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『独立心の強い二条天皇はなかなかの人物であったと思えるが、残念ながら病弱で永万元年(1165)に二十三歳で死去した。が、自分の死期を悟って二歳の息子、六条天皇に譲位してあった。この赤ん坊天皇は在位三年足らずで高倉天皇に譲位させられるが(仁安三年1168 死没は安元二年1176で享年十三歳)、これは二条の血筋を好まなかった後白河が清盛と組んで実現したとされる。山槐記 』の記主の藤原忠親 は(平治元年1159)十月に蔵人頭に任じられたが、その日記を見ると、国政の案件については、院と天皇の双方へ奏聞を行い、前関白の忠通の内覧 を経ていたことが知られる。二頭政治が行われ、それを清盛が武力の面で支えることで国政は執行されたのである。(五味文彦『平清盛』吉川弘文館1999 p137)
十月の除目で後白河は、清盛の女婿基通をおさえて基房の嫡子で八歳の師家を権中納言に任じた。また重盛が十余年間も知行国を務め、死後は維盛が継承していた越前国を没収し、院近臣藤原季能[すえよし]を越前守に補任した。さらに盛子が管理してきた摂関家領の管理権を取り上げ、近臣藤原能盛を白川殿倉預に補任し、清盛による摂関家領管理権を否定した。(下向井龍彦 『武士の成長と院政』p296)つまり、後白河院は清盛から摂関家に関する利権をすべて取り上げ、清盛の摂関家への構想を完璧にたたきつぶした。六月(盛子の死)、七月(重盛の死)、十月(除目で後白河からの攻撃)という畳みかけるように清盛を襲う衝撃波である。
(このクーデターのもたらしたものの第一は)天皇の正統性に対する合意の崩壊である。貴族たちにとって後白河院こそ皇位決定権を有する最高権力者であった。高倉の正統性も権威も後白河院によって保証されていた。しかしその高倉から安徳への譲位は、最高権力者後白河の幽閉という異常事態のなかで行われたのである。したがって貴族たちにとって、安徳の天皇としての権威と正統性はきわめて薄弱であった。(下向井前掲書p299)《平家政権》成立がもたらした伝統的な宮廷・貴族社会へのひずみは、きわめて大きく深いものがあった。安徳幼帝は“清盛の天皇”でしかない、という気持は貴族社会の底流として広く存在していたと考えられる。ことに、その考えを先鋭化せざるを得なかったのが、安徳天皇の即位によって自分の皇位継承の望みを完全に絶たれた三十歳の以仁王(後白河の三男)であった。以仁王の背後には藤原氏・閑院流(母・成子は閑院流・季成の娘)や六条流系の皇女・八条院(八条院は以仁王を猶子としている)が存在していた。したがって《平家政権》成立のひずみを感受できる人々にとって、以仁王令旨はたんなる不満と野心をもつ王のアジビラではなく、《天皇制》の「正統性」を持つ声として受けとめられたのである。「王法」が清盛によって踏みにじられ纂奪されつつある、と。
仏法の殊勝なる事は(特にすぐれた点は)、王法をまぼらんがため、王法また長久なる事は、すなはち仏法による。ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、ほしいままに国威をひそかにし(私し)、朝政をみだり、内につけ外につけ、恨みをなし歎きをなす間、今月十五日夜、一院第二の王子、不慮の難をのがれんがために、にはかに入寺せしめ給ふ。(岩波体系本『平家物語』上p299 「一院第二の王子」と言っているのは守覚法親王を省いて二男に数えたもの)この「王法 わうぼう」こそが、宮廷・貴族社会が守ってきた伝統的な天皇制のことである。清盛が自分勝手に(臣下でありながら)天皇制を改造しているという非難である。この非難は、広汎な範囲に共感をもって受け入れられた(ただし、この牒状に対し延暦寺は冷淡だったが)。殊に、南都からの返牒は熱烈な反平家をぶち挙げるものあった。その一部。
