き坊のノート 目次

〈放免〉 と 〈着ダ〉




目次
(始) はじめに
(1)字の読みなどのこと
(2)『今昔物語集』の〈放免〉
(3)「年中行事絵巻」の〈放免〉
(4)『伴大納言絵詞』の〈放免〉
(5)〈放免〉の衣裳
(6)「徒然草」の〈放免〉
(7)「法然上人絵伝」の〈放免〉
(8)「秦吉子解」の、〈放免〉と〈着ダ〉
(9)「鉾」のこと、および〈放免〉についてつけたし
(終)おわりに





---  はじめに  ---

“金偏に旁が大”である字を[金+大]と表すことにしたい。JISフォントに含まれない字なので、やむを得ずこうするのである。音は「タ、ダ」である。
〈着ダ〉というのは「着[金+大]」と書くことにする。右の写真版を見てほしい。これは、[ちゃくだのまつりごと]と読む。[金+太]も同字である。(ユニコードと共に、表示しておく。U+91F1 U+9226


先ず問題を明らかにしておこう。
『中右記』の嘉承三年(1108)正月二十九日に、源義親の首が入洛するという大きな出来事を記録した記事がある(その一部を下に示している)。
平正盛の軍が山陰道から持ち帰った首五つを七条末河原で検非違使の一行が受け取る。検非違使らは西獄門まで行列を組んで進み、そこの樗樹に掛けて、さらし首にする。その検非違使の行列の描写のなかに、着[金+太]という語があるのである。

下臈為先、先看督長十余人前行、首立令持着[金+太]、次検非違使、次郎従等 下臈を先にしたので、まず看督長[かどのおさ]十余人が前に行き、着[金+太]に首を立てて持たせ、その次に検非違使、次に郎従らが進んだ。

状況を理解し易くするために、検非違使の一行が首を先に立てて行列を組むという場面を、『平治物語絵巻』の信西の首が都大路を渡されるところから借りてきてみる。義親の首の五十年後の、平治元年(1159)のことである。


薙刀に首がくくりつけられ、立てて持っている。両側を、刀に右手をおいている者と薙刀を小脇に挾んでいる者に守られ、その3人が先頭である。赤い衣裳に朱塗りの弓の二人は火長[かちょう、火丁とも書く]といわれる検非違使庁の一員。その火長を左右に配して、黒い馬に乗っているのが検非違使庁の廷尉[ていい]で、源資経[すけつね]である。その後ろに、甲冑を着けていない髭面が数人並ぶが、これが看督長であろう。上図ではカットしているが、その後ろに多数の騎馬武者らを従えている。
平治の乱では都で戦闘があったのだから、緊迫の度がまるで異なるので、嘉承三年の義親の首の場合には検非違使の一行がどれほど武装していたか、この図をそのまま類推することはできまいが、まるで見当違いということはないだろう。なお、白羽の矢は検非違使庁の印である。上図で、信西の首を持っている先頭の甲冑の者がなんなのか、不明である。下層の武士なのか、それとも検非違使庁の下級の者なのか、わからない。
義親の場合は、五つの首が立てて並べられたのであるから、上図より迫力があったかも知れない。



(1) 字の読みなどのこと

ちゃくだ 【着[金+太]】」は、日本国語大辞典に採用されている。
(「[金+太]」は、鉄製の鎖で足をつなぐ枷)令制で、罪人処理として囚獄司が徒役の罪人の足にあしかせをつけ、三,四人をつないだまま使役すること。ちゃくたい。
このあと『令義解』・『続日本紀』・『御堂関白記』・『色葉字類抄』からの用例が並ぶ。いずれも参考になるが、特に『御堂関白記』の用例が、われわれの参考になる。山中裕『御堂関白記全註釈』(高科書店1994)という、とても親切な本があり、素人にも容易に道長宮廷の一次資料に接することができる(御堂関白は藤原道長のこと、自著14巻が現存している)。

寛仁元年(1017)七月十三日条である。道長の前に検非違使の別当・藤原頼宗(道長の男)と右衛門権佐[うえもんのごんのすけ]・藤原章信らがいるとき、蔵人所の方で、声高に議論するのが聞こえてきた。その異常な状態を、調べさせた別当頼宗が道長に報告した。
声高の議論は、検非違使・藤原宗相と安倍守親との間で起こったことでした。守親が検非違使・宗相に抗議して言うには、佐延宅に看督長・放免・着ダらが入って来て、人を搦め、乱暴に捜索をした。担当の検非違使・平維光にわけをただしたら、贓物の捜索のために看督長らを遣わした、ということだった。
検非違使・宗相が、盗まれた「道長の金」の捜索で、強引なことをやったということらしい(山中裕前掲書の注による)。ともかく、検非違使庁の下役人等が佐延宅に入ってきて捜索したのだが、その実力部隊を「看督長・放免・着ダら」と表現しているのである(原文では佐延宅看督長放免着ダ等入来)。したがって、看督長は役人であるが、〈放免〉は元罪人で検非違使庁の最下等の暴力的な汚れ役を請けおうために雇われている者、「着ダ」は、足枷[あしかせ]をつけたまま働かせられている罪人ということであるが(字義通りに解釈すれば、こうなるということ)、〈放免〉の予備軍とも言えよう。
だが、捜索される方からすると、〈着ダ〉ほど怖ろしい者はないだろう。囚人が役人の暴力装置として使役されているのであるから、命令によって何をするかわからない。(ただし、ここで〈着ダ〉は〈放免〉と並列されている人間であることは疑えない。つまり〈着ダ〉と呼ばれる人間がいた、としか考えられないのである。この問題は後に再考する

日本国語大辞典は、まだ続く。このあと「ちゃくだの政(まつりごと)」という用例を立てている。
平安時代、東西の市で陰暦五月・十二月に行われた検非違使の行事。以来続けて行われ、江戸時代には囚人に擬した者を鞍馬村から召し、首に白布をかけ、鉄のあしかせをつけて、検非違使に笞で打つまねをさせた。軽罪の断罪をすませた意味であろうといわれる。ちゃくたいのまつりごと。
「検非違使の行事」のなかで、鉄のあしかせをつけて、笞刑を行ったこともあることがわかる。儀礼化して、江戸時代まで続けられたのである。

〈放免〉は、“無罪放免”などというときの“放免”のことなのだが、中古の律令時代に刑を満たした囚人を放免した後で、検非違使庁の下部[しもべ]として雇い、最下級の職につけた者をいう。拙論ではそれを〈放免〉と表記する。
〈放免〉は容疑者らの事情に通じていることがあり、追捕や囚人護送の最前線で、暴力を伴う“汚れ仕事”を行った。後世の「目明かし」や「岡っ引き」の前身とも考えられる。上で示したように、〈放免〉と〈着ダ〉(とよばれる人間)が一緒になって使われることもあった。

[金+太]は[金+大]と同じ字で、“金属製のあしかせ 足枷”のことである(どちらもJISにはふくまれていない)。“くびかせ 首枷”は「」で、これはJISにある。鉗子[かんし]という語がありますね。これら[金+太]、[金+大]、[鉗]はいずれも訓読みでは、[かなき、かなぎ]と読む。「金木」からきた読みであると、辞書は述べている。つまり、固い頑丈な木、の意味である。
したがって、金偏であるからといって、ただちに金属製の首枷や足枷であったと決める必要はないし、むしろ、古代にさかのぼるほど貴重な金属を使用する可能性は低くなるだろう。

実際、『令義解』の「獄令」の19(岩波・日本思想体系『律令』p460)は、大意つぎのようになっている。
流刑囚を使役するときは、ダ[金+太]か盤枷[ばんか、木製の枷]を装着させよ。病気の場合は脱がせてよい。巾[かぶりもの]は禁ずる。十日に一日休暇をあたえる。使役する院から外出することはできない。病気であった日数は、後に刑期に加算する。刑期が満ちたら、戸籍の地へ送り返す。
この「注」(p689)に『続日本紀』の例が引いてあって、私鋳銭を作った罪でとらえられた囚人が鋳銭司で使役されたことがあり、逃げないように足枷[ダ]に鈴をつけていたという。また、「囚獄式」には、着ダ囚は3,4人を一つなぎにして使役し、夜は「手かせ」[木+丑]を着けておいた、とある。

着[金+太]は、[金+太]を装着することで、読みは[ちゃくだ]である。囚人に足枷を装着することが儀式(民衆へのみせしめ)となっていたが、それを着[金+太]の政ちゃくだのまつりごと]という。以下では煩わしいので〈着ダ〉、「着ダの政」などと書くことにする。


「かなぎ」を引くと、たいていの辞書にでてくる『日本書紀』の孝徳4年の末に置いてある歌

かなぎ着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらんか
この「かなぎ」は馬の首に着ける「鉗」であるが、おそらく木製であろう。逃げださないように「かなぎ」を着けて自分が飼っていた駒を、「引出」せず(厩から出さないで)飼っていた駒を、誰かに見つけられたのだろうか、居なくなってしまった、という歌意。
「人見つらんか」は、男女の恋愛関係を「見る」と言ったことを念頭におくと、大事に保護していた妻が、誰かと恋仲になって去ってしまった、という失恋の嘆きが裏面にあることになる。

「かなぎ」のことに関係はないのだが、この孝徳4年紀(653)の歌が、あまりにも不思議な話とともに出ているので、ちょっと扱っておく。それは、

 (1)まず、この歌は孝徳天皇自身の歌であるとされていること。しかも、自分から去ってしまった皇后・間人[はしひと]に対して送った歌である。

 (2)そもそも、孝徳は「大化の改新」(646)(ないしは前年の「乙巳の変 いっしのへん」)で政権中枢に坐った天皇であり、政変の起こった地・飛鳥から都を難波へ移した。

 (3)ところが、白雉4(653)年に皇子である中大兄が、難波から飛鳥へ戻ろうと言い出し、皇后・間人も群臣もこれに従って、飛鳥へ帰ってしまう。孝徳天皇は難波宮でまったく孤立してしまう。上の歌は、その孤立状態で間人にむけて詠んだ歌であるというのである。孝徳は翌年(654)に難波宮で死亡する。

