第5章:手話  HOME


言語的ビック・バン


歴史上はじめて、学者たちが言語の誕生を目撃している ―― ニカラグアのろう[聾]の子どもたちによって創造された複雑な手話システム


  文  ローレンス・オズボーン
  写真 スーザン・メイセラス
  ニューヨーク・タイムズ・マガジン 1999.10.24




A Linguistic Big Bang

By LAWRENCE OSBORNE
Photographs by SUSAN MEISELAS
[New York times Magazine October 24, 1999]





ブルーフィールズ小学校で、9歳のユリ・メヒアが手話で「ババル物語」をしている:若い象が母の背に乗っている(左)そのとき母象が撃たれた。若象は走って逃げ(中)、裂け目に落ちた(右)。


★★★ 1 ★★★


 ギリシャの歴史家ヘロドトスがエジプトを旅行中に、プサメティクスという名の王によって計画された奇妙な実験のことを耳にした。その詮索好きの専制王は、ヘロドトスは書いている、2人の幼い男の子を人里離れた屋敷の内に高い壁で閉じこめるよう命じた。少年たちの口から出てくるなんであろうと、それはわれわれの種族の根源の言葉――他のすべてのものの鍵であろう、と王は考えた。ヘロドトスの述べるところでは、結局子どもたちは、フィリギア人の言葉でパンをさす“ベーコス”と叫んだ。フィリギア語が優越していることを示していることに加えて、その王の調査は、自身の生きる手段だけで放置しておいても、子どもたちは長く言葉なしではおれないことを証明した。われわれはお喋りという贈り物と共に生まれるのだ、とヘロドトスは教えている。

 それ以来、哲学者たちはプサメティクスの実験をくり返すことを夢みてきた。もし子どもたちが無人島で隔離されて育ったとして、彼らは本物の言語を創り出すであろうか。そして、もしそうだったとして、既存の言語に似たものであるだろうか。ヨセフ・メンゲルのような良心をもつ者にして始めて、そのような実験をなすことができる[メンゲル博士はナチの収容所で人体実験を行った人物]。そして、1980年代なかばに、言語学者たちは思いがけない贈り物に出合うことになる。プサメティクスの実験が再び行われたのである。ただし、今度は意図せずに。そしてエジプトではなくニカラグアにおいて。

ローレンス・オズボーンは観光案内『パリの夢読本 Paris Dreambook』、エッセイ集『毒ある抱擁 The Poisoned Embrace』の著者。

 1979年のサンディニスタ革命の後で、ニカラグア新政府は、この国で初めて、ろう[]児たちを教育する大規模な努力を開始した。数百名の生徒がマナグアの2校に入学した。よく調べられていないものも入れて、全世界には聴覚障害者によって使用されている200を超える手話言語が存在するのだが、マナグアのろう児たちはまったくのゼロ地点から出発した。彼らは文法も統語法も持っていなかった――代わりに、それぞれの家族のなかで発展させていた自然発生的なジェスチャー式手話があっただけである。これらのパントマイムは、ろう児たちが「食べる」とか「飲む」とか「アイスクリーム」だとかの基本的必要を伝達するものだったが、スペイン語でミミカス mimicas (ものまね)と呼ばれていた。

 ほとんどのろう児たちは、ミミカスのごく限られた能力だけを持ってマナグアにやってきた。だが、いったん生徒たちが同じ場所に集められると、彼らは互いに手話を組み立て始めた。1人の子どものジェスチャーが、集団の語として固定された。子どもたちの経験不足の教師たちは――彼らは重度聴覚障害の生徒たちと微々たるコミュニケーションしかすることができなかった――子どもらが彼らの間で手話を始めるのを畏敬の念を持って見守っていた。新しい言語が開花し始めていた。

 10年後には、子どもたちの創造が現代言語学で評判となっていた。ニカラグア手話(専門家にはI.S.N. すなわち Idioma de Signos Nicaragense として知られている)は、外部の学者によって熱心に解読されてきた。学者たちは好奇心いっぱいで語法を解説するのであるが、彼らはみな共通に、言語学者のノーム・チョムスキーがすべての言語に要求した構造である「普遍文法」を信奉していた。スティーブン・ピンカーは『言語を生みだす本能 The Language Instinct』の著者であるが、マナグアで起こったことは、言語獲得が人間の脳のなかの生得的能力によることを証明していると述べた。「ニカラグアで起こったことは完全に歴史上唯一無二だ」と彼は続けた。「われわれは、子どもが――大人ではない――どうやって言語を創造したのかをずっと見守り続けることができている。そして、起こったことの膨大で科学的な詳細を記録し続けている。そして、何もないところから言語が生成されるのをわれわれは実際に見てきていること、それは最初でただ一度の機会だ。」



