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下臈為先、先看督長十余人前行、首立令持着[金+太]、次検非違使、次郎従等 | 下臈を先にしたので、まず看督長[かどのおさ]十余人が前に行き、着[金+太]に首を立てて持たせ、その次に検非違使、次に郎従らが進んだ。 |
(「[金+太]」は、鉄製の鎖で足をつなぐ枷)令制で、罪人処理として囚獄司が徒役の罪人の足にあしかせをつけ、三,四人をつないだまま使役すること。ちゃくたい。このあと『令義解』・『続日本紀』・『御堂関白記』・『色葉字類抄』からの用例が並ぶ。いずれも参考になるが、特に『御堂関白記』の用例が、われわれの参考になる。山中裕『御堂関白記全註釈』(高科書店1994)という、とても親切な本があり、素人にも容易に道長宮廷の一次資料に接することができる(御堂関白は藤原道長のこと、自著14巻が現存している)。
声高の議論は、検非違使・藤原宗相と安倍守親との間で起こったことでした。守親が検非違使・宗相に抗議して言うには、佐延宅に看督長・放免・着ダらが入って来て、人を搦め、乱暴に捜索をした。担当の検非違使・平維光にわけをただしたら、贓物の捜索のために看督長らを遣わした、ということだった。検非違使・宗相が、盗まれた「道長の金」の捜索で、強引なことをやったということらしい(山中裕前掲書の注による)。ともかく、検非違使庁の下役人等が佐延宅に入ってきて捜索したのだが、その実力部隊を「看督長・放免・着ダら」と表現しているのである(原文では佐延宅看督長放免着ダ等入来)。したがって、看督長は役人であるが、〈放免〉は元罪人で検非違使庁の最下等の暴力的な汚れ役を請けおうために雇われている者、「着ダ」は、足枷[あしかせ]をつけたまま働かせられている罪人ということであるが(字義通りに解釈すれば、こうなるということ)、〈放免〉の予備軍とも言えよう。
平安時代、東西の市で陰暦五月・十二月に行われた検非違使の行事。以来続けて行われ、江戸時代には囚人に擬した者を鞍馬村から召し、首に白布をかけ、鉄のあしかせをつけて、検非違使に笞で打つまねをさせた。軽罪の断罪をすませた意味であろうといわれる。ちゃくたいのまつりごと。「検非違使の行事」のなかで、鉄のあしかせをつけて、笞刑を行ったこともあることがわかる。儀礼化して、江戸時代まで続けられたのである。
流刑囚を使役するときは、ダ[金+太]か盤枷[ばんか、木製の枷]を装着させよ。病気の場合は脱がせてよい。巾[かぶりもの]は禁ずる。十日に一日休暇をあたえる。使役する院から外出することはできない。病気であった日数は、後に刑期に加算する。刑期が満ちたら、戸籍の地へ送り返す。この「注」(p689)に『続日本紀』の例が引いてあって、私鋳銭を作った罪でとらえられた囚人が鋳銭司で使役されたことがあり、逃げないように足枷[ダ]に鈴をつけていたという。また、「囚獄式」には、着ダ囚は3,4人を一つなぎにして使役し、夜は「手かせ」[木+丑]を着けておいた、とある。
かなぎ着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらんかこの「かなぎ」は馬の首に着ける「鉗」であるが、おそらく木製であろう。逃げださないように「かなぎ」を着けて自分が飼っていた駒を、「引出」せず(厩から出さないで)飼っていた駒を、誰かに見つけられたのだろうか、居なくなってしまった、という歌意。
上に掲げた歌を、もう一度読んでみてほしい。天皇が群臣らに裏切られ孤立し、自分を捨てて群臣らにしたがった皇后への“恨み節”だとして、ずいぶん変な歌である。農村で恋人に逃げられた男の恨みを材料にした民謡の一節、というぐらいの歌であろう。(1)まず、この歌は孝徳天皇自身の歌であるとされていること。しかも、自分から去ってしまった皇后・間人[はしひと]に対して送った歌である。
