近衛基通のこと



目次
(1)清盛と後白河の間で
(2)清盛のクーデターと基通
(3)西下する行幸から離脱
(4)後白河と基通の関係
(5)義仲政権の頃の基通
(6)その後の基通

き坊の ノート 目次



《1》 清盛と後白河の間で


近衛基通もとみちが生まれたのは永暦元年(1160)で、父は近衛基実もとざね、母は藤原忠隆女であった。基実は近衛家の始祖であり、基通はその二代目である。いうまでもなく彼は摂政・関白の家筋の嫡流であり、嫡男として将来有望であった。実際、基通を含む系図・履歴をざっと眺めただけだと、彼は普賢寺殿ふげんじどのと呼ばれ、従一位、摂政・関白、内大臣となった人物で、当時としては長命で歿年は天福元年(1233)七十四歳。幸運な堂々たる人生を歩んだのだろうと思ってしまうが、すこし詳しく調べてみると、なかなかどうして苦労の多い人生だったのじゃなかろうかと考えざるをえない。

父の基実は康治二年(1143)の生まれで、法性寺殿・忠通ただみちが四十七歳のときの男子であった。つまり、基実はとても遅く生まれた嫡子であり、後継ぎ誕生をあきらめていた忠通は弟・頼長(悪左府)を猶子とし、頼長に摂関家を継がせる予定であったので、遅く生まれた基実の存在は様々なきしみをもたらし、保元の乱の遠因のひとつともなった。

平清盛は「摂関家への構想」を早くから持っていたと考えられる。摂関家の誇る家柄こそは、藤原家の中でも随一のものであって、成り上がり者である平家がどうしても敵わないものだった。清盛の構想は摂関家に娘を送りこんで外戚となるというものである。
長寛二年(1164)、基実の正室として娘の盛子を送りこんだ。その時点で基実二十二歳、盛子はなんと九歳であった。われわれの主人公・基通はこの時点で五歳である。盛子が男子を産めば基通の弟として摂関の順位が回ってくる可能性は充分にあった。
前途洋々と思われた「摂関家への構想」は、基実がわずか2年後、二十四歳という若さで死没することによって頓挫する。そのとき後を継ぐべき基通はいまだ七歳であった。そのため、摂政は弟・松殿基房に移ってしまう。

基通にとっては父・基実の若死がたいへんな不幸であり、彼には過大な負担がかかることになる。というのは、摂関家の嫡男として、父から伝授さるはずだった無数の有職故実や政治教育がなされないまま放り出されたことになるからである。だが、清盛は基通を摂政・関白に育て上げ、基実において頓挫した摂関家の外戚となる野望を基通によって成就せんと考え、けしてその構想を手放さなかった。


七歳の基通は摂関どころか官位を有しておらず、摂関は叔父の松殿基房が“中継ぎ”として継承することになった。一方、十一歳で後家となった盛子には、摂関家の膨大な財産が渡ることになった。基房に伝領されて当然であるのだが、摂関家家司・藤原邦綱の働きによって盛子に渡ったとされる(これは、松殿基房からすれば清盛による摂関家財産の横領ともみなせる。なお、邦綱は五条大納言と呼ばれ、清盛の腹心中の腹心の部下。邦綱は清盛の急死と日を接して死んでいるので同じ伝染病に罹っていたと考えられている)。さらに、基通を義母・盛子の養子とした。清盛は摂関家の将来性をも確実に手に入れようとしたともいえる。基通の方からすれば、平家の後ろ盾によって摂関の地位を保証してもらう、ということになる。
基通の元服は十一歳のとき、嘉応二年(1170)に行われた。おそらくそのすぐ後に、清盛は娘・完子(寛子とも)を正室として基通へ嫁がせている。つまり基通は清盛の“ムコ殿”として平家サイドの人間であることが鮮明である。このようにして、清盛の摂関家への構想は、難航しつつも次々に手を打たれ、確実に実現するように見えた。

清盛のもう一つ重要な宮廷戦略は、「天皇家への構想」である。
清盛が政権中枢へ入りこむようになるのは、平治の乱(平治元年1159)以後である。幽閉されていた二条天皇を黒戸御所から救出したことで俄然強い結びつきが生じた。このとき後白河院は単独で脱出している。平治の乱で源氏は衰え、平氏の軍事力が重みを増す。
後白河が二条へ譲位したのは前年の保元三年(1158)で院政が開始された。平治の乱の時点で後白河三十三歳、二条十七歳である。この時代の十七歳は充分に独立した成人として振る舞うことができた。後白河は院政を続けるつもりであり、父への反発の強かった二条は親政を意図していた。平治の乱直後の状況を五味文彦は「二頭政治」と評している。
山槐記さんかいき』の記主の藤原忠親ただちかは(平治元年1159)十月に蔵人頭に任じられたが、その日記を見ると、国政の案件については、院と天皇の双方へ奏聞を行い、前関白の忠通の内覧ないらんを経ていたことが知られる。二頭政治が行われ、それを清盛が武力の面で支えることで国政は執行されたのである。(五味文彦『平清盛』吉川弘文館1999 p137)
独立心の強い二条天皇はなかなかの人物であったと思えるが、残念ながら病弱で永万元年(1165)に二十三歳で死去した。が、自分の死期を悟って二歳の息子、六条天皇に譲位してあった。この赤ん坊天皇は在位三年足らずで高倉天皇に譲位させられるが(仁安三年1168 死没は安元二年1176で享年十三歳)、これは二条の血筋を好まなかった後白河が清盛と組んで実現したとされる。
高倉天皇より10歳も年長の以仁王は、親王になることもなく過ごしていた(親王でなければ皇太子になる可能性もない)。音楽の才能があったことは『平家物語』で取りあげられているが、二歳上の同母姉に歌人で有名な式子内親王がいることからも芸術的才能に優れていたことは本当であろう。六条の後、高倉が即位したことで以仁王は自分が王位継承から除外されていることを強く意識しただろう。

徳子の高倉天皇への入内は承安元年(1171)で、徳子・十七歳で高倉・十歳のときである。七歳の年齢差のある“姉さん女房”というわけで、かなり強引な入内である。徳子からすれば、七つも年下の少年を導いて皇子を生ましめるという大役が振られたことになる。高倉にとっても徳子にとっても、性生活が重大な意味を与えられており、なかば公然たるものであったと考えておいてよい。近代的な貞操感や性タブー化の影響下にあるわれわれの“性常識”で律してはならない。
ともかく清盛はほぼ同じ時期に摂関家と天皇家のいずれに対しても、外戚として“ミウチ”化してしまおうという手を打っている。これが「忠盛三十六にてはじめて昇殿す」(『平家物語』巻一)といわれた成り上り者・平氏の宮廷・貴族社会への露骨な戦略であった。



《2》 清盛のクーデターと基通


清盛と後白河院とは9歳の年齢差があるが(清盛が年長)、二人とも六十代半ばまで生き、この時代を特徴づける個性ある重要人物であり続けた。時子-滋子の姉妹を通じて後白河と清盛とはおおむねよく協調し合っていた。だが、彼ら二人の間に烈しい抗争が生じることもあった。ここでは「鹿ヶ谷の陰謀」事件と「清盛のクーデター」を挙げる。

後白河と清盛の関係が険しくなるのはまず「鹿ヶ谷の陰謀」事件(治承元年1177)のときで、清盛は後白河に対して直接手を下さなかったが、有力な院近臣を弾圧・一掃してしまったので後白河院の政治力は急落する。この事件の経過はここでは詳述しないが、「陰謀」というほどのものが後白河側に在ったのではなく清盛側からのフレーム・アップだったようだ。

