き坊のノート 目次

「今昔物語集」に出る 人糞を喰う犬 

―― 慶慈保胤について ――



《1》

慶滋保胤[よししげのやすたね]という大内記までやった男がいた(内記は中務省の役職で、詔勅や宣命及び位記を作成する)。出は下級貴族であるが(ただし、父は賀茂忠行、兄は保憲で、いずれも陰陽家として有名)、知識人としては当時第一流の人物である。50歳代なかばの寛和二年(986)に出家して比叡山横川に入り、寂心と称した。世に「内記の聖人」と呼ばれた。
保胤には著作も多いが、『日本往生極楽記』(原漢文。岩波「日本思想体系7」に井上光貞による読み下し文と詳細な注がある)がもっとも後世に大きな影響を与えた。これはわが国の往生伝の流行の先駈けになる作品である。「池亭記」(原漢文。岩波「日本古典文学大系69」所収の「本朝文粋」に入っている。小島憲之による読み下し文と頭注がある)は文人としての保胤がよく表されていると考えられる。平安京の様子や、50歳ちかくにしてはじめて我が邸宅(池亭)を持ち、そこでの閑居の様子を随筆風に書いている。150年ほど後の鴨長明「方丈記」にも影響を与えているとされる。
保胤を考えるのには、「儒学者」と「仏教者」の両面から考えることが重要である。

「今昔物語集」では「巻第十九 第三話 内記慶滋の保胤、出家せること」に扱われている(岩波「日本古典文学体系25」『今昔物語集四』)。小論では、「今昔物語集」の慶慈保胤を読みながら、この保胤という魅力あふれる人物について調べてみたいと思っている。
というのは、文人として当代一流で、文章家として名をなし、具平親王の文人サロンの指導者格として尊崇されたであろう慶慈保胤は、「今昔物語集」に登場するとき、奇矯でやや滑稽な仏教狂いのじいさんという扱いを受けているのである。

この話「内記慶滋の保胤、出家せること」はかなり長いものだが、その冒頭の経歴紹介のくだりには
出家の後は空也聖人の弟子となりて、ひとへに貴き聖人となりて有りける間(以下略 『今昔物語集四』p61)
とある。保胤は出生年不明(上記『日本往生極楽記』の解説に、「承平(931〜938)の初年に生まれ」とある)だが、50歳頃の著作とされる「池亭記」(ちていき 天元五年(982))からすると、出家は50歳代半ばであり、没したのは長保四年十月(1002年)、70歳ぐらいと言われる。空也聖人の死没は天禄三年(972)70歳(72歳とも)であるから、保胤は空也の20〜30年後の世代である。空也は阿弥陀仏を唱える念仏聖として有名であるが、保胤が空也聖人の弟子であることは、確認されないようである(例えば幸田露伴『連環記』は、空也聖人についてまったく触れていない)。
陰陽家として有名な賀茂家の次男として生まれた保胤は、稼業を継がず、菅原文時を師として文章生となり、四書五経を学ぶ当時の学問主流の「文章道」に入る。賀茂姓を改めて「慶慈」としたのは、陰陽道から文章道へ転じたがゆえのことである(それゆえ、『連環記』は、「慶慈」を「よししげ」と読むのが広まったのは仕方がないが、「慶慈」は「かも」と訓ずるのが本当であると、冒頭で論じている。なお、『連環記』は「青空文庫」でHTLM版が出ている、ただし現代仮名遣い。ここです。わたしは、それの検索機能などの恩恵におおいに浴しています)。

陰陽道をすてて文章道に入った保胤であるが、彼の仏教信仰、ことに阿弥陀信仰の情熱は幼い頃からのものであったと自ら「日本往生極楽記」の序の冒頭で述べている。
序して曰く、われ幼き日より弥陀仏を念じ、行年40よりこのかた、その志しいよいよ劇[いそがわ]し。(岩波思想体系本『往生伝 法華験記』p11)
保胤が「日本往生極楽記」を書いたのが、永観元年(983)から寛和元年四月(985)の間であると、前掲書『往生伝 法華験記』の井上光貞「文献解題」が述べているので(p712)、「池亭記」がなった直後、保胤の出家する前ということになる。
保胤と仏教方面の関係を知る重要な手がかりとなるのが、「勧学会」と「二十五三昧会」の2つの、いわば、浄土思想運動の結社活動がある。
10世紀半ばの学問・思想の分野での若手のトップ・エリートたちは、儒学方面では大学寮、仏教方面では比叡山に集まっていたと考えられる。大学寮関係の若手文人たちがリーダーシップを取って、比叡山僧によびかけて、「勧学会」という勉強会をはじめたのが康保元年(964)である。これは20年間続き、慶慈保胤はそのリーダーの一人であった。
この勧学会は、朝には法華経を講ずるを聞き、夜は経中の句をとって詩を作る儒仏一体の行事であるばかりでなく、「口を開き声を揚げ、その名号を唱ふ」「極楽の尊を念ずる」(ともに本朝文粋巻十)、「世々生々阿弥陀仏を見」「在々処々法華経を聴く」(天台霞標、三−二)とあるように、念仏結社としての性質をも帯びるものであった。(『往生伝 法華験記』p713)
幼いときから「阿弥陀仏を念じ」てきた保胤は、30歳前後から大学寮で「勧学会」という念仏結社的な運動の中心で活躍した。その思いは40歳頃からますます盛んになり、50歳ごろに「池亭記」の舞台となる邸をもち、そこで「日本往生極楽記」を完成する。
そして、保胤はついに出家して寂心となるのだが、それと歩調を合わせるようにして勧学会は「二十五三昧会」へと発展的に解消すると、井上光貞は述べている。
花山天皇は寛和二年六月、藤原兼家らの陰謀によって退位出家し、兼家一門によって摂関政治の最盛期に入っていくが、このいわばピークを直前にして、永観二年(984)の冬、源為憲は三宝絵を著わし、づついて保胤は日本往生極楽記を草した。また翌年四月、源信は往生要集を完成し、更に花山出家の前々月には、保胤が出家して寂心となのり叡山の横川に入っている(日本紀略)。しかもそれとともに勧学会は解散して、こんどは横川に二十五三昧会が結成された。その五月の発願文や九月の起請によれば、源信と保胤は二十五三昧会の結成の中心であることが明らかであるから、勧学会にはじまった念仏結社は、ここにおいて二十五三昧会へと発展的解消をとげたわけである。(同前p713)
すなわち、保胤は幼い頃から阿弥陀仏への信仰に熱心であったが、文章道に志し大学寮で学ぶ30歳以降、勧学会の中心メンバーとして、念仏結社の先進的運動を行っていた。50歳頃には「日本往生極楽記」を著わし、ついには出家する。そして叡山横川で「二十五三昧会」を組織する。
文章生から内記に進み、その間、具平親王(村上天皇の第7子)の侍読として仕えるという儒学・文章道の分野で官吏として知識人として成功しつつ、同時に、浄土教の熱烈な信者として念仏結社運動を先進的に行っていたのである。


《2》


「今昔物語集」の「巻第十九 第三話 内記慶滋の保胤、出家せること」では、保胤が出家した後の逸話が3つ紹介される。この節では第1と第2の話を紹介する。第3が「人糞を喰う犬」の話である(これは《5》で扱う)。

