き坊のノート 目次

花山院のこと(第1章)




目次
(1) 即位式のとき
(2) 冷泉天皇
(3) 寛弘三年(1006)十月五日の火事
(4) 寛弘三年(1006)十月五日の火事(つづき)
(5) 冷泉院と道長
花山院のこと (第2章) (6)~(10)
花山院のこと (第3章) (11)~(13)


本稿では、和暦の年月日・数えの年齢に和数字を使い、西暦の年月日には算用数字を使っている。(ただし、図の中の月日は、和暦月日も算用数字にしていることがある。)



---  その(1)  即位式のとき  ---

花山院(花山天皇)は、ずいぶん変わった天皇であったということは断片的に知っていたが、即位式のとき傍にいた女官を高御座[たかみくら]に引きずり込んで交合していたという話があるというので、“ホントかいな”と思って調べる気になった。

『江談抄』の冒頭、(二)に「惟成[これしげ]の弁、意に任せて叙位を行ふ事」というのがある。惟成は花山天皇と乳母子(花山の乳母を実母として、花山と乳兄弟であった)の近しい関係で、第一の側近のひとりといわれる(もう一人は義懐)。惟成は「左中弁」に至ったので、よく「惟成の弁」といわれる。家集が残っており「惟成弁集」といわれる。
この『江談抄』の題は「惟成の弁が、勝手に叙位を行った」という意味である。
また云はく、「花山院、御即位の日に、大極殿の高座[たかくら]の上において、いまだ剋限をふれざる先に、馬内侍を犯さしめ給ふ間、惟成の弁は玉佩ならびに御冠[おんかうぶり]の鈴の声に驚き、「鈴の奏」と称[]ひて、叙位の申文[もうしぶみ]を持参す。天皇御手をもって帰さしめ給ふ間、意に任せて叙位を行へり」と云々。(新日本古典文学大系32『江談抄 中外抄 富家語』岩波1997)(p6)

花山院は、即位の日に、大極殿の高座の上で、まだ式典の進行の合図が鳴る前に、馬の内侍を犯していた。惟成の弁は玉佩や御冠の鈴の音がしているのに驚いて、式典後半に必要となる叙位の申し文を持って玉座に近づいた。天皇は手で惟成を追い払ったので、惟成はそのあとは勝手に叙位を行った。
惟成の弁が花山天皇の近臣であることをいいことに、勝手に叙位を進めたという政治的揶揄を込めているとも解されるが、よくわからない。

同じ事件が、『古事談』(一の十八)に出ている。こちらの方は、前後の事情はカットして「配偶す」だけを書いている。『江談抄』の「犯さしめ」と同じで、現代語では“性交した”だろう。
花山院御即位の日、馬内侍、けん帳[「けん」は寒の2つの点が衣]の命婦と為りて進み参る間、天皇高御座[たかみくら]の内に引き入れしめ給ひて、忽ち以て配偶す、と云々。(新日本古典文学大系41『古事談 続古事談』岩波2005)(p34)

花山院は即位の日に、高御座の帳をかかげる役の馬内侍が進み出てきたので、高御座の内に引き入れてたちまち交わった。
即位式は天皇一世一代の重大な行事であり、高御座は宗教的な権威づけのために荘重な造りになっている(その形状は鳳輦と類似している)。高御座には帳が下がっていて、天皇はその内側に女官を引きこんで犯した、ということだろう。花山天皇の即位は永観二(984)年八月のことで、古代天皇制が変質し中世王権が成立しようとしている過渡期であった。そうであっても、即位式が重大な儀式であることは当然であり、後宮など私的な空間でのスキャンダルとはまったく質が異なる。おおっぴらになってしまうのは当然である。
天皇の行為のため玉佩や御冠の鈴が音を立てていて、それを確かめに惟成は玉座の内をうかがおうとしたところ、天皇に手で追い払われた。その後は、惟成は勝手に叙位の式典を進めた。そういうことだろう。


図は『古代天皇制を考える』(日本の歴史08 講談社2001)の口絵から拝借した。この口絵の原図は京都御所に展示してあるもののようだ。また同書(p233)に「弘化御即位調度図」として掲載されている高御座は、弘化三年(1846)の孝明天皇の即位の際のものであるが、上図とほぼ同じようなものと思える。
近世(徳川後期の天皇絶対化の流れ、ことに明治以降の天皇神格化期)の高御座がそのままの形式で10世紀末当時に使われていたのかどうか分からないが、まるで違ったものであったとは考えにくい。古代律令時代の「文武百官の頂点に立つ天皇」という絶対性を演出する即位式に使用されていた高御座は、近世後半以降の天皇神格化期のそれと類似のものであったと想像することができよう。

『江談抄』は大江匡房(1041~1111)の談話を、藤原実兼(信西の父)が筆記したもの。12世紀初頭の成立と考えられる。『古事談』は、鎌倉初期の説話集。源顕兼(1160~1215)の編。顕兼は、長年刑部卿を務める一方で、藤原定家や栄西らとも親交があった人物で、有職故実に詳しかった。

ただし、これがそのまま実話であったとストレートに信じるのは難しい。たとえば「群書類従(正篇)」に「天祚禮祀職掌録」という文書がある。即位式の役職を務めた人名が記録されている(宇多~後花園)。それを見ると花山天皇のときは、「けん帳」の女性は左右二人で務めるが、左慶子女王[弾正尹章明親王女]、右明子女王[前上総守盛明親王女]となっており、「馬内侍」ではあり得ない(「女王」というのは皇孫・皇曾孫・皇玄孫を指すが、ここではいずれも醍醐天皇の孫にあたる)。
『江談抄』や『古事談』の“話”(説話、伝説)の元になるなんらかの不祥事が、花山天皇の即位式で天皇自身によって行われたという事実があって、それが成長して行ったと考えられる。その背景となっているのは、律令制が崩れて「中世王権」が成立する段階で、“個人としての天皇は卑俗な人間である”という考え方が、貴族社会の中に生まれてきていた、という事情であろう。

なお、馬内侍[うまのないし]といえば、女流歌人(勅撰入集38首、『馬内侍集』あり)として名を残している人物がまず連想される。文徳源氏。源能有の玄孫。左馬権頭・源時明の娘、ないし実父は時明の兄致明という。
後に扱うが拾遺和歌集(1006頃成立)は花山院の撰であるといわれ、それに既に4首入っている(ただし中宮内侍という名で)。いずれも『馬内侍集』(群書類従所収)にも含まれているが、前詞などが相違している。
拾遺和歌集(恋三)から1首引いておく。

 月を見てゐなかなるをとこをおもひ出でてつかはしける

こよひ君いかなるさとの月をみて都にわれをおもひいづらむ

前引『古事談』の脚注は馬内侍に関して詳しく述べていて、馬内侍は二人いたこと、もちろん「けん帳の命婦」ではありえないこと、だが当日の花山院の奇行に関する何らかの伝承が存在していてそれが有名人である「馬内侍」に結びつけられていった可能性を推論している。その部分を引用する。
新帝は早めに着座しており、けん帳命婦に先立ち登場する女官があって、このときは)剣璽内侍として従っているのが紀順子と源平子。源時中の妻に平子命婦がいるが、関係不明。馬内侍と呼ばれる人は二人いて、その一人は文徳源氏だが、右馬権頭時明を父か叔父(養父)とするのであれば、掌侍源平子とは別人。ただ、何らかの伝承が比較的有名な馬内侍に仮託された(あるいは成長した)可能性はある。(前掲書p29)
花山天皇は17歳で即位している。これは決して若すぎる即位とは言えない。例えば5代前から即位の時の年齢をあげてみると(並記したのは在位年数)、

醍醐(13,33)-朱雀(8,17)-村上(21,21)-冷泉(18,2)-円融(11,15)-花山(17,2)

すなわち、花山の即位の年齢は、当時としては普通のことであり、むしろ異様なのは、冷泉とともに在位が2年間と、非常に短かったことである。冷泉は花山の父であり、精神に問題があったとされている(次節で扱う)。
とすれば、花山も精神に問題があったが故に即位式に奇行があった、のかどうか。後に見るように、花山の突然の譲位は『大鏡』で特別に詳しく述べられるような、藤原兼家らの政治的陰謀にひっかけられたためである、と通常考えられている。

