き坊のノート 目次

「今昔物語集」にある「古代」という語 



《1》

しばらく前から、午前中の時間を、岩波の日本古典体系本『今昔物語集』の読書にあてている。これは全5巻あり、量も膨大だが、その緻密な頭注もすごいものである。その頭注を頼りに読んでいけば、院政末期の語法にしたがった読みで、なんとか観賞することができるのである。
「月報65」(1963)に西尾実が「源信僧都のこと」という文章を寄せているが、その冒頭に
(日本古典文学大系)六十六巻の中で最も困難な仕事と考えられていた今昔物語集五巻も、故山田孝雄先生と御一家の容易ならぬ丹精によって、全五巻が完成した。その校注の克明と入念な成果は、読者を感歎させている。
と書いている。わたしは『今昔物語集 第五巻』が出た昭和三十八年(1963)頃は理系の学生であって、「故山田孝雄先生と御一家」について何も知らなかった。今になっても、国語学者の山田孝雄の名前は知っているが、その一家が今昔物語集の解読に「丹精」をこめていたことは、この西尾実の文章で初めて知った。改めて『今昔物語集』の校注者の名前を見ると、たしかに「山田孝雄、山田忠雄、山田英雄、山田俊雄」と書いてある。つまり、この山田一家が膨大・緻密な『今昔物語集』全五巻を完成させたのである(「月報23」が『今昔物語集 第一巻』に付いていたもので、昭和34年3月(1959)であるが、それにこの山田4氏の紹介があり、山田孝雄[よしお]は「本書進行中の昨冬十一月二十日に逝去」とある)。わたしは細字のフリガナや精緻な頭注を虫眼鏡を使って読んでいるが、電子組み版ではなかった当時の活字工の仕事ぶりにも頭が下がる。

関連して思い出したことなので書いておく。源氏物語研究の池田亀鑑について、わたしは個人的な繋がりからいくらかその実生活を知る機会があったが(子供時代に新宿区椎名町?の池田邸の庭先まで伺ったこともある)、能筆であったお父上も動員して古典文献の写本作りをしていたという。いわば、家内工業的な作業として自宅で、池田亀鑑の指揮の下に写本作りが孜々として続けられていた。池田亀鑑は後には東大教授になるのだが、その学問の基盤になるのは、個人的な努力で集積された古典文献が中心を占めていた。

日本語を解するすべての人間を稗益する「今昔物語集」や「源氏物語」の研究が、私的な係累の家内工業的な努力によってなされていたこと、少なくともわたしの学生時代までは(20世紀半ばまでは)、そういうやり方が行われていたことは事実であり、記憶しておく必要がある。山田孝雄の子息たちはいずれも大学教授などの公的職を得ているようだが、池田亀鑑の場合など無名のまま終わっている方々がおられたと思う。
これは、わたしが偶然に知ったわずかの事例である。肉親や係累ではなく、内弟子のような師弟関係によって構成される研究集団もあったであろう。こういう私的な小集団が研究工房とでもいうような形で造られ、日本古典研究の基礎部分を粘り強くなしとげていたことを指摘しておきたい。わたしは、こういう研究のあり方(前近代的なあり方といっても良いだろう)が、“よくない”と考えているわけではない。こういう私的集団でしかなしえない質の高い持続的な研究がありうると思う。また、日本古典研究(“国文学”ではなく)には、私的で秘密結社的なものがあってかまわない。俊成−定家の“御子左家 みこひだりけ”というような血脈・家伝に重きを置くような世界の探求なのであるから。