だが、その翌年(治承二年1178)十一月には清盛念願の言仁ことひと皇子が生まれる(後の安徳天皇)。徳子入内後7年目である。すでに高倉には(他の女性との間に)女子は産まれていたが男子はなく、言仁が第一皇子であった。まことに清盛の強運というしかない。言仁は清盛にとっての念願の孫の皇子であると同時に、後白河院にとっても孫の誕生であり、その誕生の際に後白河は自ら徳子の産所(六波羅の池殿)で安産祈願の僧侶や験者らに混じって怨霊退散の祈りをあげている(『平家物語』巻三)。生後1ヵ月で言仁は皇太子となる。この経過によって清盛と後白河の間はある程度修復された。

基通と完子の間に男子が生まれたというが夭折している(治承元年1177)。清盛の摂関家に対する構想はうまく進行しない。それでも、上の系図をみれば明らかなように、摂関家の嫡流・基実-基通は清盛にしっかり抱え込まれている。ところが清盛の構想にとっては大きな障害が生じる。それは、治承三年(1179)六月に盛子がわずか二十四歳で死んでしまったことだ。これは、夫の基実とおなじ享年だったことになる。清盛に追い打ちをかけるように、一月後の七月に嫡子・重盛が死ぬ。

盛子急逝は後白河院から見れば、摂関家攻略のチャンス到来である。盛子が受け継いでいた膨大な摂関家領を院領へ取り上げる好機であり、摂関家の本流を松殿基房-師家へ移してしまえば清盛の摂関家構想は霧消してしまう。上述のように、松殿基房が摂政に就いたのは仁安元年(1166)七月二十七日のことで、近衛基通が成長するまでの“中継ぎ”という当初の話であったが、この時点までですでに13年間の長期政権になっており、松殿が摂関家として固定化しかねない情勢であった。

重盛と盛子という重要な2子を失った清盛は福原に籠もる。その隙を突いて後白河院は激しい攻勢に出る。
十月の除目で後白河は、清盛の女婿基通をおさえて基房の嫡子で八歳の師家を権中納言に任じた。また重盛が十余年間も知行国を務め、死後は維盛が継承していた越前国を没収し、院近臣藤原季能[すえよし]を越前守に補任した。さらに盛子が管理してきた摂関家領の管理権を取り上げ、近臣藤原能盛を白川殿倉預に補任し、清盛による摂関家領管理権を否定した。(下向井龍彦 『武士の成長と院政』p296)
つまり、後白河院は清盛から摂関家に関する利権をすべて取り上げ、清盛の摂関家への構想を完璧にたたきつぶした。六月(盛子の死)、七月(重盛の死)、十月(除目で後白河からの攻撃)という畳みかけるように清盛を襲う衝撃波である。

清盛はここまで追い詰められ、もう妥協の余地が無くなった。これ以上後退する逃げ場がないのである。逆に言えば後白河が見境なく相手を追いこみすぎたのである。清盛は断固として立ち、「治天の君」後白河院をトップに戴く貴族社会秩序を否定する「十一月クーデター」に突入する。清盛は「治天の君」たる後白河院に対して断固たる処置に出る。

治承三年(1179)十一月十四日、福原から数千騎の軍団とともに上洛した清盛は、軍事力を背景に貴族社会に有無を言わさず自らの構想を実現する挙に出る。松殿基房-師家を解任し、基通を関白・氏長者に任命した上掲の系図で摂政の順番を示す数字「5)。院近臣ら39名が解任され京外追放となる。後白河院は“今後政治に口出ししない”など屈服の姿勢を示したが、清盛はこの最大の政敵を許さず鳥羽殿に幽閉し平氏の監視下に置いた。これらが「治天の君」と宮廷・貴族社会への処置であり、この時点において清盛こそが最高権力者となった。すなわち、《平家政権》の成立である。

平家政権による天皇制の改造は、翌治承四年(1180)二月、言仁親王(三歳)が安徳天皇となり高倉院の院政が始まる形で実現する。形式的には高倉院政であるが、それを支えているのは明らかに清盛の威力であり、本来の「治天の君」後白河院は鳥羽殿に幽閉されているという異常状態である。安徳天皇への譲位は清盛の構想によってなされたものであり、「治天の君」と宮廷・貴族社会が承認したものではない。宮廷・貴族社会は平氏の武力の前に黙っているが、承服してはいない。宮廷・貴族社会の根幹である《天皇》を自分の構想にあわせてすげ替える。これは天皇制に対する革命である。
しかし他面からいうと、この革命は後白河が清盛を追いこみすぎて引きおこしたものとも言える。後白河の政治的未熟さないし短兵急さが招いた“身から出た錆び”的な面がある。それを指摘しておかないと、清盛の悪行ばかりを強調する『平家物語』の歴史観に和してしまうことになる。
このクーデターのもたらしたものの第一は)天皇の正統性に対する合意の崩壊である。貴族たちにとって後白河院こそ皇位決定権を有する最高権力者であった。高倉の正統性も権威も後白河院によって保証されていた。しかしその高倉から安徳への譲位は、最高権力者後白河の幽閉という異常事態のなかで行われたのである。したがって貴族たちにとって、安徳の天皇としての権威と正統性はきわめて薄弱であった。(下向井前掲書p299)
《平家政権》成立がもたらした伝統的な宮廷・貴族社会へのひずみは、きわめて大きく深いものがあった。安徳幼帝は“清盛の天皇”でしかない、という気持は貴族社会の底流として広く存在していたと考えられる。ことに、その考えを先鋭化せざるを得なかったのが、安徳天皇の即位によって自分の皇位継承の望みを完全に絶たれた三十歳の以仁王後白河の三男)であった。以仁王の背後には藤原氏・閑院流(母・成子は閑院流・季成の娘)や六条流系の皇女・八条院(八条院は以仁王を猶子としている)が存在していた。したがって《平家政権》成立のひずみを感受できる人々にとって、以仁王令旨はたんなる不満と野心をもつ王のアジビラではなく、《天皇制》の「正統性」を持つ声として受けとめられたのである。「王法」が清盛によって踏みにじられ纂奪されつつある、と。
この年治承四年(1180)五月に以仁王-頼政の蜂起があり、以仁王の令旨が各地の源氏に渡る。頼朝の伊豆挙兵が八月、義仲の信濃挙兵が九月であった。

『平家物語』巻四の「山門牒状」「南都牒状」は、以仁王が逃げ込んできた園城寺が延暦寺と興福寺(南都)に向けて出した牒状(手紙)を載せるが、南都むけの冒頭部分、
仏法の殊勝なる事は(特にすぐれた点は)、王法をまぼらんがため、王法また長久なる事は、すなはち仏法による。ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、ほしいままに国威をひそかにし(私し)、朝政をみだり、内につけ外につけ、恨みをなし歎きをなす間、今月十五日夜、一院第二の王子、不慮の難をのがれんがために、にはかに入寺せしめ給ふ。(岩波体系本『平家物語』上p299 「一院第二の王子」と言っているのは守覚法親王を省いて二男に数えたもの
この「王法 わうぼう」こそが、宮廷・貴族社会が守ってきた伝統的な天皇制のことである。清盛が自分勝手に(臣下でありながら)天皇制を改造しているという非難である。この非難は、広汎な範囲に共感をもって受け入れられた(ただし、この牒状に対し延暦寺は冷淡だったが)。殊に、南都からの返牒は熱烈な反平家をぶち挙げるものあった。その一部。
一毛心にたがへば、王侯といへどもこれをとらへ、片言耳に逆ふれば、公卿といへ共これをからむ。これによって、或ひは一旦の身命をのべんがために、或ひは片時の凌蹂りょうじゅうをのがれんとおもって、万乗の聖主なお緬転めんてんの媚をなし、重代の家君かへって膝行の礼をいたす。