---  その(2)  冷泉天皇  ---

花山院の父親は冷泉天皇である。冷泉天皇はわずか2年間の短い在位期間であったが、花山はその在位中の19歳のときに生まれている第一子である。母は藤原伊尹[これまさ、これただ]の女、懐子。
伊尹は師輔[もろすけ]の長男であって藤原摂関家の嫡流と目されていた。太政大臣に上りわずか1年目、これからという時に早世してしまい、摂関家の流れは兼家の家系に移る。兼家の4男が道長である。



その冷泉天皇の即位式が異例であったというので、同じく『古事談』に出ている(一の十四)。花山院即位の16年前のことである。
冷泉院の御即位は、大内紫宸殿において行はる、と云々。神妙の儀なり。主上頗る例ざまにも御坐[おはしま]さず、大極殿において此の事を行はれなば定めて見苦しきか。小野宮殿の高名、此の事なり、と云々。(前掲書p35)

冷泉院の即位は、大内の紫宸殿で行われた。結構なことであった。主上はひどく普通ではないので、大極殿で即位式を行えばきっと見苦しいことになったであろう。小野宮(藤原実頼)がうまくおやりになったのは、まさにこの事である。
小野宮・藤原実頼というのは、忠平の長男で母は宇多天皇の女[むすめ]・順子。村上天皇の時代には弟・師輔とともに左・右大臣となり、「天暦の治」と賞讃された。村上天皇に実頼・師輔はそれぞれ女を入内させたが、実頼女は皇子を生まず、師輔女・安子は後の冷泉・円融の2男子を生んだ。そのことが兄弟の家系の大きな差となる。
冷泉天皇が精神に異常があるというので実頼が関白職につき、冷泉が2年で退位し11歳の円融天皇が即位したので(安和二年 969)、ついで、その摂政となる。しかし、その翌年(970)、71歳で死ぬ。
冷泉も円融も師輔の孫であり、宮廷政治の実権はすでに師輔とその息子たちに握られていた。この辺りの権力闘争は花山院の運命も大きく左右しているので、後に詳述する。

紫宸殿は、天皇の私的な居住区である内裏の正殿であり、本来、天皇の個人に関する行事(元服や立太子など)が行われるのにはふさわしいが、〈王権〉の中心たる天皇の即位式の行われるべき場所ではない。朝廷の公的な正殿である大極殿が天皇即位式にふさわしいのである。
なお、本稿では〈王権〉という語を使用するが、それは「国家権力」ないし「国家」というと、われわれがつい「国民国家」を想像してしまいがちなので、それを避けたいためである。
〈王権〉に包摂されている人々(王-官僚-人々)とその専有している土地をあわせて、「国家共同体」としてもよいわけだが、「国家共同体」に包摂されていない人々もいくらでも存在していたことを忘れがちである。

経済関係で結ばれていても、〈王権〉に包摂されていない人々もありえたであろう。異なる〈王権〉同士の人的・物的交流(敵対も含めて)がありえたであろうが、そういう交流の外に自存していた人々もあったであろう。
平安時代において、天皇即位式が大極殿で行われなかったのは、わずか3回しかない。その初例が上の冷泉天皇の場合である。残り2つの例外は、いずれも大極殿が焼失している時期である。後三条天皇の場合は治暦四年(1068)七月であったが、その約10年前に「新造の内裏焼け、大極殿・朝集堂も焼ける」という火災があり、それの復旧ができていなかった。それで、即位式は太政官庁で行われた。安徳天皇の場合は、治承四年(1180)四月であったが、『方丈記』で有名な「安元の大火」(1177)で大極殿が焼失しており、紫宸殿で行われた。

大極殿で即位式が行われなかった例については『平家物語』も扱っており、冷泉天皇にも言及しているので、参照しておこう。
同じく(治承四年)四月二十二日、新帝(安徳)御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、ひととせ炎上(安元の大火)ののちは、いまだ造り出されず。「太政官の庁にておこなはるべし」とさだめられたりけるを、そのときの九条殿(兼実)申させ給ひけるは、「太政官の庁は、およそ人の家にとらば、公文所体の所なり。大極殿なからんには、紫宸殿にて御即位あるべし」と申させ給ひければ、紫宸殿にて御即位あり。
「去んぬる康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にておこなわれ候ふことは、主上御邪気[おんじゃけ]によって、大極殿へ行幸かなはざりしゆゑなり。その例いかがあるべからん(その例と一致するのはいかがなものか)。ただ延久の佳例[後三条の場合]にまかせて、太政官の庁にておこなはるべきものを」と人々申しあはれけれども、九条殿の御はからひのうへは力およばず。
(『平家物語 上』新潮日本古典集成p303)
冷泉天皇は「御邪気」のために、大極殿へ行って即位式をあげることが不可能だった。そういう不吉な天皇の例に合わせるのではなく、「延久の佳例」(治暦四年の翌年に改元して延久となった)に合わせたら良かったのにと噂した、というのである。
冷泉天皇がたんに病弱であったというのではなく、「邪気」に蝕まれていたとして不吉な例としていることが注目される。たしかにわずか2年で譲位したのだから、吉例ではないことは確かだが。しかし、後三条天皇の場合が「佳例」であったとは言えないだろう。そもそも、大極殿も紫宸殿も焼失して、その復旧が出来ないので太政官庁で即位式を行ったのである(「群書類従 正篇」の公事部に大江匡房「後三条院御即位記」という詳細な記録が残っている。庁の掃除やセッティングからして大変だったようだ)。しかも後三条は在位4年で白河天皇に譲位している。病気が理由で退位し、その翌年に崩御しているのである。
『平家物語』は、安徳天皇の不吉な未来を暗示するために、わざと上引のような書き方をしているのだろう。
いずれにせよ、大極殿が存在しているのに精神病のため紫宸殿で即位した唯一の天皇が冷泉天皇であり、そういう天皇として平安末には意識されていた、と考えてよい。

なお、「安元の大火」のあと大極殿は二度と再建されることはなかったので、即位式は紫宸殿で行われるのが恒例になった。
ついでに、ここで登場した後三条天皇は、宇多天皇以来藤原摂関家を外戚とする天皇がつづいていたのをたち切った天皇として名高い。ことに彼の直前3代(後一条-後朱雀-後冷泉)はすべて道長を外祖父としていた。後三条の登場は、白河以後の院政時代への転機となったといえる。

上のように『平家物語』は冷泉天皇が単なる病弱ではなく「御邪気」であったと考えている。
『江談抄』には、冷泉天皇がたんなる興味本位から、夜御殿[よるのおとど]に安置してある御璽の結緒[ゆいを]を解こうとした話がある。
「故小野宮右大臣[実資]語りて云はく、「冷泉院、御在位の時、大入道殿[兼家]たちまち参内の意有り。よりてにはかに単騎馳せ参り、御在所を女房に尋ぬ。女房云はく、『夜の御殿[おとど]に御[おは]します。ただ今、御璽の結緒を解き開かしめ給ふなり』といへり。驚きながら門[かど]を排[おしひら]きて参入す。女房の言[ことば]のごとく筥[はこ]の緒を解き給ふ間[ころほひ]なり。よりて奪ひ取り、本[もと]のごとくに結ぶ」」と云々。(前掲書、第二の三p34)
「故小野宮右大臣」は藤原実資(さねすけ 957~1046)のこと。実資は実頼の孫だが長じて実頼の養子となって小野宮流を継ぐ。『小右記』の作者として名高い。『江談抄』は大江匡房の談話記録であるが、この冷泉院の不行跡は、匡房が実資から聞いた話だとして紹介しているのである。
冷泉天皇のとき、兼家が突然の急用で、夜中に独り馬で宮中に駆けつけたことがあった。居合わせた女房に天皇の居場所を尋ねたところ、「夜の御殿で御璽の緒を解こうとしておられます」と急を告げた。兼家はいそいでかけつけて、天皇から筥を奪い取って、もとの如く結んで安置した。
「夜の御殿」は天皇の寝所で、内裏の清涼殿の中にある。宝剣・御璽も同室に置かれ、天皇はかならずそこでそれらを守りつつ就寝した。なお、三種の神器のもうひとつの鏡は温明殿[うんめいでん]の内侍所(賢所ともいう)に安置してあった。