《2》

わたしは、何度か『今昔物語集』を読んでいるが、その度になにがしかのテーマを持って、そのテーマに触れるところに出会うと丁寧に読む、というやり方をしている。つまり、頭からまんべんなく丁寧に読んでいくというやり方では、わたしにはとてもこの膨大で多様な「物語集」を読破することはできない。
今回は、わたしは、まず「放免」という語の出てくるところを再読するのが第一の目的だった。それは小論「〈放免〉と〈着ダ〉」にもう少し手を入れて、ふくらみを持たせたいと考えてである。第二は、「今昔物語」の性行為に関する表現が直截で露骨であること、だが、扇情的ではないことなどに興味があり、性表現に注目しようと意図した 。第三は、便所や排便についての題材から興味の持てるものが見付かるだろうか、と考えていた。
ここで取り上げる「古代」という語にまつわる感想は、上で意図していた第一〜三のいずれにも当たらないもので、ハッと心を打たれたところがあったものである。(第一〜三のテーマについて、いずれも面白いものを見つけることができた。この印象が薄くならないうちに、ともかく文章化しておきたいと考えている。遠くないうちに、このサイトにアップします。

さて、ここから本論に入る。
「古代」という語が登場するのは(わたしが気がついたのは)「巻第二十九」の「第十二話」、題名は「筑後の前司ぜんじ源の忠理ただまさの家に入りたる盗人のこと」である。以下、引用の際の文字遣いは、『今昔物語集』の表記を無視して、読みやすさを第一に考えて書く。[・・]は振り仮名である。また、引用はすべて『今昔物語集 五』(p158〜161)からなので、引用元のページの表記は省略した。

この「第十二話」は、主人公の筑後の前司・源忠理について、大和守・藤原親任[ちかとう]の舅であるという紹介の仕方をしている。藤原親任の方が有名であったのか、「今昔物語集」の編者にとってより現代人であったなどの理由があるものと思う。頭注によると、親任は母・室などの情報が判明しており、万寿三年(1026)に伊勢守になっている、という。ただし、大和守になった記録は未見であると。この年の一年後、万寿四年には藤原道長が没している。このことで、大体の時代が分かる。
主人公の源忠理は、それの一世代前の人と考えればよいであろう。「尊卑分脈」で、助理の子・筑後守・従五位下などが分かるが、それ以外の情報はないという。

ある晩、忠理が方違え[かたたがえ]のために、ひとり自分の家を出て近くの小さな家に泊まった。大路に面した桧垣に沿った室が寝所であった。雨がひどく降っていたが、夜中になって止んだ。人の足音がして、自分が寝ている室のすぐ外の桧垣のそばに立ち止まった。忠理はその晩は頼もしい配下の者をだれも連れてきていないので、怖ろしく、耳をそばだてていた。すると、もう一人の人物が登場する。
大路なかばより、また人の足音して過ぎけるを、この元より桧垣の辺[ほとり]に立てる者■吹をしければ、大路のなかばより歩く者、立ち留まりて忍び声にて、「何主[なにぬし]の坐[おは]するか」と云ふ。「然[しか]也」と答ふれば、寄り来たりぬ。(■は欠字をしめす。
桧垣の傍で佇んでいる者が、大路を来る足音にむけて、口笛のような合図をした、ということなのだろう。大路を来た者は合図に足を止めて、「××さん、居るか」と忍び声を出す。桧垣の傍で「居るよ」と答える。雨の後の暗闇の中での出来事である。

忠理は、賊どもがすぐにでも踏み込んでくるかと身を堅くしていると、どうもそうではなくて、ヒソヒソ話がつづく。どうやら、立ったままで盗みに入る相談をしているようである。どの家に入る相談だろうかと聞き耳を立てていると「筑後の前司」という語が聞こえる。なんと、まさしく自分の家に入る相談をしていたのだ。しかもよく聞いていると、自分の所で心安く使っている侍が手引きをしていることが分かった。
「筑後の前司」など云へば、「すでに我が家に入らむずる盗人にて有り。それに我が許[もと]に心安く思ひて仕[つか]ふ侍の仲する事ぞ」とよく聞きつ。云ひはてて、「然らば明後日[あさて]何主を具して必ず坐[おは]し会へ」など、契りて、歩[あゆ]び別れて去りぬなり。「賢くここに臥してかかる事を聞きつる」と思ひけるに、辛くして明けぬれば、暁に家に返りぬ。
賢く ここに臥して」は、「ちょうど幸運にもここを寝所にして」。「辛くして明けぬれば」は、「やっとのことで夜が明けたので」という表現だが、頭注によると、現在普通に使う「辛うじて」の原形であるという。そして、次のような指摘は、なるほど、と思う。
(「辛くして」は)夜の明けるのと方違えの期の過ぎるのを待つ心理的時間の長さを端的にあらわす語。
自宅のすぐ近くの小家で方違えのために一夜を過ごしていた忠理は、明後日に自分の家に盗人が入ることを知り、じりじりしながら時間が経つのを待っていたのである。方違えのことがなければ、すぐにでも自宅に戻って、対策を打つ事になるであろうから。

