き坊の ノート 目次

フンデルトヴァッサー・ハウスを見に行く




フンデルトヴァッサー(ウィーン生まれの画家 Friedrich Hundertwasser  1928〜2001)を知っている方は、「フンデルトヴァッサー・ハウス」と言えば“ああ、ウィ−ンの市営住宅ね”と思われるだろうが、ここで言うのはそれではありません。ドイツのダルムシュタットに2000年に完成した市営住宅「Waldspirale ウッド・スパイラル 渦巻く森」のことです。
ダルムシュタットにはマチルダの丘に「芸術家村」(20世紀初頭)があり、わたしはマチルダの丘から歩いてフンデルトヴァッサー・ハウスまで行き、その両方をみることができました。その報告と付け足しです。



目次



〈1〉  フランクフルト郊外の住宅街
〈2〉  ダルムシュタット Darmstadt の芸術家村 Kuenstlerkolonie
〈3〉  マチルダの丘
〈4〉  フンデルトヴァッサー・ハウスへ
〈5〉  フンデルトヴァッサーのラディカリズム(根底主義)
〈6〉  ウィーンのフンデルトヴァッサー・ハウス
〈7〉  フンデルトヴァッサーと日本
〈8〉  おわりに,文献




〈1〉  フランクフルト郊外の住宅街

目次


ダルムシュタットの話に入る前に、わたしが体験したドイツの住宅街がどういうものであったかを述べる。都市郊外の一戸建て住宅を中心とした住宅街である。

フランクフルト郊外のAさんのお宅にわたしたち夫婦は10日ほど泊めていただいた。彼女のお宅は広い地下室のある2階家で、日本の基準では相当の邸宅である。快適なベランダがあり草花の咲く庭があり、ベランダの続きに2階建の物置があった。彼女は今はひとりでそこに住んでいるが、成人した2人の娘はスペインとアメリカでそれぞれ生活している。Aさんは「この辺りでは、一番ちいさな家の下層民よ」と笑っていた。まさか「一番小さい」ということはないが、たしかに周辺の家と比べればそう大きくはない。Aさん宅はコンクリート造りのがっちりしたもので、白壁に赤い瓦の快適な建物。
この写真は日の出の時間で、Aさんの2階の窓から北西方向を見ている。手前にAさん宅の屋根や煙突がみえ、小路の向こうの近所の住宅が見えている。わたしたち日本人の目には堂々たる立派な邸宅とみえるが(実際その通りなのだが)、この近くには更に広壮な住宅街がいくつもあり、住宅事情について日本が(日本の都会が)バカにされるのは当然だとおもった。



この写真で、電線について注意をうながしておきたい。電線は道端に電柱をたてず、各家の屋根にとりつけた支柱で配線しているのである。写真の黒い屋根の家では煙突を利用して支柱が固定されている。その左にあるのはTVアンテナである。その向こうの赤い屋根の家は(写真では不明瞭だが)屋根に直に支柱作りつけていた。わたしは興味を持って観察したのだが、Aさんのお宅では屋根に直接支柱が作ってあった。
わたしが見聞したフランクフルト郊外の住宅街で羨ましいと思ったことの一つは、道路に電柱がえばっていないことである。電柱を避けながら歩くということがないのは、実にそれだけでのびのびする。しかも、電線が各家の屋根から屋根に渡っているので、道を歩いていて視界の空を横切る電線の黒い線があまり気にならない。



この写真はAさん宅の前の道だが、電柱がまったくなく、電柱を伝わる電力線・電話線や電柱上のトランスや電柱を支えるために地面に張っている支線などがないのである。いうまでもなく、電柱に貼り付けたり針金で縛りつけている「マンション売り出し中」などの広告もない。じつにすっきりした町内風景である。(写真では明瞭ではないが、この路の上を左右に屋根から屋根へ電線が横切っている。高さのためもあるが、あまり気にならない。)
早朝なので窓がみな閉まっているが、昼間は多くの窓は白いレースのカーテンを飾ったりしている。生垣や街路樹が見えないが、それはこの辺りでは家が道路に密着させて建てられているので、庭は中庭風に建物で囲むようにしているからだろう。広壮な邸宅の並ぶ住宅街になるとその辺りが違ってくる。広い敷地の周辺に緑のスペースを作り、邸宅はその奥に作るのである。

次は上の写真の住宅街から5分ほど歩いた商店街である。早朝なのでお店は閉まっていて人通りもほとんどない。ここも電柱が全くないことが分かる。白壁と赤い瓦で統一された2階家がならび、清潔で整然とした印象になる。



フランクフルト、ダルムシュタット、マインツなどいくつかの有名都市も行ったが、大都市では路面電車の架線があってそれが煩わしく感じたが、電柱がないことはいうまでもない。
路上のゴミや犬の糞は、少ないが皆無ではない。人口密度も考慮すると、日本の都市近郊の住宅街のゴミや犬の糞は褒められていいぐらいだと思う。東京では煙草の吸い殻の投げ捨てマナーもだいぶ良くなってきた。
(こういう点では、フランスは汚ない。大型犬を連れている人が多く、犬の糞は街中にいくらでも転がっている。東京では犬の散歩者は糞の始末のための袋をぶら下げているのが常識だが、そんな袋を持参している人はリヨンではめったに見かけない。わたしは10日間のリヨン滞在中、犬の糞の始末をしている人はおばあさん2人を見掛けただけだった。特定の路地や、公園のなかでも特定の生垣にさしかかると、小便臭がムッするところがあった。
右の写真は、フランスの宗教都市として有名なリュプイの町中の広場、古い噴水のあるところでのスナップ。

日本が褒められていいのは、犬の糞の始末と路上駐車が少ないこと。ドイツ・フランスの都市を褒めたいのは電線と電柱、それに広告看板の少なさ。
)




〈2〉  ダルムシュタット Darmstadt の芸術家村 Kuenstlerkolonie

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Aさんから、ダルムシュタットにテニスをしに行くので一緒に行かないか、と誘われた。フランクフルトから直線距離で30kmほど南下したところの中規模の都市である。わたしはダルムシュタットについてはほとんどなんの知識もなかったが、行きの自動車の中でAさんから「芸術家村」の話を聞いているうちに、だんだんと昔の知識が断片的に甦ってきた。

もう40年以上前の話だが、わたしは或る工業大学の物理学科の学生だった。その大学には建築学科があり、大学の近くの喫茶店にやってくる建築学科の学生たちは、大判の画集や建築雑誌を抱え「ユーゲントシュティール」とか「ル・コルビジュエ」とか、わたしがまったく知らない単語をあやつっていた。おそらく、そういう際に建築雑誌などのグラビアで見せてもらったのだろうが“屋根の棟に男がいる建物”を覚えていた。次の写真が、それである(もちろん今回写したもの)。



学生の時にこの「屋根男」を見て、わたしは何やら異様な感じがした。その変なそぐわない感じを覚えていたのである。 屋根の棟に上がって“遊んでいる”あるいは“ふざけている”「屋根男」、平面の鉄板男。建物の屋根に巨大な鉄板男を付けて“ふざけている”建築家、というものにわたしは「変なの?」というような異和を覚えた。
面白いことに、今回、40年ぶりに記憶を取り戻して「屋根男」を(はじめて)見たが、異和の印象は変わらなかった。これに関しては、後に再度触れる。

ただ、わたしは40年前に、ル・コルビュジエの長方形の箱のような建物にも好感を持たなかった。美しいとは思ったが、“あんなところに住みたくないなあ”というような、自分とは疎遠な感じを持った。建築学科の学生たちが敬意をもって発語する「ル・コルビュジエ」なるものを、敬して遠ざかったというところだった。(これは半分笑い話だが、そんなことを言いながら、わたしが30年近く勤めた私立中高等学校の校舎は、コンクリート打ちっ放しの“ブルータリズム”Brutalism の見本みたいな建物で、中央に“ピロティ”pilotis(フランス語の“杭”)の上に乗った教室と通路があるものだった。ブルータリズムというのは戦後はやったコルビュジエ風建物の総称。わたしは、男子中学生のやんちゃ坊主たちを相手に、日常的に「ピロティ下に集合!」などと言って過ごしていた)
振り返ってみると、わたしは建築に関してあまり関心を持たないで過ごしてきたと言ってもよいように思う。そして、今回のヨーロッパ滞在で、石造建物を多数目にして、否応なく建築に関心をかき立てられたことになるのだと思う(「リヨン案内」というもう1篇を計画しているが、その中でも建築を考えてみたいと思っている)。それが、エコロジストでもあったフンデルトヴァッサーに触発されることになったのも、面白いことだ。

ダルムシュタットのマチルダの丘(Mathildenhohe)で最も目立つのが、「結婚記念塔」という背の高い装飾の多い建物だ。
わたしの第一印象は“美しい”というよりも“かわいらしい”とか“チャーミング”というようなものだった。スケールを別にすると、良くできたチョコレート・ケーキなどの好ましさのようなものを感じた。不快ではなかったが、感銘を受けたということではなかった。その時点で、わたしは「結婚記念塔」という名称も意味も、もちろんその由来も知らなかった。