 (4)なぜか中大兄皇子は即位せず、皇極が重祚して斉明天皇となるが、661年には斉明は死亡し、天皇不在となる。中大兄が即位するのは、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗(662)するという大変動を経て、668年のことであり、天智天皇となる。しかし、どうも、納得のいかない流れである。その7年間、天皇制が途切れていたといえばまだスッキリするのに、「称制」というのだから、ますます分からない。いまだ万世一系時代にいるみたいだ。

上に掲げた歌を、もう一度読んでみてほしい。天皇が群臣らに裏切られ孤立し、自分を捨てて群臣らにしたがった皇后への“恨み節”だとして、ずいぶん変な歌である。農村で恋人に逃げられた男の恨みを材料にした民謡の一節、というぐらいの歌であろう。
なにか、重要な情報を伏せたまま、『日本書紀』はつじつまを合わせようと作文している、というふうに思える。本当は何が起こったのか、いまだよく分かっていない、ということだろう。



(2) 『今昔物語集』の〈放免〉

喜田貞吉に「放免考」(大正12年 1923)があり、『喜田貞吉著作集10』(平凡社1982)に収められているので読むことができる。ただ、かなり専門的な内容で、わたしなどは理解するのが容易ではない。
「放免考」の初めの部分で、「放免」の名前の由来などを考究しているので、それをとりまとめると
〈放免〉とは、放免囚(囚人が満期などで放免された者)が検非違使庁の最下級の役人として使われるようになった者をいう。
ぐらいになる。
つまり、囚人であった者を最下級の雑役として取りたてて、罪人を取り締まる側として使うのである。容疑者を捕らえたり、拷問したり、囚人に直接手を下す仕事や、汚れ役をこなしたようであるが、かつては囚人であった経歴から、独特の屈折した存在であった。つぎの『今昔物語集』は「放免考」が紹介しているものである(巻第二十九の第十五「検非違使が糸を盗みて見あらわされたること」)。
検非違使らがある家に盗人追捕に行った。追捕は無事終わったあとで一人の検非違使とその調度懸[武具などを持つ係の者]がしめし合わせて、その家から糸を盗もうとして袴の下に隠して出てきた。他の検非違使たちは袴がふくらんでいるのを見て犯行を察して、わざと水浴びをしようと言い出し、脱衣をはじめる。盗んだ検非違使は制止するのだが、結局、袴の下から糸が幾巻もごろごろ出てきてしまう。それを見て、他の検非違使たちはあわてて馬で立ち去ってしまう。

然れば看の長[かどのおさ]一人なむ其の糸をば拾い取りて、此の検非違使の従者[とものもの]に取らせけるに、従者も我にもあらぬ気色にてぞ、糸をば取りける。放免共此を見て、己れらがどち、ひそかに私語[ささめき]けるに
我らが盗みをして身を徒[いたづら]になして、かかる者となりたるは、更に恥じにもあらざりけり。かかることも有りけり
と云ひてぞ、忍びて笑ひ合ひたりける。
(岩波古典体系本『今昔物語集五』p164~)
この話で興味深いことは、検非違使の下にいくつもの階層があること(検非違使-調度懸-看の長[看督長]-放免)、しかも、その最下層にいる〈放免〉が、ケチな盗みをする検非違使を“恥ずかしいことだ”と言って、ひそかに笑い合っている。そのセリフのなかに、一度盗みをして囚人となって身分をもち崩し、いま〈放免〉となっている、ということを述べているのが貴重である。

同じ『今昔物語集』巻二十九には「放免ども、強盗せむとして人の家に入り捕らへられたること」という話がある。東獄の近くに住む放免どもが十名ほど、ある豊かな家に強盗に入り、事前に情報が漏れていて待ち構えていた五十人あまりの兵[つわもの]に捕らえられ、すぐに、全員死刑となった。この話は、比較的長い話だが、その最後の死刑になるところに、再犯の者に対する容赦のない評価があるので、引いておく。
夜明けて後に見れば、皆目をしば叩きて縛りつけられて有り。かかる奴原[やつばら]は獄[ひとや]に禁じたりとも、後に出でなば定めて悪しき心有りなむとおぼえにければ、さり気なくて、人にも知らせずして、夜に入りてひそかに外にゐて行きて、皆射殺させてけり。
東獄の近くに放免たちが集まって住んでいるような地域があったこと、また放免たちはかならずしも改悛者ではなく、ウマイ話があれば盗みや強盗をしかねないような者たちであると考えられていたこと、おそらく実際にそういう事例も多かったのだろう、などと考えられる。

『今昔物語集』巻二十九からもう1話、〈放免〉の登場するのを読んでおく。「鳥部寺に詣でし女、盗人にあへること」
物詣でを好む三十ばかりの女が、女童をひとり連れて、着飾って鳥部寺に行った。少し遅れて見ばえの良い「雑色男」が一人詣でた。その男は女童を引いて、手に触った。女童は怖がって泣き出したが男は女童を捕らえ刀を突きつけて「突き殺すぞ」といった。女童はおとなしくなって、衣を脱いで男に与えた。
男は主[あるじ]を引き、手に触った。主は「まことにあさましく怖ろしく思ぼゆれども、更に術[ずつ]なし」。男は、主を仏の後ろに連れていき、そこで二人は寝た。その後、男は主の衣を引きはぎ、「いとほしければ袴は許す」といって、取った着物をもって、山中へ去った。
女童が清水寺まで行き、わけを話して、二人分の衣を借り、鳥部寺の主に着せて家に帰った。

然れば心幼き[無思慮な、不用心な]女のあるきはとどむべき也。かく怖ろしきこと有り。その男、主と親しくなりなば、衣をば取らで去[]ねかし。あさましかりける心かな。その男、本は侍[さぶらひ]にて有りける、盗みして獄に居て、のち放免になりにける者なり。
この「雑色男」は、囚人であって放免されたが、検非違使庁の下部[しもべ]の〈放免〉とならず「雑色」となっていた、ということであろう。上掲論文で喜田貞吉は次のように書いている。
同じく放免と呼ばれていても、検非違使庁の下部の放免ではなく、いわゆる雑色男となっていた放免囚である。そしてやはり放免と呼ばれていたのだ。すなわち放免とは前科者ということで、必ずしも庁の下部に限った名称ではなかったのだ。(p273)
つぎの喜田貞吉の説明は、一般論として〈放免〉を理解するのに、役立つ。また、後に「非人」とされる者たちがどういうところから生まれていったかのひとつの展望を与えるものである。
(放免囚のうち〈放免〉の選に漏れた者たちは)各自本貫に帰ってもとの公民に立ち戻ったはずではあるが、犯人にはもともと戸籍帳外の浮浪民が多かったことでもあろうし、郷里に帰って正業につくというものはむしろ少数であったに相違ない。したがってその多数は、あるいは流れて河原者・坂の者・散所の者などの仲間に落ち込み、あるいは全くの浮浪民となって放浪し、あるいは生きんがために再び罪を犯して身を失うという類のものになったに相違ない。しかしてその中にも都合良くいったものは、しかるべき人の下人に住み込み、いわゆる雑色男となるものもあったであろう。(p272)
〈放免〉の議論と直接には関係ないのだが、『今昔物語集』には上の話のように、一人で行動している女が男に性を強要されることが案外多い。原文は「二人臥しぬ」という常套語である。女はイヤイヤながらであるが、拒めば殺害されるかもしれないと思って、“同衾した”という言い方になる。そこには強姦か和姦かという二分法では処理のつかない世界がある、と考えておくべきであろう。上引では「その男、主と親しくなりなば、衣をば取らで去ねかし。あさましかりける心かな」との興味深い批評がある。品悪くいえば“女と懇ろにやったんだから、衣まで取り上げなくても良かっただろう、エゲツナイ奴だ”というところか。この常識外れのエゲツナさを指摘しているので、つづく「その男、本は侍にて有りける、盗みして獄に居て、のち放免になりにける者なり」が生きてくるのである。
網野善彦は「童形・鹿杖・門前」(『異形の王権』平凡社1986所収)で、絵巻物のなかに「軽装で女性たちがさかんに旅をしている」姿をみつけて、つぎのように自問自答している。
こうした女性の一人旅に当たって、当然おこりうる危険を、彼女たちはどのようにして乗り切っていたのか、という疑問が直ちに生ずる。それは時代を遡れば遡るほど、一層大きかったからに相違ないからである。これに完全な解答を出すことはたやすくないが、私はこうした一人で旅をする女性の場合、性が解放されていたのではないか、と考える。(p71)
〈放免〉の議論に戻る。
『今昔物語集』の成立は1120年以降ということであるから、ここに出ている〈放免〉は、11,12世紀ごろ(律令期後半)の特徴を表していると考えてよいだろう。鎌倉時代から南北朝へかけての〈放免〉は華美な服装や賀茂祭での派手な様子が吉田兼好『徒然草』にまで取り上げられるようになる。それは〈放免〉の後期と言ってもよいであろうから、下で別にあつかう。

まず、この段階(律令期〈放免〉)までで、〈放免〉は二面性をもっていることがわかる。検非違使庁の末端として権力機構に属しつつも、元罪人であって社会的日常の埒外の存在であった、という二面性である。権力末端でありつつ前科者でもあるという境界的な存在であり、のちに「非人」のカテゴリーに入れられることになるのである。



