き坊の ノート 目次

木村肥佐生論


第1節興亜義塾・語学好き
第2節出発・「西北」という概念
第3節タール寺・パンチェン・ラマ
第4節ツァイダム盆地・風葬・日本批判・ラサへ
第5節自治政府・アヘン
第6節敗戦・カリンポンの町
第7節西川一三・ドクター・グラハムズ・ホームズ
第8節東チベット探査行・反政府活動
第9節帰国後・戦争/戦後責任
文献


(1) 興亜義塾・語学好き

木村肥佐生[きむらひさお]は、1922(大正11年)に長崎県佐世保市に生まれた。熊本のミッション系中学九州学院を卒業。そこで、英語をかなり身につける。中国語も学んだ。木村の外国語好きは彼の一生を考える際に、重要である。
海軍経理学校の入試を受験するが、不合格。若松海員養成所で2ヶ月養成を受けた後、国際汽船株式会社の汽船に水夫見習として乗り込む。マニラ・シンガポールで英語を試している。数ヶ月後、神戸で下船。小学校1年の時再婚した母が西宮にいたが、そこへ行って居候する(ずっと後のことだが、日本の敗戦をインドで知り、それまで「一度もホームシックにかかったことはなかった」と述懐しているが、その理由の一つに「両親の不幸な結婚」を上げている(『チベット偽装の10年』p206、この本は以下『偽装』と略す))。一時西宮の職業紹介所で働くが、「兵庫県報」に「官費興亜義塾生募集」の記事があったのを目にして、受験。応募者2名で2名とも合格となる。
一旦故郷に帰ったあと、下関から関釜連絡船で釜山。鉄道で朝鮮半島を抜け、北京を経て張家口へ行く。車中、わずかばかり学んだ自分の中国語を試している。1939(昭和14)年17歳のときである。綏遠(厚和 フフホト)の興亜義塾の第2期生となったのが翌40年4月。
蒙古善隣協会で訓練を受け、チャガントロガイ・ホラルという山中の寺に独り置かれ、モンゴル語を実地訓練される。「この人里離れた寺で過ごした1年間は、5年間教室で学ぶ以上の成果」があった、と木村は述懐している。少年僧や遊牧民の子供たちを相手にして、モンゴル語を学んでいくが、その中で木村は自分がモンゴル語学習に情熱を感じており、才能もあることを自覚していく。
いたずらな子供たちから反応を引き出すのに苦労はいらなかった。私のモンゴル語の発音が奇妙ならば、面とむかった笑いころげる。この親切な笑いのために、子供たちは私にとって貴重きわまる教師となっていた。大人たちは礼儀正しすぎて私の間違いを笑うことができなかったからだ。(『偽装』p22)

この猛トレーニングで、木村は半年後には「何を言われてもほとんどわかるようになっていた」という。
数時間の発音練習に加え私は1日に50から百の単語を暗記すべくつとめていた。まず単語を知り、次ぎにそれを覚えるのは1日がかりの仕事であった。・・・・・・こうした努力は十分に報われた。日々自分の周囲に新たな世界が生まれていったからだ。私の決意はゆらぐことがなかった。いったん発音[モンゴル語の発音システム]を習得してしまえば、新たに膨大な数の単語を覚える手間をのぞけば、さしたる困難に直面することはない。モンゴル語と日本語は文章の構造が非常に似通っており、これがモンゴル語がごく自然に口に出てくる要因のひとつとなった。(『偽装』p23)
木村自身が後年知ったと書いているが、現地の子供から言葉を学ぶという方法は、河口慧海が1897(明治30)年、インドのダージリンでチベット語を学ぶときに採用したのとまったく同じ方法であった。慧海は寄宿することになった家族とその子供から通俗チベット語を、仏典を読むための正規のチベット語をチベット語教師から並行して猛勉強している。慧海も「6,7ヶ月で一通りのことはまあチベット語でしゃべれるようになった」と書いている(『チベット旅行記(1)』p41)。
ついでに付記すると、慧海の『チベット旅行記』(1〜5)は、非常に読みやすい平易な文体で、内容もとてもとりつきやすい。明治の苦行僧の書物だから難しいだろうという先入主があると思うけれど(わたし自身がそうだった)、さにあらず。新聞に連載された口述筆記による原稿だから、講談本を楽しむような調子で読むことができる。なお、『チベット旅行記』について「土民」という“差別語”が使ってあったり、ネパール、チベットを未開の野蛮国と見下しているところがあるという批判をする向きがあるようだが、わたしはそれは的はずれだと思う。むしろ、天皇制と仏教とが共存している河口慧海の宗教者としての根底は問われていい、と感じた。

木村肥佐生が満州に渡った動機、また、1943(昭和18)年12月に「北西辺境」をめざして「潜行」の旅に出た(実際には途中で方向を転じてチベットへ向かうことになる)動機について簡単に触れておく。この動機を明らかにすることは、あるいは木村肥佐生論の中心テーマでもあると言えよう。したがって、小論の主題のひとつともなると考えられるので、今後何回かくり返して詮索することになると思う。
一般にこの当時(昭和十年代)の青年が「満州」をめざして大陸に渡ることが一種の流行でもあったといえるが、そこまで視野をひろげずに木村自身がどのように自分の動機を説明しているか、調べてみる。自分が属することになった「内蒙古善隣協会」について、彼はこう説明している。
ある意味で善隣協会は後の平和部隊やUSAIDのような米国の団体と比較することもできるだろう。会員の多くは私のように若く、多少ロマンチックで、少なくとも最初のうちは、信じられないほど純真で理想に燃えており、満州やモンゴルなどにたむろする普通の若い民間人とは大違いだった。この地にある青年の多くはできるだけ手っ取りばやく大金をこしらえ、その大部分を歓楽街につぎこむことに熱中していた。学校や病院を設置したのも、日本のイメージ改善[を目的とする]以外のなにものでもなかったが、協会に勤務するものの大半は地元の人々と深い絆を培い、結果として軍部と対立することになった。(『偽装』p17)
「結果として軍部と対立することになった」という意味深長な語句の背景は、まだここでは説明されていない。「鉄道ぞいに配置された善隣協会の学校の生徒は、中国人、中国系のイスラーム教徒、モンゴル人が大部分だったが、現地の人々に混じって働くはずの日本人青年もまたここで訓練を受けることになった」という。とすると、学校がいくつかあり、その生徒はさまざまな民族や異なる宗教・民俗をもった多様な現地人からなっていたことになる。そういう多様な現地人の間に混じって訓練を受ける「若く、多少ロマンチックで、少なくとも最初のうちは、信じられないほど純真で理想に燃えて」いた日本の青年たちが何を学んだか。「大東亜共栄圏」の“理想”を真正面から信じていた青年たち、木村はその典型のひとりと考えることができる。

西川一三は興亜義塾3期生で、木村とほとんど同じコースをとってラサまで行く人物であるが、『秘境西域八年の潜行』上巻のはじめで、次のように興亜義塾を説明している。
興亜義塾では1年間学科(蒙、支、露3ヶ国語、西域の地理、歴史、政治、経済)それに軍事訓練を受け、さらに1年間は日本人の住んでいない蒙古高原にひとりで放り出されて蒙古人と生活をともにし一蒙古人になり切る訓練を身を以て体験した。(『秘境西域8年の潜行』上巻p42、以後この書物は『秘境』と略記する。上・下・別の3巻の膨大なものである。)
西川は木村と東チベット調査の困難な旅を同道し、1950年に同じ船で帰国することになる。木村と対比して考えることによって、木村の理解も深まると思うので小論では今後、いくども取り上げることになると思う。(西川は山口県、1918(大正7)年生まれで、木村より4歳年長だが、福岡の修猷館中学を卒業後、満鉄に入社。1940年には大同の華北消費生計所長となっている。そこに惓きたらず、興亜義塾に入塾し直した。満鉄を退社して来るというだけでも、ただ者ではないことが分かる。義塾での学年は木村の1年後輩(『秘境』上巻p42))

なお、今西錦司や中尾佐助が善隣協会西北研究所に属したのは、この時期(1939年から)である。西北研究所は今西が所長で、張家口にできた。そこでの体験から今西は“遊牧論”が構想されたと「私の履歴書」で述べている。あまり知られていない資料だとおもうので、参照しておく。
蒙古善隣協会に西北研究所というのができるから、その所長になってくれというのである。・・・・・・今度の人選も森下正明・梅棹忠夫・中尾佐助(大阪府大教授)といった探検仲間に、あらたに藤枝晃(京大教授)・甲田和衛(阪大教授)・野村正良(名大教授)など現在の第一線教授をずらりと並べた堂々たる陣容だった。副所長にはいまは故人になられた石田英一郎さん(元東大教授)を迎えた。(中略)

この調査行の中から私の“遊牧論”が生まれてきた。それとともに、いままでのカゲロウの研究では絶対に視野にはいってこなかった動物社会における群れというものの存在を、蒙古人の放牧する家畜の群や蒙古高原を方向するカモシカの群を通して体験することができた。このことは私のその後の学問の展開と深いかかわりがないとはいえない。(中略)

もし戦争が長引くなら、西北方面に勢力を伸ばそうという考えがどこかにあったのであろう。わたしのいた研究所に西北研究所という名がついていたのもそのためであるかもしれない。西北はシルクロードに通じている。私も一度は行ってみたいところであるが、そこへ行く前に私はまずチベットへはいって、インド側からのアプローチが閉ざされたヒマラヤを、裏からのぞいてみたいというねらいがあった。(「私の履歴書」(1973)、「今西錦司全集」第十巻p459)
今西錦司は上の引用の後に、蒙彊学院の卒業生が2人「西北方面に派遣」されたまま行方不明になったことを承知していたこと、戦後になりそのうちのひとりの西川一三が『秘境』を出版したことを書き、「もっと読まれてもよい本である」と言っている。
(しかし、善隣協会の位置づけ、善隣協会と興亜学院の関係など不明なところが多い。より広く言えば、関東軍や日本軍部の大陸侵攻の戦略全体と「大東亜共栄圏」思想による善隣協会などとはどういう関連にあったのか。第5節で扱う興亜院などとの関連はどうか。日本の中国大陸への侵攻は、単に軍事的な侵攻だけでなく、満鉄などの大企業や三井三菱の大商社また西北研究所のような文化的組織から裏世界のアヘン密売にまで至る、全体的な構図が明らかにされる必要があると考える。 )

木村肥佐生は1942年夏にフフホトで徴兵検査を受ける。モンゴル人と同じく弁髪をはやしていたのを剃り検査を受けたが、身長が低く(1m50pほど)第1乙の判定で、「入営に及ばず」となる。木村は面接官がまっとうな人物で、木村自身の生活(実験農場で羊の養殖を手がけていた)を評価してくれたのではないか、と述べている。
私は面接官に少々ついていた。・・・・・・おそらく彼は鉄道ぞいにすむ日本人の若者の生活ぶりを目のあたりにして多少ショックを受けていたに違いない。多くは交易会社に勤務しており、政府の仕事をしているものは少数であった。そしてすくなからずの若者が快楽産業に関わっていた。つまり売春宿に女の子を斡旋し、ぽんびきをやっていたのである。

私の生活ぶりを知った面接官は感銘を受けたようだった。どうやらこの期間に面接した徴集兵の中で、みこみありそうな者は草原に住む私だけだったようで、面接官は私がまことに有益な仕事をしており、兵士になるより効果的に国に奉仕しているとの言葉をもらした。(『偽装』p45)
木村は正直に、年に1,2回は半年分の給与を詰めた財布をもって張家口の歓楽街に耽溺したことを述べている(これに関しては、第5節のアヘン問題のところで、再び扱う)。だが、それ以外のすべての時間を木村は実験農場での労働と、モンゴル語の研鑽にあてていたようである。その意味では徹底した「求道」的な生活と言ってもよいと思う。彼は草原の現地人の包[パオ]を訪問して、モンゴル語方言を学んでいる。 彼は語学の天才であったと言ってよいと思うが、異民族に交わるのに語学から入っていき、その異民族の文化の学習・習得の全体を、語学学習の延長上に位置づけて理解していくのである。その独特のユニークな方法を10代の末のモンゴル人との交わりの中で自ら開発している。
当然ながらこの期間にモンゴル人の生活習慣や民族的特性といったものも学び始めていた。会話だけでは飽き足らず、この新たな文化を身をもって体験したくなっていたからだ。ある意味では、これもまた高度な語学学習と言えた。言語が異なっているように、モンゴル人の立居振舞の一切が、床への座り方から、茶碗の持ち方、お茶のすすり方に至るまでのすべてが、日本人である私の身についたごく自然な所作とは、微妙にずれていたからである。Lの発音と同様、こうした些末な誤りとためらいが、私が外国人であることを暴露してしまうに違いなかった。(『偽装』p25)

さほど 遠くない外モンゴル避難民部落も新たな友人を作るのに適していた。日本人はこうした外モンゴルからの避難民に対してきわめてよくしてやっていた。彼らの故郷を侵略する計画をもっていた軍部は、彼らを協力者として用いるつもりだったのである。軍部はまたモンゴル人民共和国によって禁じられたモンゴルの最高位の活仏ジェプツンダンパ・ホトクトの転生者捜索計画に資金を提供していた。この地域で働いていたおり、私はよく生粋の外モンゴル方言を楽しむためにこうした部落に馬を走らせたものだ。(同p32)

ある日西モンゴルの果てからの巡礼者の一行が、中国北西部の聖地五台山巡礼の帰途この地を通りかかった。・・・・・・このころには私もモンゴル語の方言を聞き取れるようになっており、方言を習得するのが趣味になっていた。これほど離れた地からきた人々の言葉をききとれて私はうれしかった。モンゴル語は地方によってさまざまなバリエーションがあったが、お互いに理解可能であることを私は発見していた。(同p41)
「生粋の外モンゴル方言を楽しむ」といい「方言を習得するのが趣味」になっていたと述べていることに注意して欲しい。モンゴル語の学習が、広域に分布しているモンゴル方言の聞き分けを習得することに深まっており、学習というよりも楽しみ・趣味であるという。 彼は「モンゴル人の生活習慣や民族的特性」を学ぶことをも「高度な語学学習」と位置づけている。
上に登場する「モンゴルの最高位の活仏ジェプツンダンパ・ホトクトの転生者捜索」は、わたしが別稿で計画している「モンゴル・ノート」の主題のひとつである。

後にインドに出てからカリンポンでチベット語と英語の本格的学習を行うのだが、いずれもネイティブ・スピーカーに間違えられるほどの習熟を示す。チベット人留学生として日本に来たペマ・ギャルボが「木村肥佐生先生の思い出」のなかで次のように述べている。
ふだん先生は私達チベット人よりもきれいなチベット語でお話になりましたが、少し飲み過ぎたり、今回のように少し興奮すると、ペマがベマになったり、ダワ・サンボがダワ・ザンボになったりというように、少しモンゴルなまりのチベット語を話すのでした。(『偽装』p380)
この簡単な評だけでも、木村の語学修得能力が尋常なものではなかったことが分かると思う。木村肥佐生の人生において、語学学習を手がかりに異民族へ入っていくこの手法こそがもっともオリジナルなものであると言ってよい。


(2) 出発・「西北」という概念

1943(昭和18)年10月。21歳の木村肥佐生はモンゴル人巡礼ダワ・サンボとして、モンゴル人夫妻ダンザンハイロブ、ツェレンツォーとともに巡礼の旅に、内蒙古東スニット旗のザリン廟を出発した。その時点での目的地は、「西北行」とも「新疆ウイグル」ともいっている。
木村の「潜行」の旅には2つの意図があった。ひとつはモンゴル民族や「西北地方」へのあこがれともいうべき知的欲求である。もうひとつは戦時下の日本青年として「西北援蒋ルート」を探る諜報活動によって国家とつながる存在感を求めた、といっていいだろう。
前者から説明していく。木村が十代半ばで日本から満州へ向かったとき、「ロマンチックで、信じられないほど純真で理想に燃えていた」のは確かだろうが、その情熱は漠然としたものであったろう。それがモンゴル民族と出会って、具体化しそこに収束し、モンゴル人になりきる欲求が押さえがたくなってきた。彼は、モンゴル民族へ対する「いいしれぬ愛着」といっている。
蒙古人の友として、彼らと衣食住をともにして日を過ごすうちに、私は蒙古人とその遊牧生活にいいしれぬ愛着を感じるようになった。同時に、内蒙古滞在中に私は蒙古語の方言に興味を覚えた。内外蒙古の方言は別として、西部蒙古から来た巡礼ラマたちの珍しい方言にひかれたのが病みつきであった。(『潜行』p16)

まだはっきり知られていない西部蒙古族トルゴート族の息吹に接したい。何かしら私をとらえてはなさないラマの国をのぞいてみたいという私の希望は、日一日と強くなっていった。
年々多くの蒙古人がこの[青海省やラサへの]参詣に旅立つ。ある者は多くのラクダを連ね、ある者はただ一頭のロバを追い、ある者は着のみ着のまま一個の木椀をふところにして、ひょうひょうとその旅に上る。その旅は数年を要し、ある者はついに帰らない。・・・・・・若い私の夢と冒険心はかぎりなくふくらんでいった。(『潜行』p20)
ここに語られているのは「冒険」とか「探検」といわれるものの心情に近いのだろうと思う。ただ、未知の辺境を踏破するというような学術調査・スポーツ的探検などが持つ“権威”(学界なりスポーツ記録などの“権威”) を前提にした情熱ではなく、あくまで個人的に「いいしれぬ愛着」と言ってしまうような情熱である。それは“美的”とか“芸術的”と言った方が当たっているような情熱である。このことは今西錦司や中尾佐助などの知的エリートと違い、木村が中学卒であったことと関連していると思う。

「善隣協会の調査部長」であった後藤富男(元獨協大教授)が西川一三『秘境』に寄せた推薦文から。(なお、この本には「序文」として、7名の推薦文がついている。後藤以外は、佐藤長(京大教授)、井上靖(作家)、泉靖一(東大教授)、西堀栄三郎(南極観測隊長)、松源一(大阪外大教授)、石田英一郎(多摩美大学長))
義塾の青年たちは「土民軍」と呼ばれた。かれらは草原を天地としてラマ寺廟や遊牧 民の張幕に起居し、ほとんど張家口に出て来ない。彼らは真実心の底からモンゴル人を愛し、その言葉を語りその食物を口にしその衣服をまとう日常を送っていた。今から回想すると、この人々はきわめて単純であり、また滑稽なくらい狭量でもあったが、モンゴル人との友情は純粋なものであった。その蒙古びいきと一本気とは、往々にして「国策」と衝突し、張家口では田舎者扱いされることが屡々であった。わたしはこのことを特に言っておきたいと思う。(p28)
この後藤の推薦文は他のものに比べてかなり長く、満州の現場にいたものとして、戦後の時勢に迎合せずに率直に証言している。そして、その限りで、西川や木村の心情をよく説明していると思う。

