き坊の ノート 目次


長谷部信連を巡って      大江 希望




目次


第1章  序
その1  平家物語の70年間
その2  鹿ヶ谷事件
その3  高倉天皇
その4  後白河院と清盛入道
その5  清盛のクーデター

第2章  以仁王令旨
その1  閑院流藤原氏
その2  八条女院および皇子・皇女
その3  「以仁王令旨」本文
その4  金光明最勝王経
その5  散位宗信および十郎蔵人行家
その6  令旨と宣旨
その7  「以仁王令旨」の東国でのシンボル性
その8  十郎蔵人行家

第3章  長谷部信連
その1  熊野ルート
その2  源大夫判官兼綱
その3  信連の戦闘
その4  『玉葉』と『山槐記』の五月十五日夜
その5  『吾妻鏡』の長谷部信連

第4章  源頼政の人と戦い
その1  人物
その2  悪源太義平
その3  「やさ男」という賞賛
その4  多子邸との交換
その5  三位昇進
その6  出家
その7  蜂起
その8  牒状
その9  討ち死

第5章  以仁王の周辺
その1  文章博士・宗業
その2  定家
その3  道尊・北陸の宮など
その4  式子内親王
その5  笛・梁塵秘抄

第6章  伯耆の長谷部信連






第1章  序

その1  平家物語の70年間
その2  鹿ヶ谷事件
その3  高倉天皇
その4  後白河院と清盛入道
その5  清盛のクーデター




(1.1) 序(その1  平家物語の70年間)

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 長谷部信連[はせべのぶつら]は平家物語に現れる最初の戦闘場面の中心人物である。ただひとりで、平家から差し向けられた部隊を向こうに回して、胸のすくような大活躍を演じるが、多勢に無勢、結局捕らえられて六波羅に引っ立てられる。

 『平家物語』全12巻において、「信連」という章があるのは第4巻である。(小論で、今後たんに『平家物語』というばあいは、岩波日本古典文学大系32,33の『平家物語』上下をさすものとする。これは、いわゆる「覚一本」を底本としている。)
 『平家物語』は伊勢平氏の正盛・忠盛・清盛の3代が徐々に繁栄をはじめるところから始まり、彼らが公家社会に入り込み、ついには全盛期において清盛は天皇の外戚となり独裁的権力を持つに至る。これがこの物語のひとつの流れである。と同時に、平家の横暴なやり方が敵を作りだし滅びの原因を作りだしていく、というのがこの物語を構成するもうひとつの考え方である。第1巻冒頭の「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」によく表されているように、繁栄を極める平家はその繁栄の中に衰亡の原因をばらまいており、滅びはじめると急転直下、すさまじい速さで壇ノ浦の滅亡まで駆け下りる。
 治承3年(1179)11月の清盛のクーデターが平家政権の頂点を極めたときと考えることができるが、安徳天皇の即位は翌年治承4年(1180)2月のことである。だが、そのわずか4年後、寿永2年(1183)7月に平家一門の都落ちがあり、壇ノ浦の滅亡が文治元年(1185)3月である。

 第1巻の冒頭の「祇園精舎」の短い章のあと、忠盛が36歳で昇殿を許されて殿上人となった際のエピソード「殿上闇討」[てんじょうのやみうち]が実際に起こったのは、長承元年(1132)3月である。忠盛は国守を歴任して財を積み、鳥羽院のために得長寿院をつくる。その功績が認められて「内の昇殿」が許されたのである(清涼殿の殿上の間の出入りが許されること。単に「昇殿」といっても同じであるが、鳥羽院が許したので「院の昇殿」ではなく、天皇についての正式の昇殿であることをはっきりさせるように「内の昇殿」と断ったもの。この時の天皇は崇徳)。
 『平家物語』の歴史物語としての時間が流れはじめるのは、この辺り(12世紀30年代)からである。『平家物語』を読んでいくのに、12世紀の30年代から90年代末までの70年間の時間の尺度は重要である(年表の98年「六代斬首」としたのは、清盛の曾孫の六代が源氏の追及を受けついに斬首された年のことである)。しかも、平氏繁栄の頂点は、上述のように、治承4年(1180)ごろにあるのだから、この70年間の前半50年は上昇、続く5年間ほどで平氏は一気に滅亡するのである。そのあと鎌倉幕府は平家の男系子孫を根絶やしにする。この残酷な速度を理解することは重要である。“人力牛馬による時代だから歴史がゆっくり進展しただろう”と考えるのは、実際にはあたっていない。
 歴史物語としての『平家物語』の時間が流れはじめる始点として、「殿上闇討」をすこし引用しておく(引用はできるだけ体系本に合わせるが、読みやすいことを重視して、漢字表記などは体系本にこだわらない。他の文書からの引用についても同様である)。

しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願 得長寿院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏をすへ奉まつる。供養は天承元年[(1131) 正しくは翌長承元年(1132)であることは上述の通り]三月十三日なり。・・・上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。(上p84)

この「得長寿院」について「三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏をすへ」と説明しているので、現存する三十三間堂(蓮華王院)と混同しやすいが、後者は後白河上皇が得長寿院をまねて作ったもの。前者は1185年の地震で消滅した(冨倉徳次郎『平家物語全注釈』上p46~47に詳しい)。

 上の引用の「忠盛備前守たりし時」というところに注目しよう。国守を歴任して蓄財していくこと、これは荘園が発生しつつある院政期の重要で有力な処世だった。貯えた財を朝廷政権の出来るだけトップに近い位置にいる有力者に差し出すことによって、みずからの地位を確保していく。中・下級貴族たちは、地方に足場を持ちつつ中央の有力者(院・天皇や上流貴族・寺社)と結びつくことによって、蓄財と貴族としての地位の上昇を果たそうとした。源氏・平家などの「軍事貴族」と呼ばれる者たちもその点はなんら変わりがなかった。
 わたしたちの関心にとっては、後々、中央政権にいた平家がなぜ山陰の土地勘を持っていたかが重要なので、「備前守」という山陽側の国名にも注意を払いたいのだが、幸いに山陰側の記録があって、忠盛は保安元年(1120)伯耆守に任ぜられている。
 忠盛の父・正盛は11世紀末に隠岐国守に任ぜられており、12世紀初頭に因幡国守になっている。彼が伯耆守に任ぜられたかどうか確かめられないが、隠岐-因幡の任国を経験していることは、わたしたちの探求にとって意味があると思う。つまり、平家全盛を迎える12世紀70-80年代のすでに1世紀前から、平家は国守という形で、[隠岐-因幡-伯耆]の山陰に勢力を伸ばし、土地勘を持っていたのである。「大山寺縁起」に忠盛が登場することなど、後に改めて取り上げる。
 彼ら平家の長がどれだけ親しく頻繁にこれらの地に足をのばしたかどうかは分からないが、その配下や縁者がこれらの地に出かけ、土着の者と結びつきみずからの支配下に取り込もうと努めたと思われる。土着側からすれば、中央の有力「軍事貴族」と結びつくことの有利さはいうまでもない。





(1.2) 序(その2  鹿ヶ谷事件)

