夏椿      (石田波郷論・序)    



 石田波郷の植木好きが始まったのは、昭和33年春に江東区砂町から練馬区谷原(ヤワラ)町に引っ越してからである。近くの長命寺の植木市を始めとして近間の植木屋に、健康が許せば出向いて、がむしゃらというほど庭木を買い込んだという。それを、「忍冬亭」と呼んだ新居に植えていった。西東三鬼が「今に木がせり合って仕様がなくなるよ」といった程だという(村山古郷『石田波郷伝』p258)。独活畑に建てた家なので、春になると庭に独活の芽がいくらでも出てきて困ったので、「独活庵」と名づけようかと思ったほどであるともいっている。

人間派転じて樹木派毛虫焼く
と少し照れながら「戯れに詠んだりした」というのもこの頃である。
 しかし、波郷は人間派であったのかも知れないが(昭和10年頃、中村草田男、加藤楸邨とともに「人間探求」俳句と言われたことがある)、それはそれとして、彼の嗜好は植物派にあったことは否定できないと思う。昭和41年の「樹木派」という短文の中で
自分の生活が植物的になったせゐか、樹木に対する関心がいちじるしく高まった。私は俳人にしては植物知識のない方だが、俄勉強に興味が出てきた。(中略)鉢 盆栽類はむしろ遠ざけたい。自然の草木が、自然とたたかひ、自然と調和して生きてゐる姿を傍観するだけでなく、その中にはいって行って呼吸したい気持ちである。(『石田波郷全集』第十巻406頁 以下これを10-406と略す)
と谷原に移って以後の生活を説明している。むろん、ここの「植物的」は、彼の長く激しかった闘病とその予後を意味する。
 興味深いことに、若き波郷は、師たる水原秋桜子に従って、初期の日本野鳥の会の影響を受けてもいる。子規の「写生」に始まる近代俳句において、自然を詠ずることの座標軸はなかなか「近代化」されず、その中で中西悟堂と、悟堂に影響された秋桜子の果たした役割は意義深かったと思うが、従来見落とされてきていると思う。そのことは戦後俳句史に思想的に影響するところは大きかった、と私は考えている。これらについては、波郷をめぐる議論の中で、後述を期す。
 植物派波郷の面目躍如たる文を見てもらう。
 石神井、大泉、上高井戸、安行などの植溜を見て歩いて私は、雑木を主として次第に庭木をふやして行った。引っ越してまだ2年にならないが、辛夷、朴、栃、白樺、えご、沙羅、銀杏、こなら、ゆりの木、かりん、百日紅、白木蓮、むくげ、山茱萸、山法師、梨、桐、紅梅、白梅、欅、楡欅、楡桜、もみじ、楓、かしはなどの落葉樹と、椎、もち、かなめ、もっこく、木犀、山椿、山茶花、侘助、楪、さんごじゅ、泰山木、月桂樹、柚、かくれみの、ひむろ、さはら、ヒマラヤ杉などの常緑樹、さまざまの株物をところ狭しと植付けた。日曜日には子供も芝刈や花壇作りをした。波郷俳句は逆境の文学である。今波郷は病状もやや安定し生活も落ちついている、いはば順境にある。波郷俳句に生彩が失はれたのはその為であるといふ人がいる。あるひはさうであらう。さうであってもなくても、自分を偽れない以上それも止むを得まい。(「谷原雑記」昭和35年1月 全集9-221 このエッセイは同年3月まで俳誌「馬酔木」に3回連載している)
波郷が並べた庭木のリストの中の「沙羅」が夏椿である。波郷は庭木の中でも椿が好きになり、多くの品種を集め始める。
私が椿を好きになったのは、水原先生の影響である。砂町に住んでゐた頃狭い煤けた庭に椿が1本植わってゐた。11月ごろから咲く、赤地に横杢の入った牡丹咲きの大輪で、枝先の葉がよぢれるやうにつくのが変っている。或る時水原先生が陋屋を訪ねられて
   「はう、太神楽が咲いている、うちにもこれと同じのがあるよ」
玄関に入る前にさう言はれた。大袈裟にいふと私は草木の名を知らぬかなしさをひしと感じたものだ。(「谷原雑記」昭和35年2月 全集9-228)
長命寺の春の植木市で「椿をよく買ふだんな」として知られるようになったと、自らから書いているのは、36年秋である(「秋の椿」全集9-275)。そのエッセイの中に1年を通して「椿っ気のないのは8月だけである」といって、自分の庭で各月に咲く代表的な品種をあげている。また、毎年4月10日頃には「絵心のある俳人を集めて椿の酔画会を開く」といっている。40年の4月に椿祭を計画していて急病となり(肺炎と胃出血)、祭りを中止にしたいきさつを「消えた椿祭」で書いている。そこでは「80本ほどの椿が集まった」と記している(全集9-359)。43年の「沙羅の花」には「百本ほど植ゑている」とある(全集9-370)。なお、波郷が没するのは44年11月21日のことで、56歳であった。
夏椿の描写を、波郷自身の文から引いておく。
沙羅の木は背の高い木で、白い花はツバキに似てズヰの輪が大きく、花びらがツバキより弱い感じで、葉がくれに咲くからうっかり通り過ぎると気がつかない。木の根元に落ちてたまってゐる落花をみておどろいてコズヱを仰ぐのである。(「沙羅の花」36年7月 全集9-267 上引の同名エッセイとは別文)
これは正確でよく感じの出ている描写である。ただ、波郷は夏椿を椿の仲間にいれていなかったらしく、別の所で次のように書いている。
六、七月には、椿ではないが、椿のやうな花の沙羅の花が咲く。別名夏椿といふ程、花容は椿そのものである。(「秋の椿」全集9-275)
園芸家の観点からすると、葉は普通の椿の葉のような厚照さ(厚ぼったくてテラテラ光っている)がなく、ポプラのようなスラッとした樹形も様子がちがう。なによりも花期が夏であり、冬は落葉して樹皮のむけた細く高い幹を延ばしている、というのが「椿ではない」という印象をもたらすのだと思う。植物学的にもそれは間違った印象ではなく、普通の椿はツバキ科ツバキ属であり、夏椿はツバキ科ナツツバキ属の落葉喬木で、日本の山地に自生し高さ10m以上になる。