つぎに引用する所に、「近来」と対比させて「その比までは」人の心も「古代」であった、という語が登場する。
近来ちかごろの人ならば、明くるや遅きと宿直[とのゐ]をも数[あまた]設け、かの「仲するぞ」と云ひつる侍をも搦めおきて、入り来たらむとせむ盗人をも尋ねて、別当にも検非違使にも触るべきに、その比[ころほひ]までは人の心も古代こたい也けるに合わせて、その筑後の前司が心直[うるは]しき者にてしけるにや、この仲する侍を、然[]る気[]なきやうにて白地[あからさま]に外に遣りて、それが無かりける間に、ひそかに家の内の物を吉[]きも悪[あし]きも、一つも残さず、外[よそ]に運びてけり。妻[]・娘などをも兼[かね]てより異事[ことごと]につけて外[よそ]に渡し置てけり。
つまり「古代」と書いているが、今のわれわれの意識する古代とはだいぶ違っていて、「古体」ないし「古態」の気持ちが半分は入っているのである。
近ごろの者なら、自分の家の警護を厚くし、手引きする侍をとらえ、盗人一味の正体を吐かて、検非違使に通報するだろう。それに対して古代の心を持った筑後の前司のやり方は、まるで違っていた。さりげなく手引きする侍に外向きの用事を言いつけ、その侍が居ない間に、家の内の物を残らずすっかり運び出して、別の安全な場所にしまった。妻も娘もほかの用事にかこつけて外にやってしまった。


《3》

一日おいた夕方、空っぽになった家に手引きする侍がやってくる。筑後の前司たちは、その侍に何も気づかせないように巧みにふるまって、その夜、自分らは密かに家を抜け出して近くの人の家に行って寝る。このところは、次のように書かれている。
さてその契りける日の暗〃[くらくら]になる程にぞ、この仲する侍[さぶらひ]来たりければ、気色[けしき]も更に見せず知せずして、我等も有るように持成[もてな]して、夜うち深更[ふく]る程に忍び出でて、近き人の家に入り臥しぬ。
「契りける日」というのは、暗闇の中で盗賊が相談していた「明後日 あさて」のことである。この手引きする侍は“住み込み”ではなく、二日目の日は筑後の前司の家に戻ってこなかったようである。さらに“常勤”というのでもなくて、三日目の「契りける日」は夕方暗くなった頃にやって来たのである。この侍は筑後の前司の家に使われているが、仕事があるときに随意に来て働くというような緩いつながりで雇われていると考えるのがよいようである。
あるいは、この後の話の流れからすると、この邸の夜の警護の仕事をしていたと考えてもよいであろう。