★★★ 2 ★★★


 マナグアのろう児たちは学校に座礁したのだ、無人島ではなくて。スペイン語を話す教師たちが彼らを指導するためにそこにいた。それでもニカラグア手話はスペイン語とはまったく似ていなかった。実際に、マナグアの教師たちは子どもたちの即席の言語にほとんどなんの影響も与えられなかったと述べている、――主として経験の欠如のために生徒たちに貧弱な教授法を適用することになったのだ。学校が最初に開かれたとき、サンディニスタ教育局はソビエトの顧問たちの誤った方針によって「手指文字」を採用し、口語のアルファベットを描く簡単なサインを用いた。このやり方は最悪だった。生徒たちは単語という概念を事前に持っていなかったので(文字の概念はもちろんのこと)、この方法でコミュニケーションしようとする試みはなんの成果もあがらないことが明らかになった。子どもたちは先生たちと言語的に断絶状態に置かれた。

 有効な教育法を適用することに失敗したことは、逆説的であるが、ニカラグアの子どもたちに彼ら自身の言語的構造物を造り上げざるをえない絶好の機会を与えた。子どもたちはほとんど指導者とコミュニケートできないのに、教師たちには理解できない手話を使って、子どもたち同士ではうまくコミュニケートし始めているのを、まことに、マナグアの教師たちは困惑しつつ気づきはじめた。しかしそれは、正確にいうと、何だったのだ。

 1986年6月に、マナグアの文部大臣はノースイースト大学のアメリカ手話の専門家であるジュディ・ケーグルに連絡を取った。彼女がマナグアのろう学校を訪問して、その暗号にいくらか光を当てることができるかどうかを考えてもらうべく招待した。手にノートとペンタックスカメラと――漠然とした革命への同情心――をたずさえて、33歳のケーグルはマナグアへ旅立った。

 彼女は最初にビラ・リバータッドの10代のろう者への職業訓練学校に行った。ケーグルはそのときにはポートランドの南メーン大学の教授になっていたが、理髪作業室の若い娘たちの小グループが使っている手話の、基礎的な辞書作りに着手した。いくつかのサインは十分明瞭だった、「まゆ毛ピンセット」とか「カールクリップを巻く」とかは大なり小なりそのものの模倣のサインである。しかしある日、ある生徒が遊び半分にもっとこみ入った手話を彼女に対してしてきた。彼女はまず左手の手のひらを平にした。そして右手を使い、中指から手のひらの付け根まで線を引き、その後で右手を裏返して、彼女のベルトの下を指さした。少女がクスクス笑っているので、ケーグルはそのサインは「生理ナプキン」のことだと推量した。彼女はコミュニケーションの単純な形式と見えるものの中で、彼女の最初の単語を学んだのだ。

 数日後、ケーグルは「家」に対する手話を工夫し、そして、ニカラグア手話の典型的な動作である「何なの?」――鼻に強くシワをよせる――と結びつけて、そのろう生徒がどこに住んでいるかを尋ねた。生徒の反応は、しかし、当惑した様子だった。個々の生徒は複雑で見たところ無意味なように腕をくねらせる一連の動作を行うことがある。すぐ後でケーグルが思い当たったことは、これらのくねる動作は実際マナグアの迷宮めいたバス路線の描写にぴったりだということだった。まったく、この暗号のような手話システムに隠れている文法は、完全に彼女から逃げ失せてしまった。「私は言語学者として失敗しているみたいだと感じた」彼女は回想する。「私は一貫性のある規則性をなにひとつ見出せなかった。それは完璧なカオスのように見えた。」

 3週間後に、しかし、ケーグルはサン・フダスの小学校へ移ったが、そこは年少の子どもたちが教育され始めていた。最初の日、彼女はマイエラ・リバスという少女が中庭で手話をしているのを観察した。その仕草はすばやく、不気味なほどリズミックで一貫していた。マイエラは粗雑なミミカスや年長の生徒たちがビラ・リバータッドで使っているピジン的な手話をしているのではないことをケーグルは感じとった。