これら、三種の神器について、鏡(八咫鏡)は伊勢神宮に、剣(草薙剣)は熱田神宮にあるともいうが、異説もあり真偽を確定することはできない。また現在となっては、真偽確定にそれほどの意味があるとも思えない。宮中にあったのはすべてレプリカであるという説もある。しかし、重要な点は、宮中にあったこれら三宝は、いずれも“神”として扱われ、神秘な力を持つと信じられていたことである。もちろん、その三宝がセットとして、天皇が天皇たることを保証していると考えられていた。したがって、平家滅亡の際に宝剣が安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んで失われたことは、深刻で衝撃的な事件であったのである。(安徳幼帝が三種の神器とともに西へ都落ちしたのは、寿永二年(1183)七月のことで、都の後白河院を中心とする朝廷は安徳を見限って、後鳥羽天皇を同年八月に神器なしで践祚させる。翌年三月の壇ノ浦合戦まで二重天皇状態であった。神器のうち鏡と御璽は都に戻ったが、宝剣は海中に沈みついに発見されなかった。『平家物語』は、海神である厳島神社の申し子・安徳が、竜神となってその宝剣を抱いて沈んだ、という宝剣喪失譚を述べている。

同じ話を『続古事談』も記録している。
神璽宝剣、神の代よりつたはりて、帝の御まもりにて、さらに開け抜く事なし。冷泉院、うつし心なくおはしませばにや、しるしのはこのからげ緒を解きてあけんとし給ひければ、箱より白雲たちのぼりけり。をそれて捨て給ひたりければ、紀氏の内侍、もとのごとくからげられけり。宝剣をぬかむとし給ひければ、夜御殿、ひらひらとひかりければ、おぢてぬき給はざりけり。かかるめでたきおほやけの御たから物、目の前に[壇ノ浦で]うせにき。(『古事談 続古事談』1の2 p604)
これら宝物は、厳重に保管してあるというだけではなく、その封印の仕方、箱や紐の作り方、紐の結び方などのそれぞれに重要な意味づけと方式があったはずである。そういう事に通じている内侍がいて、管理していたのである。
冷泉天皇は三宝の神秘さを感じる「うつし心」を持っておらず、箱の紐の結び目を解いて開けようとしたので、「白雲」が出てきた。宝剣を抜こうとしたら発光して室内がピカピカと輝いた。これらは、冷泉の痴呆症状の言い伝えを元にした、作り話である可能性が大きい。逆に言えば、“冷泉院は痴呆であった”という言い伝えは広く伝わり信じられていたということでもある。
神秘な宝物(“神器”という表現がひろまるのは鎌倉時代からだという)を表す定型として「白雲たちのぼる」とか「ひらひらと光りければ」がある。『平家物語』で、宝鏡(内侍所)が壇ノ浦に沈もうとする寸前をとり止める個所には、俗人がそれを見ようとして「目くれ、鼻血垂る」という表現がある。
本三位[ほんざんみ]の中将[重衡]の北の方大納言の典侍、内侍所の御櫃を取りて海へ入れんとし給ふが、袴のすそを船に射つけられて蹴つまづき給ふところを、兵[つはもの]取りとどめたてまつり、御唐櫃の錠をねぢ切って、御蓋をあけんとしければ、たちまちに目くれ、鼻血垂る。平大納言時忠の卿生捕られておはしけるが、これを見て、「あな、あさましや。あれは内侍所と申す、神にてわたらせ給ふものを。凡夫は見たてまつらぬことを」とのたまへば、九郎判官[義経]、「さることあらんずるぞ。そこのけよ」とて、平大納言に申して、もとのごとく納めたてまつる。(同前下巻「早鞆」p250)
ここまでの情報だけだと、冷泉院について誤解してしまうであろう。
冷泉院は大極殿で即位式をあげるのをはばかるような精神異常のある男で十八歳で即位し、肉体的には健康体であったのにわずか2年で退位させられ、その後六十二歳まで生きる。歿年は寛弘八年(1011)であるが、息子の花山院はすでに寛弘五年(1008)に四十一歳で死んでいる。『皇代記』(「群書類従 正篇」所収)によると、「妻后」は4人、「皇子」は4人「皇女」が3人である。皇子のうち長子が花山天皇に、二男が三条天皇となったわけで、子孫(殊に男系子孫)を残すという天皇にとって最重要な役目はクリアーした。

上で誤解というのは、“オツムは一人前じゃなかったが、下半身の方は人並み(以上)だった”ということである。実は、わたし自身がそう誤解していた、次の「詞花和歌集」の花山-冷泉の応答歌を知るまでは。

「詞花和歌集」第九巻 (雑上)
 冷泉院へ筍[たかんな]奉らせ給ふとてよませ給ひける   花山院御製

世の中に経[]るかひもなき竹の子はわが経む年をたてまつるなり

 御かへし                               冷泉院御製

年へぬる竹の齢をかへしてもこのよをながくなさんとぞ思ふ


年を重ねるかいもない子として、父上が長生きしてくださるように自分の歳を差し上げます。「竹の子」に自分をたとえた。

歳とった自分の年齢をお前に返してやって、お前の寿命を長くしたいものだと思う。「このよ」は「子の代」。
ごく素朴に詠んだタケノコ贈答の和歌で、天皇親子じゃないとこんな素直さは詠めないのじゃないか、と思うぐらいだ。技巧やてらいを忘れた次元で詠まれている感じのよい和歌だと思う。この和歌贈答は『大鏡』にも引かれている(第三巻「伊尹(花山天皇)」古典体系本p151)が、『大鏡』のその辺りは後に扱う。

花山院が和歌についてかなり堪能である、特にとても特徴のある勅撰集「拾遺和歌集」の撰者であるらしい、ということを知って、せめて八代集に所収の花山院御製には目を通しておこうと思って読んでいて、これにぶつかって、驚いてしまったのである。
この和歌によって、冷泉院は「御邪気」ないし「うつし心なし」といっても、かなり高度な精神生活を送っていたことがわかる。すくなくとも息子である花山院はそのことを知っていて、和歌をつけて筍を贈ったのである。けして、精神活動の水準が全般的に低下している“痴呆”ではなかった。(わたしは具体的な説得力ある例をあげられないが、オリバー・サックスの著作で知った「トゥレット(Tourette)症候群」などを一例として考えている。知的には問題ないが、即位式のような厳粛な儀式に堪えられない。

冷泉院の和歌については、「代作」ということも考えられると色々疑っていた。しかし、息子・花山院が贈答の歌を詠みかけているのであるから、代作を前提としてそんなことをしないだろうと思う。そのうちに、「冷泉院御集」というものが在ることに気づいた。『新編国歌大観』で容易に読むことができるのである(第七巻 私家集Ⅲp66)。
全12首が納められていて、贈答歌が多く冷泉院の御製はそのうちの7首である。なお、解説の福井迪子によると、書陵部蔵「代々御集」に所収され、「代々御集」全体の成立が「遅くとも平安後期まで」とされるという。そして、後世の書き入れで「新続古今集」の1首が補記されているという。それで、冷泉院の詠んだ和歌は8首知られることになる。
これで「代作」の疑いは成立しないと考えてよいと思う。


---  その(3)  寛弘三年(1006)十月五日の火事  ---


寛弘三年(1006)というのは、一条天皇の治世がはじまってから丸20年経っている。一条の治世はまだ5年間残っている。冷泉円融花山一条というのが天皇系図だから、冷泉は退位後すでに37年も経っている。花山でも退位後20年経っているというわけである。円融は正暦二年(991)に崩御しているから、一条のこの年までの治世は、藤原道長の絶頂期の20年であるが、二人の“キ印の噂のある”法皇父子をかかえての20年でもあったわけである。

寛弘三年(1006)十月五日の夜更けに、冷泉上皇の住まいである「南院」から出火した。この火事についての記事がいくつかの異なる文献に出ているのである。『大鏡』、『御堂関白記』、『日本紀略』。

