四宮しのみや即位そくい



目次
(1)平家西下まで
(2)後白河の臨時政権
(3)三つ巴の皇位問題
(4)時忠の怒り
(5)宝剣喪失
付論ネット上の公開文献

和暦は和数字で表します

き坊の ノート 目次



《1》 平家西下さいかまで


「清盛のクーデター」は治承三年(1179)十一月であった。後白河院は鳥羽殿に幽閉され、ごく限られた者の面会しか許されなかった。このクーデターによって清盛の独裁政権が成立する。清盛は娘婿・高倉を退位させ孫・安徳天皇が践祚することで、自らは念願の天皇の外戚となる(治承四年二月)。安徳は幼帝であるから、形の上では高倉院の院政が始まることになる。といっても、清盛政権下の院政である。

上皇になってから最初の神社参詣は石清水八幡宮・賀茂社・日吉社・春日社などであることが慣例であった。ところが、高倉上皇は平家の氏社である厳島神社に参詣することが明らかになり、治承四年三月初めにはその準備が開始されている。厳島神社は『平家物語』(巻第三「大塔建立」)によれば「なきが如くに荒れ果てて」いたのを、清盛が再興したもので、いわば新興の宗教施設である。しかも船旅で瀬戸内海を行く参詣であって、都周辺の寺社ないし熊野参詣とはまったく異なった宗教伝統に立つものである。竜神信仰や瀬戸内海・東シナ海に広がる海洋神信仰に結びついていると考えられる。

高倉上皇が最初の参詣地として厳島神社を選んだことに危機意識を持ったのは、従来は対立ばかりしていた「三寺」(延暦寺・園城寺・南都興福寺)であった。安徳帝の誕生に際して、清盛は「速船」を造って「月詣」をして願をかけたという。
母ノ二位(平時子)日吉ニ百日祈リケレドシルシモナカリケレバ、入道(清盛)云ヤウ
ワレ(おまえ)ガ祈ルシルシナシ。今見給へ、祈出いのりいデン
ト云テ、安芸国厳島ヲコトニ信仰シタリケルヘ、ハヤ船ヲツクリテ月マウデヲ福原ヨリハジメテ祈リケル。六十日バカリノ後、御懐妊トキコヱテ(以下略
(『愚管抄』巻第五 古典体系本p243)
新天皇はいわば厳島の神の申し子であり、この天皇の治世が長く続けば、政権の宗教政策が旧来のものから大きく転じるのは必然であることを三寺が強く危機感を持って認識したであろう。この新情勢の下で、三寺の間で平家が打ち出してきた新しい宗教政策に対する共同戦線を張ることが可能となった。

『玉葉』治承四年三月十七日条は、三寺の大衆が連合して後白河・高倉の両院を奪い取ろうとする計画があったことが記されている。
時忠の語るところによると)園城寺の大衆発起し、延暦寺及び南都の衆徒を相語らひ、法皇(後白河)および上皇(高倉)の宮に参り、両主を盗み出し奉るべき由、去る八日評議をなす。その事前幕下(清盛)の辺に達するにより、頗る用心を致すの間、かの日黙止し、今に於ては、御幸の間を伺うべしといへり。なお以て結構の事、すでに一定。証人等有り。これにより昨夜検非違使・季貞を以て摂州へ馳せ遣はし了んぬ。かの(清盛の)申し状に随ひ、来たる廿一日御進発(高倉の厳島詣の出発)有るべし云々。(『玉葉』治承四年三月十七日条)
しかし、高倉院の厳島御幸は予定通り行われ、『平家物語』巻第四「厳島御幸」に明るくうららかな瀬戸内海を感じさせる章として表されている。行きに「川尻の寺江」にある邦綱の別荘に寄ったときに、福原にいる清盛の指示で、「唐船」がやってきて、高倉院は江の内を唐船に乗ってみる体験をしている。「寛平の御遺戒」に背く“非合法”の旅先での冒険であった。
福原より、「けふよき日。」とて「舟にめしそむべし。」とて、唐の舟まゐらせたり。まことにおどろおどろしく、畫にかきたるにたがはず。唐人ぞつきて參りたる。「高麗うどにはあだには見え(会う)させ給はじ。」とかや、なにがしの御時に沙汰ありけむに(「寛平御遺誡」のこと)、むげに近く候はむまでぞかはゆくおぼゆる。御舟に召しそめて、江のうちをさしめぐりてのぼらせ給ひぬ。(源通親「厳島御幸記」ここ
高倉院に唐船体験をさせてみる、というようなところに、清盛の視野にはどういうものが見えていたのかが推測されると思う。

ところがそのころ、密かに以仁王の謀叛が進行しており、その令旨が東国の源氏へ配られる(四月)。清盛が以仁王謀叛の情報を得て福原から京都に駆けつけたのが五月十日。一旦園城寺に入った以仁王・源頼政らが南都へ移動する途中、宇治川で平家の追討勢力に追い付かれ滅びるのが同二十六日。

これらの切迫した情勢の動きによって、平家政権が三寺の僧兵らの連合軍と対決する事になるかも知れないことが、現実的な脅威として現れてきた。そして、各地で蜂起する源氏軍と僧兵とが合流する可能性もあった。清盛がこの情勢に対応するために打ったのが突然の「福原遷都」であったと考えられる。京都にいては四方からの包囲軍と戦えないという判断があったのではないか。後白河院は鳥羽での幽閉を解かれ、六月初旬からはじまる福原遷都の一環で、後白河も福原へ連れて行かれる。

「都」の機能は複雑な総合的なものであり、軍事的な観点からだけでは「都遷みやこうつり」はうまくいかない。公卿たちは新都と旧都の間を頻繁に往復することを強要された。清盛は「福原の都」において海洋へ開いた国造りを構想していた可能性があるが、残念ながら「都遷」は失敗であった。この辺りから清盛の衰運がはっきりと現れてきていた。
清盛、宗盛は福原遷都後、再三厳島へ出向いている。
七月廿七日、宗盛厳島に詣ず(山槐記)。
八月十九日、清盛厳島に詣ず(玉葉、山槐記)。
九月廿一日、高倉上皇・清盛・宗盛厳島に詣ず(玉葉、百錬抄など)。この時の様子は下で取りあげる。
十月六日、清盛厳島および宇佐宮に詣ず(玉葉)。
わたしは、これらの資料を書き出しながら、正直なところ平家独裁政権を担う清盛・宗盛父子は大丈夫か、と疑ってしまう。源頼朝が伊豆で挙兵するのは八月十七日である。熊野、九州でもつぎつぎに謀叛の旗が揚がっている時期である。新都-旧都の経営も危うい状況ではないか。つまり、公卿たちの把握も充分ではない。そういう際に、日数をかけて厳島や宇佐へ詣でている場合か、と思う。清盛らは一種の宗教的狂気に陥っているのではないか、とさえ想像される。中世的な宗教的狂気というべきであろうが。
清盛の「都遷」はザックリとした思いつきに過ぎず、それを支える手堅い計画はなかった。強行された「都遷」によって多くの人々が辛酸をなめ、平家独裁政権から人心が離反していく。

高倉上皇が三月に続いて二度目の厳島御幸をしたのが、九月である。この時のことは広本こうほん平家物語には詳細に記述されていて、そのどぎつい内容に驚いてしまう。おそらくそのどぎつさを避けて語り物系では語りの中で序々に省略されていったのであろう。
再度の厳島御幸の時には、多くの公卿達(源通親も含まれている)はもちろん、清盛と宗盛が同道していた。余人を遠ざけたところで、清盛は高倉上皇に源氏に同心することはないことを誓う起請文を書け、と脅迫する。
入道と宗盛と父子二人、院の御前に参り寄りて、自余の人々をば除けられて、入道申しけるは
東国の乱逆らんげきによって頼朝を追討すべきの由御宣下の上は、不審は候はねども、源氏にひとつ御心あらじと御起請あそばして、入道に給り御座おはしまし候へ、心安く存じ、いよいよ御宮仕申し候べし。この言葉聞召きこしめし入れられずば、君をばこの島に捨て置きまいらせて帰り上り候ひなん
と申しければ、新院(高倉院)少しもさわがせ給はず、(中略
かの起請いとやすし、いかにもいはんにしたがふべし
と仰せありければ、前右大将(宗盛)硯紙執進とりまいらせり。
(『源平盛衰記』巻第二十三 前掲書上p744)
「十月六日、新院厳島より還御あり」と『源平盛衰記』は書いている。上記の『玉葉』の「清盛厳島および宇佐宮に詣ず」によれば、高倉は帰京し、清盛は厳島からさらに西へ向かい宇佐まで行ったのである。この『玉葉』に書き留められた情報が真実であるとすると、いったい清盛の心中には何があったのであろう。すくなくとも、自分に残された命がわずか5ヵ月足らずであることとは思いも及ばなかったであろう。

