き坊の ノート 目次


いきもの の巻



2005年の5,6月にかけて、フランスとドイツに3週間ほど滞在した。その際に、デジカメと双眼鏡を持っていった。鳥を中心に、目につく生物をかたっぱしから撮影するつもりであった。実際には、初めて目にするヨーロッパの街並みや人々、建物や川や林にも関心が広がり、不徹底なカメラメモになった。

「き坊の棲みか」のトップページに掲げた十余枚の写真をまず手がかりにして、書いてみた。
自分が見たことがある生物や土地について調べるのは、とても楽しいものだ。わたしはフランスには火山が多いことについて小山真人『ヨーロッパ火山紀行』に蒙を開かれた。思いがけずハイイロガンを身近に見る体験が出来て、コンラート・ローレンツ『ハイイロガンの動物行動学』を改めて読んでみて、ローレンツがいかに豊かな文化基盤に足を下ろしていたのかをよく感じることが出来た。

植物について、ほとんど話題に出来なかったのは残念なのだが、ヨーロッパの植物についての知識がほとんどないこと、また、それの検索方法も知らないことなどが理由である。マロニエ・ジギタリスなどを扱ったのみである。

デジカメについての技術的な反省も多い。数週間の旅行の場合のデジカメ利用には、携帯型の大容量メモリー(フォト・ストレージ)が必須である。そういう点について付論で述べる。




目次



〈1〉  カンムリカイツブリ・テートドール公園
〈2〉  ハイイロガン
〈3〉  カササギ・ハシボソガラス・アマツバメ
〈4〉  イエスズメ・シジュウカラなど
〈5〉  クロウタドリ・ホシムクドリ
〈6〉  ホオジロハクセキレイ
〈7〉  ヨーロッパコマドリ、城跡の公園
〈8〉  モリバト
〈9〉  ドイツの平野の“森”
〈10〉  ヨーロッパヨシキリ・バン・アオサギ・ノスリ
〈11〉  クロジョウビタキ・キアオジ
〈12〉  マロニエ・クサノオウ・ジギタリス
〈13〉  エジプトガン
〈14〉  ネズミ・モグラ・シカ・リス
〈15〉  ナメクジ・ミミズ・トンボ・カタツムリ

     付論 デジカメ撮影について





〈1〉  カンムリカイツブリ・テートドール公園

目次




リヨン市のテート・ドール公園を紹介しておく。というのは、朝早く(といっても7時頃のことだが)この公園に入ったとき、あまりにも広々としていて緑深く、しかも人影が少ないことに驚いたからである。

公園正門は南西隅にあり、入ってすぐの地点から広い芝生を望むと〈下左〉のようである。森が深いことと、芝生がよく手入れしてあることがよく分かる。人影は少ない。右に伸びる道はジョッギングコースである。ローラースケートの人もよく見かけた。
〈下右〉は池を4分の1ほど回ってリヨン市街の方を振り返ったところである。遠景はクロワ・ルースの丘(地図参照)の上の建物である。ひろびろとした水面があり、対岸はバラ園のところである。そこで釣りをしている人がみえる。若い男だったが、その人が用意しているタモ網が余りにも大きなものだったので、例のメチャクチャ英語で「そんな大きな網がいるほどの大物が釣れるのか」と聞いたら、笑って「ダメだ」と言っていた。だが、ときにジャンプする大きな魚が見えたので、マス系統のかなりの奴がいるらしかった。


〈下左〉疎林の間を抜ける気持ちのいい道を、ローラースケーターが来る。その向こうには数名のジョッギングの人の姿がある。ローラースケートの人は、ジョギングとは別の道をかなりのスピードで何周もしているらしかった。わたしが毎朝見かけるリュックを背負った黒人のオジサンがいた。ジョギングに人気のあるコースはもっと狭い植物に囲まれた道で、公園の周縁をたどるコースである。
〈下右〉この公園で特記すべきひとつに、素晴らしいバラ園がある。ともかくすべてのバラが生き生きとしていて、こんなに生気を発揮しているバラ園を見たことがないと思わせるようなよく手入れの行きとどいたものだった(ドイツのフランクフルトの植物園にも後に行ったが、そこのバラ園がみすぼらしく見えるほどであった)。



さて、標題のカンムリカイツブリに戻ろう。
最初に掲げた説明コメントに書いたように、カンムリカイツブリという水鳥は、日本でよく見掛けるのは冬鳥としてである。わたしは東京西郊の都市水道水の貯水池である「多摩湖」でカンムリカイツブリやミコアイサを見つけて、興奮した記憶がある。わたしが探鳥用にはじめてSS( 望遠鏡)を買ったのはそのころだと思う(「そのころ」といっても読者に通じないのだが、自分自身がすでに「そのころ」という言い方でしか、SSを買った頃のことを思い出せなくなっている。わたしが多摩湖畔に転居したのが1973年のことだから、「そのころ」というのは1970年代の後半と考えておいてもらえばよい。「烏合の会」をはじめたのが1977年である)。
冬鳥としてやってくるカンムリカイツブリは、頭頂の飾り羽(徹底した刈り上げスタイル)はあるものの、長い首には飾り羽はなにもなく、白くほっそりしている。クチバシの長さもくわわって、カイツブリ類とは思えないほど首−頭が細長い。そして、よく潜水する。

  

  

    


上の4枚は、テード・ドール公園で写した繁殖行動中の一対のカンムリカイツブリである。撮影記録をみると5月19日朝7時45分(4枚とも)である。
向き合った雌雄が、首を左右に振り、ときには仰向く(上左)。首の回りに派手な赤茶色の飾りバネが豊かに取り巻いているのだが、首の回し方で、後ろから見た“おかっぱ頭”のようにもなる(上右)。(下左)は始めに掲げた写真と同一であるが、右の個体がこちら側を見ているので、クチバシが写っている。これらの3枚は頭上の冠が立っていて興奮していることがよく分かる。(下右)は冠毛が寝て、少し落ち着いて、顔を見合わせている。
この一対は、右の方が積極的で、しかも、襟首の飾り羽が大きく厚い。(上左)は左個体の襟首飾り羽がよく見えているが、(上右)と比較すると、その違いがよく分かる。左個体は、襟首の飾り羽が小さいか、もしくは、右個体ほどには大きく広げていない。
右個体の方が積極的に良く動き、襟首飾り羽も大きいらしいところをみると、あるいはこちらが雄♂なのかも知れない。