まず、いちばん短文である『日本紀略』を見よう。
五日甲戌。南院焼亡。去三月十四日冷泉院自三条宮所遷御也。此火及但馬守源則忠宅

五日きのえね・いぬ。南院が焼亡した。去る三月十四日に冷泉院が三条宮から遷御なさっていた御在所であった。この火は但馬守・源則忠の邸宅に及んだ。
同年の三月十四日条を参照すると、「冷泉上皇が三条宮から南院へ遷御なさった」という記事しかなく、冷泉院の住居の変更の情報確認ができるが、新しい内容はない。いずれにせよ、半年余り前に「南院」に三条宮から移ってきていたが、その南院が火事となったのである。しかも、その火事は「南院焼亡」だけではなく、「但馬守源則忠」の邸宅をも延焼したわけであるから、ボヤ程度ではない重大な火災であったと考えられる。『日本紀略』が書き残したのであるから、ある程度の重大性があった火災であった、のであろう。

何点か疑問が湧き上がる。出火元である「南院」とはどの位置にあったのか(以下述べるように、これの所在が分明ではないのである)。「源則忠邸宅」とはどこにあったのか。それに、できれば「三条宮」の所在もはっきりすればよい。
このうち、「源則忠邸宅」は案外簡単に分かってきた。それは『平安時代史事典』という、持ち上げるのさえ大変な大きな事典、しかも本編が上下に分かれている、を参照したら、角田文衛の担当個条につぎのように明解に記載されていた。
源則忠(949~?):盛明親王の子、母は菅原在躬女。近江介、越前守、民部大輔、中宮権亮等を経て、従三位左京権大夫に至った。長保二年(1000)七月、中宮彰子は、彼の堀河第に移御したことがある(『権記』『記略』)。漢詩に巧みで尚歯会に関係した。寛弘五年(1008)飯室にて出家後の動向は未詳。(執筆:角田文衛『平安時代史事典』 )
つまり、源則忠の邸宅というのは「堀河第」のことである。角田文衛が示している「中宮彰子の移御」は、『日本紀略』長保二年(1000)七月廿三日条である。
自左大臣土御門第移御権亮源則忠朝臣堀河宅公卿并侍従。諸司諸衛供奉如常。

中宮は左大臣道長の土御門第より、権亮源則忠朝臣の堀河宅へお移りなさった。公卿や侍従また諸司諸衛の供奉はいつもと変わりがない。
この中宮彰子(道長の娘であるから、土御門第に同居していた)が堀河第へ移ったというのであるが、そのとき「供奉常の如し」とあることによって、則忠邸=堀河第がかなりの大邸宅であることがわかる。土御門第に引けを取らないほどの規模であろう。
下図に、二条大路に面した「堀河院」があるが、それが堀河第であるとしてまちがいないと思われる。2町を占めているが、トップクラスの規模の邸宅である。

上図に書き込んだ「二条町尻の辻」は、岩波古典体系本『大鏡』の補注の図による(p463)。
さて、次にこの火事について『御堂関白記』の記載を見よう。この筆者道長はこの時期、天皇を除けば最高権力者であることはまちがいなく、その天皇(一条)も彼の妹・詮子の子つまり甥であり、彼の娘・彰子を中宮としている。そういう立場の人物の日記が残っていること自体、驚くべきことだ。
五日、甲戌、渡東三条見作事、次入道(義懐)中納言被来、入夜帰、亥時許未申方火見、冷泉院御在所南院、馳参、東三条御西門、即東対御装束御座、夜深還出、崋山院参給、諸卿皆以参入、

五日きのえいぬ。東三条邸の造作を見に出かけた。次に義懐[よしちか]・入道中納言がおみえになった。夜に入って帰った。亥の剋(午後11時)ごろに、未申方(南西)に火が見えた。冷泉院がおられる南院に駆けつけた。冷泉院は東三条邸の西門におられた。ただちに東対に御座の準備をして御在所とした。私は夜深くなって出て、帰った。花山院がいらっしゃった。諸卿も皆参っていた。
道長の居宅・土御門第は上図の右上に位置する2町を占める鴨川沿いの邸宅である。道長は土御門第から東三条邸で行っている造作の様子を見に行った。そのところに義懐入道がやって来た。義懐は伯父・伊尹[これまさ]の息子、すなわち道長の従兄である。(義懐は道長より11歳年長。義懐の出家は花山天皇の突然の出家(986)で、兼家との政治闘争に敗北したため。伊尹も兼家もとうに死没している。道長はこの年(1006)40歳。しかし、義懐と道長の関係はうまくいっていたようである。義懐入道はときどき道長を訪問している。
この義懐出家にまつわる政争は後に扱う。


夜になって、道長は土御門第に帰った(入夜帰)。11時頃になって、南西方向に火の手がみえた。もちろん土御門第から見て、南西方向だというのである。冷泉天皇がいらっしゃる南院であると知って、現場へ駆けつけた。
冷泉院は東三条邸の西の門におられた(東三条御西門:「」が天皇など高貴な身分の人の存在を示す動詞、be動詞的に使われている)。道長が駆けつけるまで、冷泉院の避難先が決定されていなかったのである。道長はすぐに東三条第の「東の対の屋」を避難先に決めて、準備させて御座所とした。冷泉院に対する道長の扱いや言葉づかいが、とても丁寧であることが注目される。
夜更けになって、道長は土御門第に帰った(夜深還出)。これは冷泉院の御座所を出て自宅へ帰った、という書き方で、同じ東三条第から土御門第へ戻るのでも、冷泉院が居るときとそうでないときで表現が異なっている。

後で思い出したように、「花山院がお見舞いに参っておられた、公卿たちも皆参入していた」と書き付ける。若い上皇である花山院が来ていたことと、公卿たちも皆お見舞いにかけつけていたことを書いているが、冷泉院の扱いに比べれば、花山院は軽くあしらわれている、と言っていい。
しかし、この火事は堀河院に延焼するほどの大きな火事であったのだが、火元から避難してきた冷泉院が(1)東三条第の西門に居たこと、(2)避難先を東三条第の東対としたことから、東三条第が避難先として適当であると判断されたことは明らかである。建物の規模や格(前例)からして東三条第が冷泉院の臨時の御座所として適当であることは当然だが、この火事からの避難先としても適当であると判断されているのである。

このことを考えながら、次の、倉本一宏『全現代語訳 御堂関白記』(講談社学術文庫 2009)からの該当部分を読んでみて欲しい。(『御堂関白記』の現代語訳が出たというのは、実にありがたい。主語・述語だけでなく、日記では省略されがちの地名・場所・人名が補われている。しかも、多数の振り仮名がほどこされている(下の引用では、“よしちか”、“しつらい”以外はみな省略した)。
五日、甲戌。  東三条第造営/東三条第南院焼亡
東三条第に赴いて造営を検分した。次に入道中納言(藤原義懐 よしちか)が来られた。夜に入って、土御門第に帰った。亥剋の頃、南西の方角に火事が見えた。冷泉院御在所の東三条第南院である。馳せ入った。冷泉院は、東三条第の西門にいらっしゃった。すぐに東対に御座の御室礼(しつらい)を行った。夜遅く、土御門第に帰った。花山院が参られた。諸卿も皆、参入した。
(前掲書 上巻p264)
この倉本一宏『全現代語訳』で、“おや?”と思うのは、火元となった「南院」が「東三条第南院」と特定されていることである。広大な屋敷の敷地の南側に独立した第を建てて、それを「南院」と呼ぶようである。したがって、単に「南院」とあっても、それがどの邸第の南院であるのか、よく調べないと分からないのである。