第1】は、仏堂建立のために浄財を募って播磨国に行った際のこと、ある川原を通りかかると、法師が陰陽師の姿をしてお祓いをしていた。法師は「紙冠」[かみかうぶり]をして、「祓戸[はらへど]の神」を祈っていた。
何をしているのです?
祓えをしております。
その紙冠は何のためですか?
祓戸の神たちは法師を忌むので、仮に紙冠をしているのです。(『今昔物語集四』p61より意訳)
寂心はそれを聞くと、大声をあげて法師に掴みかかり、紙冠を取って引きちぎり、破り棄てて、泣きながら法師に言う。
あなたは一体どうして、仏の御弟子のつとめをを疎かにして、祓戸の神たちが忌むといって、如来の禁戒をやぶって、紙冠をするのですか。無限地獄の罪を造っているのじゃないですか。何と悲しいことだ。いっそ私を殺してくれ。(同前 意訳)
寂心は陰陽師の袖を掴んで、激しく訴え泣いた。陰陽師の法師は常識的な人物で、常識的なことを言う。
これは実にむずかしいことです。そんなに、泣かないでください。おっしゃることはまったく理屈に合っていますが、わたしは世を過ごすために陰陽道を習って、こんなことをしているのです。そうしないとどうやって妻子を養い、自分の命を助けることができましょうか。

道心を見失ったうえは、世俗を棄てた聖人にもなることができません。わずかに法師の格好はしていますが、ただ俗になずんだ身ですから、後の世のことはどうすべきようもなく、悲しく思うときもありますが、世過ぎの習いとしてこうしているのです。(同前 意訳)
常識的なことというのは通俗的なことである。この陰陽師の法師は、自分は通俗的な生き方しかできない人間で、あなた(寂心)のように信仰心を純化させて「身を捨てたる聖人」(p62)になることはできません、という。寂心のような先鋭な思想境地にとうてい到達できない、と言う。それは通俗からの自己卑下であるが、寂心のような思想のエリートは特別のものだ、という言外の批判も含んでいる。
それに対して、寂心はつぎのようにたたみかける。いや、このようにたたみかけるしか、彼の純化した信仰心を救抜する手だてはなかった、とも言える。
そうだといって、どうして三世の諸仏の頭に紙冠をするのです。貧しさのためだというのなら、わたしがここに集めてきた浄財の山をぜんぶさし上げます。一人の菩提を勧める功徳は、塔寺を建立する功徳にけして劣るわけではないのです。(同前 p62より意訳)
寂心は弟子たちに命じて、寄進されたものを「この陰陽師の法師」(p62)にすべて与えて、京に帰った。

この「第1話」でいちばん迫力を感じるのは、寂心が陰陽師の法師を批判するのに、激しく泣いて掴みかかりながら大声で批判の言葉をわめくということである。その真剣味、純化された信仰理論、訴えの一途さは、陰陽師の法師の常識的な通俗の立場を崩して後退させ、
後の世の事、何をかは可為はかむ(意不明)と、悲く思ゆる時も侍れども、世の習ひとして此く仕る也(p62)

(後の世のことはどうすべきようもなく、悲しく思うときもありますが、世過ぎの習いとしてこうしているのです。)
という卑下した自己放棄の立場に追いやる。しかし同時にその反作用として、寂心自身は信仰心のエリートでしかないという批判(自己批判)を引き受けて、寄進された財物をすべて陰陽師の法師に与えるのである。
『連環記』はこの逸話を紹介して、次のような面白い評語を与えている。
弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。
紙の冠被った僧は其後何様(どう)なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚だの、黄蘗の鉄眼(てつげん)だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。
寂心の「純化された信仰心のエリート」に対して、露伴は「仕事師」という概念をぶつけている。
なお、「陰陽師の法師」に激しく憤ったのは、寂心=保胤が、いずれも陰陽家の天才といわれた賀茂忠行を父とし保憲を兄としていてその家系から飛びだしたからじゃないか、という感想も浮かぶが、50歳を過ぎて出家した寂心の仏教信仰は、そんな生易しいものではなかったろう。むしろ、仏教原理主義者として、通俗家を自己卑下させずにはおかない臓腑をえぐる真剣味があった、と考えるべきだろうと思う。


第二】は、寂心が東山の如意岳の辺りに住んでいるときに、六条院に「ただ今、参れ」と言われて、馬を借りて行く時の話。
寂心はただ馬の心に任せて、馬が草を食えばいつまでも草を食うにまかせていた。少しも進まず同じところで時間を過ごすので、馬に付いていた舎人の男が馬の尻を打った。そのとたん馬から飛び降り、舎人の男に掴みかからんばかりにして、言った。
おまえは、どう思ってこんなことをするんだ。この老いたる法師をあなどって、このように打つのか。

この馬は前の世から、繰り返し繰り返し父母となっておられて、今の世に馬になっているのではないだろうか。おまえは、「前世の父母ではない」と思って、このようにあなどったことをするのか。おまえにとっても、繰り返し、父母となっておまえを愛育し、このように獣となり、また幾つかの地獄・餓鬼の道にも墜ち、苦を受けているのではないだろうか。このように獣となるのも、子を愛着することによって、このような身を受けることになったのです。

とても堪えがたく物が欲しくてたまらなくて、青い草が食いよげに生えているのを見過ごせなくて、むしり取ろうとなさるのを、どうして申し訳なくも打ちたてまつるのか。
この老いたる法師にとっても、数知れぬほど父母におなりになっていることは、忝なく思いたてまつるが、年老い起居が心にかなわず、すこし遠い道は速やかに歩けないので、恐れながら乗りたてまつっているのだ。なんで道に草があるので、それを食べるのを妨げてまで行くことができようか。
おまえは、なんと慈悲のない男だ。(同前 p62より意訳)
そう言って、寂心は泣き叫んだ。
舎人の男は、内心おかしかったが、老僧が泣くのがかわいそうなので、次のように答えた。
おっしゃることは、まことに理[ことわり]だと思います。物に狂って打ってしまいました。下郎はしかたのないもので、このように生まれましたので、わけもわからず打ったのです。今からは、父母と思いたてまつって、忝なく思いたてまつります。(同前 p63より意訳)
寂心は泣きじゃくりながら、「あな貴[たふと]、あな貴」と言って、馬に乗った。

しばらく行くと、道のはたに朽ちた卒塔婆がゆがんで立っていた。 それを見つけると寂心はあわてて馬から転がり下りた。舎人の男はそれに気づかなかったので、急いで近寄って馬の口を取り、少し進んだ位置で止まった。舎人の男が振り返ってみると、寂心はススキがまばらの所に平伏していた。
寂心は、馬に乗るので括っていた袴を下ろし、お付きの童に持たせていた袈裟を出させて着て、衣の襟首を引き立て、左右の袖を引き合わせ、腰を深く曲げ、上目使いで卒塔婆を拝しながら、御随身[みずいじん]がふるまうように身をひるがえして卒塔婆の前に至り、卒塔婆に向かって手を合わせ額を土に着けて、何度も礼拝した。そしてそれがすむと、卒塔婆から隠れるようにして馬に乗った。