Aさんには、その塔の下まで自動車で送ってもらった。彼女に「このユーゲントシュティルの遺産も、今では市営の結婚式場みたいなものよ。カップルがここに来て結婚を誓う」と教えてもらった。ユーゲントシュティル というのはJugendstil=young style で“青春様式”などと訳されたりしたが、アール・ヌーボーのドイツ版と考えればよい。テニスをしに行くAさんとはここで別れ、フンデルトヴァッサー・ハウスのレストランで落ち合うことにした。

大英帝国のヴィクトリア女王が没するのが1901年だが、その孫にあたるエルンスト・ルードビッヒがエッセン・ダルムシュタット大公となっていた。ルードビッヒの母アリスがヴィクトリア女王の次女で、彼は母からイギリス式の教育で育てられ、何度もイギリスを訪問している。当時イギリスで盛んであった「アーツ・アンド・クラフツ運動」の影響を受け、大公は美術・工芸・建築の専門家を集めて「国造り」をしようと考えた。1899年にドイツやオーストリアから7名の画家や建築家がダームシュタットに招ねかれ、芸術活動を開始した。
その中心となったのが、オーストリア分離派のヨーゼフ・オルブリッヒである。また、新進のピーター・ベーレンスもいた。彼らはそれぞれの自邸を設計して「芸術家村」を作り上げ、「ルードビッヒ館 1901」や「大公成婚記念塔 1905」などを次々に作った。この一帯がユーゲントシュティル美術の展示場のように名高くなった。ルードビッヒ大公とマチルダ妃の成婚を記念して、「宣誓の手のひら」をイメージする「成婚記念塔」がこの丘にそびえている。それでこの丘は「マチルダの丘」と呼ばれている。

結婚記念塔はマチルダの丘の一番高いところにあり、遠くから見えて、ダルムシュタットのシンボル的な建物になっている。これは、実は、ルードヴィッヒ大公の意図であった。現在は結婚記念塔に肩を並べるくらいの建物ができているので、抜きんでたシンボルとは言えないが(町を歩いていていつも見えているわけではない)、個性的なデザインが印象的である。(細かく言うと、結婚記念塔は1905年2月に結婚(再婚)したルードビッヒ公に対し、「市民からの贈り物」として建設されることになった。市議会の決定は1906年3月。竣工は1907年。この塔の建設のいきさつは、小幡一『世紀末のドイツ建築』p144〜148。この本の紹介は下でする)

丘の反対側の中腹に「芸術家村」が並んでいる。次の写真が、「ベーレンス邸」の現在の状況である。住宅として使用中なので、遠慮がちに外観をスナップさせてもらうしかないが、玄関には大きなシェパードが退屈そうに寝そべっており、植木鉢などの手入れをしている男性がいた。この建物は嫉妬をおぼえるほど美しい「家」であることは否定できない。どことない優美なたたずまいはあるのだが、全体としては緊密な安定感が支配している。



深緑色のガラス質(陶器)のレンガが多用されていて、この家の「装飾」の主役の素材になっている。そのレンガのひとつひとつが機械的ではない曲面を持っていて、手作りの味わいを覚える。門柱にもこのレンガが使ってある。
白いしっくい壁の柔らかなみどりのアーチ。それに対してすっきりと立っている幾本もの鉛直のみどりの柱。然し、全体としてけして装飾過多の印象をあたえるものではなく、むしろ、堅実な水平−鉛直の構造のなかに柔らかみのあるアクセントとして取り込まれているといったものだ。

左は、ベーレンス邸の玄関を正面から見たもので、ドアの美しい金属装飾も半分ほど写っている。この金属装飾の素晴らしい写真は、次のサイトでぜひ観賞してほしい(ドア飾り)。この詳細な写真は深緑色のガラス様のレンガがどのようなもので、植物的な不安定感を持ちながら積み重なっていることがよくわかる。このサイトはマチルダの丘の20世紀初頭の写真なども掲げていてとても面白いので、後でもう少し紹介する。

この「芸術家村」の建築・工芸プロジェクトは、ルードビッヒ大公のリーダーシップとオルブリッヒの建築家としての実力と実行力によって進められる。その方式は展覧会を行って、内外の関心を集め商談を成立させるというもの、当時世界的に流行していた「博覧会方式」といえるものであった。
第1回博覧会は1901年5月に行われた。そのテーマは「ドイツ芸術の記録」というものだったが、大きな赤字を抱え、成功とは言えなかった。博覧会は第4回(1914年)まで行われるが、その構成メンバーは、ルードビッヒ大公以外はどんどん大幅に変わっていく。ベーレンスは第1回博覧会の後、早くも1903年に「芸術家村」を出ているが、その際に上の写真のベーレンス邸は売却している。(第3回展覧会1908まで残っていた当初メンバーはオルブリッヒのみで、そのオルブリッヒは同年41歳で急逝する)
ベーレンスは「マチルダの丘」を離れて、ジュッセルドルフ工芸学校の校長に就き、同校がこの分野の優秀校となるのに尽力する。ミュンヘンでムテジウスを中心に結成された「ドイツ工作連盟」に属する(ここには、オルブリッヒも加わっていた)。
ベーレンスの事務所には一時ル・コルビュジエもいた。ユーゲントシュティルを抜け出てモダニズム建築を志向する(工場建築の新境地を最初に示したと言われる「AEGタービン工場」は1910年)。このあと、ベーレンスは1940年までドイツ建築界をリードし続けていく。


オルブリッヒ自身の設計した住宅も、素晴らしいものが残っている。下は、広壮な邸宅の玄関ドアであるが、少しも威圧的でなく優しみがあって、楽しげである。この丸い玄関の曲線は「オメガー曲線」といわれるものだそうだ(小幡前掲書p105)。右の写真は、ドアの右半分をトリミングしたもの、優美な内向する曲線が多用され、「オメガー曲線」の入口の構造とあいまって、“あなぐらの安逸”へ誘う入口というような仕掛けを感じる。
この庭は右に向かってかなりの急斜面で下がっている。

  


つぎに示すのは、その斜面を下っている坂道。じつに念入りに白タイルや石が敷き詰めてある。しかも、仕上がりは穏やかなもので、この坂を歩く者に親和感をあたえる。右がベーレンス邸、左が上のオルブリッヒ設計の邸宅。



このチャーミングな坂道は「クリスチャンセン路」と名前が付いていた(Hans Christiansen 1866〜1945 は芸術家村の構成員のひとり)。いかにも豊かで余裕があり、贅沢に敷地を使っている「芸術家村」の雰囲気をつかんでいただきたい。(いうまでもなく、これは現状の芸術家村であり、住宅として使用されてきた以上創建時とは相当違っている。また二つの世界大戦で被害を受けてもいる。


再度、マチルダの丘の頂上部分に戻ろう。つぎは、ルードビッヒ館の玄関である。この館は、芸術家村に集まった芸術家たち(画家、建築家、工芸家など)のアトリエと展示室からできている。

  


これを最初に見たときに、わたしは思わず吹き出してしまった。玄関の両脇に立っている男女の裸像がデカ過ぎるから。「あんなに大きい立像だったら、ルードビッヒ館の中に入ることも出来ないじゃないか!」と思った。変なことを思ったものだが、建物に付属する彫像とはいえない巨大さ、不釣り合いな巨大さを感じたのである。
つまり、わたしの既成概念として「建物とそれに付属する彫像」という場合に一定の大小関係や釣り合いの限度があって、ルードビッヒ館の場合にはその釣り合い比率を大きく破っていると感じた。(ただ、これは世界の見聞が少ないわたしの偏見に過ぎない可能性もある。ミケランジェロのダビデ像などは本来はどこに置かれるために制作されたのか。わたしの内部にある「建物とそれに付属する彫像」というイメージの原型は、正直に告白すると神社と狛犬(獅子)のように思う。結局はそのイメージは、番犬をシンボル化したものであるのかもしれない。)
わたしは、この巨大すぎる彫像を見ていてそのアンバランスに呆れながら、“ああ、そうか。この彫像は建物の付属品じゃないんだな”と思った。建物の付属品ということは装飾ということである。この彫像は彫像としての独立性を、ルードビッヒ館に対して主張しようとしている、と考えればよいと思ったのである。建物に付属するものとしてもっぱら建物に対して調和的に存在する、そういう地位に甘んじない彫像。この発想は、装飾そのものについてさえ提起できる。いやもっと一般化できる。建物(構造体)が主体なのではなくて、建物やその周辺の装飾物・彫像・庭園などのそれぞれが独立的に自己主張し、それらがつくりだす総合的構成としての「建築」。 つまり、「建築」を「建物とその付属物」と考える枠組みの撤廃である。
とすれば、上で述べた「展示館」(これが出来たのが1907年)の屋根の上の裸体男性像、「屋根男」についても同じ評価が通用するのではないか。建物に従属する(付属する)飾り物としての像ではなく、相対的に独自の存在を誇示するところの像が造形されている、という風に理解される。(ただし、「屋根男」が当初から在ったかどうか、確証がない。目下、調査中)