還都の声がうち消しがたいほどに高まってきていた。常に父・清盛の前で“イエス・マン”であった三男・宗盛もあえて「還都」を進言し、言い争ったという。
前将軍宗盛、遷都あるべき由、禅門(清盛)に示すと云々、承引せざる間、口論に及ぶ。人もって耳を驚かすと云々。(『玉葉』同十一月五日)
広本系の『平家物語』は載せているが、比叡山から福原の平家に対して「都返みやこがへり奏状」(都を旧都へ戻して欲しいという申し入れ書。『源平盛衰記』は「三箇度まで奏上を奉」ったと述べている)を送る。この奏状は漢文で短くはなく、様々なことが書き込んであるが、都を突然移動することで「調貢」の運上に不都合が生じることを難じている点を取りあげておく。
おもふ昔国豊に民厚し。都を興すに傷み無し。今国乏しく民窮す。遷幸煩ひ有り。ここを以て、或ひはたちまち親属に別れ、旅宿を企つる者有り。或ひはわずかに私宅を破り運載に堪えざる者あり。愁歎の声すでに天地を動かす。仁恩の至りあに之を顧みざらんや。七道諸国の調貢、万物運上の便宜、西河東津、すなわち煩ひ無きこと有らん。もし他所に移らば、さだめて後悔有らんか。(『源平盛衰記』巻第二十四 前掲本上p778)
この「奏状」を受けて十一月廿日に、福原では清盛の前で「都返」の公卿僉議が開かれる。この段階に至っても多くの公卿が清盛に追従する意見を述べる中で、末座にいた「勧修寺くわんじゅじ宰相宗房」が、旧都について
四神相応の帝都也、数代自愛の花洛也、五畿七道に便りあり、百姓万民も煩ひなし(『源平盛衰記』巻第二十四 前掲書上p781)
と、堂々と正論を述べた。「入道座を立ち障子をはたと立て内に入給ひにけり」。その翌日、還都の「廻文」(清盛の通達)があり、安徳、高倉、後白河が都へ戻ったのは廿六日。後白河は法住寺殿に入っている。

ところが、この秋には高倉院の病状が悪化する。
十二月末に、清盛は南都焼き討ちを、もっとも勇将として評価していた五男・重衡にやらせる。いうまでもなく、これは僧兵勢力との戦いの一環で、南都勢力をたたきつぶす目的であった。こういう徹底的なやり方は、清盛の新宗教政策からの発想でなければ、理解できない。(大火災となったのは偶発的であるという説もあるようだが、そうではないだろう。

翌治承五年(養和元年 1181)の一月に高倉院が没した。これは形式的にせよ後白河院政の復活以外に政治の形がありえないことを意味していた。清盛としては、厳しい対立関係にあった後白河と何とかうまくやっていかないといけないことを意味していた。ところがそういう重要なタイミングで、誰も予想していなかったことだが、閏二月四日に清盛自身が急病で没する。発病から1週間程度であった。これによって、平家独裁政権は急転直下あっけない幕切れとなる。様々な可能性を秘めていたと思われる清盛政権であるが、そのほとんどが芽吹く前にしぼんでしまった。
次男・宗盛は平家独裁政権を継承する力量も意欲もなく、武門については清盛の遺志を守って源氏と戦うと表明する。しかし、全体的には後白河の院政が復活することになる。清盛の圧力から解放された後白河院は、平家と源氏の闘争を利用しつつ政治の主導権を握ろうと狙うことになる。

清盛の死から平家一門の都落ちまで2年半ある。鴨長明『方丈記』でよく知られている全国的な「養和の飢饉」があり、源氏側の軍事的な展開も停滞したと考えられている。

治承三年(1179)十一月十四日清盛のクーデター
治承四年(1180)二月二十一日安徳天皇践祚
三月十七日高倉院厳島御幸へ出発
五月二十六日以仁王・源頼政ら宇治に亡びる
六月二日福原遷都はじまる
八月十七日源頼朝、伊豆で挙兵
九月二十一日高倉院再度の厳島御幸へ出発
十月二十日平家軍、戦わずして富士川から敗走
十一月二十三日福原還都はじまる
十二月二十八日南都焼討
治承五年(1181)一月十四日高倉上皇死去
閏二月四日平清盛死去
養和二年(1182)養和の飢饉
寿永二年(1183)五月十一日砺波山合戦で平家大敗
七月二十五日平家都落ち
八月二十日神器なしで後鳥羽天皇践祚
寿永三年(1184)二月七日一の谷合戦で平家敗れ、屋島へ退く
元暦二年(1185)三月二十四日壇ノ浦合戦。安徳天皇入水、宝剣喪失

木曽義仲が挙兵したのは、以仁王の令旨(治承四年四月)を受けてといわれる。北陸の雄・じょう氏を横田河原の合戦で破ったのが治承五年六月である。寿永二年五月には砺波山の合戦(倶利伽羅峠の戦)で平維盛率いる平家の大軍を破る。その段階で、つぎはいよいよ京都攻めが課題となる。
北陸で連戦連勝した木曽義仲は、京都攻略の前に立ちはだかる比叡山に対して、文書戦術をとる(『平家物語』巻第七「木曽山門牒状」)。そして、源氏の隆盛と平家の衰退を勘案した比叡山は、義仲軍に同調することを決する。これは、画期的なことだった。平家もすこし遅れて比叡山へ文書を送るのだが、拒絶される。すでに平家には切れ味の良い外交戦を戦う気勢が衰えている。

平家は迫り来る木曽義仲の軍勢から逃れるために、後白河院と安徳天皇を共につれて、皇位のシンボルである三種の神器を持って西下しようとする。そのために七月二十四日には院も天皇も法住寺殿に入らせている。後白河を連れての西下が実現していたら、九州を基盤にした政権ができていた可能性があり、このあとの歴史の展開がまるで違っていただろう。
しかし、このような修羅場を何度もくぐってきた後白河院は平家の計画を事前に察知して、二十四日夜半から二十五日未明にかけて、密かに法住寺殿を脱出する。鞍馬山に入り更に比叡山へ逃れた。いざとなると単独行動も辞さず断行するところに後白河の抜きん出た個性がある。『平家物語』によると右馬頭うまのかみ資時すけときが供に従っていただけであった。

『平家物語』巻七は「寿永二年七月廿五日に平家都を落はてぬ」という印象深い一文で終わっている。 後白河院が比叡山にいることが分かると公卿らが争って院の下にかけつける。平家は西海へ去り、京都は権力の空白状態となっている。『平家物語』は
平家は落ちぬれども、源氏はいまだ入かはらず。既にこの京は主なき里にぞなりにける。(巻八の初め「山門御幸」)
と述べる。慈円『愚管抄』は、平家が六波羅館に火を放って西下したので、盗賊どもが火に飛び込んで争って略奪することもあったと述べている。
平家は)六ハラノ家ニ火カケテ焼ケレバ、京中ニ物トリト名付タル者イデキテ、火ノ中ヘアラソイ入テ物トリケリ。(『愚管抄』巻五 古典体系本p254)
京都を警護する公的勢力が不在となるとただちに治安が乱れ、自衛組織を持つ寺社・大貴族などを除くと完全に無防備であり、強い危機を覚えたと思われる。一刻も早く後白河院が京都へ戻り、源氏勢力を使って京都警護をなさしめることが、まず求められた。
ソノ刹那京中ハ互ニツイブク(追捕)ヲシテ物モナク成ヌベカリケレバ、「残ナク平氏ハ落ヌ。ヲソレ候マジ」ニテ、廿六日ツトメテ(正しくは二十七日昼)御下京アリケレバ、近江ニ入リタル武田まずマイリヌ。ツヅキテ又義仲ハ廿六日(正しくは二十八日)ニ入リニケリ。(同前p255)
『平家物語』は、「廿八日」に法皇が京に戻り「木曽五万余騎にて守護し奉る」としている。義仲と行家が法皇の前にひざまづき、法皇は「さきの内大臣宗盛公以下いげ、平家の一族追討すべきよし」仰せ下さる。

このようにして、後白河院がギリギリの場面で決断して鞍馬・比叡への逃避行を果たしたことによって、彼が平家西下後の京都における政局の要を握ることに成功した。



《2》 後白河の臨時政権


寿永二年七月二十五日に平家は都落ちし、後白河が比叡山から都に戻ったのが二十七日夜である。二十六,二十七日の2日間は京都に国家権力の中心が存在しなかったことになる。この空白の2日間を経て、平家のいない京都に戻ってきた後白河を中心にして国家権力が再構成されていった。

『愚管抄』に「物トリ」が横行する記述があることを紹介したが、治安が悪く物騒な状況はしばらく続いたようだ。『玉葉』の八月六日には
京中、物取追捕、兼日に陪増し、天下已に滅亡し了んぬ。山崛巌穴、閑かなるべき所無し。三界無安の金言、誠なるかなこの言。(『訓読玉葉』)
とある。法華経の“三界無安 猶如火宅”は、中世を通じて広く知られていた仏教的世界観を表す決まり文句である。

後白河と公家社会は、平家が西へ去った後、自分らに内在する軍事力を持たなかった。そのこと自体とても興味深い考察対象であるが、ここではそれをただ指摘するのみにしておく。後白河と公家社会にとって、京都の治安維持が差し迫った危機であった。検非違使による警察権力も平家が去った後は崩壊していたと考えられる。
後白河の帰還と相前後して入京してきた義仲らの源氏勢力は、京中の在々所々から食物・日用品を収奪したので、京都の治安はひどいことになった。六万騎(これには誇張があろう)が入京したという源氏勢力を組織的に支える物流(ロジスティック)がなかったのだから、それは必然的な事態だった。しかも、後白河と公家社会は、そのような源氏勢力に京都の治安と西国へ去った平家討伐を期待する他なかったのである。
其日(二十八日)の辰の時(午前8時)ばかり、十郎蔵人行家伊賀国より木幡山を越て京都に入る。未刻ばかりに木曽冠者近江国より東坂本を通りて、同く京へ入りぬ。又其の外甲斐・信濃・美濃・尾張の源氏ども、此両人に相従ひて入洛す、その勢六万騎に及べり。入はてしかば在々所々を追捕し衣装をはぎとり、食物を奪ひとりしかば、洛中の狼藉なのめならず。