ちょっとでもその意にそむけば王侯であっても捕らえ、ひと言でも気に入らなければ公卿であっても搦めとる。こんなことだから、すこしの身命の安全のために、一時の圧迫を逃れるために、天皇でさえ面前に媚びへつらう。代々続く家の主人(藤原氏)でさえ臣下としての礼をする。
(同前p301)
「万乗の聖主なお緬転の媚をなし」とは、思い切って書いたものだ。この時点で天皇は高倉天皇である。高倉を名指しで非難したのと同じことだ。
この返牒の初めの個所に
そもそも清盛入道は平氏の糟糠そうこう、武家の塵芥なり。(同上p300)
とあり、祖父正盛から書きはじめて清盛が成り上がり者であることをすっぱ抜いている。清盛は「大いに怒って」その法師を捕らえて殺せと特に名をあげて指示したと巻七にある。この返牒の筆者は、木曽義仲の「手書」(てかき、書記)の大夫坊覚明となった人物で、もと勧学院にいた儒家で「蔵人道広」といい、出家して「最乗坊信救」と名乗っていたことが、巻七の「願書」で明らかにされる。覚明は頭から漆を被って皮膚を焼いて人相を変えて逃げたという。
その「木曽山門牒状」(木曽義仲が、北国の勝利の後で京都へ進むのに、比叡山への文書作戦として出した牒状)中には、平家は「ほしいままに帝位を進退しんだいし」という表現があるが、これの方がより露骨に清盛の「天皇制に対する革命」を表している。

清盛の《平家政権》構想の中でもう一つ影響の大きかったのは、宗教界への変革である。南都北嶺の寺社強訴は清盛の武力政権にとっても正面から問題にせざるを得なかった。治承四年三月、高倉院の最初の神社参拝として平氏の氏神・厳島神社を選んだ。高倉上皇の厳島御幸が治承四年(1180)三月。清盛は厳島社-宗像社を宗教的な軸とする瀬戸内海-九州の西国支配を考えていたのであろう。しかし、それがために、長年反目しあってきた比叡山-園城寺-興福寺が反平氏の気運で結ばれる可能性が出てきた。
南都北嶺との正面からの対決は京都を戦場にする大戦争になることが必至であるが、清盛はそれを避けようとした。彼は軍事力を巧みに使ってのし上がった軍事貴族であるが、彼の本質は宋との交易や瀬戸内海の開発に関心をもつ貴族政治家であった。
この年(治承四年1180)に行われた福原遷都-還都、園城寺を焼き、奈良を焼尽した(十二月)ことなども清盛の宗教構想として理解することができる。(『平家物語』巻四では以仁王・頼政の蜂起が失敗した直後に園城寺焼き討ちがあったことになっているが、史実では、近江源氏などと平氏の抗争が半年以上継続し、最後に十二月十一日に源氏を支援した園城寺が焼かれた。




《3》 西下する行幸から離脱


ところが《平家政権》は、あっけなく頓挫する。
翌養和元年(治承五年1181)一月には高倉上皇が二十一歳の若さで死没し、更に閏二月には清盛が熱病で急死するからである。最高権力者・清盛の死と共に、「清盛の構想」も消滅してしまった。というのは、宗盛ら平氏後継者の中にはだれ一人構想を受け継ぐものがおらず、宗盛は後白河院に「治天の君」の権威の復活を、すぐさま告げたのである。次は『玉葉』に書き留められた宗盛の言葉で、この『玉葉』の日付は清盛の死の二日後である。
故入道の所行等、愚意(宗盛の考え)に叶わざるの事等ありと雖も、諫争する能はず。只彼の命を守りて罷り過ぐる所なり。今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候。(「玉葉」治承五年閏二月六日条)
ただし、これで平氏が「治天の君」の前に全面屈服したというのではなく、「源氏を討伐せよ」という清盛の遺志は固守する。つまり、軍事権行使に関しては後白河院と宮廷・貴族社会の意向を無視して、清盛の遺志を固守するというのである。

寿永二年(1183)五月、全軍を挙げて向かった「北国」の戦いで平氏軍は木曽義仲軍に完敗した(砺波山となみやま合戦など)。「木曽山門牒状」の文書戦術が効を奏して比叡山も義仲軍に付くことになり、義仲が京都へ迫る。平氏は首都決戦という戦術は採らず、京都を放棄して西国へ安徳天皇とともに逃げ行く。首都決戦の可能性はあったことが、たとえば『愚管抄』の次引などで分かる。
カヤウニシテケフアス(今日明日)義仲・東国武田ナド云モ、イリ(入り)ナンズルニテアリケレバ、サラニ京中ニテ大合戦アランズルニテヲノヽキ(戦き)アヒケルニ(『愚管抄』巻五 古典体系本p254)
後白河院はその前夜ひそかに比叡山へ逃れる。そこへ義仲らが無血入京する。寿永二年(1183)七月末である。

安徳天皇は三種の神器と共に西海へ落ち行く。その摂政である基通も当然一緒に西下すべきであるが、『平家物語』巻第七の「都落ち」に書かれているように、安徳の行幸の列について七条大宮まで行くのだが、そこで引き返して平氏都落ちから離脱する。安徳を見限って後白河を選んだのである。
つぎは『平家物語』が示す基通のセリフ
つらつら事のていを案ずるに、行幸はなれ共御幸もならず。ゆく末たのもしからず。

よく状況を考えてみると、天皇は西へいらっしゃったが院はご一緒ではなかった。この天皇の将来は危うい。(岩波体系本『平家物語』下p97)
「行幸 ぎょうこう」は天皇の行動、「御幸 ごこう」は上皇後白河の行動。安徳天皇の行列は西を指していくが後白河院はそれを見放して同道しない。この情勢を見て基通は「ゆく末たのもしからず」と、天皇・安徳を見限ることを決心した、というのである。

「平家の都落ち」は寿永二年(1183)七月二十五日であるが、後白河院はその前夜ひそかに御所・法住寺を抜け出して鞍馬へ脱出し、さらに比叡山へ密行する。この行為そのものが後白河院が孫・安徳天皇を天皇として否認し、平家を裏切り、自らひとりが「治天の君」として絶対的権威を保持する決意をしたことを意味している。天皇家のただひとりの「家長」の権威を自覚しての行動である。後白河の立場からして最大の課題は「神器」を無事取り戻すことである。

この前代未聞の危機において、「院政」の構造が分裂してしまった。「治天の君」としての院の権威と、平家に守られて西国へ下向する天皇と「三種の神器」の権威の分裂である。院の背景には故清盛が作った安徳天皇に疑義をいだく宮廷・貴族社会と、京都という情報の中心都市が存在している。

この間の事情は、『源平盛衰記』の基通離脱の同じ場面が次のように述べていることから、よりはっきりと理解できる。途中まで行幸の列に付いて行った基通の牛車が止まり、「進藤左右衛門尉高範」という侍が「急ぎ還御あるべきにこそ」と基通を説得する。そのあと高範は「牛飼に向って」つぎのように言う。
たとひ主上行幸ありとても、御代みよは法皇の御代、ご運尽き給ひて外家がいけ悪徒あくとに引かれ、花洛[京都]を落ちさせ給はん行幸に供奉ぐぶせさせ給ひたらば、末たのもしからん御事(有朋堂文庫『源平盛衰記』下、巻31)
このように「つぶやきて」、牛飼と目くばせして牛車を引き返す。そこには「牛飼も進まぬ道なれば」という句もあって面白い(牛飼も西国へ同行したくないのである)。「御代は法皇の御代」という的確な表現が、院が最高権威者であることをうまく表現している。