道の途中で卒塔婆を見かける度にこのようにするので、1時間で着くはずの所、朝6時に出て夕4時頃までかかった。
この舎人の男は、「この聖人のお供は、今後はもう行かない。ひどく心もとなかった」と言ったそうだ。(同前 p62より意訳)
ということで、終わっている。
「第1話」と同じ構造だが、「第2話」では舎人の男がその場限りの返事をしたり、その行程限りのがまんをして寂心の言う通りにふるまったので、大幅の延着ということで終わった。いうまでもなく寂心は奇矯なふるまいを態としているのではなく、彼の仏教原理主義がこのようなふるまいを彼に強いていたと言ってよい。「第1話」では寂心の仏教原理主義の相手が「陰陽師の法師」という知識人であったために、陰陽師の法師の自己卑下の無限後退と、その反作用として仏教原理主義が喜捨された財物をも否定して放棄せざるを得ない、というところまで突き進んだのであった。「第2話」では非知識人である「舎人の男」が相手であるために、「第1話」のような思想的ダイナミズムは発動しなかったのである。

ついでに注しておくが、当時、卒塔婆があちこちに見られたことがわかる。土葬して土饅頭ができるとその上に卒塔婆を立てた。「巻第二十七の第三十六話」に、墓を築いて「その上に卒塔婆を持て来たりて起[たて]つ」(四p528)とある。つまり、卒塔婆は墓の目印にもなっていた。
ただし、平泉藤原の清衡は「陸奥外が浜という津軽の果てから白河の関まで、里程を示す笠卒塔婆を建てた」という(水原一「平泉藤原三代の古代の心」(Previewから入って、pdfファイル19頁全文を読めます。水原一の「退職最終講義」))。この場合は墓とは無関係な里程標である。信仰的基盤はあるわけだが。

葬る余裕がなく、死体を放置したままであった例として、有名な羅城門の層上で死体から髪を抜く話(巻第二十九第十八話)から引用しておく。
その上の層[こし]には死人の骸骨ぞ多かりける。死にたる人の葬[はうぶ]りなど、えせぬをば、この門の上にぞ置ける。(五p170)
災害・飢饉などの場合には、京都市内に無数の死体が放置されていたことは、「方丈記」などでよく知られている。



《3》

文人としての慶慈保胤の作品としては、「池亭記」が有名である。(原漢文であるが、前述のように「岩波日本古典文学体系69」に収められた『本朝文粋』に小島憲之の読み下し文と頭注があって、誰にでも読める。小島は「ちていのき」と読んでいる。また、繁田信一『庶民たちの平安京』(角川選書2008)には、「池亭記」の冒頭の一節をかみ砕いた現代文に訳して掲げており、また、慶慈保胤の経歴も分かりやすく述べていて、参考になる(p120〜124あたり)。ただし、この繁田信一の本の第7章は「小犬丸妻秦吉子解」を扱っていて、わたしは期待して手に取ったのであるが、残念ながら「着ダ」についてわたしと見解が異なるので、別の所で批判するつもりでいる。
ネット上で参照できるものとしては名波弘彰「慶慈保胤『池亭記』試論――社会記録と閑居――」がある。


「池亭記」は“池に臨んだあずま屋の記”というほどの意味だが、50歳近くなってはじめて平安京六条ふきんにわが邸宅をもった保胤が、平安京の盛衰の様子やわが家の住み心地などを述べた随筆。
保胤の父、賀茂忠行は陰陽道の大家であり安倍晴明の師であったというのだから、当時の平安朝貴族の社会で重きをなしたと思いがちだが、けしてそうではない。陰陽師は貴族社会のなかでは頤使される被使用人の地位にあり、官人としても下級のものであった。忠行は最後に従五位下になっている。後の世の、能楽師などの芸能者と類似の位置づけではなかったか。
知識人としては一流であった保胤も、若い頃からずっと借家住まいであったと「池亭記」で述べている。
われ本より居所なく、上東門の人家に寄居す。常に損益を思ひ、永住をもとめず。たとひ求むとも得べからず。その価値二三畝[ふたせ、みせ]千萬銭のみならむや。
われ六条以北に、初めて荒地を卜[うらな]ひ、四つの垣を築き、一つの門を開く。(『往生伝 法華験記』p423)
上東門は、大内裏の東面にあり陽明門の北という。いずれにせよ、大内裏近くの一級地の「人家に奇居」していたのだが、その辺りの地価は非常に高価であった。「六条以北」とは六条大路の北側ということだろう。そこが荒地になっていたのを手に入れ、垣根をし門を造った、と言っている。ただ、文飾誇張がありうるので、この通りであったかどうかは別である。しかし、六条あたりには空地があり、保胤のような下級貴族の手にもはいる程度に、地価が安かったということは信じてよいだろう(『本朝文粋』に採りあげられるほどの文章が、平安京の現実とはまったく異なる空論を述べているとは考えられないから)。
保胤を師として迎えていた具平親王の千種殿が「六條坊門南西洞院東」にあった(「拾芥抄 しゅうがいしょう」)という(『往生伝 法華験記』の頭注による)。また、保胤の池亭は千種殿の南に接していたともいうので、あるいは、具平親王の所有していた千種殿の一部の空地を分けてもらったのかもしれない(この推測はいずれかの書物で読んだのだが、いま出典を見失っている)。
具平親王は自身文人として活躍しており、「拾遺和歌集」以下34首選ばれている勅撰歌人であり「和漢朗詠集」「本朝文粋」にも選ばれている。親王の周辺には、文人があつまる“千種殿サロン”とでもいうべきものが形成されていた。保胤はそのグループの師匠格として指導に当たったと考えられる。露伴『連環記』は次のような面白い挿話を紹介している。
具平親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、紀ノ斉名(まさな)、大江ノ以言(もちとき)などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤は夙(はや)くより人間の紛紜(ふんうん)にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に胸が染みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓(おし)えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一トわたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑(ねむ)ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想(おもい)を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道(しょうどう)に運んでいるのみであるから、咎めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言綺語即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是としたところであったには疑無い。
「池亭記」は、平安京の様子を述べ、ついで保胤が造営した池亭について述べ、そこでの閑居の様を述べている。 たとえば、名波弘彰「慶慈保胤『池亭記』試論」は
「池亭記」の前半は、10世紀後半の東西両京の社会記録として読まれている。(電子版、第2節冒頭)
と言っている。