後者の諜報活動に関連したもうひとつの意図について説明しよう。
辛亥革命(1911年)で清朝は崩壊したが、中華民国は孫文の手から北洋軍閥の袁世凱に移る(第2革命の敗北が13年7月)。袁の死没(16年)の後、いわゆる軍閥抗争時代にはいる。中華民国軍を握っていた蒋介石が頭角をあらわし、北伐(26年)を経て蒋介石は南京国民政府を立てる(27年)。日本軍の攻勢もあって、武漢から重慶(38年)へと内陸へ国民政府を移す。
日本の太平洋戦争開戦の詔勅(41年)の中に、
重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ・・・・・・米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亜ノ禍亂ヲ助長シ
とあるのが、その重慶政府である。
「米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ」と詔勅がいっているのがいわゆる援蒋ルートである。当時は援蒋ルートは3つあったとされる。
  1. ベトナムのハイフォンからの「仏印ルート」
  2. ラングーンから昆明に向う「ビルマルート」
  3. ソ連から新彊を経て入る「西北ルート」
このうち「仏印ルート」の遮断を理由のひとつとして、日本軍の北部仏印進駐が行われた(40年9月)のである。木村は『潜行』で次のように述べている。
蒙古をとりまいて黄河の南岸オルドスには八路軍がおり、五原後套地区の善覇丹[シャンパタン]には傳作義[ふさくぎ]のひいきる中央軍、寧夏省には馬鴻逵[ばこうき]の回教軍がいる。聞くところによると、馬鴻逵は日本が寧夏経営に乗り出す場合、彼の身分を保証してくれるならば日本側に協力してもよいともらしたそうである。傳作義は蒋介石に命ぜられてこの馬の監視役をしている。・・・・・・このような情勢のもとで、西北ルートを通じて援蒋物資がどんどん中国に送られてくる。日本政府もこの実態を知りたがっていると聞いたので、私はよいチャンスだと思って西北行を志願した。(p21)
「中公文庫版のためのあとがき」での木村の「西北ルート」の説明はかなり具体的である。今ではこういう方面の事実が忘れられつつあるので、引いておく。
(ビルマ方面からの援蒋ルートが日本軍により封じられ)アメリカ、イギリスは、ソ連の北極海に面した不凍港ムルマンスクに物資を陸揚げし、シベリア鉄道、トルクシブ鉄道を通じてそれをアルマアタの北方アヤグースに運び、そこからさらにトラックで、新疆、甘粛省を経由して重慶へ搬送していた。いわゆる西北公路である。日本空軍はその爆撃を計画したが飛行距離があまりに長く、結局一度も実行されなかった。一方、関東軍や北支方面軍を中心に、日本人、中国人、蒙古人の情報員が何人も派遣されたが、ほとんど消息不明となり、無事に帰ってきた話を私はついぞ聞かなかった。(『潜行』p282)
日本の「西北」への関心の根拠となる関東軍の直接の資料も、存在する。秦郁彦『日中戦争史』の「付録資料」を使わせてもらう。まず、関東軍参謀部「対内蒙施策要綱」は1935(昭和十)年7月25日の日付のある、長文である。その中に、「航空」があり次のような“気炎”をあげている(できるだけ読みやすい表記に改めた)。
(関東)軍は主として満州航空会社を指導し、西ソニット飛行場およ張家口飛行場を基礎とし、外蒙方面、百霊廟、綏遠、包頭、なしうれば新疆および青海方面に至る航空路を開拓し、外国経営欧亜連絡航空を排撃して、これに代わり対外蒙工作に資せんことを期す。
この「対内蒙施策要綱」に基づいて、関東軍参謀部は翌年1月には「対蒙(西北)施策要領」を作成している。その「第1 方針」の(一)は次のようなものである。
(関東)軍は帝国陸軍の情勢判断、対策に基づき、対ソ作戦準備のため、必要とする外蒙古の懐柔および反ソ分離気運の促進を図るとともに、・・・・・(満州国の基礎を固め、「徳王の独裁する内蒙古軍政府」を強化し、「その勢力を逐次支那西域地方に拡大し」)・・・・・これを根拠としてその勢力を綏遠に扶植し、ついで外蒙古および青海、新疆、西蔵などに拡大せんことを期す。
これらは“怪気炎にまかせた作文にすぎない”としてまともに扱わないのは誤りだろう。いやしくも関東軍参謀部の「施策要領」として決定しているものであり、日本軍の勢力を「外蒙古および青海、新疆、西蔵などに拡大せん」と意図していたことは否定できない。意図が存在し、木村も述べているように何人もの「情報員」を派遣するところまでは、着手していたのである。
「対蒙(西北)施策要領」では、「蒙古独立彊域内の民族は、日、蒙、漢、回、藏の5民族を包含するにいたるべきにより」と手回しのいいことを述べ、各民族に対する「人心収攬」のポイントを述べている。5民族に共通することとして「反共産主義を鼓吹し、宗教の尊重と各民族固有の信教の自由を認む」としているところは、注目に値する。朝鮮・台湾などはもとより、この後の軍事侵攻による占領地で行われた、天皇主義による思想統制を、少なくとも建前としては述べていないからである。
「回」(イスラム教徒)、「藏」(チベット人)についてのポイントを引用してみたい。
回教徒に対しては、満州国内回教徒および蒙古領域内の有力者を把握し、これを通じて、人心の収攬に努む。要すれば、内蒙内の漢民族地帯に、回教寺院を建設す。

西藏族に対しては、蒙古人中の有力ラマを通じて、帝国の実状ならびに帝国の対満蒙政策の本義を知らしむるとともに、反英、反支、反ソ、日満依存に導く。
中国や中央アジアのイスラム教徒についての観点を、多くの日本人はほとんど持っていなかったし、今も持っていないと思われるので、小林不二男『 日本イスラーム史 』という本を取り上げておく。この本の「序文」は藤枝晃が書いている。
(藤枝晃は、先に今西錦司の「私の履歴書」からの引用の中に出てきていた。西北研究所員であり後京大教授となる。江口圭一『日中アヘン戦争』p199 にも藤枝晃の名前が出てきており、「敦煌学の世界的権威」で、敗戦のとき天津に避難してきた日本人3〜5万人の半年分の生活費が、貨車1〜2輌のアヘンでまかなわれたという情報をのべているという。この「序文」はインターネット上イスラム教系のサイトに置いてある。そこには著者の小林不二男は親子二代のイスラム教徒である、など珍しい情報がある)
『 日本イスラーム史 』の中の「昭和14年」のところに、この前年ころから「内蒙地帯への門戸解放」がなされ、手軽に現地調査旅行ができるようになった、とある。
しかもこの内蒙地帯こそ、かのシルクロードを通じて東西トルキスタンの回教密住地帯へ接続し、さらに中央アジアの大草原ステップ地帯を横断し一路西進すればトルコのイスタンプールまで内陸つづきで到達する最短距離の起点に当たっている・・・(中略)・・・そして近い将来、新興ナチス・ドイツの西進と、日本の東進が地球の屋根パミール高原(葱嶺)あたりで握手もあながち不可能でない、という今から思えば淡い一場の空想さえ抱くようになったのもこの頃のことである。・・・(中略)・・・昭和14年頃から18年頃までイスラーム視察旅行といえば、まずどこよりも“内蒙地帯”と相場が決まっていたくらいであった。(前掲書p100)
「西北」は中国大陸の西北部の意味であるが、「西北角」という語も使われていてタクラマカン砂漠を越えた新疆ウイグル方面を指すのが、この当時の本来の使い方であった。従って、「西北行」は新疆ウイグル方面への踏査の意味である。
上に見たような関東軍−帝国陸軍の描いた青写真を前提にしてはじめて、木村や西川の「西北」へ向けて、ラマに擬した巡礼行が可能であったのである。


木村は1942年に西北行を志願したが、徴兵検査前だということで許可されなかった。翌年に再志願し、許可される(43年9月)。日本大使館調査室次長の次木一の指示は「道筋に配置してある特務員を介して報告書を送り、新疆ウイグルに着いたなら隠れスパイとして現地に潜み、情報を収集して日本軍の到着を待つ」というものだった(『偽装』p49)。1万円の準備金が支給された。次木の上司の安木偉久太は「1年で帰還してほしい」としたが、木村自身は出発できればよいと考えていて「1年では無理だ」と分かっていたが、黙っていたという。安木らも木村の生還を期待してはいなかったようだ。木村がダンザン夫妻と3人の巡礼として出発したのが43年10月末のこと。木村はモンゴル人ダワ・サンボで、チベットのラマ大学へ遊学するというふれこみである。

このときの木村肥佐生の心境を確認しておきたい。一口でいって、「解放感」に浸っていたようである。諜報者としての使命感に燃えていたというのではなく、モンゴル人になりきる喜びでいっぱいであった。
戦争から最も離れた地点にあって、こうしてラクダにうちまたがり出発をはたした私の心は、解放感にうかれていた。冬のこんな時期に旅に出るなんて愚かしいとツェレンツォーがぶつぶつ言っても、私のこの幸せな気分に水をさすことにはならなかった。これで自分が[実験農場で]作った羊が魔物なんかではないとモンゴル人に納得させる必要もなくなった。それよりうれしかったのはこれ以上彼らに我らが同国人を好きになるよう説得する必要がなくなったことだ。これからは私も一介のモンゴル人、それ以外の正体を知られることはない。(『偽装』p50)
「戦争から最も離れた地点」とはいいながら「敵国」へ潜入することには違いなく、日本人であるとの正体が割れれば拘束と烈しい拷問が待っており命はないものと覚悟する必要があった。一番身近なダンザン夫妻はダワ・サンボが日本人であることを知っているのであるから、身内から秘密が漏洩する可能性もあった。
「それよりうれしかったのはこれ以上彼らに我らが同国人[日本人]を好きになるよう説得する必要がなくなったことだ」と述べていることに注意したい。こういう述懐は珍しいものと思う。木村がモンゴル人になりきることに喜びを覚えていたのは、単なる異民族や異文化へのあこがれだけではなく、無意識のうちに、加害民族・日本人であることを拒否したいとする心理が働いていたとも考えられる。


(3) タール寺・パンチェン・ラマ

内蒙古のザリン廟を出発してから半年ほどした1944年2月に、ダワ・サンボー(木村)たち一行はクンブム寺(クムブム寺、タール寺)という大寺に到着する。この寺は青海省の省都・西寧の西方30kmほどのところにある。
青海省はイスラム教徒軍・馬歩芳(マ・ブゥ・ファン)が支配していた。名目的には馬歩芳の軍隊は蒋介石重慶政府の指揮下にあるわけだが、実際には相対的に独立しており、木村は馬歩芳政権の合理的で積極的な施政を高く評価している。
青海省東部の肥沃な谷を旅していく間、この地方が実によく治められ、平和が保たれていることに気づいた。森林の保全を呼びかける標識があちこちに見受けられ、苗木を植えるために派遣された一群の兵士の姿があった。・・・・・・青海省は、共産党の支配地域を除けば、阿片の栽培もその運搬も法で厳しく禁じられている数少ない地の1つであることを誇っていた。(『偽装』p90)
(ここはアヘン栽培に言及している珍しい個所でもある。アヘンについては第5節で述べる)
西川がタール寺に到着するのは木村より半年以上後の1944年10月のことである。西川は木村と同様、馬歩芳政権の植林と衛生管理の徹底の政策を評価しているが、タール寺に対する馬歩芳の干渉政策に反発しているラマ教サイドの状況を詳細に記している。いわばイスラム教政権からのラマ教収奪である。(なお、木村はチベット語のクンブム Sku'bum 寺を用いており、西川はタール Ta'er 寺を用いている。「塔爾寺」という漢字表記もある。チベット関連の書物では、このように同一の対象に対して異なる日本語表記が使われることがよくある。平凡百科事典では「クンブム寺」が見出しになっているが、近頃のチベット観光と関係があるのかインターネット上では「タール寺」が圧倒的に多い。)
漢、回両族は・・・・・・タングート族、蒙古人を・・・・・・圧迫征服して[自族の]統治下に帰せしめようとしているだけで、孫文の民族平等の思想により共同の解放を図ろうなどということは見受けられず、蒙古、タングート族の宗教上の中心地であり、莫大な土地、財産の財源をもっているこのタール寺をも、常に隙さえあればどうにかして、自己の支配下に置こうと、きゅうきゅうとしていたのである。(『秘境』p197)
タール寺のラマ達に人頭税として年に銀貨十枚、自動車路建設に蒙古人・タングート人だけでなくタール寺のラマ達も徴発されていた。家屋税の徴収も予定されているという。強制的な徴発労働はいうまでもなく少額たりといえども徴税されているラマ廟というのは他にはまったくないことである、と西川は述べている。(タングート人は東西交易路を押さえ、11世紀に西夏を建国した民族ということになっているが、それほど明確に判明しているわけではないらしい。平凡百科事典では「6世紀より14世紀にかけて中国西北辺境に活躍したチベット・ビルマ語系の部族。・・・・・・1227年に西夏が滅んだのち,タングートは色目人の一環として元朝治下に入り,軍事面をはじめ,官界,さらには文化・宗教の面でも活躍したが,元朝滅亡後,まったく歴史的役割を失い,タングートの名称も清代にはチベットをさすことに転化した。」などとしている。
「回族」は人種的には漢族とかなり重なるイスラム教徒たちの形成する「少数民族」。トルコ系や中央アジアの多様な民族を吸収している。
)

さて、木村たちはこのタール寺でパンチェン・ラマの推戴式に行きあっている。チベット仏教(ラマ教)の大きな特徴に活仏制がある。「生まれかわり」制である。チベット仏教には多数の活仏という存在があり、その中で最も高位であるのが観音菩薩の化身とされる、ラサのポタラ宮殿に居住するダライ・ラマである。政教一致のチベットで、ダライ・ラマは政治と宗教の最高位を兼ねる存在であり、チベット民衆から篤い信仰を受けてきた。インドのダラムサラに亡命政権を守っている現在も、そうである。パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ、第2の高位にある活仏である。
(20世紀の初頭に河口慧海pが会ったダライ・ラマは13世で、1933年に没している。その後「生まれかわり」の探索があり、テンジンギャムツォ少年が14世として選ばれたのが1934年である。したがって、木村たちがタール寺に達したときは14世になっていたわけである。もちろん、中国の侵略を受けた1959年にダライ・ラマ14世はインドに脱出亡命し、現在はダラムサラに亡命政権を維持している。
下に述べるように、パンチェン・ラマ10世はすでに没し、11世について、ダライ・ラマと中国とが異なる少年を指名し、対立している。ダライ・ラマ14世の推すニマ少年は中国国内でとらえられているといわれる。
)。


     
左、ニマ少年の写真を持つダライ・ラマ14世   右、パンチェン・ラマ10世


木村は『偽装』で少し丁寧な説明をしてくれている。
クンブム僧院にいた間に、私たちは幸運なことに、パンチェン・ラマの候補者のひと りであった少年[6歳]の推戴式に参加することができた。パンチェン・ラマは、ラサの西方10日の旅程の町シガッェにあるタシルンポ僧院の座主であり、阿弥陀仏の化身といわれる。チベットでは、パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ第2の高位活仏として尊敬されている。先代のパンチェン・ラマは、ひさしくダライ・ラマ13世と対立関係にあり、悲劇的な生涯を送った。両ラマは和解を望んでいたにもかかわらず、貪欲な[チベット宮廷の]官僚たちと中国人が政治的理由から2人を切り離しつづけたのである。先代のパンチェン・ラマは、亡命の身のまま1937年にチベットの国境の町、玉樹[ジェクンド]の近くで没したが、その転生者をめぐって新たな抗争が生じつつあった。
クンブム僧院で推戴式をあげたのは、身体の徴や先代の持ち物を見分けるといったテストに合格した3人の候補者中のひとりにすぎない。しかし、この地方の人々の熱狂ぶりから判断するに、誰もがこの候補者をパンチェン・ラマの転生者として喜んで受けいれているようであった。彼ならば自分たちの手中に収めておけるという理由で、馬歩芳や中国側もこの選択に好意的であった(『偽装』p99)
この少年は、1948年になってラサからも、中国からもパンチェン・ラマ7世もしくは10世として正式に認められた。7世というのはラサ政府の、10世というのは中国とシガッェの「パンチェン・ラマ行政府」の数え方。(なお『潜行』でも同じ推戴式のことが書かれているが、少年を11歳とするなど、相異が見られる。)
「ダライ・ラマ法王日本代表部」のサイトには次のような説明がある。「先代のパンチェン・ラマ10世チューキ・ギャルツェン師(1938〜1989)は、中国がチベットを侵略し、ダライ・ラマ14世法王が国外亡命を余儀なくされた後も、チベット本土に踏み留まりました。“文化大革命”の時期には投獄され、その後も中国の占領支配下という枠組みの中で活動の自由を大巾に制約されながらも、チベットの文化や自然環境を守り抜くために必死の努力を重ねてきたのです。」 1964年3月の新年大祈願祭の祝いの場で、ダライ・ラマ法王を非難するよう指示されていたところ、パンチェン・ラマは「チベットが間もなく独立を回復し、ダライ・ラマ法王が玉座にお帰りになるのを確信する。ダライ・ラマ法王万歳。」と演説したことは有名。このあと14年間投獄された(中国民主化運動の指導者魏京生とおなじ監獄に収監されていて、拷問の事実などが判明している)。1989年、51歳で急逝が伝えられた(暗殺説もあり、急逝をきっかけにチベット暴動が起こった。なお、この時胡錦濤はラサにおり、パンチェン・ラマ10世の死を見届けた、といわれる)。
このサイトには、「パンチェン・ラマ10世 七万言の意見書」というものがおいてある。これは、1987年3月28日、北京で開かれた全国人民代表大会“チベット自治区”常務委員会におけるパンチェン・ラマ10世の長文の報告である。その一節を紹介するが、中国に対して、歯に衣着せぬ物言いをしていたことが分かる。
チベットにいる中国人1人を養う費用は、中国にいる中国人4人分に匹敵する。チベット人民は何故彼らのためにその経費を背負わされねばならないのか?何故その全てをチベット自身の発展のために有効に使えないのか。チベット人民は、無能な中国人の大量移住政策のために多大の苦しみをこうむっている。数千人の中国人チベット移住で始まった人口は、今日その何百倍(注:現在までにチベットに移住してきた中国人人口は、700万人を超え、チベット人600万人を遥かに凌駕している)にも達している。初期の頃勤勉に働いてきたたくさんの古参中国人が今その実績を認められないまま朽ち果てているのもこの政策のためである。今日、中国人は一家もろとも移住してきており、あたかもアメリカへの出稼ぎ人同様ひたすら“金”のために働き死んでゆく。なんと馬鹿気た話ではないか。
パンチェン・ラマ10世の生涯を概括しただけでも、チベットにおいて活仏制が生きていることがわかる。したがって、活仏制を決して「単なる珍奇な宗教遺制」だと考えてはいけない。中国当局はそのことをよく認識しているからこそ、パンチェン・ラマへの弾圧の手をゆるめないのである。
パンチェン・ラマの転生者を指名するのはダライ・ラマであり、ダライ・ラマの転生者を指定するのはパンチェン・ラマである。だから、ダライ・ラマ14世は1995年にゲンドゥン・チューキ・ニマ少年(1989年生)をパンチェン・ラマ11世として認定した。がその3日後、少年は両親とともに行方不明となった。中国当局は1年後にチューキ・ニマ少年を拘束していることを認めたが、所在は明らかにしていない。(中国側は、同年年末に同い年の少年を11世として即位させた。現在「人民網」などに「パンチェン・ラマ11世」としての活動が報じられている)
いずれダライ・ラマ14世が死没すれば転生者15世を指名する必要があり、それはパンチェン・ラマ11世が指名する資格を持つのであるから、中国当局は関心を持ちつづけるのである。
中国当局にとって痛いことには、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマに次ぐ第3位の高位のラマといわれる、カギュ派のカルマパ17世は2001年1月インドへ亡命(この時14歳)、「ダライ・ラマが戻るまで、チベットへは戻らない」と述べたと言われる。ダラムサラで、ダライ・ラマとともに生活している。このカルマパ17世は1992年に17世となり中国当局も公認していた。

