南紀便り ・・・・・・・・ 目白と松茸

寺嶋経人(1989)




   1

 子供の頃(小学生時分)、私は目白を飼うことが楽しみで、よく目白捕りに行きました。その頃は、私たちの仲間は皆秋の丁度今時分にとりました。その目的は二つありました。その一つは「高音をハラス」ことが目的で「鳴かし合い」をして、多く「高音をハル」目白が優れた目白でした。これは今も変わりありません。
 もう一つの目的は喧嘩をさせることでした。もともと自然界でも、「鳥は高音をハル」ことによって自分のテリトリーを誇示し、ここに闖入する仲間を威嚇する性質がありますので、本来、闘争的な性格を持っているようです。この性格を応用して喧嘩をやらせるのです。その方法は、目白を入れた篭(竹篭=直方体で約30p×20p×15p)を入り口を合わせるように二つおきますと、互いに鳴き合って、入り口の所の竹籤(ひご)からくちばしを差し込み猛烈に相手をつつき合あいます。しばらくそうしておいて、両者が興奮の極みに達した頃合いを見はからって、入り口の戸を開けてやります。そうするといずれかが一方の篭に飛び込み、壮烈な格闘を演じます。この闘争たるやシャモの喧嘩にも増してはなばなしいものです。
ややあって(30秒ほど)勝負が決せられます。敗者はバタバタと逃げまどい、勝者は執拗にこれでもかと言ったように追い回します。そこで二つをもとどうりの篭に分け合って終わります。大事なことを言い忘れましたが、最初、二つの篭を見合わせたとき、篭と篭の間に、木の小枝か割り箸に砂糖水をつけて挿し入れます。二羽がそれを飲み合ううちに喧嘩となるのです。しかし、砂糖をやらなくとも、気性の激しいのは、自然に喧嘩が成立してしまいます。これが面白くて、子供の頃、友達の目白とよく喧嘩をやらせました。喧嘩の強い順に自分でランクをつけ、何羽も飼っていた友達もおりました。又、喧嘩の強い目白ほどよく「高音をハリ」ました。しかし、このような目的で飼育するのは邪道で、現在、喧嘩をやらせるために飼っている人は恐らくいないでしょう。
 これは大人になってから知ったことですが、私たちが目白を捕獲して遊んだ時季は晩秋から翌春にかけてですが、「高音をハラス」ためには、春から夏(五月中旬〜七月頃)に生まれた子目白が一番良くて、この時期に捕獲しなければなりません。私はご承知のように、太平洋がすぐ目前に迫った村で過ごしましたので、目白の移動性を知らなくて、寒くならないと飛んで來ないものと思っていました。
 現在、浦神の自宅の前の主人は遠洋漁業の漁労長で、一航海早くて半年、一年近く航海に出ていますが、子供もないので、目白を飼うことを趣味にしています。留守宅では奥さんが二十羽ぐらいの目白の世話をいやがらずにしています。これも「鳴かし合い」に参加することを目的にして飼っています。家庭菜園は年がら年中、大根を絶やしたことがありません。目白はスリ餌で飼料の中に多く大根の葉をすり潰してやらないと、フンづまりをきたします。

   2

 子供の頃、学校の裏山に目白をかえし(モーチで捕獲するの意)に行きました。おとりの目白を適当な枝ぶりの木に懸け(大体が県木のウバメガシ)、飛来してきた奴がとまりそうな所を予想してモーチを仕掛けておきます。(2本〜3本)おとりの鳴き声につれて、木の頂上よりおとりカゴに近づいてきます。その時の緊張感は格別で、心臓がドキドキと鳴ります。モーチの上に止まった奴は半転してぶらさがります。「それっ」とばかり走ります。あまりこちらが慌てますと、目白の方が恐がってバタバタ騒ぎ羽根や尻尾にモーチがくっつき、羽根を抜かねばなりません。特に尻尾にベタッとくっついたのは尻尾を全部抜くことになりますが、格好が悪く、再び尻尾が生え揃うまで、かなりの日数がかかります。
 学校の裏で、「それっ」と走っていると、何か突起したものにのっかってすべって転げましたので、よく見ると大きな松茸が松葉をもたげて出ていたのです。そんなわけで、当時は海岸近くの山にも松があり、松茸も生え、当節のように貴重でもありませんでした。ところが現今、松茸は当地でもとても貴重なものとなりました。第一松は海岸線より枯れ始め、その姿はなくなりました。紀伊半島南部は昔から海岸沿いに松の木が多く、紀勢線の車窓から美しい松林が眺められたものですが、およそ30年以前から枯れ始め、最近ではほとんど見られなくなりました。山々に屹立する白い枯木はほとんどが松の残骸であるといっても過言ではありません。新しい松の幼木も生えてはくるのですが、生彩なく枯れ果ててゆく。原因はどこにあるのか詳細は知りませんが、一種のカミキリ虫に寄生する松食い虫にあるようです。枯れ始めた幹の根元には幼虫の糞が多く見られます。そのようなわけで熊野地方からは松が姿を消してゆきました。しかし、七川、小川方面に行くと、まだ残っている所もあります。
 三年程前、七川の知人宅に寄ると「松茸とりに行かんか」と誘われて行きました。林道をしばらく車で行き、谷川の湧き水(丁度、実利墓探訪の際貴兄と谷水を飲んだようなところ)のあたりから急斜面を登り始め、息をハアハアとはずませながら、尾根にのぼりつき、テクテクと歩いていくと、時季が時季だけにセンブリの花が清楚に咲いていました。また、リンドウの花々が小道一面に咲いているのを踏みつけながら進んで行くと、白い大きな物体が我々の前方を跳ね飛んで逃げました。大きなカモシカでした。カモシカは成熟すると白っぽく毛が変わるそうです。松は所々にポツポツと生えているだけです。それも生気があまりありません。いよいよ目指す松の木の所に来て、ためつすがめつするのですが、仲々生えていそうにありません。近くには松茸以外のたくさんの木の子が群生しています。ついにありませんでした。しゃくにさわるので何やら分からん木の子をもぎとって帰路についたのですが、様子がどうもおかしい。どうもこれは道に迷ったらしいことに気づき、同じ道を何度も何度も往復したり、さては高い木に登って方角を見るのですがいずれも山また山の重なりだけ。おかげで千振はたくさん抜きました。やっと、単純な分かれ道で間違っていたのに気付き、車のところまで帰りつきました。夜、一杯飲みながら、何の木の子かわからないが、酒で気も大きくなったので、婆さんにすい物を作ってもらって食べた所、これが実に美味でした。しかし、2,3時間は心配でした。 