「春日権現験記」には、この時の基通の決心は、春日権現の導きによるものとして、描かれている。右手の牛車に基通が乗っており、左手の行列の間にいる両手を挙げている黄色い服装の人物が「神人」で、基通を手招いている様子。行列の他の者たちにはこの神人は見えない(『続日本絵巻大成 14 春日権現験記絵 上』p97)。


五条大宮辺まで行幸に供奉し給けるに、うしろより黄衣の神人招きたてまつると御覧じて、御車をとどむれば、神人見えず。又御車を進むれば、先のごとし。かくする事二三度になりければ、「春日大明神おぼしめす様あるにこそ」とおぼして、轅を北にしてとどまり給にけり。前後うちかこみたる武士のなかを分けて御車をやりかへされけるを、とがむる人なかりけるも不思議の事になむ。
これが「春日権現験記絵」の該当する詞書。基通自身が西へ逃げ行く平氏と安徳天皇を見限ったのであるが、それを“春日大明神に何かお考えがおありのようだ”ということにして、自分の決心に弾みをつけたのであろう。落ち目の平氏にくっついて行きたくない進藤高範や牛飼も同じ気持ちであって、行幸を警護する武士たちからの障害もなく「やりかえされけるを、とがむる人なかりける」も不思議だ、ということになった。
なお、同じ場面だが『平家物語』ではすこし違っている。基通の牛車近くに「びんづらゆひたる童子」が春日の神の使いとして出てきて、託宣の歌を詠むというふうになっている。

網野善彦『日本中世に何が起きたか』の中に、供御人・神人は「神仏の直属民」であって「王朝の制度」として認められ、免税され衣装も特別であったことを述べているところに、「黄衣」に言及しているところがある。
11世紀中葉から、13世紀前半にかけて、境界的な人びとは、王朝の制度の中に、神人・供御人身分として公的、法的な位置づけを、明確に与えられております。(中略

その衣装、スタイルも、黄衣をつけ、榊などを持っており、神人は衣装、持ち物についても一般平民とは異なる姿をしております。神人の場合には黄衣が広くみられますが、勧進聖の場合は黒衣ですし、(以下略
(網野善彦『日本中世に何が起きたか』洋泉社2012 p35)
このように「黄衣」の人物がただちに神人であることが広く認識されており、神の言葉を伝える役割を負っていることが自然に受けとめられていたのである。


《4》 後白河と基通の関係


“清盛のムコ殿”として平家から目をかけられてきた基通が、都落ちのぎりぎりの段階で平家を見限り行幸から離脱する。そのところだけを見ると、基通が清盛-平家から後白河に乗り替えたというふうに見える。つまり、基通のドライな振る舞いがあった、というふうに。
だが、ことはそう単純ではない。基通と後白河は「男色の関係」で結ばれていたからである。つまり、基通は平家サイドに身を置きつつ、後白河とも親密な関係をもっていた。基通はこの激動の情勢の中を生き抜くのに、柔軟性があるとも言えるし定見がないとも言える。それは、幼くして父に先立たれた摂関家の嫡男として基通が身につけたキャラクターであり生き方であった、と考えられる。

基通は安徳天皇の摂政であるのだから、平家の最高首脳たち(宗盛、重衡ら)が京都をあきらめて西海へ逃れようとする「密議」をも知りうる立場にあった。九条兼実『玉葉』によると「平家都落ち」の五日ほど前に密議があり、摂政・基通がその情報を院の女房を通じて後白河院へ流した、という。
都落ちの八日後の『玉葉』八月二日条に、つぎのような重大情報が書かれている。
伝え聞く、摂政[基通]二ヶ条の由緒あり、動揺すべからずと云々、一は、去月二十日比、前内府[宗盛]及び重衡等密議に云はく、法皇を具し奉り、海西に赴くべし。若しは又法皇宮に参住すべしと云々。かくの如き評定を聞き、女房を以て(故邦綱卿愛物、白河殿の女房冷泉局)、密かに法皇に告げ、この功に報いらるべしと云々。(高橋貞一『訓読玉葉』第5巻p186)

摂政基通に関する二つの重大情報を聞いた。動揺してはならない。一つは、先月の二十日ごろ、宗盛、重衡らが密議をもち、「西海へ法皇をつれていく、そのために今から法皇宮[法住寺]に同居しよう」などと話しあっていた。それを知った摂政基通は女房冷泉局をもって法皇に知らせた。基通にはこの功労に報いることが必要だ、云々。
ここまでが、「二ヶ条」のうちの第一の方。
この『玉葉』の通りであるなら、後白河が都落ちをまぬがれて、源氏が進出してきた都でキーパーソンとして振る舞うことができたのは、基通がもたらした情報を端緒とするのであり、基通はこの激動の貴族・宮廷社会における功労第一の者といっても良い。『平家物語』では七月二十四日夜の法皇の行動について
その夜、法皇をば内々平家とり奉りて、都の外へ落ち行くべしといふ事をきこしめされてやありけん、按察あぜち大納言資賢すけかた卿の子息、右馬頭資時すけときばかり御共にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬へ御幸なる。人これを知らざりけり。(『平家物語』下 p94)

その夜、平家が法皇を極秘に確保して都落ちする計画を、法皇はお聞きになっていたのか、按察大納言資賢の子息、右馬頭資時だけを供につれて密かに御所を出て鞍馬へ逃れた。誰もそれを知らなかった。
と述べているが、誰が法皇に都落ちの情報を知らせたかは明らかにしていない。
『源平盛衰記』では、「北面の者」が法皇に知らせたと言っているが、その情報源については触れていない。
同(七月)二十四日ひつじ刻に北面の者一人ひそかに院御所に参じて、「承る旨こそ候へ 申し上げたいことがあります」と申せば、法皇「何事ぞ」と御尋ねあり。奏し申しけるは、「明日巳午みうまの時に、源氏等四方より万騎にて、都へ責入る由聞こへ候間、平家都の内に安堵し難しとて、三じゅ神器じんき、院内[上皇と天皇]取りまゐらせて、明旦卯刻に西国へ下向とて、内々出立候」と申しければ、法皇、「神妙に申せり、此事ゆめゆめ人に披露有るべからず、思召旨おぼしめすむねあり」とて、其日の夜に入て、殿上人に右馬頭資時ばかり御伴にて、北面の下臈二三人被召めされて、忍て鞍馬へ御幸なる。人これを不知しらざりけり。(『源平盛衰記』巻31)
後白河法皇は単なる「治天の君」ではなかった。彼の凄いところは、いざとなると1人で決断し、1人で行動する力を持っているところである。その点こそがこの法皇の際立った個性である。
彼の践祚は二十九歳という当時としては異例の遅さであるが、それまでの雅仁親王(後白河)が常識外れの“今様狂い”であったことはよく知られている。そのことを“とんでもない道楽息子”とか“ばか殿”扱いする向きもあるが、それはまったくの誤解であるとわたしは考える。彼の“今様狂い”は本気であり、践祚・即位したら止まるような暇つぶしレベルのものではなかった。『梁塵秘抄』(本編10巻、口伝集10巻とされるが、現存するのはそのうちのわずか)を残すだけでも大変な打ちこみ様である。熊野参詣34回という信じがたい数字も、まったくハンパではない。けして物好きで熊野参詣をこんなに繰り返せるものではない。後白河の宮廷が作り上げた芸術作品として、蓮華王院の宝蔵に満ちていたという絵巻物の数々も忘れられない。
〈四大絵巻〉(「源氏物語絵巻」、「伴大納言絵詞」、「信貴山縁起」、「鳥獣人物戯画」)をはじめ、「吉備大臣入唐絵巻」「寝覚物語絵巻」「彦火々出見尊絵巻」(現存・模本)や「年中行事絵巻」(現存・模本)、「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」を含む六道絵などは、いずれも後白河院芸術サロンに咲いた繚乱の花であった。(小松茂美著作集29『日本絵巻史論1』第1章王朝絵巻と後白河院 p52)
後白河院のこの特徴(決断力と行動力の持ち主)は多くの場合プラスに働いたが、マイナスに働いたのが「法住寺合戦」だと思う(このことは、改めて別稿で取り上げて考えてみたい)。