〈2〉  ハイイロガン

目次


育雛中のハイイロガンの群れの傍を歩けるというのには、まったく、驚いてしまった。日本ではかなり珍しい鳥だと思うが、わたしはハイイロガンを見るのも初めてだった。大きくて、堂々としていて、ことに朱色のクチバシがきれいだと思った。
育雛中の親鳥は自分の命を投げ出す構えでいるのだから、ともかく堂々としている。上の写真の右位置の首を高くもたげている成鳥は、おそらく、この育雛グループのリーダー格であろう。顔がりっぱですね。

コンラート・ローレンツには『ハイイロガンの動物行動学』(平凡社1996 原著1988)という最晩年の著書がある(ローレンツはオーストリア生まれ、1903〜1989。ノーベル賞受賞は1973)。この本は難解な部分を持つ専門書だが、写真が多数あって、楽しみに読むこともできる。
第6章は、ハイイロガンの行動様式の多様な記述であるが、そのなかの「逃避行動」という項目に、安全確認という「行動」がある。その説明写真「見張りをしているオス」(p181)が、上の“りっぱな顔の個体”にピッタリである。だから、たぶんこの個体も雄である。
強度の最も弱い逃避行動は、安全確認である。ガンは垂直に高く首を伸ばし、嘴をしっかり水平に保つ。安全確認だけのこの姿勢では、視線が及ぶ限り最も遠くの点にあり、嘴の先端などではない。(p178)
これよりももっと「強度」の強い「逃避行動」として「誇示的安全確認」という姿勢が第7章で紹介されている(p314)が、わたしはそれは見ていない。
〈右〉は上の写真のなかの“りっぱな顔の個体”をトリミングしたもの。

ついでに述べておくが、ハイイロガンは初夏の換羽の時期には「ガンは飛ぶことが少なくなり、飛びたがらなくなる」(p69)とローレンツは書いている。そして、親鳥が飛ぶのを苦手としている時期に重なって、雛たちが徐々に飛べるようになっていく。幼鳥の飛行の練習の時期と、親鳥の換羽が終わる時期とがうまく同期がとれているという。
ガンの幼鳥は約6週間で翼の羽毛が生え始めるとともに、羽ばたきながら前へ走って最初の飛行練習を始める。ガンの幼鳥がその際、翼をすばやく持ち上げるのを容易に見てとることができる。ほぼ同じ時期に親鳥は大きな羽の換羽を終える。親鳥と幼鳥は翼の羽毛が完全な長さに達する前に飛行が出来るようになる。親鳥が最初比較的おぼつかなげに飛ぶということは、そのため幼鳥に飛行の前段階においてあまりにむずかしい飛行技術を要求できないという利点がある。(ローレンツ前掲書p70)
おそらく、わたしが見ているこのハイイロガンたちは「飛びたがらない」時期のものなのである。だが、バラ園のベンチに座っているわたしの背後で十数羽のハイイロガンの群れが一斉に飛び立ち、ちょうど通りすぎようとしていたローラースケーターが避けようとして危うく倒れそうになったのを見ている。つまり、彼らは間違いなく飛ぶことはできるのである。

ローレンツのこの本でもっとも心に残るのは、序章で、6歳のときに親にねだってアヒルの孵えったばかりヒナを買ってもらいそれを育てはじめた体験を述べているところだ。同じときに隣家の9歳の女の子も同腹のアヒルのヒナを飼い始めるのだが、その女性は後年ローレンツの妻になる。ヒナの鳴き声の違いを鋭く聞き分けて、ローレンツ少年は“アヒルの親代わり”を熱心に努めるのである。その体験の中で深く自然の真理に触れる。最晩年のローレンツが、それこそが自分の学問の出発点であったということをはるかにふり返って慈しむように書いている。
ローレンツは、「アマチュア」や「ディレッタント」の精神こそ学問の出発点である、と述べている。
あらかじめ観察することもなしに、定量化を指向する盲目的な実験は、自然科学者は自然に問いかけるあらゆる問題を知っているという前提に基づいたあやまった仮定をとっているのである。高等動物の社会的行動様式の基盤にある規則性に気づくためには理論的な関心と忍耐だけでは十分ではない。それは、われわれアマチュアやディレッタントが仕事をする際に感じる、観察する対象を喜びの目で見る人だけができるのである。(ローレンツ前掲書p22)
わたしたち日本人は、江戸時代の膨大な数のアマチュア著述家の作品を持っている。その、文化伝統はけしてどこにも劣るものではない。むしろ問題なのは、明治以降の欧米文明を手本にしはじめてからの日本である。


次の写真は、雛たちを見ながら反対側へ回り込んで写した。右の、頭の位置が高い成鳥は、上でトリミングしたのと同じリーダー格の個体。


座り込んでいる成鳥や左手の餌でも探しているような成鳥たちがリラックスして、10羽程度の幼鳥たちを守っている。ご覧のように池をめぐる散策コースのすぐ傍に雛たちがいる。
わたしが見ている限り、犬を連れていなければ、人間には警戒心を示さなかった。大型犬と小型犬を1匹づつリード(引き綱)をつけて歩いてきた中年女性があった。犬たちも中年女性も毎朝のことのようで何事もなく通りすぎたのだが、ハイイロガンたちは“すわ!”という態勢で身構えていた。


落ち着いている育雛グループの様子。美しいですね。左の成鳥は、油断なくわたしを警戒の目でみている。このときわたしは5,6mの距離から写している。

この公園内には、ヒナの周辺に付いている成鳥のほかに、自由に行動している成鳥グループがあった。このグループは池を泳ぎ、舗装路を歩き、悠々とふるまっているように見えたが、体が大きいのでそう見えたのに過ぎないのかも知れない。彼らはヨーロッパ鵞鳥の先祖だというが、はじめから、人間に慣れやすい素質があったのかもしれない。


この画像に写っている16羽には、みな足輪(足管)が付いていない。公園の中であるが、自然繁殖しているのだろうと思った。


小雨の中、池を横切ってきたグループ。勢いのある感じが写真にでている(上とは別の日の撮影)。



正門の近くの広い芝生にいたハイイロガン。ここには2羽のハイイロガンがいたが、他のグループと独立に動いているのかどうか、よく分からない。ご覧のようにクチバシに小さな草の葉の片がついていて、おそらくこの芝生でも、柔らかい草を食べているのではなかろうか。
ただ、主食がこの程度で足りるはずはなく、どこで採餌しているのか、公園側が給餌しているのかなどは不明(少なくともわたしが公園に通った4,5日の間では、公園側が給餌をしている様子は気づかなかった。)。