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 『平家物語』の中で、最初に平家打倒の陰謀が語られるのは、第1巻にある「鹿谷」(ししのたに)である。現在はこの京都市左京区の如意ヶ岳のふもとの地名をシシガタニというので、通常「鹿ヶ谷事件」とよぶ。治承元年(1177)の春のことである。
 鹿ノ谷の俊寛僧都[しゅんかんそうず]の山荘に、俊寛・後白河法皇・静賢[じょうけん]法印・大納言成親[なりちか]・平判官康頼[へいはんがんやすより]・西光[さいこう]法師・多田蔵人行綱[ただのくらんどゆきつな]らが集まって、平家の横暴を批判し、うっぷん晴らしの宴会をたびたび催していた。興が乗ると後白河が得意な今様にのせ、平家打倒の寸劇を「猿楽」にして、即興で演じることもあった。
 『平家物語』では、成親が左大将にならんとして執着し、あちこちの神社で祈り・呪詛を行ったことが書かれる。成親は殊に後白河院の「ありがたき寵愛の人」であったとされるが(巻二「大納言死去」)、他にこの鹿ヶ谷事件の陰謀に集まった者たちも院の近臣たち・北面の武士などに限られていた。したがって、鹿ヶ谷事件は本格的な陰謀計画とまではいかない“不平をぶつけ合う仲間うちの会合”という程度であったと思われる。冨倉徳次郎の前掲書の評語を参照しておく。
摂津源氏行綱以外は(後白河)法皇のまったくの側近がその主体である。他には「北面の輩多く与力した」とあるが、きわめて限られたもので、おそらくはごく少人数の間で平家討伐の内々の話しあいがあった程度にとどまるものと考えられる。法皇の私兵ともいうべき北面の武士と、その武士から出世して検非違使の尉になった者[けんびいしのじょう 平判官康頼のこと]、武力の点からいっても問題にならないのである。(上p173)
 この陰謀は、多田蔵人行綱が裏切って、清盛に直接通報したことで後白河院を除いた一味全員が捕らえられて終わる。西光は直ちに首をはねられ、成親は備前国へ流されて殺される。俊寛・康頼・成経(成親の子)が鬼界が島に流される話は有名である。

 清盛は中心人物の後白河院を鳥羽殿に幽閉する。さらには鎮西(九州)へ流すことも考えるが、重盛の説得で思いとどまることになっている(巻二「教訓状」)。これが史実かどうか難しいところのようだが(たとえば冨倉前掲書p289~290)、保元・平治の乱(1156,59)を武力の果断な実行で乗り切った経験に立つ清盛が、後白河院政を武力をもった実力で押さえ込もうとする構想を抱いていたことは充分考えられる。
 この段階で都とその周辺には平氏-清盛の実力に抗することのできる勢力は、寺社勢力を除くと存在しなかった。ところがこの鹿ヶ谷事件は、後白河院と比叡山の対立の真っ最中に起こっており、院によって伊豆に流されようとした座主明雲を比叡山の「悪僧」たちが、大津で奪い返したばかりである。そのため、清盛が西光を斬首した直後比叡山大衆[だいしゅ]は、院に対する共同作戦を平家に提案してきたという。兼実の日記『玉葉』を引用して解説している水原一『平家物語』の頭注を参照する。
(明雲奪還の後)院側としても叡山側としても引っこみがつかないのである。不穏な睨み合いの最中に(奪還から七日後)、突如清盛は鹿谷の陰謀者を一網打尽に処断する。話題一転と見えるが、叡山にとっては清盛様々で、西光が血祭りにあげられると、僧兵たちは下り松まで下ってきて清盛に
敵をうたしめ給うの状、喜悦すくなからず。もし、罷り入るべきの事あらば、仰せを承り、一方を支ふべし云々(安元3年6月3日)
と申し送っている。平家に加勢して院と衝突しようという意気である。(上p124)
(水原一の『平家物語』上中下は、いわゆる「120句本」を底本にしている。頭注が大変詳しく、しかも本文が2色刷りになっていて通読しやすく工夫してある。また水原一の全巻朗読テープも図書館などで聴取可能である。)
 比叡山が平家と共同歩調をとってもいいという時、清盛は後白河側近を一掃してしまっており、最後の一撃を後白河院に対して加えることを自制したのだろう。「重盛諫言」(120句本では「小教訓」、「大教訓」の2句、覚一本では「小教訓」、「教訓状」の2章)は、この時点で後白河院を拘束して一気に平家単独政権に踏み切ろうとまで平家内部が一本にまとまっていなかったことを意味している、と考えられる。
 わたしが殊にそう考えるのは、重盛諫言の章句のなかで清盛と重盛の間の連絡をつける主馬判官[しゅめはんがん]平盛国という人物にひかれてである。冨倉前掲書はつぎのように解説している。
この盛国は、伊勢平氏の一人である下総守季衡[しもうさのかみ すえひら]の七男で平家の氏族である。彼の名は『保元』『平治』にも見え、この両度の合戦に功あったが、『平家物語』に登場する頃はすでに66歳の高齢で、常に清盛の傍にあって平氏の大番頭格として、穏健な意見を具申する人物として描かれている。(同前p256)
盛国の生年は永久元年(1113)、清盛の生年は元永元年(1118)であって清盛の5歳年長である。西光法師は清盛の若い頃をよく知っており(西光は家成(成親の父)の養子になっており、若い頃清盛は家成邸に出入りしていた)斬首される前に、清盛にたいして小気味の良いタンカを切っている。平家が成り上がり者であることがよく分かるところだ。
左の系図は、清盛と西光と家成の関係を表している。(左図には盛国は登場していないが、伊勢平氏季衡の後裔である。『尊卑分脈』では季衡の息子(盛光の弟)になっているが、年代が合わず異論がある。)若い頃の清盛が出入りしていたという家成は藤原氏六条家の家柄で、鳥羽天皇の女院・美福門院をだしている。鳥羽天皇の在位は1107~1123、鳥羽の院政は1156までつづき、その死没が保元の乱を引き起こす。そういう有力天皇の女院をだし、その娘・八条院は鳥羽院の膨大な遺産(荘園)を受けつぎ、平家からの相対的独立勢力として存在し、12世紀末動乱期のキー・パーソンのひとりとなる。八条院は小論に今後、幾度となく登場する人物である。(「系図の描き方」はこちら)

小論で描いている系図は、兄弟の兄をかならず弟の右に書いてはいない。系図の線が複雑にならないために、年長者を右にという原則は無視している。また、水平の2重線は婚姻関係を、縦の短い2重線は養子関係を表す。
天皇は紫色で、関白は緑色で、将軍は青色で、また茶色は注のつもりで書き込んだが、原則が守られずいい加減になっているところもあると思う。


 西光のタンカを聞こう。斬首されるまえに清盛に向かって言う。
自分は]院中に召しつかはるゝ身なれば、執事の別当成親卿の院宣とて[陰謀を]催されし事に、くみせずとは申すべき様なし。それはくみしたり。ただし、耳にとまる事をも、の給ふものかな。御辺[ごへん あなた=清盛]は故刑部卿忠盛の子でおはせしかども、十四五までは出仕もし給はず、故中御門藤中納言家成卿の辺に立ち入り給しを、京わらはべは高平太とこそいひしか。(上p155)
「くみせずとは申すべき様なし。それはくみしたり。ただし、耳にとまる事をも、の給ふものかな。」(自分が陰謀に与していないなどと言うわけにいかない。それは与した。だけど、清盛さん、あなたはずいぶん妙なことをわたしの前でいいますね。)という西光法師のタンカのなかに、平氏一門の成り上がりぶりを舌打ちしながら見ていた京都の口さがない連中の感覚が表現されていると思う。「高平太」は、“下駄ばきの平家の総領息子”というあだ名。『源平盛衰記』では「繩緒の足駄はきて」といい、長門本は「朝夕ひらあしだはきて閑道より通り給ひし」といっている(水原前掲書上頭注p131)。清盛「十四五」といえば、12世紀30年代半ば、「殿上の闇討」のころである。盛国は、そういうところから40年以上かけて成り上がっていった平家一門を隅から隅まで内側からよく知っているのである。
 西光のあまりにも遠慮のないタンカに、またそのタンカが痛いところを突いていたので、
入道あまりにいかって物ものたまわず。しばしあって「しやつが頸左右[さう]なう切るな。よくよくいましめよ」とぞのたまいける。[厳しく糺問し、白状させた後] 「しやつが口をさけ」とて口をさかれ、五条西朱雀にして切られにけり。(上p155)
口を引き裂くという残酷な刑にし、京の中心といえる四つ辻で殺した。