『玉葉』寿永二年八月二日条の「二ヶ条」のうち、残り一ヶ条は次のようなものである。
ひとつは、法皇摂政を艶し、その愛念に依り抽賞すべしと云々。秘事、希異の珍事たりと雖も、子孫に知らしめんため記し置く所なり。

後白河院は基通と男色関係にあり、その愛情の念によって基通を特に重く用いるのだ、と。このことは秘事であり、稀異の珍事だが、わが子孫には伝えておくべきだと考えて記しておく。
兼実は『玉葉』を記すことでこの秘事を九条家子孫に(ひいては歴史に)書き残しておくという自覚を持っている。ここに兼実の歴史意識をうかがうことができる。兼実の観点からは、基通は後白河との秘事によって結びついている存在であって、摂政にある者としての重みは顧慮されていない。基通に対する一種の侮蔑感が漂っているとさえ言える。
後白河と基通の男色関係について、より詳しい記述が八月十八日条に再出する。
又聞く、摂政法皇に鍾愛せらるる事、昨今の事にあらず。御逃去以前、先ず五六日密かに参り、女房冷泉局を以てなかだちとなすと云々。去る七月御八講の比より、御艶気あり。七月二十日比、御本意を遂げられ、去る十四日参入の次いで、又艶言御戯れ等ありと云々。事の体、御志浅からずと云々。君臣合体の儀、これを以て至極となすべきか。古来かくの如き蹤跡無し。末代の事、皆以て珍事なり。勝事なり。密告の思ひを報ぜらる。その実只愛念より起ると云々。
「密告の思ひを報ぜらる。その実只愛念より起ると云々」の「密告」の意味が不明であるが、基通が平家都落ちの秘密情報を事前に後白河に通報したことを指しているとすれば、意味が通じる。この重大情報の「密告」は基通が政治状況を認識して行ったものではなく、単に後白河への「愛念」の執着からなされたものに過ぎないと兼実は断じている。兼実は基通に対して侮蔑感を抱いていることがここでも確かめられる。
この侮蔑感は、その視線の届く先すなわち後白河院へも、反射的に敷衍されていると考えられる。少なくとも兼実は後白河を尊敬する眼差しで見てはいない。いいかえれば、兼実という男はそういう男だったのである。

「君臣合体の儀、これを以て至極となすべきか。古来かくの如き蹤跡無し」というのは兼実が強調するための筆の走りであって、古来この種の「愛念」関係はいくらでもあった。有名な『続古事談』に書き留められているものを引いておく。
後白河院が保元三年(1158)十月に宇治平等院の一切経の経蔵を見学した際に、経蔵の中で愛人の信頼と二人だけにしてくれるつもりでいたのに、ホスト役の法性寺殿(忠通)がワザと気をきかせなかったので後白河が腹を立てて「にやくり三位」などとさわぎ散らしたという珍事。後白河がそんな期待を抱いたのは、父の鳥羽院が長承元年(1132)九月に経蔵に入ったとき、富家殿(忠実)は気をきかせて、愛人・信頼と二人だけにしてくれたのを知っていたから。
鳥羽院、宇治に御幸ありて、経蔵ひらきて御覧じけるに、この経蔵は、世の常の人入る事なきに、富家殿、御前に候ひ給ひて、播磨守家成、時の花にてありければ、御気色にかなはんとやおぼしけん、召し入れられけり。
後白河院御幸有りける時、このことをや聞きおよべりけん、右衛門督信頼、召しあらんずらんと思ひけるに、法性寺殿、いとさやうの気おはせで、召すことなくてやみにければ、人知れずむつけ腹だちける名残にや、範家の三位といひける人を軽慢して、「にやくり三位、き三位、散三位、よく三位、むことり三位」などはやしたりけるとぞ、世の人いひ笑ひし。まことにや。
(『続古事談』新日本古典文学大系41 岩波2005、p627)
この『続古事談』には詳細な踏み込んだ注がついていて助かるが、「範家の三位」が法性寺殿(忠通)の男色相手であることを後白河は知っていたので、嘲りからかったのである。
“一夫多妻”のこの時代に男が男の愛人を持つこともあったことを考えると、当時の人々が近代以降のわれわれよりもはるかに多様な性生活を行っていたことは確かである。というより、むしろ近代人の性生活が窮屈すぎた(建前が窮屈であった)、ということであろう。“一夫多妻”は男側からの表現だが、女側から表現すれば“女系制”であろう。性生活は“秘事”ではあっても、いかなる局面においてもタブーを設けないというのがわが国だろう。“生殖のための性行為のみが許される”という西洋キリスト教の教義と無縁であったわが国の古の習俗を素直に受けとめたい。

「にやくり」という面白い語は、『嬉遊笑覧』(九)に「今按ずるに、男のなまめけるものをニヤケたりというは即この若気なり。若道衆道などいへるは若衆の二字を分ち呼なり」とあることからも分かるように、男色をいう語である。南方熊楠「若衆の名義起因――僧同士の非道行犯」(大正十年1921)にはこの『嬉遊笑覧』を引いて
若気にやけにやくげなるの意で、上に引いた『若気勧進帳』や『本朝若風俗』(西鶴の『男色大鑑』の一名)いずれもニャケと訓むべし。後には肛門をオニャケと称え、「名の移りたるいとおかし」と『笑覧』に見ゆ。(南方熊楠全集3 p517)
なお、ついでながら国立国会図書館の「デジタル化資料」は近頃とても充実してきて、多くの歴史資料を公開している。『玉葉』などの史料はもちろんだが、『嬉遊笑覧』も公開されている。大いに利用すべきであると思う。