(3) 「年中行事絵巻」の〈放免〉

「年中行事絵巻」の原本は近世初期に内裏の火事で焼失したが、住吉家本16巻などの模本が幾種か残っている。後白河院の文化活動のひとつとして原本60巻は作成された。1165年頃の成立とされる。宮廷主要の年中行事を中心に、1月から12月にわけて絵画化したものであったと考えられている。
住吉家本は模本とはいいながら良質なもので、第1巻~第7巻までが彩色が詳細にほどこされている。残りは白描で、「略模本」(小松茂美)とされる。ただし、原本には詞書[ことばがき]が在ったと推定されるが、模本には失われている。
第14巻が「着ダの政」[ちゃくだのまつりごと]の様子を描いたものである。まず、小松茂美の解説を引く。
着ダの政を描く。もともと、「[金+大]」[かなぎ]というのは、鉄の鎖で足をつなぐ枷[かせ]のこと。囚獄司が徒役の罪人の足に、足枷をつけ、三、四人をつないだまま使役した。この着ダの政は、東西の市[いち]で、五月と十二月に行われた検非違使の行事。未決の囚人を市中に連行して、足枷をつけ、罪過に応じて処置するさまを、市民にみせて、みせしめとする行事である。これは、東市における着ダの政を描くもの。(p69)
後白河院の時代の「着ダの政」の描写を目にすることができるというのは、有り難いことだ。文字情報と違って、行事の様子を一目で理解することができる。下図は、5場面ほどからなる第14巻の中心場面である(日本絵巻大成8『年中行事絵巻』中央公論社1977の、スキャナー映像)。なお、小松茂美は「鉄の鎖」と述べているが、上述のように、わたしは、かならずしも金属具であったとはかぎらないのではないかと考えている。


右に、取り締まりの検非違使庁の官人に弓で追いはらわれる見物の民衆が描かれている。第14巻全部を見ると、この中心場面全体を多数の民衆が取り巻いて見物している様子が、よく分かる描写になっている。

上部の幄舎[あくのや、あくしゃ]の中央に座しているのが左衛門佐[さえもんのすけ]、その左の虎の皮が置いてある空席は右衛門佐の席。(当初は左右の使庁があったが、天暦元年(947)には左右使庁を統合して左庁だけとした:官制大観・検非違使による。図の、右衛門佐が空席であるのは、そのことを意味しているのであろう。)その前に左右に分かれて3列の官人らの横列がある。更にその下には見物の牛車などの一部が描写してある。
左衛門佐の正面に、地上におかれた四角いものがあるが、これは儀式執行の位置を示す木で版位しるしのき]というもの。その版位にむかって一歩前に出ている者が左右一人ずついるが、これが看督長かどのおさ]で、着ダ執行を上申しているところ。3列の横列の第1列(一番上)は、みな看督長たちで、冠は巻纓[けんえい 纓を上にあげている]にして老懸[おいかけ [糸+委]]を付けている。(顔面左右の半月形の耳当てのようなもの、馬の毛でつくる。
これは武官の正装の姿である。

第2列(中央)にいて、曲りのある大きな棒状の物を肩にして坐っているのが放免であり、放免に引きつれられ、はいつくばっている髪や髭の伸びた者たちが囚人である。放免らの列を挾んで警護しているのが火長たちである。(以上は小松茂美の説明による
「火長 かちょう」を辞書で調べると、
検非違使の配下で衛門府の衛士を選抜したもの。看督長・案主[あんじゅ]を総称していう場合もあった。
とある。延喜式に左右衛門府で「およそ検非違別当には、(その警護に)随身・火長の二人を充てる」とあるように、「随身・火長」と並べて称されることが多かった。

囚人たちは無帽・裸足で、両腕の上腕を縛った綱を背中で縛ってじゅずつなぎになっている。〈着ダ〉の儀式であるのだから、[金+太][かなき]が準備してどこかに置いてあってよいと考えて、図の細部を調べたが、見あたらない。また、〈着ダ〉状態の囚人の描像もまだ見出していない。この点に関して、再考する。
上図では、よく分からないので、〈放免〉の右端の人物のみ切り取ったのが、次図である(理解を助けるために顔・手足のみ彩色した)。


左肩に曲がりのある棒を担いだ〈放免〉が囚人の肩をがっしりと右手で掴まえている。棒は地面に突かれているように見えず、完全に担いでいるようである。囚人はやせさらばえて衰えている。囚人を取り押さえているもう一人の官人は、棒を持たない。小刀を腰にしており、右腕を露わにして刀に手を掛けている(絵の全員が揃ってこの方式の体勢を取っている。「肩脱ぎ」と表現してよいようにも思う)。おそらく〈放免〉と同等の地位の最下級の官人のひとつであろうが、不明である。というのは、〈放免〉は必ず曲がりのある大きな棒を持つのが定型であるのかどうか、囚人に直接手を掛けて威圧し引率する役が〈放免〉だとすると、両者とも〈放免〉であるのかもしれない。また、この白描画では〈放免〉の着衣に模様があるのかどうか、「摺衣」であるのかどうか、不明である。
なお、「日本絵巻大成8」の解説、吉田光邦「『年中行事絵巻』考」で、
左右に囚人が繩でつながれて、左に七人、右に六人がいる。囚人をはさんで向こうにいるのは看督長[かどのおさ]、手前に描かれるのは随身である。囚人は地に腹ばうように押しつけられて、[金+大]をはめられるのであった。(p149)
と述べている。わたしは三列横隊という表現をとった。その第1列が「看督長」、第2列が囚人と〈放免〉、第3列が「随身」という説明を吉田光邦がしているのである。既述のように、小松茂美は「随身」のところを「火長」と言っていた。(「随身」は“貴人の警護につけられる、近衛府の官人”という辞書の説明を用いて、「火長」としておく。火長の赤ずくめの身なりは次節に『伴大納言絵詞』からの図像を掲げた。なお(図に対して)「右に七人、左に六人」が正しい

理解を助けるために、囚人と〈放免〉と右肩ぬぎで刀に手を置く官人の3者の列を、もう1個所、切り取って示す(顔・手足のみ彩色した)。


囚人の哀れに押しひしがれている様や、裸足にこのうえ更に足枷が付けられるのだろうかと、想像される。〈放免〉の持つ曲がりのある棒状の物は先が鋭く、鎗のような武器の意味もありうるように見える。太い根元側も先端が尖っているようにも見える。もちろん、見かけからする威嚇の効果も大きかっただろうが。前にも述べたが、棒を地面に突いている者はいないように見える。(後に示すが、『徒然草』は〈放免〉の持ち物として「」と言っているので、この曲がった大きな棒は「鉾」と称するのがよいだろう。この議論は改めて、行う
右腕を出している官人は、「右肩脱ぎ」で刀の柄に手を掛けていて即座の武力行使の体勢にある、と見られると思う。この二種の人物(曲がりのある大きな棒を持つ者と刀の柄に手を掛けている者)はいずれも〈放免〉であって、「着ダの政」における囚人に直接手を掛けて引率・威圧するという仕事において、〈放免〉がたんに異なる二つの役割をこなしている、ということなのかもしれない。



(4) 『伴大納言絵詞』の〈放免〉

『年中行事絵巻』の第15巻「関白賀茂詣」の中に、検非違使の一行が出ており、そのなかに〈放免〉が一人登場している。



一行の中でも、身分的には最下位であるはずの〈放免〉の担ぐ、長いくねった棒(鉾)が目立っている。腰をかがめた姿勢の意味は分からない(何か特別の装具を付けているのか。左手は描いてないように見えるが、懐手か)。しかし、何よりも強調したいのは、他の一行の者と違って衣裳に模様があるように見えることである。ただし、この〈放免〉の、向かって左手前の男の袴にも模様があるように見える。

〈放免〉の摺衣のことは古来有名で、議論がなされてきたのであるが、その話に入る前に、前節で扱った図との比較をしておく。そこで『年中行事絵巻』の第14巻「着ダの政」の〈放免〉の図を紹介したが、その白描画では、衣裳に特別の模様があるようには描いていなかった。〈放免〉だけでなく全員の衣裳について模様の描き込みがない。それは「着ダの政」という儀式では模様の付いた衣を身につけなかったということなのか、単に白描画が模様の表出を省略しただけであるのかも知れない。(同じ絵巻の巻であるが、上図の第15巻では色の指定(朱、アサギ、六(緑青)など)が文字でされているので、模本作成の時に詳細情報を書き入れた巻であったようだ。馬上の左衛門佐のすぐ後ろの灰色の人物は、看督長なのだろう、というように。したがって、第14巻では単に模様の表出を略した可能性がある。
『伴大納言絵詞』は、『年中行事絵巻』と同様、「後白河院芸術サロン」(小松茂美)での文化事業の一貫として作成された絵巻物である。小松茂美の労作「十二世紀絵巻制作一覧表」(「日本絵巻大成2」『伴大納言絵詞』の解説に所収p148)によると、治承二年(1178)頃の成立としている。
この『伴大納言絵詞』は幸いに原本が残っており、現在では美しい色彩の印刷本で自由に見ることができる。そのなかに、長大な曲がり棒を持った〈放免〉とみられる人物が2人登場する。

貞観八年(866)に応天門が焼失した。内裏全体の正門が朱雀門で、朱雀門を入ってすぐ内側の門が応天門である。これは八省院の正門にあたる。
この応天門焼失事件は、『宇治拾遺物語』に「伴大納言、応天門を焼く事」(古典体系本の114話)に詳しくいきさつが述べてあり理解に役立つ(なお、『伴大納言絵詞』の詞は中・下巻に残っており、それらは『宇治拾遺物語』とほとんど同一である)。
この話は、ふたつの話の筋からできている。ひとつは、応天門焼失は放火であり、放火犯は伴善男[とものよしお](伴大納言)であり、伴善雄は左大臣・源信[みなもとのまこと]が火をつけたと讒言する。清和天皇は讒言をもちいて左大臣を罪に落とそうとするが、藤原良房が慎重な判断をすべきだと諌言し、精査のうえ左大臣は許される。もうひとつの筋は、放火の現場を見ていたある舎人がいたが、関わり合いになることを恐れて半年ほども黙っていた。ところがたまたま舎人の隣家が伴大納言の下で出納の仕事をしている人物であった。両者の子供がとっくみあいの喧嘩をし、出納の男が喧嘩を止めたのだが、自分の子供は大事に扱い、舎人の子供には乱暴にした。舎人はそれに立腹し、腹立まぎれに伴大納言の放火の悪事をわめきちらしてしまう。それが公の耳にはいり、検非違使の登場となる。
つまり、天皇・大臣・大納言などの高位のものたちの話と、路地の子供の喧嘩に親が口を出すというような、ごく庶民的な世界とが絡むのが、とても面白い絵巻物の題材となっているのである。