(2)そもそも、孝徳は「大化の改新」(646)(ないしは前年の「乙巳の変 いっしのへん」)で政権中枢に坐った天皇であり、政変の起こった地・飛鳥から都を難波へ移した。
(3)ところが、白雉4(653)年に皇子である中大兄が、難波から飛鳥へ戻ろうと言い出し、皇后・間人も群臣もこれに従って、飛鳥へ帰ってしまう。孝徳天皇は難波宮でまったく孤立してしまう。上の歌は、その孤立状態で間人にむけて詠んだ歌であるというのである。孝徳は翌年(654)に難波宮で死亡する。
(4)なぜか中大兄皇子は即位せず、皇極が重祚して斉明天皇となるが、661年には斉明は死亡し、天皇不在となる。中大兄が即位するのは、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗(662)するという大変動を経て、668年のことであり、天智天皇となる。しかし、どうも、納得のいかない流れである。その7年間、天皇制が途切れていたといえばまだスッキリするのに、「称制」というのだから、ますます分からない。いまだ万世一系時代にいるみたいだ。
〈放免〉とは、放免囚(囚人が満期などで放免された者)が検非違使庁の最下級の役人として使われるようになった者をいう。ぐらいになる。
検非違使らがある家に盗人追捕に行った。追捕は無事終わったあとで一人の検非違使とその調度懸[武具などを持つ係の者]がしめし合わせて、その家から糸を盗もうとして袴の下に隠して出てきた。他の検非違使たちは袴がふくらんでいるのを見て犯行を察して、わざと水浴びをしようと言い出し、脱衣をはじめる。盗んだ検非違使は制止するのだが、結局、袴の下から糸が幾巻もごろごろ出てきてしまう。それを見て、他の検非違使たちはあわてて馬で立ち去ってしまう。この話で興味深いことは、検非違使の下にいくつもの階層があること(検非違使-調度懸-看の長[看督長]-放免)、しかも、その最下層にいる〈放免〉が、ケチな盗みをする検非違使を“恥ずかしいことだ”と言って、ひそかに笑い合っている。そのセリフのなかに、一度盗みをして囚人となって身分をもち崩し、いま〈放免〉となっている、ということを述べているのが貴重である。
然れば看の長[かどのおさ]一人なむ其の糸をば拾い取りて、此の検非違使の従者[とものもの]に取らせけるに、従者も我にもあらぬ気色にてぞ、糸をば取りける。放免共此を見て、己れらがどち、ひそかに私語[ささめき]けるに
我らが盗みをして身を徒[いたづら]になして、かかる者となりたるは、更に恥じにもあらざりけり。かかることも有りけりと云ひてぞ、忍びて笑ひ合ひたりける。(岩波古典体系本『今昔物語集五』p164~)
夜明けて後に見れば、皆目をしば叩きて縛りつけられて有り。かかる奴原[やつばら]は獄[ひとや]に禁じたりとも、後に出でなば定めて悪しき心有りなむとおぼえにければ、さり気なくて、人にも知らせずして、夜に入りてひそかに外にゐて行きて、皆射殺させてけり。東獄の近くに放免たちが集まって住んでいるような地域があったこと、また放免たちはかならずしも改悛者ではなく、ウマイ話があれば盗みや強盗をしかねないような者たちであると考えられていたこと、おそらく実際にそういう事例も多かったのだろう、などと考えられる。
物詣でを好む三十ばかりの女が、女童をひとり連れて、着飾って鳥部寺に行った。少し遅れて見ばえの良い「雑色男」が一人詣でた。その男は女童を引いて、手に触った。女童は怖がって泣き出したが男は女童を捕らえ刀を突きつけて「突き殺すぞ」といった。女童はおとなしくなって、衣を脱いで男に与えた。この「雑色男」は、囚人であって放免されたが、検非違使庁の下部[しもべ]の〈放免〉とならず「雑色」となっていた、ということであろう。上掲論文で喜田貞吉は次のように書いている。