「池亭記」の冒頭では、西の京(右京)は、都市としては荒廃してしまい、貧者や農民が住まう。貴族や富有の者は東の京(左京)の4条以北に住む、と要約できるような、平安京が都市空間・住居空間としてけして一様であったわけではなく、かなり偏っていたことを述べている。
自分は20余年このかた、東西の2京をよく見てきたが、西の京は人家は疎らにしかなく、ほとんど幽墟といえるほどである。去る人はあるが来る人はなく、家は崩壊することはあっても造られることはない。移り住むべき先がなく、貧乏生活を恥じることのない者が、ここに居る。幽隠亡命を目的にして、山に入り田に帰るつもりの者は去らない。財貨を蓄えようとし、いそがしく利を求めようとする者は1日と言えども住むことはできない。(日本古典文学大系69『本朝文粋』「池亭記」p417より意訳)
これが、冒頭の1節である。
つぎに「家は崩壊することはあっても造られることはない」の実例を挙げる。左大臣源高明(たかあきら)が藤原氏の策謀で大宰府に左遷される事件があった(安和の変)。安和二年(969)三月二五日。源高明は源氏といっても醍醐天皇の第10子で、富裕な公卿であり、西の京(右京4条)に豪壮な邸宅をもち「西宮左大臣」と呼ばれた。また、彼の日記は「西宮記」(さいきゅうき)という。つまり高明は、西の京を象徴するような公卿であった。ところが、左遷のわずか6日後に、高明の豪邸が火事によって焼滅した。高明の左遷は4年目に解かれ帰京したのであるが、彼の政界復帰はならず「葛野別屋」(葛野 かどの は今の右京区方面)に隠棲した。
「池亭記」は、高明の豪邸が荒れるに任せてしまわれたことを、「天が西の京を亡ぼすのだ」と評している。
かつて一つの貴族の邸宅があった。美しい堂や朱の柱、竹林や庭木や岩や池、まことに俗世間の外にあるすばらしい景色であった。ところがある事件で主人が左遷され、火事があり建物が焼け落ちた。門下の食客たちが、近くに数十軒もあったが、皆申しあわせたように去ってしまった。
その後主人が帰京したのに邸を修理することはなく、子孫は多かったが、だれも住まなかった。イバラが門をふさぎ、狐狸が邸内に住みついた。
この例は、天が西の京を亡ぼしているのであって、人の罪ではないことは明らかである。(「池亭記」 p418より意訳)
源高明の場合は、政治的な力学も働いていたと思うが、地形的に見て京都盆地は、北東隅を扇状地の頂点としていて、南西に至るにしたがって低湿地となる。西方、南方は湿地帯として居住条件はより悪かったと考えられる。水の便・洪水の一事を考えても、北東の高みが高級住宅地として先に開けたのにはいわば“天の采配”があった、と言ってもよいだろう。

東の京の北部一帯は、人口密集地であり、富有の者の豪邸・卑賤者のひしめく小家が並んでいたと述べる。
東の京四条以北、ことに東の京の北西・北東の一帯は、人々は貴賤の別なく、おおく集まり住んでいる。豪邸は門を比べ堂を連ねているし、小さい屋は壁をへだて軒を接してならぶ。東隣りが火災になれば西隣りは延焼をまぬがれず、南宅に盗賊が入れば北宅に流れ矢が当たる。(「池亭記」 p419より意訳)
初めに紹介した繁田信一『庶民たちの平安京』は、「東京四条以北」は高級住宅地であって、そこの土地はきわめて高価であり、保胤のような下級貴族には手が出なかった、という。その豪邸の所有者の富有者たちは自分の所有する土地の一部を割いて、豪邸周辺にその使用人たち(「雑色」たち)のすむ小屋を設けていたと分析している。もちろん、それだけではなく、「市」などの繁栄する地域には小家・小屋がひしめいていた。
『枕草子』の「関白殿、二月廿一日に」と語りはじめられる一段によれば、左京の二条大路と町尻小路とに面した一角が、ある時期、「小家[こいえ]などというもの多かりける所」だったらしいのである。もしかすると、当時の人々は、『池亭記』の「小屋」という言葉をも、「こいえ」と訓読していたのかもしれないが、いずれにせよ、ここで清少納言が「小家」と呼んでいるのは、『池亭記』において「小屋」と表現されている類の家屋であろう。したがって、二条大路・町尻小路に隣接して「東京四条以北」の中心に位置する一角は、確かに多くの「小屋」=「小家」で混み合っていたことになる。(繁田信一『庶民たちの平安京』p131)
繁田は、さらに続けて、『左経記』(さけいき)、『日本紀略』の記録を揚げて、大内裏の東側(一条と二条の間の左京)に「小宅」(こいえ)と呼ばれる省家屋の群が密集する一角が幾つかあったことを示している。そして、長元元年(1028)の火災で、その一帯で500を超える数の「大小宅」が焼失した、という。
こうして明らかになったように、王朝時代の平安京における高級住宅地であった「東京四条以北」は、そのところどころに「小屋」「小家」「小宅」などと呼ばれるような小さな家屋のひしめき合う一角を抱え込んでいたわけだが、そのような家屋を住居としていたのは、やはり、庶民層に属する人々だったのではないだろうか。(繁田信一同前p132)
東の京(左京)の「四条以北」は、このような、人口密集地で高級住宅地であった。左京であっても「五条以南」は空閑地のある地価の低い所だったらしい。また、鴨川沿いであるから、南に下がるほど洪水の被害に遭いやすい。「格文」(きゃくぶん:法律)はあったらしいが、鴨川の川原に勝手に田畑を開く者もあり、毎年のように水害が起こっていた。
毎年出水があり、流れはあふれ堤が切れた。洪水を防ぐ担当官はそれを修めて昨日その功を誉められたとおもうと、今日は水があふれるのに任せている。平安京の人々は、ほとんど魚となるほかないほどだ。(「池亭記」p421より意訳)
保胤が池亭を建てたのは、「六条以北」なのであった。


《4》

50歳近くなって初めて自分の家屋敷をもった保胤は、うれしかったのだろう、「池亭記」は、少しはしゃいでいるところがある。
地形の凹凸を利用して、池や築山を造営した。
高くなっているところは小山とし、窪地には池を掘った。池の西に小堂を建てて弥陀を安置し、東に小閣を造り書籍を収めた。池の北側に妻子の住む低屋を建てた。
屋舎が十分の四、池が九分の三、菜園が八分の二、セリを植えた所が七分の一ほどになる。
その他、松の小島、白砂の渚、錦鯉がおよぎ白鷺が来る。小さな橋があり、小舟を浮かべる。わが邸には自分が日頃好むものがことごとくある。春は東岸の柳が煙ったようにしなやかに垂れる。夏は北の竹林から、清風が吹きおこる。秋は西の窓の月を眺めて、書をひらく。冬は南の軒端の日なたで、背をあぶることができる。(「池亭記」同前p423より意訳)
もちろん、分数の分母十、九、八、七に対し、分子を四、三、二、一としているのは、遊びである(分数の合計は1を超えている)。だが、池が相当の部分を占め、周囲に屋舎や亭を配し、菜園があり、植木もあったことは事実であろう。
セリの田もあったというのだから、水流が邸内を流れ、小さい湿地ができセリを植えたのだろう。その水流は自慢の池を潤して、亭外に去っていくのであったろう。井戸が掘られていたかどうか不明であるが、この水流は平安京の浄化装置としても機能していたはずである(その意味でも、扇状地の上部、北東部が高級住宅地であった)。

勤めと心境。世俗の欲望に執着しないことを述べ、自分の官職について記す。
われ生まれて以来50年になんなんとして、ようやく、小宅をもつこととなった。カタツムリはその家に安住し、シラミはその縫い目に楽しむ(中略)。

家の主人である自分の官職は内記であるのだが、心は世俗を離れた山中にあるようだ。官職や爵位は運命にまかせるのみ、天のみわざは誰に対しても均しいのであるから。寿命は天地にまかせ、出世をことさら願うことはない。士官しないで隠棲を望むのではない。かといって、膝をかがめ腰をおりて、王侯宰相にへつらうことはしない。虚言を避け色欲を避け、しかし、深山幽谷に足跡を消し去ることは望まない。