   3

 こんなことがあって久しぶりに、今月の15日に、松茸採りに誘ってくれる人があって(この人は猪・鹿など狩猟をして山に詳しく、したがって、松茸などの場所に詳しい)女房とともに行きました。朝まだ暗いうち(5時前)に浦神を出発。小川方面に車を走らせて、「山手」という部落を谷間沿いに入り、車を置いて山に登りました。登り出す頃はまだ足元が暗く懐中電灯で照らしながら登って行きました。
 松茸がりの実感が沸々と湧いてきます。ここらあたり(近辺)の人の話では、松茸とりは大体、暗いうちに(午前3時頃)懐中電灯を点け、他人にみられぬように密かに忍んで山道を登ってゆくそうです。もし、他人に後をつけられる気配でもあれば、わざと目的地への登り口やコースを違わせて他人をまいてしまうそうです。それに滑稽な話ですが、松茸の在りか(コバ)はたとえ親子血縁の間でも言わぬそうで、言わぬまま死んでしまい、残された家族をがっかりさせたという話はよく聞きます。田舎の人のエゴイズムを象徴しているような話です。
 そんな話を知るや知らずや、今日の案内人は足元の暗さなどはものともせずスタコラ、スタコラとまるで縄文人の如く歩んでゆきます。延々約3,40分もつづら折れの杉や桧のガレキの道をのぼり、尾根に着いた頃には息も絶え絶えで、この時ほど、年齢と体力の衰えを痛感したことはありません。さすが、進むにつれ、立派な松が多く連なり、いかにも松茸がありそうな感じです。「この辺りで探そう」ということで弾む心で松の周辺を眺めるのですが、それらしきものがまるで見つかりません。下の方で「一本あったぞう−−−」との叫び。女房「待って!」といって見に行く。私も長らくお目にかかっていないそれを見たくて、すべるにまかせて斜面を下りると、傘もやや開き加減のが一本生えていました。女房が抜かせてもらいました。そこいらじゅう松の周辺を探すのですが、私たちにはどうしても発見できずじまいでした。ベテランは「ちょっくら向こうの尾根まで行ってくる」と言い残して私らを置いて行ってしまいました。やがて、私共も独力で見つけてやるぞという気迫が生まれ、行動範囲を広げてみたものの、毒茸か何やら分からん奴が、眼に入るだけで、どうしても発見できず、おまけに又、又、道に迷いに迷って、迎えに来てもらうという羽目に陥りました。さてベテランはというと、その間約二時間に小さなものを含めると2、30本も採っておりました。ナップサックの後を歩くと松茸の香りがプンプンと漂ってきます。その匂いをかぎながら帰路につきました。
 ベテラン仲間がもう二人、別の山に入っていたのと海岸の喫茶店で合流し、しばし松茸談義に花を咲かせました。別のベテランたちも立派なの、まだまだ本当に小指ほどの芽子(めご)まで入れて何十本が採っていました。最後に皆で分配しました。勿論一本もとれなかった私共も公平な分配に預かりました。しかし、松茸の価値は高いですが、いざ実際行ってみると、それだけのねうちはあると実感した次第です。
 私共を連れていってくれたベテランは実直な人で(松茸をくれたから言うのではありません)、誠実な人です。この人がこんな話をしていました。二,三年前に松茸とりに山に入ったそうです。そうすると、不思議なことに道がほうきで掃いたようにきれいになっているのを見て、疑問をもち家に帰ったそうです。その後、知人が同じ山に入ると、大蛇が鹿をまるのみにしたものの、角の部分がどうしても飲めず苦しみ、のたうっているのを見て、腰が抜けるほど驚き恐れ、山をかけ下り、崖よりまくれて、一命をとりとめたものの古座川病院に長らく入院したとのこと。私も最初は嘘と思っていたのですが、この人は嘘などつく人ではないと実際対面して思いました。恐らく山にはまだまだ不可思議な事も多いのではないかと思います。


(1989年11月 大江希望宛書簡より)

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