男は主[あるじ]を引き、手に触った。主は「まことにあさましく怖ろしく思ぼゆれども、更に術[ずつ]なし」。男は、主を仏の後ろに連れていき、そこで二人は寝た。その後、男は主の衣を引きはぎ、「いとほしければ袴は許す」といって、取った着物をもって、山中へ去った。
女童が清水寺まで行き、わけを話して、二人分の衣を借り、鳥部寺の主に着せて家に帰った。
然れば心幼き[無思慮な、不用心な]女のあるきはとどむべき也。かく怖ろしきこと有り。その男、主と親しくなりなば、衣をば取らで去[い]ねかし。あさましかりける心かな。その男、本は侍[さぶらひ]にて有りける、盗みして獄に居て、のち放免になりにける者なり。
同じく放免と呼ばれていても、検非違使庁の下部の放免ではなく、いわゆる雑色男となっていた放免囚である。そしてやはり放免と呼ばれていたのだ。すなわち放免とは前科者ということで、必ずしも庁の下部に限った名称ではなかったのだ。(p273)つぎの喜田貞吉の説明は、一般論として〈放免〉を理解するのに、役立つ。また、後に「非人」とされる者たちがどういうところから生まれていったかのひとつの展望を与えるものである。
(放免囚のうち〈放免〉の選に漏れた者たちは)各自本貫に帰ってもとの公民に立ち戻ったはずではあるが、犯人にはもともと戸籍帳外の浮浪民が多かったことでもあろうし、郷里に帰って正業につくというものはむしろ少数であったに相違ない。したがってその多数は、あるいは流れて河原者・坂の者・散所の者などの仲間に落ち込み、あるいは全くの浮浪民となって放浪し、あるいは生きんがために再び罪を犯して身を失うという類のものになったに相違ない。しかしてその中にも都合良くいったものは、しかるべき人の下人に住み込み、いわゆる雑色男となるものもあったであろう。(p272)〈放免〉の議論と直接には関係ないのだが、『今昔物語集』には上の話のように、一人で行動している女が男に性を強要されることが案外多い。原文は「二人臥しぬ」という常套語である。女はイヤイヤながらであるが、拒めば殺害されるかもしれないと思って、“同衾した”という言い方になる。そこには強姦か和姦かという二分法では処理のつかない世界がある、と考えておくべきであろう。上引では「その男、主と親しくなりなば、衣をば取らで去ねかし。あさましかりける心かな」との興味深い批評がある。品悪くいえば“女と懇ろにやったんだから、衣まで取り上げなくても良かっただろう、エゲツナイ奴だ”というところか。この常識外れのエゲツナさを指摘しているので、つづく「その男、本は侍にて有りける、盗みして獄に居て、のち放免になりにける者なり」が生きてくるのである。
こうした女性の一人旅に当たって、当然おこりうる危険を、彼女たちはどのようにして乗り切っていたのか、という疑問が直ちに生ずる。それは時代を遡れば遡るほど、一層大きかったからに相違ないからである。これに完全な解答を出すことはたやすくないが、私はこうした一人で旅をする女性の場合、性が解放されていたのではないか、と考える。(p71)〈放免〉の議論に戻る。
着ダの政を描く。もともと、「[金+大]」[かなぎ]というのは、鉄の鎖で足をつなぐ枷[かせ]のこと。囚獄司が徒役の罪人の足に、足枷をつけ、三、四人をつないだまま使役した。この着ダの政は、東西の市[いち]で、五月と十二月に行われた検非違使の行事。未決の囚人を市中に連行して、足枷をつけ、罪過に応じて処置するさまを、市民にみせて、みせしめとする行事である。これは、東市における着ダの政を描くもの。(p69)後白河院の時代の「着ダの政」の描写を目にすることができるというのは、有り難いことだ。文字情報と違って、行事の様子を一目で理解することができる。下図は、5場面ほどからなる第14巻の中心場面である(日本絵巻大成8『年中行事絵巻』中央公論社1977の、スキャナー映像)。なお、小松茂美は「鉄の鎖」と述べているが、上述のように、わたしは、かならずしも金属具であったとはかぎらないのではないかと考えている。