一毛心にたがへば、王侯といへどもこれをとらへ、片言耳に逆ふれば、公卿といへ共これをからむ。これによって、或ひは一旦の身命をのべんがために、或ひは片時の「万乗の聖主なお緬転の媚をなし」とは、思い切って書いたものだ。この時点で天皇は高倉天皇である。高倉を名指しで非難したのと同じことだ。凌蹂 をのがれんとおもって、万乗の聖主なお緬転 の媚をなし、重代の家君かへって膝行の礼をいたす。
ちょっとでもその意にそむけば王侯であっても捕らえ、ひと言でも気に入らなければ公卿であっても搦めとる。こんなことだから、すこしの身命の安全のために、一時の圧迫を逃れるために、天皇でさえ面前に媚びへつらう。代々続く家の主人(藤原氏)でさえ臣下としての礼をする。(同前p301)
そもそも清盛入道は平氏のとあり、祖父正盛から書きはじめて清盛が成り上がり者であることをすっぱ抜いている。清盛は「大いに怒って」その法師を捕らえて殺せと特に名をあげて指示したと巻七にある。この返牒の筆者は、木曽義仲の「手書」(てかき、書記)の大夫坊覚明となった人物で、もと勧学院にいた儒家で「蔵人道広」といい、出家して「最乗坊信救」と名乗っていたことが、巻七の「願書」で明らかにされる。覚明は頭から漆を被って皮膚を焼いて人相を変えて逃げたという。糟糠 、武家の塵芥なり。(同上p300)
故入道の所行等、愚意(宗盛の考え)に叶わざるの事等ありと雖も、諫争する能はず。只彼の命を守りて罷り過ぐる所なり。今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候。(「玉葉」治承五年閏二月六日条)ただし、これで平氏が「治天の君」の前に全面屈服したというのではなく、「源氏を討伐せよ」という清盛の遺志は固守する。つまり、軍事権行使に関しては後白河院と宮廷・貴族社会の意向を無視して、清盛の遺志を固守するというのである。
カヤウニシテケフアス(今日明日)義仲・東国武田ナド云モ、イリ(入り)ナンズルニテアリケレバ、サラニ京中ニテ大合戦アランズルニテヲノヽキ(戦き)アヒケルニ(『愚管抄』巻五 古典体系本p254)後白河院はその前夜ひそかに比叡山へ逃れる。そこへ義仲らが無血入京する。寿永二年(1183)七月末である。
つらつら事のていを案ずるに、行幸はなれ共御幸もならず。ゆく末たのもしからず。「行幸 ぎょうこう」は天皇の行動、「御幸 ごこう」は上皇後白河の行動。安徳天皇の行列は西を指していくが後白河院はそれを見放して同道しない。この情勢を見て基通は「ゆく末たのもしからず」と、天皇・安徳を見限ることを決心した、というのである。
よく状況を考えてみると、天皇は西へいらっしゃったが院はご一緒ではなかった。この天皇の将来は危うい。(岩波体系本『平家物語』下p97)
たとひ主上行幸ありとても、このように「つぶやきて」、牛飼と目くばせして牛車を引き返す。そこには「牛飼も進まぬ道なれば」という句もあって面白い(牛飼も西国へ同行したくないのである)。「御代は法皇の御代」という的確な表現が、院が最高権威者であることをうまく表現している。御代 は法皇の御代、ご運尽き給ひて外家 の悪徒 に引かれ、花洛[京都]を落ちさせ給はん行幸に供奉 せさせ給ひたらば、末たのもしからん御事(有朋堂文庫『源平盛衰記』下、巻31)