わたしはこの辺りまでは、自分が実際にマチルダの丘を目にしてきたときの体験をもとにして、必要な知識をインターネットで確かめながら書いてきた。ところが、小幡一『世紀末のドイツ建築』(井上書院1987)というすぐれた本があることを知ったので、この本も援用していく。この本はオルブリッヒとベーレンスを軸に書いてあり、第3章は「ダルムシュタット芸術家村」という題になっている。(小幡一は、1970年代の後半にダルムシュタット工科大学で「ドイツ近代建築史」を学んでいる。)さっそく、ルードビッヒ大公館の記述を参照してみる。
完成した大公館は、ゲレンデの頂上に貯水槽を背に住宅を見下ろすように、ほぼ南向きに横に長く(幅55m)建っていた。玄関を中心にしたシンメトリーなファッサードでは、シンプルで無表情な大壁面の近づきがたい閉鎖性と静寂が、オメガー曲線を形どった玄関の装飾過多がもたらす表情豊かな生命力と、見事な対比を見せた。(中略)玄関を押しつぶそうと計る無装飾な壁面の無言の重圧に対し、そうはさせまいと生き生きとした装飾で立ち向かうオメガー曲線の中。そしてこの装飾に負けまいと、強固な幾何学的形態をとる玄関ドア。この三者の対比と調和は、両側に従えた巨大な石彫「力(男)」と「美(女)」(ハビッヒ作)、一対の「勝利の女神」像(ボッセルト作)、そしてオメガー曲線に囲まれたバールの次のような言葉によって、より強調され確実なものになり、建物全体に「祝福」と「平和」をもたらすのだった。(前掲書p104)
「芸術家は、かって存在しなかった、そしていつかは存在するだろう、おのが世界を表現する。」
この引用に頻出する「オメガー曲線」というのは建築史の方では市民権のある語のようだが、わたしは初めて知った。「Ω オメガ」の形の曲線ということなのだろう。トンネル型の形状である。上で紹介したオルブリッヒ設計の住宅の玄関にもこの曲線が印象的に使われていた。一対の「勝利の女神」像(ボッセルト作)というのは不明。上の右写真は、左写真の中央部分のトリミングだが、金色の格子状ドアの上の左右一対の黒い像が「勝利の女神」像ではないか。月桂樹の輪を掲げているように見える。わたしはこのとき、このドアまで行ったのだが、何の知識もなくよく見もせずに戻ってきた。(上の左写真の人物はわたしで、わたしも入れて巨大像を写してくれと女房に頼んだショット。でも、上の女神(たぶん)は男の首の上に足をおいているらしく見えるのもかなり異様である)
このルードビッヒ大公館が完成したのが1901年で、芸術家村の第1回展覧会の開催式として、晴れやかな式典が行われた。G.フックス作、祝祭劇「前兆」が古代ギリシャの衣裳で行われた。ネット上に当時の映像が公開されているので、ぜひ見て欲しい。集まっている婦人らの着飾った様子も見る価値がある。祝祭劇


〈3〉  マチルダの丘

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マチルダの丘はヘッセン大公所有の丘で、毎週木曜日に一般公開されて子供たちが自由に遊べる場所であったという。



丘の一番高みに結婚記念塔と展示館・ルードビッヒ館がある。それを西側のプラタナスの公園側から写したもの。「屋根男」も写っている。ベーレンス邸など芸術家村は画面右の下になる(写っていない)。画面右に見えるタマネギ型尖塔はマチルダ妃の実家(というのかなあ、日本の庶民の言い方です)の宗教であるロシア正教の教会をルードビッヒ公がつくったというもの。マチルダの兄がダルムシュタットを訪問する際に作ったというが、贅沢なものだ。ただ、今になってこのロシア正教会を見ると、曲線を多用した色彩豊かな教会が、フンデルトヴァッサーのハウス(Waldspirale)と対応して考えられて(後述)、ダルムシュタットの持つ建築の魅力を強く印象づけるものになっている。金色(こんじき)の宗教性ということを思わざるをえない。金(ゴールド)の流通価値ゆえに宗教的にもありがたがるという通俗的な解はもちろん逆立ちしている。
マチルダの丘の西側(上の写真のカメラの位置)は、特に建造物がないために紹介されることが少ないが、プラタナスの林立する広い公園と水池(プール)があり、その下はさらに広い斜面になって都市部に接続している。



これはプラタナスの公園の中から、結婚記念塔を見たものである。何人かの人影が見えるが、金属球を投げて目標点に近い者を勝ちとする遊戯で、公園の中で熱心に興じているグループが幾つもあった。この遊戯は「ペタンク」というものらしいが、大人の遊びらしく子供は見かけなかった。5,6人の男女が、たいていビールかワインを持って、実に楽しそうに長時間遊んでいる。自分用の金属球を作っているらしく、またそれを入れて持ち運ぶ革袋を持っていた。わたしはフランスでも同じ遊びを見たが、ヨーロッパで広く分布しているのか。



プラタナス公園には、上図のような、陰気でちょっと東洋的な感じのするレリーフや彫像が幾つも立っている。彫刻の手前の金網にはユーゲントシュティル風の細工があって、これはこれで素晴らしい。もちろん、彫刻は既にユーゲントシュティルの流行の時代をはるか過去にしているものだ。上掲の小幡一『世紀末のドイツ建築』によると、第4回博覧会(1914年)のために、ヘットガーという彫刻家がプラタナスの森に石彫を作ったという。第1次世界大戦直前である。もう一つ、作品を紹介しておく。



狛犬ふうの動物(ライオン?)が支える台座に、仰臥する女性と赤ん坊。何か意味があるようなないような、神秘主義というか東洋趣味というか。しばらく見ていたが、統一した印象に絞り込まれてこないのである。小幡一の前掲書は、次のように述べている。
ヘットガーは、その彫刻に動きがなく、しばしば東洋的な雰囲気を持っていた。彼は最初ロダンからの影響を強く受けていたが、P.ベッカー=モダーソンとマイヨールに出会い、作風を大きく変えた。そのことについてロダンは、次のように語った。
「ヘットガーは、わたしが探していた道を発見した。もし私が年老いていなかったなら、この道を進んだだろう。それはモニュメンタルな彫刻の道であり、唯一正しい道である。」(p152)
こういうロダンの言葉があるのだが、残念ながら、彫刻としては凡庸な作品であるとわたしは思った。このような石彫の作品が多数並んでいて、いくらデジカメとはいえ写すのが嫌になるほどだった。

そろそろ日が沈みかかってきたので、マチルダの丘を下って、フンデルトヴァッサー・ハウスへ行くことにした。丘の北側の道を下りはじめて、振り返って「結婚記念塔」を見たところ。時計は午後8時50分を指している。結婚記念塔の、この時計と対称的な位置の北側側面には、この時計と同じようにとても装飾的な金色の日時計がついている。

道の両側の立派で落ち着いた統一的な外観のアパートが、結婚記念塔とよくマッチしている。まことにうらやましい住環境である。しかし、道路の路上駐車はいただけない。フランスのリヨンでも同じ感想を持った。自動車購入時に車庫証明が必要ないのだそうである。一戸建住宅で車庫がついているものはともかく、多くの人がアパート(日本式に言えば、マンション)に住むヨーロッパで、路上駐車を無くすのはとても難しい。アパート生活の長い伝統があり、そこへ自動車所有という問題が後に生じた。それでも、せっかくの美しい町の外観が台無しになっていることは強く主張しておきたい。

電柱がなく、空を無粋に区切る電線もないすっきりした町の様子。日本の町と比べると、町の中に掲げてある文字情報が圧倒的に少ないことは確かだ。


〈4〉  フンデルトヴァッサー・ハウスへ

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マチルダの丘からフンデルトヴァッサー・ハウスまでは2km弱ある。Aさん宅で前の晩にインターネットでよく調べて、ダルムシュタットの地理を頭に入れ、地図をプリントアウトしておいた。それに、フンデルトヴァッサー・ハウスはかなり大きな市営住宅であり、屋上に巨大な金色の玉が乗っている派手な建物でダルムシュタット市民ならだれも知らない者はいないというくらい有名なものなので、迷ってたどり着けないということはないだろうと思っていた。

だが、実際に歩いてみて困ったことは、プリントアウトした地図に書いてある「通り」の名前と実際とが、なかなか一致しないことだった。わたしは方位磁石を持っていて、それを参照しながら歩いていたので、まるで間違った方向に向かっていることはないことは自信を持っていたが(その時間には、夕日の方向も明瞭だった)、“どの角を曲がればフンデルトヴァッサー・ハウスになるか”というようなミクロな情報は、通りの名前がはっきりしないとどうしようもなかった。
左は、その途中の通りの様子だが、歩道のすぐ横に設けてあるのが自転車用のレーンである。この道路は自転車と自動車の分離がキチンとしてある4車線である。交差点などでも自転車は完全に車輛扱いになっていた。ただし、道幅が狭いところでは、自転車用レーンが歩道に設けてあるところもあった。