   
左、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年。   右、カルマパ17世。


チベット自治区、内モンゴル自治区、モンゴルに広がるチベット仏教の世界においては、現在も活仏制は生きて力を持っている制度である。チベット自治区への中国政府の強引なやり方は、少なくとも活仏制に対しては有効でないように見える。しかし、上の「パンチェン・ラマ10世 七万言の意見書」が指摘しているように、中国当局はチベット、青海省、新疆ウイグル自治区などへ漢民族を移住させ、チベット族やウイグル族を「少数」にさせて、力任せに「漢化」を図っていると考えられる。内モンゴル自治区でモンゴル族が蒙っている「漢化」も同じ戦略である。ソ連邦=ロシアにおいてもアルタイ、トゥバ、ブリヤード自治共和国などの中国国境で「ロシア化」が図られたのと軌を一にする。人口という“物量”作戦で圧倒してしまおうという手法である。(人物写真は、いずれも「ダライ・ラマ法王日本代表部」サイトから拝借しました。)
(なお、わたしは活仏制について、次ぎに予定している「モンゴル・ノート(4)」で扱うつもりである。)


(4) ツァイダム盆地・風葬・日本批判・ラサへ

1944年2月のことである。木村たちはクンブム寺(タール寺)に1週間ほどいて、その間に多数の参詣人の間から「青海蒙古人」を探し出して声をかけ、同道してくれる者を見つけようとしていた。彼らの行く手は青海省にあたっており、そこへ帰郷する者たちと一緒に旅するのが安全で確かだからである。ツァイダム盆地のジューン(東)旗に帰る男2女1の3人が同行してくれることになる。
一行は青海湖[クク・ノール]の南を1週間ほどかけて歩き、ツァイダム盆地にはいる。そして、同行してくれた青海蒙古人の同郷住民が包(パオ)を張っている谷間で、木村たちも停滞することにする。「長い旅を終えて、やっと一息つく。ここでしばらく滞在して、新疆入りをゆっくり計画しよう」(『潜行』p77)と書いている。ツァイダム盆地から西北へ進みタクラマカン砂漠を横断して新疆ウイグルへ行くのが当初の「西北行」の道筋だが、クンブム寺で青海蒙古人らから木村はその道がきわめて危険な情勢になっていることを聞かされていた。政治的な情勢が、旅をするのに危険すぎるのである。
数年前までは、青海蒙古と新疆天山蒙古とはタクラマカン砂漠を横切って自由に往来できたが、一昨年ごろから新疆のカザフ族が反乱し、交通は途絶した。カザフは青海蒙古に侵入し、無数の蒙古人を殺し家畜を掠奪した。・・・・・・トルクシブ鉄道アヤグズから西北公路を通じて重慶へ送られる米ソ援助物資を新疆バルク近くのカザフ族が数回にわたりトラックぐるみ掠奪したので、蘭州朱紹良の中央軍が出動してカザフを討伐したらしい。(『潜入』p67 ただし、原文では「コサック族」が使われているが、引用では「カザフ族」とした。35年ほども後に出版された『偽装』では「カザフ」で統一されているし、それが正しい。)
(「トルクシブ鉄道」はシベリア鉄道とトルクメニスタンを結ぶ中央アジアを走り、カスピ海まで出る鉄道。1930年頃に建設された。寺田寅彦の随筆『柿の種』(1933)の中にも
 新宿、武蔵野館で、「トルクシブ」というソビエト映画を見た。中央アジアの、人煙稀薄な曠野の果てに、剣のような嶺々が、万古の雪をいただいて連なっている。
 その荒漠たる虚無の中へ、ただ一筋の鉄道が、あたかも文明の触手とでもいったように、徐々に、しかし確実に延びて行くのである。
とあったりして、いま我々には耳慣れない鉄道名だが、昭和10年頃は案外知られていた可能性がある。「アヤグズ」は ayaguz で、アヤグーズとも。セミパラチンスクのソ連核実験場の放射能汚染で出てきた地名のようです。インターネットで検索するといくつかヒットします。
)

木村ははじめはタクラマカン砂漠の横断そのものがたいへん困難な旅と予想していたが、カザフ族のことさえなければ予想に反してそれほど困難ではないことをつかむ。木村は初期の計画通り「西北行」をするか、それともラサ行きへ切り替えるか、迷う。防諜員として日本国家から指示された使命にどこまで忠実であるべきか。
難しい決断の時が迫っているのは明かだった。私としてはあくまでも使命遂行の道を、新疆行きを選択したかったのだが、タクラマカン砂漠横断が予期した以上に容易であっても、カザフ族の存在があっては新疆到達は見込み薄である。この私のために友が死の罠に足を踏み入れでもしたら?しかし私一人でどうして旅に出られよう。これほど危険な時代に新疆へ向かうキャラバン隊などあるはずはなく、私にはダンザンの経験が必要なのだ。(『偽装』p122)
迷っているうちに、ツァイダム盆地のチャガン・オスでイスラム軍から嫌疑をかけられ、木村一行3人(木村とダンザン夫妻)は捕らえられる。監禁されたのではないが、疑いの晴れるまで出発が禁じられた。その嫌疑というのは、イスラム軍兵士に護送されて内モンゴルへ送還される巡礼の一群があり、3人はそれからの逃亡者ではないか、というもの。イスラム軍の指導者のバーブウ・ノインのもとで足止めされ、この年(44年)をツァイダム盆地で過ごすことになる。
木村はラマ僧を装っているのであるからラマ僧として読経を依頼される。難しいお経はわからないと言ってダンザン任せにしているが、バーブウ・ノインに「観音経を十万遍読んでくれ」と頼まれてあわてる。観音経は「女子供でも知っているので断る口実がない」(『潜行』p95)。吉日を選ぶ必要がある、と言って3日の猶予をつくり、その間に猛勉強で暗記をして間に合わせた。
ある老人ラマの尋ねたとき夜中に男色を求められて逃げ出す体験も書いている。「お寺ではラマたちの間に広く男色が行われている。しかしに日本で想像するような男色ではない。稚児さんの足をのばして組み合わせ、その内股を使用する。蒙古式は稚児さんを仰向けにし、チベット式はうつむけにして背後から行う」。なお、このツァイダム盆地に限らず、美男子の木村は娘さんから色仕掛けで迫られるようなチ ャンスが何度もあったらしい。張家口の色街に耽溺するような遊びをしてきた木村も、巡礼行の途中では一切女性は断っていたようである。敗戦後、ラサの貴族たちとの交わりのなかで、ある尼僧に恋情を告白した体験を書いている(『偽装』p312)。尼僧は木村を拒ばむのだが。(ついでに、西川も、主として性病を恐れて、女性と一切接しなかった、ラマとの同性行為もしなかったと明記している(『秘境』下巻p306))

平凡で単調な毎日が続く。キャラバンは来春にならないと、出発しない。そして、12月にダンザン夫妻に子供が産まれ、その赤ん坊が20日ほどで死ぬ。
木村とダンザン夫妻が内蒙古を出発したのは1943年秋であるから、1年余の旅の途中に身ごもったのである。木村は包内でひもにぶら下がっての出産と、うぶ湯はなく「ただ羊毛やボロ布で拭くだけ」の赤ん坊の取り上げの様子を記録している(『潜行』p103)。男の子が生まれた。だが、後産が出ず母親(ツェレンツォー)は危険な状態になる。木村は膝までの積雪のなかを30分走って、胎盤を引き出して産婦を助けたことがあるという爺さんの包まで行く。その爺さんを背負って走り帰ってくると、爺さんは手早く処置をし事なきを得る。
10日目ごろからツェレンツォーの乳が出はじめ(それまでは羊乳)、健康に育つと思われた。が、ある晩、ツェレンツォーが添い寝をしているときに突然呼吸が止まる。木村は母親の乳房による窒息死だろうと密かに推測しているが、黙っている。赤ん坊の死の場合は葬式もないので、その翌朝ダンザンとダワ・サンボー(木村)は赤ん坊を「捨てに行った」(と書いている『潜行』p107)。『偽装』では、そのときのことを詳細に記録している。
翌日ダンザンと私は、わずかな期間ながら私たちのゲルをあれほど活気づけてくれた赤ん坊の遺体を雪の中に捨てに行った。何年にもおよんだ旅をすべて振り返ってみても、これほどわびしい日はなかったと思う。・・・・・・私にしてみれば冷たい地面のうえに赤ん坊の遺体を置き去りにして野生動物に食わせるなどむごすぎると感じられたのだが、逆にモンゴル人にしてみれば冷たい地面の中にうめて徐々に虫に食わせるなど考えるだにおぞましいことらしい。歩きながら、私たちは黙したままだった。・・・・・・そして何よりも憎んだのはこの素っ気ない、非人情な葬法だった。祈祷さえ行わないのである。赤ん坊ならその程度でいいということなのだろうか。・・・・・・私たちは崖の下に穴をみつけ、そこに赤ん坊の遺体を置いた。雪原に風が渦巻き、崖に吹きつけた。ダンザンの顔は見なかった。・・・・・・数日後、薪を集めに外に出たおり、穴をのぞいてみると、遺体は消え失せていた。ダンザンは決してそのそばに近づこうとしなかった。(前掲書p148)
陽気だったツェレンツォーがすっかりふさぎ込んでしまい、大がかりな「悪魔封じ」の儀式を行ったりする。


ここでわたしは風葬について触れておきたい。モンゴルやチベットについての書物の多くにこの風習が書かれていて、まずそれを「奇習」という視点から扱っている場合が多いからである。例えば木村にしても、『潜行』の始めの方で、次のように述べて、一般の日本人の風葬に対したときの気持ちを表現していると思う。
内蒙古に来て私がまず不思議に思ったのは風葬の習慣である。各家庭には仏壇も墓もない。葬式といえば死者を草原に捨てて鳥獣のついばむにまかせ、早く白骨化するのを成仏したと喜ぶ。祖先の墓を崇拝する習慣などさらにない。(『潜行』p20)
もう一例、磯野富士子『冬のモンゴル』の始めのところに、風葬について感想を述べているところがある。彼女自身は「気味悪く無慈悲なものとばかり思っていた風葬」について、サニット・ラマという高僧の説明を知って、「なるほどとうなずける」ようになった、と書いている。その高僧は「決して死人を野に捨てるという意味ではなく、自分の愛する者のなきがらを大自然の中におくという敬虔な心持ちなのだ」と言っていたという。また、自分の恩師の死体をおいた風葬場の、恩師の頭から左1mほど離れたところに「オンマニ・バトメ・フン」(日本の南無阿弥陀仏にあたる語)を自分で彫った石が置いてあって、そこに水を撒いて礼拝していたという(前掲書p24)。
磯野富士子が内蒙古をラクダ車で旅したのは1944年11月から翌3月までで、ちょうど木村がツァイダム盆地にいたときのことである。法社会学者の夫・磯野誠一が張家口の西北研究所に行くのに同行したのである。『冬のモンゴル』の初版は北隆館1949年にでている。わたしは彼女の著書は他には『モンゴル革命』(中公新書1974)を読んだことがある。
磯野富士子は『冬のモンゴル』の中公文庫版への「あとがき」で次のように傀儡政権であった「自治政府」のことや、その保護の下で調査研究をおこなった自分たちについて、反省的に述べている。
[満州事変後]その頃内モンゴルでは、漢人の入植によって牧地を奪われたモンゴル人たちの間に、民族主義的な自治運動が起こっていたが、これを利用して内蒙古にも勢力を伸ばそうとした日本は、1939年ついに西スニットの族長デムチュクドンルプ、つまり徳王を主席とした蒙古連合自治政府を創立したのであった。
しかし、「自治政府」とはいうものの、実際には、日本人の最高顧問をはじめ、各旗には日本人顧問が置かれ、また、連合自治政府の軍隊にも、やはり日本軍人の顧問が配置されていた。・・・・・・折角の自治運動を日本に横取りされたモンゴル人の間に、広範な反日感情や、ひそかな抗日運動さえ起こっていたことが、現在では明らかになっている。

個人的には政府や軍部とはまったく無関係な研究のつもりではあったが、西ウジムチンに入ることができたのは、その土地の「日本人顧問」の方々のお世話を受けたからに外ならない。・・・・・・
この本に出てくるモンゴルの友人たちが、私たちをどう見ていたかは、知るすべもない。ただ、1つの国が他の国を直接に、あるいは間接的にでも支配している場合には、それぞれの国に属している個人の間の友情は、本当には成り立ちえないことを痛感するとともに、あの人々が対日協力者としてひどい目にあわなかったことを切に願うばかりである。(前掲書p239〜241)
今西錦司ら西北研究所に直接関係した研究者からこういう反省的な語は、(管見の範囲で)見ていない。

1945年の正月、木村たち一行はツァイダム盆地に足止めされている。木村はそこである男から、内モンゴルでの日本人を批判する話をきく。その男は、1934年に百霊廟で開かれた「蒙政会会議」に出席したある旗代表の従者として内モンゴルに数年間行っていて、日本占領下の内モンゴルの様子を見てきたという。
徳王は立派なお方だ。だが中国人と日本人に敵対できるほどモンゴル人の数は多くない。・・・・・・中国軍が弱体化しはじめると、徳王は頼るべき相手を日本に乗りかえた。日本軍を利用して中国人を追い出し、それがすんだら今度は日本人を追い出せばいいという目論みだったのさ。ところがどっこい、やつらは抜け目がなかった。徳王より一枚上手だったのさ。今じゃ徳王は日本軍の手中にあってていのいい操り人形だ。自治政府と称するものの、実権を握っているのは日本人だ。やつらはずるがしこい貪欲な民族だよ。・・・・・・あんな愚かな[日本]民族がどうしてわれわれを支配できるのか疑問だね。だが、そう遠くない日に、奴らも足下をすくわれて愕然とするだろうさ。(『偽装』p151)
木村は40年も前の話を思い出しているのだから、この日本批判が語句としてそれほど正確に再現されているとは考えられないが、このモンゴル人の男はダワ・サンボー(木村)を完全にモンゴル人ラマと思って日本批判を喋っていた・・・・・・そういうことの真実を疑うことはできない。
モンゴル人から日本批判を聞きながら、木村は6,7年前の渡満旅行の途中の光景を不意に思い出したという。
初めて日本から北京へ行く途中、私は朝鮮と満州の国境を越えた。朝鮮人の若い税関吏が私のスーツケースをあけながら、名前と目的地を質問した。十代特有の、世界はおれが救うという思いあがりにとりつかれていた私は、モンゴル独立のために闘っているモンゴル人たちを手助けしにいく途中だと答えた。生まれてこのかた日本の統治下で生きてきたに違いない税関吏はそれに対して一言も答えず、当時の私には理解できなかった、だが忘れようもない奇妙なまなざしを私に投げかけた。あれから数年たった今、私はようやくそれが何を意味していたのか理解しはじめたのである。・・・・・・興亜義塾、実験農場、西北行の計画、そして旅。こうしたことをすべてただ自分のために行ってきたのではないかという疑問が拭いされなかった。(『偽装』p152)
完璧といってよいほどにモンゴル人ラマに「偽装」して「敵地」深くへ入り込んでいる防諜員として、木村はいわば裏側から日本軍の占領の実状を見るのである。そして、そこで被占領民衆の生の声を聞く。生の声をなんの警戒心もなく木村の前で喋るくらいに彼の「偽装」は完璧であった。木村はそのことによって「二重の視点」を身につけざるをえない。モンゴル人ダワ・サンボーとしてモンゴル民衆の視点を、木村肥佐生として日本人防諜員の視点を。この「二重の視点」は深く身についてしまったものであって、防諜員としてそれを使い分けるというような自覚的操作の対象ではなかった。というより、彼は何ヶ月も何年もモンゴル人ダワ・サンボーになりきってモンゴル民衆の中で生活を続けており、自覚的操作を必要とする場面がなかったのである。第1節で「地元の人々と深い絆を培い、結果として軍部と対立することになった」という木村の述懐を引用しておいたが、そのよってきたる淵源がこの複眼的視点にあることは確かだ。
この複眼は、やがて日本敗戦を知った後、木村がチベットでの反体制知識人たちと積極的に交わることになる必然性を用意していた。(このことは、西川一三の場合もある程度まで似た事情が起こったと思える。木村・西川の違いも含めて第8節「東チベット探査行」のところで考えてみたい。戦争責任、戦後責任の問題でもある。)