五条大宮辺まで行幸に供奉し給けるに、うしろより黄衣の神人招きたてまつると御覧じて、御車をとどむれば、神人見えず。又御車を進むれば、先のごとし。かくする事二三度になりければ、「春日大明神おぼしめす様あるにこそ」とおぼして、轅を北にしてとどまり給にけり。前後うちかこみたる武士のなかを分けて御車をやりかへされけるを、とがむる人なかりけるも不思議の事になむ。これが「春日権現験記絵」の該当する詞書。基通自身が西へ逃げ行く平氏と安徳天皇を見限ったのであるが、それを“春日大明神に何かお考えがおありのようだ”ということにして、自分の決心に弾みをつけたのであろう。落ち目の平氏にくっついて行きたくない進藤高範や牛飼も同じ気持ちであって、行幸を警護する武士たちからの障害もなく「やりかえされけるを、とがむる人なかりける」も不思議だ、ということになった。
11世紀中葉から、13世紀前半にかけて、境界的な人びとは、王朝の制度の中に、神人・供御人身分として公的、法的な位置づけを、明確に与えられております。(中略)このように「黄衣」の人物がただちに神人であることが広く認識されており、神の言葉を伝える役割を負っていることが自然に受けとめられていたのである。
その衣装、スタイルも、黄衣をつけ、榊などを持っており、神人は衣装、持ち物についても一般平民とは異なる姿をしております。神人の場合には黄衣が広くみられますが、勧進聖の場合は黒衣ですし、(以下略)(網野善彦『日本中世に何が起きたか』洋泉社2012 p35)
伝え聞く、摂政[基通]二ヶ条の由緒あり、動揺すべからずと云々、一は、去月二十日比、前内府[宗盛]及び重衡等密議に云はく、法皇を具し奉り、海西に赴くべし。若しは又法皇宮に参住すべしと云々。かくの如き評定を聞き、女房を以て(故邦綱卿愛物、白河殿の女房冷泉局)、密かに法皇に告げ、この功に報いらるべしと云々。(高橋貞一『訓読玉葉』第5巻p186)ここまでが、「二ヶ条」のうちの第一の方。
摂政基通に関する二つの重大情報を聞いた。動揺してはならない。一つは、先月の二十日ごろ、宗盛、重衡らが密議をもち、「西海へ法皇をつれていく、そのために今から法皇宮[法住寺]に同居しよう」などと話しあっていた。それを知った摂政基通は女房冷泉局をもって法皇に知らせた。基通にはこの功労に報いることが必要だ、云々。
その夜、法皇をば内々平家とり奉りて、都の外へ落ち行くべしといふ事をきこしめされてやありけん、と述べているが、誰が法皇に都落ちの情報を知らせたかは明らかにしていない。按察 大納言資賢 卿の子息、右馬頭資時 ばかり御共にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬へ御幸なる。人これを知らざりけり。(『平家物語』下 p94)
その夜、平家が法皇を極秘に確保して都落ちする計画を、法皇はお聞きになっていたのか、按察大納言資賢の子息、右馬頭資時だけを供につれて密かに御所を出て鞍馬へ逃れた。誰もそれを知らなかった。
同(七月)二十四日後白河法皇は単なる「治天の君」ではなかった。彼の凄いところは、いざとなると1人で決断し、1人で行動する力を持っているところである。その点こそがこの法皇の際立った個性である。未 刻に北面の者一人ひそかに院御所に参じて、「承る旨こそ候へ 申し上げたいことがあります」と申せば、法皇「何事ぞ」と御尋ねあり。奏し申しけるは、「明日巳午 の時に、源氏等四方より数 万騎にて、都へ責入る由聞こへ候間、平家都の内に安堵し難しとて、三種 の神器 、院内[上皇と天皇]取りまゐらせて、明旦卯刻に西国へ下向とて、内々出立候」と申しければ、法皇、「神妙に申せり、此事ゆめゆめ人に披露有るべからず、思召旨 あり」とて、其日の夜に入て、殿上人に右馬頭資時ばかり御伴にて、北面の下臈二三人被召 て、忍て鞍馬へ御幸なる。人これを不知 けり。(『源平盛衰記』巻31)