次図は、伴大納言の邸に追捕に向かう検非違使一行のなかの〈放免〉である。馬上の人物が「追捕使の廷尉[ていい]」で、一行の長[おさ]である(検非違使の「佐」[すけ]か「尉」[じょう])。その後ろの赤ずくめの人物二人(赤い狩衣と朱塗りの弓)が、「火長」。


〈放免〉が持っている黒い曲がりくねった棒(鉾)に注目したい。藤づるにこういうのを見かけることがあるが、くねりつつまっすぐ延びた太蔓に細い蔓がからんでいる。そういうもののように見える。〈放免〉自身は体格が良く頑丈そうで、しかも、ある程度の年配者のようだ。白いものの混じった顎髭やいかめしい顔付きに威厳さえおぼえる。罪人から取りたてられた最下級の下部[しもべ]という位置づけにありがちの卑屈さや弱さはまったく感じられない。むしろ、この堂々たる描像からは意外な感じさえ受ける。

つぎの図は、『伴大納言絵詞』の最後近いシーンで、罪人となって伊豆に流される伴善男が八葉車に乗っていくのを、検非違使一行が送っている。その一行の中の〈放免〉である。
やはり曲がった棒(鉾)を持っているが、この人物は両手でしっかり棒の太い部分を押さえ持ち、脇にはさんでいるようである。しかも、図があいまいであるが、この棒の根本の方が鎗のように尖っているのか、他の飾り物が縛りつけてあるのか、鹿杖[かせづえ]のように叉になっているのか、何らかの構造があるように見える。ともかく、ここでのこの棒の持ち方は、鎗や棒術の棒などの持ち方に近い。
いったい、この曲がった長大な棒は何なのか、という問題もある。「杖は歩行の際に突くもの」とすれば、〈放免〉の棒は杖とはいえないが、しかし鹿杖は担いでいる図があるから、〈放免〉の曲がり棒は、杖との共通性があることは確かである。追捕の際の捕獲具か武器として使えそうであることは否定できないと思うが、それらを象徴する威嚇的な棒であるとすれば、「鎗」あるいは「鉾」と言ってもよいかも知れない。鎗の末端を石突きというぐらいで、地面について鎗を立てて片手で持つ、という持ち方もあるが、〈放免〉の棒は“鉄砲を担ぐ”ように担いでいることが多い。持ち方の点では鎗とは異なる。そして、これまでのところ下図のみが、担がないで両手で押さえ脇に挾んでいるという、なにかポーズをつけているような持ち方である。(これらの点は後に再度考えてみることにして、ここでは、そのままにして進む。

この棒を持つ〈放免〉は、年配といいヒゲの具合といい顔付きといい、上図の〈放免〉と同一人物の可能性もある、とわたしは感じている。しかし、なんと言ってもこの〈放免〉は手の込んだ柄物の水干を身につけているのが特徴である。網野善彦「摺衣と婆娑羅」(『異形の王権』所収)は、「菱襷文様のかなり派手な水干」と説明している(p10)。辞書によると「菱襷 ひしだすき」は「線を斜めに交差させた襷を連続させて菱形を形成した文様」とある。しかも、水干の下に赤い着物をつけているので、肩や腰の隙間から見えて色彩的な派手さをさらに演出している。なお、この場面でこの〈放免〉以外にも、馬に乗った長も、それに従う下部のうち3人までが同様に赤い下衣をつけている。二人の火長が全身赤づくめであることはもちろんである。


ところで、この図の一番奥の人物も、かなり手の込んだ模様の付いた水干を着ている。しかも、右手を刀の柄に置いている(肩脱ぎではないが)。これは、『年中行事絵巻』で考察した〈放免〉とペアで囚人を抑えつけていた人物と同じ下部ではなかろうか。ここでも、棒を持つ〈放免〉と並んでいるのは、ペアが意識されているとも言いうるだろう。棒を持つ〈放免〉と同じように派手な模様の衣を身につけていて、同じようなひげ面であることから、この男も〈放免〉の一種と考えてよいのではないだろうか。
そうだとして、この二人がいずれもかなり年配で、経験豊かな表情と態度をしているのは、偶然ではないような気がする。伴善男の流刑地(伊豆)への護送に、もっとも経験のある〈放免〉を使うことによって護送の重大さを演出し、この絵巻の最後の雰囲気を盛り上げようとしているのではないだろうか。つまり、ここでもペアの意識で、このふたりの〈放免〉が描かれている、と考えうるのである。



(5) 〈放免〉の衣裳

〈放免〉が派手な衣裳を身につけることに関して、『江談抄』に「賀茂の祭に放免綾羅を着る事」という条がある(第1の8)。(『江談抄』は大江匡房(1041~1111)が語った談話を俊才といわれた藤原実兼(1085~1112)が筆録したもの。12世紀初めには成立した。原漢文を岩波「新日本古典文学大系」32は、書き下し文にして脚注をつけてくれたので、参照しやすくなった。
匡房先生がおっしゃった「放免が、賀茂の祭で綾羅を着ること、知っているかどうか」と。
「由緒を調べましたが、いまだ弁えません」とお答えした。

「賀茂の祭の日、桟敷の席で、隆家[たかいえ]卿が斉信[ただのぶ]卿にお尋ねになった。“放免が綾羅錦繍[りょうらきんしゅう]の服を着用して検非違使の行列の中にいるのはなぜでしょうか”と。

斉信卿は“非人の故に禁忌を憚らざるなり”と答えた。
すると公任[きんとう]卿が“それなら放火殺害を犯した人物なのに、禁止しないのか。他の罪人の場合はみな刑罰を加えられている。美服を着ることについてなにか拠になる証文が有るのか”と尋ねられた。

斉信卿は答えて“贓物所より出で来る物を染めて文あやを摺り成せる衣・袴など、件の日、掲焉けちえん、派手でめだつの故に着用せしむるところか”と言った。
公任卿はとても納得なされたということだ。」
(黒字は、わたしが意味を取ってわかりやすく書いたところ。緑字は新古典文学大系の読み下し文のままなお、匡房と実兼の『江談抄』として記録された会話は12世紀初頭と考えてよいだろうが、若い実兼に匡房は自分より70年ほど昔の人々の対話を語り伝えている。公任966~1041、斉信967~1035、隆家979~1044。したがって、斉信の話の内容は、11世紀前半の賀茂祭で、すでに〈放免〉が派手な染衣を着ていたことの証言になっているのである。

「臓物所」について、新古典文学大系の脚注(後藤昭雄)は、次のように述べている。
贓物は不正に取得した品物。令制の刑部省所属の官司に贓贖司があり、罪人の財産の没収分配、贓物や罪の償いに供出された金品の収納などをつかさどった。贓物所は同様の性格の検非違使庁管下の所か。(p9)
贓物の布を摺り染めて、派手でめだつ衣・袴をわざと作って着用させたのだ、という説明である。公任はその説明に納得したのである。「非人」という存在の非日常性を、一目で分かる派手な服装で際立たせたのだ、とわたしは理解したい。
しかし、斉信の説明でわたしが注目したいのは、「贓物」の利用ではなくて、文を摺り成せる衣・袴など、件の日、掲焉の故に着用せしむといって、文[あや]の模様が出ている着衣を問題にしている点である。「綾羅錦繍」という文字にまどわされて、金糸銀糸をつかった贅沢な衣裳と誤解しそうだが、ここで問題になっているのは、「文」[あや]なのである。つまり、文様が摺り出されていることが、禁忌の対象であったのであって、使用されている色そのものは問題にされていない。
着衣の色については、役人の位階に応じて厳重な取り決めがあったことは知られている(聖徳太子の「冠位十二階」とか、持統天皇の「六十階服色」とか。そして律令の服色。色彩と色目というサイトが便利です)。その場合、基本は単色である。つまり、単色の色そのものが「掲焉」であることを問題にしてはいないのである。このこと自体、きわめて興味深いことである。

斉信が「非人」といっていることが注目される。網野義彦はこの「非人」について「早い用例の一つである」(前掲書p12)といい、「この非人は、11世紀後半に現れる職能集団としての「非人」ではないと思われるがその先駆的な用例と見てよかろう」(同p34)と述べている。差別視して見下しているというより、この「非人」は通常人ではなくタブーの埒外の存在である、といいたいように感じられる。〈放免〉は通常人に適用される禁忌の埒外の存在である、というのである。すなわち、存在からして非日常的なものである、という言い方ではないか。

『江談抄』は、賀茂祭の呼びものの行列で検非違使の一員として〈放免〉は「綾羅錦繍」の服を身に付けているという事実がはっきり分かる点でも貴重な文章である。
賀茂祭で、賀茂神社へ宮廷から勅使が行くのに、検非違使が警護のために先頭を切って進んだ、というのが原義だが、警護が形式化して検非違使の一行そのものが華美を競うようになっていったのである。華美を禁止する令がたびたび出されているが、その効力は一時的なもので、数年のうちにすぐさま華美が流行してしまう。(賀茂祭は長い歴史を持つ祭であるが、途中幾度か中断があり、変遷もしている。葵祭は江戸時代に再興されて以降の通称、フタバアオイの葉をシンボルとして使うようになったから。これは徳川氏の援助と関連があるか。現代のように斎王代を主役とした行列となったのは昭和30年代以降のこと。