 私は沙羅(サラともシャラとも)という名は好まない。率直に夏椿というほうが好きだ。沙羅は沙羅双樹のつもりでつけられた名前であり、それで寺院などによく植えられる。本物の沙羅双樹は中部インドにふつうの喬木で高さ45mに達する(フタバガキ科で乾期に落葉する。花は薄黄。建築材などとして有用、並木にも植える)。おそらく寺院などでは意識して夏椿を沙羅双樹とよんだと思われる。たとえば『和漢三才図絵』寺島良安1713 に
比叡山に之有り。其の花白く単弁、状は山茶花に似て、凋み易し。和州長谷寺にも1株あり。(83巻-61)
と出ているが、良安は、花の様子が唐時代の書『酉陽雑俎』では「蓮のような花」と記述され食い違いのあることを指摘している。貝原益軒も『大和本草』で同旨の疑いを述べている。
 私の勤務先のM学院は、仏教系の団体から資金が出ており、ところどころに宗教の「臭い」がする箇所がある。校舎脇の植え込みに、白ペンキの木製ネームプレートがあって、そこにくそ真面目な楷書で「沙羅双樹 **記念」とある。そのことには前から気付いていたが、「臭い」がするので見て見ぬふりをしていた。名所などで「某々お手植えの松」などがあると、喜んで記念撮影したりする人と「出来るなら小便かけてやりたい」と思う人とあるが、私はいうまでもなく後者に属する。しかし、実際に小便かけるだけの勇気のない後者なので、自身のプライドと折り合うために、気が付かないふりをする。または、見たけど見なかったことにする、などの内部機制を発動する。したがって、そういう所では、私は急に不機嫌になる。
 M学院の沙羅双樹も、どんな木なのかちゃんと確かめたことがなかった。講堂の脇に、姫沙羅(ヒメシャラ)の木が幾本もあって、5,6月にはかわいい白い花を着けることに気付いていた(こちらにはネームプレートがない)。植物図鑑を調べていたら、姫沙羅の横に夏椿が載っており、沙羅双樹はこれのことだと説明してあった。あらためてM学院のを見ると、径8cmほどの小木で高さは5mぐらいある。それで一応夏椿について認識が持てたのだが、そう思って住宅地を歩いていると、夏椿は人気の庭木らしく案外多いのである。新築の小規模マンションは外装を白い吹き付けにしているのが多いが、宅地の高騰でこのところそういう建物が増えていて、どれもこれもわざとのように玄関脇の植え込みに夏椿を使っている。葉も花も優しく瀟洒な感じが好まれているのだろうが、木が上に行くばかりで横に張らないから、狭い土地に植えるのに良いんだろうと、憎まれ口をたたきたくなる。私の夏椿についての認識は、しばらくの間、これだけだった。
 K.S.さんの「猫地蔵にいって」(本誌第66号)で西落合に猫地蔵(自性院)というお寺があることを初めて知った。実は、本誌読者の一人である香華吉弘さんのお宅が猫地蔵の斜向いのマンションだったので、その号を渡してからしばらくして
  「K.S.さんの猫地蔵って、俺んちのすぐ傍なんだぜ」
と香華さんに言われてびっくりした。香華さんのマンションにはよく酒飲みに行くが、夜のことが多く、なかなか猫地蔵にいってみる機会がなかった。その年の暮れになってやっと行くことが出来た。哲学堂の方から目白方向へ新青梅街道を歩いて5分。右側にコンクリート製の大きな招き猫が見えて来る。そこを入ると板碑(これは猫と無関係)の説明文があり、更に進むと本堂前の砂利の庭となる。それだけなのである。猫の供養碑ぐらい欲しいところだし、できたら三味線塚があってもいい、などと考えていたので、砂利の庭を通ってすぐ裏門に出てしまうことになって、すこし期待はずれの感じがした。本堂脇の小さな建物を覗いたら、小型の招き猫多数が本棚に本を並べるように並べてあった(このことは、K.S.さんも書いている)。猫関連はそれだけだった。
 諦めて帰ろうとしたところで、大きな夏椿を2本発見した。根元の径が20cmはあるものが稲荷さんの赤い鳥居をはさむようにして、寒空に立っていた。私はそんな太い夏椿は見たことがなかったので、驚いた。もちろんその時期、葉は一枚もなく、サルスベリのようなツルツルの幹が、細く高く無数に枝別れしながら、伸び上がっているのである。平凡な形容ながら、箒を逆さに2本並べた形であった。高さは7,8mくらいだろうか。半年後の花の時期が楽しみだ、さぞ豪奢な花見が出来るだろうと期待した。