〈四大絵巻〉(「源氏物語絵巻」、「伴大納言絵詞」、「信貴山縁起」、「鳥獣人物戯画」)をはじめ、「吉備大臣入唐絵巻」「寝覚物語絵巻」「彦火々出見尊絵巻」(現存・模本)や「年中行事絵巻」(現存・模本)、「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」を含む六道絵などは、いずれも後白河院芸術サロンに咲いた繚乱の花であった。(小松茂美著作集29『日本絵巻史論1』第1章王朝絵巻と後白河院 p52)後白河院のこの特徴(決断力と行動力の持ち主)は多くの場合プラスに働いたが、マイナスに働いたのが「法住寺合戦」だと思う(このことは、改めて別稿で取り上げて考えてみたい)。
ひとつは、法皇摂政を艶し、その愛念に依り抽賞すべしと云々。秘事、希異の珍事たりと雖も、子孫に知らしめんため記し置く所なり。兼実は『玉葉』を記すことでこの秘事を九条家子孫に(ひいては歴史に)書き残しておくという自覚を持っている。ここに兼実の歴史意識をうかがうことができる。兼実の観点からは、基通は後白河との秘事によって結びついている存在であって、摂政にある者としての重みは顧慮されていない。基通に対する一種の侮蔑感が漂っているとさえ言える。
後白河院は基通と男色関係にあり、その愛情の念によって基通を特に重く用いるのだ、と。このことは秘事であり、稀異の珍事だが、わが子孫には伝えておくべきだと考えて記しておく。
又聞く、摂政法皇に鍾愛せらるる事、昨今の事にあらず。御逃去以前、先ず五六日密かに参り、女房冷泉局を以て「密告の思ひを報ぜらる。その実只愛念より起ると云々」の「密告」の意味が不明であるが、基通が平家都落ちの秘密情報を事前に後白河に通報したことを指しているとすれば、意味が通じる。この重大情報の「密告」は基通が政治状況を認識して行ったものではなく、単に後白河への「愛念」の執着からなされたものに過ぎないと兼実は断じている。兼実は基通に対して侮蔑感を抱いていることがここでも確かめられる。媒 となすと云々。去る七月御八講の比より、御艶気あり。七月二十日比、御本意を遂げられ、去る十四日参入の次いで、又艶言御戯れ等ありと云々。事の体、御志浅からずと云々。君臣合体の儀、これを以て至極となすべきか。古来かくの如き蹤跡無し。末代の事、皆以て珍事なり。勝事なり。密告の思ひを報ぜらる。その実只愛念より起ると云々。
鳥羽院、宇治に御幸ありて、経蔵ひらきて御覧じけるに、この経蔵は、世の常の人入る事なきに、富家殿、御前に候ひ給ひて、播磨守家成、時の花にてありければ、御気色にかなはんとやおぼしけん、召し入れられけり。この『続古事談』には詳細な踏み込んだ注がついていて助かるが、「範家の三位」が法性寺殿(忠通)の男色相手であることを後白河は知っていたので、嘲りからかったのである。
後白河院御幸有りける時、このことをや聞きおよべりけん、右衛門督信頼、召しあらんずらんと思ひけるに、法性寺殿、いとさやうの気おはせで、召すことなくてやみにければ、人知れずむつけ腹だちける名残にや、範家の三位といひける人を軽慢して、「にやくり三位、き三位、散三位、よく三位、むことり三位」などはやしたりけるとぞ、世の人いひ笑ひし。まことにや。 (『続古事談』新日本古典文学大系41 岩波2005、p627)
なお、ついでながら国立国会図書館の「デジタル化資料」は近頃とても充実してきて、多くの歴史資料を公開している。『玉葉』などの史料はもちろんだが、『嬉遊笑覧』も公開されている。大いに利用すべきであると思う。若気 は若 げなるの意で、上に引いた『若気勧進帳』や『本朝若風俗』(西鶴の『男色大鑑』の一名)いずれもニャケと訓むべし。後には肛門をオニャケと称え、「名の移りたるいとおかし」と『笑覧』に見ゆ。(南方熊楠全集3 p517)
(牛飼いは)やがて心得て御車をやりかへし、大宮をのぼりに、とぶが如くにつかまつる。北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。(同前 p97)『源平盛衰記』はもう少し詳細である。