「摺衣」[すりぎぬ、すりごろも]とは、「摺り染め」によって布を染色したものをいうが、藍の葉・忍草・色の着く花などで木版の型に貼りつけた布を擦って着色するようだ。『貞丈雑記』(1843年成立)の分かりやすい説明を参照してみる。
板に草木花鳥などの形を彫刻[ゑりきざ]みて、ひめのりを布に包みて、その木型の上を打ちてのりを付くるは、絹布のすべり動かぬ為なり。のりをあさあさと付置きて、その上に布又は絹などをかけてよく押しつくれば、木型の所高くなるなり、それを藍の葉または色々の花を銘々に布に包みて、布絹などのおもてを摺れば、草木花鳥の絵あらはるるなり。(三の30 「広文庫」より重引)
布あるいは糸を染料に浸けて単色に染めるというのではなく、「藍の葉」などを用いて部分的に染色するというのである。ちょっと考えれば分かるように、部分的な染色の際は、何か文様を染め出すということになるのはほとんど必然的である。綾などを織り出すのに比べて、比較にならないほど手軽な方法である。
『江談抄』のいう「綾羅」は、このようにして摺り染めされた「文」のついた衣裳のことなのである。わたしなどには不思議な気がするが、摺衣を着ることが禁じられていた。網野義彦「摺衣と婆娑羅」から。
摺衣を着ることが通常の場合「禁忌」であったことは、『政事要略』に引かれた「弾正式」に「摺染成文衣袴等、並不得着用 摺染が文[あや]をなす衣袴など、並に着用を得ず」とある点から明らかであるが、「但縁公事所着、并婦女衣裾不在禁限 但し、公事に縁して着るところ、ならびに婦女の衣裾は禁限に在らず」ともいわれ、天長二年(825)、仁和二年(886)、延長四年(926)の宣旨によって「行幸之時、執鷹供奉」する鷹飼が摺衣の着用を認められたように、「公事」に関わる特定の職掌の者に、許されることもあった。(p11)
なぜ、「摺衣を着ることが通常の場合『禁忌』であった」のだろう。「奢侈の禁止」が目的なのだろうか。「奢侈の禁止」という世俗的な理由がなかったとは言いにくいが、鷹匠のような特別の職掌のものや、〈放免〉が「非人」のゆえに特に許される、というような点からすると、世俗的な理由だけでは説明できないのではないか。摺衣に何らかの咒性を認めていたがゆえの「禁忌」と考えざるをえないであろう。
摺衣は「文」染めであることが特異なのであり、文様が染め出されている衣裳を着ることが、なんらかの非日常的な呪性を意味する装束であった、と考えられる。
網野善彦は、前引に続いて、次のように述べている。
『江談抄』で分かるように)11世紀前半、放免については、賀茂祭という特別の日のことではあるが、この服制の「禁忌」はすでに完全に破られていたのである。(p11)
実際、後白河院時代(12世紀後半)以降の絵巻物しか見ることのできない現代、文様が摺り出された衣裳を着ている登場人物が相当多数であり、「摺染」禁止であったとはとても考えられないことは間違いない。それにも拘わらず、絵巻物に残っている〈放免〉(といわれている人物)や稚児や修験者や聖などが、特異な衣裳・髪形・被り物・持ち物によって区別されることも確かである。

ここでは、ひとまずこれだけにしておいて、衣裳論などがどのようにアプローチしているのか、勉強してみる。現代のように、どんな奇抜なコスチュームでも可能な時代にあっても、電車の中で服装をみると、ほとんどの人が単色ないし格子柄のような単純な幾何学的模様の衣類を着ている。
アロハシャツのような柄プリントは、「遊び着」であったり女性の普段着であったりするのが普通である。すくなくともフォーマルな衣類ないし仕事着ではないと認識されているように思われる。この社会的な通念は強固なものがあるのではなかろうか。

わたしのことを言えば、わたしは衣裳についてはとても保守的で、せいぜい夏のTシャツに文字や図柄がプリントしてあるのを着るぐらいである。「髪を染める」ことが現在は日本では一般化してしまって、なんら特別のことではなくなっているが、それでも、「普通の」「男の」「サラリーマン」には少ないだろう。わたしの認識では、いまの日本で「男」で髪を黄色く染めているのは、プロスポーツ選手や学生や自由業などにほぼ限られている。ピアスをする男についても、類似のことが言えると思う。ネックレスをする男はどうであろう。ブレスレットはどうか。
わたしは、仮面-化粧というような領域に関心を持っているが、「衣裳」や「持ち物」などがその周辺領域に拡がっていることを予想している。この領域についていずれ考究してみたいと思っている。




(6) 「徒然草」の〈放免〉

吉田兼好『徒然草』の執筆は「元徳二年の末から翌元弘元年の秋にかけて」(1330~31)の頃だという(「古典体系本」の西尾実の「解説」p56)。鎌倉幕府の終わり頃にあたる。その第221段の全文を、読みやすく漢字を宛てて書き直す。
 「建治・弘安の頃は、祭の日の放免ほうべん]の付け物に、異様[ことやう]なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心[とうじん]をして、蜘蛛の糸[]描きたる水干に付けて、歌の心など言いて渡りしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそはべりしか」と、老いたる道志[だうし]どもの、今日も語り侍るなり。
 この頃は付け物、年を送りて過差[くわさ]ことのほかになりて、萬[よろづ]の重き物を多く付けて、左右[さう]の袖を人に持たせて、みづからは鉾[ほこ]をだに持たず、息つき苦しむ有様、いと見苦し。
「建治・弘安の頃」とは、1275~88年の十数年間を指している。『徒然草』執筆の半世紀ほど前の鎌倉中期から後半をのことだ。紺色の布で馬の胴体、灯心で尾やタテガミをつくり、それを蜘蛛の糸を描いた水干に付けて、「歌の心」だ、と言って賀茂祭に参加したものだ。それは、大変に面白くしでかしたものだという気持ちがしたものだと、今も「道志」たちが昔語りにしている。道志というのは、「明法道の者で、衛門府の志[さかん]と検非違使の志を兼ねている者」という。検非違使庁の位は『国史大辞典』では、
別当-佐[すけ]-尉[じょう]-志[さかん]-府生[ふしょう]-看督長-案圭[あんじゅ]-放免(庁下部)
としているので、「志」はそんなに低くない役職であったことが分かる。昔はその役にあった老人たちが、下部[しもべ]の〈放免〉がやった、祭における趣向を語っている。
《蜘蛛の糸と馬》が「歌の心」の判じ物になっているのであるが、現代人にはまるで分からない。西尾実の頭注によると、
蜘蛛の糸に 荒れたる駒はつなぐとも 二道かくる人は頼まじ
を指しているのだそうである。当時流行の「歌」で、派手やかな祭の雰囲気にあう艶っぽいものが選ばれたのであろう。蜘蛛の糸の模様の入った水干を着て、大きな馬の作り物をぶらさげている〈放免〉を見て、だれもが笑い、また、感心したのだ。
「過差」は「分に過ぎること、不相応なぜいたく」。近頃は“付け物も、年々、ドギツクなってねえ”というところだろう。“重い物を沢山付けるものだから、左右の袖を人に支えてもらい、鉾を持つこともできないで、荒い息をついているのは実にみっともない”。
実際にこういう事があったかどうかは別として、〈放免〉の賀茂祭での趣向が年々「過差」になっていった、ということ、衣裳に飾り物をいろいろ付けるのだが奇抜な思いがけない物を付ける競争になったということだろう。化粧/オシャレ/持ち物/ファッション/乗用車にうつつを抜かす現代の日本人と、その発想はそんなに変わっていない。

わたしの関心からすると、吉田兼好が(〈放免〉のくせに)「みづからは鉾をだに持たず」と述べたことが重要である。祭で趣向を凝らして観衆を楽しませる〈放免〉であるが、本来、必ず持つべきである鉾さえ持つことができない、これは許容限度を越えている「過差」ではないか、という書き方をしていると思えるからである。つまり、〈放免〉には鉾がつきもので、いつも持っているものだ、ということが前提になっている。
とすると、これまで紹介してきた絵巻物に登場する曲がりくねった長大な棒を担いでいる〈放免〉は、鉾を持っていると言われてきたのだ、ということになる。

しかし、そうなると、別の疑問も出てくる。たとえば、辞書でいう「」は通常次のようなものであろう。
ほこ【矛、鉾、戈】:両刃の剣に長い柄をつけた武器。刺突用。日本では、平安末期頃から薙刀などにとってかわられ、儀仗・祭祀に用いられるのみになった。
なお、槍・鎗は鉾から武器として変化発展したもので、「鎌倉末期、徒歩集団戦の激化とともに盛行」とある(いずれも『大辞林』より)。
『年中行事絵巻』第9巻「祇園御霊会」に、獅子舞や神輿を先導する「四神の鉾」が描かれているが、これが「儀仗・祭祀に用いられる」鉾の典型的なものであろう。この場面はあまり儀式張らず、ごく庶民的な和気あいあいとした祭りの行列の様子が描かれている。


小松茂美の解説を少し抜き出してみる。
上図の右端に)折枝に弓矢を結んで、差しかける男が続く。そのあとに四神の鉾。鞆絵[ともえ]の紋を置いた比礼[ひれ]が、風にはためく。ここにも獅子が踊り狂っている。頭[かしら]を上に向けたポーズがおもしろい。神輿が二つ。前なるは、素盞鳴尊の垂迹と伝える牛頭大王。男神なるがゆえに、鳳輦をもちいている。
われわれの現代に知っている獅子舞とおなじものが、12世紀にあったことが分かる。獅子がおどけているのも今と変わらない。「四神」は例の青龍・白虎・朱雀・玄武の東西南北の天の神。「鞆絵」は巴と同じ。鉾の先につけた三角の布に巴紋がある。それによって、この鉾は武器としての性格よりもお祭りの祭祀用具として用いられていることが、明瞭に分かる(なお、上図では、ふたつ目の神輿、稲田姫の女みこしはカットした)。

上図のようなものが普通に解されている「鉾」だとすると(わたしはそう思う)、これまでいくつか示してきた〈放免〉が担いでいた曲がった長大な棒は、果たして「鉾」といって良かったのだろうか、という疑問が生じる。別の言い方をすると、『徒然草』が言う〈放免〉が担いでいるべきだという「鉾」とは、どのようなものであったのだろう。(これについて、以下で、ひとつの答を与えている。