 「私はその子を見た、そしてわかったわ、あらまあ、あの少女は何かの文法書を使ってる」と彼女は話す。ケーグルの先任アシスタントで現在はバーナード大学の教授になっているアン・センハスに同意を求める。「それは言語学者の夢だった」と彼女はいう。「それはまるでビッグバンに直面しているようだった」



★★★ 3 ★★★


 サン・フダスの年少の子どもたちが使用しているコードを解読するために、ケーグルは有名なチェコのマンガの主人公であるクーマル氏の物語を彼らに話してやった。クーマルの絵本の内容にかかわるためには、子どもたちはいくつもの統語法と動詞の意味を必要とするはずだった。「クーマル氏は鳥のように飛ぶ」の中では、たとえば、この冒険好きのチェコ人は、ニワトリの羽根を盗んで自分の翼にする。しかし、山腹に墜落した後で、クーマル氏は羽根を使ってインディアンの頭飾りを作り、子どもたちに売ろうとする。子どもたちがこの話を自分自身の言葉で再構成することによってまぎれもない規則性が出現し、少しずつ、その言語の文法への糸口をケーグルへもたらした。


アンセルモ・アレマンは今20歳、15になるまでブルーフィールドに来なかった、比較的遅いスタートだ。「ぼくは、大都会にきてはじめてエレベーターに乗っているババルみたいだ」と彼は言う。

 年少の子どもたちが使う手話が年長の生徒たちのよりもよりニュアンスに富んでいることは、一目見て明らかなことだった。たとえば、ビラ・リバータッドの10代のピジン的なサイナー[signer]に対する基礎的ジェスチャー ―― 4本の指を開きまた閉じ、親指は口の前にある。年少の子どもたちは同じ手話を使うが、変化させている。話者の方向で指を開き、受け手の方向で閉じる。ケーグルにとって、この一見小さな相違は非常に大きな意味を持っていた。「これは動詞の一致でした」とかの女は言う、「そしてかれらはそれをまるで流れるように使っていた。」同様に、クーマル物語を再話するのに、年少の子どもらは言語学者が動詞の「空間一致」と呼んでいるものを表現できていた。彼らが動詞「落ちる」を使うとき、――「クーマル氏が山から転げ落ちる」の場合に――彼らはクーマル氏が落ちることと彼が転げ落ちつつあるということ[ Mr. Koumal's falling and what he was falling down]のふたつを関連づけていた。これらの雄弁なサイナーたちは、まず一方の手を空中に持ち上げて「山の頂上」を示し、それからこの高さから「落ちる」という手話をはじめた、空想の坂を転げ落ちるまで手をあちこちに反転させていた。

 年少と年長のサイナーの間で見られるこの相違は何を示しているのだろうか。後にさまざまな言語学の雑誌で流布されたのだが、ケーグルの理論では、ホームサイナーが最初の集団で、彼らが集まってきて基礎的ピジンが使われだした。それは、言語学者の間では Lenguaje de Signos Nicaragense として知られている[LSN]。これが彼女が年長生徒の間で観察した比較的粗雑な手話である。それから、5,6歳のとても若い子どもたちが学校制度に入ってきた。年長の仲間からピジンをたちまち習得してしまうと、彼らはそれを、まったくの無意識のうちに、はるかに高い水準にもちあげてしまった。この改訂版は、速く、優雅に組織だっている言語で、ケーグルがマイエラ・リバスのちっちゃな指から飛びはねて出ているのを見たものである。これこそは、イディオマ idioma もしくはニカラグア手話として知られるようになったものである。これらの明白に区別される3つの水準―― home signs[家庭の身ぶり言葉]、lenguaje[ピジン的手話]、idioma[ニカラグア手話] ――は、進化の段階を表している。パントマイムから、ピジンへ、言語へ。「この場合には現実の言語は」と彼女は言う、「最初にピジン的手話にさらされた幼い子どもたちからだけ出現した」

 しかしニカラグア手話は初めの段階でどのようにして進化したのか?ケーグルは垣根に仕立てられるのを待っている転がっている石のプロセスになぞらえている。この場合「石」は、日常生活でニカラグア人たちによって話されていた身ぶり言葉[gesture system]からやって来た。だから、「食べる」と「飲む」に対する最初の手話サインは、健聴者によって使われていた身ぶり言葉と似かよったものだった。手を平にして口の前で指をあちこち曲げるのが「食べる」、口に向かって親指をジェスチャーしながらが「飲む」だった。