・・・・西林寺といふ寺に入せ給ひたりけるが、それより忍びて知足院へ移らせ給ふ。人これを知らずして、摂政殿は吉野の奥とぞ申しける。(同前 p174)平家一門都落ちの前夜都から抜け出した後白河院は、鞍馬寺から比叡山へ移り東塔南谷の圓融坊に落ち着く。そこへはすでに源氏の先陣の武士たちも来ており、「衆徒も武士も守護し奉る」(平家物語)という状況になった。平家は安徳天皇と三種の神器を携えて西へ落ちていったので、京都から権力中心が消滅した異常な状況となっている。
法皇は仙洞をいでて天台山に、主上は鳳闕をさって西海へ、摂政殿は吉野の奥とかや。(中略)平家は落ちぬれど、源氏はいまだ入りかはらず。既にこの京はぬしなき里にぞなりにける。開闢よりこのかた、かかる事あるべしともおぼえず。(『平家物語』同前 p118)京都に残っていた公家たちは身の置きどころのない思いであったろう、比叡山東塔に後白河法皇がいるという情報が流れると(『源平盛衰記』によると二十六日にこの情報が「披露」された)、公家たちはひとり残らず圓融坊へ馳せ集まったという。その人々を『平家物語』は次のように挙げている。
そのころの入道殿とは前関白松殿(基房)、當殿とは近衛殿(基通)、太政大臣、左右大臣、内大臣・大納言・中納言・宰相・・・(以下略)(同前 p119)ここで基通は第2番目に挙げられている。公家のナンバー・ツーと目されていたとも解される。平家を裏切った基通はちゃっかりと圓融坊に駆けつけているのである。『愚管抄』にはつぎのように、からかい気味に出ている。
サテ京ノ人サナガラ攝録(正しくは竹冠に録)ノ近衛殿ハ一定グシテ落チヌラント人ハ思ヒタリケルモ、チガイテトドマリテ山ヘ参リニケリ。(『愚管抄』巻五 古典体系本p255)兼実も圓融坊に登っているので、『玉葉』にはその間の混みあった様子、輿の手配のことなど細々と描かれていて臨場感がある。比叡山にいる弟・慈円が色々と便宜を計ってくれていることも分かる。ところが、面白いことに三十日の条に基通のことがつぎのように記されている。
京の人たちは皆摂政の近衛殿(基通)はきっと平家と一緒に西へ落ちたと思っていたが、案に相違して都にとどまって、山へやって来た。
摂政(基通)今日京に下ると云々。数日山上にあり。人以て奇となすか。後白河は二十八日に法住寺に戻っているので、「愛念」のために山上にいたのではない。既に安徳天皇は西海に行き、自分は裏切っているのであるから厳密に言うと「摂政」でさえないのである。そういう宙ぶらりんの自分をどうすべきか、何か祈ることでもあったのか。
八月十四日、都には四の宮、法皇の宣命にて、閑院殿にて御即位し給ふ。「神璽、宝剣、内侍所なくして践祚の例、これはじめ」とぞうけたまはる。摂政は近衛殿、平家の婿にてましましけれども、西国へも御同心に下らせ給はぬによってなり。(120句本『平家物語 中』新潮日本古典集成1980)ちょっと驚くが、この幼い新天皇の摂政に近衛殿=基通が選ばれる。安徳天皇を見放したことが一向にハンディとなっていないし、基通自身のためらいにもなっていないが如くだ。安徳は「一の宮」であって同じく後白河の孫であるが、あるいはこの新摂政の選定には「愛念」が効いているのかもしれない。
前摂政(基通)去る七月乱の時(平家都落ちの時)、専らその職を去るべき処、法皇の艶気に依り、動揺無く、今度何の過怠に依り所職を奪はるるや。『玉葉』寿永二年十一月二十二日すなわち、本来なら基通は安徳天皇を見棄てたのだからその道義的責任を感じて自ら職を辞して当然であるのに、引き続いて新天皇・後鳥羽の摂政になったのは、後白河法皇との「愛念」によるものだろう。ところが、法住寺合戦の直後の「動揺」は単に義仲のエコヒイキで松殿へ変わったというだけのことで、いったい基通に何の「過怠」があったというのか。兼実は基通についても義仲についても筋の通らないやり方に憤慨しているのである。
