フンデルトヴァッサー(ウィーン生まれの画家 Friedrich Hundertwasser 1928〜2001)を知っている方は、「フンデルトヴァッサー・ハウス」と言えば“ああ、ウィ−ンの市営住宅ね”と思われるだろうが、ここで言うのはそれではありません。ドイツのダルムシュタットに2000年に完成した市営住宅「Waldspirale ウッド・スパイラル 渦巻く森」のことです。
ダルムシュタットにはマチルダの丘に「芸術家村」(20世紀初頭)があり、わたしはマチルダの丘から歩いてフンデルトヴァッサー・ハウスまで行き、その両方をみることができました。その報告と付け足しです。
目次
〈1〉 フランクフルト郊外の住宅街
〈2〉 ダルムシュタット Darmstadt の芸術家村 Kuenstlerkolonie
〈3〉 マチルダの丘
〈4〉 フンデルトヴァッサー・ハウスへ
〈5〉 フンデルトヴァッサーのラディカリズム(根底主義)
〈6〉 ウィーンのフンデルトヴァッサー・ハウス
〈7〉 フンデルトヴァッサーと日本
〈8〉 おわりに,文献
完成した大公館は、ゲレンデの頂上に貯水槽を背に住宅を見下ろすように、ほぼ南向きに横に長く(幅55m)建っていた。玄関を中心にしたシンメトリーなファッサードでは、シンプルで無表情な大壁面の近づきがたい閉鎖性と静寂が、オメガー曲線を形どった玄関の装飾過多がもたらす表情豊かな生命力と、見事な対比を見せた。(中略)玄関を押しつぶそうと計る無装飾な壁面の無言の重圧に対し、そうはさせまいと生き生きとした装飾で立ち向かうオメガー曲線の中。そしてこの装飾に負けまいと、強固な幾何学的形態をとる玄関ドア。この三者の対比と調和は、両側に従えた巨大な石彫「力(男)」と「美(女)」(ハビッヒ作)、一対の「勝利の女神」像(ボッセルト作)、そしてオメガー曲線に囲まれたバールの次のような言葉によって、より強調され確実なものになり、建物全体に「祝福」と「平和」をもたらすのだった。(前掲書p104)この引用に頻出する「オメガー曲線」というのは建築史の方では市民権のある語のようだが、わたしは初めて知った。「Ω オメガ」の形の曲線ということなのだろう。トンネル型の形状である。上で紹介したオルブリッヒ設計の住宅の玄関にもこの曲線が印象的に使われていた。一対の「勝利の女神」像(ボッセルト作)というのは不明。上の右写真は、左写真の中央部分のトリミングだが、金色の格子状ドアの上の左右一対の黒い像が「勝利の女神」像ではないか。月桂樹の輪を掲げているように見える。わたしはこのとき、このドアまで行ったのだが、何の知識もなくよく見もせずに戻ってきた。(上の左写真の人物はわたしで、わたしも入れて巨大像を写してくれと女房に頼んだショット。でも、上の女神(たぶん)は男の首の上に足をおいているらしく見えるのもかなり異様である)「芸術家は、かって存在しなかった、そしていつかは存在するだろう、おのが世界を表現する。」
ヘットガーは、その彫刻に動きがなく、しばしば東洋的な雰囲気を持っていた。彼は最初ロダンからの影響を強く受けていたが、P.ベッカー=モダーソンとマイヨールに出会い、作風を大きく変えた。そのことについてロダンは、次のように語った。こういうロダンの言葉があるのだが、残念ながら、彫刻としては凡庸な作品であるとわたしは思った。このような石彫の作品が多数並んでいて、いくらデジカメとはいえ写すのが嫌になるほどだった。
「ヘットガーは、わたしが探していた道を発見した。もし私が年老いていなかったなら、この道を進んだだろう。それはモニュメンタルな彫刻の道であり、唯一正しい道である。」(p152)