検非違使の配下で衛門府の衛士を選抜したもの。看督長・案主[あんじゅ]を総称していう場合もあった。とある。延喜式に左右衛門府で「およそ検非違別当には、(その警護に)随身・火長の二人を充てる」とあるように、「随身・火長」と並べて称されることが多かった。
左右に囚人が繩でつながれて、左に七人、右に六人がいる。囚人をはさんで向こうにいるのは看督長[かどのおさ]、手前に描かれるのは随身である。囚人は地に腹ばうように押しつけられて、[金+大]をはめられるのであった。(p149)と述べている。わたしは三列横隊という表現をとった。その第1列が「看督長」、第2列が囚人と〈放免〉、第3列が「随身」という説明を吉田光邦がしているのである。既述のように、小松茂美は「随身」のところを「火長」と言っていた。(「随身」は“貴人の警護につけられる、近衛府の官人”という辞書の説明を用いて、「火長」としておく。火長の赤ずくめの身なりは次節に『伴大納言絵詞』からの図像を掲げた。なお(図に対して)「右に七人、左に六人」が正しい)
匡房先生がおっしゃった「放免が、賀茂の祭で綾羅を着ること、知っているかどうか」と。(黒字は、わたしが意味を取ってわかりやすく書いたところ。緑字は新古典文学大系の読み下し文のまま。なお、匡房と実兼の『江談抄』として記録された会話は12世紀初頭と考えてよいだろうが、若い実兼に匡房は自分より70年ほど昔の人々の対話を語り伝えている。公任966~1041、斉信967~1035、隆家979~1044。したがって、斉信の話の内容は、11世紀前半の賀茂祭で、すでに〈放免〉が派手な染衣を着ていたことの証言になっているのである。)
「由緒を調べましたが、いまだ弁えません」とお答えした。
「賀茂の祭の日、桟敷の席で、隆家[たかいえ]卿が斉信[ただのぶ]卿にお尋ねになった。“放免が綾羅錦繍[りょうらきんしゅう]の服を着用して検非違使の行列の中にいるのはなぜでしょうか”と。
斉信卿は“非人の故に禁忌を憚らざるなり”と答えた。
すると公任[きんとう]卿が“それなら放火殺害を犯した人物なのに、禁止しないのか。他の罪人の場合はみな刑罰を加えられている。美服を着ることについてなにか拠になる証文が有るのか”と尋ねられた。
斉信卿は答えて“贓物所より出で来る物を染めて文[あや]を摺り成せる衣・袴など、件の日、掲焉[けちえん、派手でめだつ]の故に着用せしむるところか”と言った。
公任卿はとても納得なされたということだ。」
贓物は不正に取得した品物。令制の刑部省所属の官司に贓贖司があり、罪人の財産の没収分配、贓物や罪の償いに供出された金品の収納などをつかさどった。贓物所は同様の性格の検非違使庁管下の所か。(p9)贓物の布を摺り染めて、派手でめだつ衣・袴をわざと作って着用させたのだ、という説明である。公任はその説明に納得したのである。「非人」という存在の非日常性を、一目で分かる派手な服装で際立たせたのだ、とわたしは理解したい。
板に草木花鳥などの形を彫刻[ゑりきざ]みて、ひめのりを布に包みて、その木型の上を打ちてのりを付くるは、絹布のすべり動かぬ為なり。のりをあさあさと付置きて、その上に布又は絹などをかけてよく押しつくれば、木型の所高くなるなり、それを藍の葉または色々の花を銘々に布に包みて、布絹などのおもてを摺れば、草木花鳥の絵あらはるるなり。(三の30 「広文庫」より重引)布あるいは糸を染料に浸けて単色に染めるというのではなく、「藍の葉」などを用いて部分的に染色するというのである。ちょっと考えれば分かるように、部分的な染色の際は、何か文様を染め出すということになるのはほとんど必然的である。綾などを織り出すのに比べて、比較にならないほど手軽な方法である。