廿九日、いつしか義仲、行家を院の御所へ召して、別当左衛門督実家、頭左中弁兼光をもて、「前内大臣宗盛以下平氏の一類追討すべき由」両将に召仰す。両人庭上に膝まづきて是を承る。(中略)各々宿所候はぬ由を申ければ、行家は南殿のかやの御所給て、東山を守護す。義仲は大膳大夫信業が六条西洞院の亭を給て、洛中を警固す。
(『平家物語』「長門本」巻第十四)
義仲・行家ら源氏勢力にとってこの時点ではじめて「院宣」によって平家討伐をなすことになった。平家は賊軍となり、源氏が官軍となった。また、京都を「守護し奉る」ことは自明の理であったようである。このことも興味深い考察対象となる。入京した義仲ら源氏勢力は自己権力を樹立するという発想を取りつつ後白河らと政治交渉に入るという道もありえたと考えられる。なぜそうならなかったのかという問題である。後に論じるように、このことは「北陸宮の擁立」と係わってくると考えられる。ともかく歴史的事実は、義仲と行家は、それ以外の行動はありえないかのように、後白河法皇の前にひざまづいて平家討伐を誓い、京都守護の役目を負ったのである。

平家に捕らわれて西下することを拒否した後白河が、自ら鞍馬へ脱出したとき、彼はすでに安徳天皇を否定していたと考えられる。自分の孫であるが、安徳は「前帝」でしかないとして切り捨てている、そう発想するのが「治天の君」であろう。後白河にとって自明であったことは、彼が2日間の空白の後でも国家権力の中心に坐っているということであった。公家たちにとっても義仲ら入京してきた源氏勢力にとっても、後白河院が権力中心に坐ることは自明であった。
したがって、後白河が比叡山から下りてきた後に(七月二十八日以降)京都に出現したのは、天皇のいない「院」だけの政権である。天皇非在下に院だけが存在するという政権は、顔のない政権のようなものである。
このあと一月足らずの間、この不安定な状態が続く。わたしはこれを「後白河の臨時政権」と呼びたい。八月二十日に後醍醐天皇が神器無しで践祚するまでこの臨時政権は続く。この臨時政権にとって最大の課題は《天皇》をどうするか、という問題であった。

八月六日の『玉葉』によると、後白河院が「立王」のことを「思し食し煩」っていた。そこで、次のような下問が出された。
先づ主上(安徳)の還御を待ち奉るべきや。はた又しばらく剣璽無しといえども新主を立て奉るべきや(『玉葉』同八月六日)
これに対して、「官」(神祇官)と「寮」(陰陽寮)はそれぞれ「御卜」を行って答えた。
御卜を行われし処、官寮共に主上を待ち奉らるべき由を申す。(同前)
つまり、安徳が京都へ戻ってくるのを待つのが「吉」という占いだった。
ところが、後白河院はこの回答が気に入らず、再度「御卜」を求めている。二度目の御卜による答はすこし違いが出たらしいが、決着することができなかった。そこで、どうしたらいいか、兼実らに下問があった。『玉葉』のその部分。
しかも猶この事思し食す所に依り、重ねて官寮に問はる。各数人(官二人寮八人)の申状、かれこれ同じからず。但し吉凶半分なり。この上の事、何様いかように沙汰あるべきや、計らひ申すべしといへり。(同前)
兼実はまず議定において人意一決しないときは占卜によるべきだと述べ、しかし、それは議奏のときに行われるべきだとし、さらに「卜は再三せず」という原則を破っているのはまことに「然るべからず」と、大いに怒っている。

その上で、兼実は新天皇を立てるべきであることを主張している。これは、公家の間ではかなり思い切った主張であったと思われる。
立王いまに懈怠、愚心傾き思ふ所なり(私は立王さるべきと必死に考えている)。その故は、まず京華の狼藉今に止まず。これ人主(天皇)御座せざるが然らしむるなり。(中略) 凡そ天子の位、一日もむなしくすべからず。政務悉く乱ると云々。今に遅々の条、万事違乱の源なり。早速沙汰あるべし。(中略)就中征伐のため人主を立て奉るべき条、事の肝心なり。仍ってはやく立王のことあるべし云々といへり。(同前)
治安のためにも平家征伐のためにも、早く立王すべきだ、これが兼実の考えである。
以上の引用はいずれも八月六日の『玉葉』からであるが、多くの『平家物語』が述べるように後白河が三四の宮を面接したのが八月五日だったとすれば、すでに、後白河は四宮を新天皇にすることを決めていたことになる。
九日の『玉葉』には次のように書かれている。
伝へ聞く、去る六日解官二百余人ありと云々。時忠卿その中に入らず。これ還御あるべき由を申さるる故なりと云々。朝務の尫弱、これを以て察すべし。憐れむべし憐れむべし。(『玉葉』寿永二年八月九日)
西国へ去った平家一族をこの時点ですべて解官したが、それが二百余人を数えた。しかし、その中に平時忠(貴族平氏の雄。平時子の同母弟)は含まれていなかった。時忠は正二位権大納言であったが、それをそのまま残して、安徳と三神器を京都へ返すように交渉する平家方の相手であった。兼実は、安徳と神器の返還を期待する政治姿勢を「朝務の尫弱」として批判し嘆いているわけである。

当初、安徳天皇と三神器を京都へ返還せよ、という院宣を平家に対して発することがまず発想され、西下した“貴族平氏の雄”ともいうべき平大納言時忠へ「御教書」がわたされた。実際にそれが発せられたのがいつなのかはっきりしないが、かなり早い段階であったことは確かで、時忠からの返書は八月十日に届いた。
その状に云はく、
京中落居の後、剣璽已下の宝物など還幸あるべき事、前内府(宗盛)に仰せらるべきかと云々。

(源氏が追い出されて)京中が落ちついたら剣璽などを戻すべきことを、宗盛殿へ説得したらどうですか。
事の体頗る嘲弄の気あるに似たり。
(『玉葉』同月十二日条)
時忠は「私などに言わず軍事責任者の宗盛殿へ、源氏を追い出して京都が落ちついたら、剣璽などをもって戻ってきて欲しい」と話したらどうですかと、嘲弄するかのような文面を寄こした。軍事的な対立関係にある源氏-後白河臨時政権と平氏の間に妥協の余地はないことがはっきり示されている。兼実は上引の先で、今の情勢は「中国の三国史」の如きだ、と適切な感想を述べている。
大略、天下の体、三国史の如きか。西に平氏、東に頼朝、中国京都已に剣璽無し。政道偏に暴虎と尫弱となり。甚だそのたのみ無きに似たるか。(『玉葉』同月十二日条)
この情勢下での《天皇》問題は新天皇の擁立しか解決はない。ことヽヽをもっとも手近で解決するには、京都の最高権力者である後白河自身が天皇になることである。そのまま自己権力を樹立するのである。つまり後白河の重祚である。その場合に三種の神器がないことが障害となるが、しかし、それは誰が新天皇になろうとついて回る障害である。平家が神器を返してくれないことにはどうにもならない。したがって、神器の返還を交渉することは平家との交渉課題とはなるが、ほとんど成功するはずのない交渉である。
ともかく、後白河の重祚は現実的であり、可能性が高い選択肢であったと考えられる。

広本系『平家物語』にはこの間の事情を思わせる記述が出ているものがある。「長門本」(国書刊行会1906)から引用する(国会図書館の「デジタル化資料」の中にPDFファイルで公開している ここ)。
主上(安徳天皇)外家の悪党(平家)に引かれて、西國へ赴給ふ事もつとも不便に思召されて、速に返し入奉るべきよし、平大納言時忠卿の許へ院宣を下さるヽといへども、平家用ひねぱカ及ばすして新主(新天皇)をすへ奉るべき由、院ノ殿上にて公卿僉議あり、主上還御あるべきよし御心の及ぶほどは仰せられて、今はとかくの御さたに及ぶべからず、但びんきの君(適当な候補)渡らせ給はずば、法皇こそ、還り殿上せさせましますべけれと申さるヽ人々もあり、

平家に連れて行かれた安徳を「都へ返せ」と、平時忠あてに後白河が申し入れたが、平家が承知しないのでどうしようもない。安徳還御を後白河が充分に述べた上で実現しないのだから、適当な候補がなければ院自身が重祚するほかないと、新天皇問題の会議で述べる人もあった。(「長門本」第14巻p545)
次図は、西海に去った安徳の後を継ぐべき天皇候補を考える際の、系図である。
上で述べたように、後白河自身の重祚は充分に合理性も説得力もある選択肢であった。だが、おそらく後白河自身が、天皇として難局の矢面に立つことを肯んじなかったのだと思う。そのためこの案は陽の目を見なかった。後白河は「院政」の手法の利点を自覚していて、権力中枢にはシンボル的に天皇を置き、ワン・クッションおいて院が政局を牛耳るという手馴れた手法を望んだのであろう。

しかし、系図を見ると八条院・暲子が後白河の兄妹として候補者たり得ることが分かる。莫大な財産を鳥羽・美福門院から相続しているだけでなく、以仁王を猶子にするなど度量ある人物として知られていた。彼女は后を経験せず女院号を授かった最初の例であるが、それだけの才能と力量が認められていたものと思われる。
実際に八条院の女帝を主張する人もあったという。上引『平家物語』「長門本」の続きである。
或は鳥羽院の乙姫宮八條院、即位あるぺきかと申さるヽ人もあり、女帝は第十五代の神功皇后より始め奉て、推古、持統、元明、元正也、法皇思召し煩はせ給けり、(同前)
女帝の前例もあることだから、差し支えないだろうというのである。源氏蜂起のきっかけとなったのは「以仁王の叛乱」であった。八条院は以仁王を猶子としていたというだけでなく、八条院の女房との間で以仁王は何人かの子女を設けており、そのうちの一人(第二王子・道尊)を平家に引き渡すかどうかの愁嘆場が語り物系『平家物語』巻第四「若宮出家」に述べられている。したがって八条院は以仁王を援助して間接的ながら源氏蜂起に寄与した有力皇族であった。したがって、今後予想される頼朝など源氏側との交渉がスムーズであろう。
八条院がクローズアップされる背景にはそういう事情が存在していたと考えることができる。