同じき(寿永二年七月)廿八日に、法皇都へ還御なる。木曽五万余騎にて守護し奉る。近江源氏山本の冠者義高、白旗さひて先陣に候。この廿余年見えざりつる白旗の、けふはじめて都へ入る、めづらしかりし事どもなり。なおここの「大江山」は丹後半島の大江山ではなく、京都府南部の老ノ坂峠の大枝山のことで、京都へ南西方向から入ってきたことを表している。
さる程に十郎蔵人 行家、宇治橋をわって都へいる。陸奥新判官 義康が子、矢田判官代 義清、大江山をへて上洛す。摂津国・河内の源氏ども、雲霞のごとくにおなじく都へ乱れいる。(『平家物語』同前 p119)
およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入りどり(略奪)おほし。賀茂・八幡の御領ともいはず、青田を刈りてま草(秣)にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ちて通る物をうばひとり、衣装をはぎとる。「平家の都におわせし時は、六波羅殿とて、ただおほかた恐ろしかりしばかり也。衣装をはぐまではなかりしものを、平家に源氏かへおとり(換へ劣り)したり」とぞ人申しける。(『平家物語』同前 p151)木曽義仲は源氏諸勢力の統率を取ることにあまり関心がなく、京都の庶民や公家階層から支持を失う。新天皇を選出する際に、義仲は「北陸宮」(以仁王の子)を推し、強く主張した。このことは『玉葉』に記録されている。田舎武士が天皇問題に関して意見を述べるというようなことは、公家たちにとってはとんでもない異例であり非礼であると考えられたことであろう。
摂政(基通)召しにより参入し、今夜宿し候はるべしと云々。これ御愛物たるに依り、殊に召しに応ずるなり。(『玉葉』寿永二年十一月十七日)後白河院は摂政基通を愛人として呼び寄せ、今夜は基通は宿泊するという。
図らざる外行幸あり。この亭を以て皇居とすべきか。はたまたなお閑院を以て皇居となすべきか、計らい申すべしといへり。この御所をもって皇居となさば行幸の条はなはだ奇。よって只殿上已下の事、閑院にあるべきかといへり。(同上 十八日)そして、十八日条の最後に、もう一度、基通のことが出てくる。
摂政今夜より院の御所に参宿せらるると云々。(同上 十八日)翌日は法住寺合戦の当日である。ときどき小雨があった。朝早くから義仲が「法皇宮」を襲おうとしているという情報が兼実に入る。人をやって情勢を探らせるが、昼に戻ってきて、まだ何もないと報告する。その直後に戦闘が始まった。
幾程を経ず黒煙天に見ゆ。これ河原の在家を焼き払ふと云々。又時(鬨)を作る両度、時に未の刻なり(午後2時ごろ)。法住寺に火を掛けられて院側は総崩れ、多数の死者をだして大敗北となる。せいぜい2時間足らずの“合戦”であった。後白河は輿に乗って逃げるところを捕まって「五条内裏」に閉じこめられる。後鳥羽天皇は池に浮かべた船に避難していたところを捕まり「閑院殿」につれ行かれる。
(蔵人の)主従三騎、南を指して落行くほどに、摂政殿(基通)の都をば摂政が自敬表現をする例がみえて、興味深い。基通は合戦の二日前から泊まり込んで後白河と愛人として過ごし、合戦の前に逃げだしたのである。軍 におそれて、宇治へ出御なりけるに、木幡山にて追付たてまつる。木曽が余党かとおぼしめし、御車をとどめて「何者ぞ」と御尋あれば、「仲兼、仲信」となのり申。「こはいかに、北国凶徒かなとおぼしめし(自敬表現)たれば、神妙にまいりたり。ちかう候て守護つかまつれ」と仰ければ、畏 て承り、宇治の富家殿までをくりまいらせて、やがてこの人どもは、河内へぞ落ちゆきける。(『平家物語』同前 p159)