 波郷の句集を読んでみてすぐ気付くのは、波郷が鳥と縁があるということである(彼の句集は『石田波郷集』(朝日文庫)が入手し易い)。村山古郷は波郷生涯の句集として8冊をあげているが(全集解説1-293)、そのはじめの4冊の句集名は、次ぎのようである。
鶴の目(昭和14年) 風切(18年) 病雁(21年) 雨覆(23年)
そして、主宰する結社が「鶴」。彼は18年9月召集され、偶然のことながら、華北で通信隊の「鳩兵」となっている(19年、そこで結核が発病する。それが彼の後半生を決定づける宿痾の始まりであった)。すべて鳥づくしなのである。
 いま、深大寺奥の雑木林に悟堂の胸像があるが、波郷の墓と50m位の距離である。波郷と深大寺のつながりはどこにあるのか。若き悟堂が修行した寺であるから、もちろん偶然ではあるまい。境内には草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の句碑がある。俳人に人気のある寺であるようだ。
 ところが、深大寺と波郷にはもう一つ面白い因縁があった。それは神代植物園の中にある椿園のことである。波郷は「酒中花」というエッセイで、椿園に触れているが、虚子や秋桜子の椿好きについても書いているから、少し余分に引用する。
 高浜虚子翁は椿を愛し、戒名にも椿の字が入っているさうだが、山椿に限ったさうである。水原先生は一重椿をお好みである。私は何でもよいのだ。椿であれば何でもよいのである。(中略)
 深大寺自然植物園には椿の全種を植ゑたといふ。4月になったら水原先生のお伴をして出かけたいと思ってゐる。(全集9-264)
この文は36年4月に発表されている。虚子が86歳で没したのは2年前の34年4月8日のことである(戒名は「虚子庵高吟椿寿居士」)。なお、波郷にとって虚子は松山中学の大先輩でもある。
 上引のエッセイの「酒中花」という題名が、椿の品種名であることがわかる人は少ないだろう。波郷の第7句集(前掲、村山古郷による)は43年刊行であるが、『酒中花』という。波郷はよほどこの名が気に入っていたのであろう、上引の少し前に次のようにある。
  あっちへ移され、こっちへ移され、蕾も少ししかつけられなかった酒中花も今年は花を見せてくれるだらう。酒中花という名前に惚れて買った椿だが、薄紅の一重にこそふさはしい名だと思ふが、薄紅の一重椿は「曙」で、酒中花は絞りの小輪である。(同前 全集9-263)
句集『酒中花』から、その集名の由来を示す有名な一句をひく。
     ひとつ咲く酒中花はわが恋椿
(ただし、そもそもの酒中花は、酒席の遊びで使う水中花として、延宝時代から花街で売られていた、という村山古郷の考証がある。『明治大正俳句史話』p267)
 神代植物園の椿園を見ておこうと思い、今年の春、ついでがあったので園に入ってみた。有名なバラ園はまだ冬じたくのままで、閑散としていた。バラ園の奥の橋を渡り、深大寺寄りの一番奥の一画に椿園があった。花はなく職員が消毒作業をしているばかりだった。品種名が1本ずつに掲げてあるので、酒中花を探し出そうと思って、園内を歩き回った。酒中花は見つけられなかったのだが、代わりに信じられないほど大きな夏椿を見つけた。径50cm はある巨木が十本ほど椿園の中央に聳えていた。高さ15mほどと目測される。これを見てしまうと、猫地蔵の夏椿がつまらないもののように感じられる。それほど、その巨大さは圧倒的であった。