フンデルトヴァッサーは1952年の時点で既に、北アフリカへの2度目の、決定的な意味を持った旅行を経験したあとだった。彼は北アフリカで新しい世界を体験し、受容した。そこの人間の生活、住まい、かれらの自然な態度、独自の美しさが、この時以来彼の世界観の根本要素となった。後に彼の主要なイメージのひとつとなる、家に木を生やすという考えも、ここで初めて登場した。(コシャツキー前掲書p15)なお、この本の監修者の前川誠郎の「跋文」によると、コシャッツキーはこの『フンデルトヴァッサー 全版画作品1951−1986』の編者としてはじめて日本に紹介された人で、ウィーンのアルベルティーナ版画素描美術館長を長く勤めた人。デューラー研究者として著名だそうである。
突然この風変わりな服装をした痩身の若い男が立ち上がり、ごく穏やかに、ほとんど小声の一本調子で宣言文を読み上げた様子は、決して忘れられない。彼はそれを「建築の合理主義に反対してカビを生やそう宣言」と名づけた。直線とグリッド(格子、平行移動)からできている機能的建築に「カビを生やそう」という爆弾宣言である。これが、1958年であることが重要である。いまだマルクス主義の生産力理論が華やかな時代であり、近代的合理主義や大量生産を否定する理論的立場は存在していなかったのである。
彼は奇妙な文章を朗読した。曰く、機能的な建築は、定規を用いた絵画同様、誤った行き方であることが判明した。そして我々は非実用的で、役に立たず、最終的には居住不可能な建築に向かって大股に近づきつつあった。「今日我々が、タシスム[絵具の偶然の“タッチ”によって描くという絵画手法]のオートマティズム全体が行き過ぎを犯した後で、超オートマティズムの奇跡を経験しているのと同様に、全く居住不可能な状態を克服して初めて、真の、自由な建築という新たな奇跡を経験することになろう。―― 借家に住む男は、窓から身をのり出して、両手が届く限りの壁の塗装を掻き落とす可能性を持たねばならず、また長い筆で、墜落せずに届く範囲で壁をバラ色に塗ってよいという許可を得ていなくてはならない。そうすれば遠くの通りからでも、そこに人間が住んでいることがわかり、これで彼は厩舎を割り当てられた小さな家畜のような隣人から、自分を区別することができる。―― コンパスや定規がほんの一瞬でも使われたり、また単に頭をかすめただけでも、そうして出来た近代建築は、どれも拒絶すべきである。―― 直線は罰当たりであり、不道徳である。直線は創造的線ではなく、複製を生産する線である。そこに住まうのは神とか人間精神というよりもむしろ、安楽を追い求める脳なしの蟻の大群である。」
こうした主張は皆非常に奇妙に聞こえたので、笑う者もいたが、次第に座は静まりかえり、やがてピンを落としても聞こえるような雰囲気になった。何かわけのわからぬ魅力が、この若者から発散していた。(中略)非常に挑発的な文章の影で問題とされているのは、人間の画一的な管理、つまり個人の生活と生活空間に不毛な機能性を押しつけ、それによって個性を持った人間である個人を次第に窒息させ生命を奪う、見せかけの向上のもとでの人間の尊厳の喪失に他ならず、これに対して社会状況を変革して、生きるに価する環境を作ることが訴えられた。
そしてフンデルトヴァッサーは次のように言葉を結んだ。「鶏や兎並に飼育箱を並べたような建物に押し込まれるのに反対して、人々が自ら革命を起こすときが来た。」今日、彼はさらに次のようにつけ加えている。「スラム街が居住不可能だと言っても、所謂機能的建築の居住不可能な状態よりはましである。スラムと呼ばれるところでは、肉体が駄目になるが、人間のために作られたと称する近代の機能的建築においては、死ぬのは魂なのだ。だから機能的建築の原理をこれ以上押し進めてはならず、スラム街の構造、即ち想像力に富んだ、自発的な、植物的な、有機的な、個性的で創造的な建築から出発しなくてはならない。」(コシャツキー前掲書p14 強調は引用者)
スラムと呼ばれるところでは、肉体が駄目になるが、人間のために作られたと称する近代の機能的建築においては、死ぬのは魂なのだ。これは、典型的なラジカリズム(根底主義)の言葉である。