春となり、キャラバンに合流する準備を始める。4ヶ月分の食料を作らないといけない。ところが、ラサ行きのキャラバンの出発の日が近寄っているというのに、木村が熱病にかかる。

木村が内蒙古を出発する際の使命は、「西北行」であった。それができないのなら、次善の策としてチベット行きとするか。北するか南するかの決断を迫られていた。 日本の情報員としてのもっとも「難しい決断」は、熱病によって何となく自然の流れで解決されてしまった。木村は「いや問題自体が私たちの手中からこぼれおちてしまったのだ」という巧妙な表現をしている(同p122)。高熱の木村をバーブー・ノインが見舞いに来て、「もう1年延ばし来年行ったらどうだ」と言ったのに対して、木村は「私が病気ですって、もうすっかりよくなりましたよ。明日といわず今すぐにでも出発できます」と叫んだのだが、その一切を記憶していないという(『潜行』p112)。木村は前後2週間も意識のない状態が続き、意識がもうろうとしているまま出発する。ラクダの上にくくりつけられて揺れながら進んでいる状態で木村は気がついた。
ダンザンは正気を取り戻した木村が、「なにも覚えていない」というと、
バーブー・ノインに、自分はすっかり元気になった、いつでも出発できると叫んでいたからね。てっきりその次には日本語でまくしたてて、正体を暴露するに違いないとヒヤヒヤものだった。でも何かがあなたをおしとどめたようだ。(『偽装』p158)
と言った。木村は、次のようにそのときの自分の気持ちを説明している。
すると目的地はラサと決まったわけだ。自ら決断せずにすんでかえってほっとした部分もあった。新疆ウイグルへいくのは不可能だとわかっていても、任務ゆえに、西に行くことに拘泥していたのである。今のこの状態ではラサ行きに反対する力はない。また新疆を諦めざるをえないのならラサ行きは残された最上の選択だと自分を納得させることもできた。ラサからならば、さらに南方インドに、敵の領土の真っただ中に潜りこむことができる。(『偽装』p158)
45年の5月である。23歳の頑健な青年である木村は、ラサへのキャラバンの中で、みるみる健康を回復する。
すでに賽は投げられた。この目でラサを見られるという期待に多少浮かれてもかまうまい。またしても私の心の中では、2つの視点が相争っていた。モンゴル人としての私は、アジアで最も聖なる寺に参拝できることに心をわくわくさせ、日本人としての私は、高名な探検家たちの足跡をたどりつつあることに興奮を感じていた。もちろん私はラサに入る最初の日本人ではない。だが、よもや自分が共産中国が到来する前のラサをこの目で見た最後の日本人になるとは思いもよらなかった。(『偽装』p163)



(5) 自治政府・アヘン

前節で徳王の蒙政会会議が出てきた。木村が日本の防諜員として「潜行」する舞台を作り出した政治−軍事情勢に触れないわけにいかない。わたしはここでは木村がそこから出発したところの張家口の「蒙彊政権」に話をしぼって、概観してみたい。

柳条湖事件(1931)によって満州事変が始まる。これによって日本は「15年戦争」に突入する。日中戦争の文献を読んでいると自治政府とか自治委員会というような、ちょっと奇妙なニュアンスの単語にしばしばぶつかる。傀儡というべきところに「自治」という語が倒錯的に使われていて、奇妙なニュアンスが伝わってくるのである。
たとえば冀東防共自治政府というものが1935年に河北省にできている。「冀東(きとう)」の「冀」は「河北」を意味していて、河北省東部の自治政府ということである。この自治政府の成立は塘沽(タンクー)停戦協定(33年5月)にまでさかのぼらないと説明できない。

柳条湖(溝)事件1931年 9月
満州国建国宣言1932年 3月
熱河作戦開始1933年 2月
日本軍華北へ侵入33年 4月
塘沽停戦協定33年 5月
幣制改革発表1935年11月
冀東防共自治委員会35年11月
冀東防共自治政府35年12月

1931年9月に柳条湖事件によって満州事変がはじまり、日本はそれから半年後の32年3月に満州国建国を宣言した。これが関東軍の軍事力に支えられた日本の傀儡政権であることは言うまでもない。
満州国は建国時点では東三省(吉林・黒竜江・奉天(遼寧))を領土としていたが、日本軍は西隣りの熱河省・河北省への侵攻を試みた。これが熱河作戦である。塘沽停戦協定によって、日本軍の軍事的膨張はいちおう止まった。下図にはこの停戦協定によって設定された満州国と国民政府との間の「非武装地帯」を示した。


塘沽停戦協定による河北省東部の非武装地帯(大杉一雄『日中一五年戦争史』p8 より)

この非武装地帯の「戦区督察専員」である殷汝耕[いんじょこう 妻は日本人]に働きかけて、「冀東防共自治委員会」を作らせ、この非武装地帯を「自治」地帯とした。「自治」の名を借りて事実上日本の支配地域としたわけであるから、これは明瞭な停戦協定違反である。12月には「冀東防共自治政府」と改称し、いっそう強固な組織とした。
この非武装地帯が渤海湾に面していることが重要である。日本にとって、どのようにでも都合のよい政策を行わせられる「自治政府」を隠れ蓑として、日本はこの海岸で大規模な密貿易を行った。
36年2月に冀東政府は低率の査験料を徴収して密輸入を公認し,人絹,砂糖をはじめ大量の密輸品が天津の日本租界を経て中国各地に流入した(冀東貿易)。アヘンや麻薬の密売も盛んに行われた。これらの収入の一部は日本軍の工作費に使われた。中国の関税収入は激減し,中国企業や外国の貿易業者も打撃をうけ,抗日運動をおし広めた。(今井清一「平凡社百科事典」)
「冀東貿易」は明瞭に国際的ルールに反していることを日本は鉄面皮に実施していたのだから、世界諸国から非難を浴びる。たんにルール違反への非難というより、中国の関税収入が激減したことで、世界の有力各国が実際に経済的に被害を被ったという面もある。
この時期の日本の孤立ぶりを認識するのに、次の2つを押さえておいたら良いと思う。ひとつは、1933年2月の国際連盟脱退である。もうひとつは1935年11月に国民政府が発表した「幣制改革」に対する日本政府のとった態度である。前者はよく知られていることだから、後者について触れる。

「幣制」とは貨幣制度のことである。幣制改革は、一口でいって銀本位制をとっていた中華民国が非兌換貨幣制度に切り替え、ポンド(英)ないしドル(米)と為替市場でつながることによって安定を図る(管理通貨制度)という改革である。資本主義が世界市場段階に展開しつつあった時期に、時宜にあった思い切った「近代化」策であったといえる。
英国のバックアップとともに中華民国内での長年の研究と準備があり、日本の大方の予想に反して、幣制改革は成功する。この改革によってできた法定貨幣は「法幣」と略称された。民国政府が集約した銀貨・銀塊の多くは米国が引き受け、法幣はポンドよりもドルにリンクした貨幣ということになった。英・米の幣制改革に対する姿勢は、帝国主義段階での世界経済の近代化という観点から、合理的なものであったといえる。英・米はそれぞれの資本主義的利益追求の限りで対応しているのであるが、合法的で合理的であり、しかも中華民国の資本主義的発展に寄与するものであった。
それに対して、中国の財政危機を目の当たりにしている日本がとった方策は、幣制改革の阻止と軍事的混乱をひきおこすことであった。上海の日本の銀行が「現銀」(銀貨・銀塊)を中華民国銀行へ引き渡すことを拒否させ、現銀を移送するのを妨害し、華北軍閥への工作を強めて中央政府への離反をはかった。「冀東防共自治政府」の樹立の画策も、幣制改革阻止という文脈で理解することができる。

「自治政府」の例をもうひとつ挙げよう。こちらは木村肥佐生と直接の関係がある。上で示したように、木村はツァイダム盆地で停滞している1945年の正月に、1934年に百霊廟で開かれた「蒙政会会議」に出席したある旗代表の従者の経験のある男から日本批判を耳にした。
辛亥革命(1911年)でアジアで最初の共和国である中華民国が成立する。清朝の版図の中から外モンゴルが1921年にモンゴル人民革命政府を樹立して分離独立した。同時期、内モンゴルでも王公・青年層による自治運動が盛んになっていた。「王公」というのは、清朝時代に清朝皇帝から位を授かっていた由緒ある家柄の者である。つまり旧体制での権威 者(「王公」や、外モンゴルが依ったボグド「活仏」など)とインテリ青年層を基盤とする自治・独立運動がひろがっていた。
1933年7月15日に百霊廟に王公が集まって第1回「蒙古自治準備会議」(同「全体会議」とも「王公会議」ともいう)を開いた。国民政府に対し「自治要求請願文」を送るのであるが、この会議のイニシアティブを握ったのが内モンゴル・チャハル部西ソニット旗の王公徳王・デムチョクドンロブ(Demchukdongrob)である。徳王は、内モンゴルの「高度自治」または「蒙古独立」を目指していたとされる。内・外モンゴルおよびロシア領ブリヤード(「北蒙」と言われることもあり)に国境線で分割されているモンゴル族全体の独立をめざしていたという意味で、「大(汎)蒙古主義」ともされる。
「自治要求請願文」を国民政府が認めたため、第2回会議を持ち、翌34年4月23日に 「蒙古地方自治政務委員会」(略称「蒙政会」)が発足する。木村が日本批判を聞いたという男は、この会議のために、百霊廟へ従者として行っていたというのであろう。
ここで見ることができる「自治運動」は自生的なものを含んでいて、単なる日本軍が押しつけた欺瞞的傀儡運動ではないとして良いであろう。だが、蒋介石の国民政府は、軍閥の割拠・日本軍の侵略・満州国の成立などで弱体化しており、内モンゴル西部の「自治運動」に効果的に対処することができない。しかも、おそらく国民政府としては本来的に中国辺境地域の自治・独立運動を歓迎するはずはなく、余力があれば自分の版図内に安定的に繰り込んでおきたいと考えていたであろう。
この状況で徳王勢力は日本軍に接近し、日本の影響力を利用して中華民国からの独立を図ろうとした。満州国を建設し、さらに西方へ「内蒙工作」を企んでいた日本軍は地元に足のある徳王勢力を絶好の手がかりとして利用しようとする。徳王の根拠地である西ソニットに蒙古軍政府(主席・徳王、副主席・李守信)が関東軍の支持のもとにできたのが、1936年2月。

1937年7月の蘆溝橋事件で日中戦争が全面化する。8月にはチャハル省に関東軍が侵攻し、張家口を占領したのが8月27日。9月に察南自治政府をでっち上げる(張家口一帯を支配地域とし、この最高顧問がアヘン専門家の金井章次)。関東軍は東京の軍中央の抑制方針を振り切って、山西省・綏遠[すいえん]省へ進軍する。10月15日に晋北自治政府(「晋」は山西省の意、大同に置いた)、10月28日に徳王の蒙古軍政府が合流して蒙古連盟自治政府(張家口、主席・雲端旺楚克 副主席・徳王 蒙軍総司令官・李守信)ができる。11月22日に、察南、晋北、蒙古連盟が合流し、蒙彊連合委員会という統括組織ができる(最高顧問・金井章次)。この委員会は1939年9月に蒙古連合自治政府と改称・改組されるのだが、これが「蒙彊政権」と通称されるものである。これら「自治政府」には例外なく関東軍特務機関と日本人顧問が張り付いており、実質的に日本の傀儡組織であった。

第1回蒙古自治準備会議1933年 7月
蒙古軍政府1936年 2月
蘆溝橋事件1937年 7月
察南自治政府37年 9月
晋北自治政府37年10月
蒙古連盟自治政府37年10月
蒙彊連合委員会37年11月
蒙古連合自治政府1939年 9月

国民政府が成立した1910年代以降、外モンゴル、内モンゴルに自生のモンゴル自治運動が起こったのは当然であったと思う。外モンゴルはソ連の影響下に旧清朝の版図から分離独立する唯一の国家となっていく。モンゴル族が国境を越えて連帯しようとしたであろうことも信じることができる。モンゴル族に限らない幾つもの民族が中国大陸西部辺境には分布しており、この時期、それらの民族の内に自生の自治運動が生じてもなんの不思議もない。当然で必然的なことであった。
日本軍が日中戦争の中でおこなった「自治政府」づくりは、これら自生の自治運動がもともと存在していたことを利用して、その自治運動を目くらましとして傀儡政権をでっちあげたものである。ここで、日本帝国によって「自治」という語が倒錯させられて使われていることに気づく。
中国大陸に侵攻した日本の軍隊は、その地域に土着の勢力を取り込んで、その土着勢力のなかに存在していた「自治」の意欲を利用し、それを掻きたて誇張し日本内地のアジア主義的イデオロギーと結びつけることによって、「自治政府」ないしはそれに類する地方的な権力中心を次々に作っていった。この地方的な権力中心は、日本の「帝国」の高みからあらかじめ用意されていたイデオロギー語を使って、理論化され位置づけされたのである。それが、察南自治政府、晋北自治政府、蒙古連盟自治政府、蒙彊連合委員会、蒙古連合自治政府等々の不思議で異様な命名による、地方的な権力中心なのである。なぜ、これらが異様に感じられるのだろう。それは、これらの理想主義的で雄々しい命名とその実態との、はなはだしい懸隔と倒錯によるものである。これを“大東亜共栄の実現”であると錯覚した者もあるかも知れない。しかし、実態を知れば、余りにも異様に懸隔し倒錯している命名に恥じ入って、2度と発語できないほどである。
この、バラバラに成立した「自治政府」を統括する組織として、興亜院ができたのが1938年で、日本の対中国政策の推進母胎となった。興亜院総裁は日本の首相であり、外、蔵、陸・海相を副総裁としている。つまり、興亜院は日本帝国挙げての大がかりで正面切った組織であり、その現地機関として中国の華北、蒙疆、華中、廈門、に「連絡部」が、青島(チンタオ)に「出張所」が設置された。(大平正芳は39年6月に張家口の蒙彊連絡部に赴任しており、愛知揆一は華北連絡部にいた。)

[注]「モンゴル・ノート(1)」の「注」で、わたしは、人民という語が社会主義国家で使われるときに、異様な抑圧概念になっていることを指摘しておいた。本来は非常な普遍概念であり、美しい理想をこめた概念であるはずなのに、それが実際に使われた場面を冷静に評価すれば狭歪な党派性を表していることを指摘しておいた。つまり、それによって〈人民〉こそが抑圧される、そういう場合に「人民」という社会主義語は使用されるのである。人民軍、人民委員会、人民共和国、人民民主主義共和国、人民党。最高の普遍的な理念は、最低の狭歪な党派性を表す。これは、スターリニズム時代の普遍的な定理である。

自治についても同じことを、「逆の側」から指摘できるのではないか。逆というのは、帝国主義的でしかも近代天皇制の狭量な宗教性のことである。〈自治〉という語は、本来は特定集団や地域に結びついた自律的な秩序形成の、自然的なあり方を示していてとても美しい概念だが、それが、天皇制国家で使用されると汚ない押しつけがましい猥褻語となる。暴虐と汚行の抑圧語となる。天皇の軍隊が「自治」を語ることによって、〈自治〉が抑圧的な猥褻語になってしまい、思い出したくない汚行と麻薬にまとわりつかれた語として生き延びてしまったのである。
「自治政府」だけではない。それどころか、天皇の軍隊は「王道楽土」とか「五族共和」という醜悪な美語で飾り立てた麻薬と暴力によって支配された傀儡政府を中国各地に作っていった。「八紘一宇」や「大東亜共栄」はみな「醜悪な美語」である。これらの語はすべて意味が倒錯している。天皇制がもっとも罪深いことは、自らが犯した汚行を、「悪を犯す自覚」をもってせずに、「自治」や「共栄」の美語で飾りたてつつ行ったために、その汚行を国家的犯罪として自覚できず、責任体系を明瞭にできなかったことである。


日本軍が侵攻した各地に「自治政府」を作っていったのは、単なる戦略的な足がかりという意味以上の重要な問題が隠れている。それは「自治政府」という組織は一般的な行政単位というにとどまらず、一定程度の自律性と自己完結性を持っているはずであることに関連している。財政の相対的独立性は、その「自治政府」をでっち上げた軍組織(日本軍の中の、あるレベルの組織単位)にとっては、場合によってはその「自治政府」が莫大な収入源となることを意味している。「自治政府」ほどではなくとも、それをでっち上げた軍組織が日本軍の中で一定の相対的独立性を保持している組織単位であれば、「自治政府」の財政の収支を(公表されるものだけでなく、非合法な手段による収入もふくめて)操作することによって、その軍組織が自由に使える資金を蓄積することができる。
関東軍が目をつけたのがアヘンであった。日本は国内にアヘン吸煙が広まることを厳禁する方針を幕末維新期から徹底してとっていた(1857年の日米修好通商条約のなかに「アヘン貿易禁止条項」が入っている)。日本がアヘン問題に正面からぶつかるのは日清戦争勝利の後、台湾割譲(下関条約1895)を受けてからである。台湾にはアヘン吸煙の習慣が残っていた。後藤新平の「アヘン漸禁」方式をとる。これは、表向きは「急激に禁止しない」としながら、アヘン吸煙の習慣を残してアヘン貿易の利益を図ろうとした政策である。(この「漸禁」という奇妙な語も「醜悪な美語」の仲間に入れてもいいだろう。)

そもそもアヘンは19世紀にイギリス・フランスなどでも流行しており、イギリスが中国に持ち込んだことによるアヘン戦争(1840年)はイギリスの「汚ない」植民地政策として理解されることが多いが、この段階で「アヘン貿易」が国際的に禁じられていたわけではない。正当な貿易品として会計報告も公然とされている。アヘンの害毒が認識され、アヘン生産・貿易を国際的に禁止・制限する動きが出てきたのは20世紀に入ってからであり、国際アヘン会議(1909,上海)、ハーグ会議(1912)、国際アヘン条約(1931、国際連盟)などによって、徐々に徹底してきたのである。ただし、日本は国際アヘン条約を批准せず、33年には国際連盟を脱退する。