 「そこで起こったことは」ケーグルは説明する「これらの身ぶりが徐々に豊かにより多様になっていったことです。しかし、文法はその子の内側あるために、私たちはそれらの間に飛躍が起こったこと、および最初の手話言語に気づくことができませんでした。その子がこのごたまぜの豊饒な混合物にさらされているときにのみ、それがそれ自身を明示するのです。」石くれの山を垣根に組み上げる能力は脳自身の中に存在している、そして他の子どもたちとの相互関係によって明らかに刺激を受ける。

 「私たちはこれらの子どもたちが、どの手話サインを使用するかどれは捨てるかについて、無意識のうちの合意のようなものに達するのを知った。」と彼女は続けた、「しかし私たちはそれを十分に説明することはできず、結果を示すことができるだけだ。ひとりひとりの子どもがその方法に適応し、そしてそれによって言語を変化させていくやり方の神秘の要素がそこに存在する。」
ケーゲルが理論化したところによると、本当にもっとも年少の子どもたちが、彼らをとりかこむ言語学的ごった煮を個々別々に濾過し、彼らが発明したもの、変形したもの、つけ加えたものを、もとのより大きな集団へ伝達する。このようにして、新しい語が語彙として登録される。
「だがこの道を先導する有力な随一の話者というものは存在しないのです。」と彼女はつけ加える、「ひとりひとりの子どもは個々の方言のようなものを誕生させるが、それは私たちが完全には理解していないある過程を通じて他の人びとの間にプールされ(正規の語彙とな)るのである。」

「ぼくは自分の子ども時代を思い出せる」アレマンが手話をしている。
「でも、ぼくにはどんな会話の手段もなかったことを思い出すんだ」
彼は手のひらで額をぬぐう動作をする、誰かが黒板を消してしまうのを示すように。
 10年以上の研究の後、ケーグルとアン・センハスはその柔軟性で顕著な表現形式を解読することができた。たとえば、動詞はゴムのバンドのように、すべての種類の名詞や前置詞を含んで伸びることができる。「クーマル氏は鳥のように飛ぶ」の物語の中では、子どもたちは一列に並んで狡猾なチェコ人にそれぞれ自分の卵を与えて、彼のインディアンの髪飾りひとつと交換する。この動作は一つの動詞の手話サインで表される。すなわち、卵の形に手が曲げられ、体から2度はね返り、そして鋭く上へ曲がる。この一つの手話サインを逐語的に英訳すれば「一列に並んだ各人が、卵の形をした物をそれぞれひとりの大人に与える」となるだろう。更にもっと奇妙なことは、ニカラグア手話の前置詞は動詞のように働くということだ。だから、英語話者が「コップがテーブルの上にある[The cup is on the table.]」と言ったとしよう。ニカラグアのサイナーは、「テーブルがコップを乗せる[Table cup ons.]」とでも言うような手話を行う。それゆえ動詞と前置詞が変幻自在であり、これに似た話される言語は、ナバホ語など、ごく少数しかない。

 これらの特異体質的なすべてのことをもって、ニカラグア手話が子どもたちによるたんなる偶発的な創造であることを容易に忘れることができる。まったく、エスペラントのような、大人によって技術的に練られて作られた表現形式は、比較してみれば実に面白味に欠ける。ケーグルは驚嘆している「どんな言語学者もひとりの4歳児が誕生せしめた言語の、半分ほどの複雑さや豊富さをもった言語さえも創造することができない。」



★★★ 4 ★★★


 小さなユリ・メヒアは9歳で、生まれながらのろうである。ニカラグアのモスキート海岸の遙かなへんぴな港町の、ブルーフィールズにあるレイズ公園のマンゴーの木の下で、彼女は小さなアリゲーターの赤ん坊でいっぱいの装飾用プールを見下ろしていた。彼女はアイロンの効いた青いスカートでこざっぱりとしたなりをし、対称的にそろえたお下げ髪をしていた。表情と手のジェスチャーとを同時に使い、彼女はてきぱきと、文章をキラキラ輝かせながら電光のすばやさで繰りだす。彼女の顔は滑りずれる。滑稽なしかめ面から鼻に優美なシワを作るまで変化する。ユリはブルーフィールズ小学校の一番年少の生徒の1人である。その実験校ではジュディ・ケーグルと彼女の夫であるジェイムス・シェパード・ケーグルが1995年から働いている。