〈3〉  カササギ,ハシボソガラス・ヨーロッパアマツバメ

目次


カササギはフランスでもドイツでもよく見かけた。
つぎに掲げるのは、いずれもリヨンで写したもので、左はローヌ川沿いのプラタナス並木で。右はテート・ドール公園で。

 


カラスでは、ハシボソガラス(Carrion Crow  Carrion は“腐肉”)を見かけたが、日本のものよりもやや小形の感じを受けた(図鑑では、日本のハシボソと同一の Corvus corone )。ハシブトガラスはいない(図鑑にない)。

 


いずれもテート・ドール公園の芝生で写したものだが、右のように、日本の都会でハシブトガラスがゴミあさりをしているような姿は比較的珍しい。また、町中ではほとんどカラスの姿を見かけなかった。したがって、カラスの鳴き声を意識することもなかった。こういうカラス事情は、ドイツでも同様だった。
わたしはコンラート・ローレンツの観察記録でおなじみのコクマルガラス(Jackdaw)を見たいものだと思っていたのだが、残念ながらお目にかかれなかった。

町中で鳥の声や姿で一番意識したのは、アマツバメ(ヨーロッパアマツバメ Swift)だった。〈右〉はリヨンの早朝の空である。アマツバメが多数群れをなして、鳴きながら飛んでいる。その鳴き声はとても勢いがあって集団の迫力のようなものを感じる。群れをなしてはるか高空まで駆け上り駈け下る。
通常のツバメもいるが、たいてい単独で、多くとも数羽で、低空をヒラヒラした羽ばたきで飛んでいるので、アマツバメとの区別は容易である。
イワツバメ(ニシイワツバメ House Martin)も見かけた。これは小さいし、腰が白いので区別できる。

アマツバメの写真の難しさは、今度、よくわかった。アマツバメの集団をねらってシャッターを切るのだが、実際にはまばらにしか写っていないのである。すこし遠い個体は、極端に小さく点にしか写らない。〈右〉でも主要な4羽のほかに、点になっているのがすくなくとも5,6羽は写っている。


〈4〉  イエスズメ・シジュウカラなど

目次


左は、イエスズメ♀であるが、テート・ドール公園で写したもの。プラタナスなどの大木が林立する下にベンチが幾つかあり、そこで休んでいると数mの距離まで近づいてきた。何枚かシャッターを押しているが、何とか写っているのはこれくらいで、シャッタースピードが落ちてしまうので日蔭の小鳥は撮影が大変難しい。(デジカメのAuto設定で撮影しているが、この写真のデータは 1/50sec,4.0Fである。小鳥を写すような場合は、スピード優先設定で、例えば1/125secに固定しておくのが有効だろうと思う。露光不足は後にPC上で補うのである。野外ではなかなかそこまで気が回らないことが多いが。


シジュウカラ。日本のシジュウカラと違って、腹部が黄色い。ただし、個体によって黄色の濃さがいろいろで、一様ではない。〈左〉はリヨンのテート・ドール公園で写したもので、はっきりと黄味がわかる。もっと黄味が強いものもいた。〈右〉はフランクフルト郊外で写したもので、黄味が薄く日本のシジュウカラとそう違いがない。
ただし、鳴き方は日本のもののような「ツツ、ピー」などではなく、複雑で早口に聞こえた。
 


〈左〉はアオガラ。シジュウカラより数は少ないように感じたが、けして珍しくはなかった。残念ながら、ピントが合っていない。小鳥類は動きが早く、デジカメが苦手とする。わたしの使っているコンパクトデジカメは自動ピント合わせだから、ピントを確かめずに相手の動きにあわせて、むやみにシャッターを切る。この場合は、だいぶ“後ピン”になった。5枚ほど撮っているが、どれもピントが合っていなかった。
〈右〉は不確かなのだがズグロムシクイ(?)としておく(Blackcap, Sylvia atricapilla)。ノドが黒くないのでカラ類ではない。Lars Jonsson『Birds of Europe』(Helm 1992)を見て、仮に決めた。暗いところで、これはピントがたまたま合ったということ。なんといっても写真はピントが合いカメラブレもないというのが第1だ。これも明るさやコントラストなどだいぶ加工しているが、それもキッチリ撮れていることが前提だ。2枚ともフランクフルト郊外。
 



〈5〉  クロウタドリ・ホシムクドリ

目次 >


「右の茶色っぽいのが♀」と書いたが、これは幼鳥だったかもしれない。つぎの4枚のうち、上の2枚が雌♀、下の2枚が雄♂である。
 


 
〈左〉はミミズを1匹くわえている。日本のムクドリがそうするように、クロウタドリも芝生でミミズを掘り出しているのをよく見かけた。〈右〉はミミズではない虫(ケラみたいなもの)を3,4匹一度にくわえている。営巣中なのだろう。


クロウタドリが好んでミミズ採りをしているような開けた芝生に、ホシムクドリがいる。〈左〉、〈中〉は同一個体で、ホシムクドリ雄♂でよいと思う。リヨンのテート・ドール公園で5月19日撮影。
〈右〉は翌日に撮った写真で、鮮明でないが、おそらくホシムクドリ雌♀でよいと思う。というのは、この写真と同時にホシムクドリ♂と思われる個体を撮影しているから。(手前に、トリミングで切れているのは、ハイイロガンの背中)
  



〈6〉  ホオジロハクセイキレイ

目次


〈左〉は林の中の道。〈右〉は上とおなじ牧場で。いずれもフランクフルト郊外です。
 



〈7〉  ヨーロッパコマドリ、城跡の公園

目次


フランクフルト郊外では、わたしは毎朝日の出のころにおきだして、城跡の公園を散策した。そこでヨーロッパコマドリが良く鳴いていた。〈左〉は朝日に照らされてさえずるヨーロッパコマドリ。〈右〉城跡の公園。噴水のある池にはマガモを中心とした多くの雑種らしいカモがいる。
城は11世紀のものという。この古い石造りの城を中心にして、中世の町が出来たのであろう。塔は10.1mあるそうだが、今はその下に舞台が作ってあって、毎夏のジャズ・フェスティバルは名物だそうだ。
 


わたしはこの城跡(Dreieichの城跡)がどの程度中世フランクを想像するのに典型的であるのか、まったく分からないのであるが、一つの手がかりとして提出しておきたい。
〈左〉は塔を上の写真とはちょうど反対側から見たものである。〈右〉は城跡の中にのこっている石造りの様子がうかがえる一角。よく手入れされた市民の公園として機能している。週の決まった曜日には、八百屋やパン屋や肉屋などの市がたち、ワゴン・カーの出店が集まってくる。
 