 上の系図で、もう一つ注目してもらいたいのは、清盛の父・忠盛の妻(後妻)に池禅尼[いけのぜんに]がおり、そのつながりで高平太時代の清盛は六条家に出入りしていたということ。池禅尼の長男家盛は早世し、平治の乱で14歳の頼朝が家盛に似ているというので命乞いしてくれたのがこの池禅尼(清盛からすると継母)である。頼盛は平家都落ち(寿永2年(1183)7月)の際、途中から引き返して、仁和寺にあった八条院の館に逃げ込むという“二股膏薬”的行動をする人物。頼朝は池禅尼への恩をわすれず頼盛を厚遇する。


 さて、その「平氏の大番頭格」の盛国は、清盛が後白河院のいる法住寺殿を攻撃しようとしていることを重盛に伝えて、重盛に父・清盛を説得させ思いとどまらせようとする。盛国の深謀こそが、物語の展開軸になっている。
主馬判官盛国、いそぎ小松殿[重盛邸]へ馳せまいって、「世はすでにこう候」と申しければ、おとヾ[重盛]聞きもあへず、「あははや[おやおや]、成親卿が首を刎ねられたるな」との給へば、「さは候はねども、入道殿[清盛]きせなが[大鎧]召され候。侍どもみな打立って、ただいま法住寺殿へ寄せんといでたち候、法皇をば鳥羽殿へ押しこめまいらせうど候うが、内々は鎮西の方へ流しまいらせうど議せられ候」と申しければ(以下略、上p170)
老練なる盛国の判断は、後白河院を敵に回して全面対立に持ちこむことの危険を重視したということであろう。すでに都において平家を脅かす勢力は存在していないのだが、盛国は清盛に自重を求めたのである。盛国の判断の根拠はどこにも示されていないのだが、重盛が清盛説得にあたったこと(「大教訓」)をみれば、平家一門には慎重論もあって強硬論に一本化していなかったと考えられる。清盛は最終的にこの“大番頭”の判断に従い、鎧を脱いで、福原の別邸へ帰ってしまう。
 以上が鹿ヶ谷事件の幕切れで、治承元年(1177)六月のことである。(上の系図には、首謀者のうち成親、成経、西光が出ている。系図では省略したが、俊寛僧都は頼盛の義兄(妻の兄)である。また、鬼界ヶ島へ流されるもうひとりの人物、平判官康頼は系統の不明な院の近臣である)

   

(1.3) 序(その3  高倉天皇)

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 つぎの年、治承2年(1178)のビッグ・ニュースは、11月に徳子が難産の末に男子(後の安徳天皇)を生んだことである。

 清盛の娘・徳子が生まれたのは久寿2年(1155)、入内[じゅだい 天皇の妻になること]したのは、承安元年(1171)つまり17歳のときだが、武家の女御は前例がないというので直前に後白河の猶子[ゆうし 養子とほぼ同じ]にし、従三位として入内した。武家は公家の番犬的武力として見下されていたので、天皇家の血筋に武家の血が入ることは前代未聞のことであったのである。また、殺戮を職業とすることの忌避・畏怖が強くあった。
 徳子を後白河の猶子とし、高倉帝へ入内させたことについては、高倉は後白河の実子であるのだから、形式的であれ姉弟の婚姻として“みだりがわしい”という批判があったという。武家平氏が天皇家の閨にまで入ることへの公家側からの深い拒否反応があったことは想像できる。
 徳子の相手の高倉帝だが、彼が即位したのは仁安3年(1168)で8歳のことである。元服が行われたのは、嘉応3年(1171)正月3日で11歳のとき。元服は一人前になったことを確認する儀式だが、この年の12月に6歳年上の徳子が女御として来てしまったのである。
 清盛は、幼少な高倉へ徳子を入内させ皇子誕生を待っていたのである。治承2年までに、高倉にはすでに二人の内親王(女の子)が生まれていたので、清盛の期待の大きさが分かる。高倉にとって最初の男子・言仁[ことひと]が誕生したのである。(高倉の生年月は 1161年9月で、徳子入内は 1171年12月だから満年齢でいうと10歳である。小学4年生か。天皇は子種を作るのが仕事とはいえ、気の毒。ただし、当時の天皇の元服は11~13位(数え年)が普通なので、高倉が異常に早いということではない。もちろん、お相手の女性は徳子だけではなく、七条院殖子(後鳥羽の母)、少将局、成範卿女・小督[こごう]、公重朝臣女、頼貞卿女などが、『本朝皇胤紹運録』によって確かめられる。言仁=安徳、後高倉院、後鳥羽、惟明親王の4男と3女を作っている。高倉は12年在位し(これはこの当時として短くない)、わずか3歳の安徳へ譲位したが、その1年後に21歳で没している、養和元年(1181)1月。安徳は文治元年(1185)2月に壇ノ浦に入水して果てるが、そのとき8歳で、さすがに子供はない。)

 高倉の母親は建春門院滋子で、貴族平氏の出身である(「桓武平氏」全体を概観するにはこちらへ)。徳子の母もおなじ平時信の女であるが、異母姉の二位尼時子である。清盛と後白河は、時子-滋子の異母姉妹を介して結びついている。平時信は鳥羽院の近臣であった(正三位兵部卿)。
時子の父時信は、鳥羽上皇に近侍したとはいえ、兵部権大輔[ひょうぶごんだゆう]にすぎなかったが、時子の妹滋子が後白河上皇の寵を得、皇子(高倉天皇)を生んだことは、清盛夫妻の栄達をもたらした。(上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』上p94)
伊勢平氏が軍事貴族として成り上がっていく過程で清盛は、時子-滋子の人脈で朝廷の最奥(天皇の閨)に入り込むチャンスを得たのである。滋子が憲仁(のちの高倉)を生んだのは永暦2年(1161)のことであり、それ以後滋子の宮廷での勢力が増加していく(建春門院の院号宣下が1169)。保元-平治の乱を乗り切って軍事貴族の第一人者となった清盛にとって、後白河院とのこの上のないパイプができたのである。
 時子-滋子の兄時忠は、平大納言[へいだいなごん]と称され、「この一門にあらざらむ人はみな人非人なるべし」と言ったことで有名な人物(巻第1「禿髪 かぶろ」)。平家物語の要所要所で、重要な役回りを演じている。この人物は結局、壇ノ浦で生け捕りになるが、生け捕られた平家一門の名を掲げるのに宗盛につづいて第2位に掲げられている(巻第11「内侍所都入」)。保身のために娘を義経に嫁がせたりするが、結局能登国に流され、そこで文治5年(1189)に没する。