摺衣を着ることが通常の場合「禁忌」であったことは、『政事要略』に引かれた「弾正式」に「摺染成文衣袴等、並不得着用 摺染が文[あや]をなす衣袴など、並に着用を得ず」とある点から明らかであるが、「但縁公事所着、并婦女衣裾不在禁限 但し、公事に縁して着るところ、ならびに婦女の衣裾は禁限に在らず」ともいわれ、天長二年(825)、仁和二年(886)、延長四年(926)の宣旨によって「行幸之時、執鷹供奉」する鷹飼が摺衣の着用を認められたように、「公事」に関わる特定の職掌の者に、許されることもあった。(p11)なぜ、「摺衣を着ることが通常の場合『禁忌』であった」のだろう。「奢侈の禁止」が目的なのだろうか。「奢侈の禁止」という世俗的な理由がなかったとは言いにくいが、鷹匠のような特別の職掌のものや、〈放免〉が「非人」のゆえに特に許される、というような点からすると、世俗的な理由だけでは説明できないのではないか。摺衣に何らかの咒性を認めていたがゆえの「禁忌」と考えざるをえないであろう。
(『江談抄』で分かるように)11世紀前半、放免については、賀茂祭という特別の日のことではあるが、この服制の「禁忌」はすでに完全に破られていたのである。(p11)実際、後白河院時代(12世紀後半)以降の絵巻物しか見ることのできない現代、文様が摺り出された衣裳を着ている登場人物が相当多数であり、「摺染」禁止であったとはとても考えられないことは間違いない。それにも拘わらず、絵巻物に残っている〈放免〉(といわれている人物)や稚児や修験者や聖などが、特異な衣裳・髪形・被り物・持ち物によって区別されることも確かである。
「建治・弘安の頃は、祭の日の放免[ほうべん]の付け物に、異様[ことやう]なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心[とうじん]をして、蜘蛛の糸[い]描きたる水干に付けて、歌の心など言いて渡りしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそはべりしか」と、老いたる道志[だうし]どもの、今日も語り侍るなり。「建治・弘安の頃」とは、1275~88年の十数年間を指している。『徒然草』執筆の半世紀ほど前の鎌倉中期から後半をのことだ。紺色の布で馬の胴体、灯心で尾やタテガミをつくり、それを蜘蛛の糸を描いた水干に付けて、「歌の心」だ、と言って賀茂祭に参加したものだ。それは、大変に面白くしでかしたものだという気持ちがしたものだと、今も「道志」たちが昔語りにしている。道志というのは、「明法道の者で、衛門府の志[さかん]と検非違使の志を兼ねている者」という。検非違使庁の位は『国史大辞典』では、
この頃は付け物、年を送りて過差[くわさ]ことのほかになりて、萬[よろづ]の重き物を多く付けて、左右[さう]の袖を人に持たせて、みづからは鉾[ほこ]をだに持たず、息つき苦しむ有様、いと見苦し。
別当-佐[すけ]-尉[じょう]-志[さかん]-府生[ふしょう]-看督長-案圭[あんじゅ]-放免(庁下部)としているので、「志」はそんなに低くない役職であったことが分かる。昔はその役にあった老人たちが、下部[しもべ]の〈放免〉がやった、祭における趣向を語っている。
蜘蛛の糸に 荒れたる駒はつなぐとも 二道かくる人は頼まじを指しているのだそうである。当時流行の「歌」で、派手やかな祭の雰囲気にあう艶っぽいものが選ばれたのであろう。蜘蛛の糸の模様の入った水干を着て、大きな馬の作り物をぶらさげている〈放免〉を見て、だれもが笑い、また、感心したのだ。