現在の町は、中世の城塞を内包して外側へ広がっているのだが、城跡につづく城壁がずっと伸びていて、中世の町の外郭が想像できる。現在では城壁近くの家は、城壁を自宅の壁の一部として使用している。〈左〉は大きな農家の入口であるが、城壁を構造物の一部に利用しているのが分かる。
このカメラ位置から後ろを振り向くと、リンゴ園があって、その先は深い“森”になっている。「城壁を出ると外は森林」という中世都市のモデルになっている。〈右〉はこの町のメインストリート。朝早いので人影は少ない。美しい木組み化粧を見せた落ち着いたたたずまいの町。写真の突き当たりに城門(上の塔とは別)が写っている。
 


このこぢんまりとした城壁に囲まれた町が、どれほど典型的であるのかは分からないが、ヨーロッパ中世のドイツ中部の町であったわけだ。今は城壁は住宅の間に飲み込まれ、自動車道路が発達し、みんなスーパーマーケットに自動車で買い物に行くのだが、そういう現代的インフラを取りのけると、そのままで中世の町の骨格が残っている。


〈8〉  モリバト

目次



〈9〉  ドイツの平野の森

目次


ドイツ滞在中、フランクフルト郊外の町 Dreieichにいたことは既述の通りである。わたしはそこに拠点を置いて、フランクフルトに何度も出かけてその街路・教会・美術館などを見て歩いた。また、近隣の町ではダームシュタート、マインツ、ゼーリゲンシュタートに行った。わたしはフランス滞在中もふくめ、ヨーロッパの町を見てその広場や建物や教会などに関心を持った。それらに関する体験の一部を「フンデルトヴァッサー・ハウスを見に行く」としてまとめたので、見ていただきたい。
ここでは、自然地理に目を向けて、フランクフルト郊外に拡がる“森”について、その印象や、後で学習したことを述べておきたい。

わたしはフランクフルト郊外の森にはじめて入っていって、まず強く印象されたのは(1)木が高いこと、(2)土地が平らであること、の二つだった。この二つの印象は最初から最後まで変わらなかった。写真を見てもらえば、一目瞭然だと思う。
  
(左)は、住宅地に接して墓地があり、そのさきに拡がっている森である。比較的浅い森と考えてもらうといいかもしれない。写っているのは背の高い落葉樹である。でも新緑がとても美しい。秋には黄葉(黄色の落葉)となって、厚く落葉を散り敷くのだそうである。落葉して明るい林となると思われる。この道のようにまっすぐな道がほぼ碁盤目状に森の中をおおっているのが普通で、不規則にうねっているような道にはであったことがない。自転車で走る人が多い。
(右)は、まったく別の場所で、森の縁から1時間以上歩いて中に入ったところ。落葉樹の間に松が混じっている、よく陽光の差しこんでいる箇所だった。林床に下草が少なく、比較的歩きやすそうだった。野茨などの棘のある植物はあまりなく、イラクサに気を付ければよい位だった。

サイクリングが盛んなのも、土地が平らであることと大いに関連があろう。森の中を直線路が延々と伸びていて、それぞれに通りの名前が付いている。地図と方位磁石を持って歩いていれば、不安はない。わたしはルーペと方位磁石がついている小物を常に持って歩いたが、森でも町中でも、地図と自分とを照合するのにしばしば利用した。
ただ、土地は完全に平らというわけではないのは当たり前で、少しずつの高低がある。次図(左)の見通しは1km以上あるが、一旦下ってまた向こうで上がっている。一番下がった辺りには湿り気があり、水たまりがあったり、小川がわずかに流れている場合もある。バード・ウォッチャーとしては、そういう所は狙い目である。当然水場に鳥が集まるから(画面の場合は、川筋はあったが水はなく、とぎれとぎれの水溜まりとなっていた。そこに、カラ類の群れがいた)。
  
森の低地に人工的な池や堤(つつみ)がもうけてあった。(右)は低湿地を堤でふさいで貯水池にしたらしかった。画面中水面にかぶさっている右の森は実は小さな島で、貯水池の全体は数百mの細長いものだった。マガモが子連れで池を横断していた。カエルが時に思いがけない大声で合唱するのが面白かった。正午近いこの写真の時間帯にである。別の貯水池では、低湿地をおそらく巨大なショベルカーで強引に掘り下げて長方形の池を作ったらしい形跡が残っていた。
この辺りの森林の歴史的変遷を知りたい。すなわち、このあたりの原生林はどういう状態であり、いま見ているのは2次林なのかどうか。直線の道路網を“森”の中につけ、貯水池をつくったのはいつ頃のことなのか。意外に新しいことなのではないか。そして、この森と町の間には、ひろびろとした畑や牧場やゴルフ場が広がっている。森の周縁部にはテニスコートやプールをもったスポーツ施設があったり、芝の整備も完璧なサッカー場があったりした。

日本の山しか知らないわたしは、ドイツの平地の“森”に入ってみて、いろいろ驚くことがあった。上で述べていることの中に含まれることでもあるが日本の山で当たり前の、(3)谷川がない ことも強く印象づけられた。谷川の瀬音とか谷を吹き上げる風とかに無縁の静寂の森である。
もう一つは(4)岩がない ということ。森の中に黒い大きな塊があると、それは皆、根株ごと倒れた木の根だった。森の中に直線道路を易々とつけることができるのも、谷がなく、岩がないことと深くかかわっていよう。
バード・ウォッチャーとしては、鳥がとても多いこと、しかし樹木が高いので森の中で鳥の姿をとらえるのは仲々難しいことをすぐ感じた。この地の鳥を熟知していないことがその理由の大きな部分を占めるが。鳴き声が近くからしていても、その鳥の姿は容易には見つけられない。まして、写真に写すのは困難である。
わたしは昆虫も植物もまるで無知なのだが、この“森”が日本の山などと比べて種類数が少なく、断然平板な環境であることは、やはりすぐに感じた。それは「つまらない」ということではない。どの生物についても個体数はとても多く、保護が行きとどいていて観察者の周辺に出現し、楽しませてくれる。それは哺乳類を見つけたときに強く感動させられる。わたしは今回の旅行でシカとネズミを写真に撮ることができたが、いずれも、印象深いタイミングとして記憶されている。