東京大学の史料編纂所の「古記録フルデータベース」(ここそのページの下の方の「データベース選択画面」から入る)には、『御堂関白記』が含まれているので、それを用いて「南院」を検索すると(重複を除いて)6回ヒットするが、そのいずれについても倉本一宏『全現代語訳』は「東三条第南院」としている。東三条第の主人である道長の日記なのだから、南院=東三条第南院であっても不思議ではないのだが、わたしが“おや?”と思ったのは、南院が焼亡し、しかも、外部の堀河院に延焼するような火災の場合、南院から避難した冷泉院をその火元の東三条第の西門においておくだろうか?という疑問を感じたからである。しかも、その夜は東三条第の東対に臨時の御座所を設けている。もっと、火元から離れた邸宅に移って貰うのが普通じゃなかろうか、と思ったのである。
それに、隣の閑院への延焼の記録はなくて、1町おいた堀河院への延焼のことのみが『日本紀略』に残されているというのも不自然である。もちろん、そのような場合がありえないということはないのだが、不自然であるとは言えるのではなかろうか。

火元が「東三条第南院」ではないのではないか、という疑問を持ちながら調べを進めているうちに、火元が「冷泉院の南院」としている『大鏡』の研究書、次田潤『大鏡新講』(明治書院1961初版)があることを知った。『大鏡』における“寛弘三年(1006)十月五日の火事”の話に入ってしまうと、論点がずれてくるので、ここでは、その該当個所だけを『大鏡新講』から引用しておく。

『大鏡』の文章は、次のようになっている。
中にも、冷泉院の南の院におはしましし時、焼亡[せうまう]ありし夜([以下略])

中でも、冷泉院がちょうど南の院にいらっしゃった時、そこが火事で焼亡してしまった夜のことですが、
この「南の院」に頭注がついているのだが、次はその頭注全文である。
冷泉院構内の南の方にあったらしく、冷泉院が三条の宮からここにお遷りになり、後にその御子孫の敦道親王の御所となった。(前掲書 p267)
邸宅としての「冷泉院」は、上図にもあるが、4町という巨大な敷地をもち、大内裏の東南の至近地という好条件の場所を占めている。嵯峨天皇が離宮として造営し、そのあと後宮[天皇が退位後、上皇として住まう邸宅]として使われた。はじめは「冷然院」と言われたが、火災が続いたので天暦八年(954)「冷泉院」と改名した。したがって、冷泉上皇の名前とは直接関係はない。後宮であるので、冷泉上皇が冷泉院を使っていてもすこしも不自然ではないのである。たとえば、『平安時代史事典』の「冷泉院」の項目では
天禄元年(970)三度目の火災にあい、当時当院を用いた冷泉上皇は朱雀院に移っている。(執筆 関口力)
と書いている。
もし、次田潤『大鏡新講』が言うように、冷泉院構内の南寄りにあった「南院」に冷泉上皇が住まっていて、そこから出火したのだとすると、
  1. 斜め前の堀河院に延焼した、というのが無理なく納得できる。
  2. 退避する冷泉上皇が「二条町尻の辻」を経て、東三条第西門に来ていたというのも無理がない。
  3. 火元ではない東三条第の東対屋を臨時の御在所にするという判断も妥当である。
など、合理的に無理なく納得できる。
それに対して、倉本一宏『全現代語訳 御堂関白記』や、引用していないが『平安時代史事典』の「冷泉天皇」(執筆 関口力)などが言うように、東三条第の南院が出火元だとすると
  1. 堀河院に延焼したが、間の閑院への延焼の記録がないのはやや不自然。
  2. 堀河院に延焼したその延焼方向の東三条第西門に冷泉上皇が居たというのは不自然。
  3. 火元の東三条第の東対屋を臨時の御在所にするという判断は、いかがか。
  4. 長和二年(1013)正月十六日の東三条第の火事で、本院が三分の二焼けたとき、三条天皇の中宮(妍子 きよこ)が南院にいたが、中宮は南隣の高松殿に移動している。
などと、不自然で無理がある。もちろん、それでも東三条第の南院が出火元であった可能性はあるわけだが。
なお、東三条第の東対は、あくまで臨時の御在所であり、第5節で見るが、源成方の宅を借り受け、そこを改造して冷泉院の御在所としている。冷泉院がそこへ遷御したのは、火事から16日目の十月二十一日である。

この議論は、これぐらいにしておいて、次節ではこの火事の夜の、冷泉と花山のふたりの上皇の不思議なふるまいの出て来る『大鏡』を読む。


---  その(4)  寛弘三年(1006)十月五日の火事(つづき)  ---


『大鏡』第三巻、「伊尹(花山天皇)」からの引用である。
なかにも、冷泉院の、南の院におはしまししとき、焼亡ありし夜、[花山院が]御とぶらい[お見舞い]にまいらせ給ひし有様こそ、不思議にさぶらひしか。御親の院[冷泉]は、御車にて二条町尻の辻に立たせ給へり。この院[花山]は、御馬にて、頂きに鏡入れたる笠、頭光にたてまつりて[阿弥陀かぶりになさって]、

 「いづくにかおはします いづくにかおはします」

と、御てづから[自ら]人ごとに尋ね申させ給へば、

 「そこ、そこになん」

と聞かせ給ひて、[冷泉の]おはしまし所へ近く[馬から]おりさせ給ひぬ。
御馬の鞭、かいな[]に入れて、御車の前に、御袖うち合はせて、いみじうつきづきしうゐさせ給へりしは[随身などがするように似つかわしくひざまづいておられたのは]、さる事やは侍りしとよ[そんな事って、いったい、あったもんでしょうか]。
それに又、冷泉院の、御車のうちより、高やかに神楽歌を唄はせ給ひしは、さまざま興あることをも見聞くかなと、おぼえ候し。明順[あきのぶ]のぬしの、

 「庭火のいと猛[もう]なりや」[神楽の庭火が燃えさかっておりますなあ

とのたまへりけるにこそ、万人え堪へず、笑ひ給ひにけれ。
(『大鏡』岩波古典体系21 「第三巻伊尹(花山天皇)」p149)(引用は、読みやすくなるように適宜漢字を宛てた。以下の引用でも同様
冷泉院は南院から避難して東三条邸の西門に至る途中、二条町尻の辻に車が止まった。そこに、馬で駆けつけた花山院が、鏡を付けた笠をあみだにかぶった異装で、ひざまずいて父・冷泉院に挨拶した。ちょうどそこで、車の中から冷泉院が高らかに神楽歌を唄いだした。御神楽の儀は庭にかがり火を焚いて行うから、高梨明順が火事の火と掛けて、不謹慎にも「神楽の庭火がさかんですな」と言ったので、皆がたまらず笑い出してしまった。

前掲の古典体系本『大鏡』補注に、関根正直『大鏡新註』(1926)を引用して、鏡を付けた笠を被るのはたんなる戯れにも見えるが、なんらかの宗教的な意味があってのことかも知れない、「高御座の蓋裏の中央にも、仏像の天蓋にも鏡を付く事例」があるから、としている(p463)。「トゥレット(Tourette)症候群」のなかには、大声で叫んだり・その場に関連のない語を発したり・卑猥語を口外したりという症状もあるという。冷泉院の神楽歌はそういうふうに考えると納得がいく。単に、火事場の様子に昂奮して邪気なく神楽歌が口から出た、と考えてもよい。

冷泉院の御在所から出火し、深夜であるが最高権力者・道長はすぐさま駆けつけ、院を東三条邸に避難させた。道長は現場での決断や指揮の元締めもてきぱきと果たしていたようだ。ほかの公卿たちも、ぞくぞくと内裏・冷泉院や東三条邸のあたりに駆けつけたものと想像される。たいまつなどの灯りが動く、危機感あふれる暗い夜で、火事の火の手がよく見えた。火は堀河院へ延焼している。深夜であっても、雑踏となったであろう。太陽暦で11月4日の秋の夜寒のころである。

冷泉上皇の避難は、この夜の火事騒動の中心であったが、その車が二条町尻にかかったところに、異装の花山院が馬でかけつけて、随身が儀礼でするのが似つかわしい舞踏のような挨拶をして、ひざまずいた。ちょうどそこへ車の中からは、冷泉院が朗々と神楽歌を唄い始めた。緊張して駆けつけ来た人々はあっけにとられ、白ける気持ちも湧いた。そこへ、明順が「なんと、神楽の庭火がさかんですなあ」と言ってのけたので、皆が大笑いしてしまった。