ほこ【矛、鉾、戈】:両刃の剣に長い柄をつけた武器。刺突用。日本では、平安末期頃から薙刀などにとってかわられ、儀仗・祭祀に用いられるのみになった。なお、槍・鎗は鉾から武器として変化発展したもので、「鎌倉末期、徒歩集団戦の激化とともに盛行」とある(いずれも『大辞林』より)。
(上図の右端に)折枝に弓矢を結んで、差しかける男が続く。そのあとに四神の鉾。鞆絵[ともえ]の紋を置いた比礼[ひれ]が、風にはためく。ここにも獅子が踊り狂っている。頭[かしら]を上に向けたポーズがおもしろい。神輿が二つ。前なるは、素盞鳴尊の垂迹と伝える牛頭大王。男神なるがゆえに、鳳輦をもちいている。われわれの現代に知っている獅子舞とおなじものが、12世紀にあったことが分かる。獅子がおどけているのも今と変わらない。「四神」は例の青龍・白虎・朱雀・玄武の東西南北の天の神。「鞆絵」は巴と同じ。鉾の先につけた三角の布に巴紋がある。それによって、この鉾は武器としての性格よりもお祭りの祭祀用具として用いられていることが、明瞭に分かる(なお、上図では、ふたつ目の神輿、稲田姫の女みこしはカットした)。
「家衡が首もてまいる」とのヽしるに、義家あまりのうれしさに、「たれがもてまいるぞ」といそぎとふ。次任が郎等家衡が首を桙にさしてひざまづきて、「懸殿の手づくりに候」となむいひける。いみじかりける。みちの国には、手づからしたる事をば手作りとなむいふなる。「懸殿」は正しくは「縣殿」で「縣[あがた]の小次郎次任」を指す。日本国語大辞典の「なぎなた」を見ると、後三年の役のころにはじまり、室町中期頃まで盛んに用いられた、その後、更に改良された・・・・・・とある。そして、「なぎなた」の使用例で挙がっているのは、『平家物語』の「橋合戦」の場面で、僧兵が長刀をつかったという記述。(『平治物語絵巻』の詞には、残念ながら信西の首を括りつけていた薙刀を指す語は出てこない。)
官人秀能に仰せて、六条河原にして安楽を死罪に行なはるる時、奉行の官人に暇を乞ひ、一人日没[にちもつ]の礼賛を行ずるに、紫雲空に満ちければ、諸人怪みをなす所に、安楽申しけるは「念仏数百遍の後、十念を唱へんを待ちて斬るべし。合掌乱れずして右に臥さば、本意遂げぬと知るべし」と言ひて、声高念仏数百反の後、十念満ちける時、斬られるに言ひつるに違わず、合掌乱れずして右に臥しにけり。いずれにせよ、この二人は斬殺刑の執行人なのである。かれらは真の“穢れ[けがれ]役”であって、後鳥羽院という最高位から発せられた意志が斬殺刑として現実のものとなるとき、彼らは斬首によって発生する穢れのすべてを身をもって引き受けるのである。したがって彼らは、この世の通常の「幸福追求の世界」にははじめから参加していない、“向こう側”の存在である。向こう側の存在として、法秩序の最末端において“穢れ仕事”を行うのである。つまり、法執行の必然的にもたらす穢れの発生を、彼らは一身に引き受けるのである。その意味で、彼らは積極的に非人存在である、というべきであろう。
十念を唱える安楽房、これに身を寄せる立烏帽子を付けたひげづらの二人。いまにも安楽房の首を斬らんとしているこの二人は、使庁の下部とすべきであろうが、あるいはそれは河原者=清目[きよめ]ではなかったか、とわたしは推測している。(前掲書p10)検非違使庁が、その暴力的な仕事や汚れ仕事を最下位の下部[しもべ]=〈放免〉にやらせる。つまり、その官僚の階梯の最末端に〈放免〉がいて、その境界的な仕事を受け持ったのである。犯人を逮捕する際の実力行使・捕縛連行の強制・尋問における拷問など、〈放免〉は自分が「着ダの囚人」として既に体験してきていることを生かして、この境界的な仕事をこなしたのである。