夜に入って、盗賊団がやってくる。
その間に盗人ども来たりて、まず門[かど]を叩きけるに、この仲する侍、門を開けて入れたりければ、十廾人[じゅうにじゅうにん]ばかりの盗人立ち入りにけり。心に任せて家の内を探しけれども、露ばかりの物も無かりければ、盗人求めわびて出でて行くとて、この仲する侍を捕らへて、「我等を謀[たばかり]て物も無き所に入れたりける」と云ひて、集まりてよく蹴踏[クエフミ]凌じて、はてには縛りて車宿[くるまやどり]の柱におぼろけにては解免[ときゆるす]べきやうも無く結び付けて、出で去りにけり。
「十廾人ばかり」は、わたしたちには珍しい表現に見えるが、「今昔物語」ではよく使われている。十人ないし二十人ばかり。人数、匹数、長さ「町」などいろいろなものに使っているが、数字の組合せは、実際に現れているのは十と二十だけである。
暁に筑後の前司は自分の家にもどって、ずっと居たように振る舞って、手引きした侍を探し、車宿の柱に縛りつけられているのを見つける。盗人の仲間に痛めつけられたと思っておかしかったが、素知らぬ風で「なんでこんな目にあったのか」と聞く。侍は「盗人が怒って縛りつけて去ったのです」と答える。
筑後の前司、「かく物も無き所と知る知る、その主達の坐[おは]するこそ■なれども止みにけり。その後、物無き所と知りて、盗人も入らで有りぬる。然れば近来[このごろ]の人の心には替[かはり]たりかし。その仲しける侍はその事とも無くて、その所をば出で去りにけり。
筑後の前司は、とぼけて手引きをした侍に対して、「こんなに何もない家だと分かっていながら盗もうとやってくる人たちこそ、妙なものだが」と言って、それだけで言うのを止めにした(本文で、会話の終わりと地の文とが融合して、おかしくなっている。そのため“」”が書かれていない)。そのあとは、物のない家だとわかって盗人も入らなくなった。このごろの人の(この家の)評判に変化があったようだ。手引きした侍は、いつの間にかその所から去ってしまった。

これで話は完結しているが、短い追加の話が加わっている。
その後この家には侍が二人使われることになった。近所に火事があったとき、荷物を運び出すことになった。もともとたいした荷物も置いていないので、二人の侍には空の大唐櫃を運ばせた。筑後の前司がひそかに様子を覗っていると、侍らは唐櫃の錠をねじ切って中を調べ、空っぽであることを知り、「物得べきやうも無き人にこそ有りけれ 給料ももらえそうもない人だ」と言って、去っていった。それで、筑後の前司の感想。
筑後の前司の云ひける様[やう]は、「家の物外[よそ]に運び置きて、よき事有り、悪しき事有り。盗人に物取られぬ、これいとよき事也。二人の侍[さぶらひ]逃がしつる、これ極めて悪しき事也」とぞ云ひける。
自宅の物を安全な場所に移しておくと、盗人に物を盗られなくなるのは良いことだが、盗む意図のあった侍二人を逃がしてしまったのは悪いことだ、という何だかぼやけたような感想である。
「今昔物語集」では編者の評がかならず一編ごとの末尾に付くのだが、ここでは次のように言っている。
賢き者なればかかる事どもはしたるぞとは思へども、これいと吉[]き事ともおぼえず。物を取りよせつつ使いけむも極めて悪しかりけむものを、古はかかる古代[こたい]の心持[]たる人ぞ有りけるとなむ語り伝へたるとや。
「賢い人だからこういう事をしたんだろうが、とても良い事とは思えない。必要な物を取り寄せながら使うというのはとても不便で、良くない」。この評は、千年後のわたしもその通りだと思う。だが、とても不便で悪いはずなのに、それを意に介さずに「かかる事ども」をしたのであった。「古はかかる古代の心」を持った人がいたのだ、という最後の言葉がやはり光る。


《4》

『今昔物語集』の頭注は、「古代 こたい」に対して、「『古体』と同義。昔風でおおらかであった」としている。
わたしは「昔風でおおらかであった」という解には、違和感を覚えた。「おおらか」というような問題じゃないように思うからである。その点は、以下に述べる。