広い通りにぶつかったところで、わたしは既にフンデルトヴァッサー・ハウスの近くまで来ていると思っていたが、見回しても、見えない。その広い通りの名前が分からない。おそらくわたしが不慣れのために、通りの名前が書いてある標識の位置がわからず、見落としているのだろうと思う。それにドイツ語の長い綴りは目にしてもスッと頭に入ってこない。

信号待ちしていた若い娘さんに、「今どこにいるのか?」と地図を出してたずねるが、困った顔をしている。わたしのデタラメ英語が聞き取れないのだと思う。
困っていると、すぐ自転車の中年男性が寄ってきて、「どこにいきたいのか?」と訊く。わたしは地図を示しつつ「フンデルトヴァッサー・ハウス」と言った。男性は笑顔で「簡単だよ」といって、ついて来いと身振りで示しながら信号を渡る。彼は自転車に乗ったままである。信号の先は、小さな公園になっていたが、そこに入って、「あれさ!」と指し示す。なんと、その小公園から通りを一本隔てたところがフンデルトヴァッサー・ハウスで、西空に金色の玉が輝いていた。時刻は9時過ぎである。

この市民住宅は105戸入っている。一番高いところは10階で、写真の抜きんでて高くなっている3階分はレストランだという。わたしらが入ったビア・レストランは下で説明するように、これではない。全体の構造は、次の写真の模型を見てもらいたい。

左は、ピエール・レスタニー『フンデルトヴァッサー 5枚の皮膚を持った画家王』に掲げてあるフンデルトヴァッサー・ハウスの模型(1996)である。なんと言ってもこの建物の最大の特徴は、植物がうわっている斜面が屋上になっていて、そこを歩いて大きく一周する間に最高地点(金色の玉を掲げたところで、レストランになっている)に達することができる。

わたしはこの模型の右上の方から近づいていることになる。屋上の金色の玉が確認される。わたしはこの「Waldspirale ウッド・スパイラル」(Wald は“森林”)の外周を眺めたのち、左の模型の上側から中庭に入り、模型では白く写っている道を下側に抜けて、下辺の右よりにある白い丸いドームのビールレストランに入った。そこは、一般道に入り口が開いているので、誰でも入りやすい。

フンデルトヴァッサー・ハウスにさらに近づき、屋上の金色の玉と、金色のタマネギ型ドームを見上げた。模型(上写真)の上辺の全体が見えていることになる。屋上やその他のところの木々が伸び出していることが分かる。

建物全体をおおう横縞模様が軽やかに波打つモチーフが目につく。明るい青色と柔らかいピンク色、それに軽快な黄土色が縞模様をなし、建物の階ごとの切れ目に沿っているのかそうではないのか、ユルユルと動いて徐々に上がっていく強い曲線がある。それに、窓がいろいろ風変わりについている。ついている位置も、形も、大きさも。
何もかにもが、画一的でなく、のびのびしている。それでいて、バラバラな感じではない。楽しげな統一性がある。 色彩の落ち着いた美しさが、わたしには最も強く印象された。


下左はさらに近寄って、正面から見たところ。下右は見上げたところ。開口部から木が伸び出しているのも分かる。

   


多様性とリズム感。しかし、なによりも色合いのうつくしさが、圧倒的だ。チョコレート色の、紺色のレンガ(タイル?)がかなり使ってある。それが、強い横縞の曲線を演出していることが分かる。

中庭を通って反対側に出て、白いタマネギドームのビアレストランの屋上に出たところ(ラセン階段を2階ぶん登る)で、ウッド・スパイラルを中庭側から見た。

   


けして広いとは言えないが、楽しげなベランダがあり、右は一番高い金色の玉を見上げたところ。普通の市民生活が行われているアパートなので、あまりおおっぴらにカメラを構えて撮影するのははばかられた。ちょうど上右のベランダに男性がひとりで食事をしていたが、その方と目が合ってしまいそうで妙な具合だった。
わたしは肉とビールを頼み、フンデルトヴァッサーの作品と向き合いながら、ビールを楽しんだ。なんといっても、この建物=フンデルトヴァッサー・ハウス=ウッド・スパイラルは向き合っていて、すこしも窮屈でないし、かたくるしくない。不愉快でもない。中庭には草花や樹木がたっぷりとあって、しかも、画一的ではない変化に富んだ工夫で植えられていた。
この点は、日本の同規模の「マンション」と向き合ってビールを飲む状態を想像してみたらその違いが分かるだろう。そもそも、「マンション」と向き合うような位置に、ビールレストランを日本では作らないだろう。
マチルダの丘の芸術家村の施設は、ルードビッヒ大公という芸術趣味のある“支配者”の支持を得た“前近代的国家”による気まぐれでしかなかったと言えるかも知れない。それに対して、フンデルトヴァッサー・ハウスは市議会の依頼で建築されたものであり、対比すると様々の疑問が生まれる。 などについて、わたしは疑問をいだきながら、しかし、眼前の建物の魅力は否定しがたいので半信半疑の気持ちであった。これらの疑問について、結論的にはわたしの浅知恵であったのだが、次節以下で十分に展開するつもりである。




ネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」にわたしたちが入ったビールレストランの鮮明な大サイズの写真がでていることを知った。ぜひ、ここを見てください。雪の季節です。光線の具合も良く、フンデルトヴァッサー・ハウスの様子がよく分かる。白い丸屋根がビールレストランです。



〈5〉  フンデルトヴァッサーのラディカリズム(根底主義)

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フンデルトヴァッサー(本名フリードリヒ・シュトーヴァッサー、1928〜2001)はウィーン生まれの画家。父はアーリア人、母はユダヤ人。10代半ばのスケッチが残っているが、すでに古典的で的確な描写力を示していて、非凡な才能を持っていたことが分かる。
20歳(1948)で高校を卒業し、ウィーンの美術アカデミーに3ヶ月在学。翌年にパリに出て、すでにそのころから個性的な創作活動をはじめ、「フンデルトヴァッサー」と名乗りはじめる。(本名のシュトー Sto がスラブ語の“百”の意だとして、Hundert-wasser 百−水 とした。のちに日本語で「百水」と名乗っている)

画家としてのフンデルトヴァッサーは、若いときにすでに自分の「形」(渦巻き、波打つ横線、雨だれ、建物、船、顔、・・・)を画きはじめており、その後、驚くほど変化しなかった。何でこんなことが可能なのだろうと思うほど変化していない。画家としての特徴はその色使いの美しさにある。フンデルトヴァッサーの豊かで暖かみのある色彩の世界に一度溺れてしまうと、そこから戻ってくるのが難しいほどだ。
彼の絵画作品の多くは、メッセージを担っているのだが、実際の作品を見てみればすぐ納得できることだが、それらがけして説明的ではないし、押しつけがましくもない。しかも、絵画としての「抽象的な美」に寄って立っているというような孤立感を感じさせない。もっと生々しい説得力のある美しさに、圧倒される。

次の「黒人の女がそばにいたら、恋をし、絵に描くのだが」(1951)は、とても早い時期の作品である。この年、北アフリカで冬と春を過した。色使いの何とも言えない魅力はいうまでもないが、背景が北アフリカの住居であることに注目して欲しい(左写真 右をトリミング拡大したもの)。自然の中にある家の原型を、ここで獲得している。

  


フンデルトヴァッサーが終生格闘するところの「建築」は、画家としての最初からのテーマでもあった。この点の認識が重要である。彼は画家として出発してその後に建築や環境保護のテーマを発見したのではないのである。彼の芸術活動の根源にそれらのテーマが最初から存在し、それに突き動かされつつ色彩と造形が結実していくのである。 したがって、フンデルトヴァッサーを肯定的な意味で「エコロジスト」というのも、本質を突いているとはいえない。フンデルトヴァッサーは、根源的な創造の欲望つまり芸術家としての欲望を追求する中で、エコロジカルなところに出ていたのである。逆ではない。
フンデルトヴァッサーは数々の「宣言」を発表し過激な「運動」を提唱したが、だれも彼を「運動家」だと思った人はいない。皆が彼は芸術家であると思った。これは、感動的なことではないか。

この1951年にウィーンでフンデルトヴァッサーは版画を10点ほど残しているが、わたしたちはそれを『フンデルトヴァッサー  全版画作品1951−1986』(岩波書店1988)で、見ることができる。
版画の題を拾ってみよう。「上空から見た町」(下左)、「木のある高層建築」、「家を持つ少年と鳥を持つ少女」(下右)、「花のある家」、「窓からのぞく顔」。これらは、題名にはっきりと「建築」に関連する語が入っているものを拾ってみたものである。

  