過去に前例のない程の異例の状況、天皇も三神器も西海に去った状況で、京都の権力構造の中心に誰を立てるかという難題にたいして、幼い天皇を形式的に擁立するという“クッション”の多い手法より政治経験も深い成人の天皇を立てるべきだという論が当然の事ながら主張されたのである。後白河の重祚、もしくは八条院の女帝論である。
だが、実際のところは、幼帝を立てることで話が進んだ。『平家物語』「長門本」は、丹後局たんごのつぼねが、高倉天皇の第三、第四の皇子が健在であることを後白河に進言したことになっている。
丹後の局申されけるは、故高倉院ノ宮王子二(の宮)をば平家拘引奉りぬ、三四の宮はたしかに渡らせ給ふ、平家の世には、御世をつヽませ給てこそ渡らせ給ひけれども、今は何かは御はヾかりあるべきと申されけれぱ、法皇うれしく思召して、もつとも其儀左もありぬべし、同くば吉日に見参すべしとて、泰親に日次を御尋ありけれぱ、来八月十五日と勘申、その儀なるべしとて、事定らせ給けり、

丹後局が院に申した。「故高倉院の一宮=安徳と二宮=守貞をつれて平家は西下した。三・四の宮は京都にたしかにいらっしゃる。平家の世のときはひっそりとしておられたが、今は何を憚ることもないでしょう。」法皇は喜んで「吉日を選んで会おう」といい、「八月十五日」に対面することになった。(「長門本」同前)
この丹後局という女性は、高階たかしな栄子で浄土寺二位ともいわれた。当時の宮廷で力を発揮していた女傑で、“好色の女性”として知られており、後白河の娘も生んでいる。(この時代の「三女傑」として、高階栄子の他に北条政子と鳥居禅尼が挙げられることがある。鳥居禅尼は源為義の娘で熊野別当に嫁入りし、治承・寿永の内乱で熊野水軍を源氏方に転じるのに功績があった。後に鎌倉幕府の御家人となっている。



《3》 三つ巴の皇位問題


皇位問題について、通常の『平家物語』(語り物系の『平家物語』)と広本系の『平家物語』(「長門本」、「延慶本」、『源平盛衰記』など)との一番の相違は、語り物系では後白河院重祚や八条院女帝の可能性が論議されたことにまったく触れていないことである。語り物系では、はじめから「三四の宮」のいずれを「新主」とするかという話に焦点を当てて述べている。つまり、語り物系はそれだけ歴史の結果が分かりやすく定型化されて整理されているといえよう。西国にいる安徳天皇に対抗して、都では後鳥羽天皇が位につく筋立てを前提にして物語が語られる、という単純で分かりやすいものになっている。歴史の幅がそれだけ狭くなっていることは避けられない。“平家物語史観”には常にそういう問題があることを承知しておく必要がある。

上で示したように「長門本」では法皇と三四の宮との面会の日を「八月十五日」としているが、他の『平家物語』では「三四の宮」との対面の日を「八月五日」としている(わたしが調べたのは、延慶本、源平盛衰記と語り物系の岩波古典体系本と百二十句本)。
岩波体系本からその場面を引いてみる。
高倉院の皇子は、主上(安徳)のほか三じょましましき。二宮をば儲君もうけのきみ皇太子)にしたてまつらんとて、平家いざなひまいらせて、西国へ落給ぬ。三四は都にましましけり。

おなじき八月五日、法皇この宮たちを迎へ寄せまいらせ給ひて、まづ三の宮の五歳にならせ給ふを、「是へ是へ」と仰 せければ、法皇を見まいらせ給ひて、大きにむつからせ給ふあひだ、「とうとう (はやくはやく)」とていだしまいらさせ給ぬ。

その後四の宮の四歳にならせ給ふを、「是へ」と仰せければ、すこしもはばからせ給はず、やがて法皇の御膝の上にまいらせ給ひて、世にもなつかしげにてぞましましける。法皇御涙をはらはらとながさせ給ひて、「げにもすぞろならむもの(血縁のないもの)は、かようの老法師を見て、なにとてか懐かしげには思ふべき。是ぞ我まことの孫にてましましける。故院(高倉院)のおさをひにすこしもたがわせ給はぬものかな。」
(表記は読みやすくしている。岩波古典体系本『平家物語』下p120)
後白河院が京都にいる三四の宮を呼んで自ら“面接試験”をやり、人見知りしなかった四の宮が“合格”したというわけである。末弟・尊成たかなりが新天皇・後鳥羽として選ばれたのである。

この“面接試験”の話は講談ばなしなどにありそうな、ちょっと面白すぎる仕立てになっている。しかし、どの『平家物語』も載せているとろこからすると、このような面接は実際にあったと考えてよいであろう。三四の宮を後白河が呼んで実際に会ってみた、その舞台回しに丹後局がどうやら働いていたらしい、後白河は早い段階から(八月五日の面接の時から)四宮を新天皇にすることを決めていたらしく思われる。

ところが歴史の実際はもっと複雑であった。八月十四日に木曽義仲が北陸宮ほくりくのみやを新天皇として推すという、公卿らにとっては驚天動地の出来事が起こったのである。北陸宮は以仁王の第1王子である。

以仁王は後白河の第3皇子であったが、皇位継承の可能性を消すために幼くして出家させられ比叡山座主・最雲法親王の弟子になった。“法親王”となる道である(後白河の第1皇子は二条天皇、第2皇子は守覚法親王)。ところが最雲が死去したために還俗した。母は藤原季成の娘・成子で閑院流藤原氏、家柄は一流と言ってよい。皇子の元服は影響が大きいために貴族社会から公認される必要があるが、憲仁親王(高倉天皇)の母・平滋子の妨害があったとされる。以仁王は元服がなかなか出来ず、結局、私的な元服を強行した。その場所は近衛河原の大宮御所(二代后にだいきさき」で有名な大宮・多子の館)であり、そのあと八条院・暲子の猶子となっている。つまり、皇位継承の資格者としての以仁王に対して、それらの有力貴族たちの後援があったことは間違いない。以仁王の同母姉に歌人としても知られた式子内親王がおり、以仁自身も音楽の才能に優れた英才と言われていた。
しかし、以仁王へは親王の宣下さえなされなかったために、いわば日陰者として“若隠居”的な生活をしていた。彼は平氏の力で皇位に付いた高倉天皇(憲仁、後白河第5皇子)の実に十一歳年長であり、高倉即位のとき以仁王はすでに十八歳であった。以仁王はあちこちに妻を持ち、かなりの数の子女を設けていた。その第1王子が北陸宮であり、母は八条院の女房である。(『平家物語』巻四で、以仁王の乱が破れ、その王子らを捜索に八条院御所へ池の中納言頼盛が来て王子を連れていく場面があるが、あの王子は第2王子で、後の道尊である。東寺長者・仁和寺別当などになった。

第1王子・北陸宮は仁安二年(1167)生まれとされるから、以仁王の乱の時(治承四年1180)十四歳。北陸宮は出家して乳父・讃岐前司重秀に伴われて越前国へ逃れ、木曽義仲の庇護の下に動くことになる。寿永二年の今年十七歳ということになる。十代の後半にある北陸宮は当時の基準では充分に成人した新天皇候補者である。系図を見れば分かるように、血族上では三四の宮と同じく、後白河院の孫である。

広本系の『平家物語』には木曽義仲が北陸宮を新天皇として推挙する言葉を載せている。『源平盛衰記』(巻第三十二)を引用するが、「延慶本」(巻第四の(二))もほぼ同文である。
義仲は高倉院に御子即位の事、内々泰経卿申旨有ければ、同十四日に、俊暁僧正を以義仲に御尋あり。勅答には、
国主の御事辺鄙之民して是非を申能ず、但故高倉宮(以仁王)、法皇の叡慮を慰め奉らんが為、御命を失われ、御至孝の趣、天下其隠れなし。いかでか思召さざらんや。なかんずく彼の親王の宣を以て源氏等義兵を挙げ、已に大事を成し畢ぬ、而今受禅沙汰の時、此宮の御事、偏に棄置き奉らる議中に及ばざるの条、尤も不便の御事也、主上(安徳)已に賊徒(平家)の為に取籠められ給へり、彼の御弟何ぞ強に尊崇奉らるべけん哉、此等の子細更に義仲の所存にあらず、軍士等の申状、言上する計也