1912年のハーグ条約からアヘン貿易は禁止されていた。ただし、アヘンは鎮痛・鎮静など医療用として必要とされ、ことに戦時には需要が急増した。したがって、アヘン生産の合法枠というものは常にあった。1931年の国際アヘン条約において(1)アヘン生産の制限,(2)利用は医療・学術面に限定すること,(3)年間のアヘン必要量の概算義務制度が盛り込まれた。

したがって、日本が中国でアヘン栽培・交易を行い巨利を得、それを「自治政府」や軍隊運営に使ったことは、公然化することのできない国際法上の犯罪行為に類するものであった。そのため、日本の敗戦にともない関連資料が徹底的に廃棄され、関係者は口をつぐんだ。東京裁判で扱われたが、不十分なものであった。19世紀のアヘン戦争のイギリスと、20世紀のアジアにおける日本のアヘン戦略と、同日の下には論じられないことを認識すべきである(言うまでもなく、イギリスが免罪されると主張しようというのではない)。
もともと熱河省はアヘン栽培が盛んだったと言われる。日本軍は満州国でも蒙彊政権でもアヘン栽培を奨励している。大阪府三島郡(現茨木市)でアヘン栽培・改良に精力的に取り組んだ二反長音藏[にたんちょうおとぞう]は「阿片王」とニックネームされているが、満州へ出かけてアヘン栽培指導を行っている(二反長半(にたんおさなかば)『戦争と日本阿片史』(1977)に詳しいが、この本には音藏が張家口を訪問した際の記念写真が掲載されている。なお、二反長半は童話作家としても名をなした人物)。
日本軍の占領地区の中でも、ことに蒙彊政権はアヘン栽培の中心地となり、中国各地に「輸出」している。


倉橋正直『日本の阿片戦略』(1996) p167、単位は万両(1万両は 360s)

「自治政府」を看板に掛け「アヘン」で巨利をむさぼる。日本の中国大陸侵略が実にダーティで、「遅れてやってきた帝国主義」とはいいながら、その侵略現場での程度の悪さは驚くべきものであった。こういう歴史認識が日本国民の常識になっていないことが、いつまでも戦争責任問題がスッキリしない根本原因になっていると、わたしは考えている。それが「自分は日本国民である」と胸を張って言えない原因になっていると思う、隠されている何が出てくるか知れたものじゃないという。日本軍の残虐行為や汚行を指摘することを、「自虐史観」などと評する言い方はまったく誤っている、とわたしは考えている。

江口圭一『資料日中戦争期阿片政策』(1985)、岡田芳政・多田井喜生・高橋正衛編『続現代史資料(12)阿片問題』(1986)がとりあえず、基本資料である。これらは資料として重要だが、読みやすいのは江口圭一『日中アヘン戦争』(1988)である。
アヘン政策の目的は、何よりも、その生産・販売によって巨利を獲得することにあった。アヘン収益の使途は、蒙彊政権の場合、表向きは政権維持の財源に充てられたことになっているが、その実態は秘密のベールに包まれて不明である。また収益とされる金額そのものも、どれだけ正確であるか、無条件には信用できない。ともかく、そこには巨額のブラック・マネーが獲得され、運用されたのである。(江口圭一『日中アヘン戦争』p207)
読みやすいと言えば、小説だが西木正明『其の逝く処を知らず−阿片王・里見甫の生涯−』(2001)もお勧め。上海を中心にしたアヘン密貿易に従事した里見甫をめぐり、日本軍・日本政治家・三井/三菱などの財閥・官僚・青幇[チンパン]等々が暗躍する。


さて、わが主人公・木村肥佐生は、興亜義塾を終了し蒙古善隣協会の職員となり、牧場で働いていた時期(1941〜43)、半年分の給与をもって“命の洗濯”をしに唯一の都会である張家口にいったときのことを、かなりあけすけに書いている(喋っている)。
いくら草原での生活を享受し、鉄道の通る町よりも草原に身をおくことを誇りに思っ ていても、1年に二度めぐってくる休暇ほど心ときめくものはなかった。この時ばかりはシラミのたかったモン ゴル服を脱ぎ捨て、貨車に乗って二日の張家口[カルガン]の町にくりだす。・・・・・・こうして夜の町にくりだしてみれば、何故張家口が日本人居住者にこれほど人気があるのかわかろうというものだ。歓楽街には若い男が望むすべての欲望と幻想が存在していた。・・・・・・私のポケットは6ヶ月分の給料ではちきれんばかりになっており、相手は日本人、中国人、朝鮮人の玄人とよりどりみどりであった(モンゴル人だけはいなかった。土地もそうだがモンゴル人にとって性を売買することなど考えられないことだった)。・・・・・・母国語を同じくする女と臥床を共にするのもくつろげたが、話ができることが最優先というわけでなく、私は専ら中国の娼館を愛好していた。・・・・・・ここのエキゾチックな雰囲気が気に入っていたのだ。客はまず阿片をすすめられ(これはいつも辞退した)、次ぎに名前が読み上げられるとともに女の子が登場する。そこで客の方もじっくり敵娼[あいかた]を選べるというものだ。(『偽装』p40)
すでに第3節で、木村がアヘン栽培に言及している個所を引用しておいたが、木村の著書(『潜行』と『偽装』)でわたしが気がついているアヘンに言及しているのはこの2個所だけである。(西川一三の『秘境』では、わたしは気がついていない)
おそらく木村も西川も、アヘンについて多くのことを見聞きしていただろうと思う。もちろん、彼らは若い学生あるいは末端の諜報員として、消費する側あるいは単なる見聞する側として関わったという意味であるが。というのは、中国でヘロイン製造の会社を経営していた内山三郎の「麻薬と戦争──日中戦争の秘密兵器」(「人物往来」昭和40年9月 号、これは『続現代史資料(12)阿片問題』の「序」に一部省略して収録してあるので、図書館で容易に読むことができる。とても、面白く読みやすい。)に次のような処があるからである。中国へ渡った日本の青年が「一旗揚げる」というのがどういうことを意味したのか、想像する手がかりがある。
冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、本流のように北支那5省に流れ 出していった。全満州、関東州は、冀東景気で沸き返った。徴兵検査前の日本人の青少年がヘロイン製造と販売のいずれかにちょっと手を染めるだけで、身分不相応な収入を得ることができ、彼らの遊び興ずる姿が、天津の花柳街に夜な夜な見受けられるようになった。大連の花町やダンスホールなどは、当時の金で一晩に数百円の遊びをする青年達によって埋められた。(引用は『日中アヘン戦争』p52 から重引)
第1節で、木村が徴兵検査の検査官が良心的であったことを述べたところで、「すくなからずの若者が快楽産業に関わっていた。つまり売春宿に女の子を斡旋し、ぽんびきをやっていた」というところを引用しておいたが、そこでおそらく木村は「アヘン産業」に触れるのを意識的に避けたのだと思う。この内山三郎の赤裸な文章は、逆に木村や西川がいかに非凡であり、「ロマンチックで、信じられないほど純真で理想に燃えていた」かを証明しているといえる。


(6) 敗戦・カリンポンの町

木村肥佐生は日本の防諜員としてモンゴル人ダワ・サンボーとなり、内モンゴルの「蒙彊政権」下から出発し(1943年10月)、ダンザン夫妻とともにチベットのラサについたのが2年後の1945年9月のことだった。日本の敗戦直後のことだ。
木村がどのように生きてきたのか、また、この後どのように生きていくのかを考えるのに、彼が“日本敗戦のニュースをどのように受け止めたのか”は重要である。その受け止め方によって、木村の人となりも、ある程度推定される。モンゴル人と日本人の「二重の視点」に否応なく亀裂が入り、引き裂かれざるをえないからである。言い換えれば、「二重の視点」というのは「スパイの視点」に他ならないという痛烈な反省である。

ラサに着いた翌日、大通りを歩いていて、木村は内蒙古で実験農場で働いていた頃に農場に出入りしていたバーリン・ジンバというモンゴル人ラマと出会う。そのラマは当然木村が日本人であることを知っているのだから、木村からすると「ダワ・サンボー」の正体をばらされるおそれのある危険人物ないしは要注意人物である、ということになる(木村の正体を知っているモンゴル人からすれば、密告して賞金をもらうという誘惑は常にある、実際に賞金がもらえるかどうかは別として)。木村は思い切ってバーリン・ジンバに声をかけ、宿まで連れてくると、彼はダンザンとも古い友だちだったことがわかる。
まず私たちは一番気がかりになっている質問を彼にたずねた。
 「戦争はどうなったのか」
と。彼によると、ラサに住んでいる中国人の話では日本が負けたという。しかし、講和が成立して戦争の勝敗はなかったといううわさもあるという。どの話が本当かわからない。とにかく、戦争が終わったことだけは事実らしい。(『潜行』p136)
木村は中国語のできるジンバとともに蒙藏委員会(国民政府の駐チベット機関)に確かめに行くと、情報宣伝係の中国人は上機嫌で「そのとおり、日本は負けたのだ、無条件降伏でネ。国府軍は連合軍といっしょに日本を占領しているよ。」と説明してくれた。それだけでは得心がいかず、英国代表部にも行って確かめると、シッキム人がチベット語で「日本は確かに無条件降伏しました。戦闘停止命令は2週間前、天皇自らだされました。」と説明してくれた。「都市ひとつを1発で完全に破壊できるだけの新型爆弾の話はそこで耳にした」と木村は『偽装』(p192)で述べている。
私は足元からスーッと血がひくような感じがしたが、「そんなバカなことは絶対ない」とひとり心の中で思った。・・・・・・帰る道すがらジンバがしきりに慰めようとする。しかし、国家意識のない彼らには(ラマの大部分が宗教のほうが国家より大事だと考えている)この気持ちはわかるまい。しかし、心のすみにはまだ信じられない気持ちが強い。デマかもしれない。そうだ。すぐインドへ行こう。インドへ行けば正確なニュースがわかるにちがいない。ビルマには日本軍もいるだろう。(『潜行』p136)
「ラマの大部分が宗教のほうが国家より大事だと考えている」という木村の注記が興味深い。ともかくこの段階の木村は、日本敗戦のニュースを半信半疑で受け止めようとしている。「デマかもしれない」し、部分的な敗北があったとしても日本軍が全面的に敗北することは「絶対ない」。ビルマの日本軍までが敗北するはずがない、という気持ちなのである。『偽装』では、この時の気持ちを次のように詳しく述べている。
バーリン・ジンバの慰めの声もほとんど耳に入らず、戻るべき国すら失ったのではないかという疑念が頭の中を堂々巡りしていた。子供の頃から「皇軍は退却することを知らず」とたたきこまれてきた私である。植民地支配にいかに失策があろうと、個々の高級官僚がいかに貪欲な表情を見せようと、われら一兵卒は天皇の地にひとりの敵兵も足を踏み入れさせてはならないと堅く信じ込んでいたのだ。(『偽装』p192)
インド仏跡巡礼を強く希望しているダンザン夫妻とともに、木村はラサ見物もそこそこに、初めてのヒマラヤ越えをしてインドに出る。9月20日にラサを出発し、カリンポンに着いたのが10月16日である(カリンポン Kalimpong はヒマラヤ南麓のダージリン近くの町)。

カリンポンでは、外モンゴル人の家に泊まることになる。その家にグル・ダルマというブリヤート・モンゴル人の仏教博士がいた。木村が内モンゴル東スニット旗出身であると自己紹介すると、たちまちグル・ダルマに祖国の解放を祝福された。
安心なされ。戦争は終わりましたぞ。盗人[ぬすっと]どもはあんたの土地から逃げだしはじめてますぞ。日本人はみな故郷に送りかえされとります。これから日本は外国の統治下に入るとか。(『偽装』p202)
木村はその晩、グル・ダルマに案内されて映画を見に行く。メインの劇映画の前に流されるニュース映画を見て、日本の敗戦が否定しようのない事実として迫ってくるのを覚える。
映しだされたのは廃墟だった。英語のナレーションはほとんどわからなかったが、展開されるシーンを見ればいわんとすることは明かである。最初に映しだされたのは完全に焼け野原になった東京を航空撮影したものである。形を留めているのは皇居だけだった。かつて大東亜共栄圏政策を誇らしげにも傲慢にぶちあげた東条英機首相は自殺未遂、米軍のMPの傍らにあってひときわみすぼらしく、萎縮して見える。それに続く画面では、日本兵が日本兵としてはありえざる行為を行っていた。自ら武器を敵軍に渡して投降していたのである。
ニュース映画のなかでも最悪だったのは、焼け野原にになった都市の貧困さであった。ぼろを着た人々が必死になって廃墟の中を生きぬこうとしている。日本が誇る新しい工業文明はどこへ行ってしまったのだ?植民地による領土拡張主義の成果として「日本人全員にもう一杯のご飯」が約束されていたはずなのに、あれはどうなってしまったのか?私とてその謳い文句を信じてモンゴルに脚を踏み入れたというのに。(『偽装』p203)
この瞬間から木村の戦後がほんとうにはじまったと言ってよいだろう。木村はビルマ方面で日本軍と闘って手柄を立てたグルカ兵が、ぞくぞくと復員してくるカリンポンのにぎわいのなかで、1週間くらいカンチェンジュンガの偉容が目のあたりにできる「町の後にある丘に登って大岩を見つけ、ひがな一日じっと腰を下ろしていた。何かを考えられるどころか、恥辱と苦悩の波がひたひたと押しよせてくるのを感じるのみ。」と書いている。
木村が実際に上の『偽装』の文 章を述べた(インタビューを受けた)のは1988年らしいが、実に43年後である。木村の記憶には、航空撮影の廃墟となった東京の映像がカリンポンの映画館で見たときと同じ鮮明さで残っていたと思える。

木村がこのとき「恥辱と苦悩の波」の中で考えたことが、木村の後半生を創っていったと思う。“大東亜共栄”を信じていた自分と中国大陸での天皇の軍隊の醜い実態、現地の民衆への欺瞞と裏切り。天皇制の支えを失った自分はダンザン夫妻らモンゴル人の宗教心に遠く及ばない空疎な存在でしかないという失落感。そこで初めて感じた「ホームシック」。
日本人は命令とあれば盲目的に、考えもなくそれに従うことで有名だが、モンゴルへ行く前の私は、自分はそんな同国人とは違うと自負していた。だが今ではそんな自負心も何も役に立たなかった。いやもっと始末に悪い。私ならこの敗戦の恥辱を前もって予期してしかるべきだったからだ。「大東亜共栄圏」の幻想は私たちの足元に崩れ落ち、その実態を曝け出した。1930年代に内モンゴルの蒙政会会議に出席した内モンゴル人の言葉がおのずと脳裏に甦った。「今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけ日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海の中に叩きだすだろうよ」。彼は正しかったのだろう。占領地の人間と友情を結んだ日本人もないではなかったが、一般論を言えばあれほど苛酷な統治をしいた相手から忠誠を期待できるはずもなかった。(『偽装』p205)
「蒙政会会議」に出席した男の日本批判は、わたしはすでに第5節で引用し、検討した。そこで「モンゴルへ行く前の私は、自分はそんな同国人とは違うと自負していた」というのが、渡満旅行の列車の中での“モンゴル独立の手助け”と言ってしまったエピソードに結びつくことなども紹介しておいた。
なおついでに、磯野富士子の『冬のモンゴル』からの引用で「1つの国が他の国を直接に、あるいは間接的にでも支配している場合には、それぞれの国に属している個人の間の友情は、本当には成り立ちえないことを痛感する」と述べていたこを想起しておきたい。上引の木村とほとんどそのまま重なると思う。

木村の「恥辱と苦悩の波」の中での反省をもうひとつ。上引の続きである。
人間が自分の存在感を少しでも味わうためには、ひとつの集団に属する必要があると言われる。あれこれ言っても私の人生は全知全能の天皇陛下の保護のもと、日本という国家に属しているという仮定のもとに成り立ってきたのだ。それを自己欺瞞と呼びたいなら、呼ぶがいい。いずれにせよ、すべては終わった。心のなかにぽっかりとあいた穴を埋めるものはなにもない。モンゴル人のふりをしてみても所詮私は偽モンゴル人にすぎない。モンゴル人が第一に忠誠を誓うのは宗教であって国家ではない。ダンザンやツェレンツォーがごく自然に吐露する信仰心の類を私は一度たりとも感じたことはなかった。ならば、私はいったい何者なのだろう?(『偽装』p206)
「ラマの大部分が宗教のほうが国家より大事だと考えている」という『潜行』の語句を少し前で示しておいた。木村は天皇制国家が崩壊したことを知り、自分が世界に出ていく根拠と考えていたものがすこしも根拠たり得なかったことに気づいた。そして、国家より宗教に価値をおくダンザンら多数のモンゴル−チベット人たちの方が、人生のより深い根拠に足をおいた生き方をしているのではないか、という真摯な自問が沸きおこってきたのである。この問は、近代の日本人たちがみな等しく、敗戦において問わなければならない自問であったはずである。“国家に足をおいた生き方というものは、浅い生き方ではないのか”という。
木村は最初から、戦争責任論のもっとも深いところに立つことができていたと、わたしは思う。(この点について第8節で再論する。)


カリンポンで敗戦を確かめた木村 は、その事実を受け止めて日常的な活性を得ることができるまでに1週間かかった。その間、ダンザン夫妻は「思いやり深くも私のことをほっておいてくれた」と木村は述べている。ダンザン夫妻に日本敗北を説明すると、「モンゴルに戻ったら牧場経営をしよう」という3人で立てていた計画が実現されないことに失望を見せただけだった。

木村とダンザン夫妻は、特にツェレンツォーが望んでいた念願のブッダガヤ巡礼に出かける。インド鉄道の無賃乗車の旅である(木村『潜行』も面白いが、インド国内旅行については、何と言っても西川一三『秘境』下巻p309〜 が詳細で痛快である)。ブダガヤ巡礼で木村は「気力が回復」してくるのを覚える。「日本のことはしばらく過去の記憶の中に留めておくことにしようと私は決意した。自分の正体は忘れ、故郷に戻ろうという計画は捨て て、懐の淋しいモンゴル人の巡礼者として将来のことを案じた方が良策」だろうという考えに落ち着く。

