血縁と地縁と




       (1) ルーツ   

 だんだんと年を重ねてくると、昔は古くさいと思っていたことが急に真実味を帯びてく ることがある。しかし、よく考えてみると年をとるとかとらないとかでなく、新しいから 古いからではなく、真理は古今を通じて一つなのである。ただそのことが自分でわからな かっただけの話である。今の時代は科学一辺倒の時代で、何事も科学的・論理的に考えな ければ馬鹿にされるし、信用もしてもらえないといった風潮かある。
 たとえば「ぼくは幽霊を見たんだ。」と言ったとしよう。はたして何人の人が信じてく れるだろうか?また「なくなった母が夢枕に立って『今日はいつもの道を通らずに行くよ うに』と言ったので、違う道を通って出かけたところ、いつもの道では大きな交通事故が あって死傷者が出た。わたしは幸いにも夢のお陰で命拾いをした。」こんな話しをしたと ころでほとんどの人は信じてくれないだろう。そんなことを話す本人の頭が疑われて迷信 家か盲信家にされてしまうのがおちである。しかし、信じると信じないとにかかわらず、 このような例はいくらでもあるのではなかろうか。
 わたしは教員生活の晩年になって熊野の本宮町に転任することになった。本宮町(現在 は町村合併で田辺市となった)といっても三里、本宮、清川、四村川という旧四村にそれ ぞれ学校があったが、人事異動で四村川に赴任した。
 小さな盆地の底を四村川が流れ、護岸の石垣に隔てられて運動場があり校舎があった。 全校の生徒はわずかに二十人余の僻地の学校であった。学校も部落もふんわかと柔らかい ムードに包まれた安穏とした雰囲気であった。わたしはこの初めての赴任地が珍しくて休 日になるといろんな道や部落を歩くのが楽しみであった。そんなある日のこと、住宅に帰 る道すがらに六地蔵が立っていて、そこから小高い山に通じる階段があったので上ってい った。奥にはたぶん墓地があるのだろうと思って歩いていたら、やはりそこには共同墓地 があった。周りを杉や檜に囲われた薄暗い台地には墓石が立ち並んでいた。わたしはしば らくそれらを眺めながら歩いていたが、ふと見覚えのある名前の刻まれた墓石に出くわし て足を止めた。
 わたしの父はわたしが小学校に入る前に戦病死した。それでわたしは祖父の庇護のもと に養育された。しかし、祖父が何処で生まれ、何処でどう育ったのかといった生い立ちに ついてはほとんど知らなかった。わたしから尋ねもせず、また祖父自身も話さなかった。
 この地に赴任する前に、これもたまたま従姉妹から祖父の戸籍謄本を渡されていた。墓 石に刻まれていた名前は謄本に書かれていた祖父の父、つまりわたしの曾祖父であった。 没年を見るとわたしがまだ幼い頃には生きていた勘定になる。しかし、曾祖父がわたしと 祖父母が暮らす海岸の寺を尋ねてきた記憶はなかった。いや実際は訪ねてきたのだろうが わたしが幼すぎておぼえていなかったのか、それとも空襲がひどくて訪ねようにも訪ねら れなかったのかもしれない。それに何より老年のために訪ねる体力がなかったにちがいな い。
 こんなことがあってからしばらくして、わたしは隣家を訪ねた。ご主人も奥さんもわた しと同じ年で、赴任早々からすぐお互いの気心が知れて親しくつき合っていた。わたしが 曾祖父の墓石を見つけた話をすると、主人は
 「ヘーえ、縁とは不思議やな。あんたもひい祖父さんの縁に引かれてこの四村にやってき たんやなあ。」彼は感慨深げに言ったあと、
 「そのひいお祖父さんなら、わしもかすかにおぼえている。わしがおぼえているんは、い つも寒い時分に日当たりのええ縁に出てきて日向ぼっこしてた。小柄な人で目が不自由や ったようにおもう。」と言った。
 曾祖父が小さい体を丸めて凍える冬の晩年を、日だまりの縁でつましく暖をとっている 姿が頭に浮かんだ。理由はわからないが、曾祖父は山奥の小寺の次男であった祖父を妙心 寺の修行に出し、やがて祖父はその人柄と才知を見込まれ、円光寺の娘であった祖母と一 緒になったのだろう。ふとしたことから、わたしは自分のルーツが住宅と目と鼻の先にあ る「淵龍寺」という寺に結ばれていることを知った。
 さらに謄本でたどってみると、曾祖父が前に入っていた寺は、請川の大野にある寺とい うことであったので、数日後にそこを訪ねてみた。大塔川の川縁にその寺はあった。古色 蒼然とした境内は昔の面影を宿しているものの、本堂も庫裏もなく、ただ普通の瓦葺きの 一軒家に立て替えられて往時をしのぶことはできなかった。しかし、想像するに「淵龍寺」 よりさらに小さな寺であったことは間違いなかった。おそらく祖父は幼い頃にこの寺で育 ったのだろう。そして、その記憶を持ちながら孫のわたしに話さなかったのであろう。そ れ以後わたしは自分のルーツを求めることは止めにした。
 わたしは四村川に赴任したことで自身に関わるルーツを知ることができた。それは科学 的に言えば単なる偶然にすぎないことであろう。本宮町には四つの中学校があって、四分 の一の確率でたまたまわたしの赴任が四村川に決まっただけの話であろう。しかし、どう 考えてもわたしにはそうは思えないのである。世の中の出来事にしろ人生の出来事にしろ、 人間の理屈や能力でははかれぬことはたくさんある。そこにはそれらを左右する見える糸 もあり見えぬ糸もある。「縁」とはたぶん見えぬ糸のことをいうのであろう。