生活が否応なしに巻き込まれていく機械的な都市の四角四面の合理性を、フンデルトヴァッサーは嫌悪したのだが、その発端は、オーストリアのバロック的享楽性、ユーゲントシュティル装飾の豊穣な曲線が作り出す印象に由来している。1950年代初期、クリムトとシーレに魅了されたフンデルトヴァッサーは、ペルシャの細密画、ジョットやウッチェルロの絵画、北齋の浮世絵、パウル・クレーやアンリ・ルソー(税官吏ルソー)に新鮮な刺激を見出した。こうした芸術家たちは、製図工が定規で引くような線ではない生き生きとした線に対する信頼を基礎としている。フンデルトヴァッサーは、定規でひかれた直線は最も基本的で有機的意味において不健康であると考える。(ランド前掲書p36)次は、フンデルトヴァッサー自身の発言である。(ランド『HUNDERTWASSER』には、ランドとフンデルトヴァッサーの対話の部分がかなりある。)
もしライオンにそっと忍び寄られたら、あるいはサメに食われそうだとしたら、もちろんそれは命にかかわる危険です。私達は何百年もの間、そうした危険と隣り合わせに生きてきました。直線は人間が造った危険なのです。何百万という線があっても、そのうちたった一つの線が致命的になり、それこそ定規で引かれた直線なのです。直線の危険は、例えばヘビがのたくるときの有機的な線の危険とは比較にならないほど大きいのです。直線は、人類にとっても生物にとっても、万物には完全に相容れないものなのです。(ランド前掲書p37)「直線」的な建築家としてフンデルトヴァッサーが目の敵にしたのは、オーストリアの建築家アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870-1933)である。ロースは「装飾は犯罪である」という1908年の論文「装飾と犯罪」での発言が有名。デコラティブな装飾部分をなくして、非常にスッキリした建物に仕上がっているロース・ハウス Loose house(ウィーン、1911)が知られている。
しかし彼(アドルフ・ロース)はそうせずに、直線を重視し、同質性を重視し、なめらかさを重視した。今や、われわれはなめらかさを手にしたのだ。しかし、すべてのものは、そのなめらかさゆえに滑っていく。神ですらそうだ。人間にふさわしくない線は、神のイメージとしてもふさわしいものではない。直線は悪魔の道具である。直線を使う者はみな、人類の滅亡に手を貸しているのだ。(なお、フンデルトヴァッサーの最初のヌード・パフォーマンスは1967年ミュンヘンで、「合理主義的建築に反対する」というもの)。
直線は人類を滅亡に導く
フンデルトヴァッサー・ハウスは垂直にのびる村である。それぞれ独特の色彩と窓の処理が施された個性的な1軒1軒の家が、パズルの一部として建物全体を構成している。居住者は本当に「アット・ホーム」な気分を味わう。表玄関は柱をめぐらしたホールになっている。丸天井に覆われたホールの中央には大きな円形の噴水がある。噴水の池の部分はレンガと不規則な形をした陶片でできている。この公共住宅は全部で50戸からなり、40m2が8戸、60m2が14戸、80m2が25戸、117m2が2戸、148m2が1戸、これですべてである。日本の「マンション」と比べてやや広いという程度である。むしろ、わたしがうらやましく感じたのは公共スペースである。「診療所、室内庭園、洗濯場、床の中央部が盛り上がったアドベンチャールーム、子ども用のプレイスペース、樹木に囲まれた公共のテラス、喫茶店、レストラン、商店など」(同p46)
廊下は建物内部の連絡通路となっており、でこぼこの床としっくいが波打つように塗られた壁によって生き生きした雰囲気があふれている。しっくいは上塗りが可能で、子どもも大人も自由に落書ができる。(レスタニー前掲書p46)