天皇選びについて、辺鄙の民が申し上げることはできません。しかし以仁王が、捕らえられていた法皇のために命を投げ出したこの上ない孝行は、天下だれもが知っております。しかも、その宣旨によって源氏が蜂起し、すでに平家を都から追い落とすという大事をなし遂げました。いま新天皇選びのとき北陸宮を議論にも挙げないのは納得できません。安徳はすでに平家にとらえられています。なんでその弟たちを尊崇して新天皇候補にするのでしょう。この意見は義仲のものではなく、わが兵士らの意見を代わって述べているまでです。
と申しければ、人々義仲申状其の謂れ無きに非ずとぞ申合われける。
(『源平盛衰記』有朋堂文庫1912 下巻p219)
『玉葉』は八月十四日条に、義仲が行った議論を大蔵卿泰経の報告を書き留める形で、記録している。泰経は「以ての外の大事」と表現している。
践祚の事、高倉院の宮二人(一人は義範の女の腹五歳、一人は信経卿の女の腹四歳)の間、(後白河院が)思し食し煩ふ処、以ての外の大事出で来たり了んぬ。義仲今日申して云はく、
故三条宮(以仁王)の御息北陸にあり。義兵の勲功かの宮の御力にあり。仍って立王の事に於ては、異議あるべからざる由所存なり(異議あるはずがないと考える)と云々
仍って重ねて俊堯僧正を以て(義仲と昵懇たる故)、(後白河院が)子細を仰せられて云はく、
わが朝の習ひ、継体守文を以て先となす(祖先の遺体を継ぎ、決まり事を重んじてきた)。高倉院の宮両人おはしまし、その王胤を置きながら、強ちに孫王を求めらるる条、神慮測り難し。この条猶然るべからざるかと云々。

皇位継承権は先帝の息子たちが優先されるのがわが朝のしきたりである。高倉院の三四の宮がいるのに、あえてそれを飛ばして(後白河院の他の)孫を求めるのか。賛成できない。
義仲重ねて申して云はく、
かくの如き大事に於ては、源氏等執し申すに及ばずと雖も、粗事の理を案ずるに、法皇御隠居の刻(後白河院が清盛によって籠居せしめられたとき)、高倉院権臣を恐れ、成敗無きが如し。三条宮至孝に依りその身を亡す。いかでかその孝を思し食し忘れざらんや。猶この事その鬱を散じ難し(この事について不満の気持ちがわだかまっております)。但しこの上の事は勅定にあり云々(しかし、これ以上は後白河院のお考え次第です)。
といへり。
父院・後白河が籠居の憂き目にあっているというのに、高倉天皇は平家におもねって「成敗無きが如し」だったじゃないですか。それに引き替え三条宮・以仁王は平家に対して蜂起し命を投げ出して「至孝」を示された。その高倉の息(三四の宮)と、以仁王の息(北陸宮)は比べものにならない。「継体守文」などと言っている場合ですか。
義仲はこういう論を持って宮廷政治へ、しかも危機的状況における新天皇選定というもっとも高度な問題へ切りこんでいった。清盛を別とすれば、武士が宮廷政治の現場において意見を述べることは前例のないことであった。3つの側面を指摘しておく。 このような、なかなか手強い義仲の論法に対して、公卿会議が対抗して行ったのは、なんと“イチンチキの占い”であった。 十八日の『玉葉』にかなり詳しく述べてある。静賢法印からの伝達である。
立王の事、義仲なお鬱し申すと云々。この事先づ始め高倉院の両宮を以て卜せらる処、官寮共に兄宮を以て吉となす由これを占い申す。その後、女房丹後(御愛物遊君、今は六条殿と号す)の夢想に云はく、
弟宮(四位信隆卿の外孫なり)行幸あり。松の枝を持ちて行く由これを見る。
法皇に奏す。仍って卜筮にそむき、四宮を立て奉るべき様思し召すと云々。

然る間、義仲北陸宮を推挙す。仍って入道関白(藤原基房)、摂政(藤原基通)、左大臣(藤原経宗)、余、四人召しに応じ、三人参入し、余病ひに依り参らず。
かの三人各申されて云はく、基通と経宗は、
北陸宮一切然るべからず、但し武士の申す所恐れざるべからず。仍って御卜を行はれ、かの趣きに従はるべし。
松殿(基房)は、
一向占ひに及ばず。御子細を義仲に仰せらるべしと云々。(占いなどせず、一切を義仲に打ち明ける。
余(兼実
只勅定を奉る由を申し了んぬ。(後白河院の決定あるのみ。
仍って折中し御占を行はるる処、今度、第一四宮(夢想の事に依るなり)、第二三宮、第三北陸宮(このように番号を付けておいて、占いを行わせた)。官寮共に第一吉の由を申す。第二半吉、第三終始快からず。

占形を以て義仲に遣はす処、申して云はく、
先づ北陸宮を以て第一に立てらるべき処、第三に立てらる。謂はれ無し。凡そ今度の大功、かの北陸宮の御力なり。いかでか黙止せんや。なお郎従らに申しあわせ、左右を申すべき由申すと云々。
凡そ勿論の事か。左右する能わず。(論ずるまでもないことだ。)凡そ初度の卜筮、今度の卜筮と一二の条を立て替へらる。甚だ私事あるか。卜筮は再三せず。而るにこの立王の沙汰の間、数度御卜あり。神定めて霊告無きか。
(『玉葉』八月十八日)
インチキ占いを義仲はすぐ見破って、怒ったのである。だが、四宮即位へむけて公卿会議はすでに準備をすすめており、二十日に践祚の式が神器無しで行われた。即位は九月十三日(「親経卿記」)。



《4》 時忠の怒り


九州にいる平家が京都で四宮が即位したことを聞いて、いろいろと噂をしたことが、『平家物語』巻八に出ている。そのなかに、北陸宮が即位する可能性が指摘された話がある。
平家は西国にて是を伝えきき、
やすからぬ(残念だ)。三の宮をも四の宮をもとりまいらせて、落ちくだるべかりしものを。
と後悔せられければ、平大納言時忠卿、
さらむには(もし、そうなったら)、木曽が主にしたてまつる高倉宮御子を、御めのと讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具しまいらせて北国へ落ちくだりしこそ、位にはつかせ給はんずらめ。
との給へば、又ある人々の申されけるは、
それは、出家の宮をばいかが位にはつけ奉るべき。(出家した宮をどうやって皇位につけることが出来るのか。出来ないでしょう。
(岩波古典体系本、巻第八 下p127)
これに対して時忠は、「出家した皇子が還俗して皇位に付いた例はある、天武天皇がそうだ」などと、更に論を展開する。要するに、西国にいる平家としては(安徳政権としては)、京都の後白河政権が新天皇を立てることをどのようにしても阻止することは出来ない、というのである。ある意味では、京都で後鳥羽天皇が立ったことを認めようという態度であるとも言える。(岩波古典体系本の頭注は、「(時忠は)尊成が即位した方が、義仲のかついでいる高倉宮の遺子よりも平家にとって有利であるといいたいのだろう」と、うがった注をつけている。

わたしはここで時忠が神器に言及していないことに興味がある。つまり“三種の神器をもたない天皇は、天皇の伝統から切れた偽物にすぎない”という論を立てていないことである。

「治天の君」とはずいぶん大げさに言ったものだが、世俗に引き下ろして言えば「天皇家の家長」ということだろう。平家が西国へ連れ去った安徳天皇はこの時点で六歳である。いかに強弁しても安徳を「天皇家の家長」とは言えないだろう、実際、だれもそうは言っていない。祖父・後白河が京都に健在である限り、後白河が「治天の君」であることはだれにとっても自明であった。「治天の君」とその回りに集まった公家たちの合意が“尊成親王を新天皇へ”である限り、その合意にまさる威力はどこにも存在しなかった。神器があろうがなかろうが、問題ではなかった。
三神器は天皇のシンボルであるが、シンボルをシンボルたらしめているのはシンボルとして承認している政治的合意であった。“シンボルが無ければ天皇たりえないか”という問がギリギリの状況で発せられ、治天の君とそれを取り巻く公家社会は“最後の決め手は神器ではなく政治の意志である”という答をなしたのである。当然の答である。

三神器が天皇制の原初期から存在していたとは考えられないし、権威を持っていたとも考えられない。神器が権威を発揮するのは、天皇の系列が長期にわたって安定的に持続しており、その系列をより神秘化しより権威づける機能を求められているときである。寿永二年七~八月のように、天皇の系列が断ち切れ分裂した際には神器の神秘性は消し飛んでしまっている。“政治の意志”が一致して指名した者があれば、それがそのまま新天皇となるのである。
しかも、むしろそれこそが天皇制の原初の形であったと考えられる。“政治の意志”というのは“宗教の意志”と言っても、この場合は、同じである。

歴史のこの時点で、“三種の神器の権威が失墜しているか”と考えるとそれは明らかに間違いである。むしろ天皇制の分裂の危機に、多くの人々(公家社会の人々)が政治的権威の淵源について深刻な思いをなしたと思われる。京都の政権側(八月二十日践祚のあとは、後白河院政が復活したと言ってもいいが)では、神器の返還を前にもまして強く平家側に要求した。新天皇・後鳥羽が天皇制の伝統に連なる権威ある天皇であることを主張するのに、三種の神器を保持していることは最も好都合であったから。
裏返して言えば、西国の平家政権にとっては三種の神器を持っていることが大きなアドバンテージになっていることはよく分かっていたはずで、いかなる交渉によってもそのまま京都へ神器を渡すことは考えられないことだった。

寿永二年七月西国へ下った平家一門は、九州に定着することには失敗するが、同十月に讃岐の屋島に拠ることで瀬戸内海一帯に勢力を広げる。さらに平家は一の谷の陣地(詳しくいえば、東が「生田の森」から西が「一の谷」)を築き、やがて京都をもうかがおうという勢力伸張をなす。
ところが、一の谷の合戦(寿永三年=元暦元年1184 二月七日)で平家が大敗北をし、屋島へ退く。『平家物語』では、この合戦の勝敗を決したのは義経軍が「ひよどり越え」を通って一の谷の裏山から逆落としの急襲を仕掛けたのが成功した、というふうに語られる。多くの平家の武者が死に、捕虜となった。