今日申の刻(午後四時前後)摂政奈良より、前駆六人、共七八人済々たる威光と云々。愚案ずるに甘心せず、忍びて入京せらるべきか。(『玉葉』二十一日条)後白河派と目されて当然である基通は、法住寺合戦の院側(官軍側)のひどい敗北でわが身さえ危ういのに“空気が読めていない”ようであった。既述のように、この日、義仲の指示で摂政は基通から松殿師家に変わっている。
廿一日に摂政を止め奉る、基通の御事也。近衛殿と申す。その代わりに松殿基房御子に、権大納言師家の十三になり給ひけるを内大臣になし奉り、やがて摂政の詔書を下されけり。(中略)木曽近衛殿の止め奉りて師家をなし奉りける事は、松殿最愛の御木曽は廿三日に「卿相雲客四十九人が官職をとどめて、おっこめ奉る」、平家の時は(清盛のクーデターのとき)は四十三人の官職をとどめたので「平家の悪行には超過せり」(『平家物語』同前 p160)。すなわち、木曽義仲は急激に悪行を重ねているので、やがて亡びるであろうという『平家物語』の筆法で、すでに東から迫っている範頼・義経などの鎌倉方の勢力に今後の展開の重点が移っていくことを暗示している。女 、みめ形いと厳 おはし座 けるを、女御・后にもと御労 ありけるに、美人の由伝へ聞きて、木曽推 て御婿になりたりける故に、御兄公 とて、かく計ひなし進 せけるとぞ聞えし。浅増 き事共也。(『源平盛衰記』同前 p293)
(義仲は)先ず院中に参り御幸あるべき由、已に御輿を寄せんとする間、敵軍すでに襲ひ来る。よって義仲院を棄て奉り、周章対戦の間、あい従うところの軍僅かに三十四十騎、・・・・、阿波津の野辺において伐ち取られ了んぬ。義仲と一番つながっていた「入道関白」松殿基房とその息子の「新摂政」師家の運命が第一に問題になるが、『玉葉』は、次のように、強く批判的に書いている。
およそ日頃義仲の支度、京中を焼き払ひ、北陸道に落つべしと。しかるにまた一家を焼かず、一人も損ぜず、独身梟首され了んぬ。天の逆賊を罰する、宜なるかな宜なるかな。(『玉葉』寿永三年正月廿日)
入道関白(基房)、顕家をもって使者となし、両度上書す(二度も院へ手紙を差し上げた)。共に答無し。また新摂政(師家)顕家の車に乗り参入す。追ひ帰され了んぬと云々。弾指すべし弾指すべし。(同上廿日条)師家は十三歳の少年である。院への手紙をもった使者である顕家の車に摂政師家も共に乗って行ったというのである。これは基房の差し金だろうが、形式を重んずる公家階層として兼実ならずとも憤慨するのは当然であったろう。松殿の系統に摂関が戻ってくることは二度となかった。
ある人諫めて云はく、新摂政安堵すべからず。下官(兼実)出馬すべしと云々。・・・・九条兼実にとっては一面苦々しくとも、摂政基通と「治天の君」後白河院が結びついていることは、天皇制権力が堅固であることになる結びつきであると納得していたのである、「もっとも然るべし まあ、しょうがねえよな」。兼実の見方からすると、後白河院の玩弄物でしかない基通に対しては軽蔑の視線を放つことになるのは当然であるが、その視線の先には後白河院もいて、院は「治天の君」ではあるが尊敬すべき存在ではない、と兼実はみなしていた。
(晩に及び)ある人云はく、前摂政(基通)還補すべき由と云々。法皇の愛物也。もっとも然るべし。(同前二十一日条)
(通親は)承明門院ヲゾ母(範子)ウセテ後ハアイシマイラセケル。カヽリケル程ニ、(後鳥羽)院は範季ガムスメ(重子)ヲオボシメシテ(お愛しなさって)三位セサセテ、・・・・・王子モアマタ出キタル。(『愚管抄』巻六 古典体系本p286)重子・修明門院の生んだ第一王子が守成親王で順徳天皇になる。すなわち『愚管抄』は「国母」でもある承明門院・在子の貞操を一向に問題にしていないし、通親も責められていない。後鳥羽は、すぐさま別の方に手を伸ばして、「王子もたくさん生まれて、めでたしめでたし」という書き方になっている。