(2) 十津川村と隠岐島

 最近、五木寛之氏の「日本幻論」という文庫本を読んだ。全体が講演の筆録を集めたと 思われるもので、幾つかの内容に分かれている。その中でわたしが興味を待ったのは、冒 頭の「隠岐島共和国の幻」について書かれた内容である。それは一口に言って、幕末の隠 岐島騒動によって、島民の共和国ができるのであるが、島根藩(佐幕派)と勤王派のずる 賢い政治的な裏面工作によって敢えなくついえさる過程を述べたものである。
 わたしは隠岐島騒動とか隠岐コンミューンとかの話は耳にしたことはあるが、詳しい史 実や内容については全く知らなかったし、また知らないものだから、この日本の辺鄙な小 さな島での一時の共和制が、日本の近代や歴史に与えたかもしれない方向性なり可能性な どについて考えてみもしなかった。ただこの本がわたしの興味をひいたのは作者がメーン テーマとして意図している内容ではなく、わたしにとっては私的でしかも単純な事柄であ った。隠岐島騒動から幻にせよ、隠岐島共和国を打ち建てた島民たちの根底にあったのは、 尊皇攘夷思想であったと思える。そして、その思想的、精神的バックボーンとして描かれ ている人物が中沼了三という人物であるが、彼を介して隠岐島と十津川村が関係を待って いる点であった。いってみれば絶海の群島(隠岐島は孤島ではなく十八の島々からなる群 島で、隠岐島という島はない)と、内陸の孤島に比すべき十津川村との取り合わせを考え ると不思議な思いがするのであるが、その思い自体がわたしに興味を抱かせた。
 わたしが現に住む本宮町は十津川村と接しており、車で走れば半時間ほどで十津川村の かかりに入ることができる。国道百六十八号線は新宮から熊野川沿いに走り、奈良県五条 に至る。十津川というのは熊野川の上流部を指す呼称であって、川そのものは同じである。 本宮町から十津川に入ると山間か狭まり深くなる。眼下に眺める川面が怖いほどに下に見 える。国道の両脇に民家があって、それらは集落したり散在したりしている。十津川村は ほぼ琵琶湖と同じ面積でほとんどが山林である。平野がないので畑は山の斜面を切り開い て作られており、そのためほとんどが傾斜していて農作業も難渋しそうに見える。峨々た る山々に十重二十重に囲繞された風土であってみれば、主たる産業は自ずと林業となる。 今でもこの村の醸す光景は寂しく詫びしいものであるから昔は推して知るべしで、高い峯 峯の頂を結んで走る行者道が古くから開けたのもうなずける。
 この十津川村に現在「奈良県立十津川高校」という学校かある。この学校は大和よりむ しろ熊野に近く、そのため熊野川筋からの越境入学が認められている。現在わたしが勤め ている中学校の生徒たちも進学している。毎年中学校と高校の連絡会というのがあって、 入学生や在校生の様子を中学校側に説明してくれる。
 春爛漫の頃にわたしも一度行ったことかあるが、二階の教室から眺めると眼下のダムの 湖水に濃淡緑の樹木の影が映り、鶯の鳴き声がほどよく間を置いて谷間にこだまして聞こ え、近くの山々は青葉若葉で眼がまぶしいほどであった。冬はさすがに寒さは厳しいだろ うが、静寂な自然に恵まれた環境に位置している。この十津川高校の前身が「十津川文武 館」と呼ばれていたのはわたしも知っていたが、その創立者が中沼了三であると知ったの は五木氏の前述の本であった。