 天皇親政を求めて後白河院との対立関係にあった二条天皇が、永万元年(1165)に病弱のため23歳で死没。わずか2歳の六条天皇が即位した。この年末に5歳の憲仁に親王宣下、そして立太子。つまり、天皇より皇太子のほうが年長という異常さなのである。この薄倖な天皇六条は5歳で譲位させられ、憲仁=高倉が即位する。仁安3年(1168)のことである。
 清盛の後援をえて後白河の院政が本格的に始まるのは、この頃からである。
政治の裁断権は基本的には院が握るところであり、その院の政治を摂関が文書の内覧を通じて助言を行う形で補佐し、武家の平氏が武力を通じて朝廷を守護する形で補佐した。文においては摂関が、武においては武家が院を補佐する体制が確立したのである。(五味文彦『平清盛』p181)
8歳で即位した高倉は、嘉応3年(1171)正月に11歳となり元服の式を行った。
 高倉の母・建春門院滋子は、「相当しっかりしていた女性」(五味前掲書)といわれるが、高倉の元服の頃から宮廷内で力を発揮してくる。清盛は、建春門院-後白河の意向にできるだけ沿うようにふるまったようである。建春門院に仕えた健御前[けんのごぜ]の日記『建春門院中納言日記』が存在している(『たまきはる』ともいう。新日本古典文学大系第50巻『たまきはる・とはずがたり』岩波書店によって容易に読むことができる)。
 この建春門院の権勢を背景にして、徳子の入内がこの年承安元年(1171)12月に行われた。こうして清盛は天皇の「外戚」の地位を手にしたのである。
 しかし、少年天皇と姉さん中宮にはなかなか子供ができず、7年間待つことになった。その7年の間に起こった最も大きな出来事が、安元2年(1176)7月の建春門院(35歳)の死である。
建春門院の死は政界に大きな影響をあたえた。『愚管抄』は「ソノノチ院中アレ行ヤウニ過ル」と記し、『平家公達草紙』は次のように語っている。
世の中も女院おわしましましける程静にめでたかりけるを、隠れさせ給ひては、なべて天の下嘆かぬ人なかりけるを、誠に其後よりぞ世も乱れ、あさましける。
建春門院の死後に世は乱れるようになったと語っており、その死が大きな影響を与えたことは疑いない。まずは支えてくれてきた母の死によって、まだ皇子のいない高倉天皇の存在が著しく不安定になった。(五味前掲書p235)
建春門院の死によって、平家(清盛)と後白河を結んでいた重要な結び目が消えたのである。この安元2年(1176)7月が、「12世紀末の大乱」の始まりだったといえるかも知れない。建春門院の死の翌年が、鹿ヶ谷事件の起こった年である。

 徳子の難産を詳しく描いている巻三「御産」[ごさん]は、当時の上流社会での出産風俗がうかがえてそれ自体とても興味深い。そこでは清盛の喜び様を次のように書いている。
入道相国あまりのうれしさに、声をあげてぞ泣かれける。悦び泣きとはこれをいうべきにや。
清盛の率直で飾らない人柄が表現されていると思う。『平家物語』は“悪業を積み重ねた平家が滅びる”というシェーマ(図式)のなかで描かれているために、清盛は猛く恐れを知らない独裁者のように強調されているが、実際には、清盛は気配りの“全方位外交”の人で皆から好かれる人柄だったように思える。

 言仁=安徳は清盛から見ると娘・徳子(建礼門院)の子として孫、後白河から見ても息子・高倉の子として孫である。前年に鹿ヶ谷事件があって、清盛は後白河を拘束する寸前にまで至った。しかし、徳子の無事出産を待ち望む熱意は、清盛も後白河も違いがなかったようである。
 後白河は、多数の陰陽師や験者が祈りを捧げている産所となった六波羅の池殿(清盛の異母弟・頼盛の邸 頼盛の系図は前節で紹介したがこちら)に出かけて行く。池殿の邸内は
護摩の煙御所中にみち、鈴[れい]の音雲をひびかし、修法の声身の毛よだって、いかなる御物の怪なりとも、面をむかふべしとも見えざりけり[立ち向かって来られそうにもなかった]。
という様子。後白河は「千手経」[せんじゅきょう]というお経を、徳子の錦帳の近くに座って、声を張り上げ張り上げして、唱えた。後白河は今様の名手で、若い頃から練習に努め夜を徹して唄って喉を痛めたことなど、『梁塵秘抄』の「口伝集巻十」などに見られる。おそらく後白河は、プロの験者や坊主にまじって、実際に自慢の喉を張り上げたのであろう。
 このとき法皇が怨霊に向かってかき口説いたという言葉が面白い。昨年の鹿ヶ谷事件で死罪にした西光・成親や鬼界が島へ流した俊寛らの怨霊が妨げをなして、難産となっていると考えられているのである。
いかなる物の怪なりとも、この老法師[おいぼうし]がかくて候はんには、いかでか近づき奉まつるべき。なかんずくに、いま現はるゝところの怨霊どもは、みなわが朝恩によって人となっしものどもぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜずとも、あに障碍[しょうげ]をなすべきや。すみやかに退き候へ。
この後白河法皇の究極の呪言によって、御産は無事に済み、しかも生まれたのはめでたくも皇子であった、というわけである。これが治承2年(1178)11月12日のことであった。

この皇子言仁(のち安徳)の乳母として宗盛夫人(平教盛女)が予定されていたが、7月に次男能宗[よしむね 幼名・副将で巻第11「副将斬られ」で取り上げられる]を難産し没した。そのために、平大納言時忠の北の方「帥の典侍」[そつのすけ 権中納言兼太宰権帥藤原顕時の女、洞院局とも言われた]が乳母となった。これは時忠にとっても、平家全盛の上り坂に歩調を合わせて力をつけていく願ってもないことになったわけである。



 小論にとっては後に重要になるのだが、この11月に源頼政が、清和源氏としてはじめて従三位となっている。しかも、清盛の推挙をうけてである。(清和源氏の系図全体のなかで頼政の位置を確認したい場合は、清和源氏の系図へ)



(1.4) 序(その4  後白河院と清盛入道)

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 治承2年(1178)11月に生まれた言仁について、翌月に直ちに立太子がおこなわれている。つまり、つぎの天皇の第1候補とした、ということである。この時点で高倉18歳、皇太子言仁1歳。
 言仁を皇太子とすることについては、清盛と後白河とが一致していたと考えることができる。いずれにとっても、血のつながった孫であるから。
 このこと(言仁の立太子)は天皇の血筋にはじめて武家の血が入ることを意味し、公家社会には強い拒否反応が底流としてはあった、と思われる。だがそれだけではなく、具体的に皇統(天皇の血筋)が武家平氏に吸引されていくことに不利益をうける名流・閑院家や、閑院家にあってその皇位継承の可能性をうかがっていた以仁王(28歳)にとっては、回復できない打撃をくわえられたことを意味していた。この問題については、後に、じっくりと扱う。