まず、小山真人『ヨーロッパ火山紀行』の総論を読み、フランスとドイツの所を読んだ。フランスの火山について実際自分が歩いたところのことが出ていたので興味深く読んだ。いい本なのだが、“この本は観光案内がわに重心を置きすぎている”と思った。小山真人さんは従来の地学関係の本が専門的すぎてマニア以外には見向きもされないと反省の弁を述べた上で、意識的にそうしているのだと思う。だが、それが成功しているとわたしは思わなかった。どっちつかずになっている。
次に、平凡百科事典の「ドイツ」を参照したが、これが仲々良かった。更に、図書館に出かけて、貝塚爽平編『世界の地形』(東大出版会1997)のうち「ドイツの地形」を読んだ。これも、面白かった。

解答の簡単なものから。わたしは上でフランクフルト郊外の“森”について「このあたりの原生林はどういう状態であり、いま見ているのは2次林なのかどうか」と自問しているが、平凡百科事典につぎのような答があった。
ドイツ全土は本来森林に覆われていた。標高1000m前後まではブナ,オークなどの落葉広葉樹,より高所ではモミ,ドイツトウヒなどであったが,15〜16世紀に開墾・伐採され,一時は広い範囲にわたって森林が失われた。現在の豊かなドイツの森林は,ほとんどすべてがその後に造成された人工林である。
「ブナ,オークなどの落葉広葉樹」にマツなどが混じっている二次林をわたしは見ていたと言っていいだろう。フランクフルトの海抜が112mというから、わたしが歩いた森は海抜200〜250m程度だったのだろう(次の写真も参照)。



写真は、Aさんの家を出て30分ほど歩いて広い菜種畑の向こうにフランクフルトの高層ビル群が見えているところ。ほぼ真北の方角、直線距離で15km足らず。フランクフルトはマイン川の川岸にあるから、カメラの位置からずうっとフランクフルト市街へむけて、すなわちマイン川流域にむけて傾斜して下がっている。なお、マイン川は左(西)へ向かって流れ、40km程でマインツに達しそこでライン川に合流する。
数百mの高さがあるだろうテレビ塔や高層ビルがカメラ位置よりも高く見えるので、この菜種畑の海抜も推測される。“森”はカメラの右手に広がっており、次の写真はカメラを右に振って、広々として人影のないゴルフ場の向こうに森が始まっているのを写した。



これらの写真を見ているだけでも、ドイツ中部の地形が、マイン川のような大河に掘られた低地帯に区切られつつ、ゆるゆるとしたなだらかな“丘の連続”と言いたいようなものであることが分かるであろう。

わたしの“森”に関する感想は、どうやらそれほど見当違いではなく、ドイツ中部を地形的に特徴づける「ミッテルゲビルゲ Mittelgebirge」(中ぐらいの高さの山地)というものらしい。
ミッテルゲビルゲを見たことがない[日本]人にその地形的特徴を説明するのは難しい。日本では、山は急な斜面と深い谷、明瞭な稜線からなるというのが一般的な理解だろう。たとえばミュンヘンからミッテルゲビルゲを横切ってハンブルク上空を通過する空の旅に出たとしよう。森と林の織りなす美しいパターンが目立ち、そこが山地であることを認識できない。標高1000mを超えるチューリンゲンの森やハルツ山地でさえ、特定することはかなり困難である。ハルツ山地を窓から認めようと意識を集中しても果たせない。そのうちに、いつのまにかハノーバーを過ぎて、エルベ川に沿うハンブルクが見えてくる。そんな存在である。またハルツ山地を見そこなった、なぜ見そこなったのかと考える、そういう「山」である。(「ドイツの地形」p298)
この説明のミュンヘンからハンブルクの「空の旅」は、わたしがいたフランクフルト郊外から百kmほど東へズレたところでの話だが、わたしの実感とまったくピッタリである。この「山」の説明を読んだうえで前掲の写真で、フランクフルトの高層ビル群の向こうに「山地」が広がっているのをあらためて見てほしい。
この「ミッテルゲビルゲ」がなぜ広汎にできたのかがつぎに疑問となるが、それは、次回にまわします。

なお、インターネット上の地図検索はじつにすぐれており、たとえば、マイクロソフトの地図サービスで、Countryは「Germany」を選び、Cityは「Dreieich」を記入して、「Get Map」をクリックすると、求める地図がでます。縮尺を適当に調節すれば、前掲の2枚の写真をわたしがどの辺りで写したか、ほぼ見当がつきます。(フランクフルトがほぼ真北であること、Dreieich の北側にゴルフ場があることなど。ゴルフ場の南側の道を歩いています)(Dreieichの中心部で、縮尺を最小にすると博物館Museumの表示がありますが、そこは「城跡の公園」の中で、地図には先にヨーロッパコマドリの説明のとき掲げた噴水の池も出ています。Burg は「城」の意)

上の「ミッテルゲビルゲ」の話の続き
なぜ、ヨーロッパ中部に広汎に「ミッテルゲビルゲ」が広がったか、の説明を試みる。

ヨーロッパの山といえばまずヨーロッパアルプスを誰しも考えると思う。わたしもまったくその通りで、ヨーロッパを移動する飛行機の窓からアルプスの偉容が見えてきたときには興奮してしまった。フランクフルト−リヨン間の飛行は1時間15分の短時間なのだが、その間に、ルフトハンザのビールも飲まないといけないし、サンドイッチも食わないといけない(いずれもとても美味い)。さらに、デジカメをかかえて機内をあちこちするものだから、ほんの十人足らずしか乗っていなかった乗客は“東洋の田舎者はしょうがないナ”という憐憫の微笑で遇してくださった。恥ずかしいことです。

右写真は、リヨンからフランクフルトに北上する飛行機の右側に見えるモンブラン(4807m)。飛行機はレマン湖の縁をかすめるようにして飛ぶ。雲の峰が4千m程度、モンブランが5千m、飛行機が6,7千mの高度ということだろう。(撮影5/23)

このアルプスの造山運動は古生代末から中生代を経て新生代前半まで続いている。絶対年代でいうと2.8億〜3千万年前くらいである。つまり、この高山は2.5億年もかかった造山運動によって形成されたのである。この時期はヒマラヤ造山運動などと重なるわけだが、現在の地球にその造山運動の結果が残っている烈しい地表の変形現象である。ヒマラヤ造山運動は現在も引き続いていて、エベレストは毎年何pづつか高くなっているというのは本当である。