朝廷に出仕している間は王室に奉仕し、家に戻れば心を仏陀によせる。自分は出仕すれば緑色の朝服を着た官人である(緑の服は六,七位の朝服)。位はひくいのだが、仕事は貴い。(同前p425より意訳)
10世紀の王朝官人も現代のサラリーマンも、それほど違った心境にあったわけじゃないようだな、とわたしは思った。
ついで、帰宅してからの、池亭での快適な知的生活を語る。
家では白い麻の衣服を着る。春の日差しよりあたたかく、雪よりも清潔である。手を洗い口をゆすいでから西堂に参る。阿弥陀仏を拝み法華経を読む。食事の後で東閣に入り、書巻を開いて古の賢人たちと逢う。(中略)われは、賢主に遇[]い、賢師に遇い、賢友に遇った。一日三遇を果たした。一生三樂[さんごう 論語に「楽節礼楽、楽道入之善、楽多賢友」とある。頭注による]をなした。

近頃の人の世には、少しも恋うべきことは無い。人の師たるべき者は富貴を先にして、文を尊重しない。そんなことなら、師の無い方がましだ。人の友たる者は勢力や利益をめあてとし、淡泊な君子の交わりをしない。そんなことなら、友の無い方がましだ。(同前p425より意訳)
今風に言えば、「男の隠れ家」の“孤独”に類比できるかも知れない。「男の隠れ家」には商業主義が見え隠れし、「池亭記」の孤高には、意識した演出が感じられる。

わたしは、次の一節の末尾を目にして、信じがたくて、何度も読み直した。上の続きである。
われ、門をとざし戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず。もしさらに興が湧けば、童と小舟に乗り、ふなばたを叩き棹をあやつる。もし余暇あるときは、従僕を呼んで菜園にいき、あるいは糞[くそ]まり、あるいは灌水する。われ池亭を愛し、そのほかを知らず。(同上p426より意訳)
わたしが驚いたのは、「あるいは糞まり、あるいは灌水する」という所である。原漢文は次のようになっている。
呼僮僕 入後園。以糞 以灌。我愛吾宅。不知其侘。
小島憲之の読み下し文は
以[あるい]は糞[くそ]まり以は灌[そそ]ぐ。
である。[ ]は体系本では振り仮名になっていることを示す。
「糞まる」は、大便をする、排便をする、ウンコをする、という意である。それ以外の読み様はないだろう。念のために、『日本国語大辞典』を参照しておく。
くそまる【糞・屎】 [自ラ四](「まる」は体外に排泄する意)大便をする。くそひる。
辞典はこのあと、「播磨風土記−神前」からの用例を揚げている。
小島憲之の頭注は、この部分については、「灌」に注をつけて、「水を注ぐ。以・・・以・・・は、・・・したり・・・したりする意。」としている。残念ながら「糞」には注をつけていない。注をつけるまでもなく、語意明瞭であると考えたのであろう。
小島憲之の頭注を考慮して、この部分を現代文に意訳すると、次のようになるであろう。
もし自分に余暇のあるときは、従僕を伴って家の後ろにある菜園へいき、農作業をする。そこで排便をすることもあるし、野菜に水をやったりすることもある。
改めて強調しておきたいことは、この「池亭記」は当代の名文を集めたという『本朝文粋』に掲げられている公開を前提として慶慈保胤が書いた文章である、ということだ。つまり、保胤の十分な推敲が入っている文章であり、「呼僮僕 入後園。以糞 以灌。」を保胤はなんら疑わず、『本朝文粋』選者らも異とすることはなかったのである。つまり、家の菜園などで野糞をすることが当時普通の習慣であったと考えられ、しかも当時のインテリ達もそれを表現上隠す必要さえないことだとしていたのである。もちろん、当時も便所の設備はあったが(その実例を次節で扱う)、野糞の習慣もさして異とすることなく行われていた、と考えられるのである。(もっとも『本朝文粋』には「鉄槌伝」が収められているし、「今昔物語集」には、性器表現や男女性交表現がとても露骨に表されているので、「以糞」に驚くことはないともいえる。むしろ、王朝期の“性タブー”が現代のそれとは大いに異なっていた、という観点から考えるべきなのだろう。

「以糞 以灌」について、「肥えを施し、水を注いだ」と農作業の描写とすることができれば面白いのであるが、無理のようである(下の「補注」を参照のこと)。
拙稿「排泄行為論」では、人糞尿を「下肥」として便所に蓄えることが日本において普及し始めるのは、鎌倉時代以降とされている、と定説を紹介している(「排泄行為論」(4.7):「トイレの考古学」)。ただし、便所施設は古墳時代から存在し、藤原京以降、条里制の都市計画の中に、都市を流れる水流の溝も含まれ、平安京でも当然、貴族邸宅には水流を引きこんで便所設備と結びつけていたであろう。

「補注」
増淵徹「貴族の生活と心情」(『〈都〉の成立』平凡社2002 所収)という興味深い論文に、「池亭記」を取りあげてあり、そこでは「以糞 以灌」を
あるいは糞[こえ]し、あるいは灌[そそ]ぐ。
と読んでいる。このように述べてあるのを見ると、たしかにこれの方が無理がないな、と思う。もう少し増淵徹を引用しておく。
この糞が人間のものか、それとも牛馬のものか、これだけではどちらかわかりませんが、興味深い記述です。農業史の方面では、人糞尿の使用は中世に一般化するといわれていますので、そこから考えると、これは牛糞・馬糞を撒いているとも考えられます。(以下略、同書p155)
わたしは古典体系本の「糞まる」という読みにひきずられて、野糞の話に入ってしまったのだが、牛糞・馬糞の肥を施していた、という話に持ち込むこともできるわけである。当時、牛車や乗馬で、牛馬が身近であったとすれば、その可能性も大きい。他に資料があるのか、宿題にしておきます。

別の話題だが、増淵の論文で教えられたことがもう一点ある。それは、鴨川の堤防のことである。『年中行事絵巻』から「稲荷祭の神幸の行列」が鴨川を渡る場面を示して、稲荷祭の行列見物は七条大路で行われたという故事から、「七条通りの東には堤防も何もなく、そのまま鴨川を徒渉する」場面になっていることを指摘している。そして、
現在の京都でも、七条付近から鴨川は西に曲がり、もとの平安京の東南の範囲にくい込んできますから、古代の国家が維持の努力を払った鴨川堤防は六条までであったと考えてはどうでしょう。(p164)
と、述べている。平安京の地図を書くのに、このことが前から気になっていた。(11/9-2009追記)



《5》

「池亭記」は、内記という官職にあった時代の慶慈保胤の作品である。われわれは、前節・前々節で「池亭記」の8割ほどを意訳して読んだ。その末尾には「記」の結びの形式にしたがって(小島憲之の頭注の教示による)、「天元五載、孟冬十月」と明記されている。982年である。
既述のように、保胤は池亭において「日本往生極楽記」を書き(985,6年ごろ)、「朝散太夫 行 著作郎 慶保胤撰」と唐風に官吏としての署名を述べている(朝散太夫:従五位下、行:官位令が定める相当する官位より保胤本人の位が高いことを示す。低ければ「守」と書く。大内記は正六位上相当、著作郎:中務省の大・小内記、慶保胤:慶慈保胤。以上は前掲井上光貞の頭注による)。阿弥陀信仰がますます押さえがたくなり、ついに出家したのが寛和二年四月(986年)である。寂心と名乗る。それ以降16年間の出家生活があり、長保四年十月(1002年)に70歳前後で示寂した。
第2節とこの節で紹介する「今昔物語集」の「巻第十九 第三話 内記慶滋の保胤、出家せること」の寂心は、いうまでもなく、出家した以降の保胤=寂心である。