この大部な本にはヴァルター・コシャツキーの詳細な解説がついており、美しい版画の写真版だけでなく、版画の1葉づつについている詳細な解説文も読む価値がある。「序文」でコシャツキーは、いまだ無名であったフンデルトヴァッサーが1951,52年と2回の北アフリカ旅行(モロッコ、チュニジア)を果たしてきた意味に関して、つぎのように言及している。
フンデルトヴァッサーは1952年の時点で既に、北アフリカへの2度目の、決定的な意味を持った旅行を経験したあとだった。彼は北アフリカで新しい世界を体験し、受容した。そこの人間の生活、住まい、かれらの自然な態度、独自の美しさが、この時以来彼の世界観の根本要素となった。後に彼の主要なイメージのひとつとなる、家に木を生やすという考えも、ここで初めて登場した。(コシャツキー前掲書p15)
なお、この本の監修者の前川誠郎の「跋文」によると、コシャッツキーはこの『フンデルトヴァッサー  全版画作品1951−1986』の編者としてはじめて日本に紹介された人で、ウィーンのアルベルティーナ版画素描美術館長を長く勤めた人。デューラー研究者として著名だそうである。

フンデルトヴァッサーは最初から単なる画家ではなかった。彼はある意味で「思想家」であり「理論家」であり、実践的なアジテーターでもあった。本質的に創造的な「芸術家」であったと言えばいいのかも知れない。
彼を世界的に有名にしたのは(賛同者も否定者も多かったという意味だが)、1958年の「カビ宣言」からである(この宣言文は「建築における合理主義に対するカビ宣言 Verschimmelungs-manifest gegen den Rationalisums in der Architektur」 verschimmeln 黴びる)。ゼッカウ修道院で開かれたシンポジウムの席上で宣言文を読み上げる若い男フンデルトヴァッサーを、コシャツキーは初めて目にしたという。
突然この風変わりな服装をした痩身の若い男が立ち上がり、ごく穏やかに、ほとんど小声の一本調子で宣言文を読み上げた様子は、決して忘れられない。彼はそれを「建築の合理主義に反対してカビを生やそう宣言」と名づけた。

彼は奇妙な文章を朗読した。曰く、機能的な建築は、定規を用いた絵画同様、誤った行き方であることが判明した。そして我々は非実用的で、役に立たず、最終的には居住不可能な建築に向かって大股に近づきつつあった。「今日我々が、タシスム[絵具の偶然の“タッチ”によって描くという絵画手法]のオートマティズム全体が行き過ぎを犯した後で、超オートマティズムの奇跡を経験しているのと同様に、全く居住不可能な状態を克服して初めて、真の、自由な建築という新たな奇跡を経験することになろう。―― 借家に住む男は、窓から身をのり出して、両手が届く限りの壁の塗装を掻き落とす可能性を持たねばならず、また長い筆で、墜落せずに届く範囲で壁をバラ色に塗ってよいという許可を得ていなくてはならない。そうすれば遠くの通りからでも、そこに人間が住んでいることがわかり、これで彼は厩舎を割り当てられた小さな家畜のような隣人から、自分を区別することができる。―― コンパスや定規がほんの一瞬でも使われたり、また単に頭をかすめただけでも、そうして出来た近代建築は、どれも拒絶すべきである。―― 直線は罰当たりであり、不道徳である。直線は創造的線ではなく、複製を生産する線である。そこに住まうのは神とか人間精神というよりもむしろ、安楽を追い求める脳なしの蟻の大群である。」

こうした主張は皆非常に奇妙に聞こえたので、笑う者もいたが、次第に座は静まりかえり、やがてピンを落としても聞こえるような雰囲気になった。何かわけのわからぬ魅力が、この若者から発散していた。(中略)非常に挑発的な文章の影で問題とされているのは、人間の画一的な管理、つまり個人の生活と生活空間に不毛な機能性を押しつけ、それによって個性を持った人間である個人を次第に窒息させ生命を奪う、見せかけの向上のもとでの人間の尊厳の喪失に他ならず、これに対して社会状況を変革して、生きるに価する環境を作ることが訴えられた。

そしてフンデルトヴァッサーは次のように言葉を結んだ。「鶏や兎並に飼育箱を並べたような建物に押し込まれるのに反対して、人々が自ら革命を起こすときが来た。」今日、彼はさらに次のようにつけ加えている。「スラム街が居住不可能だと言っても、所謂機能的建築の居住不可能な状態よりはましである。スラムと呼ばれるところでは、肉体が駄目になるが、人間のために作られたと称する近代の機能的建築においては、死ぬのは魂なのだ。だから機能的建築の原理をこれ以上押し進めてはならず、スラム街の構造、即ち想像力に富んだ、自発的な、植物的な、有機的な、個性的で創造的な建築から出発しなくてはならない。」(コシャツキー前掲書p14 強調は引用者)
直線とグリッド(格子、平行移動)からできている機能的建築に「カビを生やそう」という爆弾宣言である。これが、1958年であることが重要である。いまだマルクス主義の生産力理論が華やかな時代であり、近代的合理主義や大量生産を否定する理論的立場は存在していなかったのである。
スラムと呼ばれるところでは、肉体が駄目になるが、人間のために作られたと称する近代の機能的建築においては、死ぬのは魂なのだ。
これは、典型的なラジカリズム(根底主義)の言葉である。

右に示すのは、フンデルトヴァッサーの絵画作品のなかでも有名なもののひとつ「血を流す家々」(104×60p,1952)である。「カビ宣言」よりもずっと早い作品であることに注意してもらいたい。図式的に言えば、その中で魂が死につつある「人間のために作られたと称する近代の機能的建築」を表現しているということになるが、そういう標題画のような軽薄なところはまったくない。美しい赤と歪んだ据わりの悪いビル群に圧迫感を覚えるのみである。

ハリー・ランド Harry Rand『HUNDERTWASSER』(TASCHEN1991 日本語訳2002)というフンデルトヴァッサーの総合的な紹介の本がある(だいたい年代を追っているが、すぐれた作品論にもなっている)。この本のなかのハリー・ランドの評を見てみよう。

この作品の中で無造作に林立するビルは、見通しがきく眺望を奪い、昔の町のように歩行者が自由に往来することを不可能にしている。モダニストによる建造物が次々と造られ続けていることに反対する建築批評家もいたが、フンデルトヴァッサーは、こうした暴力性をテーマとして取り上げた唯一の画家であった。この作品のタイトル「血を流す家」は、非人間的で難攻不落の要塞のような高層ビルを指しているのである。
わたしはウィーンで画家としての活動をはじめたばかりのフンデルトヴァッサーが、「血を流す家々」といういわば“文学的”で衝撃的な題を自分の作品につけたことが凄いことだと思う。彼はこのとき24歳であるが、すでに彼が生涯かかって戦う相手をはっきりとラジカルに(根底的に)把握していた。「カビ宣言」が30歳のとき。

上の「カビ宣言」なかにあった“フンデルトヴァッサーの直線嫌い”は有名である。ハリー・ランド『HUNDERTWASSER』の第3章は「直線」と名づけられている。ハリー・ランドは、それをオーストリアのバロックやウィーンのユーゲント・シュティルの伝統に結びつけて論じている。
生活が否応なしに巻き込まれていく機械的な都市の四角四面の合理性を、フンデルトヴァッサーは嫌悪したのだが、その発端は、オーストリアのバロック的享楽性、ユーゲントシュティル装飾の豊穣な曲線が作り出す印象に由来している。1950年代初期、クリムトとシーレに魅了されたフンデルトヴァッサーは、ペルシャの細密画、ジョットやウッチェルロの絵画、北齋の浮世絵、パウル・クレーやアンリ・ルソー(税官吏ルソー)に新鮮な刺激を見出した。こうした芸術家たちは、製図工が定規で引くような線ではない生き生きとした線に対する信頼を基礎としている。フンデルトヴァッサーは、定規でひかれた直線は最も基本的で有機的意味において不健康であると考える。(ランド前掲書p36)
次は、フンデルトヴァッサー自身の発言である。(ランド『HUNDERTWASSER』には、ランドとフンデルトヴァッサーの対話の部分がかなりある。)
もしライオンにそっと忍び寄られたら、あるいはサメに食われそうだとしたら、もちろんそれは命にかかわる危険です。私達は何百年もの間、そうした危険と隣り合わせに生きてきました。直線は人間が造った危険なのです。何百万という線があっても、そのうちたった一つの線が致命的になり、それこそ定規で引かれた直線なのです。直線の危険は、例えばヘビがのたくるときの有機的な線の危険とは比較にならないほど大きいのです。直線は、人類にとっても生物にとっても、万物には完全に相容れないものなのです。(ランド前掲書p37)
「直線」的な建築家としてフンデルトヴァッサーが目の敵にしたのは、オーストリアの建築家アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870-1933)である。ロースは「装飾は犯罪である」という1908年の論文「装飾と犯罪」での発言が有名。デコラティブな装飾部分をなくして、非常にスッキリした建物に仕上がっているロース・ハウス Loose house(ウィーン、1911)が知られている。
フンデルトヴァッサーの「ヌード・パフォーマンス」として知られるのが40歳(1968)のときのウィーンでの「ロースからの解放」であるが、そのとき全裸で読み上げた宣言文のなかに、次のような一節がある。
しかし彼(アドルフ・ロース)はそうせずに、直線を重視し、同質性を重視し、なめらかさを重視した。今や、われわれはなめらかさを手にしたのだ。しかし、すべてのものは、そのなめらかさゆえに滑っていく。神ですらそうだ。人間にふさわしくない線は、神のイメージとしてもふさわしいものではない。直線は悪魔の道具である。直線を使う者はみな、人類の滅亡に手を貸しているのだ。
 直線は人類を滅亡に導く
(なお、フンデルトヴァッサーの最初のヌード・パフォーマンスは1967年ミュンヘンで、「合理主義的建築に反対する」というもの)。