この合戦で捕虜となった平重衡(清盛の5男)と交換で三神器を返還しないか、という後白河院から屋島の宗盛宛の院宣が「屋島院宣」(『平家物語』巻第十)なのである。大敗北を喫した弱り目の平家に対して、追い打ちをかけるべく院宣が出されたのである。
後白河院の舌先三寸の外交は悪辣極まるもので、一の谷合戦における平家の大敗北は義経の「逆落としの急襲」の卓抜な戦術によるものではなく、後白河による騙し討ちに平家がしてやられたということであったらしい。
そのことは、次に見る『吾妻鏡』(寿永三年二月廿日)が記録している宗盛の「院宣への返書」によってわかる。後白河の騙し討ち戦法の片棒を担いだ源氏にとっては有利な資料ではないのだから、わざわざ捏造して『吾妻鏡』に載せるはずはない、ということから、史実であったと信じられている。
宗盛の返書は長いものなので、途中から、後白河の謀略を平家が疑っている個所を引く。最初に出てくる「去ぬる六日」とは、一の谷の合戦(寿永三年二月七日)の前日である。平家軍へ京都から軍使が「和平の儀」を交渉に出向く、という通知があったのである。
去ぬる六日、修理権大夫(坊門親信)、書状を送りて云はく、
和平の儀あるべきによって、来八日に出京し、御使として下向すべし、勅答(安徳天皇の返答)をうけたまはりて帰参せざるの以前に、狼藉あるべからざるの由、関東の武士等に仰せられをはんぬ。またこの旨をもって、早く官軍等(平家軍)に仰せ含めしむべし
てへれば、この仰せを相守り、官軍等もとより合戦の志なき上、存知に及ばず、院使の下向を相待つのところ、同七日、関東の武士ら叡船えいせん平家軍の船)のみぎわに襲ひ来る。院宣限りあるによって、官軍等進み出ずること能はず。おのおの引き退くといへども、かの武士等勝つに乗りて襲ひ懸り、たちまちにもって合戦し、多く上下の官軍を誅戮せじめおはんぬ。
この條何様いかように候ふ事ぞや、子細もっとも不審なり。もし院宣を相待ちて左右さうあるべきの由、かの武士等に仰せられざるか。はたまた院宣を下さるといへども、武士承引せざるか。もしために官軍の心を緩め、たちまちにもって奇謀を廻らさるるか。つらつら次第を思ふに、迷惑恐歎、いまだ朦霧を散ぜず候なり。自今以後のため、向後将来のために、もっとも子細を承り存ずべく候なり。
(『全訳吾妻鏡』巻1 p146)
和平交渉の使者・坊門親信が来るのを待っていたので、七日は平家軍は完全に休息モードだった、そこを源氏軍が容赦なく襲ってきた、というのがこの返書の主旨である。つまり、一の谷の合戦というのは、後白河の騙し討ちだった、ということになる。

『玉葉』寿永三年二月二九日条には、宗盛が自分を讃岐国に安堵してもらえれば神器・安徳帝・女院(建礼門院)・八条院殿(?)を都へ返還しても良い、という極めて軟弱な妥協案を都へ伝えたことが記録されている。この妥協案は成立しなかったのだが、『平家物語』の叙述ではうかがえない歴史の振れ幅を感じる。
或人云、重衡所遣前内大臣許之使者、此両三日帰参、大臣申云、畏承了、於三ヶ宝物并主上女院八条院殿者、如仰可令入洛、於宗盛ハ 不能参入、賜讃岐国可安堵、御共等ハ 清宗ヲ可令上洛云々、

或る人の情報では、重衡が屋島の前内大臣宗盛へ遣った使者が、帰参した。宗盛が言うには
畏まって承った。三宝物と主上・女院・八条院殿は仰せの如く入洛させます。宗盛は参るわけにはいきません。讃岐国を賜って安堵していただく。主上(安徳)の御供には清宗を上洛させます。
宗盛は、自分は讃岐国に安堵してもらえば、神器・安徳帝・女院(建礼門院)・八条院殿を都へ返してもよい、といっている。これは、一の谷での平家の敗北がいかに徹底的であったかを物語っている。宗盛は源氏と対峙し京都奪還を目指すという目標をあきらめ、せめて讃岐国で細々とでも生き残りたいという負け犬の発想になっている。

『玉葉』は翌日(二月三十日条)でも
定能卿来、談世上事、平氏申可和親之由云々

定能卿が来訪、世上の事を談じた。平氏が和親したいと申している。
と書いているので、宗盛の妥協案は本当だったのだろう。宗盛はたしかに平家の総大将であるが、それは清盛の三男という生まれがそうしたのであって、必ずしも戦略的なリーダーであったとはいえないようである。「平家物語」はそれを誇張して、女々しい総大将として描いているのだろう。

後白河は一の谷合戦で平家を騙し討ちしているし、頼朝も平家との軍事的対立を中途で終わらせるつもりはなかったであろう。後白河は宗盛のこの妥協案をまったく問題にしなかった。宗盛は、後白河や頼朝が持っている悪辣さをも包含する政治力学を理解していなかったように感じられる。上で示した『吾妻鏡』の「宗盛返書」が表しているのは、“善意の人・宗盛”である。

『平家物語』の返書(請文)は毅然とした態度で貫かれている。その終わりの部分を引用する。「請文」の日付は「寿永三年二月廿八日」である。
且つは当家数代の奉公、且つは亡父数度の忠節、思しめし忘ずは君かたじけなく四国の御幸あるべき歟。時に臣等院宣をうけ給はり、ふたたび旧都にかへって会稽の恥をすすがん。もし然らずは、鬼界・高麗・天竺・震旦にいたるべし。悲哉、人王八十一代の御宇にあたって、我朝神代の霊宝、つゐにむなしく異国のたからとなさん歟。 (岩波古典体系本「巻十」下p253)
ここには宗盛が示したような軟弱な妥協的な姿勢は微塵もなく、後白河こそが四国へ来るべきだ、と言っている。その上でなら京都へ帰ることも考えられる。そうでなければ、三神器は異国の宝となってしまうだろう、と突き放している。おそらく、この「請文」には時忠ら平家軍主流が持っていた法皇や頼朝に対するリアルな軍事的・政治的な認識が生きていると考えられる。平家軍主流がこのようなリアルで戦闘的な認識を保持していなければ、源氏軍との対峙を持続することは不可能であったし、多くの武士たちが壇ノ浦で入水して滅亡することはありえなかった。
名高い知盛(新中納言、清盛の四男)の入水の場面を引いておく。
新中納言
見るべき程の事は見つ、いまは自害せん
とて、めのと子の伊賀平内左衛門家長をめして、
いかに、約束はたがうまじきか
との給へば、
子細にやおよび候
と、中納言に鎧二領きせ奉り、我身も鎧二領きて、手をとりくんで海へぞ入りにける。是を見て侍ども廿余人後れたてまつらじと、手に手を取り組んで、一所にしづみけり。
(『平家物語』巻第十一)
知盛の自死も印象深いが、それをきっかけに「侍ども廿余人」が一所に入水したという壮烈な有様は更に印象深い。平家軍の主流を支えていた「戦いの思想」が確かに存在しており、それは、二枚舌・三枚舌の後白河の外交戦術や、非妥協的な源氏軍との戦闘に対抗するだけの徹底性を持っていたと考えられる。

平家物語に表されている時忠の怒りが問題の急所を良く押さえているとわたしは考えている。『源平盛衰記』は次のように述べている。花方はながたは、「御坪の召次」という雑人階層の者だが、院宣(屋島院宣)の運び役となった人物。
平大納言時忠卿、花方を捕てかねを以てつらを焼に、波方なみがたとぞ焼附たる。その後もとどりを切、鼻をそいで、
是はおのれおまえ)をするには非ず
とて追放おひはなしけり。
(『源平盛衰記』第三十八)
使いから都に帰った花方に対して、後白河院は「波方という名で、引き続き仕えよ」と言った、という。もちろん、時忠は「後白河の顔に焼印を押すつもりだぞ」と言いたかったのである。

壇ノ浦の滅亡の後、時忠は捕虜となるが、貴族平氏であったためか死刑にはならず、能登への流刑になり、そこで死ぬ(文治五年1189 二月)。平時忠は『平家物語』巻第一で、「時の人平関白へいかんぱくとぞ申しける」と紹介されているが、何といっても
この一門にあらざらむ人は皆人非人にんびにんなるべし(『平家物語』巻第一 「禿髪かぶろ」)
と言った、というのがよく記憶されているだろう。時忠は平家権力の思想的支柱であったが、清盛急死後に後白河院と対峙した平家側の人物として、際立っていた。



《5》 宝剣喪失


八歳の安徳天皇は二位殿(お祖母さんにあたる、清盛の妻・時子、時忠の姉)に抱かれ、入水する。時子は、安徳帝とともに入水するという意志は固かったようだ。その非妥協的な態度から分かるように、年長者でもある時子は時忠と共に西国へ逃れた平家一門の思想的支柱のひとつであった。家刀自的な力を集めていたのではないか。『愚管抄』は時子について「ユユシカリケル女房ナリ」(勇ましい女性だった)と記している(巻第五 岩波体系本p246)。