波打つようなフォルムの屋根のラインはガウディのカサ・ミラを思わせる。通りに続く階段の曲線も、屋根と同じように造形されている。だが、フンデルトヴァッサー・ハウスの屋根のラインに生き生きとした表情を与えているのはひな段式庭園である。この庭園へは下の階の住宅から、借家木が植えられたバルコニーと温室、室内庭園を通って直接入ることができる。(レスタニー前掲書p46、強調は引用者)この建物の植物の大きさは、季節によって大いに異なる。レスタニー前掲書(p42)に掲載されている写真は右の写真よりも、ずっと緑の分量が大きい。屋上に覆い被さるほどである。
私の建てるものには、一般に出回っている企画に合った建物よりも少し金がかかる。ウィーンのフンデルトヴァッサー・ハウス建設費用の当初の見積りは5千万シリングだったが、最終的には8千万シリングかかった。シュピッテラウ(ウィーン市の中央焼却施設)では見積りが8千万シリングだったが、終わってみれば1億シリングかかっていた。(中略)屋根に芝生を敷いた家を建てるためには、普通の家の場合よりもせいぜい5%か10%余分に費用がかかるだけである。しかし、生活の質に関してはどれほどの違いがでることか。 (レスタニー前掲書p58)わたしは、ここにあげられている数字が適当なものなのか法外なものなのか、まったく判断がつかないが、すくなくともウィーン市議会が承認するようなものではあったのである。高めの費用であったにしても、なぜ、市議会が容認できる程度のものに収まったのか。・・・それは要するに、フンデルトヴァッサーは大量生産品を使用した、のである。
財政的枠を守るために、フンデルトヴァッサーはプレハブ工法と妥協する。部屋をそれぞれ違った造作にするために材料をすべて手作りにすることを断念し、そのかわりに様々な大量生産の材料を利用したのである。ドアの錠もノブも、ひとつとして同じものはない。すべて様々な専門業者の商品カタログから選ばれたものである。(レスタニー前掲書p47)たとえば、窓については、このフンデルトヴァッサー・ハウスの窓の大きさ・形は全部で10種類あって、フンデルトヴァッサーはその配置を設計の段階で綿密に研究したという。その窓の位置・周辺の窓との関係・窓の周囲の壁色や装飾などについて十分な工夫が凝らされているために、あたかも千変万化、フンデルトヴァッサーのインスピレーションのおもむくままに窓がつけられたかのように見えるのだという。そして、窓のひとつひとつが個性的であるかのように見える。
建築コストが天文学的に跳ね上がってしまう職人的手作りの要素を取り入れようとする代わりに、フンデルトヴァッサーは「既成の技術」(大量生産によって既に存在する材料――ドアノブ、窓、ドア、配管設備など)を注文して、それらを斬新な方法で組み合わせた。(中略)大量生産による統一性によって低コスト、高効率が保たれた一方で、また多様なぜいたくさも家のどこを取っても見られた。(ランド前掲書p184)
興味深いことに100年、いや、ほんのここ50年前まで、窓のサイズは階によって全て違っていました。各階の高さまでも違っていたのです。1階は高くて、次の階は低くなり、その上の階はもっと低く、最上階は一番低くできていました。当初は豊かな人々が1階にいて、1階には大きな窓と高い天井とがありました。一方最上階には使用人が住んでいたのです。こうした建物では上にあがっていくほど、貧しい人々が住んでいました。(中略)私には、建物の各階がなぜ同じ高さなのか分かりません。1つのグリッドがあり、それを20階、30階、100階と繰り返していく、こんなことは馬鹿げています。(ランド前掲書p185)窓についてではないが、わたしは今回のヨーロッパ旅行で最初に滞在したリヨンで、次のような体験をしている。
フンデルトヴァッサーはガウディをも凌駕している。あらゆる部分で有用性のあるフンデルトヴァッサーの設計に比べると、ガウディには小さなディテールを拡大し、巨大で不自然な造形を作ることを好んだ。(p182)フンデルトヴァッサーは正式の建築家ではないから、彼のプランは専門家によって強度計算などされた。(それ以前に、彼の計画に対して強い反対が唱えられたのは建築家たちからだったという)。