第3話
寂心聖人が、石藏[いわくら 左京区粟田口]という寺に住んでいたときの話である。
体を冷やして、腹下しをしたことがあった。厠[かわや]に行く際の物音を隣の房の法師が聞いていると、厠で排泄する音は、まるで容器から水をそのままこぼす様だった。年老いた人がそんな様子なので、とても気の毒に思っていると、聖人が物を言っているので、他に人がいるのかと思って、壁の穴からのぞいて見ると、老いたる犬が聖人と向かいあっていた。犬は聖人が立つのを待っているのだろう、それに向かって話しかけているのだった。

この寺には僧侶の房がいくつか並んでおり、厠も近くにあった。下痢をした寂心がひんぱんに厠に行くのを心配した隣の房の法師が様子をうかがっているのである。厠の音が手に取るように聞こえる。穴も開いている粗末な造りである。

図は、拙論「排泄行為論」でも使った『暮帰絵詞』(14世紀)に出てくる便所である。「京都大谷禅室の裏を描いたもの」である。「土を掘って板をわたしている。そしてその上に小屋をたてているのである。僧が法衣を肩にしているのは便所へいったためにぬいだものであろう」(『日本常民生活絵引5 p114』)。
寂心とは400年の年代差があり、しかも、「京都大谷禅室」といえば当時の大寺院の一つであろうから、便所の造りもずっと立派になっている可能性がある。板壁で、檜皮葺のように見える。長方形の穴を掘り、その長さの方向へ厚い板を2枚渡しかけ、それに跨って用便をする。右図では、2枚の板を渡す支点になるように穴の縁に置いた板が描かれている。多人数が使用する便所であれば、それだけ、堅牢な造りになっていたであろう。また、鎌倉期以降には、人糞尿の下肥としての利用がはじまったと考えられているが、この大谷禅室がどうであったかは分からないが、一般に下肥利用のためには糞尿を汲み出すための作業が可能なように、広い空間を設けた可能性がある。図で便所が開け放しになっているのも、そういうことに関連しているかもしれない。(そうでない、単に、便所の中を見せるために出入口を描かなかった可能性もないとはいえない。しかし、わざわざ、便所の内部を見せるためと考えるより、便所は開け放しで、汲み取り作業にも都合がよくなっていた、とわたしは考えている。)


そのうちに、厠から話し声がするので、穴からのぞくと、しゃがんでいる寂心が犬と向かいあっていた。寂心はしゃがんだまま、その老いたる犬に話しかけている。犬は、聖人が用便を終わって立ち上がれば、糞便を食べようと思って、待っているのである。その部分の原文は次のようになっている。
聖人の立て待[まつ]なめべし。(『今昔物語集四』p63)
「待なめべし」は「待なるべし」の音便形「待なんべし」を、このように表現したものだろうか、と頭注は言う。「かの犬は聖人の立つを待つなるべし」と推量しているのは、覗き見ている隣の房の法師である。

聖人は老いたる犬に、次のようなことを語っていた。
前世で、人に後ろ暗い心をもってふるまい、人に汚ない物を食わせ、道にはずれた行いで物をむさぼり、我が身を大事にし、人をおとしめ、父母に不孝なふるまいをし、このようなもろもろの悪い心をはたらかせて、善き心を使わなかったことによって、このような獣の身となり、つたなく汚なき物を求めて食べることになったのです。

わたしの父母とも繰り返しなって下さったお身に、このような不浄な物をお食べいただくのは、極めてかたじけないことです。なかんずくこの頃は、はやり風邪を引いて水のよう物をいたしましたので、まったく食べることもできないでしょう。とても残念に存じます。
そこで、明日、おいしい物を準備してご馳走しましょう。それを、思うままにお食べ下さい。

このように言いつつ、聖人は目から涙を流していた。しゃがんだまま語り終わると、それから立ちあがった。
寂心は、六道輪廻の仏教理念をそのとおり実在界の構成理念として信じ、それを非妥協的に周囲の日常世界に適用し強要する。その意味で、仏教原理主義者だといってよいだろう。「第2話」の馬をむちうつ舎人の男に対して展開した論も同じで、舎人の男は辟易して「お説ごもっともです。これからは馬を自分の父母と思って、むちうつことは固くいたしません」とその場限りの後退をして、逃れた。「第1話」の、紙冠をかぶって陰陽師の姿をしている法師にたいする寂心の批判の論法は、相手が法師という知識人であるために、より過激で先鋭であった。陰陽師の法師は通俗的な“身過ぎ世過ぎ”の立場に後退し、自分が理論的にはまったく破綻していることを認める。しかし、敏感な仏教原理主義者である寂心は、仏閣建立の喜捨財物をすべて放棄することで、自分の立場を首尾一貫することが辛うじてできる、というところに自分を追い込んでしまっていた。

「第3話」が理論的にも面白いのは、こんどは相手が犬であるということである。犬は理論的に後退することはないし、感謝もしない。しかし、この犬は「老いたる犬」であって、おそらく、石藏寺の周辺にたむろしている犬の群の中でも弱い立場の犬なのであろう。まだ用便中の寂心がいるうちから便所の中に入りこんでいて、人糞を食べようと待っているのである。可能な限り人間にすり寄って、寄生的に生命をつないでいる、そういう犬であると考えられる。

寂心が犬に対してご馳走を約束した、その当日の話である。
あくる日、「聖人が昨日犬に対して語っていたことの準備は、どうしているのだろう」と、隣の房の法師は事情を他人に語ることなく様子をうかがっていた。
聖人は「お客があるので、そのもてなしをしよう」といって、飯[いい]をたくさん土器[かわらけ]に盛らせた。菜[]を三、四品ばかり調え、庭にむしろを敷き、その上にこの饌[そなえもの]を据えて、聖人はその前にへりくだって座り、「食べ物の用意ができました。早くいらっしゃい」と声を挙げて呼んでいた。(同前p64より意訳)
寂心は父母をもてなすのと同じ気持ちで、その老いたる犬にご馳走を用意するのである。したがって、「お客があるので、そのもてなしをしよう」(原文は「人の御儲けせむ」)といって準備を、おそらく配下の小僧や雑色に、させたのである。周囲の者たちは「お客」が老いたる犬であるとは思っていない。それを知っているのは、昨日便所をのぞいていた隣の房の法師だけである。
さて、寂心の声を聞きつけて、老いたる犬がやってくる。この犬は、犬の群に入ることができない弱い立場であり、われわれ後世の者が知っている“飼い犬”に近い立場で、つねに、房の周辺に居付いていたと考えられる。
その時に、かの犬がきたりて飯を食う。それを見て寂心は、手を摺って、「なんと嬉しいことだ、準備の甲斐があってお食べになっている」といって、感激して泣いていた。
ところが、そばから若い大きな犬がやって来て、飯を食うのではなく、まず老いたる犬を掻き転がし、追い散らしてしまった。