有名な安徳帝入水の場面。
二位殿はこの有様を御覧じて、日頃おぼしめしもうけたる事なれは、鈍色の二衣ふたつぎぬうちかつぎ、練り袴のそば高くはさみ、神璽をわきにはさみ、宝剱を腰にさし、主上をいだきたてまつって、
わが身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ。君の御ともにまいるなり。御心ざしおもひまいらせ給はん人々は、いそぎつづき給へ。
とて、ふなばたへ歩みいでられけり。(中略)二位殿やがていだき奉り、
波のしたにも都のさぶらうぞ
となぐさめ奉って、千尋ちいろの底へぞいり給ふ。
(岩波体系本、巻第十一)
神璽と宝剣を身につけ、安徳天皇を抱いて入水したとなっている。だが、「120句本」や『源平盛衰記』では、二位尼は自分と安徳を帯で縛りつけて、入水したとなっていて、その方がより事実らしく思える。
先帝(安徳)を懐き奉り、帯にて我身に結び合わせまゐらせ、宝剱を腰にさし、神璽を脇に挾みて、ふなばたに臨み給ふ。(『源平盛衰記』巻第四十三)
『吾妻鏡』(元暦二年三月廿四日条)は異なり、二位尼・時子が宝剣を持ち、按察局あぜちのつぼねが安徳帝を抱いて、「共にもって海底に没す」としている。按察局は救助されている。

二位尼が脇に挟んでいた神璽は、やがて浮き上がってきて、片岡太郎親経という義経の郎等によって掬い上げられる。内侍所神鏡)は、櫃に入っているのだが、その櫃を大納言のすけ安徳の乳母、重衡妻)が海へ入れようとするが袴の裾を船に射付けられて倒れ伏して果たすことができなかった。源氏の武士らが櫃の錠をねじ切って中を見ようとしたとたんに、「目くれ鼻血垂る」。神秘なものの威力に俗人が触れたときの症状を表現する常套句。それを見ていたすでに捕虜になっている平時忠が「神にてわたらせ給ふものを、凡夫は見奉らぬものを」と叫ぶ。義経が状況を察して時忠に元の如く櫃にしまわせた。『吾妻鏡』(上と同条)にもこの記事があり「時に両眼たちまちれて、神心惘然ぼうぜんたり」と述べていて、武士政権が皇室の神秘性を尊崇する態度を示している。

ところが宝剱はその後の懸命の潜水による捜索によっても、出てこない。
宝剣は長く沈みて見え給はず。かつぎする海人あまに仰せて求めさせ、また水練長ぜる者(泳ぎに熟達した者)を召して求めさせらるれども、見えざりけり。
天神地祇幣帛をささげ、大法、秘法を修せられけれどもげんなし。竜宮に納めてんげるやらん(納めてしまったのだろうか)、そののちはいまだ出で来ず。
(『平家物語』「120句本」巻十一 第百六句)
宝剣が喪失してしまったことは、当時の人々にとって深刻な思想的な事件であった。それが伺えるのは『平家物語』(巻十一)に「剣」ないし「剣の巻」を設けて、失われた宝剣・草薙剣の由来を詳しく述べていることである。素盞鳴尊(「そさのをのみこと」と読ませている)が出雲国で大蛇の尾の中から取りだした霊剣「天叢雲あめのむらくも剣」を、天照大神に奉る。そのとき天照大神は「これはむかし、高間の原にてわが落としたりし剱なり」と言って、受け取る。崇神天皇の時レプリカを造って天皇の守りとし、本物は天照大神の社殿におかれていた。日本武尊(「やまとたけのみこと」と読ませている)が東征に出かける際、天照大神が尊に霊剣を授けた。駿河国で野火を避けるために草を切り払ったので「草薙剱」と呼ばれるようになった。尊は熱田で死に、霊剣は「熱田の社」に納められた。それを天武天皇が内裏に置いた「いまの宝剣是也」。

それを「二位殿」が腰に差して海に沈んだのだが、そう簡単に喪失してしまうとも思えない、としてある博士が次のように述べたという。剣が“人間界”から失われた理由を考えようとしているのである。
「むかし出雲國ひの川上にて、素盞烏の尊に切り殺されたてまつりし大蛇、靈劍をおしむ心ざし深くして、八のかしら八の尾を表事として(印として)人王八十代の後、八歳の帝となって靈劍をとりかへして、海底に沈み給ふにこそ」と申す。
千尋の海の底、神龍のたからとなりしかば、ふたたび人間に返らざるも理とこそおぼえけれ。
(『平家物語』前掲書 巻第十一「剣」)
龍(大蛇)のものが龍のもとに戻ったのだから、見つからないのも道理である、という説明である。宝剣は龍宮へ納められた、ということになり、安徳天皇も龍宮へ行ったのだと話は発展していった。安徳が生まれたのは清盛が厳島神社に祈願したからであり、厳島の神は龍女、「龍王の娘」であった。
『愚管抄』が次のように書いている。
宝剣ノ沙汰様々ニアリシカド、終ニ、ヱ海人モ潜キシカネテ出デコズ。(中略)ソノ後コノ主上ヲバ安徳天皇トツケ申シタリ(安徳とおくりなをした)。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ、コノきみヲ平相国(清盛)祈リ出シマイラスル事ハ、安芸ノ厳島ノ明神ノ利生ナリ、コノ厳島ト云フハ龍王ノ娘ナリト申ツタヘタリ、コノ御神ノ、心ザシフカキニコタヘテ、我身ノコノきみト成テ生マレタリケルナリ、サテ果テニハ海ヘカヘリヌル也トゾ、コノ子細知リタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラントヲボユ。

清盛の祈りに応えて、龍王の娘が、自分の身を安徳帝と化して人間界に生まれ出たのである。したがって、安徳帝は最後は海に帰った。この説明は本当だろうと思われる。
(『愚管抄』巻第五 古典体系本p264 読みやすくするため漢字を宛てたところあり。)
理念的な歴史を叙述しようとしている当代一の知識人・慈円が「コノ事ハ誠ナラントヲボユ」と述べていることは注目されてよい。宝剣と八歳の幼帝が共に海中に没して二度と出てこなかったことは、この時代の人々の世界観の根底を揺さぶる深刻な事件であったのである。

『源平盛衰記』には、宝剣喪失の衝撃を元にした中世らしい物語のさらなる発展が見られる。「老松若松剣を尋ぬる事」(巻第四十四)である。
どうしても宝剣を見つけられないというので、後白河法皇が賀茂大明神に七日参籠し「宝剣の向後ゆくへを御祈誓あり」、七日目の夢想で「長門国壇浦の老松若松という(母・娘の海士あま」に頼めと告げられた。
老松若松に潜水させると、一日経って上がってきて、海中に怪しい所があるが凡夫では入ってゆけない。「如法経を身にまとひて、佛神の力を以て」入っていくしかない、という。母・老松が体に経を巻いて潜っていった。一日一夜上がってこない。死んだと諦めた頃に浮かび上がってきて、法皇に直接報告したい、というので老松は上洛することになった。
老松は法住寺の庭上で語る。
宝剣を尋侍らんが為に、竜宮城と覚しき所へ入、金銀の砂を敷、玉の刻階こくかいを渡し、二階楼門を構、種々の殿を並たり。その有様凡夫のすみかに似ず。心ことばに及び難し。しばらく惣門にたゝずみて、「大日本国の帝王の御使」と申入侍しかば、紅の袴著たる女房二人出て、「何事ぞ」と尋、「宝剣の行へ知召しろしめしたりや」と申入侍しかば、この女房内に入、やゝ在て「暫らく相待べし」とて又内へ入ぬ、遥に在て大地動き、氷雨ふり大風吹て天すなはち晴ぬ。

しばらくありて、先の女来て「是へ」と云。老松庭上にすゝむ。御簾を半にあげたり。庭上より見入侍れば、長さは知らず、臥長ふしたけ二丈もや有らんと覚る大蛇、剣を口にくはへ、七八歳の小児をいだき、眼は日月の如く、口は朱をさせるが如く、舌は紅袴を打振に似たり。詞を出して云、
やや日本の御使、帝に申すべし、宝剣は必しも日本の帝の宝に非ず、竜宮城の重宝也。我次郎王子、我不審を蒙り、海中に安堵せず、出雲国の川上に、尾頭共に八ある大蛇に成り、人をのむ事年々なりしに、 素盞烏尊そさのをのみこと、王者を憐み、民をはごくみ、かの大蛇を失なはる。その後此剣をみこと取給て、天照太神に奉る、景行天皇の御宇ぎょうに、日本武尊東夷降伏の時、天照太神より厳宮いつきのみや御使にて、此剣を賜ひて下し給し、胆吹山いぶきやまのすそに、臥長一丈の大蛇と成て此剣をとらんとす。されども尊心猛くおはせし上、勅命に依て下り給ふ間、我を恐れ思ふ事なく、飛越え通り給ひしかば力及ず、その後はかりごとめぐらし、とらんとせしか共叶はずして、簸の川上の大蛇安徳天皇となり、源平の乱を起し竜宮に返取かへしとる、口に含めるは即宝剣なり、懐ける小児は先帝安徳天皇也、平家の入道太政大臣より始て、一門の人皆此にあり。見よ
とてそばなる御簾を巻上たれば、法師を上座にすゑて、気高き上﨟じゃうらふ其数並び居給へり、
汝に見すべきにあらず、然れども身に巻たる如法一乗の法の貴さに、結縁の為に本のすがたを改めずして見ゆる也、尽未来際まで、この剣日本に返す事は有べからず
とて、大蛇内に這ひ入給ひぬ
と奏し申ければ、法皇を始め奉り、月卿雲客皆同じく奇特の思ひをなし給ひにけり。さてこそ三種神器の中、宝剣は失せ侍りと治定しけれ。
『源平盛衰記』巻第四十四 有朋堂文庫版下p635)(読みやすさのため送りがななど変えている