先に引用した「カビ宣言」の中の、借家人が窓から身をのり出して手が届く限りの範囲をピンク色に塗る権利を主張しているところは、後に、「窓の権利、木への義務」(1972)としてまとまるのだが、その最後の一節は、「直線に神は宿らない」である。



〈6〉  ウィーンのフンデルトヴァッサー・ハウス

目次


フンデルトヴァッサーはハンブルク美術大学の客員教授となるが、1959年10月に着任し、学生に“できるだけ長い線を引け”という課題を出し、自らも教室の壁・窓・ドアにユルユルとした連続線を2日2晩にわたって描き続けた。結局それが原因で大学は首になる。
1961年に東京で展覧会を行い、展示作品完売の成功を収める。この日本訪問(2月〜8月の半年間)で版画の制作師たちと知りあい、自作の版画化を行う。また、池和田侑子(画家)と翌年、何度目かの結婚をする(66年離婚)。今わたしたちはフンデルトヴァッサーの版画作品をいくつも見ることができるが、面白いことに、いささかも“日本的”な感じを受けない。
1962年に「現代美術展では最も権威のあるヴェネツィア・ビエンナーレのオーストリア館の個展を引き受けたフンデルトヴァッサーは、大きな反響を得た。成功への突破口が開かれたのである」(コシャツキー前掲書p54)。

年譜を拾っていくだけで、この頃から(1960年代から)フンデルトヴァッサーが画家として有名になっていった様子を感じることができる。1964年、ケストナー協会によって最初の作品目録が刊行される。1965年、ストックホルム、近代美術館での巡回展が大成功を収める。
1968年に、古い木造船を手に入れ地中海を航海する。72年までかかってヴェネツィアのドックで改造し「雨の日」号と名づける。この船で制作もし、75年にはニュージーランドまで航海している。

「カビ宣言」からの20年間ほどの間に、フンデルトヴァッサーは幾つもの宣言文を発表して理論的な立場をアッピールしているが、同時に自然と人間の関係を考え直す実際的な創造的仕事を、多くの建築モデルを発表することで示している。「芝つき屋根の家」、「高層の草の家」(左写真)、「地下の家」、「緑のアウトバーン」、「通常よりもやさしいガソリンスタンド」、「高層建築−草原の家」、「渦巻きの家」などは1974、75年のものだが、中原祐介監修『フンデルトヴァッサー』(新潮社1991)の大判の写真で見ることができる。

左の「高層の草の家」は、ビルを建築したら、必ずその屋上に草や樹木を生やすべきだという考え方を基礎においている。そのビルのできる前の大地は、自然まかせの草原−森林であったはずだから、人間の人工が「垂直に伸びる」ビルを建築しても、上空から見たら同じになるように屋上に草原−森林を作っておくべきだという。「高層の草の家」では、各層に「草原」を作ることによって、自然に対して十分にお返しをしているわけだ。
「渦巻きの家」は、斜面に沿って歩いて上がっていくことが出来、〈4〉で紹介したダルムシュタットの「Waldspirale ウッド・スパイラル 渦巻く森」の原型であることは、いうまでもない。
小論では詳しく触れる余裕がないが、「高層建築−草原の家」という建築モデルは、ブルーマウ温泉保養村(オーストリア・シュタイヤーマルク州)という大規模なプロジェクトとして実現してる。「ホテルを中心とした複合施設で、各建物は面積35ヘクタールにわたって分散している。・・・室数250,ベッド数550,プール2つ、温泉プール5という規模で営業している」。各建物の上には腐植土の草原が実現しているので、俯瞰写真(レスタニー前掲書p54)をみると、全体が草原であるかのように見える。


オーストリアまたはウィーンからの正式な仕事の依頼の最初がどれなのかよく分からないが、1974年にウィーンのザイラー通りの「歩行者ゾーン」の提案が容れられたのは早い方だろう。市民からも好評だったという。1975年にはオーストリア郵政省から依頼があり切手のデザイン「渦巻きの木」を行っている。フンデルトヴァッサーは多くの切手のデザインを行っている。特に、国連の記念切手には見るべきものが多い。自然保護関連の数々のポスターと同様に、フンデルトヴァッサーは美術創造を通して自分の思想を広げる機会ととらえていたと思える。



左から、キューバ「酔いどれ女の夜」1967、オーストリア「渦巻き木」1975、セネガル「黒い木々」「頭」1979(レスタニー前掲書p69)。(なお、飛び抜けて古いキューバの切手は、フンデルトヴァッサーの原画を用いているが、彼自身のデザインではない。フンデルトヴァッサーの切手に対する愛着や興味深いエピソードがレスタニー前掲書p66〜70にある。また、彼の切手に関する含蓄ある短文はランド前掲書p  にある。

さて、1980年にウィーン市議会から極めて重要な注文がフンデルトヴァッサーにあった。ウィーンのレーヴェン通りとケーゲル通りの角に低所得者用の市営住宅を建築する仕事の依頼である。この種の仕事が建築家にではなく芸術家に発注されたことの重要さは、驚くべきことであると思う(殊に日本のような、“隣り百姓”式の「無難な仕事が良い仕事」としか考えていない役人天国からすると)。

ピエール・レスタニーはフンデルトヴァッサー・ハウスを次のように描写している。
フンデルトヴァッサー・ハウスは垂直にのびる村である。それぞれ独特の色彩と窓の処理が施された個性的な1軒1軒の家が、パズルの一部として建物全体を構成している。居住者は本当に「アット・ホーム」な気分を味わう。表玄関は柱をめぐらしたホールになっている。丸天井に覆われたホールの中央には大きな円形の噴水がある。噴水の池の部分はレンガと不規則な形をした陶片でできている。
廊下は建物内部の連絡通路となっており、でこぼこの床としっくいが波打つように塗られた壁によって生き生きした雰囲気があふれている。しっくいは上塗りが可能で、子どもも大人も自由に落書ができる。(レスタニー前掲書p46)
この公共住宅は全部で50戸からなり、40m2が8戸、60m2が14戸、80m2が25戸、117m2が2戸、148m2が1戸、これですべてである。日本の「マンション」と比べてやや広いという程度である。むしろ、わたしがうらやましく感じたのは公共スペースである。「診療所、室内庭園、洗濯場、床の中央部が盛り上がったアドベンチャールーム、子ども用のプレイスペース、樹木に囲まれた公共のテラス、喫茶店、レストラン、商店など」(同p46)
右の写真(中原祐介監修前掲書p49から拝借しました)で明らかなように、草原−樹木が建物の屋上や内部に取り込まれている。
波打つようなフォルムの屋根のラインはガウディのカサ・ミラを思わせる。通りに続く階段の曲線も、屋根と同じように造形されている。だが、フンデルトヴァッサー・ハウスの屋根のラインに生き生きとした表情を与えているのはひな段式庭園である。この庭園へは下の階の住宅から、借家木が植えられたバルコニーと温室、室内庭園を通って直接入ることができる。(レスタニー前掲書p46、強調は引用者)
この建物の植物の大きさは、季節によって大いに異なる。レスタニー前掲書(p42)に掲載されている写真は右の写真よりも、ずっと緑の分量が大きい。屋上に覆い被さるほどである。
「借家木」はフンデルトヴァッサーの造語で、都市の住人は、植木鉢に入れた木を「借家人」として引き受けてもらいたい、というパフォーマンスをやったことがある(たとえばミラノで、1973年)。植木鉢の木をアパート屋内において育てている都市住人は、その木の家主になったのであり、「借家木」は“家賃”を酸素や緑の木陰などによって家主に“支払う”というのである。

