「炭焼きと魚」脱稿付記

寺嶋経人 (1991)



  (1)

 「烏合の会」の編集の労をとってくださっている大江希望氏に「何でもいいから書かないか」と勧められて、書き出したのが「炭焼きと魚」でした。生来怠くら者の私は、何の目算も立てず、行き当たりばったりで書き始めたものの、電車が無軌道なレールを走るように、何処でブレーキを絞めればいいのか自分でもわからないままに前号でやっと止まることになってしまいました。実は私本人も話がこんな筋道を辿ることは初めからまったく予想もしてなかったところが、毎回毎回書いていくうちにこのようなものになってしまいました。何とも無責任な話であると反省していますし、このような作を読んでいただいた「烏合の会」の皆様に厚く感謝いたします。とりわけ、書き終わってから、とても後悔しているところは愚作が歴史的な背景を無視していたということです。炭焼きの主人公が、戦時中に大八車を引いて本宮から新宮まで、炭や死体を運ぶということは物理的にありえないわけで、当時の交通事情を考慮に入れずに頭の中の貧しい想像力に依拠して書いてしまったことに基づく過ちだったわけです。そこでしばらく、古今の熊野の交通事情を述べさせてもらって、お詫びに替えたいと思います。ただ、弁解がましくなりますが、戦時中の交通事情がどのようになっていたのかについての詳細は今のところ調べていませんし、尋ねてもいません。「荷車くらいは通っていたよ。」と言ってくれる証人がいたら幸いなのですが。もし、まちがっていたら(この公算はほぼ百パーセント)、私のせいで誤った熊野を紹介したことになります。
 「熊野」という地名からして、何か日本の僻地のイメージが強く感ぜられます。私本人がそう感じるのですから、東京在住の皆さん方にはより強く感じられることでしょう。日本国中津々浦々、今日では画一的に観光行政が進められて、名所・旧跡・歌枕等はすべて観光客の視線で舐めつくされて軟化してしまい、秘境などといったところは探そうにも探せない有様です。当地も例に漏れるものではありません。嘗て「熊野」はその隔離性・隔絶性と言ったところに人間を寄せ付けない宗厳さをもって信仰の対象とされて崇められてきたのだと思います。重畳とした峻険な山々・河川・荒々しい海といった自然条件が土着の民の畏怖を誘発し、八百万の自然に神々の内在を確認してきたのでしょう。こういった土着の民の古層の信仰とかてて加えて、道教や仏教や神道が相俟って歴史のなかに侵入し、熊野三山等の基層信仰を作り上げてきたのではないかと思います。
 話は相変わらず横道に逸れてしまいますが、「熊野」は現代でもやはり僻地であって、東京などに出るにしても八時間くらいはかかります。むしろ、東京から沖縄や台湾に飛行機で行くほうが近いのです。その分、観光俗化していない面も現存している所も多いかと思われます。嘗ての夏の暑い盛りに大江希望氏と修験道者「実利」の墓を探訪しましたことがありましたが、大江氏が言われるところによると「南方熊楠が散歩の途中で実利の墓を見付けたと書いているので、たぶん方位としてはこのあたりになると思うんだが。」と言われるので訪ねていったら、やはりあった訳です。そして、大門坂(熊野古道)の杉並木に挟まれた薄暗い石畳が醸し出す幽寂な雰囲気は、今しも昔の天皇や上皇の行列が現われてきそうな感じを湛えていますし、褌一つで粘菌採取に歩んでいく熊楠の姿が彷彿してきます。杉並木のかかりつけに赤い鳥居が立っていて、そのつい傍に昔「大阪屋」という旅篭があって、大英帝国博物館で喧嘩をやらかして帰日した熊楠が二年ほど滞在して「雨月物語」の英訳やら粘菌採取にとりくみました。当然昔のままではありませんが周囲の景色はそのままに残っているような感じです。以上はほんの一例ですが、現代においてこのような有様ですので、歴史や民俗学あたりに興味のある方々には「熊野」はまだ未知の奥深さも持っていることと思われす。