《5》 義仲政権の頃の基通


西へ下る平家一門から離脱した基通は裏切り者であるから身を隠す必要があった。『平家物語』は次のように描いている。
牛飼いは)やがて心得て御車をやりかへし、大宮をのぼりに、とぶが如くにつかまつる。北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。(同前 p97)
『源平盛衰記』はもう少し詳細である。
・・・・西林寺といふ寺に入せ給ひたりけるが、それより忍びて知足院へ移らせ給ふ。人これを知らずして、摂政殿は吉野の奥とぞ申しける。(同前 p174)
平家一門都落ちの前夜都から抜け出した後白河院は、鞍馬寺から比叡山へ移り東塔南谷の圓融坊に落ち着く。そこへはすでに源氏の先陣の武士たちも来ており、「衆徒も武士も守護し奉る」(平家物語)という状況になった。平家は安徳天皇と三種の神器を携えて西へ落ちていったので、京都から権力中心が消滅した異常な状況となっている。
後白河院が都から脱出したのが寿永二年七月二十四日、平家が都落ちしたのが二十五日、後白河が都に戻るのが二十八日である。従って、二十六、二十七日は完全な権力の真空状態であった。
法皇は仙洞をいでて天台山に、主上は鳳闕をさって西海へ、摂政殿は吉野の奥とかや。(中略)平家は落ちぬれど、源氏はいまだ入りかはらず。既にこの京はぬしなき里にぞなりにける。開闢よりこのかた、かかる事あるべしともおぼえず。(『平家物語』同前 p118)
京都に残っていた公家たちは身の置きどころのない思いであったろう、比叡山東塔に後白河法皇がいるという情報が流れると(『源平盛衰記』によると二十六日にこの情報が「披露」された)、公家たちはひとり残らず圓融坊へ馳せ集まったという。その人々を『平家物語』は次のように挙げている。
そのころの入道殿とは前関白松殿(基房)、當殿とは近衛殿(基通)、太政大臣、左右大臣、内大臣・大納言・中納言・宰相・・・(以下略(同前 p119)
ここで基通は第2番目に挙げられている。公家のナンバー・ツーと目されていたとも解される。平家を裏切った基通はちゃっかりと圓融坊に駆けつけているのである。『愚管抄』にはつぎのように、からかい気味に出ている。
サテ京ノ人サナガラ攝録(正しくは竹冠に録)ノ近衛殿ハ一定グシテ落チヌラント人ハ思ヒタリケルモ、チガイテトドマリテ山ヘ参リニケリ。(『愚管抄』巻五 古典体系本p255)

京の人たちは皆摂政の近衛殿(基通)はきっと平家と一緒に西へ落ちたと思っていたが、案に相違して都にとどまって、山へやって来た。
兼実も圓融坊に登っているので、『玉葉』にはその間の混みあった様子、輿の手配のことなど細々と描かれていて臨場感がある。比叡山にいる弟・慈円が色々と便宜を計ってくれていることも分かる。ところが、面白いことに三十日の条に基通のことがつぎのように記されている。
摂政(基通)今日京に下ると云々。数日山上にあり。人以て奇となすか。
後白河は二十八日に法住寺に戻っているので、「愛念」のために山上にいたのではない。既に安徳天皇は西海に行き、自分は裏切っているのであるから厳密に言うと「摂政」でさえないのである。そういう宙ぶらりんの自分をどうすべきか、何か祈ることでもあったのか。

この後政局は、西海に去った平家を「朝敵」として源氏に討たしめるという方針、更に安徳天皇を「先帝」と位置づけて新たな天皇を選ぶこと、関連して、三種の神器を取り戻す交渉など、いずれも極めて重要な事項を巡って展開する。新たな天皇を選ぶいきさつがもっとも興味深い。木曽義仲が絡むし、基通との関連も深いが、その詳細は改めて別稿で扱うことにして、ここでは省略する。
要するに貴族社会の支持を得た「治天の君」後白河法皇の意志が最重要であった。半月後に三種の神器なしで後鳥羽天皇が即位する。「四の宮」というのは先帝・高倉天皇の第四皇子のこと、すなわち後白河の孫のひとりで五歳であった。
八月十四日、都には四の宮、法皇の宣命にて、閑院殿にて御即位し給ふ。「神璽、宝剣、内侍所なくして践祚の例、これはじめ」とぞうけたまはる。摂政は近衛殿、平家の婿にてましましけれども、西国へも御同心に下らせ給はぬによってなり。(120句本『平家物語 中』新潮日本古典集成1980)
ちょっと驚くが、この幼い新天皇の摂政に近衛殿=基通が選ばれる。安徳天皇を見放したことが一向にハンディとなっていないし、基通自身のためらいにもなっていないが如くだ。安徳は「一の宮」であって同じく後白河の孫であるが、あるいはこの新摂政の選定には「愛念」が効いているのかもしれない。
『玉葉』は十一月の法住寺合戦の直後、基通が摂政を止めさせられ松殿師家が新摂政となるのだが、次のように述べている。
前摂政(基通)去る七月乱の時(平家都落ちの時)、専らその職を去るべき処、法皇の艶気に依り、動揺無く、今度何の過怠に依り所職を奪はるるや。『玉葉』寿永二年十一月二十二日
すなわち、本来なら基通は安徳天皇を見棄てたのだからその道義的責任を感じて自ら職を辞して当然であるのに、引き続いて新天皇・後鳥羽の摂政になったのは、後白河法皇との「愛念」によるものだろう。ところが、法住寺合戦の直後の「動揺」は単に義仲のエコヒイキで松殿へ変わったというだけのことで、いったい基通に何の「過怠」があったというのか。兼実は基通についても義仲についても筋の通らないやり方に憤慨しているのである。

木曽義仲など源氏軍が入京し、「二十余年ぶり」に白旗がなびく。義仲は源氏軍の中で最強の部分であるが、都に入ってきた源氏の諸勢力を束ねて統率する立場ではない。それが可能なのは鎌倉にいる頼朝ぐらいしかいないが、頼朝は後白河の要請にもかかわらずなかなか上京しようとしない。
主として都周辺に根拠地を持つ源氏勢力がばらばらに入京してきたのである。『平家物語』のその部分を引用しておく。
同じき(寿永二年七月)廿八日に、法皇都へ還御なる。木曽五万余騎にて守護し奉る。近江源氏山本の冠者義高、白旗さひて先陣に候。この廿余年見えざりつる白旗の、けふはじめて都へ入る、めづらしかりし事どもなり。
さる程に十郎蔵人くらんど行家、宇治橋をわって都へいる。陸奥新判官みちのくのしんはんがん義康が子、矢田判官代やたのはんがんだい義清、大江山をへて上洛す。摂津国・河内の源氏ども、雲霞のごとくにおなじく都へ乱れいる。
(『平家物語』同前 p119)
なおここの「大江山」は丹後半島の大江山ではなく、京都府南部の老ノ坂峠の大枝山のことで、京都へ南西方向から入ってきたことを表している。
各地から都へ乱れ入った源氏勢力はもともと統率が取れてはいなかったし、当面の敵である平家は西海に去り都にはいない。したがって、日数の経過とともに源氏勢力の規律は乱れ弛緩していくのは必然的であった。それぞれの勢力の根拠地にあれば食料や馬の飼料などを自給できるが、都にあっては運搬されてくる税の物品を横取りするか、強盗行為をはたらくかしかなくなる。
およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入りどり(略奪)おほし。賀茂・八幡の御領ともいはず、青田を刈りてま草()にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ちて通る物をうばひとり、衣装をはぎとる。「平家の都におわせし時は、六波羅殿とて、ただおほかた恐ろしかりしばかり也。衣装をはぐまではなかりしものを、平家に源氏かへおとり(換へ劣り)したり」とぞ人申しける。(『平家物語』同前 p151)
木曽義仲は源氏諸勢力の統率を取ることにあまり関心がなく、京都の庶民や公家階層から支持を失う。新天皇を選出する際に、義仲は「北陸宮」(以仁王の子)を推し、強く主張した。このことは『玉葉』に記録されている。田舎武士が天皇問題に関して意見を述べるというようなことは、公家たちにとってはとんでもない異例であり非礼であると考えられたことであろう。
ともかく、後白河院は木曽義仲を強く嫌った。そして、院の周辺の手勢をもって木曽義仲軍と戦おうとした。それが義仲入京から四ヶ月後、同年十一月十九日の「法住寺合戦」である。