つぎに、もっとも気になるところの、費用や仕事の手順や労働者の仕事ぶりについて見ていこう。フンデルトヴァッサー自身が次のように語っている。
私の建てるものには、一般に出回っている企画に合った建物よりも少し金がかかる。ウィーンのフンデルトヴァッサー・ハウス建設費用の当初の見積りは5千万シリングだったが、最終的には8千万シリングかかった。シュピッテラウ(ウィーン市の中央焼却施設)では見積りが8千万シリングだったが、終わってみれば1億シリングかかっていた。(中略)屋根に芝生を敷いた家を建てるためには、普通の家の場合よりもせいぜい5%か10%余分に費用がかかるだけである。しかし、生活の質に関してはどれほどの違いがでることか。 (レスタニー前掲書p58)
わたしは、ここにあげられている数字が適当なものなのか法外なものなのか、まったく判断がつかないが、すくなくともウィーン市議会が承認するようなものではあったのである。高めの費用であったにしても、なぜ、市議会が容認できる程度のものに収まったのか。・・・それは要するに、フンデルトヴァッサーは大量生産品を使用した、のである。
財政的枠を守るために、フンデルトヴァッサーはプレハブ工法と妥協する。部屋をそれぞれ違った造作にするために材料をすべて手作りにすることを断念し、そのかわりに様々な大量生産の材料を利用したのである。ドアの錠もノブも、ひとつとして同じものはない。すべて様々な専門業者の商品カタログから選ばれたものである。(レスタニー前掲書p47)

建築コストが天文学的に跳ね上がってしまう職人的手作りの要素を取り入れようとする代わりに、フンデルトヴァッサーは「既成の技術」(大量生産によって既に存在する材料――ドアノブ、窓、ドア、配管設備など)を注文して、それらを斬新な方法で組み合わせた。(中略)大量生産による統一性によって低コスト、高効率が保たれた一方で、また多様なぜいたくさも家のどこを取っても見られた。(ランド前掲書p184)
たとえば、窓については、このフンデルトヴァッサー・ハウスの窓の大きさ・形は全部で10種類あって、フンデルトヴァッサーはその配置を設計の段階で綿密に研究したという。その窓の位置・周辺の窓との関係・窓の周囲の壁色や装飾などについて十分な工夫が凝らされているために、あたかも千変万化、フンデルトヴァッサーのインスピレーションのおもむくままに窓がつけられたかのように見えるのだという。そして、窓のひとつひとつが個性的であるかのように見える。
ランドを読みながら気が付いたのだが、わたし自身“近代的ビルというものは、同じ大きさの窓がずらっと並んで、格子状(グリッド)に繰り返されているものだ”という先入主に支配されていた。そういう合理主義によって“わたしも魂を殺されていた”というわけだ。そういう先入主に妨げられてフンデルトヴァッサー・ハウスを見るとこれは「職人的手作り」の高価なものだ、という偏見に簡単に陥ってしまっていたのである。
つぎのフンデルトヴァッサー自身の言葉は味読する価値がある。
興味深いことに100年、いや、ほんのここ50年前まで、窓のサイズは階によって全て違っていました。各階の高さまでも違っていたのです。1階は高くて、次の階は低くなり、その上の階はもっと低く、最上階は一番低くできていました。当初は豊かな人々が1階にいて、1階には大きな窓と高い天井とがありました。一方最上階には使用人が住んでいたのです。こうした建物では上にあがっていくほど、貧しい人々が住んでいました。(中略)私には、建物の各階がなぜ同じ高さなのか分かりません。1つのグリッドがあり、それを20階、30階、100階と繰り返していく、こんなことは馬鹿げています。(ランド前掲書p185)
窓についてではないが、わたしは今回のヨーロッパ旅行で最初に滞在したリヨンで、次のような体験をしている。
リヨンで泊めていただいたのは、Sさんのアパート(日本で言えば、マンション)だった。ゆとりのある贅沢な間取りもさることながら、なによりも素晴らしかったのはどっしりした石造の建物の充実した存在感である。考えてみれば、これはわたしが幾晩かの寝起きを体験した初めての石造建築だと思う。

    


泊めていただいた部屋の隅を写したのが左写真である。大きな石タイルの目地と壁とが平行(垂直)になっていないところを見て欲しい(あまりよく分かりませんけど)。もちろん、建物に狂いが出ている、と言いたいのではない。Sさんにお聞きするとこの建物は少なくとも18世紀には出来ていたもので、飴色の美しい大理石の階段が無数の人の踏み跡ですり減っている(中写真 なお、この大理石の階段には多数の二枚貝やアンモナイトの化石が含まれている。7階建てで現在はエレベータがついている)。こういう大理石階段はリヨンのあちこちで見かけたが、それ自体がほとんど美術品である。
数百年前の石造建物に手を入れて住んでいる、それが当たり前なのである。石造であるので、建物表面をきれいにみがくと、新品同様になる。町の中を気を付けて歩いていると、手を入れている工事中の建物がいくらでも見つかる。近代的建築のように必ずしも正確に直角が取れていないことは幾らでもあることで、Sさんはこともなげに「古い建物はみんなそうなんですよ」と教えて下さった。その時にはそれで会話は終わってしまったが、わたしが更にお聞きすれば、階毎に天井の高さや窓の大きさが違うのは当たり前のことだ、とおっしゃっただろう。(右写真は階段を登る途中から見上げて撮ったもの。上の階ほど窓が低くなっている。)

フンデルトヴァッサーは「合理主義的建築」を否定したが、合理的であることを否定したわけではない。というより、むしろ合理主義的建築に押しひしがれている人間性を回復しようとして、そのためには最大限の合理性を追求している。つまり、“建築は楽しい幸福な空間の創造でなければならない”とする芸術家であることと、自然の一員である人間のあり方との両立する所を合理的に追及した。その中から、非常に早い段階でエコロジー的発想がむしろフンデルトヴァッサー独自に発想されていた(「借家木」など植物との共存だけでなく、「腐植土」便所の提唱など。「カビ宣言」のカビの発想)。こうした点でフンデルトヴァッサーは、ガウディの二番煎じではないし、20世紀後半の芸術のあり方にひとつの解答を示した天才であったというべきだろう。
次の引用は、ランドのものである。
フンデルトヴァッサーはガウディをも凌駕している。あらゆる部分で有用性のあるフンデルトヴァッサーの設計に比べると、ガウディには小さなディテールを拡大し、巨大で不自然な造形を作ることを好んだ。(p182)

ガウディの死以来、見て楽しくなるような外観というものが近代建築には欠けていた。フンデルトヴァッサーのコンクリートは原材料自体の中に薄い色がつけられているので、風雨に曝されてもその色は褪せることはない。装飾的なタイルのパッチワーク(部分的にメタリックシルバーが用いられている)は、かっては貴族の装飾と思われていたほどの豪華さで、ファッサードを一新したのである。(ランド前掲書p182 強調引用者)
フンデルトヴァッサーは正式の建築家ではないから、彼のプランは専門家によって強度計算などされた。(それ以前に、彼の計画に対して強い反対が唱えられたのは建築家たちからだったという)。

工事が実際に始まり、レンガ職人やタイル職人の段階になるとフンデルトヴァッサーは大まかなプランを示すだけで、ほとんどを職人たちの裁量にまかせたという。「私は作業員に対して全般的な提案をするにだけにとどめた」とフンデルトヴァッサーは語っている(レスタニーp47)。プレハブ工法などの機械的な反復作業ではない創造的な造形をともなう作業に職人たちは誇りを持って取り組んだ。
建設現場での仕事は素晴らしかった。作業に従事した人々は、自分たちがグリッド・システムとプレハブ工法の奴隷ではないことをはっきりと自覚していた。レンガ積み工もタイル敷き工もそれぞれの工程において自分でイニシアティブをとり、創造的な仕事をした。労働の尊厳は、労働組合の抗議行動ではなく、創造力の発揮によって達成された。(レスタニー前掲書p47)
右写真はレスタニー前掲書p46からであるが、そのキャプションは「レンガ積み工が初めて世間の注目を浴びた。ウィーンのフンデルトヴァッサー・ハウスの建築現場でのレンガ積み工とフンデルトヴァッサー。創造的自由が名人である彼ら職人に心の誇りを与え、建築に奇跡をもたらした。」となっている。このことは、ウィーンの現場に限ったことではなく、フンデルトヴァッサーが建築家としてのキャリヤを積んでいく現場でなんども再現された。「例えばブルーマウの保養村建設など大規模なプロジェクトの建設現場で、作業員は作業そのものと一体感を感じていた。日曜日、作業員は家族を現場に連れてきて、仕事の成果をみせるのである」(レスタニー前掲書p47)

1985年9月8日にフンデルトヴァッサー・ハウスの一般公開が行われたが、7万人の行列が出来たという。入居には収入制限などがあるが、それでも6倍の倍率であった。ここに住み始めた人々のコミュニティやここで育つ子どもたちについての調査が行われているようだが(そういうフォローを行うこと自体、ウィーン市の役所のレベルの高さは凄い!)、いずれも肯定的な結果になっているようだ。ただ、唯一の欠点は「ウィーンのポストモダンのシンボルとなった建物の住民は、バスに乗って大量に押しよせてくる観光客に1年中苦しめられている」ことだ(レスタニーp47)。