その時、聖人は手を振りまわして立ち上がり、「そんなに行儀悪くしてはいけません。その食べ物はみなご馳走するためです。まず、仲よくしてお食べなさい。そのような非道なお心をお持ちなら、来世はさらに下等な獣の身を受けることになりますぞ」と言って、止めようとしたが、犬がそんなことを聞くでしょうか、食べ物をみな泥だらけに踏みつけにし、食い散らした。その声を聞きつけて他の犬共も集まって来て、かみつきあい吠えあった。聖人は「こんなお心は、見ない方が良い」と言って、逃げて板敷きの上にのぼってしまった。

隣の房の法師はこれをみて笑った。聖人は、悟りある人ではあるが、犬の心を知らないで、前生[ぜんしょう]のことを思って敬うのだが、犬はそんなこを知っているだろうか。
隣の房の法師の感想は、「第二話」の舎人の男と同じく、通俗的な立場である。原文は次のようになっている。
智[さと]り有る人也と云へども、犬の心不知して、前生の事を思ひて敬に、犬知なむと。
犬は「畜生」であって、六道輪廻の思想を知らないし理解する力もない、という通俗的な理解の立場に立てば、寂心のような犬への施しをしようとするのは笑うべき無駄なことであるし、舎人の男が動かない馬にムチを振るうのは合理的なことだ、ということになる。更に普遍化して、魚介・畜生を使役し食肉をとるのは、人間の身過ぎ世過ぎのために、合理的なことだというのが、通俗的な立場である。

寂心は、その通俗的立場に断固として対決する仏教原理主義を貫こうとしているのである。そのために通俗的立場の日常性に鋭く対立しようとしている。その対立を少しでも妥協すれば、寂心の先鋭な阿弥陀信仰は緊張を失い通俗の世俗仏教に包接されてしまうのである。

「今昔物語集」の編者・作者はかならず一編の最後に教訓めいた「編者の言葉」を残しているが、この「内記慶滋の保胤、出家せること」の最後は次のような言葉で締め括っている。
内記の聖人と云[いひ]て知[さと]り深く道心盛[さか]りにして止[やむ]事無かりけりとなむ語り伝へたるとや。(同前p64)
通俗的な常識の立場からすれば「内記の聖人」は笑うべき行いをした人であるが、悟り深く信仰を求める熱意がとても強い尊敬すべき方だった、という批評は、文飾や形式的なものではなく真面目なものだと思う。


人が排泄し終わるのを待ち構えるようにして犬が人糞を食べてしまうことは、拙稿「排泄行為論」(4.1)野糞・野しっこで、河口慧海の例を示したことがある。この風習は、現代のアジアで広く見られることであり、近頃知ったことだが、世界のトイレという驚嘆すべき情報量の多いサイトに、チベットで野糞をしている男の近くでチベット犬が待ち構えている写真が掲載されている。(上記「世界のトイレ」をクリックすると、画面右半分が「厠」となって多数の写真が並んでいる。それを、ずっと下へ見ていき、最後から3つ目(09年9月現在)の写真が、それです。男が水様便だったがために、チベット犬が不満そうであった、というコメントなども、寂心の場合と似ていて、微笑を禁じ得ない。)

また、江戸期以前は日本でも普通のことであった。それと関連するが、野糞ではなく便所があるところでは、犬と便所との間に関連があるのが普通であった。拙論「排泄行為論」の上と同じ(4.1)で、12世紀末に成立したとされる絵巻物『病草紙 やまいのそうし』から「霍乱 かくらん」の場面を引いて、縁先に排便する際に庭に白犬が来ている様子を指摘して「これは犬が人糞を食べるのが普通であったので、画家が描きこんだもの」だろうとしている。



《6》

慶慈保胤と同時代人で、「今昔物語集」で通俗的世界に痛罵を加えた人物としてもっとも名高いのは増賀上人雑賀とも書く、917〜1003)であろう。
増賀上人は「今昔物語集」で、2回扱われている。「第十二巻の第三十三話」と「第十九巻の第十八話」であるが、いずれも、かなりの長文である。前者は「多武の峰の増賀聖人のこと」と題し、誕生の時の奇瑞から、十歳で比叡に入り、のち多武峰に移り、臨終の際のふるまいまでを記す。極めて「貴き聖人」の評判が高く、天皇の召しが有ったが、「様々の物狂はしき事」をし出して「逃げ去りにけり」とする。後者は「三條の大皇太后宮出家のこと」というもの。「三條の大皇太后宮」というのは円融天皇皇后だった女性で、出家は長徳三年(997)三月十九日のことである。
ちょっと、信じがたい増賀の奇行は、三條の大皇太后宮出家の儀式で起こった。同一内容が『宇治拾遺物語』(143)にも出ているのだが、さすがの露伴も『連環記』で、
三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、途轍も無き麁言(そげん)を吐き、悪行をはたらき、殊勝の筵に列(つらな)れる月卿雲客、貴嬪采女(きひんさいじょ)、僧徒等をして、身戦(おのの)き色失い、慙汗憤涙(ざんかんふんるい)、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している宇治拾遺の巻十二の文は、ここに抄出するさえ忌わしいから省くが、(以下略)
と言っているほどである。
わたしは「忌まわしい」ところがはっきり分かるように、大意をまとめる。
三條太皇太后宮に出家の望みがあり、増賀は落飾(髪を切る)の儀式の師として招かれた。几帳の外まで出された皇太后宮の長い髪を切る。そこまでは普通にやったのだが、退出する前にわざと大声をあげ、「なぜ増賀を召したのか、自分のマラが大きい噂をきいてか。実際にひとより大きいが、若いときはともかく、今は練り絹のようにクタクタになってしまった」と言った。しかも、立って行く際に、「自分は年を取って、小便が近くて難儀している。今も、堪えがたいのでこうして急いで退出するのだ」と言いざま、簀の子のうえで、尻を掻き上げて、ジャアジャアとはばかりなく放尿した。その音は太皇太后宮の耳まで達した。(同前四p100より、大意)
わたしが簡単のために「マラ」としたところは、原文では「乱り穢き物」(ひどく汚ない物)と書いている。「今昔物語集」はわたしたちのような性的婉曲とは違う性文化にあったと思え、かまわず「まら」や「つび」と書いている(例えば、巻第十四第二十六話では「まらをつびに入れる」とある)。したがって、ここの原文の「乱り穢き物」は、むしろ八十歳の老僧・増賀が実際に口にした口語的な表現である可能性がある。露伴は上引の続きで、増賀を評して「実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。」と言っている。

その、増賀とわが寂心=保胤との間柄であるが、増賀の方が15〜20歳の年上であろう。増賀がいまだ比叡山におり保胤出家の後、増賀が叡山で「摩訶止観」の講義をしたことがあり、寂心がそれを聴講した。増賀は十歳で叡山に登り慈恵僧正(良源)の弟子となり、止観を学んできた天台宗学の直系の人である。『連環記』が面白いので、ふたたび、引用させてもらう。
 増賀はおもむろに説きはじめた。
 止観明静(めいじょう)、前代未だ聞かず、という最初のところから演(の)べる。其の何様(どう)いうところが寂心の胸に響いたのか、其の意味がか、其の音声(おんじょう)が乎、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、蓋し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は大いに感激した随喜した。そして堪り兼ねて流涕し、すすり泣いた。
 すると増賀は忽ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と拳を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲するは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘になって終った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。是(かく)の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、流石の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。
 何故に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。
「流石の増賀も、寂心の誠意誠心に負けた」というわけである。この話の出典はどれが元なのかよく分からないが、鴨長明『発心集』(二の五、内記入道寂心のこと)に出ている。