大笑いで緊張も解けたであろうが、冷泉と花山の父子・二人上皇はちょっと手の着けられない高さに“イッてしまっている”とその場の常人どもは顔を見合わせたのではないだろうか。
冷泉は火元から逃げだし、炎を見て昂奮して大声で神楽歌を唄いだしたというのは、“おつむのヨワイ”上皇さまのその場をわきまえない無邪気なふるまいとして、常人らの理解できる範囲内であったかもしれないが、花山が、わざわざ鏡のついた笠をかぶって出かけてきて、二条町尻の辻というこの夜の騒動のもっとも中心である地点で下馬し、冷泉の車にむかってひざまずいて大げさな挨拶をしたというふるまいは、異様さを底に含んでいる。花山のふるまいには“火事騒ぎで昂奮して・・・”という理解では収まりきらない、意図的で度外れた悪ふざけのようなものがある。

明治以降の近代の天皇制絶対でがんじがらめになった百年を体験している現代では、天皇をバカ呼ばわりするような文献は、特別な反体制的なもの以外には考えにくいと思い込んでいるが、歴史的には決してそんなことはない。第1節で扱った『江談抄』や『古事談』の、花山天皇が即位式の際に高御座に女官を引きずり込んで“ヤッていた”というような話が、すでにそのことを例証している。『江談抄』は大江匡房という当代随一の大知識人が語ったことをとりまとめたものである。中古という時代が、天皇をからかったり、バカ扱いしたりすることが、平常のうちに行われている時代であったことを、現代人は忘れている。(その点は、「中世天皇制」は古代天皇制の時代とは異なる。

冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術ずちなきものなれ」という民部卿俊賢[としかた]の道長へむかっての発言が出てくる『大鏡』の段落を、次に読む。「術なきもの」とは「始末に負えない」ぐらいのニュアンスであろう。
花山院の御時のまつりごとは、ただこの殿[義懐]と惟成[これしげ]の弁として行ひ給ひければ、いといみじかりしぞかし。その帝[みかど 花山]をば「内劣りの外めでた」とぞ、世の人申しし。

花山天皇の時の政治は、義懐や惟成らの賢臣が手腕を振るったので、たいそう立派だった。それで、その天皇を「私生活はひどいものだったが、表向きは好評だった」と、世の人は評判した。
「花山院の御時のまつりごと」というのは、わずか在位2年間であった花山天皇の“治世”のことをさしている。そのときのエビソードとして、義懐が花山院の暴走をなんとかくい止めた一例が語られる。まず【第1段落】
 「冬臨時祭の、日の暮るる、悪しきことなり。[賀茂の臨時祭が日暮までかかるのは、よくない]辰の時[午前8時ごろ]に人々まいれ」

と(花山天皇が)宣旨下させ給ふを、

「さぞおほせらるるとも、巳午時[9時~正午]にぞ始まらん」

など思ひ給へりけるに、舞人の君達、装束たまはりに参りにけければ[支給される衣裳を貰いに行ってみたら]、帝は御装束たてまつりて[すでに、花山天皇は衣裳を身につけて]立たせおはしましけるに、この入道殿[道長]も舞人にておはしましければ、このごろ語らせ給うなるを、伝へて承るなり。[道長様も若くて舞人のひとりだったので、この頃になって思い出話にお話になるのを伝え聞いて、世継が承ったのです
(世継は、『大鏡』の語り手)
賀茂の臨時祭を明るいうちに終わらせようといって、花山天皇が集合は午前8時だぞ、と命じた。そんなに早く始まるわけがないと皆思って、舞人たちが衣裳を貰いに行ってみたら、はやくも、花山天皇は衣裳を着けて待っていた、というのである。

このまま、話が進めば普通人の世界なのだが、花山天皇は意想外の方へ曲がってしまう。さて、【第2段落】
あかく大路など渡るがよかるべきにやと思ふに[明るいうちに祭の行列が大路を渡り終わるのがよいというご配慮だろうとみなが思ったが]、帝、馬をいみじう興じさせ給ひければ、[舞人の馬を]後涼殿[こうろうでん]の北の馬道[めどう]より通させ給ひて、朝餉の壺[あさがれひのつぼ]に[舞人を]引き下ろさせ給ひて、殿上人どもを乗せてご覧ずるをだに、あさましう人々思ふに[言いようもないヒドイことと人々が思ったのに]、はては、[天皇自ら]乗らんとさへせさせ給ふに、すべきかたもなくてさぶらひあひ給へるほどに[一同はどうしようもなくただ居るだけであったときに]、さるべきにや侍りけん[そういう回り合わせだったのでしょう]、入道中納言[義懐]差し出で給へりけるに[お出ましになったので]、帝、御おもていと赤くならせ給ひて、術[ずち]なげにおぼしめしたり。
舞人たちが衣裳を着けたりしている場所へ祭りの行列に参加する馬が連れてこられると、花山天皇は馬がとても好きだったので、後涼殿の馬道[回廊の一部を切り離して板が渡してあり、馬が通るときは板を外ずして通せる]から内裏の奥深くへ馬を導き、清涼殿の朝餉の壺という所まで入り、そこで舞人を馬から降ろし、殿上人を乗らせた。そのうち天皇自身が馬に乗りたくなってきて、乗ろうとした。そこへ義懐がやって来たので、いたずらが見付かった子供のように、花山はすっかり顔を赤くして、困っていた。

天皇自身の意思に誰も正面切っては逆らえない。いくら崩れているといっても建前は律令制であり、天皇は律令制の最高の権力者である。「明日の集合は8時だぞ」と言うのも天皇が言えば宣旨なのである。花山天皇はしかし、祭の馬を内裏の奥深くへ馬道を通って導くのが面白くてたまらなくて、どんどん、奥へ入っていく。それを誰も制止できないでいる。天皇は夢中になってはしゃいでいる。
壺庭の狭いところで、舞人と殿上人を交代させて、乗馬させる。みなが困り切っているが、天皇の暴走にはますます拍車が掛かる。つぎは自分が乗りたいと言いはじめた。

中納言・義懐という賢臣の大物がそこへ現れたので、天皇は真っ赤になって困ったのである。【第3段落】
中納言[義懐]もいとあさましう見奉り給へど、人々の見るに制し申さむも、なかなかに見苦しければ、もてはやし興うじ給ふやうにもてなしつつ[その場をもりあげ、面白がっているように装って]、自ら、下襲[したがさね]の尻挾みて、乗り給ひぬ。さばかり狭き壺に折り廻し、面白く上げ[終了する]給へば、御気色なおりて、

 「悪しきことにはなかりけり」

とおぼしめして、いみじう興ざせ給ひけるを、中納言あさましうも哀れにもおぼさるる御気色は、同じ御心に良からぬことをはやし申し給ふとは見えず[天皇と同じ心で、義懐がよくないことをおだてはやしているとは見えず]、誰もさぞかしとは見知り聞こえさする人もありければこそ、かくも申し伝へたれな。[誰も義懐の本心はこうだったろうと思い、申し上げる人もあったからこそ、このように申し伝えているのでしょう]また、「[義懐が]みづから乗り給ふまでは、あまりなり」と言ふ人もありけり。
義懐は、皆の前で花山天皇を制止するのはマズイと考えて、自分から馬に乗って興じてみせ、その場を納めた。その義懐の本心を周囲の誰もが分かっていたからこそ、こうして言い伝えられているのだ(と世継が述べる)。それでも、中には義懐が実際に乗馬までするのは行き過ぎじゃないか、と批判する人もいた。
なかなか複雑だが、花山天皇の精神の病というのは、周囲にこういう心遣いを強制するような高度さと質の悪さを持ったものであった。

最後に、【第4段落】
これならず、ひたぶるに色にはいたくも見えず、ただ御本性のけしからぬさまに見へさせたまへば、いと大事にぞ。
この例だけでなく、花山の乱心は、むやみに表面に現れるのではなく生まれつきの本性が壊れているようにお見えなさいますので、深刻なんです