“時間の流れ”という発想を前提とした「時代」というときの「代」と同様に、「古代」(こだい)という語がいまのわれわれの普通の使い方である。「近代」、「現代」も同様である。
「今昔物語集」の編者の時代は、12世紀前半の院政期、あるいは保元・平治の乱以前と考えられている。編者は「宇治拾遺物語」の源隆国(1004〜77)とする説があるが有力説とは言いがたく、未詳の僧侶説や複数説もあり、分かっていない。ともかく、この編者の時代に、「古はかかる古代の心」を持った人がいた、という表現がなされていたわけである。この表現は、いまのわれわれが使う意味での「古代」とはすこし違った意味を持っていたと考えられている。
古はかかる古代の心持[]たる人ぞ有りける
の「古代」が今のわれわれが使う意味と同一であるとすると、一種の同義反復になってしまう。そうだとすれば、確かに頭注が言うように、「古はかかる古体の心」を持った人がいた、ないしは、「古はかかる古態の心」を持った人がいた、という意味であったとすれば納得がいく。「古体の心」というのは、いまのわれわれの表現に直せば「今風じゃない心」というぐらいになるだろう。

さて、それなら、頭注が言うように「古体の心」は「おおらかな心」なのであろうか。
筑後の前司が、盗人が入るという企みの情報を自らつかんだときやったことは、盗人たちの侵入に対して(1)検非違使ら公権力に依拠して盗賊団を取り締まる、(2)「宿直 とのゐ」を増やして実力を持って対抗するという方法ではなく、“家に盗られるような物を一切置かないこと”によって盗人側の意図を自壊させるようにしむける策略を用いている。“あそこの家は盗むに値するものを持っていない”という評判が盗人の間で立てば、それ以上の堅固な防御法はないわけである。実話としてはやや無理なところもあるが、「古 いにしえ」と「近来 このごろ」を対比させて、盗賊などの外部からの私的暴力への対処法を問題にしていると考えれば、筑後の前司のやり方は、私的自衛を主たる防御法とした時代の戦術として、非常に「賢い」高等戦術であるといえる。
公的実力(検非違使など)や個的実力(宿直など)によって、外部の私的暴力(盗人など)に対抗するという考え方は、法的秩序が社会全体を覆い始めている段階ではじめて意義を持って来るであろう。ある法的秩序の内部においてのみ〈公−個〉的実力が〈私〉的実力と対抗することに絶対的な区別が可能である。法的秩序がいまだ権力中央の局部に存在するに過ぎない段階(小国家分立段階)では、公的実力と個的実力とは相対的な意味しか持たず、なんら絶対的な意義を持たない。私的暴力(豪族などの)がなんらかの契機によって法的秩序を獲得して〈公−個〉世界を成立せしめることによって、はじめて、私的暴力を差別化することが可能になる。

法的秩序が社会全体を覆い始めている大和国家(関東以西の列島)の内部で、法的秩序がいまだ社会を覆っていない段階を思想的に想起しているのが、ここでいう「古 いにしえ」である。つまり、筑後の前司を「古 いにしえ」を象徴する人物と考えれば、彼の策略は、公的実力と私的実力の違いが相対的な意味しか持たない時代には、意味を持ったかも知れない策略なのである。
法の網が社会の隅々にまで滲透しつつある段階に、「古 いにしえ」を振り返って「おおらか」と評するのは的外れとは言えないが、本質を突いた評ではないというべきだ。

もうひとつ、この物語で面白いのは「 さぶらひ」のあり方である。筑後の前司は、自分の家で自分の配下として使っていた侍を持っていた。
我が許[もと]に心安く思ひて仕[つか]ふ侍
が、じつは、「仲する事」が判明した。この侍は、たんなる下男(雑色)ではなく、侍という以上、武器などを常に携えている男なのであろう。上で述べたように、この男は警護役などを行っていたと考えられるが、筑後の前司の家司としてその経営内部に通じているというより、ゆるい繋がりで、自由度を持って勤務していたと考えられられる。それで、都合が悪くなれば、知らぬ間に消えてしまう。
追加の挿話に登場して唐櫃を運ぶ二人の侍は、つぎのように、紹介されている。この紹介の仕方にも、この物語に登場する侍の性格が反映している。
その後、また侍[さぶらひ]二人出で来たりて仕[つか]はれけり。
この二人が、唐櫃の錠をねじ切って中身が空っぽであることを知り、去って行くところ。
物得べきやうも無き人にこそ有りけれ。何を頼みてか有らむ。去来[いざ]去りなむ」と云いて、かきつらなりて、逃げて去りにけり。
彼ら侍は、おそらく何らかの武器を携えている「実力」として期待され、雇われているのであろう。しかし、その出自や所属は問題にならず(その点、後の武士とは異なる)、私的な浪々の者であったように思える。このような「侍」が検非違使の配下や「宿直」にも、また、筑後の前司のような者の家にも雇われていたのであろう。そして、その存在は浮動的であり、彼らのもつ武力がかならずしもその雇い主の為に使われるとはかぎらず、盗賊側に転ずることもあったのである。