 この本を読んで、わたしは日曜日になるのを持ちかねて、あらためて十津川高校に出か けた。以前には気づかなかったが、そこに行けば中沼了三にまつわる記念碑か顕彰碑とい ったものがあるはずだと思ったからである。ところが訪ねてみると、正門は鎖で閉ざされ ていて、「入学試験前日につき部外者の立ち入りを禁ず」と張り紙がされていた。わたし は禁を犯して正面横の土手から忍び込み、運動場や校舎の前庭を見回してみた。校庭にも 校舎の近くにも人影はなく静まりかえっていた。ほどなくしてわたしは、自分の座ってい る土手のすぐ下に何か碑らしきものがあるのに気づいた。土手を下って運動場に闖入した。 はたして間違いなく中沼了三の顕彰碑であった。それはつい最近建てられたものらしく真 新しい大理石でできていた。それには次のように書かれていた。
 「中沼了三先生は、文化十三年隠岐中村に生まれ、若くして学識を極め、京都にあって学 習院に職を奉じ、次いで孝明天皇儒官となった。幕末の風雲急をつげる維新前夜、古来勤 王の歴史と伝統を誇る十津川郷士は決然立って京に上り勤王運動を展開、先生の人格識見 を慕い折りにふれその教導を受けた。とりわけ御所の警衛は先生の指導によるところが大で あった。又この時期郷民は文武修行の必要性を痛感学校設立を上願許されて文武館創立の 内勅をたまわったがこのことは先生の格別の配慮により実現したものである(中略)先生 により開学の灯の点じられた文武館は元治慶応明治大正昭和平成と幾多の変革を辿りつつ も不変の文武二道修練の精神を綿々と堅持し来たり学ぶ者五千有余名を数えるに至った創 立百三十周年にあたり同窓会会員一同開学の往時を追想し先生の功徳を偲び碑を建て報国 の微意を表するものである」
 この碑の建立は平成六年十月二十八日となっていて、わたしがはじめて当校を訪れた後 で建てられたことがわかった。碑文の作者は同窓会会長となっていた。「報国の微意を表 す」とはいかにも十津川郷士の気概が現在まで脈々と流れているようで、会長もすでにご 老人であろうが、その意気軒昂ぶりが微笑ましい。顕彰碑というものは伝記作品と相通ず るものがあって、主人公を聖人君子扱いし過大評価するするきらいがあるので、人として 当然あるべき人格的な弱点や欠点という面が捨象されている点でどれも同じような内容を 持つ。しかし、これもやむを得ぬことでリアルに書けば当然物議を醸すことになるだろう し、そんなものは碑文には採用されない。
 この碑文によると、十津川郷士についての部分で、オーバーな箇所かあるが、五木寛之 はこれについて次のように述べている。少し長いが引用してみる。
 「そのころの大和、今の奈良県に十津川というところがあります。ここは今でもお寺がな くて神社だけとかいう土地なんだけれども、かねてから十津川村の千本槍といって勤王の 郷士の多いところとして有名です。そもそもの成り立ちは、後醍醐帝のころに十津川村の 村民たちが、自分も武器を取って後醍醐帝の義挙に参加した。そのために大変お褒めにあ ずかって、地租を免じられ、そのうえ士分に取り立てられた。そういう伝統のあるところ だから、かねがね、尊皇の志の気風の日本でももっとも強いと言っていいくらいの土地柄 でした。」と。碑文には「幕末の風雲急をつげる維新前夜古来勤王の歴史と伝統を誇る十 津川郷士は決然と立って京に上り勤王運動を展開」と書いているが、はたして一介の村民 たちがすぐさま京に上って御所の警護が許されたのであろうか?そこのところを五木氏は