 波郷の沙羅の花の句を、幾つかひく。
朝の茶に語らふ死後や沙羅の花
沙羅の花捨身の落花惜しみなし
沙羅の花緑ひとすぢにじみけり
沙羅の花ひとつ拾へばひとつ落つ
風花や日あたる辛夷昃る沙羅
雨搏てる沙羅の落花や石の上
「捨身の落花」は、夏椿の白い花が葉に触りながら落ちる様を、釈迦の捨身にたとえたもの。うまい措辞だが、その前の「語らふ死後や」とともに幾らか沙羅双樹の仏教イメージに引っ張られているかも知れない。「風花や」の句だけは冬で、辛夷も夏椿も葉を付けていないわけである。(山本健吉『現代俳句』をみていたら長谷川素逝に沙羅の連作があるという。短歌では天田愚庵にあるという。また、俳句歳時記などをみていると、女流の佳句が多く例示されている。それらはいわば夏椿ファンの作品群である。それらを渉猟してみるのも興趣深いだろう)
 あちこちの夏椿が咲き始めたので、6月半ば、猫地蔵に行ってみた。背の高い2本の木を中心に砂利の庭に波紋を描くように、花が点々と落ちており、小さな稲荷の社にも沢山散らばっていた。喪服姿の人々が数人かたまって顔を寄せあい、出はいりする。見上げると高いところまで白い花がついているが、柔らかみのある葉に隠れて、よくは見えない。しかし花は少し下を向いて咲いていて、優しい風情はとてもよろしい。梅雨の曇天に合う花だ。

 数日後、神代植物園に出かけてみた。サツキの展示会、バラ園の盛況、花盛りの紫陽花の垣根などと、前回早春に来たときと違い、植物園全体が華やぎ人出も多かった。だが、椿園のちかくは人影も疎らで、青黒い森が広がっている。しかし、夏椿の巨木は紛れようもなく、かなり離れたところから見分けられた。高い緑の柱の周りに無数の白い点々が分布している。近づくにしたがって、緑の柱は、裾に広がりを持ち白花が下向きにちりばめられているのが見えて来る。木の下に行ってみて驚いた。落花が散り敷いていて、足を踏み込めない程なのである。コンクリート製のベンチとテーブルがしつらえてあるのだが、恐らく誰も来ないのだろう、その形なりに落花が乗っている。それを払って座る。しばらくすると、静寂の中、葉に触る音をさせながら花が落ちて来るのに気付く。四囲を眺めていると、あちこちで、ひっきりなしに落ちている音がする。地に落ちて転がって、散り敷いた落花のすきまに入り込む。
 その一画には、巨木が十本ほどあり、猫地蔵クラスなら数え切れないぐらいあるようだった。なんという豪奢な花見であるか。

 私も神代植物園に思い出がないわけではないので、拙句披露。
葉隠れにいくつ恋しか夏椿
歩けども誰ひともなし木下闇
                   (1988年 夏)



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