《5》

国語辞典で「こたい 古体」や「こだい 古代」を引くと示されている日本古典の有名な例を、「万葉集」と「源氏物語」から一つずつとりあげておく。
『日本国語大辞典』の「こたい 古体」には、
古い時代のものであること、古めかしいこと、また、そのさま。昔のすがた。古風。昔風。
と解があって、「万葉集」巻六(1011)の題詞を例示している。これは「古」という字を意識的にくり返して使った題詞で、その末尾に出てくる。古典体系本『万葉集 二』から、読み下し文を引く(読みやすさを重視して、適宜仮名にした)。
このごろ古舞盛[さか]りに興りて、古歳[ことし]漸[やや]く晩[]れぬ。理[ことわり]共に古情を盡して、ともに古歌を唱ふべし。故[かれ]にこの趣になぞらへて、すなわち古曲二節を献る。風流意気の士、もしこの集ひの中に在らば、争ひて念[おもひ]をおこし、心心[こころこころ]に古体に和せよ。

わがやどの梅咲きたりと告げやらば来[]ちふに似たり散りぬともよし
春さらばををり[成長している]にををり鶯の鳴くわが山斎[しま、庭園]そやまず通わせ
「冬十二月十二日」に歌舞所[うたまひどころ]の者たちが葛井広成の家で宴会をした。その際に、古風な歌2首を示し、みなで唱った、というのである。
雅びな心を持ち意気盛んな人よ、もしこの宴におられるのなら、きそって気持ちを奮い立たせ、心を合わせてこの古風な歌を唱おうじゃないですか。

わが梅が咲いたとお報せしたら、おいでなさいよ、いらっしゃるなら梅が散ってもかまいません

春になったら、よく繁りに繁って鶯が鳴いているわが庭にこそ、どうぞいつでもおいでなさい
辞典によると「古体」という語は、もともとは、漢詩で唐代の律詩・絶句を「近体」というのに対して、それ以前の体をいうのだそうだ。万葉の時代には、すでに知識人たちの間にその語が知られていて、和歌や舞などに対しても広く「古風な、昔風な」という意味で「古体」と言うようになっていたと考えられよう。

