2005年の5,6月にかけて、フランスとドイツに3週間ほど滞在した。その際に、デジカメと双眼鏡を持っていった。鳥を中心に、目につく生物をかたっぱしから撮影するつもりであった。実際には、初めて目にするヨーロッパの街並みや人々、建物や川や林にも関心が広がり、不徹底なカメラメモになった。
「き坊の棲みか」のトップページに掲げた十余枚の写真をまず手がかりにして、書いてみた。
自分が見たことがある生物や土地について調べるのは、とても楽しいものだ。わたしはフランスには火山が多いことについて小山真人『ヨーロッパ火山紀行』に蒙を開かれた。思いがけずハイイロガンを身近に見る体験が出来て、コンラート・ローレンツ『ハイイロガンの動物行動学』を改めて読んでみて、ローレンツがいかに豊かな文化基盤に足を下ろしていたのかをよく感じることが出来た。
植物について、ほとんど話題に出来なかったのは残念なのだが、ヨーロッパの植物についての知識がほとんどないこと、また、それの検索方法も知らないことなどが理由である。マロニエ・ジギタリスなどを扱ったのみである。
デジカメについての技術的な反省も多い。数週間の旅行の場合のデジカメ利用には、携帯型の大容量メモリー(フォト・ストレージ)が必須である。そういう点について付論で述べる。
目次
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強度の最も弱い逃避行動は、安全確認である。ガンは垂直に高く首を伸ばし、嘴をしっかり水平に保つ。安全確認だけのこの姿勢では、視線が及ぶ限り最も遠くの点にあり、嘴の先端などではない。(p178)これよりももっと「強度」の強い「逃避行動」として「誇示的安全確認」という姿勢が第7章で紹介されている(p314)が、わたしはそれは見ていない。
ガンの幼鳥は約6週間で翼の羽毛が生え始めるとともに、羽ばたきながら前へ走って最初の飛行練習を始める。ガンの幼鳥がその際、翼をすばやく持ち上げるのを容易に見てとることができる。ほぼ同じ時期に親鳥は大きな羽の換羽を終える。親鳥と幼鳥は翼の羽毛が完全な長さに達する前に飛行が出来るようになる。親鳥が最初比較的おぼつかなげに飛ぶということは、そのため幼鳥に飛行の前段階においてあまりにむずかしい飛行技術を要求できないという利点がある。(ローレンツ前掲書p70)おそらく、わたしが見ているこのハイイロガンたちは「飛びたがらない」時期のものなのである。だが、バラ園のベンチに座っているわたしの背後で十数羽のハイイロガンの群れが一斉に飛び立ち、ちょうど通りすぎようとしていたローラースケーターが避けようとして危うく倒れそうになったのを見ている。つまり、彼らは間違いなく飛ぶことはできるのである。
あらかじめ観察することもなしに、定量化を指向する盲目的な実験は、自然科学者は自然に問いかけるあらゆる問題を知っているという前提に基づいたあやまった仮定をとっているのである。高等動物の社会的行動様式の基盤にある規則性に気づくためには理論的な関心と忍耐だけでは十分ではない。それは、われわれアマチュアやディレッタントが仕事をする際に感じる、観察する対象を喜びの目で見る人だけができるのである。(ローレンツ前掲書p22)わたしたち日本人は、江戸時代の膨大な数のアマチュア著述家の作品を持っている。その、文化伝統はけしてどこにも劣るものではない。むしろ問題なのは、明治以降の欧米文明を手本にしはじめてからの日本である。
ドイツ全土は本来森林に覆われていた。標高1000m前後まではブナ,オークなどの落葉広葉樹,より高所ではモミ,ドイツトウヒなどであったが,15〜16世紀に開墾・伐採され,一時は広い範囲にわたって森林が失われた。現在の豊かなドイツの森林は,ほとんどすべてがその後に造成された人工林である。「ブナ,オークなどの落葉広葉樹」にマツなどが混じっている二次林をわたしは見ていたと言っていいだろう。フランクフルトの海抜が112mというから、わたしが歩いた森は海抜200〜250m程度だったのだろう(次の写真も参照)。
ミッテルゲビルゲを見たことがない[日本]人にその地形的特徴を説明するのは難しい。日本では、山は急な斜面と深い谷、明瞭な稜線からなるというのが一般的な理解だろう。たとえばミュンヘンからミッテルゲビルゲを横切ってハンブルク上空を通過する空の旅に出たとしよう。森と林の織りなす美しいパターンが目立ち、そこが山地であることを認識できない。標高1000mを超えるチューリンゲンの森やハルツ山地でさえ、特定することはかなり困難である。ハルツ山地を窓から認めようと意識を集中しても果たせない。そのうちに、いつのまにかハノーバーを過ぎて、エルベ川に沿うハンブルクが見えてくる。そんな存在である。またハルツ山地を見そこなった、なぜ見そこなったのかと考える、そういう「山」である。(「ドイツの地形」p298)この説明のミュンヘンからハンブルクの「空の旅」は、わたしがいたフランクフルト郊外から百kmほど東へズレたところでの話だが、わたしの実感とまったくピッタリである。この「山」の説明を読んだうえで前掲の写真で、フランクフルトの高層ビル群の向こうに「山地」が広がっているのをあらためて見てほしい。
バリスカン造山運動による山脈は、古生代末には削剥されて山脈の地形を失い、ペルム紀[古生代末]には準平原になっていたといわれる。そこはペルム紀最上部層および中生層[中生代の地層]におおわれた。このドイツ中部地域はアルプス変動帯に対してその前縁であり、アルプス変動の影響が及んでいた第三紀を通じて隆起し、多くの断層地塊に分断された。(「ドイツの地形」p299 [ ]は、き坊による補注)すっかり準平原化されていた(後にヨーロッパ大陸に相当する)所に、アルプス造山運動が始まる。この造山運動の「前縁」に位置するドイツ中部域はその影響を受け隆起し分断されたが、基本的にその準平原的な特徴は残ったのである。
バリスカン造山運動による山脈は、現在のアルプス山脈よりさらに大規模であったことが知られているから、アルプスの高山が削り取られて丘陵のようになった状態を想像してみれば、それがドイツの中山山地(ミッテルゲビルゲ)である。(同p300)つまり、わたしたちが現在見ているドイツ中部の準平原的な地形は、アルプス造山運動以前の古生代のバリスカン造山運動による大山脈がすっかり平準化され、さらにそのうえに中生代の層が被覆している状態なのである。