 「ですから幕末になって、王政復古、尊皇攘夷という気分が盛り上がってくると、十津川 の人々はじっとしていられなくなる。くり返し京都の朝廷の方へ、新たな十津川親衛隊の 再組織を申し出るわけです。こういうときにわれわれは手をこまねいてはいられない、と。 後醍醐帝以来の伝統を特つ十津川郷士は、自ら進んで朝廷の錦旗のもとに参加してお役に 立ちたい、と。血が騒ぐ人々なんですね。しかし、そういうかたちで一般民衆が武器を特 って一つの力を特つことを、為政者は警戒するのが常だ。それで容易に許可にならない。 そこで彼らは京都の、かねてから郷士出身の英才として名声の高かった、しかもそのころ は彰仁親王の侍講をつとめていて、朝廷に非常に近いところにいた中沼了三を訪ねて、彼 に自分たちの志を訴えるわけです。で、中沼了三はいろんな政治工作をしまして、朝廷か らの御沙汰をうけ十津川文武館という施設−朝廷の護りを固め、村民の意識を高め、一朝 事あった時にはお役に立とうという人々を文武両面から錬成する養成所ができるのです。 当然十津川の人たちは中沼了三を尊敬して、文武館の初代の教授に迎えます。」碑文は長 たらしく書けないから、時間的な経過を省いたものになっており、五木氏の話と単純に引 き比べると矛盾する点もある。しかし、この勅命で建てられた文武館は当時は全国的に有 名になったらしくて、これが影響して隠岐でも文武館の設立運動が起こったらしいが、松 根藩に「百姓どもが武装して文武の訓練に励むとは何事か。年貢の心配でもしておれ。」 とこっぴどく叩かれる。そういったことがまた彼らの尊皇への情熱を駆り立たせることに なり、松根藩への反抗となってゆく。
 隠岐の島民にしても十津川村の郷士と同じで尊皇の気風は強いということである。これ も同じく歴史的に根拠かあることである。隠岐は昔から流人の島である。しかし、流人と 言っても極悪非道な刑法犯でなく、政治犯が流された島であり、政治の表街道を歩いた為 政者、特に天皇や公家たちである。したがって島民たちはこれらの貴族に仕えてきたとい うプライドがあり、われわれは都の朝廷と直結しているのだという帰属意識が古くからあ って、尊皇の気風を醸成したのだと五木氏はいっている。
 隠岐島共和国に至るまでの政治闘争(闘争というよりは民主的な戦いであったらしいが) を中沼了三が直接に指導したのではなかった。彼はあくまで島民たちの思想的・精神的な バックボーンであった。隠岐出身の朱子学派の儒者であり英才であった。明治天皇の侍講 までつとめた朝廷派・勤王派の中沼了三という高い共同アンテナを通じて同一音波で結ば れたのが隠岐と十津川ではなかったかと思う。一方は海上遙かにある群島であり、一方は 大和とはいえ僻陬の内陸である。いずれも中央から離れること遠く、遠いが故に彼らの都 への帰属願望は強かったにちがいない。そして、そのことがまた彼らの精神的なよすがと もなっていたと考えられる。恋する男女が互いに遠く離れていれば、恋はますますつのる ようなものだ。十津川を歩いても今や幕末動乱の時代の郷士の面影を偲ぶことはできない。 ただ寂しい民家がぽつりぽつりと軒を連ねているばかりである。
 わたしは祖父が文武館の学生だったと生前に聞いたことがある。そして、祖父は幼い頃から向学心の強い子供だったとも叔母や母から聞いたこともある。そんなことから想像すると、祖父は曾祖父に泣きついて文武館に行かせてもらったのかも知れない。しかし、貧乏寺の財力をもってしては卒業させることが出来ず、途中で妙心寺の修行に出したのであろう。祖父は祖母との結婚にあたって、上級の学校に行かせてもらう約束を円光寺先住と取り交わしたと聞いたことがある。しかし、本当はどうだったのか今はもう聞くすべはない。文武館のたたずまいの影にただ祖父の生前を想い浮かべるだけである。




「地縁と血縁と」 おわり

(初稿は「烏合の会だより」第148号 3/31-1996 )


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