されば源民部卿[俊賢 としかた]は、

 「冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術なきものなれ

と申し給ひたれば、入道殿[道長]は、

 「いと不便なること[不都合なこと]をも申さるるかな」

とおほせられながら、いといみじう笑はせ給ひけり。
(前掲書p146~147)
民部卿・源俊賢は前掲道長時代の系図に書き込んでおいたので、確認して欲しい。貴族源氏で、後醍醐天皇の孫である。父・高明の失脚(安和の変 969)によって出世が遅れたとされるが、藤原公任、斉信、行成らとともに一条朝の四納言といわれる能吏。あるいは賢臣。

冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術なきものなれ」と俊賢が言うのを聞いて、7歳年下の道長は「なんと不都合なことをおっしゃる!」と言いながら、大笑いしていた。言葉づらでは否定しながら、大笑いすることで内容を肯定している。最高権力者にのぼる人らしいふるまい方である(この逸話の年代は不明だが、花山が天皇の時代だとすれば道長は20歳ほどで、まだ天皇の外戚になっていない。花山は道長の2歳年下)。
しかし、言いにくいことでもその本質を突いた寸言を吐く、俊賢の人物像が光る。


---  その(5)  冷泉院と道長  ---


第3,4節で、寛弘三年(1006)十月五日の「南院」の火事で冷泉院(冷泉上皇)が焼け出され、臨時の御在所を東三条第の東対に設けた、という記事を読んだ。
冷泉院はその後5年間生きる。その時期の『御堂関白記』にどのように冷泉院が登場するかを確かめることで、冷泉院と道長の関係を調べてみた。

まず、冷泉院の新しい御座所として源成方(未詳)宅を借り受け、改造する。同月十三日には道長は自らその造営を検分に行っている。冷泉院はそこに遷御するが、いつまでそこを御所としたのかは不明。

寛弘三年(1006)十月五日 冷泉院の火事
     同   十一日 冷泉院の御座所の造営、源成方朝臣の宅を借りて、築地の造営など。
     同   十三日 御座所の造営を見分。
     同  二十一日 成方宅の新御座所に遷御。朝廷から冷泉院に頂き物あり。
     同十二月二十六日 法性寺供養に冷泉院からも右兵衛督憲定が使わされた。

以上が、「南院」の火事で冷泉上皇が焼け出された年の『御堂関白記』の関連記事である。

倉本一宏『全現代語訳 御堂関白記』によると、寛弘六年(1009)九月四日の冷泉院下痢を悩む記事には、それが東三条第南院に於けることだとある。なお、その二年前十月敦道親王が死没する記事は、やはり、東三条第南院に於けることだとある。いま、わたしはそれらを確かめる方法を知らないので、下表に書き込むだけにしておく。

翌年の寛弘四年(1007)は、夏に道長が金峯山詣を行った年である。現在でも女人結界が守られている山上ケ岳まで登り、自筆写経した法華経を納経した(元禄四年に掘りだされた)。三ヵ月の精進を経て、八月二日に都を出て、山上ケ岳に達したのが十日である。道長の信仰が並々ならぬ真剣なものであったことを認識する必要がある。法成寺等の巨大な寺院群の建立も含めて、このような信仰行為が統治行為の中核をなしていたと考えるべきである。(これらの信仰行為を宗教文化や美術のカテゴリーでしかとらえないのは、近代的な国家概念に目が曇っているせいである。

寛弘四年(1007)正月三日 冷泉院のところで拝礼。しかるべき人々の昇殿あった。
     同八月十日 金峰山詣でのとき、三十八ヶ所の神々へ理趣経などの献げ物のなかに、一条天皇・冷泉院・中宮彰子・東宮居貞(三条)の順で出ている。冷泉が重視されているが、花山は登場しない。
     同十月二日 冷泉院第4子の敦道親王薨去(於東三条第の南院)。
寛弘五年(1008)正月四日 冷泉院に参る。
     同  正月七日 冷泉院の御年給を藤原忠経に賜ることの承認。
     同 正月十一日 冷泉院の昨年の御年給によって、右兵衛佐藤原道雅を正五位下に加階した。
   同  三月九日 花山院崩御。しかし、冷泉院への言及なし
寛弘六年(1009)九月四日 冷泉院が痢病で、その見舞いに行く(東三条第南院)
     同    七日 冷泉院に参る。
寛弘七年(1010)二月二十六日 冷泉院宣旨同之。東宮(居貞)の妍子との婚儀のお祝品のことか。
寛弘八年(1011)正月三日 冷泉院に参る。

正月の度に、道長は冷泉院に参上している。道長の冷泉院に対する扱いは、つねに今上天皇(一条)の次の順位をまもり、実に丁重である。
一条天皇は花山上皇の譲位を受けて即位したのが寛和二年(986)であり、在位25年目になっている(三十二歳)。道長にとっては一条の母東三条院・詮子が四歳年長の姉である(歿年は1002年)。一条は七歳で即位し、十六歳まで摂関(兼家・道隆・道兼)が着いたが、そのあとは賢帝の評判があるように、自力で判断する天皇であった。そのため、長徳二年(996)の伊周・隆家兄弟の失脚で道長が公卿会議のトップとなって以降、一条天皇と道長は、時には対立しつつ、平安王朝の最盛期といわれる時代を演出していく。道長時代の系図


わが主人公である花山院は、上表で見るように、寛弘五年(1008)三月九日に死没。
系図でも明らかなように、道長の立場からすると、花山院は(1)摂関家の家系のなかで、道長のいる義家系ではないこと。(2)その子孫に天皇に即位する可能性のあるものがいないこと。一条天皇時代はずっと居貞[すえさだ]親王が皇太子として待機している。それが次の天皇(三条)となることはほぼ確定であった。(また、道長の娘で花山院に入内したものはいない。
道長は花山院を、粗略にはしないが丁重にもしないという扱い方をしていたのではないか。文化人として一流であった花山院は狂気と正常のあわいを自覚的に渡り歩くところがあり、「花山院の狂ひは術なきものなれ 始末に負えない」と源俊賢にいわれたように、統治者からすると扱いにくい存在であった。
花山院と道長のからみは、小論ではまだ出てきていない。後段でじっくり扱う予定。


寛弘八年(1011)六月二十二日、一条天皇が病没。その直前十三日に三条天皇に譲位している。三条は三十六歳で即位した。三条は居貞親王として皇太子となったのが実に寛和二年(986)のことであるから(一条即位のとき)、25年間も即位を待っていたことになる。しかも、皇太子の方が四歳年長。
この三条天皇の父親が冷泉院である。母は、兼家の長女・超子であり、道長からすると一条帝と同じかそれ以上に離れた存在であった。しかも、その父が冷泉上皇として存命なのである。したがって、道長は冷泉上皇を丁重に扱う理由があったわけである。(冷泉・超子が生んだ3男が、三条帝・為尊親王・敦道親王である。為尊・敦道兄弟は、和泉式部との恋愛で知られている。

一条帝 ⇒ 三条帝への譲位があって一条帝は没する。その四ヶ月後に冷泉院が死没する。
冷泉院は今上天皇(三条)の父であるということもあるが、『御堂関白記』は葬送の準備から墓地の選定など、丁寧に記録している。