小犬丸という人物と、その妻吉子が三条京極へ出かけた。ところが、そこで小犬丸が着ダ黒雄丸という者に故なく捕らえられ、西獄に入れられてしまった、というのが吉子からの訴えである。日付は、長元八年(1035)五月二日である。小論の観点から重要な点は、
この夫婦は、四月二十七日に榑[くれ]の交易のために三條京極へでかけた。すると、例の着ダ黒雄丸が突然小犬丸をからめ捕らえ、右衛門少志[しょうさかん]に事由を申して、西獄に禁固されてしまった(件着ダ黒雄丸、俄捕搦、申事由於右衛門少志、禁固西獄)。
そこで吉子は驚き、出向いて理由を聞くと、黒雄丸が言うには、「おまえの夫は、大和の源の前司のところの御牛飼である。かの前司の御牛飼の瀧雄丸という者は、われわれの同類である(彼前司御牛飼瀧雄丸我等同類也)。ところが、追捕される前に死んでしまった。吉子の主張
かの瀧雄丸が盗みをやったことを、小犬丸は近くにいた牛飼なのだからきっと知っている所があるだろう、だから捕禁したのだ。」「事情をもう一度よく考えてみると、小犬丸がかの源前司の御牛飼であるとしても、その事件のことは一向に知らない。かの前司の所で働いている者は相当数いる。近くにいた牛飼だといって、なぜ瀧雄丸という者の代わりにからめ捕るのか。検非違使庁の「裁」により、小犬丸は許された。
この以前、たびたび小犬丸と黒雄丸らは日常的に会っていたのに、このことを話していない。(常以相遇、不申此由)人を見て不正をなし、よりどころ無く捕禁した。(令依人成阿党、所捕禁、無所拠 阿党は“おもねる”)
愁いはこんなにヒドく甚だしい。ぜひ、おききとどけ下さい。」
(1) 「着ダ黒雄丸」という表現が出てきて、追捕される前に死んだ瀧雄丸のことを「我等同類也」と説明していること。このふたつである。
(2) この着ダ黒雄丸は検非違使庁の末端として働いており、小犬丸の逮捕・禁獄を行っていること。
佐延宅に看督長・放免・着ダらが入って来て、人を搦め、乱暴に捜索をしたという記述があり得たのであろう。
〈放免〉の原義は、囚人が刑期を満ちて放免されるという動詞的な意味であるが、それが、放免された者という「人」を指す語として定着した。そして、〈放免〉と〈着ダ〉のいずれもが、検非違使庁の末端の暴力的な実力分子として使役される場合があって、逮捕・拷問や死穢に触れる仕事などの際に働いていた、と考えることができる。小論冒頭で「中右記」の首立令持〈着ダ〉[首を立てて〈着ダ〉に持たしむる]を示したが、これこそ死穢に触れる仕事の典型であった。
〈着ダ〉の原義は、囚人に[金+太 ダ]を装着するという動詞的な意味であるが、それが、着ダされた者という「人」を指す語として定着した。
「着ダ政」[金+大]の原義は金属製の足枷、足に着けて囚人をつなぐ装置ということだが、日本では首枷として頸に着けたのかもしれない、と言っている。明治の学者は発想が自由で大胆なところがある。延暦十八年(799)六月に、桓武天皇が京中を巡るとき、堀川あたりで囚人を見て「暴体苦作」[体で暴れて、自分から苦しんでる]と感じたのは、原義に近い〈着ダ〉を意味しているのだろう、というのである。ところが、それから360年以上経ている「年中行事絵巻」の時代には、「着ダ政」において、足枷-首枷のようなものは見あたらず、ただ「索」によって縛り繋がれているだけのようだ。「後世には此の如くなりにたるや」と。
[金+大]は[金+甘]なり。邦語にカナギと云ひて囚人を連携する具なり、「史記平準書」及び其注に據りて考ふるに、鉄にて造り、左趾に着くる具なるを、「倭名類聚抄」には[月+豆]沓也とありて、鉄を以て頸に着くる具となし、「類聚名義抄」には[金+大]をクビカシとも訓せり。されば我邦の[金+大]は、頸に着けたるならん、「日本後記」に載せたる延暦十八年六月の詔に、[金+甘][金+巣]囚徒、暴体苦作とあるは、着ダの罪人を指せるにて、[金+大]を着け[金+巣]を用ゐたるが如し。而るに「年中行事」の「着ダ政の図」には、索を用ゐて衆囚の両臂と胸背とを連携せり、後世には此の如くなりにたるや。(以下略、原文は漢字カナ交じり、法律部三、p131)