ガウディの死以来、見て楽しくなるような外観というものが近代建築には欠けていた。フンデルトヴァッサーのコンクリートは原材料自体の中に薄い色がつけられているので、風雨に曝されてもその色は褪せることはない。装飾的なタイルのパッチワーク(部分的にメタリックシルバーが用いられている)は、かっては貴族の装飾と思われていたほどの豪華さで、ファッサードを一新したのである。(ランド前掲書p182 強調引用者)
建設現場での仕事は素晴らしかった。作業に従事した人々は、自分たちがグリッド・システムとプレハブ工法の奴隷ではないことをはっきりと自覚していた。レンガ積み工もタイル敷き工もそれぞれの工程において自分でイニシアティブをとり、創造的な仕事をした。労働の尊厳は、労働組合の抗議行動ではなく、創造力の発揮によって達成された。(レスタニー前掲書p47)右写真はレスタニー前掲書p46からであるが、そのキャプションは「レンガ積み工が初めて世間の注目を浴びた。ウィーンのフンデルトヴァッサー・ハウスの建築現場でのレンガ積み工とフンデルトヴァッサー。創造的自由が名人である彼ら職人に心の誇りを与え、建築に奇跡をもたらした。」となっている。このことは、ウィーンの現場に限ったことではなく、フンデルトヴァッサーが建築家としてのキャリヤを積んでいく現場でなんども再現された。「例えばブルーマウの保養村建設など大規模なプロジェクトの建設現場で、作業員は作業そのものと一体感を感じていた。日曜日、作業員は家族を現場に連れてきて、仕事の成果をみせるのである」(レスタニー前掲書p47)
21世紀カウントダウン時計
Designer :F.Hundertwasser
Copyright :Joram Harel Management & TBS,1992
20世紀美術の巨匠フンデルトヴァッサー(1928〜/美術家・建築家)
の作品。デジタル表示は2001年の1月1日までの残り日時分秒を逆算
表示する。アナログ時計は表示盤の東面に漢数字・西面にローマ数字
を配し、それぞれが日の射す国・日本、日の入る西洋を表現している。
循環する水の流れは時の流れと人生を表象し、また水と緑は地球環境
の象徴でもある。柱と柱の間の空間は、大小の生き物と人間の世代に
なぞらえている。この時計は現世の暗喩である。
日本美の発見 (フンデルトヴァッサー 1977)
日本はちいさなパラダイスである。
日本は、どのようにわたしたちがこれから暮らすべきかを、過去にすでに示している。
自分が想い描き、自分が必要なように、統御することも、かたちづくることもできる小さな場所のなかで幸せになり、満足するのだ。
歩いてゆき、見渡すことのできる場所ならば、パラダイスは手の届くところにある。
弾丸のような電車や飛行機に乗って、もうどこにも存在していない天国を探しに遠出をする必要はないのだ。
それはほんの片隅に存在する。
隣人を訪ね、その屋敷や庭園をみて、着物や芸術を愛でて、その音楽に耳を傾ける。ニューヨークやレニングラードの遠い美術館を訪ねたり、ミラノ・スカラ座やウィーン国立歌劇場にゆくよりも、ずっと豊かで、幸せな体験だ。
生きている空間を調和とロマン的気分でいっぱいに満たし、つつましやかに暮らしながら、床のうえにすわり、周囲の自然と身のまわりの事物の様子をながめる。
これは、わたしの教えにまさに適っている。
不毛な近代建築の窓から身を乗り出して、手の届くところはみなピンク色に塗りたくることができなければならないし、それが許されなければならない。―― そうすれば、遠くの人間にも、路上の人間にも、わかるのだ。ここに居るのは、大量生産された創造物ではなく、ひとりの創造的な人間であることが。