「ミッテルゲビルゲ」の形成は理解が難しいが、その形成は、このアルプス造山運動のなどははるか未来のことである古生代に起こったことなのである。すなわち、いまのヨーロッパアルプスなどまだ何もなかった古生代の半ばを考えてもらいたい。それは、今から4億年前ぐらいの昔である。
そのころまでに造山運動はすでに何度か繰りかえされていたのであるが、古生代の半ばに全地球的な規模のバリスカン Variscan造山運動 がはじまった。これは、アルプス造山運動よりもずっと烈しいものだったと考えられている(ヘルシニア造山運動と言われることもある)。これは古生代末(2.5億年前)まで続いた。そして、バリスカン造山運動によって形成されたであろう山脈などは、つぎのアルプス造山運動が始まる頃には風化の力によって準平原となっていた。
バリスカン造山運動による山脈は、古生代末には削剥されて山脈の地形を失い、ペルム紀[古生代末]には準平原になっていたといわれる。そこはペルム紀最上部層および中生層[中生代の地層]におおわれた。このドイツ中部地域はアルプス変動帯に対してその前縁であり、アルプス変動の影響が及んでいた第三紀を通じて隆起し、多くの断層地塊に分断された。(「ドイツの地形」p299 [ ]は、き坊による補注)
すっかり準平原化されていた(後にヨーロッパ大陸に相当する)所に、アルプス造山運動が始まる。この造山運動の「前縁」に位置するドイツ中部域はその影響を受け隆起し分断されたが、基本的にその準平原的な特徴は残ったのである。
すなわち、「ミッテルゲビルゲ」のうち、山脈の名残をもっている高みの山地の部分(ペルム紀最上部層)と、陥没した谷などの低地は中生代の地層によって覆われた。前者を「基盤山地 グルントゲビルゲ Grundgebirge」といい後者を「被覆山地 デックゲビルゲ Deckgebirge」という。
バリスカン造山運動による山脈は、現在のアルプス山脈よりさらに大規模であったことが知られているから、アルプスの高山が削り取られて丘陵のようになった状態を想像してみれば、それがドイツの中山山地(ミッテルゲビルゲ)である。(同p300)
つまり、わたしたちが現在見ているドイツ中部の準平原的な地形は、アルプス造山運動以前の古生代のバリスカン造山運動による大山脈がすっかり平準化され、さらにそのうえに中生代の層が被覆している状態なのである。

この写真は、上のモンブランの写真と同一の飛行機がフランクフルト空港に着陸する数分前の写真で(最終の着陸態勢に入っている)、前に掲げた菜種畑からみたフランクフルトの高層ビルの写真と位置関係が偶然にもほぼ同一であるので、興味深いので掲げる(2つの写真に写っているビルや塔の位置関係を詳細に調べると、2つがほぼおなじ方位で、北を向いて、撮影していることが分かる。)。



高層ビル群の手前にグリーンの帯が左右に伸びているがそれがマイン川である(左前景の緑の森のことではない)。遠景の「準平原的な山地」を見ていただきたい。また、フランクフルトは大都市であるが、緑を都市内部まで取り込んだ構造になっていることも見て欲しい。




〈10〉  ヨーロッパヨシキリ・バン・アオサギ・ノスリ

目次


〈左〉バン。リヨンのテート・ドール公園の池につないであったボートの上を歩いていた。バンは池や小川でよく見かけた。フランクフルト郊外でも。
〈右〉アオサギ。フランクフルト郊外の池にアオサギがいつもいる場所があった。
 


これは、ノスリだと思われる。日本の図鑑のノスリと比べると褐色が濃いのだが、先にも紹介した野鳥図鑑 Lars Jonsson『Birds of Europe』の絵とはピッタリ合っている。
4枚とも同一の個体で、牧場の杭の上にいたノスリが突然滑空しはじめ、ネズミらしい獲物をつかまえ別の杭の上でそれを食べはじめた。始めから終わりまで(右→左)で2分間経過している。(6月1日1時53分、フランクフルト郊外)
   



〈11〉  クロジョウビタキ・キアオジ

目次a>





〈12〉  マロニエ・クサノオウ・ジギタリス

目次
 

リヨンを歩き始めてすぐ気がついたのが、この花盛りの大木だった。こういう木があちこちにふんだんに見られるのである。大きい木なのだが、優しい風情のある花だ。わたしは「トチの花が咲いている」と思って写した。同行のSさんが“とんでもない!”というニュアンスで「これはマロニエよ」と教えて下さった。
今度、改めて調べてみるとこのマロニエは、ギリシャ北部から小アジアが原産で「セイヨウトチノキ(西洋栃木)」というもの。日本の栃の木に比べて花が全体にピンクがかっているように感じたが、違いはよく分からない。ようするに、マロニエとトチノキは良く似ているのである。


宗教都市リュピュイの「岩頭の教会」として名高いサン・ミッシェルを、マロニエの並木道から見る。この奇怪な岩塊は、浅海で出来た火山(水蒸気マグマ爆発)が後に浸食を受けて火道部分につまっていた溶岩だけが残ったものだという(小山真人『ヨーロッパ火山紀行』中公新書)。


〈左〉のクサノオウは、フランクフルト郊外の城跡の公園で写したものである。偶然のことながら、わたしが拙サイト「き坊の棲みか」のトップ・ページに自分の庭で写したクサノオウを掲げたのが5月11日である。その翌日からわたしはヨーロッパへ出発した。帰国するまで、わたしは自分のサイトを更新しなかったので6月初旬までそのまま自分の庭のクサノオウの写真が掲げられていたのである。

自分は「き坊の棲みか」のトップ・ページのことを意識していたので、ドイツでクサノオウを見たときには驚いた。まさか、自分の庭と同じ奴がフランクフルトにも生えているとは思わなかった。こいつは毒のある草だというから、広く世界に分布しているのだろうか。



ジギタリスは園芸種で知っていたが、野生で生えているのを見るのは初めてである。もちろん、強心剤としての効用も有名で、そういう知識はあった。フランクフル郊外の森の道で最初に目にした。清涼な小川が流れているところだったが、そういう水辺に限らず、道端に幾らでも生えていることを知った。色ももっと赤みのかかったのもあったが、この色(青紫)が一番普通のようだった。
 