もう一人、大江定基・寂照に触れたい。三河守。この人は名文家として知られ、
笙歌[せいが]はるかに聞こゆ孤雲の上
衆生来迎
[しゅじょうらいごう]す落日の前
は、衆生来迎の決まり文句のように、よく引用される(『平家物語』「大原御幸」では、中国の清涼寺で詠んだとする)。
文人として高名であった保胤よりだいぶ年少であろうが、知人であったと思われる。下で紹介するいきさつで出家する際、寂心=保胤のもとで出家している(988年)。つまり、寂心の弟子である(大江匡房『続本朝往生伝』では「寂心をもて師となす」とある)。そののち天台教学を恵心僧都・源信に学ぶ。寂心没後、宋に渡ったが、その際、源信の書簡(南湖の智礼師宛の質問状)を持って行っている。寂照は宋で30年間過ごして、1034年に帰国せず没している。

「今昔物語集」「巻第十九の第二 参河守大江の定基出家せること」は、定基の出家するまでの印象深い恋愛を取りあげている。
 定基は六位の蔵人であったが、それを六年勤続すると従五位下に昇叙される例であるが、それで三河守に任ぜられた。定基にはもともとの妻があったが、若く美人の女と愛し合うようになった。定基は新しい女にとても深く執着し離れがたかった。そのためもとの妻が強く嫉妬して、夫婦関係を解消してしまった。
 定基は、若く新しい妻とともに三河国に下った。(同前四p57より意訳)
多妻制(妻問婚)の当時であるから、二人目の女ができたというだけで異とするには当たらないが、定基は新しい恋人にひどく打ちこみ溺れてしまい、もとの妻の面目をつぶすような状態であった、ということであろう。それで、本の妻の方から愛想を尽かせて離婚したのである。『源氏物語』などでよく分かるように、幾人もの恋人のもとに通いながら、それら恋人同士のバランスに細心の注意を払うのが当時の男のたしなみであった。定基はそういうたしなみを無視した恋愛に没入したのである。その所の原文は、
本より棲みける妻[]の上に、若く盛りにして形ち端正[たんじょう]也ける女に思ひ付きて、極めて難去く思ひてありけるを、本の妻あながちに此を嫉妬して、忽ちに夫妻[めをと]の契りを忘れて相ひ離れにけり。
となっている。
なお、この若い妻を「赤坂の遊君力寿」とする伝えがある(例えば『源平盛衰記』巻七「近江石塔寺のこと」)。

せっかく任地にまで連れて行った若い妻であるが、その地で重い病に伏す。定基は心をつくして様々の祈祷などを行うが、よくならない。日を経るにしたがい女の容貌も衰え、ついに、死ぬ。
 その後、定基は悲しみの心に堪えず、ひさしく葬送しないで、抱いて寝ていた。日数を経て、口を吸うと、女の口よりあさましく臭いにおいが出てきた。疎ましく思う気持ちが出来てきて、泣く泣く葬儀をおこなった。
 その後、定基、「世は疎[]きもの也けり」と悟って、たちまちに道心をおこした。(同上p57より意訳)
定基は恋愛ないし愛欲の極点にまで行って、道心に至ったというのである。上で紹介した匡房『続本朝往生伝』でも、同じ事情を述べている。
任国において、愛するところの妻[]逝去[]せり。ここに恋慕に堪へずして、すみやかに葬斂せず、かの九相を観じて、深く道心を起こし、遂にもて出家したり。(岩波日本思想体系7 p248)
匡房の曾祖父・大江匡衡(1012年没)は定基(1034年没)と従弟同士であり、同族の大江氏として匡房(1111年没)はなんらかの信じるにたる伝えを持っていたものと考えられる。「かの九相を観じて」と品よく表現しているが、恋人の肉体への恋着が、堪えがたい死穢臭によって断ち切られた、という極限の体験が周囲に知られていたのであろう。

ところが「参河守大江の定基出家せること」は、三河国の「風祭」の際の鳥獣の“生き作り”の習慣をなまなましく描いて、定基の出家の動機づけに加えている。読むものが眼をそむけたくなるような残酷な描写を定基の若き妻の死穢のあとに置いている。
そうしている間に、この国では風祭をするのに、猪を捕り、生きながら料理しているのを見て、定基ははやくこの国を去ろうと心に思った。(同上p57より意訳)
「風祭」は、風を鎮めるために風の神を祀るお祭り。ここでは秋の収穫祭と重なっているようだ。
 生きている雉を持ってきた人がいたのを見て、三河守は「さあ、この鳥を生きながら造って食べよう。今少しおいしく感じるかも知れない」と言った。守に取り入ろうと思って郎等たちは「まったくその通りです。どうして味わいが良くならないことがありましょうか」とへつらって言った。少し物の分かっている者たちは「変なことをするものだ」といぶかしく思っていた。
 生きている雉の羽ねをむしるのに、鳥がフタフタとするのを押さえ込んで、むりにむしると、鳥は目から血の涙を垂らしながら、目をしば叩いてかれこれの顔を見ていた。その様子に堪えられず、立ち去る者もあった。「鳥がこんなに泣いてるよ」と笑いながらむしる者もあった。
 むしりおわり解体するのに、刀を入れるにしたがって血がツラツラと出てきて、それを打ちぬぐい打ちぬぐいして切っていった。普通じゃない堪えられそうもない声を出してついに死んでしまった。(同上p58より意訳)
「フタフタ」とか「ツラツラ」は原文のままである。「今昔物語集」には、このような擬態語が多数現れている。
雉を炒ったり焼いたりして食べると、死んだのを解体するよりもずっとうまい、などと言いながら食べるのを見ていた定基は、涙を流し、声を放って泣いた。その日のうちに国府をでて上京し、もとどりを切って法師となり、寂照と名乗った。(「今昔物語集」では、寂心が定基の出家の際の師であったことには触れていない。)上京した寂照が、乞食の行の途中でたまたま本の妻にであい、侮辱するような言動を受ける。が、すでに寂照の道心は固く「あな貴[とふと]」と応えるばかりであった。

ここまでで「巻第十九の第二 参河守大江の定基出家せること」の半分である。後半は、宋に渡ってからの逸話であるが、それは、省略する。
死せる恋人を抱いて寝ながら口を吸って死穢臭がしたこと、生きながら解体された雉が変な声を出した末に死んだこと。意図して隠喩が並べられている。
恋愛ないし愛欲の極点は、恋人の死であり、恋人が物に解体していくことと向きあうことである、と「参河守大江の定基出家せること」は述べているかのようである。定基の出家は、そういうどろどろの男女の愛欲の果てに行われたのであろう。上品に言えば匡房の「かの九相の観」である。

わが寂心=保胤は、そういう定基の心境を包んで出家の導師たるにふさわしい「誠意誠心」の人と、定基に信頼されていた、と考えることができる。




「今昔物語集」に出る 人糞を喰う犬 ―― 慶慈保胤について ――

  おわり
 (9/27−2009)


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