに扱われなかった。しかし、「神武東征」神話には記紀が作られた時期(8世紀ころ)に創作された空想話とは考えられない古い時代の事実を反映している部分があるのではないか、という反省が出て来た(たとえば、古田武彦(1926~2015)の仕事やサイト新古代学の扉など)。 上述の通り小論では、神武天皇像は古川嵩の山神崇拝が皇国史観に屈服した記念像というとらえ方をした。わたしはそれで正しいと思っているが、21世紀の現在からすれば「神武東征」神話にもなにがしかの太古の真実が含まれているのではないかという立場は、正当だと思っている。だがそれは小論の範囲を遥かに超えている。また、あり得べき山林業のことや自然保護と山林育成などの難しい課題の検討も残っている。 小論は古川嵩の「大台ヶ原山神」信仰の在り方を主題にしてきたのであるから、その観点から最後にまとめておこう。
き坊 (2020年12月)
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