鉾と薙刀・鎗の関係も重要であろう。上で『大辞林』の記述を紹介したが、小論冒頭で、『平治物語絵巻』から信西の首が薙刀に括りつけられて入京し行進している図を紹介した。『後三年合戦絵詞』には、家衡の首が薙刀の刃に突き刺されて義家の陣所に届けられる図がある。次任が義家から女房装束を賜っているところで、その後ろに郎等が首を突さした薙刀を地面に立てて控えている。


後世のわたしたちの目にはこれは薙刀であるが、鉾と薙刀と鎗が未分化の平安末にはこれらのいずれをも「鉾」といった可能性がある。実際、『後三年合戦絵詞』の詞は、次のようになっている。
「家衡が首もてまいる」とのヽしるに、義家あまりのうれしさに、「たれがもてまいるぞ」といそぎとふ。次任が郎等家衡が首を桙にさしてひざまづきて、「懸殿の手づくりに候」となむいひける。いみじかりける。みちの国には、手づからしたる事をば手作りとなむいふなる。
「懸殿」は正しくは「縣殿」で「縣[あがた]の小次郎次任」を指す。日本国語大辞典の「なぎなた」を見ると、後三年の役のころにはじまり、室町中期頃まで盛んに用いられた、その後、更に改良された・・・・・・とある。そして、「なぎなた」の使用例で挙がっているのは、『平家物語』の「橋合戦」の場面で、僧兵が長刀をつかったという記述。(『平治物語絵巻』の詞には、残念ながら信西の首を括りつけていた薙刀を指す語は出てこない。
これらの資料によって、「鉾、桙」などという当時の記述が、後世の用語の薙刀や鎗までを含むものであることは、明らかである。



(7) 「法然上人絵伝」の〈放免〉

渋沢敬三編著『日本常民生活絵引』(角川書店1968)の第5巻(p71)に、つぎの検非違使庁の一行が取り上げられているが、表題は「放免」である。わたしはこの図によって〈放免〉を強く印象づけられた(ここの場面の『日本常民生活絵引』の説明は、後の歴史学者らによって大きく訂正されているので、わたしは丹生谷哲一『検非違使』(平凡社選書1986)にしたがう。そして、「続日本絵巻物大成」の『法然上人絵伝 (中)』(中央公論社1981)を参照する)。
右手に扇、左手に弓をもち切斑[きりふ]の矢を負って、白い狩衣に赤い単衣[ひとえぎぬ]が引き立ち、毛沓[けぐつ]をはいている中心人物が使大夫尉・藤原秀能[ひでよし]。「威儀を正している」という丹生谷哲一の評が重要である。なぜなら、この使大夫尉の視線の前方では、信者からの人気の高い安楽房(法然の弟子)が、後鳥羽院の逆鱗に触れ、南都の宗門による専修念仏弾圧の意向もあって、処刑されようとしているからである。
使大夫尉の右手の赤い狩衣で白い布袴、弓矢を持つのが看督長[かどのおさ]。彼は、検非違使庁の実行部隊の長[おさ]であり、気遣うようにこの場の中心人物である使大夫尉をふり返っている。

左の二人は濃紺の狩衣に大きな模様がめだつが、これが〈放免〉である。ひとりは大きなくねりのある蔓の巻きついた棒(桙)を右肩にかついでいるが、狩衣の右袖を抜いて着ていて、右腕が肩脱ぎになっている。その口ひげ・顎ひげも異形な様態を強調している。
〈放免〉らの前にいる橙色の狩衣に朱塗りの弓と白い矢の人物が火長[かちょう]、垂髪の童姿の人物は小舎人童[こどねりわらわ]。右手の赤い狩衣の巻纓・老懸の人物は看督長(『年中行事絵巻』ですでに紹介した)。


この場面は、建永二年(1207)二月、法然の弟子・安楽房が、六条河原で斬刑に処されるところである。その場面(下図)を、検非違使庁の代表として使大夫尉が見守っているのである。すなわち、使大夫尉・藤原秀能のおっとりした端正な顔の視線の先には、死刑執行の修羅場があるのである。
この場における使大夫尉の役割は、“威儀を正して見届ける”ということであるが、その意味を強調するかのように、検非違使庁の下部らの視線は、すべて使大夫尉に集中している

使大夫尉・藤原秀能の視線の達するところに、鴨川ベリで安楽房が静かに手を合わせて立っている。下図では省略しているが、この画面の右手には対岸に多数の信者・見物人が安楽房の最後を見ようと詰めかけている。人々の姿が丁寧に描かれている。たまりかねて、川を渡ろうと子供の手を引いて川に入っている男までいる。

だが、安楽房の後ろにいる二人の異様な人物が問題である。彼らは、白地に〈放免〉が着ているのと似た大きな植物紋を摺染めた狩衣をきている。頬ひげや顎ひげが〈放免〉と同じように見えるので、類似の「非人」の人物であることは分かる。だが、彼らはギョロ目にすこし笑みをたたえて、両手の仕草が異様である。〈着ダ〉の紐を解き、安楽房のに最後の十念を許し、念仏の終わるのをまっている。胸高に差した黒い刀が強調されている。(この二人が紐を持っているように見えるが、その姿勢は囚人を拘束する紐つまり〈着ダ〉の紐をいま解きほどいたことを示しているというのは小松茂美の『法然上人絵伝』の解説による。

『法然上人絵伝』の詞書は次のようになっている。
官人秀能に仰せて、六条河原にして安楽を死罪に行なはるる時、奉行の官人に暇を乞ひ、一人日没[にちもつ]の礼賛を行ずるに、紫雲空に満ちければ、諸人怪みをなす所に、安楽申しけるは「念仏数百遍の後、十念を唱へんを待ちて斬るべし。合掌乱れずして右に臥さば、本意遂げぬと知るべし」と言ひて、声高念仏数百反の後、十念満ちける時、斬られるに言ひつるに違わず、合掌乱れずして右に臥しにけり。
いずれにせよ、この二人は斬殺刑の執行人なのである。かれらは真の“穢れ[けがれ]役”であって、後鳥羽院という最高位から発せられた意志が斬殺刑として現実のものとなるとき、彼らは斬首によって発生する穢れのすべてを身をもって引き受けるのである。したがって彼らは、この世の通常の「幸福追求の世界」にははじめから参加していない、“向こう側”の存在である。向こう側の存在として、法秩序の最末端において“穢れ仕事”を行うのである。つまり、法執行の必然的にもたらす穢れの発生を、彼らは一身に引き受けるのである。その意味で、彼らは積極的に非人存在である、というべきであろう。


丹生谷哲一は、この場面を次のように書いている。
十念を唱える安楽房、これに身を寄せる立烏帽子を付けたひげづらの二人。いまにも安楽房の首を斬らんとしているこの二人は、使庁の下部とすべきであろうが、あるいはそれは河原者=清目きよめ]ではなかったか、とわたしは推測している。(前掲書p10)
検非違使庁が、その暴力的な仕事や汚れ仕事を最下位の下部[しもべ]=〈放免〉にやらせる。つまり、その官僚の階梯の最末端に〈放免〉がいて、その境界的な仕事を受け持ったのである。犯人を逮捕する際の実力行使・捕縛連行の強制・尋問における拷問など、〈放免〉は自分が「着ダの囚人」として既に体験してきていることを生かして、この境界的な仕事をこなしたのである。
だが、上図で登場した刑執行人は、〈放免〉の従事したような境界的な仕事ではなく、はっきりと“向こう側の”仕事なのであった。それは、全面的に穢れけがれ]ており、穢れ-清浄の観点からすると、逃れようのない“向こう側”であった。つまり「非人」である。

検非違使庁は「令外の官」だが、警察業務の全般を引き受け、その仕事の重要性から権限がつぎつぎに拡大し、強い権力を持つようになった。が、その武力・実力行使をともなう業務は、武士の存在と重なるところがある。武士の存在が重みを増していくにしたがって、検非違使の存在は形式化していった。
平安末期になると院政の軍事組織である北面武士にとって代わられ、さらに鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ、侍所に権限を掌握される(この部分、ウィキペディアを利用)。つまり、検非違使の仕事の実質を武士が取って行くにしたがって、検非違使の存在は形式化し、その下部の〈放免〉の存在は誇張され、祭などで装飾的な扱いをうけるように「記号化」していった、のである。



(8) 「平安遺文」の「秦吉子解」の、〈放免〉と〈着ダ〉

小論を書きはじめたきっかけは、「長谷部信連を巡って」の(6.2) 伯耆の長谷部信連に「中右記」から〈着ダ〉を引用したからであった。そこで、戸田芳実『初期中世社会史の研究』に「秦吉子解」(平安遺文528)からの引用が示してあって、そこに〈着ダ〉は「使庁の手先である放免」と解説がついていたのである。わたしは、その戸田芳実の解説の意味が分からず、勉強を始めたのである。

さて、「秦吉子解」というのは、秦吉子という女性に対して、検非違使庁が下した判断()のことである。これは「平安遺文528」として誰でも図書館で参照することができる。(平安遺文』は竹内理三によって校訂・出版された平安時代の文書資料の集成である。金石・文書・索引・題跋の全15巻で、多くの図書館に備えられている。東京大学史料編纂所では、“フルテキスト・データベース”をネット上で公開しているので、容易に検索ができる。ただし、本文は公開されていない。データベース選択の画面で、「平安遺文フルテキストDB」を選択すれば、入り込める。

小犬丸という人物と、その妻吉子が三条京極へ出かけた。ところが、そこで小犬丸が着ダ黒雄丸という者に故なく捕らえられ、西獄に入れられてしまった、というのが吉子からの訴えである。日付は、長元八年(1035)五月二日である。