 高倉が譲位し、言仁が安徳天皇として即位するのは1年3ヶ月後の治承4年(1180)2月のことである。言仁の立太子から即位までの1年3ヶ月の間に、重大な出来事が3つ起こっている。それは、 である。
 『平家物語』では、重盛はことさらに沈着冷静、条理をわきまえた知識人として描かれている。対照的に清盛は熱情にかられ憎悪に任せて果断にことを行う人物として描かれている。実際には清盛は中流貴族として長年の宮廷遊泳術にたけ、敵を作らず誰にも好かれることをモットーにしていたようである。合理的で現実主義者で、日宋貿易に熱心であることなど、前例にこだわらない柔軟な思考のできる人物であった(この点、後白河法皇も良く似ているという指摘がある。安田元久『後白河上皇』p92など)。『平家物語』が清盛に注目するのは、実際は最後の数年間、その絶頂期の独裁者としての姿であるので、政敵に対し容赦なく果断にことを行う清盛像を打ち出すのも、仕方がなかったともいえよう。
 3年前に建春門院滋子を失い、今度は長男・重盛を失って、清盛と後白河の間に入る緩衝役がいなくなったことは確かである。重盛が病没する治承3年(1179)7月の時点で、重盛42歳、清盛62歳、後白河53歳。
 清盛はあと13ヶ月ほど生き、養和元年(1181)閏2月に64歳で熱病で死没するが、すでに福原の別邸を根拠地としていた清盛は、“大番頭”主馬判官盛国の邸で死ぬ。清盛一統の裏も表も知っていた盛国がいかに清盛に信頼されていたかが、そのことからでもよく分かる。この盛国という興味をそそられる人物は、壇ノ浦の後、平宗盛と共に鎌倉へ護送され、文治2年(1186)7月に、断食して死んだ。

 重盛の死後、平家の筆頭者は次男(異母弟)の宗盛となる。清盛はもちろん実質的独裁者なのだが、日頃は福原の別邸に引きこもっていて、重要な節目ごとに上京して決断を示す。平家内部の人間関係を見るために清盛を中心にした系図を示す。(清盛は白河院の落胤説があるわけだが(『平家物語』巻第6「祇園女御」)、現在では祇園女御の妹を、忠盛が白河院から戴いた、という説も否定され、「仙院の辺の女房」とされる(高橋昌明『清盛以前』改訂増補版 p127~130、p148)。高橋昌明の本には落胤説の根拠が詳細にあげてある。その基本は、落胤でなければ考えられない立身の早さである。
 白河天皇の在位は1072~86だが、引き続き院政は1129まで続く。この長期間、白河の何でもありの荒淫は院近臣を覆っていたと考えられる。なお、清盛の生年は元永元年(1118)である。白河と後白河の間には、天皇が4代あるが下の系図では省略している。白河-堀河-鳥羽-崇徳-近衛-後白河 それらを見たい時はこちらの系図を参照
)
 長男重盛の母は院の近臣として活躍した高階家の出であるが、とりわけ有力な家ということではない。次男宗盛以下の母は二位殿時子であり、この貴族平氏の家柄もけして有力ではなかったが、その妹滋子が高倉帝の母(国母)となって今やめざましい栄達を誇っている。その後ろ盾をもって、宗盛は清盛の後継者としてふるまわねばならない。だが、宗盛は「情愛細やかで無能な善人」(上横手雅敬前掲書下、第7章「宗盛」の副題)として描かれている。貴族化した平氏の優柔不断の見本のような行動をし、最後は壇ノ浦で捕らえられて鎌倉へ送られ、そこで打首となる。だが、それは5年ほど先のことだ(壇ノ浦の年、1185年6月)。
 この系図での見どころは、清盛から発する子孫の男子たちは、討死するか・自死するか・打首になるかの違いはあっても、ともかく頼朝政権によって根絶やしにされることである。維盛の男の六代(正盛から数えて6代目なので「六代」と呼ばれた)が最後に斬首されるのが建久9年(1198)である。それで、「120句本」などの巻末は
六代御前は、三位禅師とて行いすましておわせしを、[六代を保護していた]文覚流されてのち、「さる人の弟子、さる人の子なり、孫なり。髪は剃りたりとも、心はよも剃らじ」とて、(中略)鎌倉の六浦坂にて斬られけり。(中略)
それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり。
となっている(覚一本系統の『平家物語』は12巻の後に「潅頂の巻」が分離され後白河院が建礼門院を大原へ訪ねる大原御幸がそこで述べられる。それに対して、上の「120句本」タイプの『平家物語』を断絶平家型という)。
 「髪は剃りたりとも、心はよも剃らじ」という、恐ろしい追及の言葉は永く心に残る。こういうところに、能などの中世演芸の発祥の芽があることが理解される。

 「殿上闇討」(巻1)から「六代斬首」(巻12)の約70年間が『平家物語』に流れる歴史時間なのである。「覚一本」系統では、「潅頂巻」[かんじょうのまき]を分離して最後においてある。その潅頂巻が扱う後白河が大原に出家隠棲している建礼門院を訪ねる「大原御幸」が文治2年(1186)。後白河の死去が建久3年(1192)、この年、頼朝は征夷大将軍となる。頼朝死去が建久十年(1199)である。(六代処刑の場所と時はいろいろ異説があるという。「時」には、1198~1203くらいの幅があるようだ。建礼門院は建保元年(1213)に没している。)

ここで、年表を再度眺めてみよう。


 先を急ぎすぎた。重盛死没の時点に戻ろう。
 つぎに、上で指摘した3点のうちの2点目「後白河の清盛挑発」について述べる。
 重盛の死は治承3年(1179)7月であった(より詳細な年表は、すぐ下にも掲げるが、こちら)。後白河はその前後から、平家の動揺を見透かして攻勢に出たものと思われる。後白河を主語とする記述がほとんど登場しない『平家物語』(頼朝を主語とする記述もほとんどない。この両者は歴史の厚いベールの向こうで隠然と存在感を示している)だけでは不十分なので、歴史家の書物を利用させてもらう(『平家物語』では巻3「法印問答」のなかで、クーデター後に清盛と静賢法印の問答として後白河の平家攻撃の何箇条かが述べられる)。「日本の中世8」上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次『院政と平氏、鎌倉政権』(中央公論社)から。
重盛の死去よりも少し前、基実の後家で、基実の嫡男基通[もとみち]の摂関就任まで摂関家領を管理していた盛子[もりこ]が死去したのである。娘盛子の死去で、清盛も摂関家領を占領する根拠を失ってしまった。そして莫大な荘園は、後白河が預かることになったのである。清盛は基通を女婿に迎え、摂関家領を恒久的に我が物にしようとしていたが、構想は大きく揺らぎはじめた。
ここで後白河は、清盛を挑発する。十月の除目において、後白河は関白基房の息子で、まだ8歳にすぎない師家[もろいえ]を、摂関家嫡流を意味する権中納言・中将に任じ、すでに20歳の基通に議政官[注参照]の地位を与えなかったのである。この人事は、将来摂関家領が基通ではなく、基房・師家流の手に入ることを天下に示したに等しい。(第1部「「猛き者」― 清盛の独裁政権」元木泰雄p107)
注:議政官 律令制の最高官庁が太政官[だいじょうかん]であるが、その下に3組織がある。議政官組織・少納言局(秘書局のような組織)・弁官局(行政事務の実行を担当)。議政官組織は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言。中納言・参議・内大臣から構成され、天皇の諮問にこたえて国政を審議し、天皇の勅や信義結論を弁官局に伝え、太政官符などを発行して執行させる。