寛弘八年(1011)八月三日 冷泉院、御悩有り。参る。(東三条第南院が御在所)
     同 五日 冷泉院に参る。
     同十月十九日 冷泉院参る。御悩甚だ重し。
     同  二十四日 早朝冷泉院に参る。御悩重いといえども、未剋に退出。これはこの何日か自分に病悩あり、長く候うことができないから退出するのである。夜に入り橘則忠が来て、院の御悩極めて重く、不覚であるという。よって、馳せ参ず。その時冷泉院崩御。しかるべき処置を指示して、深夜に帰った。
     同  二十五日 早朝に参内し、天皇に冷泉院崩御を報告。すぐ(故)冷泉院のところへ参った。主計頭[かずえのかみ]安倍吉平[よしひら]を召して、雑事を問う。勘申して云うには、「御入棺は経の亥の刻[深夜11時]、御棺の造り初めは申の刻[夕の4時]、御葬送の日は来月の十六日がよろしいでしょう」。天下に大赦を行った。
     同  二十六日 (故)冷泉院へ参った。
     同  二十七日 (故)冷泉院へ参った。
     同  二十八日 (故)冷泉院のところで、五七日の御法事を院司らと定めた。
     同  三十日 故院に参る。
     同十一月四日 故院に参る。西洞院大路の東西を焼く火災あり。
     同   五日 故院に参る。内裏で、三条天皇は故院の(七七日の)御斎会を皇后宮大夫(公任)が奉仕するようにおっしゃった。
     同   七日 皇后宮大夫らが御斎会の準備を始めた。故院の五七日の御法事は院司たちが奉仕すべきだ。
     同   八日 初雪降る。雪を踏んで故院に参る。(12月11日)
     同   十三日 故冷泉院に参入。(藤原)惟貞と(安倍)吉平をつかわし、故院の御葬所と御陵所を見分させた。帰ってきて報告するところによると、「桜本寺の北方に平地があり、御葬にも御陵にもよい」と。また御葬の御前の僧と五七日法事の僧の名を確定した。皇后宮大夫が七七日の御斎会の僧名や雑事を、左仗座において定めた。
     同   十五日 天皇が「内裏に伺候せよ。故冷泉院の御葬送の御供には、内大臣(藤原公季)が供奉することになっている。汝は内裏に参入せよ」と言われたので、それに従うと奏聞し、退出した。
     同   十六日 冷泉院の御葬送があった。故冷泉院の御在所に参入して雑事をこなった。内(三条天皇)からの召しが有ったので、参入した。「内裏に伺候せよ」ということであった。私の本意としては、故冷泉院御葬送の御供に供奉すべきであった。ところが、天皇の仰せが有ったので、御葬送には参らなかった。戌四剋に、御葬送が始まった。同じ時刻に、天皇は倚廬[いろ 服喪中の天皇の籠もる仮屋]に籠られた。下侍の間において、内侍が御釼に伺候した。その後、皆は朔平門の外に出て、素服を着した。私・春宮大夫(藤原斉信 ただのぶ)・皇后宮大夫・右宰相中将(藤原兼隆)・殿上人たちであった。女房たちも、また同じく着した。この夜、私は倚廬に伺候した。
御葬送所に奉仕したのは、(藤原)公信(きんのぶ)朝臣であった。公信朝臣が帰り参った後には、また(大江)景理(かげまさ)が奉仕した。翌朝は、また(藤原)通任(みちとう)朝臣が奉仕した。
     同   十七日 御葬送に奉仕した人々は故冷泉院の御在所に帰ったということを聞いた。私も、内裏から御在所に参入した。状況を問うて、退出した。
     同   十八日 内裏に参入。夜に入り罷り出ず。まず故院に参った。
     同  二十五日 冷泉院の御陵に沙弥廿人。御念仏を始めた。
     同  二十八日 冷泉院に参る。五七日の御諷誦は常の如し。
     同  二十九日 (この日が五七日法事)故院の院司たちが、五七日の御法事を本院(冷泉院)で奉仕した。早朝(故院の御在所に)参った。御装束のこと(室礼)が終わった。(このあと布施のことなど細かい記事がある)(清涼殿で御帳の帷 とばりが焼ける不審火があった)
     同  三十日 内裏から出て、故院(の御在所)に参る。
     同十二月三日 故院(の御在所)に参る。内大臣(公季)と僧たちが沐浴。
     同   七日 早朝に冷泉院(の御在所)に参った。この日(七七日の)御斎会が行われた。夜に入って、故院の念仏会に参加した。僧十人に夜の装束を布施した。長年冷泉院に奉仕してきた志を表すためである。
     同   八日 内裏から出て、故院に参る。
     同  十一日 冷泉院の御念仏が結願した。大内(三条天皇)から僧たちに布施の絹を賜った。
     同  十二日 冷泉院の御四十九日である。内(三条)の御諷誦は故一条院に対する諷誦と同じでこの何日間のとおりあった。
長和元年(1012)二月五日 大原野祭は本来は中宮が奉仕さるべきものであるが、中宮(妍子)が冷泉院の服喪中であるから、代わって我が家(土御門第)で饗応する。
     同十月六日 冷泉院の1周忌「周忌御斎会」


三条天皇は三十六歳で即位したのであるから、道長とさまざまな局面で対立することがあった、とされる。道長の姉妹の息子という点では道長は外戚であり、一条帝と三条帝は同じである。ただし、三条帝の母・超子は居貞(三条)が七歳のときに没しており、道長との調整役に回ることはあり得なかった。
三条帝の東宮(皇太子)は一条帝の皇子・敦成[あつひろ、後一条]親王であるが、母は彰子であり道長の孫である。したがって、道長は外祖父として敦成の一日も早い即位を望むことになる。三条帝は譲位を迫られることになる。

それだけなら、三条帝は抵抗することが出来たであろうが、眼病が致命的であった。事務に差しさわるほどになったのだという。
三条天皇を決定的に不利にしたのは、みずからの眼病であった。長和三年(1014)以降病状が悪くなったが、眼が見えなくては官奏や、叙位・除目が行えないのである。長和四年(1015)八月には、官奏を代わって見るように道長に言ったが、道長は辞退し、政務は停滞し、三条天皇は追いこまれていった。(大津透『道長と宮廷社会』p342)
脚気や糖尿病などのより重大な病気をかかえていたのであろう。長和五年(1016)一月に、九歳の後一条天皇に譲位し、翌年寛仁元年(1017)に没している。
心にもあらで浮き世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな
は、三条帝が譲位を決意したときの歌といわれている。こういう歌を天皇の名歌として残し(後拾遺和歌集)、また定家は「百人一首」にも選んだわけであり、こういうところにも、中古期の天皇観がうかがわれる。近代のゴチゴチの天皇絶対制に馴れた眼からは、“こんな厭世の歌を残していいの”と気を廻してしまいそうである。(ついでに言えば、わたしはこれを名歌だと思う。定型的なように思えるがよく味わうと、「夜半の月」を恋しいとするところに眼病を病む人のコスモロジーが現れている。

三条帝に譲位をうけた幼帝後一条は、道長の孫である。このあと後朱雀、後冷泉と3代続いて道長の孫が即位するのであるが、道長は既に後一条の在位半ばで没してしまう(1027)。つまり、道長の全盛時代というのはすでに一条帝の半ばで始まっているのであって、その余映として道長の孫3代の天皇が続くという状況が実現したのである。その状況を最も享受したのは、長命であった上東門院・彰子であろう。彰子は自分の息子二人を含むこの道長の孫3代のいずれより長生きし、そのあとの後三条が白河帝に譲位し没するところまで見届けている。
ついでにここで述べておくが、道長は摂政関白になってはいるが、[三条 ⇒ 後一条]の譲位の前後の二年ほどを摂政であっただけである。むしろ、道長は実質的に政治を運営する「公卿会議」のトップとして右大臣-左大臣の地位にありつづけ、天皇との関係は「内覧」という役目につくことで足れりとしていた。摂政・関白は天皇サイドとなるため、公卿会議から外に出てしまうのである。
道長は後一条天皇が即位して摂政になるまで、三条天皇の時期に一時准摂政となったことを除いて、一貫して関白にはならず、筆頭左大臣で内覧の地位を保ったのはなぜかということである。道長は関白になれなかったわけではなく、意図的にならなかったと理解すべきだろう。(大津透、前掲書p84)
「内覧」は太政官が天皇に奏上する書類を、あらかじめ見る役目であるが、それは関白の重要な機能である。関白はその機能にさらに拒否権が加わるのだと、されている(同前p84)。
では関白にならない違いはどこにあったか。それは左大臣に止まり政務を行ったこと、左大臣を筆頭の上卿[しょうけい]の意で一上[いちのかみ]と呼ぶが、一上の事(一上の政務)を手放さなかったことにあったと思う。(同前p85)
道長が初めて「一上」として、右大臣となったのが長徳元年(995)六月十九日である(そのとき左大臣は空席)。続いてその翌年(996)に左大臣となり、寛仁元年(1017)まで長期間「一上」としての地位を保っていた。
そして、寛仁元年(1017)には氏長者を嫡男の頼通にゆずり、表面上は現役引退の形を取る。病気を得て出家するのが寛仁三年(1019)三月である。


「花山院のこと (第1章)」 終



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