カリンポンに戻った木村は、タルチン・バブーというチベット語の新聞を発行している人物に紹介される。その印刷所の下働きとして雇ってもらえる。のちにタルチンが英国情報部とも関係があることを知る。そして、持ち前の語学好きの才能を生かして、チベット語と英語を身につける努力を日常的にする。ダンザン夫妻はタルチンの自宅で、糸つむぎの仕事をもらう。

上の2枚の写真は、インターネット上で見つけたタルチン・バブーの新聞社 Tibet Mirror Press (小さくてわかりにくいが、看板)の写真と、当時チベット語の唯一の新聞であった「Yulchog Sosoi Sargyur Melong」(Tibet Mirror、“各地方のニュースの鏡”(この直訳は西川によるもの『秘境』下巻p288))である。新聞は1930年代のもののようで、石版刷り。いずれも、スイスのドキュメンタリ・フィルムのangry monk productionsから拝借しました。このプロダクションは2003/04の春に発表すべく「gendun choephel」(ゲンドン チョッフェル?)という作品を作成中である。ゲンドン・チョッフェルは「Tibet Mirror」の寄稿者であった学僧(1903〜51)で、その反逆の人生をたどる作品のようだ。

タルチン・バブー(Tharchin Babu)は、英名を Gygen Tharchin というクリスチャンに改宗したチベット人で、ラダック出身。デリーに出てインド新聞社の小僧として苦学し、宣教師となって、布教に努めた。英国側の援助もあってカリンポンで新聞発行を始めた。チベット人を啓蒙する意図をもって新聞「Tibet Mirror」を発行し続けた。カリンポンではだれひとり知らぬもののない有名人であった。(タルチンの新聞社の様子などは、『秘境』下巻p286〜291に詳しい。西川がそこで働いた1947年頃の新聞は「6頁の週刊誌で部数も3千足らず」で、石版刷りだった。西川がそこを辞めたのは1947年秋だが、彼がいる間に活字印刷機が入った。)
TIBETAN BULLETIN(1999年1−2月号)から引用してみる。
チベット人の思考に影響を与えた最初の新聞といえば、「チベット・ミラー」紙である。1925年10月にカリンポンでG.タルチンによって創刊された。・・・・・・“私は初版はラサの友人たちへ50部送った。その中にはダライ・ラマ13世も入っていた。”(「Tibetan Review」1975年11月)。タルチンは1927年にダライ・ラマからの親書を受け取っている。それには“きみが中国や英国のニュースを毎月送り続けてくれれば、自分が色々な情勢を理解するのにとても助けになる”とあった。
タルチン・バブーは“それは、すくなくともラサに住むチベット人が、外の世界の変動をまず知るたった一つの手段だった。中国革命や第2次世界大戦やインドの独立などについてね。だから、その影響力は実に大きなものだった。”と、回顧している。
チベットへの中共軍の侵攻があった1949年のタルチンについて、あるアメリカの記者が「毛沢東とたったひとりで闘っているみたいだ」と評したという。なお、タルチンは自分の新聞社チベット・ミラー・プレスから『英語・チベット語・ヒンズー語辞典』(1968)などを、4冊出版しているのがインターネット上で確かめられる
)。

つぎのカリンポンについての木村肥佐生の文章は美しく、地理的・歴史的に重要な位置を占めるこのヒマラヤ南麓の町をよく把握していて、内容的にも優れていると思う。
こうしてカリンポンは私たちの第2の故郷となった。敗戦のショックから立ち直ってみると、これほど多くの文化が一堂に会し、東西のエッセンスを結びあわせた快適な土地は、インド中さがしてもあるまいと思われた。カリンポンはインドとチベットの交易の中継地点であり、船にとって港がそうであるように、キャラバン隊の終着地点であった。長い年月「チベットの港」として知られ、ヒマラヤ地帯でももっとも活気のある市場の1つであったカリンポンは、またマルコ・パリス、ジョン・プロフェルド、アレキサンドラ・デヴィッド=ニールのような高名な西洋人学者や探検家たちの基地や出発点になった。第1回の入藏をはたした河口慧海は1902年にここに脱出してきている。1910年の中国軍侵略の際、ダライ・ラマ13世はカリンポンに亡命し、後にここからラサに凱旋帰還を行って正式に独立宣言を行った。20世紀初頭チベットにあった日本人、青木文教、多田等観、矢島保治郎、寺本婉雅らはみな何らかの形でカリンポンに縁があった。そんなカリンポンに住むこと自体、偉大なる伝統の後継者になったような気分にさせられたものである。(『偽装』p214)
1945年11月のある日、木村はタルチンに、内モンゴルからインドまでの「旅行の略図を書いて、当時各地がどの勢力の支配下に属し、どのくらいの軍事力を保有していたか簡単な説明をつけるよう頼まれた」(前掲書p216)。指示のままに地図を書いて渡した。数週間後に、タルチンは木村をひとりの英国人に引き合わせた。インド東北辺境区の情報部長であったが、「われわれなら、きみが故郷内モンゴルに戻る手助けができるが・・・・」と、暗に協力を求められた。木村は自分の正体が割れていないことにホッとするとともに、インドからより内モンゴルからの方が日本に帰りやすいだろうと考えて、好都合だと思う。来春から英語の学校に通わせてやるといわれ、それまでチベット語の上達に専心するように言われた。


(7) 西川一三・ドクター・グラハムズ・ホームズ

1945年11月末にカリンポンの事務所に西川一三が現れる。『潜行』では「子羊の毛皮で作った帽子をかぶり、ひげボウボウで黒の蒙古服に大きな荷物を背負い、太い棒を杖代わりについた男が立っている。よく見ると内蒙古で別れたきりの友人西川一三氏である」と書いている。西川は内モンゴル・トムト旗出身のロブサンと名乗っていた。連れのモンゴル人がその場から離れた隙に喋ろうとして、2人とも日本語が出てこない。西川はモンゴル語で
 「日本は負けたのかね?」
と聞いた。その晩、夕食後2人は示し合わせて、人の来ない教会堂のベランダに行き、そこでなによりもまず日本の敗戦に関する話をする。木村はニュース映画の外に新聞記事などの写真の切り抜きの束を西川に示し、西川はおぼつかない石油ランプの光でそれを見た。敗戦が確かな事実であることを西川は知り、ひどいショックを受けたようだった。その後2人は内モンゴルからラサまでの行程について情報交換し、特に西川は木村の動勢をかなり頻繁に把握していたと語る。

チベット暦のこと。木村と西川が再会したこの晩の日付を、木村は「1945年の11月末」といっている。西川は『秘境』下巻でこの記念すべき晩のことを「昭和21年の新暦1月17日の夜のことだった」とわざわざ書いている。木村の本『潜行』、『偽装』では、月日は基本的にチベット暦を用いている。西川の『秘境』3巻もそうである。ただし、日本の敗戦のニュースを尋ね回るあたりは、西暦で書いているようである。
チベット暦は、基本は太陰太陽暦で1年を30日×12月=360日とするが、(1) 閏月を挿入する。(2) 年に6日の「欠」(チュー)があり、その日は無かったものとする、逆に、同一日を重ねることもある。したがって一般には、政府の占星官が発表するカレンダーなしには、チベット暦と西暦との換算は難しいという。
チベット暦については、「ダライ・ラマ法王日本代表部」のサイトの暦と占星術を見てください。
インターネット上の暦変換サイトで、試みに、上記1946年1月17日をチベット暦(「時輪暦」というもの)に変換してみると、2072年閏11月15日となる。これは「11月末」という記述とあわない。もうひとつ、木村は東チベット探査行の間にインド独立(1947年8月15日)があったことを述べているのだが、それを「その年の7月」としている(『潜行』p215)。これを変換すると2074年6月30日となり、これもあわない。一応こういうサイトもあるという紹介に留めておく。


2人は今後どのようにするかも相談したが、「結局あせらず時機を待って日本へ帰るのが一番良いだろうということになった」(『潜行』p173)。木村は新聞社にいて安定した生活がはじめられている。西川は持ち前の健脚を生かして、アルプス越えの密交易(カリンポンからタバコを背負って交易町パリへ行き、そこで売る)で生活を立てることにした。この伝統的な交易の、西川にとっての最大の難関はどうやって税関を抜けるかであるが、乞食同然の西川をみて税関吏は“調べるに及ばず”という態度をとる。このあたりの痛快な物語は西川の『秘境』下巻に詳述してある。
西川の特長は、頑健な身体と肉体的苦痛を苦痛としないタフな精神の持ち主であること、それとチベット仏教に本当に興味を感じていることだ。内モンゴルからの行程をすべて徒歩で通しており、途中のクンブム寺などで1年ほど本格的なラマ修業をしている。大蔵経暗記の猛勉強で、近眼をだいぶ悪くしているが。木村はそういう西川と自分との相異を次のように書いている。
私たち2人は興味の対象こそ似通っていたが、それでも多くの点で異なっていた。言葉と旅の分野では私は自分のなしとげたことを誇る権利があると感じていたが、それでもある面では西川氏に先んじられていることは認めざるをえなかった。たしかにモンゴル語の発音にかけては、彼よりも私の方が上だ。そのせいもあって彼は中国化した地域(そこではモンゴル語もなまっている)の出身と称していた。だが、彼は実際に僧院生活をおくった経験から、私とは比べものにならないほどチベット語に、特に古典チベット語に通じるようになっていた。彼ならなんなく僧侶を装うことができた。実際的な理由があったとはいえ、彼は本物の僧侶だったのだから。そして西川氏自身が誇らしげに言ったように、彼は中央アジア全域を徒歩で歩き通している。新たな土地を自分の目で見、新たな知識を増やしていく以外の野心は彼にはないようだった。そして彼は肉体的な苦労なら相当苛酷なものでも平気でこなせるたちだった。(『偽装』p223)
木村の西川評については、後にもう一度取り上げるが、冷静で親切な評価がなされていると思う。これに対して西川は長大な『秘境』全3巻のなかで、このような木村評はしていない。自他の距離を意識している知識人としての木村と、体ごと状況へ入り込んでいく西川との個性の違いを、そこにも見ることができる。探検記としては西川『秘境』の方が断然面白いと言っていいだろう。
西川の3度目の密交易のヒマラヤ越えのとき、木村と長年一緒だったダンザン夫妻が内モンゴルに帰るために西川と一緒にカリンポンを立つ。これで木村はカリンポンで完全にひとりになる。それで、事務所で起居し、食事はタルチン一家と一緒にとる生活になり、日常的にチベット語を使用する環境となる。1946年3月からは、「ドクター・グラハムズ・ホームズ」という学校に入り集中的に英語習得もはじまる。

この学校ドクター・グラハムズ・ホームズのことについて、触れておきたい。
まず、『潜行』では「セント・アンドリュウ・カレッジ」と書いていて、『偽装』では「ドクター・グラハムズ・ホームズ」としているのが不審で、調べてみた。すると、後者の名前で、なんと、日本語サイトが現存している。これは、この学校の日本援助団体が宮崎県にあるためのようだ(園芸科などを支援しているらしい)。もちろん、「Dr Graham's Homes」で検索すると多数のサイトがヒットする。この学校はカリンポンでは著名な存在で、略称「DGH」としているようだ。オフィシャル・サイトよりも、、記述が詳しくてわたしのお勧めなのはこちら。写真もいろいろ置いてあるが、木村肥佐生が日本の敗戦を確かめたあとしばらく眺め暮らしたというカリンポンからのカンチェンジュンガを、このサイトからいただいた(卒業生からの投稿写真で、アルバムをデジカメで写したもののようです。ほかにも、1930年代の学園生活の写真など、興味深いものがあります)。

DGHからみたカンチェンジュンガ

スコットランド教会のグラハム John Anderson Graham が宣教師としてカリンポンに派遣されたのが1889年である。彼はこの大英帝国の植民地で、アングロ・インディアン(父が英国人、母がインド人)の多数の子供たちが、劣悪な状況下で茶畑でこき使われている現実を知る。いわゆる“生まれてくることを望まれなかった子供”というわけだ。その子供たちに教育の機会を与えるために寄宿制の学校「セント・アンドリュウ・カレッジ」を設立する。これが、1900年のことである。インド政府の援助もあり(インド政府が500エーカーの敷地を無期限に貸し与えている)、学校は成功し、グラハムは「カリンポンの父」と慕われていた。彼は1942年に没するが、その葬式はカリンポン始まって以来といわれた、という。彼の死後、校名が「ドクター・グラハムズ・ホームズ」と変更された。
木村肥佐生がこの学校で学ぶのは、グラハムの死後4年ほど経過した頃になるが、校名が変更される前なのかも知れない(この点、確認できていない)。ともかく、これで『潜行』では「セント・アンドリュウ・カレッジ」と書き、『偽装』では「ドクター・グラハムズ・ホームズ」としている不審が解決した。

この学校は「日本を含む世界8カ国のNGOによって運営され、貧困のため学校にいけない子ども達を養育・教育しています」という位置づけになっている(日本語サイトより)。 現在は、生徒総数1200名のうち800名が寄宿生で、寄宿生の600名が「資金援助を受けている生徒」であるという。つまり、約半数の生徒の多くがカルカッタのスラム街、その他のインド社会、ブータン・ネパールの近隣諸国・シッキム州やチベット(何人かは北部の難民キャンプ)から引き取られている。
木村の『潜行』では、「90%がアングロ・インディアン」であると言っている。
生徒の90パーセントはアングロ・インディアン混血児である。他に若干の英人、ネパール人、チベット人の生徒がいる。チベット貴族の子弟もいる。(『潜行』p176)
木村は、大英帝国の余映の残るこの学校の恵まれた環境で英語習得に全力を挙げることになる。次の引用で、木村のこの学校の提供してくれた環境への評価と敬意を読みとれるのではないか。
私は毎週土、日を除き、パムフィールド夫人という教師から毎日、2,3時間の英語の特別レッスンを受けることになった。図書室も自由に使うことを許された。私は日本でもミッションスクールを出たので、英語は比較的よくできた。ただ、蒙古語の勉強で長年遠ざかっていたのでいくぶん記憶が薄れかかっていたのが、語学の勉強は好きでもあるので、寝ても覚めても英語の勉強に熱中した。(『潜行』p176)

2ヶ国語を習得しなければならないため、脳味噌の方はまさに狂乱状態だった。タルチンは仕事より勉強の方が大切とみなしているらしく、しばしば私がやるべき仕事を端陽[下記]に回し、勉強に励むよう叱咤激励してくれる。その結果、カリンポンに滞在しはじめて約1年後の1946年の末には、モンゴル語ほど流暢にはいかなかったが、チベット語はかなり、英語も不自由しない程度に話せるようになっていた。(『偽装』p232)
更に好都合なことに、丁度このころタルチンを頼ってきた英語を喋る端陽(トワンヤン)という同年輩の青年と同居することになる。彼は父が中国人、母がチベット人の孤児で、オランダ人学者の援助で大学教育も受けたという英才で(後、ニューヨークで『Life of Hill Boy』というインド放浪記を出版した)、「きれいな英語」を喋った。「彼と同居したことは、私の英語会話を進歩させるのに大いに役にたった」と木村は書いている。このようにして修得した木村の英語の能力は、帰国後に生かされることになる。
なお、木村の英語が優れていたことの例証として、1949年5月中旬に木村がチベットから追放されインドへ出る途上、たまたま「秘境旅行」をしていたローウェル・トマスという米ラジオ解説者と会話したことがあった。後に出版された旅行記『Out of the World(世界の涯てで)』のなかに、その場面が書かれているという。
ヤートンの郊外で若い中国人に完璧な英語で話しかけられたときには驚いた。
「やあ、どこに行かれるんです」
・・・・・・(中略)・・・・・・
「どこでそんなに上手い英語をならったのかね」
またしても彼は落ち着きを失った。
「まあ、インドで習ったことにしておいて下さい」
その後聞いた話によると、かれはソビエトのシベリアに接した内モンゴル出身で、5,6年ほど日本で学んだこともあるという。
木村自身は「話の歪曲ぶりに仰天した」と書いているが、彼の英語能力が並々ならぬものであることは、わかる。(『偽装』p318)




西川の3度目の密交易は、商売としては成功したが、その帰りのヒマラヤ越えのときに吹雪に遭い、カリンポンに半死半生の状態でたどり着いた。そのとき受けたひどい凍傷の治療を兼ねて、西川はカリンポンの乞食社会に身を投ずる。「季節は冬、カリンポンの町は乞食が溢れかえっていた。寒すぎる高原を避けて降りてきたのである。夏になると乞食たちはもっと涼しい高所へぞろぞろと移動していく。遊牧民の習性とでもいうべきか」と木村は書いている(『偽装』p230)。西川らしい奇想天外な行動を書いた『秘境』(下巻p99〜118)のその部分は、全巻のなかでも殊に面白く貴重な記録だと思う。
1月後、西川は起きて歩けるようになると、木村に「ラサに戻りデブン僧院に入学する」(同p231)決心をしたことをうち明ける。(「デプン僧院」ないし「デプン寺」という表記について、念のために注記しておく。「デプン」は Drepung の音写であるために、さまざまな表記がある。「デブン」「レポン」「レプン」「レブン」などが実際に使われている。特にインターネットで検索したりする場合に注意が必要である。なお、意味は「山盛りの米」ということだそうだ。
これは第3節で述べた「タール寺」「クンブム寺」が同一の寺で表記が異なるというのと似たような事情。ただし、今度は、ひとつのチベット語の日本語表記の差異の問題。
)