 平盛子は、清盛の3女で重盛の死ぬ1月前、治承3年(1179)6月に没している。彼女は上引のように摂政・近衛基実に嫁いだが、それが長寛2年(1164)のことで、永暦2年(1161)に生まれていた憲仁親王(高倉)を六条摂政邸で養育した。ところが基実は盛子と婚姻後わずか2年で仁安元年(1166)死没している(24歳)。その息子・基通はまだ幼く(7歳)、摂政は基実の弟の松殿基房が継いだ。そのとき、清盛は摂関家領のうち、摂政関白の地位に付属する「殿下渡領」[でんかのわたりりょう]は基房に継がせるが、残りの氏長者領などの大部分の家領や邸宅は未亡人盛子が預かることにした。清盛が盛子の後見人となり、事実上摂関家の家領などを平家が支配することになった。そのことは、摂関家にとっては深刻で重大な事態であり、屈辱的でもあった(図の緑色は摂政を示し数字はその順)。  基房はそのことで清盛への深い怨念を持ったが、基実未亡人・盛子が健在のうちは何もできなかった。基実の死から13年後に盛子が死んだ。  後白河は巧みに関白基房を抱き込んで、幼い師家を強引に「権中納言・中将」につけ、摂政を師家に継がせることを示した。今度は逆に「平氏最大の経済基盤である摂関家領を失いかねない事態は、清盛にとって極めて重大な危機」(同p107)となったのである。
 盛子が継いでいた摂関家領のうち、氏長者領は関白基房へ、他の所領は基通ら基実子女へ渡されるのが当時の常識であった。ところが法皇はそれらをすべて没収して法皇領にしてしまった。その藏預[くらあずかり、管理者]に、側近の独りである大舎人頭[おおとねりのかみ]兼盛を任命した。これは、清盛にとって看過できない重大事であるだけでなく、藤原摂関家にとっても長年の膨大な蓄積が法皇領になってしまう危機的状況であった。
説明が明解・詳細である水原一『平家物語』の頭注を引いておく。
白河殿[盛子]の死去を好機として、[後白河]院はその遺産を掌中に収めるべく、北面の一人大舎人藤原兼盛(盛重の子)を倉預に任じた。これは平家だけでなく、藤原氏にとっても大問題なのだが、関白基房は院に抱きこまれていたらしい。その三男師家がこの年十月の除目に八歳で権中納言に昇進したのもその取引で、女婿基通(基実子、生母は白河殿ではない)を推薦して通らなかった清盛は(白河殿遺産をめぐり基通を懐柔しておくことは必要だったろうから)怒った。『玉葉』[治承3年11月15日条]に「法皇は博陸[基房]と同意して国政を乱さるるの由、入道相国攀縁[怒る]云々」と記し、「国家の[腐]敗は官邪による、誠なるかなこの言」というのは、院・関白の腐敗政治を批判する眼が藤原氏内部にもあったのである。(水原前掲書上p265)
 同じような後白河法皇の露骨なやり口が、重盛の死後、越前国知行についても起こっている。重盛が知行していた越前国はその嫡男・維盛が相続するのが通例であるが、院近臣の藤原季能[すえよし]が越前守に任ぜられ、上皇に没収されてしまった。越前国は仁安元年(1166)以来の重盛の知行国であったのである。これは、武力を背景にしつつ知行国をえて富裕を追及するという平家の伝統的戦略の中軸部を否定されたことを意味する。この、越前国知行没収も、清盛にとって忍従・看過することのできないことであった。
 わたしたちは、いま79年11月の清盛のクーデターの直前にいるのであるが、このあと、事態が急展開していくことを、年表で確かめておこう。



 後白河は、その権威をどこに依存しているのであろう。正面切って答えれば、天皇-律令制国家の権力掌握を、天皇経験をふまえ院政を行う宗教的権威者(天皇制宗教の伝統的権威の体現者)として行おうとしている、ということになろう。後白河自身は非常に変則的でまともとは考えられない経歴で天皇になったのであるが、いったん天皇を経験すると、彼の天才が花開いたと考えることができる。(後白河の即位の事情については、第2章第2節八条女院および皇子・皇女のはじめで、すこし述べた

 清盛に対しても頼朝に対しても、後白河の宗教的権威者としての自信は、絶対的である。いささかも揺らいでいない。彼が生涯に34度も熊野参詣を行ったことは、彼がとてつもない宗教的熱情を持っていたことを物語っている。それを物見遊山的な娯楽として評価するのは間違いであると思う。後白河の政治の背景に、彼の宗教的熱情があったことは重要であるとわたしは考えている。
 後白河院政の手法は近臣による側近政治であり、摂関家等の貴族階級を別にすればその最大の対抗勢力は比叡山・園城寺・興福寺の僧兵を擁する寺社勢力であった。そして、徐々に実力を増してくる平家とは、時に利用し時に対立する関係にあり、後白河院は平家と寺社勢力の対立を巧みにそそのかしていた。
 清盛の重要な子供たちである盛子と重盛の相次いでの死をとらえて、後白河が露骨に打ち出した決定は、清盛が看過・忍従することのできないものであった。それは、半世紀以上かけて成り上がってきた平家の手法の正面からの否定につながるものであった。ここで退けば、平家は法皇のとどまるところのない側近政治の恣意に屈してしまうことになるのである。



(1.5) 序(その5  清盛のクーデター)

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 清盛は後白河の露骨な(政治手法としては稚拙な)決定によって追いつめられた。上述のように後白河が打ち出した3点、(1)越前国の平家知行の停止、(2)白河殿盛子の遺産を没収、(3)幼少の師家を摂政につける動き、のどれについてもそのまま黙許すれば清盛が後白河に決定的に屈服したことを意味する。
 後白河の依拠するのは院政体制である。つまり、天皇の権威(伝統的宗教権威)を基にし、未熟な天皇に代わって皇位を譲位したその父(または祖父)が側近政治を行うという統治形態である。清盛が依拠するのは武力と財力を背景にした律令の政治機構である。後白河の措置を看過すれば、その武力と財力によって手に入れた平氏の財産の主要な部分を失うだけでなく、半世紀ほどを掛けて成り上がってきた平氏の手法を否定されることになる。

 上記(3)の師家を中納言に任じた「秋の除目」が10月9日である。それから一月後、福原にいた清盛がついに動き始める。
同じき[11月]十四日、相国禅門[清盛]、この日ごろ福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけむ、数千騎の軍兵をたなびいて[従えて]、都へ入り給ふよし聞こえしかば、京中なにと聞きわきたる事はなけれども[確たる情報があったわけではないが]、上下おそれおののく。何者の申しいだしたりけるやらん、「入道相国、朝家を恨みたてまつるべし」と披露をなす。[「清盛は、皇室に対し恨みを晴らしにきたんだろう」、と言いふらした](巻三「法印問答」p250)
『山槐記』[さんかいき:藤原忠親の日記]のちょうどこの日、11月14日条には次のように書かれているという。
衆口嗷々[ごうごう]。あるいは曰く、故内大臣[重盛]賜ふところの越前国、法皇召し取る。おおいに怨みをなすと。また、白河殿[盛子]の庄園、法皇またご沙汰あり。また、除目の間非拠など甘心せず[筋の通らない処置などがあったが、納得できない]と云々(冨倉徳次郎前掲書上巻p482より重引)
 公家たちは清盛がどのような処置に出るかおそるおそる見守っていたにしても、清盛が何に怒っているかは、承知していたのである。後白河法皇のやり口があまりにも挑発的で、清盛が怒るのも無理はない、という評価である。すくなくとも、清盛が独善的にふるまっているというだけの見方ではないことは確かである。