この夫婦は、四月二十七日に榑[くれ]の交易のために三條京極へでかけた。すると、例の着ダ黒雄丸が突然小犬丸をからめ捕らえ、右衛門少志[しょうさかん]に事由を申して、西獄に禁固されてしまった(件着ダ黒雄丸、俄捕搦、申事由於右衛門少志、禁固西獄)。
そこで吉子は驚き、出向いて理由を聞くと、黒雄丸が言うには、
「おまえの夫は、大和の源の前司のところの御牛飼である。かの前司の御牛飼の瀧雄丸という者は、われわれの同類である(彼前司御牛飼瀧雄丸我等同類也)。ところが、追捕される前に死んでしまった。
かの瀧雄丸が盗みをやったことを、小犬丸は近くにいた牛飼なのだからきっと知っている所があるだろう、だから捕禁したのだ。」
吉子の主張
「事情をもう一度よく考えてみると、小犬丸がかの源前司の御牛飼であるとしても、その事件のことは一向に知らない。かの前司の所で働いている者は相当数いる。近くにいた牛飼だといって、なぜ瀧雄丸という者の代わりにからめ捕るのか。
この以前、たびたび小犬丸と黒雄丸らは日常的に会っていたのに、このことを話していない。(常以相遇、不申此由)人を見て不正をなし、よりどころ無く捕禁した。(令依人成阿党、所捕禁、無所拠 阿党は“おもねる”
愁いはこんなにヒドく甚だしい。ぜひ、おききとどけ下さい。」
検非違使庁の「裁」により、小犬丸は許された。
小論の観点から重要な点は、
(1) 「着ダ黒雄丸」という表現が出てきて、追捕される前に死んだ瀧雄丸のことを「我等同類也」と説明していること。
(2) この着ダ黒雄丸は検非違使庁の末端として働いており、小犬丸の逮捕・禁獄を行っていること。
このふたつである。
つまり、この資料において〈着ダ〉という語句は、単に犯罪人という意味で使用されているということ、そして、彼らは時に検非違使庁の末端の分子として働いていた、ということである。〈着ダ〉の黒雄丸は、いまだ刑期の明けていない「盗犯」者であるということを自覚しているからこそ、捕まるまえに死んだ(「盗犯」のまま死んだ)瀧雄丸を「我等同類也」と吉子に対して、説明したのである。

近代社会からすると、こういう説明が成立しうることに驚く。近代社会では、「罪のある者」と「罪のない者」とは明確に分かれていて、前者は刑に服しているか逃亡している(お尋ね者)かのいずれかしかありえない(という建前)である。だが、わたしたちがいま見ている11世紀半ばの日本社会では、「盗犯」者であっても検非違使庁の末端の暴力装置として雇われて働き、しかも、自分の個人的利害を加えた裁量を行っていたのである(しかも、それを証する詳細な公的文書が残っている)。つまり〈着ダ〉は、本来は囚人であるべきだが身柄拘束や足枷装着などを受けておらず、一定の自己裁量で行動しつつ、検非違使庁の末端として働いている。
このように見てくると、検非違使庁の末端として働いている〈放免〉と〈着ダ〉の違いはあまりなく、両者は並存しさしたる区別なく活動していたと思える。それゆえに前述のように『御堂関白記』で
佐延宅に看督長・放免・着ダらが入って来て、人を搦め、乱暴に捜索をした
という記述があり得たのであろう。

再確認しておく。
〈放免〉の原義は、囚人が刑期を満ちて放免されるという動詞的な意味であるが、それが、放免された者という「人」を指す語として定着した。

〈着ダ〉の原義は、囚人に[金+太 ダ]を装着するという動詞的な意味であるが、それが、着ダされた者という「人」を指す語として定着した。
そして、〈放免〉と〈着ダ〉のいずれもが、検非違使庁の末端の暴力的な実力分子として使役される場合があって、逮捕・拷問や死穢に触れる仕事などの際に働いていた、と考えることができる。小論冒頭で「中右記」の首立令持〈着ダ〉首を立てて〈着ダ〉に持たしむる]を示したが、これこそ死穢に触れる仕事の典型であった。

上の確認が正しいとすると、原義だけを示している辞書は不充分だということになる。そう思って『古事類苑』で〈着ダ〉を調べていたら、明治時代に『古事類苑』を編集した際の編者の解説に次のようなものがあり、意を強くした。
   「着ダ政」
[金+大]は[金+甘]なり。邦語にカナギと云ひて囚人を連携する具なり、「史記平準書」及び其注に據りて考ふるに、鉄にて造り、左趾に着くる具なるを、「倭名類聚抄」には[月+豆]沓也とありて、鉄を以て頸に着くる具となし、「類聚名義抄」には[金+大]をクビカシとも訓せり。されば我邦の[金+大]は、頸に着けたるならん、「日本後記」に載せたる延暦十八年六月の詔に、[金+甘][金+巣]囚徒、暴体苦作とあるは、着ダの罪人を指せるにて、[金+大]を着け[金+巣]を用ゐたるが如し。而るに「年中行事」の「着ダ政の図」には、索を用ゐて衆囚の両臂と胸背とを連携せり、後世には此の如くなりにたるや。(以下略、原文は漢字カナ交じり、法律部三、p131)
[金+大]の原義は金属製の足枷、足に着けて囚人をつなぐ装置ということだが、日本では首枷として頸に着けたのかもしれない、と言っている。明治の学者は発想が自由で大胆なところがある。延暦十八年(799)六月に、桓武天皇が京中を巡るとき、堀川あたりで囚人を見て「暴体苦作」[体で暴れて、自分から苦しんでる]と感じたのは、原義に近い〈着ダ〉を意味しているのだろう、というのである。ところが、それから360年以上経ている「年中行事絵巻」の時代には、「着ダ政」において、足枷-首枷のようなものは見あたらず、ただ「索」によって縛り繋がれているだけのようだ。「後世には此の如くなりにたるや」と。

律令の初め頃(奈良時代、8世紀)には、字義通り囚人に対して〈着ダ〉が行われた形跡があるが、時代を経るにしたがって、実態は律令と離れてきて(検非違使そのものが「令外の官」である)、刑期が満ちて“放免された”囚人を検非違使が「下部」として使役することがあり、〈放免〉と呼ぶようになった。さらには、刑期中の囚人を〈放免〉予備のように使役する事も行われた。それを〈着ダ〉と呼んだ。
そうすると、〈放免〉と〈着ダ〉の境界もぼやけ、並列して「放免着ダ等」が入来したという『御堂関白記』(1017)の時代となる。院政時代になると北面武士が警察業務の実質を奪うようになり、検非違使の存在が形式化してくる。それに合わせて、〈放免〉は華美で怖ろしげな風を装う(派手な服装や巨大な棒=鉾)ことになった。監獄行政や警察行政が形式化して行くにしたがって、〈着ダ〉という存在は消滅していった(のではないだろうか。仮説として提出しておく)。
吉田兼好が賀茂祭の〈放免〉の華美な衣裳を笑ったのは、検非違使という行政がすでに消えてしまった後の、鎌倉末期の時点でのことである。でも、面白いことに、その実質は無くなったのに、〈放免〉の華美な衣裳と身動きできないほどの修飾物で、賀茂祭の行列に〈放免〉は残っていたのである。
こういうあたりが、後期〈放免〉である。

『古事類苑』は日本史文献の百科辞典のような大変に便利な集成である。明治12年(1879)に、文部省が編纂を始め、東京学士院・皇典講究所・神宮司庁と事業が引き継がれ、完成は明治40年(1907)である。洋装本51冊の大きなもので、多くの図書館が備えている。事項別に記事が編集して集めてある点が利用にとても便利である。「索引」を上手に使って求める記事の所在を知り、必要個所をコピーして使う。現状では、この使用法を勧めます。
ネット上で利用することもできる。検索は、『平安遺文』で紹介したのと同じ、東京大学史料編纂所のデータベース選択の画面で「古事類苑-総目録・索引」を選んで入ればいい。反応はとても速く、出てくるデータは“洋装本”の冊数-ページ数。
国会図書館には、画像データで『古事類苑』全文を公開している。PDFファイルで自由にダウンロードすることも可能で、必要な個所が判明していれば、便利である。近代デジタルライブラリーに入って、検索で“古事類苑”を入力。ところが、これは“和装本”なので、上の史料編纂所のデータベースからのデータは、役に立たない。嗚呼。





(9) 「鉾」のこと、および〈放免〉についてつけたし

第6節「徒然草と〈放免〉」で、〈放免〉が持つという鉾について議論した。そして、鉾-薙刀-鎗が未分化な状態であって、後世のわれわれが考えているような区別が意味を持たない可能性があることを知った。その観点から絵巻に登場する〈放免〉が担いでいる、大きな「曲がり棒」をもう一度見直してみた。
まず、次の、二つの拡大図を見てもらいたい。いずれも、上でみてもらった図の一部である。

    

は、第4節で扱った『伴大納言絵詞』から。鎗のように「曲がり棒」を両手で持ち、それを脇にかいこんでいるように見える〈放免〉である。この棒の先端は、単なる棒の先ではなく、尖った鎗の穂のようになっている。はっきりしないが、金属の穂先をくくりつけているとも見られる。だとすれば、これはまさしく、鉾であって、杖ではないことは明瞭である。仮に、金属ではなく「曲がり棒」の太い側の先端を尖らせたものだとしても、それは鉾を模したもの、と言うことができよう。
は、第7節で扱った『法然上人絵伝』から。濃紺摺染の狩衣の右袖を抜いて、「曲がり棒」を担いでいる〈放免〉である。しかし、この棒の先端には飾り物風の鉾先のようなものがついているのが明瞭である。おそらく、金属製の鉾先であるだろう。いうまでもなく、これは杖ではなく、「曲がり棒」という表現もふさわしくないぐらい、はっきりとした鉾である。

つまり、〈放免〉らが持っているのは巨大な独特の曲がり柄のついた鉾であって、彼らはそれを必ず担いで持ったのである。そして、左図が、唯一の鎗を構えるように両手で構えている例である。この特別な姿勢は、この鉾を攻撃的に使おうとしている決めポーズなのではないだろうか。そう考えることによって、第4節で指摘しておいた、奥の右手を刀の柄において瞬時に敵を切ることのできる姿勢をとっている、もう一人の〈放免〉(とわたしは考えているのだが)と、姿勢が合っていることになる。
異様な曲がり柄のついた巨大な鉾は、穢れを意に介さない〈放免〉ら、検非違使庁の下部らの呪術的な象徴だったのであろう。ぐねぐねと曲がった巨大な柄のついた鉾を見る者は、なにがしか呪術的な威圧を覚えたのであろう。それが、警察権が武家権力のなかに包摂されていくにしたがって、〈放免〉の存在が形式化していき、彼らの活躍する場面も祭儀の際の装飾過多の行列の人気者となっていった。