1946年春に、西川はラサへ戻っていき、木村は上述のようにカリンポンでチベット語と英語の習得に熱中しはじめる。



(8) 東チベット探査行・反政府活動

木村肥佐生自身が日本帝国のスパイであり、敗戦後は“祖国を失ったスパイ”ということになった。おそらくそのためもあって、木村はカリンポンのスパイ世界に敏感である。カリンポンには、19世紀の帝政ロシアと大英帝国の「グレート・ゲーム」(中央アジアに南下しようとする帝政ロシアと、それを食い止め自らもインドからさらに北上しようとする大英帝国の間で、19世紀のほとんど1世紀を通じて行われた、西はコーカサス、東はチベットにいたる1大情報・軍事合戦。(『偽装』の訳注p234))の残り火があり、その基本構図の上に重層的に、国民政府や共産中国のスパイが入り乱れていた。
地下活動に関わっていたのはインド情勢を探るために派遣されていた中国人スパイが多かったが、その他、反政府活動を行うチベット人亡命者や活動家、反中国派のチベット人、白系ロシア人、共産主義のロシア人もおり、このこじんまりした閑静な町で雑多なスパイが各々の目的を秘めて暗躍していた。(『偽装』p233)
第6節ですでに述べたように、タルチン自身が、チベット・ミラー・プレス社という新聞社で、当時唯一のチベット語新聞を発行しながら、イギリス情報部に深くかかわっていた人物であった。
1946年11月にタルチンは木村に対して、事務所で2人だけになったときに、次のような重要な「探査旅行」の提案をする。
英国はいまインド独立のための政権委譲の手続きに入っている、その隙に中国がチベットを侵略する心配がある。「チベットの東国境地帯を探査して、中国がチベットを軍事侵略する準備を整えているという噂が本当かどうか探り出して欲しい」(『偽装』p242)と。
そして、この探査が危険なものであることを強調して、すでに2人を送り出しており、1人は病死、1人は行方不明になっている。木村で3人目であると語った。(後に、木村は自分にも英国が雇う現地防諜員として「ATS5」という番号までふられていたことを知ったと書いているが(p250)、それを知った経緯は明かしていない。ただ、「数十年後、私はロンドンのインド局図書館に1946年4月27日付の「チベット援助」と題された超機密文書が存在することを知った」と述べており(p243)、自分が英国のインド支配の手先として使われていたことを明確に掴んでいたようだ。)
木村はその場でこの提案を受けるのだが、自分の心境を次のように説明している。
普通ならこんなことを聞かされれば心配になるところだが、実際のところさほど気にならなかった。私自身苛酷な旅を経てきたこともあり、自分の能力には自信があった。心配なのは祖国日本に害を与えるような行為を行うことで、この場合、それはあたらないようだった。

拾得したばかりのチベット語の能力をためすまたとない機会だし、おそらくチベットの独立保持のためにも役立つだろうツうがった見方をすればこれも圧政的な植民地政策のお先棒をかついだことへの、無意識の償いだったのかもしれない。(『偽装』p243)
鍛冶屋にひとふりの剣を注文したり、「象牙を鋸で引くときにでる粉」をもらったりしている。これは、外傷の止血薬として珍重されるのだそうだ。残りの旅の準備はラサで行うことにして、すぐ、出発した。木村は1947年の正月にラサに着く。カリンポンからラサまで、カムパ族のキャラバン隊に同行するのだが、20日間かかっている。(カムパ族とはカム地方(東チベット)に住む民族)。
デプン僧院に入って「貧しくも苛酷な生活に耐えてよく勉強している」西川一三に連絡を取る。現れた西川は「あいもかわらず肉体的な快不快に無頓着で、真冬の凍るような寒さの中でも、靴も履かず、くたびれきった薄い僧衣をまっているだけだが、元気一杯だった。だが、(猛勉強のために)目だけはますます悪くなっているらしい。」(『偽装』p252)
木村は、西川にタルチン提案のカム地方(東チベット地方)の偵察行の計画をうちあけた。西川は「普通なら喜んで飛びつく」のだが、デブン僧院の生徒としての身分を手放してしまいたくない、殊に師事しているラマを裏切りたくないと迷う。木村は西川に「決心がついたら連絡をくれ」といって、別れる。しかし西川は「結局未知の地を探究したいという気持ちが勝ったらしく」、同行したいと言ってくる。だが、1月4日から21日間にわたって行われるモンラム(大祈願会、これについては西川の『秘境』に詳しい。河口慧海『チベット旅行記』にも出ている。ラマ教のチベットの特徴がよくでている大きな行事)はどうしても欠かせないので、そのあとに出発してくれ、ということだった。

木村と西川は、1947年2月下旬にラサ を出て、きわめて困難な旅を続けてチャムドオ(昌都)・ジェクンドオ(玉樹)を経て、餓死寸前の状態でラサに帰り着いたのが8月初旬で、約半年の偵察行であった。この旅の詳細は木村『潜行』、西川『秘境』でそれぞれ書いているので、それを見てもらうことにする。小論では、木村と西川の旅のなかでの「対立」に関連するところだけ、取り上げておく。
木村は半年にわたる西川との偵察行のなかで、2人がたびたび仲たがいをしたと言っている。
(無一物となり、持ち物を売りながら食べつないでいる状態の他に)もうひとつの問題は、2人の間にたびたびケンカが起きることだった。こんな荒涼たる僻地に故国を同じくする2人の人間がいれば、お互いの絆も自動的に強まると思われるだろうが、私たちはことあるごとに角つきあわせていた。皮肉なことにもっとも深刻なケンカは(今から考えるとまったく馬鹿げたケンカなのだったが)私たちが日本人であるがゆえに起きたともいえる。ある日私は、天皇がいようといまいと、日本も日本人も生き残るに違いないと口をすべらした。すると西川氏(本来ならば反逆精神にみちた人物である)は天皇を戴かない日本を想像するなど、大逆罪もいいところだと反論してきた。私たちはモンゴル語で一日中、口角あわをとばして議論した。私たちのどちらもまだ天皇がおられるかどうかも知らなかったのにもかかわらずである。西川氏はよほど腹を立てたのか数日間口をきこうとしなかった。(『偽装』p280)
この時の苦しい調査旅行の半年は西川も『秘境西域十年の潜行』のなかで書いているが、木村の落ち度を攻めるような書き方をしているところがある(下で少し紹介する)。それについて、木村は次のように書いている。
西川氏とは1950年代初頭復員局の共同部屋で一緒に暮らしていた間に仲直りをすることができた。西川氏はここで旅行記を書きはじめており、私たちは過去の出来事や場所を話し合って記憶を新たにした。原稿の一部を見せてもらったが、きわめて詳細に良く書かれていた。しかし、1960年代初頭、全3巻で出版された彼の旅行記の中には、悲しむべきことに、以前目を通した原稿の中にはなかった私への個人攻撃があまた記されていた。話を面白おかしくするために、編集者が首を突っ込んで、時にはさかまく嵐のようであった私たちの仲をわざわざとりあげさせたとしか思えなかった。西川氏の旅行記は日本でベストセラーになったが、彼の中傷によって私のアカデミックな経歴が傷つけられたり、モンゴル人やチベット人との友情が妨げられることなはなかった。(『偽装』p331)
「個人攻撃」とか「中傷」というのがどういうことを指すのか、わたしは木村のこの部分を目にする前にすでに西川『秘境』全巻を読んでいたが、特に思い当たるところはなかった。「アカデミックな経歴」などと言っているのだから、政治的な判断や行動にかかわるようなこと、裏切り行為などを示唆していると思えるが、・・・・・・。

次の引用は西川『秘境』からである。
チャンドゥ(昌都)を出て数日進み、チベットと中国の国境の町チョルケイ・スムドウの橋で、チベット兵と官吏に呼び止められるが、なぜか木村は立ち止まらなかった。
友[木村]は虫の居所でも悪かったのか、それともこちらの弱いところを見せたくなかったのか、
「なんだ、あいつらが・・・・・・」と機嫌が悪い。
「待てと呼んでいるのだから、待ったらどうだろうか。相手はバカでも役人だ。いま怒ったって仕方がないではないか・・・・・・」
(中略)
どこの国の官吏も同じで、威張りたい彼らにへいこらと頭を下げていれば良いのに。木村君の態度はますます彼らを怒らせ[尋問を受けることになる]。
[中略、隊長が西川と同じレボン寺出身のラマであったので、ふたりは蒙古人で、“ジェクンドオ(玉樹)を経て内モンゴルへ帰郷の途中だ”ということで話はうまくいきそうだったが、軟禁が命じられる]。その一つの原因は、木村君がチャンドゥ(昌都)の長官と会ってきたことを話したからである。(木村君は「我々はチャンドゥの長官に会ってきたのだから、下っぱのお前たちが」という気持ちがあったのである。)(『秘境』下巻p )
2人がラサを出発した直後に、ラサで「セララマの反乱」というセラ寺のラマ数十名が死傷する事件があり、それの関係者ではないかという疑いが2人にかけられていた(この事件のいきさつについては木村『潜行』が詳しい)。チャンドゥに問い合わせるまでの2週間ほど、留め置かれることになった。
その間のある日、突然チベット兵がきて、「荷物を預かる」という。木村がそれに抵抗する。西川は「隊長が帰ってくるまで、荷物を預けよう」というが木村は聞かず、縛られ拷問にあう。西川はそれをどうすることもできなかった。
この件で、西川は常識ある人間としてなだめ役になり、木村は短慮で気短で軽率な人物として書かれている。
同じ出来事を、木村はいずれに落ち度があったというような書き方ではなく、クリアに書いている。例えば、最初に橋で声をかけられるところ。
チャムドオから7日行程、メコン川の支流に面してツォルケ・スムド(スムドとは川がY字形になっている地形の意味)というところがある。ここがチベット政府と青海省との行政上の境界になっている。川の上に木造の橋があって扉がついている。私たちが橋を渡って行こうとすると橋のたもとに数人のチベット人がいたが、あごひげを生やした坊主頭の男がいきなり、「どこから来た、どこへ行く」と聞く。「ラサから蒙古へ行く」、「いつラサを出た」、「確か2月16日」、「よし、ちょっと用があるから一緒に来い」と私たちを引っ張っていった。(『潜行』p200)
西川は、軟禁となった理由の1つは木村が「チャンドゥの長官に会ってきた」とたかびしゃな態度をとったからとしているところを、木村は次のように書いている。「私はチャムドオでユト総督に会ってきたというと態度がだいぶやわらかくなって、とにかく、チャムドオへ照会の手紙を出すから返事が来るまで出発はまかりならぬという」(同p201)
だが、その晩民家に泊められることになるが、2人は別々にされ殴られ、縛られる。木村は相当ひどく殴られ、民家の主人夫婦に夜中に繩をゆるめてもらう。西川も縛られたが、たいしたことはなかった、という。

2人の言い分のどちらを本当とするか決め手はないが、木村がひどく殴られたことは共通している。木村がチベット役人と守備兵に従順でないことがあったという西川の記述を西川の創作とみるより、木村は頭の回転が速く感情が激してくるとそれをそのまま外へ出すような一面があったと考えるべきだと思う。「瞬間湯沸かし器」という言い方があるが、そういう一面を持っていたのではないか。ペマ・ギャルポ「恩師 木村肥佐生先生の思い出」の中に、「先生は一見短気で、気の荒い部分もありましたが、基本的には非常に気配りが細かく常に周囲のことを考慮していられました」(『偽装』p387)。同じ、ペマ・ギャルポの文から。「先生は美しい顔をした、男受けするような方であっただけではなく、武人としても素晴らしい素質を持っておりました。剣道は当時の旧制中学全国大会で優勝したこともあり、また柔道に関してはチベットの僧兵(ドブド)を投げ飛ばして、初めて身分がばれたことがあるくらいの実力者だったのでした」。木村は瞬発力のある意志的な人物であったのであろう。(ペパ・ギャルポは1953年生まれ、木村の骨折りで1965年に来日した最初のチベット人留学生。日本語・英語が堪能。チベット文化研究所所長)

木村と西川が泊められた宿では、夜になると主人が毛皮の夜具をかついで出ていく。その後に兵隊の班長がやってきて、女房と寝る。木村は翌朝戻ってきた主人に「お前は何ともないのか」と尋ねる。主人は「相手が兵隊じゃどうにもならない、へたすると土地におれなくなる、この土地では政府の兵隊といえば神様みたいなものだ、ほしい物はなんでもとる、したいことはなんでもできる、兵隊の馬の鈴の音(首の回りに小鈴をたくさんつけている)遠くから聞こえてくると、泣く子も黙り、女はかくれる」という。
この辺の者は皆、中国領土へ移住したがっている。チベット政府はむやみに税金を取り立てる。その税金も本当に政府へ届いているか、だれにもわからない。オラー(賦役)といっては家畜や物をとられ、人をかり出して労働させ、食料は自分持ちで賃金は一銭もくれない。それに比べると川向こうの中国領の同じ東チベット人は、はるかに楽な暮らしをしている。毎年税金はきまっているし、賦役には賃金が払われる。(『潜行』p206)
これが主人の話だった。木村は「チベットの封建制度の腐敗、末期的症状を、まざまざと見せつけられる思いがした。」と述べている。
木村がチベット追放された1年後、1950年10月にに中国軍のチベット侵攻がある。東チベットから侵入するわけだが、当初、中国軍に対するチベット人の一定の支持があったことは木村のこのようなレポートからも肯かれる。木村は、「(インドの)刑務所に入れられた間に、チベット人の囚人仲間から、人民解放軍がついにカム地方を通過して(多くのカムパがそれに協力したのは疑うべくもない)中央チベットに入ったことを知った」と書いている。しかし、中国支配が本格化するにしたがって、宗教的自由・政治的自由を求めるチベット人の不満が高まり、東チベットや南チベットで民衆蜂起が起こるのは1957年からである。

木村と西川が東チベット(カム地方)で困難な探査行をおこなっている最中の、1947年10月にインドが英国から独立する。2人は、当初持っていた物々交換用の針もなくなり 、物乞いも試み、最後は所持品をつぎつぎに手放して食物と交換する。「雨衣、ひとえ、余分のシャツ、刀、短刀、数珠、お守り箱」などをつぎつぎに手放していく。ラサに本当に着の身着のままで、やせ衰えてたどり着く。
ラサで知人に金を借り、休養し、 デプン僧院を勝手に飛び出してしまった西川はもうそこへ戻るわけに行かないので、木村とともにカリンポンへ出る。そして、西川はタルチンのチベット・ミラー・プレス社で働くことになる。入れ替わりに、木村はタルチン宅から出て、カリンポン−ラサ間の交易をしながら、ラサに住むことになる。


1948年の初めから木村はラサに住み始めたが、チベットから追放されるまでの約1年半の間にチベット反体制派との交流がある。木村は『潜行』では比較的さらりと、『偽装』ではある程度背景的な事情も含めて語っている。欺瞞的な「大東亜共栄圏」戦略の先棒をかついだ自分に対する「戦争責任」の意識が、彼の行動の動機になっていると言ってよいと思う。
木村はタルチンの推奨もあって、ラサでプンツォク・ワンギュルという『東チベット自治同盟』の若い指導者と親しくなる。この組織はチベット南東部の雲南国境地帯で、「デチェン事件」という中国の支配に反対する武装蜂起を起こしたことがある。プンツォク・ワンギュルは、中国支配に抵抗した英雄という扱いでラサでも公然と反体制的な言動を行っている人物であった(後にわかったことであるが、彼は中国共産党員で民族派的マルキストだった)。チベット政府に「チベット封建政治改革案」を提出したことがあるという。
木村は、チベット政府が特権的貴族と鎖国制によって成り立っていること、それは明治維新以前の日本の政治状況と似ていると考える。しかも、ダライ・ラマ法王を悪く言う国民は皆無であって、政教一致が生きている。そこで、木村はダライ・ラマと天皇とを対比して考え、明治維新を革命モデルとしてチベットに適用するというアイディアをプンツォク・ワンギュルに提案する。
チベットは1867年の明治維新が起こる以前の封建社会の日本によく似ていると私は思っていた。明治維新の特異な点は、王政復古、つまり天皇が再び権力の座につくことと、政治制度の抜本的な改革が同時になされたことにある。チベットも日本も鎖国している間に独自の文化を生みだした。しかし日本は近代化するにあたり、西洋の技術と知識の中から有益なものだけ吸収する一方、賢くも独自の文化を維持しつづけた。明治天皇をダライ・ラマ法王に置き換えれば、チベットを封建社会から近代的な議会制社会へ変革するにあたって日本はいいお手本になるのではないか?(『偽装』p297)
プンツォク・ワンギュルと木村は、毎朝公園で会って、明治憲法の検討を始める。公園は立ち聞きの心配がないからである。木村が交易のためラサを離れている間に「プンツォク・ワンギュルは仲間とともに、新憲法の草案を練りはじめたという。それは明治憲法を参考に、貴族の権力を上院に制限するものであった。」(同p309)
『潜行』の「中公文庫版のためのあとがき」(1982年)に木村は次のように簡潔にまとめている。
私はチベット滞在中、革新的青年グループと知合いになり、彼らと協力してチベットの中世的封建政治を改革しようと意図していた。日本の明治維新を参考にして、世襲貴族や上級ラマからなる上院と、選挙された代表からなる下院の二院制度、及び廃藩置県をモデルに、貴族や寺院の領地接収とその代償としての処遇案などを提案した。また改革の根本精神として、五ヶ条の御誓文を翻訳したりもした(『潜行』p283)。
この時の「革新的青年グループ」は全員チベットから追放処分を受けるわけだが、その「多くは、その後チベットに帰り活躍している」という。

小論のような、第2次大戦中の日本人の行動の一つとして木村肥佐生を取り上げるという視点(つまり、広義の戦争責任論の観点)からではなく、チベット現代史の観点からこの「革新的青年グループ」を掘り起こし評価して欲しいとおもう。そのなかで、木村の提案についても客観的に評価が行われればいいと思う。
わたしは自分の関心のあるところで、「明治天皇をダライ・ラマ法王に置き換えれば」という木村の着想は、もっと注目されるべきであると強調しておきたい。例えば、次のような吉本隆明の発言を掲げてみる(吉本は1924年生まれで、木村の2つ年下)。
戦中の天皇というのは今のダライ・ラマと同じで、つまり生き神様だったわけだ。生き神様のためなら死んでもいい、あるいは祖国のためだったら死んでもいいと思って、特攻隊を生み出したのである。日本も半世紀前はそうだったのだ。(『吉本隆明のメディアを疑え』2002)
天皇制を考えるのに、チベット仏教の活仏制は重要な参考となる座標軸であると、わたしは思っている。

1949年の正月には、中国での国民政府軍の劣勢は明かであり中国共産軍は進撃を続けていた。ラサの蒙藏委員会は国民政府のチベット代表部という位置づけであるから、「国民党政府が給料を送ってこないため、ラサの中国人役人たちは家財道具を売って金に換えはじめている」(『偽装』p315)という状況であった。5月にチベット国民議会の特別招集が行われ、チベット政府は5月中旬に、1週間の猶予を与えて中国人官吏や反政府的人物の国外退去を命じた。木村もプンツォク・ワンギュルもそれに含まれており、5,60名の追放者はインドへ出国する。