 ユリはとても早くから教育を受けたので、その手話は流暢で優美である。「いつ、アリゲーターたちは起きてくるのかしら」彼女の手話は、私の通訳として働くことを同意してくれたジェイムス・シェパード・ケーグルを通して、私にいう。「公園に来るといつでも寝てるのよ」

 シェパード・ケーグルの助けを借りて、私は彼女に学校が好きかどうか尋ねる。

 「家では」と彼女は手話を直ちに返してくる、「私は退屈です。私はおばあちゃんと生活している。それは向こうのバリオ[スペイン語居住区]のなかの通りです。私たちはぶらぶらして過ごし、いつでも退屈です。私たちはたくさん洗濯をします。でも学校では、みんながろうで、私はみんなに話ができる。そして私はババルの本を読むことができる。」

 好奇心にがまんできなくなって、彼女は私がどこに住んでいるのかきいた。私がブルーフィールズに着いた翌日に習ったひとつのニカラグア手話は、ニューヨークを表す手話だ。人さし指を額に3回あて、自由の女神の冠の尖りのまねをする、そして拳をつくって腕を上げる。

 「あなたは、おばあさんと一緒に住んでいるの」とユリがきいた。

 「いいえ」

 「あなたはババルってだれだか、知ってるの」

 「ええ、もちろん」

 「彼のお母さんは森の中で殺されたの。それで彼は町にやってきて、エレベーターに乗るの。」彼女は賢そうにうなずいた。「ババルはエレベーターで上ったり降りたりしたの」と彼女は手話をした。

 ババルを表す手話をするのに、ユリは4本の指を上げ(「B」のサイン)、親指で彼女の鼻にさわりそしてすばやく手を落して象の鼻を表した。エレベーターの動きを伝えるために、左手で床を表し、右手の2本の指をそこに生やして逆さまのV字にした、つまり人がエレベーターの床に立っている。彼女はそれからその「エレベーター」を上げたり下げたりした。

 ユリと私は海岸通りの学校の寄宿舎に向かっている。そのピンクの家はひび割れた敷石の曲がりくねった路地にあり、そこからブルーフィールズの憂うつな礁湖が見える。中には、10歳から25歳までの15人の生徒たちが手製の二段ベッドにくつろいで、音を消したテレビ受像器を楽しんでいた。そこで私はブルーフィールズの仲間のひとりひとりと顔をあわせる。最近側転で足を痛めたそばかすの15歳のダフニーから、11歳のバーニーまで。彼はいきいきとした少年で貝殻を髪につけているが、赤ん坊のような言葉で手話をはじめた。

 直ちに新来の者への好奇心にかられて、彼らは私の名前の手話サインを考えだそうとした。手話の名前は音声的ではなく視覚的である。ある少年は彼の手を挙げて高さをあらわす手話をしめした。(私は6フィート5インチでニカラグア人の標準ではとても大きい)別の少年は口から口へ伝わるマイクロフォンの身ぶりで「ジャーナリスト」を表し、それに個別のひねりを加えることを提案した。最後に、しかし、夕食の時に違うふうに落ちついた。ある少女が一本の指をアゴに垂直にあてた、そして笑いの爆発のさなか、私は「えくぼ」と命名された。

 これらの風変わりな名前サイン[name signs]は洞察力に満ちている。たとえば、ニカラグアの前サンディニスタ大統領のダニエル・オルテガの名前サインは、一方の手で他方の手首を叩いてオルテガのきらびやかなローレックス腕時計を表す、貧しいろう児にとっては派手な象徴であったのだ。フィデル・カストロは、しきりに動き、説教し、指を口の近くでV字に組み合わせて葉巻を吸っているのを表す。多くの名詞を表す手話は、同じように表情豊かなものである。手をくねらせて「魚」、ピストルを撃つ指の形で「テキサス」。それに対して、動詞は優雅で難解に見える。「探す」と言うには、左手はまず平らにし手のひらを下向きにする、それから右手の小指と人さし指と親指を伸ばし、残りの2本の指で左の手のひらの背をすばやく掻く。