この鉾は、通常は担いでおり、攻撃的に使う際には鎗のように突き出す、と考えてよいであろう。だとすると、この巨大な鉾を、薙刀や杖のように立てて持つことはない、ということになる。
小論のきっかけとなったのは、『中右記』が、源義親の首の入洛の際、「〈着ダ〉に、首を立てて持たしめた」と記録していることであった。〈着ダ〉と〈放免〉を厳格に区別する意味はあまりないことは、既述の通りであるが、この場合、〈放免〉の「曲がり柄の鉾」を使ったのではなく、おそらく、薙刀に括りつけて立てて行進させた、のであろう。

なお、祇園祭の山鉾巡行[やまほこじゅんこう]は、非常に大仕掛けな「山鉾」を山車にして引き回す、祭の呼びものである。おそらく、〈放免〉が担いでいた鉾を原形として、室町期以降に京都が都市として発展をとげるにつれて、祭の大規模化・装飾の巨大化が図られる中で、「山鉾」になっていったのであろう。小論のテーマからあまりにも離れるので扱わないが、山鉾巡行の先頭を占めるのが長刀鉾であるということが、その間の事情を述べているように思われる。


もうひとつ、つけ加えておきたいことがある。小論で利用した絵巻のほとんどは小松茂美の解説であるが、じつは、小松氏は、小論が〈放免〉として掲げてきた、派手な摺染の衣裳をまとい、特徴的な曲がり柄の鉾をもった人物を、「放免である」とはいちども書いていないのである。ただし、『年中行事絵巻』の白描の「着ダ政」の場面は、
囚人の両脇には放免たちが、大きな杖を肩にかれらを引き据え、
と書いている。
小松茂美が「放免」と明記しているのは、次図である。これは、『伴大納言絵詞』のなかの伴善男を流刑にする検非違使一行の行列の、しんがりの人物である。(この行列の先頭部に、上掲左図の鎗のように曲がり柄の鉾を構えた〈放免〉がいる。


小松茂美の解説を引いてみる。
鉾持ちの放免[ほうめん]
二騎の郎従の後ろに、鉾を持って従う男が放免。「ほうべん」とも読ませている。流刑・徒刑を許されて、検非違使庁で使役される身分の賤しい者。郎従に従って雑役を務め、追捕使の一行にも加えられた。(前掲書p87)
そして、小松茂美は上掲左図の大鉾をもち特異なポーズをしている男について、一言も解説を加えていない。
しかし、なによりも不審なのは、このみすぼらしい身なりの男が担いでいるのが鉾であると、どうして分かるのだろう。細い柄に長い袋掛けをしているのは、傘ではなかろうか。
『日本常民生活絵引』(第1巻)は、同一の男を取り上げていて次のように解説を付けている。「火打袋」と題している。
火打袋
流される伴大納言を送っていく検非違使や随兵の最後にいる男。下部の一人で、長柄傘持ちである。多分は検非違使の用いる長柄傘であろう。烏帽子をかぶり短袖の着物を着、裾のきれたような四幅袴をはき、裸足ではしっている。もっともみじめな服装といえる。その腰に火打袋をさげている。(中略)火打袋は火打金、火打石が入れてあり、火をおこすときに用いるものであり、旅にはなくてはならぬものであったから、親しい者の旅に出るときなど、これを餞別におくったのである。(後略)(第1巻p37)
このように、まったく違う説明になっている。しかし、『絵引』の説明の方がただしいことは言うまでもない。小松茂美は書誌学的な面では他の追随を許さないほどなのだが、『絵引』が得意とするような民俗的な生活場面には弱いようである。
長柄傘を持ち運ぶ様子は絵巻にいくらでも出てくる。貴族・僧侶などの一行の末尾に見つけることができる。『年中行事絵巻』には、同一場面にふたりの傘持ちが描かれているところさえある。


この場面は巻1「朝観行幸」の待賢門まえの大路で行列の先陣を整えるのに混乱しているところ。前掲書(p4~5)だが、この場面には上掲の傘持ち以外に、あと二人の傘持ちが描き込まれている。




---  おわりに  ---


小論で、これまでいくつか掲げてきた資料を年代順に表にしてみる。〈放免〉と〈着ダ〉について、律令制の中で、様々の変遷があったらしいことが、次表でもうかがえると思う。

西暦表題内容根拠
701律令の成立獄令に「着ダ」とあり大宝律令
799桓武天皇の勅、「暴体苦作」「着ダ」が実施されていたらしい日本後紀
816検非違使の初見令外の官
1017道長「放免着ダ等入来」〈放免〉と〈着ダ〉が下部として使われている御堂関白記
1035〈着ダ〉黒雄丸が小犬丸を捕らえた〈着ダ〉が使庁の下部として働いている秦吉子解
1108源義親の首入洛〈着ダ〉が首を立てて持って行列に加わる中右記
1165頃「着ダ政」の絵図索で縛り結ぶ「着ダ」となっている年中行事絵巻
1207安楽房斬刑の場面〈放免〉は形式化し死刑執行は「清目」法然上人絵伝
1330頃鉾と〈放免〉〈放免〉は装飾過多に祭儀化した徒然草

8世紀の初頭に大宝律令が成立しており、唐の制度を日本に移し入れようとした。“「着ダ」する”とか刑期が満ちて「放免」するというような、原義のまま(おそらく建前だけでも)実施された時期があった。それから1世紀以上経て、「令外の官」として、京の警察機能を行う検非違使庁ができた。都市民の日常生活と最も密着している治安維持・安寧確保の仕事であるから、使庁の仕事の最先端は、“裏事情”に通じており暴力行使や穢れを意に介さない「放免」された者=〈放免〉が重宝されたのである。〈放免〉=“前科者”と〈着ダ〉=“徒役囚”との違いは、それほどなかったと考えられる(この点で、近代法の時代とは大きく異なっている)。

〈着ダ〉は、本来は徒役囚(「着ダ」されている者)ということになるが、律令成立の当初はともかく時代を経るにしたがって、笞打ち・杖打ち・徒役などをふくめて“有罪犯”の意味で〈着ダ〉と称したのではなかろうか。目端の利く有罪犯にめをつけて“使庁で使役されれば懲役なしにしてやる”というような交換条件が出されたのではなかろうか。(これは筆者の想像で、資料のよりどころがあるわけではない。
小論ではさまざまな角度から〈放免〉と〈着ダ〉について照らし出してみて、これらが、律令制下で変遷し来たったことに対し、あらためて注視することができれば、それで十分である。
上表では、9~10世紀の資料が不足している。〈放免〉〈着ダ〉のできるだけ早い例を今後も、探してみる必要がある。11世紀前半には、すでに賀茂祭のときに〈放免〉は「非人」であるからとして、派手な衣裳を許されていた(『江談抄』)。時代が下って武士の存在が大きくなるにしたがって(北面の武士、鎌倉政権)、検非違使庁は形式化していき、〈放免〉は警察権の呪術的象徴として、祭儀のときだけでなく日常的に派手な摺染衣裳を身につけ曲がり柄の鉾を担いでその異様を誇示したのであろう。〈着ダ〉にはそのような“発展”は見られず、おそらく穢れ仕事をこなす下部として存在し続けたのであろう。あるいは「清目」との関連が考えられるかもしれない。

さて、わたしのモチーフは、源義親の首が入洛したとき、都全体の穢れを気に病んでいた『中右記』の筆者・藤原宗忠が、
下臈為先、先看督長十余人前行、首立令持〈着ダ〉、次検非違使、次郎従等
と書いたことを理解したい、ということであった。
下臈をさきにした。まず看督長の十余人が前を行き、その後に〈着ダ〉に首を立てて持たせた。その次が検非違使、次が郎従ら。
「首立令持〈着ダ〉」というのは、上の意味だと、わたしは考えている。〈着ダ〉はあくまで主語にはならず、命令の対象であるという構文なのだ。(首を立て、〈着ダ〉に持たしめる。首を立てたのは、首都の秩序である、とでも宗忠は言いたいのだろう。)なお、既述のように、この行列では鉾(薙刀)に首を括りつけたであろうと、わたしは考えている。

『中右記』の藤原宗忠は、上に続けて、次のような「触穢」を心配する文章を書いている。“前帝の諒闇中であるというのに、義親らの生首を都へ入れることで、触穢が天下に行きわたってしまう”という危機感である。
凡そ、諒闇の中、犯人の首だといって、入洛させる事、十分に議論を尽くして決めるべきだった。なかんずく、祈年祭も春日祭も以前のことである。触穢が天下に遍くひろまるのではないか。用心あるべき也。
但し(功労者の)正盛のことは、世間の人気はすごく、どうこう論ずることではない。
いうまでもなく、宗忠は、義親らの首五つを、(おそらくに付けて)立てて捧げ持って歩いた〈着ダ〉に、何の配慮もしていない。その、行列の細部についてぬけめなく詳細に書き付ける能吏の筆で、記録しただけである。
「天下に遍く触穢がある」ということを心配しているとき、宗忠の「天下」には〈着ダ〉は含まれていないのである。〈放免〉や〈着ダ〉らは、その埒外の存在なのだ。「非人」というのは、この意味だとおもう。

つまり、「非人」が差別であるのは、差別される者と差別する者の間に、なんらかの同質性が前提とされているからなのだ。それは、中世後半になってはじめて生まれてくる。われわれが向きあっている宗忠の時代(12世紀初頭)は、「非人」はまったく“向こう側の存在”であったのである。「非人」は差別によってではなく、穢れによって成立しているのである。

それにもかかわらず『今昔物語集』の世界では、〈放免〉の雑色と寺詣の好きな女との交情は、あったのである。あったけれど、雑色は“えげつなかった”のである。





2008年3月3日


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