14日に騎馬数千をともなって上京した清盛は、西八条殿に入った。上では『平家物語』を引いて「数千騎の軍兵」を紹介したが、兼実『玉葉』も「数千騎」と明記している。清盛は厳島へ向かう途中の宗盛を引き返させ、
相ともに上洛した。武士数千騎である。ひとは何事であるかを知らず。およそ京中は騒動無双。・・・洛中の人家、資財を東西に運び、まことに以て物忽、乱世の至りなり。
これは、大変に多い騎馬武者の数である。清盛は圧倒的な軍兵を率いて京を埋め、その威力を持って有無をいわせず一気に自分の方針を貫徹させようとする。
平安京を騎馬武者が群れ走るのは平治の乱(1559)以来、20年ぶりのことである。[八条あたりから内裏あたりまで、現在の京都で徒歩1時間程度であるが、平地で道路が整備されている場合の、騎馬と徒歩や牛車との違いは隔絶していたであろうことを考える必要がある。騎馬が担う情報と物量の速度の差である。騎馬武者の戦闘力そのものは、歩行武者とくらべて隔絶していたわけではなかったのではないか。速度を利用した突破力(先陣争い)など、象徴的な戦闘力ではすぐれていたであろうが。そうであるからこそ、馬が走り抜けられない掘や柵や逆茂木が効果的な“城”の意味をもった、といえる(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社選書メチエ1996 第3章などで「交通遮断施設」が“城”ないし“城郭”の原初形であったことを述べている。江戸期に醸成された城を居住空間と考えたり、“城を枕に討ち死に”というような話が必ずしも歴史的にさかのぼることのできるものではないことを学んだ)。

15日に清盛は、自分の身内である中宮(徳子)と東宮(言仁=安徳)[とうぐう:皇太子]を福原へつれて帰るぞ、という恫喝に出る。恫喝の対象は法皇(後白河)と天皇(高倉)である。つまり、院の近臣らが構成する院政中枢部へ、強烈な揺さぶりをかけたのである。中宮と東宮を八条殿(この時期、清盛の京での住居)に確保した上で、清盛は息子・重衡を使者にして朝廷につぎのように通告する(『玉葉』治承3年11月15日)。
近日愚僧は偏に以て棄て置かれ、朝政の体をみるに安堵すべからず。世間から罪科を蒙っての後、悔いても益なかるべし。身に暇を賜って、辺地に隠居するにしくはなし。よって、両宮を具し奉って、行啓を催し儲けるところなり。

愚僧(清盛)は、ひとえに棄て置かれたような状態であり、朝政のあり方を見ると安堵できるものではない。このままでは身の暇を賜り、辺地に隠居するしかなく、中宮・東宮とともに一緒にゆきたいので、勅使を派遣してそのように仰せてほしい。(五味文彦『平清盛』p271 の意訳現代文)
 次に述べるように、後白河側は全面降伏をしてしまったので清盛の「両宮を具し奉って、行啓」をするというのが具体的にどういう構想によっていたのかは分からないままになってしまった。『玉葉』は上の引用の直前に、「清盛は、自ら両宮を具して、鎮西の方へ赴く」という風聞があると書いている。清盛は単なる恫喝をしたのではなく、国家分裂をも掛けた“鎮西国家”構想をにおわせたと考えたい。福原-厳島神社-鎮西での日宋貿易などの西日本に軸足を置いた平家による国家構想である。そういう基盤があってこそ、半年後の福原遷都も発想されたのではないか。

 この清盛による強烈な揺さぶりに対して、後白河は全面降伏する。すなわち、法印静賢を通じて、「これからは世間沙汰のことはいっさいとりやめる」と述べて清盛をなだめようとした(括弧内は、竹内理三『武士の登場』「日本の歴史6」のp448)。この部分は、『玉葉』も和風漢文の文体を乱していると思われるので、引用してみる。片カナの「ハ」を使っている。
定能卿来、院辺事、如只今者無聞事、於世間沙汰被停止了、昨日以法印静賢為御使両度被陳子細云々

定能卿が来て、院の辺りのことについて、只今のごときは聞いたことがない。[院は]世間沙汰においてハ、すっかり停止なさった。昨日法印静賢を使者にして、2度も子細を陳べられた云々
この15日の清盛の打った手は、前日の多数の軍兵を洛中に移動させたこととあいまって、圧倒的な力を生じたが、これこそが清盛独裁政権の出発を意味する画期的な処断であり、天皇制中枢を実力を持って改変するという無血クーデターと言ってよい。

16日には、比叡山のトップ人事に手をつける。僧兵勢力の牙城として清盛政権がまず工作する必要を覚えていたのである。後白河寄りだった天台座主(第56代)・覚快法親王[鳥羽天皇の第7皇子つまり後白河の弟で、この時46歳]を辞めさせ、平家寄りの明雲[みょううん、村上源氏久我家出身でこの時65歳]を再任させた。明雲は第55代天台座主に仁安2年(1167)にすでに就任しており、清盛出家(1168)のときの戒師となっている。「神輿振り」の山門騒動の責任をとり座主を辞めさせられ伊豆に流罪になるのが安元3年(1177)5月だが、それは後白河の策略だとされる。代わりに覚快座主となるが、明雲は伊豆へ送られる途中を山門大衆に確保されて帰山していた。清盛は座主人事を再度平家寄りに戻したのである。このことは当然比叡山の内部に反平家勢力をつくり出すことになった。(ただし、比叡山は巨大な組織で、単純な一枚岩ではなく、さまざまな勢力が並存している)