 さて、本論に入ります。熊野の交通の動脈は、紀伊半島をぐるりと回って走るJR「紀勢線」があります。ありますなんてものじゃなく、これしかありません。明治の頃に(多分三十年頃を境に)鉄道を付けてほしいという熊野民の要求があって、一九一0年(明治四十三年)に那智勝浦町浦神出身の山口熊野(やまぐちゆや)なる国会議員が鉄道敷設に関する建議案を提出しましたところ。「紀伊半島に鉄道を敷いて何を乗せて走るというのか、サルを乗せて走るのか。」と議員衆から嘲笑されたということです。しかし、彼は若い頃から自由民権運動に参画し、過激なアジテーターとみなされて数度投獄され、亡命先のアメリカからも民権思想を鼓吹してくるといったような、元来不屈の精神の持ち主であっただけに、一九一九年(大正八年)の第四十一議会で「線路建設改正法案」が両院で可決され、この年から紀勢線の着工が開始されました。そうして、やがて二十年という長き歳月の後、ついに和歌山・新宮間が開通しました。時あたかも戦雲が日本を覆い始めた一九四十年のことでした 私は、この山口熊野なる人物が同郷の浦神という寒漁村から出たことについて興味をそそられます。私の住んでいる浦神は今だに閉塞的なところで、嘗て百年も前に国会議員を送り出したということはどういうことなのか今ではとても考えられないことです。追い追い調べてみたいと思っています。山口熊野の頌徳碑は那智駅前の広場にぽつねんと建っていて、海水浴客は勿論、地元の人々にすらに忘れられつつあります。
 「炭焼きと魚」の冒頭でのべさせてもらいましたが、熊野というところは、山が海にそのまま雪崩こむといった地形と、海に注ぎこむ河に沿ってしか生活のできない場所です。特に海岸線にあっては、目前の飽き飽きする海を見ながら、また、背後に自らを追い立てて迫るような山々を見ながら生涯を暮らさなければならない。都会人からは「何を贅沢な。」と叱られそうですが、それは自然が消失していく姿を愛惜する現代人の心情から言えることで、特に、昔の人々にとっては、苦痛と退屈以外の何物でもなかったのではないかと思います。嘗て、熊野人がアメリカやハワイに移民をしたり、豪州の木曜島での真珠貝の採集に携わったり、ラッコやほろほろ鳥を捕獲に行ったりしたことは、人間を遠くに駆り立てる熊野独特の風土に起因していると思われます。勿論、熊野水軍などの血脈を受け継いでいるなどと言っても、元を糾せば、貧しい漁民のハングリー精神が基盤をなしていたと言えそうです。「海」は人間を開放させると同時に閉塞させるという両面を持っているように思われます。幕末・維新の「日本」というものを頭の中に設定した場合にもこのことは普遍性を帯びてくるように思います。「尊王」も「攘夷」も海の中に位置付けられた日本列島を「海」という視点によってどう解釈するかによって、「鎖国主義」「解明主義」の考え方が成り立つように思えます。
 「炭焼きと魚」は熊野の閉塞性を意図して、それを象徴するものとして「炭焼き」を登場させました。炭焼きの話を聞いている私も同じく炭焼きと同じてす。最後に面倒くさくなってやめてしまったら、早速、大江希望氏より寸評をいただき、その中に「もっと魚(海)のことが入っていれば。」と書かれていました。全くその通りで、前述の閉塞性と開放性が混在していなければ生きた熊野人を描いたことにはなりません。氏は、そこの所を言葉少なに鋭く指摘して下さったものと私は解釈しています。