〈7〉  フンデルトヴァッサーと日本

目次


最後に付録のつもりで、フンデルトヴァッサーと日本の関係で、わたしが知っていることを記しておく。

遠近法によって3次元世界を平面上に再現する技法を中心にして発展してきた近世の西欧美術が、日本の浮世絵版画とアフリカ美術に出会うことによって本質的に揺すぶられた。浮世絵版画が20世紀の西欧美術に与えた影響は、明確な線で区切られた色の面による絵画表現である。それ以来絵画は、外界の再現をめざすという制限を超えて、線や面や色の抽象的な美しさが追及されるようになった。
フンデルトヴァッサーは当然そのような20世紀美術の流れのなかに身を投じていたのだが、第2次大戦後のアメリカ美術のジャクソン・ポロックらの「オートマチスム」には同意せず、「超オートマチスム」を唱える。戦後社会の楽天的進歩を疑い、「進歩は退歩である」をスローガンとして、1950年代から早くも大量消費社会を否定しはじめている。下で見るように、「日本は、どのようにわたしたちがこれから暮らすべきかを、過去にすでに示している」と評価している。近代以前の日本のことである。

1961年の来日で、フンデルトヴァッサーは日本式旅館に宿泊し、浴衣と畳の生活にこだわっている。池和田侑子と結婚する。彼女はフンデルトヴァッサーの版画制作のための版画職人たちとのプロデュースをつとめ、離婚後もその関係は持続した。
既述のように、フンデルトヴァッサーは日本の版画技術をリトグラフやエッチングやシルクスクリーンなどの印画技術のひとつととらえていて、過去の日本に情緒的に惹かれるようなところはまったくなかった。エキゾティズムとは完璧に離れていた。それは、若い頃のアフリカ体験や、後のニュージーランドでのマオリ族などに対しても同じであって、対等な文化伝統として尊敬するという姿勢を動かしていない。



日本にある建築やモニュメント
TBSのモニュメントは、TBSから“忘れられている”らしいことを上のサイト「フンデルトヴァッサー・ワールド」が言及しています。わたしも同感です。
「キッズ・プラザ大阪」(財団法人・大阪市教育振興公社・キッズプラザ大阪)の公式サイトを覗いてみても、ほとんど何もわかりません。フンデルトヴァッサーのことが分からないのは仕方がないとしても、この「キッズプラザ大阪」なるものの理念が分からない。このサイトは“遊びに来る子供本位に作っている”かのように見えるが、実際は教育官僚の臭気紛々たるものだ(メールによる「お問い合わせ」の注意の冒頭に「内容によりましては、回答できないお問い合わせなどもございますので、ご了承願います」と書いている。こいつらは、役人としてもずいぶん程度が悪いなあ、と思う。「B級だと笑えるが、これじゃあC級だね。」といっておく、B級映画を愛好した大阪の故中島らも氏に敬意を表して)。ここに、どういう連中が天下りしているのか、知りたいものだ。
舞州のゴミ処理・下水処理の施設にフンデルトヴァッサーを使うことに関して、どのような事情(推進者)があったのか、わたしは目下なにも知らない。“臭いものに蓋”式になりがちのゴミ・下水関係施設に、逆転的発想を伝えられる一助になればいいと思う(若い学生さんのレポートをみてそう思う)。ただ、フンデルトヴァッサーに発注したはずの役所側の公式サイトが、ほとんど文字情報だけのお役所風を吹かせているのにはガッカリした。ちょっとサイトをふくらませて、(1)見学者の投稿ページ(ブログ)をつくり、(2)フンデルトヴァッサーの建物の写真を募集する、程度のことは簡単に出来ることなのに(見学者は非常に多いらしいから)。ウィーン市ほどのハイレベルは期待していないけれど、ここに見る日本のお役所気風は、あまりにもひどい。



最後に、フンデルトヴァッサーが日本について書いた、詩のような警句を読もう。



     日本美の発見    (フンデルトヴァッサー 1977)


日本はちいさなパラダイスである。

日本は、どのようにわたしたちがこれから暮らすべきかを、過去にすでに示している。

自分が想い描き、自分が必要なように、統御することも、かたちづくることもできる小さな場所のなかで幸せになり、満足するのだ。

歩いてゆき、見渡すことのできる場所ならば、パラダイスは手の届くところにある。

弾丸のような電車や飛行機に乗って、もうどこにも存在していない天国を探しに遠出をする必要はないのだ。

それはほんの片隅に存在する。

隣人を訪ね、その屋敷や庭園をみて、着物や芸術を愛でて、その音楽に耳を傾ける。ニューヨークやレニングラードの遠い美術館を訪ねたり、ミラノ・スカラ座やウィーン国立歌劇場にゆくよりも、ずっと豊かで、幸せな体験だ。

生きている空間を調和とロマン的気分でいっぱいに満たし、つつましやかに暮らしながら、床のうえにすわり、周囲の自然と身のまわりの事物の様子をながめる。

これは、わたしの教えにまさに適っている。

不毛な近代建築の窓から身を乗り出して、手の届くところはみなピンク色に塗りたくることができなければならないし、それが許されなければならない。―― そうすれば、遠くの人間にも、路上の人間にも、わかるのだ。ここに居るのは、大量生産された創造物ではなく、ひとりの創造的な人間であることが。

しかし、近代の日本は、この見事なバランスのとれたパラダイスを失ってしまった。

高層建築、釣合いのとれていない大きな部屋、椅子にすわることで大地との接触を失い、便利な高速道路によって庭園を破壊した。

しかし、北齋、広重などの浮世絵画家をみて、わたしは、日本の美につよく心を動かされた。

かれらの業績は多大であり、世界中がかれらの目で日本をみている。

あらゆる国と異なった、日本が日本であることの本質が、そこには、最小の部分にいたるまで明示されている。

アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった多くの新しい国は、日本がこうしてしっかりと手にしていた自分が自分であることの本質を、欠如していることで苦しんでいる。

しかしいまの日本は、この最も貴重な財産をますます捨て去ろうとしてる。

日本は、日本を失いつつある。

まるで、鳥が飛ぶことができなくなるのと同じように。



      フンデルトヴァッサー、ニュージーランド 1977年1月25日
この詩のような警句「日本美の発見」の上下においた横長の絵は、フンデルトヴァッサーのおそらくもっとも良く知られている絵画「バルカン半島をおおうイリーナ・ランド」(1969)をトリミングして2つに切ったもの。イリーナ・ランドはフンデルトヴァッサーが知りあった女優。



〈8〉  おわりに

目次
いろいろの偶然が重なって、ダルムシュタットの町を見る機会に恵まれ、マチルダの丘を見、フンデルトヴァッサー・ハウスを見ることができた。
しかし、事前の予習なしで行き、ぶっつけ本番でデジカメを振りまわしただけなので不十分な映像しかなく、まとめるのに苦労した。夕刻にいったので、展示館や結婚記念館などはすでに閉まっており、外側を見て回っただけで中を見学していない。その点でも、不十分な記述になってしまった。

フンデルトヴァッサーについて本気になって調べてみようという気になった。けれども、ここまではほんの一夜漬けで、駆け足で触れてみたという程度に終わっている。
フンデルトヴァッサーが主張している「腐植土便所」や、ビル屋上の植樹の一般論について、触れる余裕がなかった。つまり、エコロジストとしてのフンデルトヴァッサーについてちゃんと取り上げていない。
レスタニーの本の副題にもある「5枚の皮膚」という理念についても、触れなかった。1枚目は、肉体の皮膚。2枚目は衣服。3枚目は住居。4枚目は、社会環境。5枚目は、自然環境。

ダルムシュタットのウッド・スパイラルを作るのに建築家からの反論は科学的な合理性を求めるものであって、「地下水源がさしてないのに、ビル屋上に揚水して灌水するのは間違っていないか」というようなものであったらしい。「借家木」というが実際には室内で奇形的な育ち方をしてしまうだろう、というような批判であった。具体的な討論の経過は知らないが、最終的に市民は納得したのだという。
このような点についても興味を覚えるが、外国語文献が読めず、今回はあきらめた。

フンデルトヴァッサーはニュージーランドに公衆便所をつくっている。インターネットで調べると観光名所になっているらしい。とてもきれいな映像が幾つもアップされている。わたしは今回のヨーロッパ旅行での“公衆便所”特集を考えているので、この話題はそちらに回します。

                                      2005年 8月2日





文献  拙論で引用した書籍に限っている。正式名などではない場合もあるが、公立図書館の検索には充分であると思う。
nb.作者・編者作品名(出版社、出版年)
1.ピエール・レスタニーフンデルトヴァッサー副題:5枚の皮を持った画家王、タッシェン・ジャパン2002
2. ハリー・ランドフンデルトヴァッサータッシェン・ジャパン2002
3.中原祐介監修フンデルトヴァッサー新潮社1991
4.ヴァルター・コシャツキーフンデルトヴァッサー 全版画作品前川誠郎監修 岩波書店1988
5.小幡一世紀末のドイツ建築井上書院1987


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