〈13〉  エジプトガン・アカハシハジロ

目次



つぎの2枚の写真はテート・ドール公園の池で5月20日に同一の鴨のカップルを撮影したもので、時間間隔は1分ほど。上のほうが9時8分、下が9時9分。左からユルユルと泳いできて〈上〉、右手の岸から水面に張り出している樹木の枝の下に入って、こちらを向いたところ〈下〉の2枚。
だいぶ距離があったので、肉眼では細かい特徴は分からないが、わたしが強く印象をうけたのは、左個体のクチバシが赤いことだった。その赤さがとてもよく目立った。そして、頭がデカイと思った。右個体はおとなしい色合いで、地味な印象だった。カップルで行動していることは分かるので、左が雄♂、右が雌♀だろうなあと思いながらシャッターを切った。しかし、右個体の赤いクチバシと大きな頭が、あまりにも不釣り合いな印象だったので、そのときわたしは“異種カモ同士の雑種だろうな”と考えていた。



改めて写真の整理をしていて、上の2枚の写真を詳細に検討してみると、アカハシハジロの雌雄らしいことに気がついた。雄の赤いクチバシと大きな頭部はその通りだが、さらに、背中が茶色で腹部が白い。雌の頭の上半分が黒いベレー帽をして顔は白いこと。クチバシの先端部に黄色い帯状部分があることも説得的だ。
難点は、〈下〉の写真で雄(左個体)のノドが黒いことは分かるが、その下の胸部分が灰色に光っていて、黒い筋もあるように見える点である。〈上〉では、茶色の頭部の下は、黒くなっているが、胸は写っていない。これは水に濡れた胸部の反射によって灰色に光って写ったと考えることにした。
雄の上・下の写真を見ていると、〈上〉はまるでヒドリガモみたいに頭の頂上に黄色く輝く毛があり、顔は黒くなっている。自分で写した写真でないと、この上・下が本当に同一個体を写しているのか疑いが出そうにさえ思う。
手元の図鑑では高野伸二『フィールドガイド日本の野鳥』が記載していて「まれな冬鳥として、沖縄と本州で記録がある」としている。わたしは日本では見たことがなく、今回が初見。


〈14〉  ネズミ・モグラ・シカ・リス

目次


ヨーロッパに行く前にわたしは「ハリネズミ」にお目にかかりたい、できたら写真をとりたいと考えていた。というのは、フランクフルト郊外に住んでおられるAさんは庭をハリネズミが横切るのを見たことがあるという話を聞いていたからである。「庭にハリネズミが出没するというのは、いかにも異境の感じがするじゃないか」ぐらいのノリです。ハリネズミはアフリカとヨーロッパ、それに中央アジアにいる。ヨーロッパでは身近な小動物らしい。
残念ながら、わたしは今回の旅行ではハリネズミとは出合えなかった。実際に最初にみたのは、ちいさなモグラ(だと思う)でした。5月26日朝、フランクフルト郊外の住宅街をでて牧場にかかる舗装道路に転がっていた死体。15pほどだったと記憶する。


尖った口と、丈夫そうな足のヒラでモグラだろう思った。緻密な毛皮も。日本のモグラはよく知っているがあれよりもずっと小さく、しかも、チョコレート色だった。このモグラは白い腹を見せて転がっていたが(上の写真は、それをわたしが動かして背中を見たところ)、死因ははっきりしなかった。
ハリネズミもモグラ目だから、かなり近いところまで迫ったから、これでよしとしようと思っている。


野生の鹿に出合ってシャッターを切ることが出来たのは、今回は2度あった。目にしただけというがあと2回あった。〈左〉は5月29日、〈右〉は6月1日である。画質からわかるように、右はズームをいっぱいに引っぱって(12倍)写している。森の中の直線路のはるかかなた(50m?)にヒョッコリ姿をあらわした。角がみえるので雄である。こちらをジッとみて、数秒後には右手の薮にサラリと入っていった。
左は20m程度のところだったと思う。カメラぶれ少なく撮れたのはラッキーだった。この雌鹿は5,60m離れてから、森の下でこちらをしばらく見ていた。その数分間にわたしは粘って、かなりの枚数撮ったのだが、満足するものはなかった。

 

リスはあちこちの公園や林で見かけた。〈左〉はリヨンのテート・ドール公園。〈右〉はフランクフルトの植物園で。これらのリスが同種のものなのかどうか、不明です。
 

フランクフルトの植物園は規模が大きく、立派な設備を誇っている。なかでも熱帯植物園が有名で、立体幾何的な工夫をこらした温室は、大きく2つの分館にわかれ、その間を空中廊下がつないでいる。乾燥砂漠から熱帯雨林までさまざまな気候・環境を実現していた。


〈15〉  ナメクジ・ミミズ・トンボ・カタツムリ

目次


非脊椎動物を並べてみる。

フランスの中央山地の東南部。早朝の散歩で、牧場の間のアスファルト道路にミミズが無数に出ていた。夜半に雨がふり、この時も、霧が牧場の間の谷間を伝って流れていた。
わたしはイギリスのミミズについて、チャールズ・ダーウインの有名な『ミミズと土』(平凡ライブラリー)を読んだときから、どんな奴なのか見てみたかった。日本のミミズとはだいぶ習性が違うのである。写真はフランスのミミズだけど。20p程度で細め、桜色できれいだった(5/16撮影)。


〈左〉はフランクフルト郊外の「城跡」の池で写したイトトンボ。コバルト色のきれいなイトトンボが池の周辺の草地に群がっていた。ヨーロッパヨシキリを写したのと同一の場所。草をかきわけるようにして歩く小道が池の周囲を巡っているのだが、このイトトンボが沸き上がってくる。写真のような交尾の姿もいくらでも見かけた。(5/30撮影)
〈右〉同じときに、池の水草に産卵しているヤンマのようなトンボ。わたしはトンボについてはまったく素人で、“ヤンマみたいな大きい奴”ぐらいのことしか言えません。この池には水面の開けたところもあって、少年がひとりで釣りに来ていた。
 


フランクフルト郊外の森のなか。〈左〉馬糞の上にいた茶色のナメクジ。前に黒いナメクジを紹介したが、あれはフランス中央山地だった。大きさはあれとほぼ同じで、10pほど。ヒダヒダや、上半身の細かい点々や角も同じだ。
〈右〉は同じときに、森の中の道で、体を伸ばしているナメクジ。(5/26撮影)

 