  (2)

 前回は主に鉄道を中心にして書いてみましたが、今回は他の交通について書いてみようと思います。浅学非才のつけ焼刃であることをまずお断わりしておきます。
 交通というものは一般に人間の目的性と言うものが基底にあって発達するのは申す迄もありません。したがって熊野の道路網は古来から熊野信仰という目的があって発達したものと言うことが出来ます。本宮大社と言われるのは新宮から約五十キロ熊野川(新宮川)を遡ったところに位置しています。速玉神社は熊野川河口に位置しており、新宮市内にあります。熊野那智大社は那智勝浦町那智山にあります。普通のイメージからして、熊野三山というと鬱蒼とした樹木が生い茂る中に位置している社と想われがちで、それには違いないのですが、地理的に考えれば、山奥に位置しているのは本宮大社だけで、後は海岸線に接しています。そのことから考えると三山はすべからく霊山的な山信仰(山岳信仰と言うのですか)から一面的に成り立ったものではなくて、山・川・海といった熊野が置かれている地理的な多面性の上に立った自然崇拝がもとになって出来上がったのではないかと私は我流に思っています。熊野地方は高温多湿のために良質の木材が産出され、新宮は熊野川の河口として木材搬出の集積地として盛況を極め、今の新宮市になったといって過言ではありません。「炭焼き」は熊野では古い歴史をもっていますが、これは和歌山県の県木となっているウバベガシが良質の備長炭の材料となっていて、江戸時代には材木と備長炭が新宮藩を潤しました。原初的な農業の成立に「焼畑」が上げられますが、熊野地方にはこの「焼畑」の例はほとんど皆無に近いほど希少な例しか止めていないそうです。それは考えようによっては、杉や桧といった材木の焼失を防ぐか、備長炭の原木の焼失を防ぐといった危惧が働いていたのかも知れません。
 良材は神社・寺院・住宅の建築材料となるばかりではなく、海における活動や交通機関の中心となる船舶建造には欠かせないものとなります。鵜殿水軍や古座水軍等の熊野水軍はいずれもそれぞれが熊野川や古座川といった大河の河口にその拠点をもっており、その奥地では良質な木材が産出されています。伐採した木材は筏などによる流出搬送ですから、たぶん水に対する信仰や水源信仰などもあったことでしょうし、神武東征神話(神武は船でやってきた)や古来からの太陽信仰などが複雑に交錯し絡み合って三山信仰の古層が出来上がったのではないかと思います。勿論、歴史的な過程の中で原初的なアニミズムに道教や神道や仏教の思想が徐々に宗教的な色彩を加味していったことでしょう。このへんが私の浅学非才のしからしめるところで想像の域を出ません。熊野速玉神社や古座の河内神社の祭りといったものが、今でも山・川・海の複合的な原初の信仰の面影を止めているような気がします。
「もともと道というものはなく、人が歩くからそれが道になるのだ。」という魯迅の言葉のように、約十世紀前の天皇や上皇の熊野詣以来盛んに道を踏みしだくことによって出来上がったのが「中辺路」(なかへじ)で、三山信仰の道と言ってもよかろうと思います。現在の西牟婁郡田辺市の朝来という海岸線からにわかに山道に折れて温泉郷湯の峰を経て本宮に通じています。周より直線が短距離になるわけですが、たぶん今の紀伊半島の海岸線を伝って、紀勢本線と平行して走っている国道四十二号線の大辺路(おおへじ)は危険で道らしき道として整備されてなかったのでしょう。本宮大社にお参りした人々が新宮にお参りするには熊野川に沿った現在の百六十八号線を辿ったのでしょう。私は「炭焼きと魚」の主人公に荷車を引かせたのがこの道であったわけですが、史実によると昭和三十三年にはじめて新宮から本宮までバスが走るようになったようです。それまでの交通機関は主に船で、三反帆(さんだんほ)という帆かけ船が走っていたそうです。これに人間は勿論のこと薪や炭等を積んで上流から新宮に下り、帰りは日用品の数々を積んで川をさかのぼったそうです。上りはいろいろ大変で、風向きと冬場の渇水期には並々ならぬ苦労があったそうです。当時の船頭のの作句らしきものに「東風吹いてめはり寿司食う宮井茶屋」というのがありますが、句意は「今日は東風がよく吹いて快調に進んで昼飯にもってきためはり寿司が早や宮井の茶屋で食えることよ」と喜んでいます。早朝に新宮の川口を出発した舟が順風満帆で熊野川町の宮井に昼頃についたのでしょう。しかし、冬場は北西の風の吹く日が多く、そのうえに水量の少ない川は船頭泣かせで、二艘を一つに括り付けて一人が操舵して残りの三人がそれぞれ一本ずつ綱をもって川原を伝いながら、あるいは凍てた川水に浸りながら舟を引いたらしい。「ヨオッツーツ」と掛け声を掛け合って同じ宮井まで三日を要したらしい。舟引きは自分の股座からしか空を仰ぎ見ることが出来なかったようです。
 閑話休題。めはり寿司は熊野地方特有の簡便な弁当から生じた寿司のことで、今では駅弁等で販売されています。これは、タカ菜と当地で称する野菜の漬物で握り飯を包んだものですが、昔の百姓が野良仕事などに出掛ける時に手間のかからない弁当として持参したものだそうです。その握り飯にはボリュームがあって、食する時には目を大きく張ら(開ける)ねば食べれないところから名付けられたものです。私はよく磯釣りに出掛けるのですが、いつもこの「目はり寿司」をもっていくのが楽しみで、とくに秋の澄みきった空と深く青い海原を見渡しながら食する「目はり寿司」は格別うまいもので、半分はこの愉しみのために出掛けると言うのが本音です。
 大正の六年ごろに新宮に飛行機が飛んできて、人々は黒船を見た時のように驚いたようです。その人々のなかに川船の船頭であった鳥居某という人がおって、あのプロペラを船に利用出来ないものかと考えて、五年がかりの研究の末にプロペラ船を発明したということです。まさに「必要は成功の母」というのか「苦労は成功の母」というのでしょうか。「三反帆」に変わって以来このプロペラ船が熊野川の主要交通機関として活躍しました。筏師などは命懸けの木材の流出でやっと新宮に着いたものの、帰路は歩いて帰るわけには行かずプロペラ船を利用したらしいのですが、何でも稼ぎの一割とか二割は舟代に取られたようです。今ではプロペラに変わってジェット船なるものが運航していますが、これは観光客目当てのもので奥地の住民の生活に直接的な役割を果たしたのはプロペラ船が最後であったと言えるでしょう。加えて昭和三十年以降のダムの建設によって熊野川の水は汚濁するとともに、悠長な「三反帆」やプロペラ船は姿を消し、自動車が主なる交通機関として定着して現在に至っています。炭焼きK氏が鮎のなぶら(群れ)を水面下に見ながら泳いだのも、お八重さんの屍を運ぶ道中で体を浸した熊野川も私にとってはどうしても清らかなイメージでなければならなかったのですが、それは史実としては誤ってはいなかったものの、戦時中から昭和三十三年の間の木材や薪炭の運搬はすべてプロペラ船であったのか、荷車での運搬すらかなわぬ陸路であったのかは今だに調べはついていません。私はこの作品はこのままにしておきたいという気持ちと、史実を曲げたままで放ってはおけないといった気持ちが今だに複雑に私の心を領していて、出来ることなら生来の怠惰にかまけてこのままにしておきたいというのが現在の正直な心境です。

(おわり)



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