西川がチベット・ミラー・プレス社にいたのは1年間で、1948年秋から苦行僧・老ラマについて修業を始める。修業が一段落したところで西川はまったくの無一物の巡礼として、インドとネパールの仏跡巡礼の旅にでる。その旅も終え、次は「ビルマ潜入」の計画を持って、鉄道線路工事現場で働いていた。チベットから追放された木村はカリンポンで西川に連絡を取って、会う。
西川の「ビルマ潜入」の計画を知ることは、下で示す木村のインド警察への自首にともなって西川も発見されてしまういきさつで生じた二人の行き違いを理解する一助となると思う。ビルマは、これまでのチベット・ブータン・インドなどと違ってラマ教圏の外へ出ることになり、どうしてもビザを必要とする(これまでは「蒙古人ラマ僧」ということで、国境を通ることができた)。ところが、ビルマ戦線でネパール人兵士が活躍したので、ビルマがネパール兵の退役軍人の移民を認めることになった。その「退役軍人の多数がこの移民に応募し、出発するまでカルカッタとアッサムの新設鉄道建設の苦力として働きながら」待機しているというニュースを知る。
そこで、アッサムの鉄道工事に従事している退役軍人のネパール人に近づき、彼等の家族の一員となってビルマからパスポートを入手、潜入しようと計画を変更し、アッサムの鉄道建設工事の苦力の群れに身を投じようと決心した。(『秘境』下巻p386)
西川は、工事現場に入るが「たいして骨の折れる仕事ではなかった」といっている。そもそもネパール人やシッキム人が日本人のように勤勉でなく、しかも、雨降りは休み。西川は付近の広い河や湖での「水泳と魚釣りで一日の疲れをいやし」、薄暗いランプの下で仏典の勉強に励んだ。西川は現場で人気があったらしくすぐに「苦力頭」に抜擢され、ネパール人から「ビルマに我々と一緒に行こう」と言われるようになっていた(同p389)。

チベットから追放された木村がカリンポンに立ち寄り、西川と連絡を取る(西川の工事現場を知っている者に手紙を託す)。
その時木村はチベットから追放された身で、今後の方針を見失っている。プンツォク・ワンギュルの中国西部の故郷に来いという話もあったが、日本に帰るしかないかという気持ちもあった。カリンポンで実際に会った西川も、「今ビルマに行くと言ったかと思うと、次の瞬間にはアフガニスタンに行くと言い、その次の瞬間にはいかに日本が懐かしいか‡述べるというぐあいで、心を決めかねている様子であったと木村は書いている(『偽装』p321)。
木村の記述も、西川の「苦力」生活の楽しさを述べていることも虚偽はないと思う。西川の強靱な肉体をもとにした民衆社会への独特の適応力は驚くべきものだ。会って話しあっているにもかかわらず、彼ら2人の人間タイプの違いは本質的なもので、西川の心情が木村の気持ちに十分に達していなかった、と思う。木村は天皇制国家の論理を失い、チベットから追放され、自分の生き方の根源を見失っていた。それに対して、西川はラマ教修業の実践と未知の地方への踏査に課題をみいだしていた。西川も、もちろん、天皇制国家の呪縛から自由であったわけではない。だから、木村と話していると揺れ動く。しかし、西川の独特の適応力は、時の体制的イデオロギーから離れて自己責任で世界の民衆社会へ入っていく普遍的な力を示しているように思う。
木村も、この普遍的な力を十分に示してきた人間であるが、西川に比べて、時の体制的イデオロギーにより深く知的に絡め取られていたのだと思う。

木村が帰国を決心するのは、新聞でカルカッタ港のドックに日本の貨物船ジャカルタ丸が寄港していることを知り、それを尋ねて行ってのことである。
桟橋に横づけになっているのは、横腹に日の丸を描いたまぎれもない日本の船である。中に入ると越中ふんどしにゲタをつっかけた船員がいる。その姿を見た瞬間、私はグッと胸を締めつけられるような感じがして涙ぐんだ。三輪船長に会っても話が思うようにできない。十年近くも日本語をしゃべらなかったためか、相手のいうことはよくわかるのだが、こちらがしゃべろうとしても、ことばがうまく出てこないのだ。実にじれったい感じがした。船長の横にいた人が、もうカラになりかけている下関ウニのびん詰をとり上げて、割り箸をそえ私にすすめてくれた。ウニをなめているうちに、迷っていた私の心ははっきり帰国に決まった。(『潜行』p278)
木村は紙に「私の名は木村肥佐生。7年間日本語を話したことがありません」と書いたが、書くことには何の困難も覚えなかったと言っている(『偽装』p322)。そして、「私は日本に戻りたい」と書く。
その翌日、木村はカルカッタ警視庁に自首する。西川についてもその所在を警察に告げた。西川はすぐ連行される。木村は、自分独りで帰国した場合“西川の両親にどのように報告できるか”と考えたと述べている。木村は平均的な日本人として誠意ある行動をとったといえるが、結果的に西川のビルマ行きを諦めさせることになった。このときの気持ちの行き違いは、彼ら2人のそれぞれが歩んできた人間タイプの本質的な違いからくるものだったと思う。

刑務所に収監されるときに、木村は自首後初めて西川と言葉を交わし、西川のビルマ行き計画が自分の密告によって頓挫したことを知る。
彼が私に投げつけた言葉は短いものだったが苦々しさに満ちていた。彼の家族に義務を果たしたと信じていはいても、彼が私を裏切り者とみなしていると思うと、数ヶ月におよぶ刑務所生活がさらにつらく感じられた。(『偽装』p323)
写真の下の文字は「1950年4月、カルカッタ警察に自首後、州監獄にて撮影」。この時木村は28歳である。(『偽装』口絵より)
西川の『秘境』下巻によると、木村と西川がインドで自首・収監のニュースは日本では「望郷に泣く二青年」という新聞記事で伝えられたという。西川は帰国後この記事を見て
なにかしら悲しいものを見たような気がした。いったん死を決して敵地域に潜入した若者にとっては、「望郷に泣く」とは捕虜になったと同じことだったからである。(『秘境』下p396)
と感想を書いている。“「望郷に泣く」とは捕虜になったと同じことだったから”という感想をもらす西川が、GHQ治下の日本にスムーズに適応しようとしないのは当然のことだったと思う。

2人の帰国は1950(昭和25)年5月31日、船で神戸に着く。木村は郷里の熊本へ帰り、そこで重いマラリアを発し、しばらく病床につく。病床で、6月25日に朝鮮戦争が始まったことを知った。




(9) 帰国後・戦争/戦後責任

マラリアから回復し、木村は上京する。そして彼は「まず外務省アジア局中国課」に挨拶に行った(「中公文庫版のためのあとがき」『潜行』p284)。彼は「大東亜省内蒙古大使館調査課」勤務の形で、「特務員」としての指令を受けていたからである。
中国調査旅行の報告書は提出する必要がないといわれた。そして外務大臣吉田茂の名前で、「神戸上陸の日付を以て依願免職とする」の辞令と共に退職金1万3千円を支給された。私の給与は、終戦の3ヶ月前まで毎月横浜の正金銀行から郷里の実家に送金されていた。(同p284)
日本の「外務省は私が提供できる情報にいっこうに興味を示そうとしなかった」(『偽装』p327)が、米軍はそうではなかった。
木村は東京市ヶ谷の復員局に出頭する。そして、約十ヶ月にわたり、東京駅前の日本郵船ビルの米国極東軍参謀部の対諜報活動局(G2)で詳細な取り調べを受けた。西川もおなじように取り調べを受けていた。朝鮮戦争のさなか、中共軍と対峙している米軍が中国辺境地帯の情報を欲しがっているのは当然だったのである。その間に米空軍の依頼で、モンゴル語会話帳を作ったことがあったと、エピソードを披露している。会話帳の最初の文句は「殺さないでください。お金をあげます」であったという。
G2での取り調べが終わった段階で、CIA傘下のFBIS(外国語放送情報サービス)に雇われることになる。彼はここに「足かけ26年間」勤務した。
FBISは私の才能を効果的に使える職場であった。こうして私はまたしても第3国に雇われて情報活動の世界に足を踏み入れることになった。ただし今回は危険はほとんどなく、しかもかってない高給であった。仕事といってもモスクワ放送、ウランバートル放送、ペキン放送のモンゴル語放送を聴取して、ワシントンから指示された項目内容を英語で摘要を書き、一年に一度放送の性格を報告するだけの快適な職場であり(『偽装』p327)
これは、善し悪しの問題ではなく、木村の世界に関わる仕方の、よって来たる結果が現れていると思う。“世界に情報から関わっていく”木村の仕方である。
それに対して、西川はGHQに「協力的であるとは想像しにくかった」と木村は述べている。「西川氏は真冬のさなかでも、インド製の薄いドーティにサンダル姿だったため、取調官の通訳から進駐軍の軍服と軍靴を提供されたが、以前の敵からは恩は受けないと言って断ったそうである」(『偽装』p326)。(同じことを、西川は次のように書いている。ある日、通訳が進駐軍の軍服、外套、軍靴を示し「寒いだろうから」と言ったという。西川は「ここに勤務している多数の日本人と同じ姿になる自分を想像して、嘔吐するような反感を覚えた。私は、言下に拒絶した」そして、その親切な通訳に、「私たちは戦争には負けた。しかし、私は、精神的には負けてはいないのだ」とはげしい言葉をぶつけた。『秘境』上p40 )また、木村に対して西川は「きわめて堅苦しい態度」をとっていた、という。だが、すでに第8節で引用しておいたことだが、「西川氏とは1950年代初頭復員局の共同部屋で一緒に暮らしていた間に仲直りをすることができた。西川氏はここで旅行記を書きはじめており、私たちは過去の出来事や場所を話し合って記憶を新たにした」と木村は述べていた。(西川が『秘境』の原稿を3年間かかって書いたのは、1953年頃までであろう。が、出版は遅く、初版が67〜68年である。下に示すように、木村の『潜行』は57〜58年に書かれ、初版が58年。)

木村は、『偽装』の最後のあたりで、モンゴル−チベット−インドの「潜行」の10年間に出会った人々のその後の動向を列挙しているが、西川については「西川氏は岩手県に住んでいる。彼は裕福な美容器材卸売業者の娘と結婚し、義父の亡き後その仕事を継いだ。」(p334)としているが、あまり品のいい言葉遣いとはいえない(厳しく言えばプライバシー侵害である)。帰国後の木村がCIAの下部組織で英語とモンゴル語を使う仕事をし(モンゴル語放送の傍受)いわば防諜活動を続けたのに対して、西川は諜報活動から離れて「一庶民として生活している」と述べればそれで十分だったと思う。


『潜行』は、1957年に行われた「チベット・中国青海省探索旅行」についての講演記録をもとにしている。主催はマナスル登頂(1956年)の余勢をかって、青海省のアンネマチン登山を計画していた日本山岳会であった。その後木村は講演記録に相当手を加えて『潜行』に仕上げたと思えるが、締まった、むだのない文体で統一されている。初版の出版は1958年7月。

『偽装』は河口慧海の伝記を書いたスコット・ベリーが、1989年に木村にインタビューを行い、原稿が完成したのが同年8月のことである。木村は同じ頃北京で倒れ、同10月に死没する。とてもきわどいタイミングで出来た本だったのである。1990年に出版された。『JAPANEASE AGENT IN TIBET by Hisao Kimura as told to Scott Berry』Serindia Publications (Serindia 社は、シカゴのヒマラヤ関連の美術・文化の出版社 右の写真は同社のサイトから拝借しました)、三浦順子訳で『チベット 偽装の十年』1994年中央公論社である。
このように、『潜行』と『偽装』は32年の年代差があり、出版に至るいきさつもまったく異なる。ことに、前者からは「氏が中国のチベット侵攻前夜、左翼のチベット人民族主義者と交流し、英国情報部のためにも働いていた事実が削除されていた」(『偽装』の刊行者アンソニー・アイリスによる「前書」)。そのために、『潜行』は秘境探検物語として読まれてしまいかねないところがあるが、『偽装』を読んでいけば、木村の行動が中央アジア全体の世界史的な政治情勢を背景にしていることがわかってくる。また、木村はそれを自覚しようとし、自らがその走狗となった「大東亜戦争」への反省とモンゴル・チベットの民衆への深い共感につらぬかれている書物であることが分かる。『潜行』と『偽装』が奥行のある思想的な書物として感じられてくる。



例えば次のような述懐は、『潜行』の1958年には木村の心中にはあっても、とうてい書かれ得なかったのではなかろうか。また、明らかに「戦後」に対する反省(「戦争」に対する反省ではなく)をふまえて書かれている。
私たちは[大東亜戦争に命を捧げる]自分自身を純粋で高貴な存在とみなしていたが,所詮偽りの大ゲームの中のひとつの駒にすぎなかったのだ。日本の軍部や政府は「大東亜共栄圏」の薔薇色の夢を描いて見せていたが、結局のところ私たちは悪しき他民族征服計画に携わっていたにすぎないことを、私は苦い後悔の念をもって思い出す。当初戦争の残虐さを気づいていたものはほとんどいなかったが、最後まで真実に気づかなかったからといってなんの弁解にもならない。この戦争の最大の悲劇は、日本が敗北したことではなく、我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティを見つけられぬままここまできてしまったことだ。(p340)
わたしは上の木村にまったく同感する。「偽りの大ゲームの中のひとつの駒」という表現や、「我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティをみつけられぬままここまできてしまった」という表現は、何気なく読み流せるような語句ではない。
私たちはもっとも安易な道 を選んだ。米国人がいうところの民主主義を唯々諾々として受けいれ、米国と同じことを意図しているかのようにみせかけ、そうすることによって我々が犯した戦争犯罪について国家的に何ひとつ真剣に反省する必要がないとみなしたのである。日本が世界からうらやまれるような繁栄を達成したことは事実である。にもかかわらず我々が世界の大半から好かれず感謝されないならば、責めを負うべきは我々自身である。今日、日本企業は、他人の感情にまったく配慮することなく、自分たちの利益のためだけに過去我々があれほどの苦しみを与えた国々に考えもなく進出し、怒りにであって当惑している。こんなことが起きるのも、我々が引き起こした戦争について反省することなく、民族的アイデンティティを欠いてしまっているからだと私は思う。(p341)
「米国と同じことを意図しているかのようにみせかけ、そうすることによって我々が犯した戦争犯罪について国家的に何ひとつ真剣に反省する必要がないとみなしたのである」という文章のなかで、力点が置かれているのは「国家的」という語である。木村は国家について、単なる「世俗的国家」にあきたらず何かしら「倫理的国家」たるべきことを期待していたといってよいと思う。
今や「民族的アイデンティティ」という発想自体が忘れ去られようとしている。60年安保の世代であるわたしなどにとっては、安保条約改定の問題は何よりも「民族的アイデンティティ」を問い直す問題であった。木村の文章を読んで、私は木村と問題を共有していることを感じる。
“国家に足をおいた生き方というものは、浅い生き方ではないのか”という設問を第6節で述べておいた。戦後の日本人はこの設問に答えて、「軍隊を持たない国」と「経済的繁栄をめざす」という「安易な道を選んだ」といってもいい。軍隊を持たない代わりに安保条約と自衛隊を持ち、経済的繁栄をめざして「エコノミックアニマル」に堕した。その果てに土地神話のバブル経済と、その崩落を経験した。
それにしても、こういうラディカルな反省の言葉を、日本経済のバブル期まで持ち続け得た“戦中派”はざらにはいない。木村は自らを含めた「戦争責任」への思いを少しも風化させることなく、烈々たる意思を秘めた存在として、生きた。

彼はモンゴル語の講師として亜細亜大学に行っていたが、1977年、同大学アジア研究所教授となっている。モンゴル・チベットの中央アジアへの貢献を自ら実践している。チベット難民社会への援助やダライ・ラマ14世の初来日(1967年)のための貢献。チベット人留学生の受けいれに関して木村が努力したことはすでに述べたが、彼は『潜行』の「中公文庫版のためのあとがき」(1982年)のなかで「私にはたいした御協力はできないが、在藏中チベットの多くの方々に大変お世話になったその御恩返しが、少しでもできればと願っている」と述べている。新疆ウイグルとの学術交流など、アカデミックな面での実績もある。

1989年8月、学生を連れて新疆ウイグルへ行く途中、北京で倒れ、担架で帰国。十二指腸穿孔だが持病の糖尿病との併発だった。

奥さん(木村信子)が木村肥佐生の最後を書いているが、心に残る文章である。

千葉国立病院に入院致しました。
長年の糖尿病の為に合併症がおこり、十余名の方達の輸血に助けられながら、ここでも3度の手術を受けました。手術後に麻酔科の先生が
 「あなたの名前は。」
と尋ねられました。主人は暫く天井を見ておりましたが、しっかりした口調で
 「名前は言えません。」
と申しましたので、驚いた私は咄嗟に
 「ダワ・サンボです。」
と答えてしまいました。すると主人は、きつい目で私を見てから先生に、
 「逃亡ではありません。潜行です。」
と低い力強い声で訴えました。これが最後の言葉となり、十月九日朝、力尽き、ダワ・サンボとして他界致しました。



モンゴル・ノート(その3) 木村肥佐生論

おわり



 文献

ここに掲げたのは、私が小論のなかで引用したり言及した文献に限っています。
1.木村肥佐生チベット潜行十年中公文庫1982
2.木村肥佐生 スコット・ベリー編チベット偽装の十年中央公論社1990 三浦順子訳
3.西川一三秘境西域八年の潜行(上・下・別)芙蓉書房1978 新装版
4.磯野富士子冬のモンゴル中公文庫1986
5.河口慧海チベット旅行記 1〜5講談社学術文庫1978 
6.ダライ・ラマダライ・ラマ自伝文芸春秋1992 山際素男訳
7.今西錦司私の履歴書全集第10巻 講談社1975
8.江口圭一日中アヘン戦争岩波新書1988
9.江口圭一資料日中戦争期阿片政策岩波書店1985
10.岡田・多田井・高橋編続現代史資料(12)阿片問題みすず書房1986
11.二反長半戦争と日本阿片史すばる書房1977
12.倉橋正直日本の阿片戦略共栄書房1996
13.西木正明其の逝く処を知らず 阿片王・里見甫の生涯集英社2001
14.小林不二男日本イスラーム史日本イスラーム友好連盟 1988
15.秦郁彦日中戦争史河出書房新社1961
16.大杉一雄日中十五年戦争史 なぜ戦争は長期化したか中公新書1996
17.吉本隆明吉本隆明のメディアを疑え青春出版社2002


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