より後世のものであろうが、『源平盛衰記』には、この宝剣喪失の物語に対して、次のような疑問が上げられていて、興味深い。
うたがふらくは 崇神天皇の御宇、霊威を恐れ新鏡新剣を移して、本(オリジナル)をば太神宮に送られたといへり。然者しかれば壇浦の海に入は新剣なるべし。何んぞ竜神「我宝」と云べきや。次に素盞烏命蛇の尾より取出たる時、太神宮に奉るには、天神の仰に、「我天岩戸に有し時、落たりし剣也」と仰す。今又竜神は竜宮の宝と云。然者しかれば竜神と天照太神とは一体異名、不審決すべし云々。
現代から見れば、屁理屈みたいに思えるが、宝剣喪失が重大な思想的事件であって、当時の知識人達が真剣に議論したことの余燼がこのような形で残っているのである。

「神器」に単に政治性を見るだけでなく、「神器」というシンボル性の背後に、わたしたちが既に忘れて捨て去ってしまった、太古の世界観の豊かな世界が広がっていたと考えるべきである。『平家物語』が生まれた時代において、宝剣喪失の理由を痛切に問うていた人々は、自分らの間で太古の世界観が失われつつあることを深く感じていたのであろう。わたしは、そう考えている。







付論:ネット上に公開されている文献について


小論で使用しているほとんどの文献は、インターネット上に公開されている。この数年の間に、国会図書館の「デジタル化資料」などがとても充実してきた。そのために、わたしの勉強スタイルもずいぶん変わってきて、いちいち近くの公立図書館へ出かけなくて済むようになってきている。図書館が持っている膨大な叢書類に自分の机から直接にアクセスできて、その中身を読むことができるようになったのである。
そういう事情について、書き留めておく。

電子化資料は紙資料に比べて優れた点がいくつかあるが(欠点もある)、表示が自由に拡大できる点を指摘しておきたい。これは老眼のわたしにとってかなり重要な利点である。モニターが許す限り拡大して表示している。
他の身体能力と同様視力も老化と共に“疲れやすく”なり、仮に老眼鏡などを使用しても“よく見える状態が長続きしない”のである。目を疲れさせないようにケアすることは、読書老人としては大事なことである。


(1) 国会図書館デジタル化資料ここ

国会図書館で江戸期に出版された古典資料・図鑑類などをPDFファイルにして公開することは前から行われていたが、近頃はそれに一層力を入れているようだ。それに加えて、著作権期限切れの書籍、特に明治・大正・昭和前半に出版された文献をPDF化して公開しているが、厖大な量である。個人所蔵はむずかしい大きな叢書ものを取りあげているので、とても有用である。 「群書類従」は、木版版のほかに活字版が2種ある。おおむね出版年の新しいほど読みやすくなっている。
とはいえ出版年次が古いので、新しい版が出ているもの(例えば、「国史大系」は今普及しているのは「新訂増補」版)については、疑義がある場合はその個所を確かめるために図書館に出向いて新版を見る必要がある。もちろん、このことは、他の叢書類でも同じだが。

わたしが拙論などで使う程度の一般的な史料文献は、まずすでに公開されていると考えてよい。ただ、上記のように公開されているのは古い版なので、それなりに注意する必要があるということを忘れてはいけない。
『玉葉』を見たければ、検索欄に玉葉と入れてクリックすればよい。“玉葉”という語句を含む図書にヒットするわけであるから、九条兼実の『玉葉』以外に、『玉葉和歌集』もヒットするので検索結果をよく見る必要がある。

国会図書館デジタル化資料を使うには、「サムネイル」表示(縮小表示)に慣れることが重要である。ひとつのサムネイルには書籍の見開き2頁分が収められていて、それを「1コマ」と呼んでいる。自分が見たい個所を探し当てるのに、「サムネイル一覧」を開き(20コマずつ表示される)その中から適当なコマを選んで開いてみて、求める個所の前か後かを知る。サムネイル一覧を移動する(すなわち、20コマずつ移動する)ことで、求める個所へ早く到達できる。
何巻もある大きな叢書類を使用する際に、意外に有用なのが「検索結果に戻る」というボタンである。

必要な個所をPDFファイルとしてダウンロードすることができて、自分のパソコンに保存しておいてくり返し使用できる。
一度にダウンロードできる最大数は20コマ(すなわち、「サムネイル一覧」に表示される分)である。必要なら、ダウンロードを繰り返して一冊全部を手に入れることも可能である。(PDFファイルを接合するフリーソフトなどがある)

大学図書館などで文献公開に努めているところがあるが、その紹介は別の機会に譲る。



(2) 東京大学史料編纂所

史料編纂所のトップ・ページに行ったら、その画面下方にある「データベース選択画面」をクリックする。そうすると、多数・多種類のデータベースへの入口が設けてある。アマチュアの日本歴史研究にとても有用なものであるから、大いに活用すべきである。

ここでは、「大日本史料総合データベース」を簡単に紹介しておく。これは、歴史研究に取りかかる際に、研究対象を決めた段階でまずチェックしておくべきデータベースである、といってよい。東大の学者たちが1895(明治28)年から塙保己一の「史料」をもとに、日本史の史料を綜合するプロジェクトを続けている。「大日本史料」の出版はすでに400冊近くに及んでおり、そのデータの一部を掲載する『史料綜覧』も出版されている。この「大日本史料総合データベース」はそれを電子化したものである。(これらは、大きい公立図書館では備えているので、その電子版を使用するためにも、実物を見ておく意味はある)。

例えば、『平家物語』巻第七の最後で「平家が都を落ち果てぬ」というのは、「寿永二年七月廿五日」のことである。この日について、どのような出来事が記録されているか、調べてみる。「大日本史料総合データベース」に入ると、記入すべき項目がいくつかある。とりあえず、このデータベースを使ってみるだけのためだから、最低限の入力をする。 これで「検索」をクリックすると、すぐさま結果が現れ「綱文」に
平宗盛、天皇、建礼門院を奉じ、神器を携へ、摂政基通及び平氏の一族を率ゐて、京都を出奔し、西海に赴く、摂政基通、途より帰京し、平頼盛も亦京に留る、是日、行家木幡山に、義仲勢多に次す、
と出てくる。これは、この日に起こった出来事を記した史料の“内容概括”である(東大の学者が概括したもの)。どのような史料からの概括であるかは、「詳細」をクリックすると出てくる。この日の場合は大事件だったので、「玉葉」、「吉記」から「参考源平盛衰記」まで実に25の文献に何かしらのことが記されているということが分かる。その記されている具体的な内容は「稿」をクリックすると、手書きの校本のコピーとして読むことができる。但し、それは必ずしも容易な作業ではない。

もう一例を挙げてみる。たとえば平時忠が寿永二年にどのような活動をしたか記録があるかをチェックするには、 とすればよい。この年は5回記録されていることがわかる。こういうことが瞬時に判るということはすごいことである。その中には八月十日の
平時忠、備中下津井より答書を法皇に上り、京師平定の後に非らざれば、天皇、神器の還御あるべからざる旨を奏す、
源氏を追い払わない限り安徳帝や神器を京都へ返すことはない、という回答が記録されている。「詳細」によってこの記録が「玉葉」と「吾妻鏡」にあることが分かる。

なお、『史料綜覧』全11巻は、上で紹介した国会図書館デジタル化資料に収められている。



(3) J-TEXT 日本文学電子図書館 と 「日本古典文学テキスト

『平家物語』の多数の伝本などのテキストを精力的にネット上に公開している(個人?)のサイトがいくつかある。わたしが実際に利用している2つを紹介しておく。

(3.1)【J-TEXT 日本文学電子図書館】ここ

ここには、平家物語の各種系統のテキスト文およびHTML版が公開されている(荒山慶一氏のご努力による)。
流布本、城方本、龍谷大学本、延慶本、高野本、長門本、百二十句本(2種)
源平盛衰記(国民文庫本)、源平闘諍録
がいずれも全巻提供されている。
これらの多くは、「全文仮名書き」であるが、わたしはそういうテキストをこのサイトで初めて見て、面くらった。しかし、実際に腰を据えて読みはじめてみると、案外読めるものだということが分かってくる。わたしは手元に岩波古典体系本(龍谷大学本)、百二十句本(国会本)、源平盛衰記を持っているので、分からなくなったらそれらと照合しながら読んでみている。
なお延慶本については、漢字を宛てて「読み下し」が現在第四巻まで行われている(全巻は十二巻)。専門書を別にすると延慶本は出版されていないので、有難い。源平闘諍録もわたしはここで初めて目にした。

ここに提供されているテキストは、いずれも文字情報として提供されている点がすごい。いずれも入力し、丹念な校正が行われたものと想像する。画像情報ではないので、検索ができる。必要な個所へ瞬時に飛ぶことができ極めて有用である。もちろん、それ以外にも多様な使い方があり得る。

上で紹介した国会図書館デジタル化資料には、平家物語の刊本がかなりPDF化されている。そのうちの「長門本」は読みやすいのでわたしはダウンロードして使っている。
ここでは、平家物語に関してのみ紹介するが、このサイトには他の多くの文献も公開されている。

(3.2)【日本古典文学テキスト】ここ

このサイトは、拙論で源通親「高倉院厳島御幸記」を用いる際に紹介した。
多様な日本古典文学テキストが収められているが、漢文体テキストや文学史関係の参考書類(一条兼良「公事根源」のような)なども収録されている。




四宮即位   終 

5月31日(2013)  最終更新9/18-2013

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