囚人の両脇には放免たちが、大きな杖を肩にかれらを引き据え、と書いている。
鉾持ちの放免[ほうめん]そして、小松茂美は上掲左図の大鉾をもち特異なポーズをしている男について、一言も解説を加えていない。
二騎の郎従の後ろに、鉾を持って従う男が放免。「ほうべん」とも読ませている。流刑・徒刑を許されて、検非違使庁で使役される身分の賤しい者。郎従に従って雑役を務め、追捕使の一行にも加えられた。(前掲書p87)
火打袋このように、まったく違う説明になっている。しかし、『絵引』の説明の方がただしいことは言うまでもない。小松茂美は書誌学的な面では他の追随を許さないほどなのだが、『絵引』が得意とするような民俗的な生活場面には弱いようである。
流される伴大納言を送っていく検非違使や随兵の最後にいる男。下部の一人で、長柄傘持ちである。多分は検非違使の用いる長柄傘であろう。烏帽子をかぶり短袖の着物を着、裾のきれたような四幅袴をはき、裸足ではしっている。もっともみじめな服装といえる。その腰に火打袋をさげている。(中略)火打袋は火打金、火打石が入れてあり、火をおこすときに用いるものであり、旅にはなくてはならぬものであったから、親しい者の旅に出るときなど、これを餞別におくったのである。(後略)(第1巻p37)
西暦 | 表題 | 内容 | 根拠 |
701 | 律令の成立 | 獄令に「着ダ」とあり | 大宝律令 |
799 | 桓武天皇の勅、「暴体苦作」 | 「着ダ」が実施されていたらしい | 日本後紀 |
816 | 検非違使の初見 | 令外の官 | - |
1017 | 道長「放免着ダ等入来」 | 〈放免〉と〈着ダ〉が下部として使われている | 御堂関白記 |
1035 | 〈着ダ〉黒雄丸が小犬丸を捕らえた | 〈着ダ〉が使庁の下部として働いている | 秦吉子解 |
1108 | 源義親の首入洛 | 〈着ダ〉が首を立てて持って行列に加わる | 中右記 |
1165頃 | 「着ダ政」の絵図 | 索で縛り結ぶ「着ダ」となっている | 年中行事絵巻 |
1207 | 安楽房斬刑の場面 | 〈放免〉は形式化し死刑執行は「清目」 | 法然上人絵伝 |
1330頃 | 鉾と〈放免〉 | 〈放免〉は装飾過多に祭儀化した | 徒然草 |
下臈為先、先看督長十余人前行、首立令持〈着ダ〉、次検非違使、次郎従等と書いたことを理解したい、ということであった。
下臈をさきにした。まず看督長の十余人が前を行き、その後に〈着ダ〉に首を立てて持たせた。その次が検非違使、次が郎従ら。「首立令持〈着ダ〉」というのは、上の意味だと、わたしは考えている。〈着ダ〉はあくまで主語にはならず、命令の対象であるという構文なのだ。(首を立て、〈着ダ〉に持たしめる。首を立てたのは、首都の秩序である、とでも宗忠は言いたいのだろう。)なお、既述のように、この行列では鉾(薙刀)に首を括りつけたであろうと、わたしは考えている。
凡そ、諒闇の中、犯人の首だといって、入洛させる事、十分に議論を尽くして決めるべきだった。なかんずく、祈年祭も春日祭も以前のことである。触穢が天下に遍くひろまるのではないか。用心あるべき也。いうまでもなく、宗忠は、義親らの首五つを、(おそらく鉾に付けて)立てて捧げ持って歩いた〈着ダ〉に、何の配慮もしていない。その、行列の細部についてぬけめなく詳細に書き付ける能吏の筆で、記録しただけである。
但し(功労者の)正盛のことは、世間の人気はすごく、どうこう論ずることではない。