 ブルーフィールズの校舎は単純な1室だけの建物で、壁はトウモロコシの黄色だ。カリキュラムは幼い子たちのための基礎単語の勉強から、年長のサイナーのための数学や地理までいろいろある。加えて、生徒たちはニカラグア手話を翻訳して書取り帳へ記録する作業をしていた。(彼らはデンマーク記号システムを使って、手話を翻訳して発音記号で書く、たとえば、誰それの鼻にシワをよせるという記号がある。また、誰それの右のこぶしを握る、という記号がある)翻訳された最初の本のひとつが「ババル物語」である、なぜその無邪気な象が子どもたちの基準点になっているかがよくわかる。学校の辞書はいますべてで1600語になっている。そして、子どもたちは「白鯨 Moby-Dick」の簡易版の準備をはじめている。ブルーフィールズで教えられていないことのひとつは、アメリカ手話のようなより確立している手話システムである。ニカラグアのろう者たちが創造したものすべてを保存するために、ケーグルは他の表現様式に適応することを勧める気持ちはない――仮にそのことで生徒たちが他のろう者社会とコミュニケーションするのを不可能にすることがあっても。「私たちは自生の言語を殺してしまうことを望みません」と彼女は言う。

 私の学校訪問の初日の終わりかけに、何かの理由でろうの子どもたちに演技を試してみたいと考えた道化師の一座がやってきた。生徒たちの頭はそれを見ようと窓の外に向いた。道化師たちはフェリーニ風のドタバタ[Fellini-esque ineptitude]を演技しはじめた、ボーリングのピンを取り落とし、とんぼ返りを失敗したり。最後に、彼らのひとりがそれをうまくやり、私は喝采の時だと思い、私は猛烈に拍手しはじめる。まわりは完全な静寂である。私は少しむっとしてクラスをふり返ったら、皆が手を頭の上にあげて、ただひたすらに指をくねらせていた。

 喝采のこの静かなやり方に感動して、今から自分も同じようにしようと決心し、私も両手を挙げ指をくねらせる。クラスじゅうが笑って、同時に皆が指をアゴにあてる。「えくぼ」が受け入れられている。



★★★ 5 ★★★


 このろう児たちの手話は、それ以来四半世紀の間、言語学者の中心的な興味であり続けている。この興味の根底にあるのは、言語学的な「生体プログラム」が発見されるかどうかという問題である、すなわち、人間の生まれつきの能力があって、それが、単語の創出から文法まで、言語のすべての基本的特性を創り出すことができるものであるのか――聴覚や音声の助けなしで。


どこの子どもも同じで、ブルーフィールズの子どもたちもどうやって大笑いの喝采をするか知っている。ここでは、彼らは指をくねらせてカメラマンを静寂の喝采で包んでいる。

 1978年に、ハイディ・フェルドマン、スーザン・ゴールドウィン・メドウ、リラ・グレイトマンがろう児の言語学的傾向に関する重要な論文を公にした。それは、健聴者の両親との間で単純なホームサインを使っていたフィラデルフィアのろう児のグループの研究に基づく。この研究者たちは、ろう児は何をなしているか知らずにまた教えられることもないのに、粗雑なホームサインを時間と共に言語的な型式に作りかえはじめることを見出した。彼ら学者たちが明らかにしたことだが、このホームサイナーたちの母親は、子ども自身よりもはるかに少数の手話サインしか知らなかった。(訓練された言語学者であるから、学者たちは子どもたちの全語彙の広がりを確定することができた。)両親がホームサインを不規則に使用するのに対して、ろう児たちは彼らのホームサインをより一貫したものに発展させていた。

 「ろう児たちは文法的にし規則化するのです――どこから学ぶこともなしに」リラ・グレイトマンは言う。彼女はニカラグアの場合が彼女の業績を強化するものであると思っている。「マナグアでは、子どもたちは持続的な集団を形成しているので、彼らの生まれたばかりの言語を文法的また統語的構造にむかって育成することが許されたのです。それは言い表せないほどの豊かさを持って生まれた完全な言語の、堂々たる実例です。」

 すべての勝利にもかかわらず、ニカラグア手話についての学問は、生得的なことと社会環境との間に正確な線を引くことは困難であることを明らかにしている。言語は生物学的素因と社会的刺激があいまいのうちに協同して創り出すものである。別の言葉で言えば、生体的プログラムは言語共同体によって引き金を引かれてはじめて動きだすのである。「真空中で言語を習得することはあり得ない」とグレイトマンは言う。