入京したとき「四万騎」といわれた木曽義仲の勢力がすでに「六七千騎」に急減していた(この数字は『平家物語』だが、異本では「三千騎」ともある)。院の側は「軍兵二万人」というが、結果的には戦慣れしている義仲軍にはまったく手も足も出ない。合戦の2日前の『玉葉』には、院の御所に「武士群集」し、義仲が院の御所を襲うという風聞だが、「院より義仲を討たれるべき由」とも言い、どちら側が積極的に動くか決めかねる情勢で、「京中騒動」と記している。「義仲その勢、いくばくならずといえども、その衆はなはだ勇となす」(『玉葉』十七日)と、さすが兼実は的確な見方をしている。

われわれの主人公たる基通について、『玉葉』十七日条にすごい情報が記されている。
摂政(基通)召しにより参入し、今夜宿し候はるべしと云々。これ御愛物たるに依り、殊に召しに応ずるなり。(『玉葉』寿永二年十一月十七日)
後白河院は摂政基通を愛人として呼び寄せ、今夜は基通は宿泊するという。
十八日には後鳥羽天皇が密かに法住寺に移動して来ている。突然に天皇がこれまでの皇居である「閑院」を出たので、どこを皇居とすべきか公家たちは慌てている。
図らざる外行幸あり。この亭を以て皇居とすべきか。はたまたなお閑院を以て皇居となすべきか、計らい申すべしといへり。この御所をもって皇居となさば行幸の条はなはだ奇。よって只殿上已下の事、閑院にあるべきかといへり。(同上 十八日)
そして、十八日条の最後に、もう一度、基通のことが出てくる。
摂政今夜より院の御所に参宿せらるると云々。(同上 十八日)
翌日は法住寺合戦の当日である。ときどき小雨があった。朝早くから義仲が「法皇宮」を襲おうとしているという情報が兼実に入る。人をやって情勢を探らせるが、昼に戻ってきて、まだ何もないと報告する。その直後に戦闘が始まった。
幾程を経ず黒煙天に見ゆ。これ河原の在家を焼き払ふと云々。又時()を作る両度、時に未の刻なり(午後2時ごろ)。
法住寺に火を掛けられて院側は総崩れ、多数の死者をだして大敗北となる。せいぜい2時間足らずの“合戦”であった。後白河は輿に乗って逃げるところを捕まって「五条内裏」に閉じこめられる。後鳥羽天皇は池に浮かべた船に避難していたところを捕まり「閑院殿」につれ行かれる。
基通は「戦おそれて」宇治の邸宅・富家殿へ車で逃げだしていく。『玉葉』には「摂政いまだ合戦せざる前、宇治の方へ逃げられ了んぬ」とある。その途中、院方の武士で法住寺から落ちて行く源蔵人仲兼の一行が追いつく。『平家物語』のその場面。
蔵人の)主従三騎、南を指して落行くほどに、摂政殿(基通)の都をばいくさにおそれて、宇治へ出御なりけるに、木幡山にて追付たてまつる。木曽が余党かとおぼしめし、御車をとどめて「何者ぞ」と御尋あれば、「仲兼、仲信」となのり申。「こはいかに、北国凶徒かなとおぼしめし(自敬表現)たれば、神妙にまいりたり。ちかう候て守護つかまつれ」と仰ければ、かしこまりて承り、宇治の富家殿までをくりまいらせて、やがてこの人どもは、河内へぞ落ちゆきける。(『平家物語』同前 p159)
摂政が自敬表現をする例がみえて、興味深い。基通は合戦の二日前から泊まり込んで後白河と愛人として過ごし、合戦の前に逃げだしたのである。

翌日二十日、六条河原に首がさらされた。「六百卅余人」の多数であった。その中には天台座主・明雲大僧正や圓慶法親王(正しくは圓恵、園城寺の長吏、後白河の子で享年三十二歳)の首もあった。軍勢の人数や死者の数は『平家物語』には誇張があり、実数ではないと考えるべきであるが、かなりの死者が出て、有名人の首もあった、ということである。

基通が再度上京するのは二十一日のことである。立派な行列を組んで「済々たる威光」を示しつつ上京してきた。兼実は「甘心せず」と批判している。
今日申の刻(午後四時前後)摂政奈良より、前駆六人、共七八人済々たる威光と云々。愚案ずるに甘心せず、忍びて入京せらるべきか。(『玉葉』二十一日条)
後白河派と目されて当然である基通は、法住寺合戦の院側(官軍側)のひどい敗北でわが身さえ危ういのに“空気が読めていない”ようであった。既述のように、この日、義仲の指示で摂政は基通から松殿師家に変わっている。

「治天の君」たる後白河院を捕らえ閉じこめたのだから、木曽義仲は最高権力者となったことになる。つまり、不完全ながらここに義仲政権が出現したと言ってもよいのである、わずか二ヶ月ほどしか持たなかったが。
『平家物語』は入京してからの義仲に関しては戯画化して扱っており、その実像がつかみにくい。関白・松殿基房の娘をもらって松殿のムコ殿になっている。そこで、基通の摂政を止めて師家を摂政とした、という(基房-師家について、第1章の系図参照)。
廿一日に摂政を止め奉る、基通の御事也。近衛殿と申す。その代わりに松殿基房御子に、権大納言師家の十三になり給ひけるを内大臣になし奉り、やがて摂政の詔書を下されけり。(中略)木曽近衛殿の止め奉りて師家をなし奉りける事は、松殿最愛の御むすめ、みめ形いとうつくしくおはしましけるを、女御・后にもと御いたはりありけるに、美人の由伝へ聞きて、木曽おして御婿になりたりける故に、御兄公けいこうとて、かく計ひなしまゐらせけるとぞ聞えし。浅増あさましき事共也。(『源平盛衰記』同前 p293)
木曽は廿三日に「卿相雲客四十九人が官職をとどめて、おっこめ奉る」、平家の時は(清盛のクーデターのとき)は四十三人の官職をとどめたので「平家の悪行には超過せり」(『平家物語』同前 p160)。すなわち、木曽義仲は急激に悪行を重ねているので、やがて亡びるであろうという『平家物語』の筆法で、すでに東から迫っている範頼・義経などの鎌倉方の勢力に今後の展開の重点が移っていくことを暗示している。

義仲の独裁権力を掣肘したのは松殿基房であると『平家物語』は述べている。清盛は「悪行人」であったが「希代の大善根」もなしている(高野の大塔建立や経の島築島を指す)と「片山里の荒武士の、耳近きに聞き知らす様に」(『源平盛衰記』同前p299)かき口説いた。それで、義仲は解官した人々の官を許した。法皇が「五条内裏」から解放されたのは十二月十日である。

だが、九郎義経ら鎌倉勢は京に迫っており、木曽義仲が粟津の松原で討たれるのは、次月の寿永三年(1184)正月廿日のことである。享年三十一歳、その時点で基通二十五歳、後白河五十八歳。



《6》 その後の基通


寿永三年(1184)正月廿日の『玉葉』には、義経らが宇治川渡河を果たして都に迫るとき、義仲が後白河院を捉えて北国へ下ろうとしていた切迫した状況が書かれている。確かに後白河を確保・同道して北陸のいずれかへ脱出し拠点を定めることができれば、面白いことになったと想像できる。際どいところで義経らが一歩早く入京し義仲は数十騎の少数で逃げるしかなく、「阿波津(粟津)の野辺で伐ち取られ了んぬ」という結末に至る。義仲が孤立して討たれたことを「独身梟首」と表現している。
義仲は)先ず院中に参り御幸あるべき由、已に御輿を寄せんとする間、敵軍すでに襲ひ来る。よって義仲院を棄て奉り、周章対戦の間、あい従うところの軍僅かに三十四十騎、・・・・、阿波津の野辺において伐ち取られ了んぬ。