『日本国語大辞典』の「こだい 古代」には、
古い時代。むかし。いにしえ。
として、「源氏物語」若菜上から、「こたいのひが事どもや侍りつらむ」が例示してある。(かつては「源氏物語」の中から、該当個所を見つけるのは容易ではなかった。現在では、ネット上に日本古典文学の原典の多くが電子化して全文公開されているので、多くの場合、非常に容易に該当個所にたどりつくことができる。たとえば「平成花子の部屋」の源氏物語(原文)の部屋に、pdfファイルがあり、利用できる。「古代」で検索すればよい。ただし、もし検索対象文書に「こたい」と入力してあったらヒットしないので、検索対象文書をある程度見て、その特徴を大まかに知っておく必要はある。
日本古典文学大系では山岸徳平校注『源氏物語 三』に該当個所がある。「明石の上」と光源氏の間にできた娘である「明石の女御」が東宮との間に子をなし無事出産する。明石の上は六条院の「冬の町」に住んでおり、そこに母親である「尼君」も同居している。この尼君は「六十五六のほどなり」という設定である(なお、出産した明石の女御は、十三歳である)。
「おばあちゃんが、いろいろと昔の事柄を持ち出して、とんでもない記憶違いをくどくど話すのは迷惑なことでしょう」というニュアンスで、明石の上が娘である明石の女御に慰め話をするのである。
古体のひが事どもや侍りつらん。よく、この世のほかのやうなる僻[ひが]おぼえどもに、とりまぜつヽ、あやしき昔の事どもも、出でもうで来つらんはや。(p280)
「あやしき昔の事ども 不確かな昔の事柄」の中には、十数年前に須磨明石に流されてきた光源氏が、娘(明石の上)と恋仲になり孫娘を生むことに至る事情を見知っている母親(尼君)としての記憶が含まれている。
「古体のひが事」は、“昔風の”ということではなく尼君の記憶にある“古い過去の”瑣末な事柄、という言い方である。つまり、この「古体 こたい」は時間の経過を主たる意義に置いて、使われている。十三歳の孫娘から見上げた、六十五六の祖母の持つ時間性を表している。その時間性を、この両世代の中間にいる明石の上が、母(尼君)と娘(明石の女御)の両方の時間性のあり方を見さだめながら、述べている。その時間差が「こたい 古体」の主たる意義である。
この「こたい 古体」の中には、“昔風の、古くさい”というニュアンスも含まれているが、しかしそれは、“時間がずいぶん経過した”という時間差を主たる意義にした上でのニュアンスである。『日本国語大辞典』が「こだい 古代」の用例として第一に挙げたのは、こういう判断に立っているからであるし、わたしもその判断によく納得できる。

上で引いた「古体のひが事どもや侍りつらん」という表記は、校注者の山岸徳平の判断が込められているわけで、「源氏物語」の原文は「こたい」なのである(この個所の原文は「こたいのひが事どもや侍りつらん」)。しかし、この「こたい」には、ここに述べてきたように、今のわれわれが普通に使っている時間軸を前提とした「古代」という語につながる意義が、はっきりと存在している。

「源氏物語」の完成は11世紀の初めとされるが、すくなくともその頃までに、今のわれわれが使う時間軸を前提とした「古代」に近い意義を持つ「こたい」が成立していたと考えてよいのである。

じつは、わたしは20代の終り頃、「近代」という語が日本において、いつ頃から使いはじめられたのかに関心を持ち、定家の「近代秀歌」を知った(実朝の求めに応じ、承元三年(1209)、四十代後半だった藤原定家が書いて贈った歌論書)。
その頃のわたしは「明治以来の近代」をどのようにしてか相対化できないものかと思想的に格闘していたのだが、定家の視野に「近代」という自覚が結晶していたことを知り、なにがしかの諦念を覚えた。それでわたしは無謀にも『国歌大観』四冊を古本屋で手に入れ、定家の「初学百首」からノートを取りながら読んでいった。どの辺りまで進んだのか忘れてしまったが、格闘したという記憶は残っている。“本歌取り”などについてある程度の勘が働くようになったのを覚えているので、数年のうちにその程度の初心者のレベルまでは達していたのであろう。
わたしは「明治以来の近代」をどのようにしてか相対化する方途を編み出すということこそ、自分のぶつかった思想的課題の本命であると考えていたので、この数年間の“定家読み”の努力は自分の古典読解力の向上にはなったし、院政期末から鎌倉初の歴史への興味をかきたてられたが、自分に対して本質的な影響をもたらさなかったと思う。今になって思えば、残念なことであったかもしれないが、それも、わしたの生き方であった。
こういういきさつがあったので、この度、30年以上経って出会った「今昔物語集」での「古代」という語に、深く動かされたのだろうと思う。

13世紀初めの定家の時代には、すでにわれわれが使うのと同じような意義を持つ「古代−近代」という時間軸の存在を前提にした語が成立していたと考えられる。


「今昔物語集」にある「古代」という語  ――  おわり (8/12−2009)
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