しかし、近代の日本は、この見事なバランスのとれたパラダイスを失ってしまった。
高層建築、釣合いのとれていない大きな部屋、椅子にすわることで大地との接触を失い、便利な高速道路によって庭園を破壊した。
しかし、北齋、広重などの浮世絵画家をみて、わたしは、日本の美につよく心を動かされた。
かれらの業績は多大であり、世界中がかれらの目で日本をみている。
あらゆる国と異なった、日本が日本であることの本質が、そこには、最小の部分にいたるまで明示されている。
アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった多くの新しい国は、日本がこうしてしっかりと手にしていた自分が自分であることの本質を、欠如していることで苦しんでいる。
しかしいまの日本は、この最も貴重な財産をますます捨て去ろうとしてる。
日本は、日本を失いつつある。
まるで、鳥が飛ぶことができなくなるのと同じように。
フンデルトヴァッサー、ニュージーランド 1977年1月25日
この詩のような警句「日本美の発見」の上下においた横長の絵は、フンデルトヴァッサーのおそらくもっとも良く知られている絵画「バルカン半島をおおうイリーナ・ランド」(1969)をトリミングして2つに切ったもの。イリーナ・ランドはフンデルトヴァッサーが知りあった女優。
いろいろの偶然が重なって、ダルムシュタットの町を見る機会に恵まれ、マチルダの丘を見、フンデルトヴァッサー・ハウスを見ることができた。
しかし、事前の予習なしで行き、ぶっつけ本番でデジカメを振りまわしただけなので不十分な映像しかなく、まとめるのに苦労した。夕刻にいったので、展示館や結婚記念館などはすでに閉まっており、外側を見て回っただけで中を見学していない。その点でも、不十分な記述になってしまった。
フンデルトヴァッサーについて本気になって調べてみようという気になった。けれども、ここまではほんの一夜漬けで、駆け足で触れてみたという程度に終わっている。
フンデルトヴァッサーが主張している「腐植土便所」や、ビル屋上の植樹の一般論について、触れる余裕がなかった。つまり、エコロジストとしてのフンデルトヴァッサーについてちゃんと取り上げていない。
レスタニーの本の副題にもある「5枚の皮膚」という理念についても、触れなかった。1枚目は、肉体の皮膚。2枚目は衣服。3枚目は住居。4枚目は、社会環境。5枚目は、自然環境。
ダルムシュタットのウッド・スパイラルを作るのに建築家からの反論は科学的な合理性を求めるものであって、「地下水源がさしてないのに、ビル屋上に揚水して灌水するのは間違っていないか」というようなものであったらしい。「借家木」というが実際には室内で奇形的な育ち方をしてしまうだろう、というような批判であった。具体的な討論の経過は知らないが、最終的に市民は納得したのだという。
このような点についても興味を覚えるが、外国語文献が読めず、今回はあきらめた。
フンデルトヴァッサーはニュージーランドに公衆便所をつくっている。インターネットで調べると観光名所になっているらしい。とてもきれいな映像が幾つもアップされている。わたしは今回のヨーロッパ旅行での“公衆便所”特集を考えているので、この話題はそちらに回します。
2005年 8月2日
nb. | 作者・編者 | 作品名 | (出版社、出版年) |
1. | ピエール・レスタニー | フンデルトヴァッサー | 副題:5枚の皮を持った画家王、タッシェン・ジャパン2002 |
2. | ハリー・ランド | フンデルトヴァッサー | タッシェン・ジャパン2002 |
3. | 中原祐介監修 | フンデルトヴァッサー | 新潮社1991 |
4. | ヴァルター・コシャツキー | フンデルトヴァッサー 全版画作品 | 前川誠郎監修 岩波書店1988 |
5. | 小幡一 | 世紀末のドイツ建築 | 井上書院1987 |