およそ日頃義仲の支度、京中を焼き払ひ、北陸道に落つべしと。しかるにまた一家を焼かず、一人も損ぜず、独身梟首され了んぬ。天の逆賊を罰する、宜なるかな宜なるかな。
(『玉葉』寿永三年正月廿日)
義仲と一番つながっていた「入道関白」松殿基房とその息子の「新摂政」師家の運命が第一に問題になるが、『玉葉』は、次のように、強く批判的に書いている。
入道関白(基房)、顕家をもって使者となし、両度上書す(二度も院へ手紙を差し上げた)。共に答無し。また新摂政(師家)顕家の車に乗り参入す。追ひ帰され了んぬと云々。弾指すべし弾指すべし。(同上廿日条)
師家は十三歳の少年である。院への手紙をもった使者である顕家の車に摂政師家も共に乗って行ったというのである。これは基房の差し金だろうが、形式を重んずる公家階層として兼実ならずとも憤慨するのは当然であったろう。松殿の系統に摂関が戻ってくることは二度となかった。
翌日の『玉葉』には師家は摂政を下ろすべきで、“兼実様こそ摂政にならるべきです”と「諫言」するものがあったと、書いている。そして、この日の『玉葉』の末尾には、ふたたび「愛物」の語がでて、基通が復帰するのが妥当であると述べている。
ある人諫めて云はく、新摂政安堵すべからず。下官(兼実)出馬すべしと云々。・・・・

晩に及び)ある人云はく、前摂政(基通)還補すべき由と云々。法皇の愛物也。もっとも然るべし。
(同前二十一日条)
九条兼実にとっては一面苦々しくとも、摂政基通と「治天の君」後白河院が結びついていることは、天皇制権力が堅固であることになる結びつきであると納得していたのである、「もっとも然るべし まあ、しょうがねえよな」。兼実の見方からすると、後白河院の玩弄物でしかない基通に対しては軽蔑の視線を放つことになるのは当然であるが、その視線の先には後白河院もいて、院は「治天の君」ではあるが尊敬すべき存在ではない、と兼実はみなしていた。

このように義仲が討たれた翌々日に、基通が摂政に戻された(前掲 系図 の基通の数字「7)。寿永三年(1184)正月二十二日のことである。だが、頼朝の力が強まり、後白河院との政治的暗闘が激しくなるとともに基通の存在意義は薄くなっていく。後白河を嫌悪している九条兼実および慈円の兄弟が、頼朝と結びつきが強くなるのは当然であったろう。頼朝の方からすれば、兼実を動かして後白河院の勢力に対抗させることを考えていた。文治二年(1186)三月十二日、基通を下ろして兼実が摂政となる。頼朝と結んだ九条家の全盛時代となる。兼実は建久七年(1196)までの10年間長期の摂政を務める。

その間に源義経が殺され、頼朝は奥州藤原氏を滅亡させる(1189)。頼朝は鎌倉で政所を開く。後白河法皇が死没する(1192)。後鳥羽天皇の親政時代となるが、天皇は十三歳であり実質は摂政の兼実が握る。そのために、旧後白河院派(丹後局、源通親ら)と兼実の対立が激しくなる。
なお、源通親(久安五年1149~建仁二年1202)は村上源氏で、有能な官僚であった。彼は後白河から土御門までの7代の天皇にわたって公事をよく勤め、兼実にも認められていたが、家柄を重んじる兼実からすると中流貴族で見下す対象であった。通親は後白河と丹後局の間に生まれた宣陽門院の別当となっている。宣陽門院は後白河没後、最大の院領である長講堂領を相続しており、その管理を任された通親は官界に強い力を持つことになる。


兼実の娘任子は後鳥羽天皇の中宮宜秋門院となっているが、建久六年(1195)八月に女子を産む(昇子・春華門院)。源通親の養女・在子は宮仕していたが同十一月に皇子(為仁・土御門天皇)を生む。これで通親と兼実の形勢が逆転し、通親による「建久七年の政変」が起こり、かねて憎まれていた兼実は失脚する。そして、村上源氏の全盛時代となり、古い後白河派とみなされた近衛基通が10年ぶりに関白として返り咲く(上掲および前掲 系図 の基通の数字「9)。なお、曹洞宗の始祖・道元は通親と基房女・伊子の間に生まれたというのが通説であるが、通親の孫であるという異説もある(通説の「伊子」は木曽義仲の妻になった女性で、話が面白すぎるようにわたしは感じる。疑問として残しておく)。

建久九年(1198年)正月に後鳥羽天皇(十九歳)は土御門天皇へ践祚した。これで通親は天皇の外祖父の地位を得たのであり、後鳥羽は若い院としての自由な立場を得て京都内外を活発に「御幸」したという。祖父・後白河の血が確かに伝わっていたのであろう。基通は土御門天皇(四歳)の摂政にもなる。
政治の実権を握っていた通親は正治元年(1199)に内大臣となり、「源博陸」(げんはくりく、博陸は関白の意)と呼ばれた。“事実上の関白だ”ということ。

なお、上掲系図へは浄土寺の二位・高階栄子の好色・奔放な宮廷生活を暗示すべく記入したが、通親は妻・範子の没後、養子にしていた承明門院・在子を寵愛した。血はつながっていないとはいえ娘であり、後鳥羽は妃を寝取られたのである。宮廷スキャンダルであることは間違いない。『愚管抄』の書き様を示す。慈円は九条家を弾圧した通親に悪印象を持っているが。
通親は)承明門院ヲゾ母(範子)ウセテ後ハアイシマイラセケル。カヽリケル程ニ、(後鳥羽)院は範季ガムスメ(重子)ヲオボシメシテ(お愛しなさって)三位セサセテ、・・・・・王子モアマタ出キタル。(『愚管抄』巻六 古典体系本p286)
重子・修明門院の生んだ第一王子が守成親王で順徳天皇になる。すなわち『愚管抄』は「国母」でもある承明門院・在子の貞操を一向に問題にしていないし、通親も責められていない。後鳥羽は、すぐさま別の方に手を伸ばして、「王子もたくさん生まれて、めでたしめでたし」という書き方になっている。

通親は建仁二年(1202)十月に急死(享年五十四歳)する。それを契機に九条家にバランスをとる人事がなされ、摂政が九条良経に移る。良経は溢れるほどの才能に恵まれた人物だったようで慈円が『愚管抄』に「コノ人は三ツノ舟ニノリヌベキ人」(詩・和歌・管弦の三つの舟)と言葉を極めて賞讃している。その良経は元久三年(1206)二月廿日に急死(享年三十八歳)する(『愚管抄』は「ネ死ニ頓死」、『玉葉』は夕刻まで良経が普段通りであったことを記したあと、良経の「女房」が走ってきて急を知らせ、兼実が「劇速して行く」が「身冷気絶」であったと)。このため良経の死には他殺説もある。わたしはこの才能溢れる人物が老成するところまで生きさせたかったと夢想する。

良経の急死を受け、近衛家実が摂政となった。基通の息子である。こののちは、松殿は摂関家としては基房-師家で絶え、近衛家と九条家のバランスを考えた人事となって、文永十年(1273)この両家から「五摂家」が成立する(近衛家・鷹司家・九条家・一条家・二条家)。「五摂家」体制のもとで江戸時代終末まで形式的な摂関は続く。
三代将軍実朝の暗殺で頼朝の系譜は断たれる。上掲系図のように、良経は義朝の娘と婚姻し、九条家が将軍となるきっかけを作っている。藤原将軍時代である。しかしそれも2代しか続かず、そのあとは親王将軍の時代となる。


近衛基通のこと  終


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最終更新9/18-2013


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