17日に、院近臣と関白基房の縁者ら、40人余が解官された。(『平家物語』の「大臣流罪」では16日の処置で、公卿殿上人43人となっている。水原一前掲書では16日の罷免が39人、18日までで総計46人とする(p271頭注)。五味文彦『平清盛』では17日に39人の解官が行われた、としている(p272)。)
後白河院の近臣をすべて解官し追放する(それぞれ流罪する)。基房は太宰帥[だざいのそつ:太宰府長官]ということにして、日向国に流罪となるが、出家したので実際には備前国に流された。
清盛のクーデターが徹底しており、院-摂政による院政政治の中枢を完璧に叩きつぶそうとしていることが、よく判る。その上で、大量の受領を移し替えて平家知行国を増やした。 この点は、五味前掲書を参照しておく。
(注目すべきは)大量の受領の任が解かれ、大幅な受領の交替が行われた点である。それらを分類すると平氏一門の知行する国々、平氏の家人の知行する国々、平氏と親しい公卿の知行する国々などからなり、それらを調べた結果によれば、クーデター前には17ヵ国であるのに対して、クーデター後には32ヵ国になっている。『平家物語』が「日本秋津島は僅かに六十六ヵ国、平家知行の国三十余ヵ国、既に半国に及べり」と記しているように、平氏関係の知行国は日本全国の過半を占めるようになった。また平氏一門の知行国を限ってみても、9ヵ国から19ヵ国に倍増したのである。(p273)
最後は、後白河法皇自身の処置である。20日に宗盛が後白河の御所である法住寺殿へ軍兵を引きつれて行き、法皇を牛車にのせて鳥羽殿に幽閉した。「法皇被流」[ほうおうながされ]の冒頭を参照しておく。
同じき廿日、院の御所法住寺殿には、軍兵四面をかこむ。「平治に信頼が三条殿をしたりしように、火をかけて人をばみな焼き殺さるべし」と聞こえし間、上下の女房、女童[めのわらは]、物をだにうちかづかず、あはて騒ひで走りいづ。法皇も大きにおどろかせおはします。
 (「鳥羽殿」は、京都市伏見区あたりにあった白河・鳥羽上皇の宏壮贅沢な離宮。現在はほとんどの建物・庭園が消滅し、往昔をしのぶよすががない。ネット上のサイトでは安楽寿院がなかなか良い。平安京-鳥羽殿-宇治殿の位置関係を頭に入れておくことは重要。当時は巨椋池[おぐらのいけ]が大きく広がり、宇治川・桂川・淀川などの水系をつかった水運が発達していたことも忘れてはならない。この問題は、平等院の頼政最後を扱う際に考えるつもりでいる。
 高倉天皇はこのとき19歳であったが、清盛は天皇に対しては特別な処置は行っていない。『平家物語』には、この天皇は同じ後白河の息子の二条天皇と比較して、非常な孝行息子として描かれている。(二条は巻一「二代の后」で、美人の評判の高かった近衛帝の后・多子[さわこ]を欲しがって入内させたが、後白河が批判すると「天子に父母なし」と言って、父・後白河との対立を辞さなかった。近衛は後白河の兄であるから、二条は伯父さんの未亡人を欲しがったことになる。)
 上引と同じく「法皇被流」の末尾で、高倉はつぎのように父・後白河を心配している。
主上[高倉]は関白[基房]のながされ給ひ、臣下の多くほろびぬる事をこそ御歎きありけるに、あまつさへ法皇鳥羽殿におし籠められさせ給ふときこしめされて後は、つやつや供御[ぐご:食事]もきこしめされず。御悩[ごのう:病気]とて常は夜の御殿[よるのおとど:寝室]にのみぞ入らせ給ひける。
清涼殿に「石灰壇」[いしばいのだん]という天皇が伊勢神宮を遙拝する場所があるが、そこで「臨時の御神事」として鳥羽殿に幽閉されている父の解放を祈っていた、という。
 この父思いの高倉のエピソードは、数ヶ月後の「厳島御幸」につながっている。高倉は安徳に譲位して、新院としての最初の神仏参詣を、通例の石清水八幡宮・賀茂神社・春日大社などではなく異例の遠方で清盛の信仰の厚い厳島神宮へ行くのだが、それはつまりは、清盛懐柔策ということに尽きる。だが、この高倉新院の異例は、都周辺の寺社勢力の強い反発を招き、つねづね相互に対立している比叡山・園城寺(三井寺)・興福寺が、反平家の共同戦線を取りかねない情勢をもたらすことになる。
 その寺社勢力が反平家でまとまりそうになる情勢こそが、清盛に福原遷都を発想させる根本理由であったと思う。

 16日に比叡山のトップ人事を平家寄りに改変することを実行し、明雲が第57代座主に返り咲いた。18年も前のことだが、応保2年(1162)に第49代天台座主最雲法親王が没し、その弟子であった以仁王が、師の座主としての財産である城興寺領を伝領していた。この時以仁王は12歳で、その後還俗する。ところが11月25日に、清盛は城興寺領を以仁王から明雲座主につけ替えてしまった(『山槐記』)。これは、以仁王自身にとってはもちろんのこと、彼を最後の切り札と考えていた名門閑院家にとっても、我慢のならない最後通牒をつきつけられたに等しかった。この問題は第2章3節「以仁王令旨本文」で以仁の決心そのものに関わること、および第4章6節「出家」で頼政の出家に関わることに結びつけて考える。

 治承4年(1180)2月、20歳の高倉は譲位し、3歳の安徳(満年齢では1年2ヶ月)が天皇となる。この安徳帝の出現によって、武家平氏の血をもった天皇が初めてできたことになる。清盛はその外祖父である。
 同様に摂関家に対しても外戚の位置を獲得しようとしており、基通室となった寛子(完子 さだこ)は安元3年(1177)にすでに男子を設けていた。そして基通が安徳の摂政として天皇を補佐するという体制ができたのである。寛子は“北政所”と呼ばれた。
 これは前年11月のクーデターの仕上であって、これによって清盛は天皇-摂関の両方の外戚として、思うがままに振るまえる理想的な独裁体制が完成しようとしていた。
(寿永2年(1183)7月25日の平家都落ちのとき、北政所・寛子は都落ちするが、基通は都に残った。この夫婦分裂に、摂関家と平家の政略的結びつきがうかがわれる。『平家物語』巻11には壇ノ浦で「生けどり」にされた女房43人のうち、「女院」(建礼門院)に次いで、寛子は「北の政所」として2番目に挙げられている。命ながらえて再び帰洛した寛子は基通とは別居する。)


(安徳帝が即位した治承4年2月時点の摂政の順番まで示した。
その時点で、すでに死没している人物には“赤十字”をつけた。
)

 もともと平家の手法は、天皇-貴族の律令制的機構を否定せず、そのなかに巧みに入り込んで実権を握っていくというものであった。兵力、財力を貯えつつ下積みから成り上がっていったのである。
 清盛のクーデター後の政権は、天皇-摂関の外戚として「平家独裁政権」とでもいうべきものであって、けして従前の平家の成り上がり手法の延長として、「貴族化」して律令制公家政治の主役を貴族から平家に奪い取ったというものではない。
清盛政権の特徴をいくつか挙げておく。  この清盛の「平家独裁政権」は、重盛が健在であった時代の貴族化した平家が宮廷に浸透する形で作っていった「院政-平家政権」とは質的に異なるものである。何よりも異なる点は、院政の権力中心たる皇位退位者(いまの場合後白河法皇)が、清盛の武力を背景にした実力によって幽閉されて、政治的に無力化されたことである。この政権が短命であった(清盛の死が翌年閏2月)ためにこの政権の構想が明らかにならないままで終わった面があると思うが、天皇制そのものへの関係は「外戚としての関係」を維持すること以上の意欲は示していないようである(たとえば、平家王朝を開始するというようなこと)。
 水原一は次のように述べている。
治承3年の武力革命の仕上ともいうべき、外孫安徳幼帝の践祚によって、清盛は完全な独裁体制を樹立する。院政時代の常識からいえば全権をもつべき法皇は幽閉され、高倉新上皇は従順な女婿として手も足も出ない。......重盛在世時代の貴族化した栄華の時代とは一線を画した、頼朝の幕府型武家政治に先行する、外戚摂関型武家政治ともいうべき一時代が出現し、波乱を捲き起こして行くことになる。(水原、上p295頭注)
 もうひとつ、元木泰雄。
そして最後に、清盛は後白河院を洛南の鳥羽離宮に幽閉し、政務から隔離するにいたった。この結果、院政が臣下に停止されるという未曾有の大事件となったのである。むろん、女房などを通して高倉天皇を意のままに操った結果であるが、王権の構成者である関白の配流とあわせて、清盛が王権を根本的に改変したことに相違はない。清盛の弟で新院派の頼盛との合戦が噂されたが、結局清盛に抵抗した者はいなかった。
院政の停止とともに、いわゆる平氏政権が成立したのである。この政変の意味はきわめて大きなものがある。王権との対立に際し、清盛は自らが従属するのではなく、真っ向から王権に挑み、王権自体を改変してしまった。臣下の武力による王権の改変は、体制の不安定な奈良時代以前はともかく、平安時代では初めてのことであった。東国武士が同様のことをなしとげたのは、40年余りのちの承久の乱を待たねばならない。(前掲書p108)
「臣下の武力による王権の改変」という語句は、日本の歴史的政治風土では記憶に価するのである。



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