フランクフルト郊外では、馬の牧場がひろがっていて、乗馬が盛んのようだった。女性がひとりで、もしくはふたり連れで乗馬し、森の中をゆったりと馬を歩かせているのによく出会った。乗馬クラブで小学生くらいの娘さんたちが乗馬の練習を受けているのもよく見かけた。乗馬の趣味は女性が多いようだった。
広いゴルフ場をみると「豊かなものだなあ」と思ったが、町のすぐ外に牧場があり、乗馬クラブがあり、馬の背に揺られて森の中を歩く婦人と出会うと、日本などとは隔絶したゼイタクな生活スタイルだなあと思った。森の中ですれ違う馬上の婦人たちは、道を避けて立ち止まっているわたしたちに、例の“アイコンタクト”で微笑を送ってくれる。多くの場合“モルゲン!”とか“ハロー!”とか言い交わす。それは、町ですれ違う際と同じである。
この人たちは心理的にゼイタクな生活を送っているのだなあ、と幾たびも思った。でも、日本人もついこの間までそういう心理的ゼイタクさを持っていたのだけれど。

男性がふたり御者台に乗っている4頭立ての馬車と舗装路ですれ違ったことがあったが、4頭の馬の圧倒的な大きさと存在感に驚いた。〈右〉写真では、あまり大きさが表現されていないが、道路に写った影を見てください。
つまり、こういうわけで、かなり頻繁に路上に馬糞を目にすることにもなったのである。

 
〈左〉上のナメクジと同じところで写した、マグソコガネ類。ファーブルの『昆虫記』の最初がフンコロガシから始まるので、本当はフンコロガシを見たかったのだが。ただし、ファーブルはフランス。
〈右〉はAさんの庭でみかけたきれいなカタツムリ。径3pほどで、黄色がクッキリしていた。右巻。






     付論 デジカメ撮影について

目次


デジカメを持って歩く数週間ほどの旅行の場合、どのような持ち物が必要か、わたしの例を述べておく。
これが参考になるのは、コンパクト・デジカメによる撮影を旅行の記録として重要視していて、しかも、できるだけ高品質の画像を多数(毎日数百枚)とろうとする場合である。なお今回はパソコンを持たない旅行でした。(わたしは毎日平均200枚撮っていた。画像の品質を落とせば、メモリー・カード1枚に数千枚収めることができるから、それで間に合わせるのも目的によっては合理的である。)

〈右〉が今回のヨーロッパ旅行に持って行ったデジカメ関連の装備のすべて。まず、カメラから初めて、左回りに、説明する。
(1):肝心のカメラについて
わたしの旅行は、知らない土地をできるだけ徒歩で歩き回って、スナップ写真を多数撮るつもりであるところから、コンパクト・デジカメ(値段・軽量・小型)を持って行くことは始めから決めていた。鳥も撮りたいし、草花を接写したい、というところから、ズーム能力・接写能力に着目して、DiMAGE Z3に決めた(実際にはこれは今年(2005)2月のカンボジア旅行前に買ったのだが)。
400万画素というのは、わたしはちょっと物足りないと思っている。鳥を撮る場合には、動いている樹上の対象をともかく何枚も撮っておいて、後でゆっくりとパソコン上で“ものになる奴”を探す。「トリミング」し、光量不足や過剰を「明るさ」や「コントラスト」を調節して、できるかぎり良い画像にしあげる。この作業のためには、できるだけ画素数が大きい方が有利である(わたしは、プリント・アウトすることはほとんど考慮していない)。旅行の後で、パソコン上で画像ソフト相手に行うこの作業は、なかなか楽しいものです。わたしが使っている画像ソフトはフリーのVIX。
SDカードは512Mbを使用している。画質を最も高品位にして(2272×1704,fineモード)1コマが約2Mbなので、約250枚撮れることになる。通常はこれで1日の撮影枚数として十分だが、場合によっては不足することもある。そういう場合のために、フォトストレージをリュックに入れて携帯している(後述)。

(2):カメラ用電池について
単三電池4本は2組用意し、かならず毎晩充電しておく。朝出かけるときに、両方持ってでる(1組はカメラに装着し、1組は予備として)。撮影枚数が200枚位で、電池不足の警告が出る(警告が出るまでの撮影枚数は、フラッシュを使うかどうかなど撮影の仕方、その充電式電池の使用回数、気温など、様々な要素によって違ってくる)。わたしは充電式電池以外にもう1組、いわゆる“高性能電池”をリュックの中に入れていた。まあ、これは“安心”のための保険のようなもの。前夜、飲み過ぎて充電するのを忘れてしまうことは、大いにあり得るでしょう!今回の旅行ではMAXELLのもの(4本で510円)を持っていきました。充電式より2倍以上持つ感じがする。

(3):フォトストレージ
わたしが使っているのは、バッファローの DirectStation というもので、20Gb。145gと軽量、サイズは64W×20H×98Doで充分小型。液晶画面があるがこれは画像を見るためのものではなく、簡単なコマンド表示用。つまり、このフォトストレージ(モバイルストレージという言い方もある)では、収容した画像を見ることはできない。(画像を見たり、音楽を聴くことができるというものなどが色々出ている。ネット上で探してください。わたしはファイル記録だけの最低の機能を求めた
これは、要するにパソコンとUSB接続できる外付けハードディスクの携帯型ということ(1.8inch HDDを使用している)。画像ファイルに限らず、一般にデータ待避用やデータ持ち運び用に気楽に使える。ただ、衝撃に強くはないだろうから、付属の袋(写真の黒い袋)に入れて携帯するように心がけている。
出先で、デジカメが“メモリー不足で撮影できません”と言ってきたら、ベンチなどに座って落ち着いてリュックから DirectStation を出し、カメラからメモリー・カードを抜いて DirectStation に差しこみ、読み込ませる。この操作は非常に簡単である。その後でカードをカメラに戻してファイルの全消去を行う。これによって、撮影可能枚数がリフレッシュされる(わたしの場合250枚ほどになる)。
この操作は、毎晩、就寝前にも行い、その後でこの フォトストレージと電池の充電を、翌朝まで行う。この作業を確実に毎晩行う必要がある。(なお、 DirectStation は過去の操作5回分だけは常に記憶していて操作時刻と読み込んだ容量を表示することができるので、朝になって二日酔いの頭で“夕べ、ちゃんと待避したかなあ?”と心配になったとき、助かる。時差も含めて時刻合わせをしておくこと

なお、わたしは今回の3週間ほどのヨーロッパ旅行で4000枚弱の写真を撮ったが、これで約8Gbである。20Gbのフォトストレージで十分であった。もっとも、デジタル1眼などへカメラそのものをグレードアップしていけば再度考える必要が出てくるだろうが。

(4):C型プラグ
ヨドバシカメラなどで、全世界の変換プラグを容易に買える。ヨーロッパはC型だそうなのでそれと、日本の3口プラグを持っていった。2個同時に充電する場合に対応するためである。(日本はアメリカと共にA型)


目次    き坊の ノート 目次


inserted by FC2 system