 ジル・モルフォードはアルバカーキーのニューメキシコ大の言語学者であるが、ホームサイナーはジェスチャーと言語との間の牢獄に閉じこめられしまう、と論じる。「ホームサインは」と彼女はいう「認知的[cognitively]には言語と同様であるのだが、それは言語のようには文法を持たない。それはどっちつかずだ。ニカラグアの子どもたちの美しさは、我々がコインの両面、すなわち社会的であることと本能的であることとが共に働いていることをどんなに必要としているか、を彼らが劇的に示しているところにある。



★★★ 6 ★★★


 ホームサインの限界を私自身で知るために、ジェイムス・シェパード・ケーグルとモーターボートでブルーフィールズから北へ1時間ほどのパール・ラグーンまで出かけた。そこには、数名のろう児たちがまだほとんど完全に孤立して深い森の中に生活している。ブルーフィールズが遠く思えるのなら、そのパール・ラグーンは別の惑星のようなものだ。夢みるような入江がアナナス類の点在する熱帯雨林のなかを曲がりくねってつらぬき、川で結ばれるだけの小さな集落にすむ少数の農民たちを除けばほとんど無人地帯である。

子どもたちの手話サインの多くは洞察力に富んだものだ。ニカラグアの前大統領、ダニエル・オルテガを表すのは、一方の手で他方の手首を叩くしぐさであるが――オルテガのきらびやかなローレックス腕時計を意味している。
 ホーラバーと呼ばれる集落は、小屋が環状に並び、カキ殻の道がついている。私はウィンストンという10歳のろうの少年と会った。彼はいちども学校へ行ったことがない。パール・ラグーンのハックルベリー・フィンのようで、彼は孤立しているホームサイナーを望むだけどこでも探したときに見出すような、そのような人物である。彼は毎日手製の釣り糸で釣りをしている、そして、もし必要なら使う、釣りに関するわずかの手話サインを持っている。ブルーフィールズという大都市からの訪問者たちに昂奮して、彼は私たちに彼が自分のパチンコで撃った数羽のハトを見せてくれた。ポーチの揺り椅子に私たちが座ると、彼の母親は私たちに彼女とウィンストンは「うまく話す」ことができると語る。ウィンストンは頭を揺らせてひとしきり笑い続けたが、それから私たちに彼の手話サインの限られた在庫品を見せる。彼が家族の間である水準のコミュニケーションができていることは明らかだが、しかし、彼の話し方にはリズムも流暢さもなかった。

 「きみは魚をつかまえるの」私がきく。彼の母親が翻訳する。

 「つかまえる」彼は手話サインを返す。

 「どんなふうに」

 かれは激しく打つジェスチャーをする。

 ウィストンは「今日」とか「あとで」のようなことを表現できない、そしてなにか一つの文章と呼べるほどのものを作るのに、彼が一度に3つの手話サインを用いることはあっても稀である。ブルーフィールズの子どもたちは複文を使ってとんぼ返りをするのに、ウィンストンは一度にひとつの手話サインで、ゆっくり不器用に歩く。

 シェパード・ケーグルと私がパール・ラグーンの桟橋に戻るとき、いっしょに歩きながらウィンストンは私にいくつかの手話サインをみせる。「木」、「川」、「家」。彼の手の動きはゆっくりであって、その表現の中には彼の元気溢れる様子にそぐわない奇妙な単調さがある。

 私は彼の写真を撮り、彼は私に彼の釣り糸やナイフを見せる。「大きい」と彼はつけ加えた。「おいしい。つかまえる。食べる。」

 「悲しむべきことだ」我々が立ち去るとき、シェパード・ケーグルが言う。「しかし、ウィンストンの家族は彼が学校へ来るのを望まない。だから、彼は一生ずっとこのレベルのままにとどまるだろう。彼はけして実際の言語をつくり出すことはないだろう。」



★★★ 7 ★★★


 ブルーフィールズの海岸通りのホテル、ティア・イレーンのテラスで、私は20歳のアンセルモ・アレマンと座ってチェスをさしており、雨が激しくわらぶき屋根を叩いている。礁湖は暗く、赤錆びた漁船らは土砂降りの雨の中で激しく揺れている。私たちは皿の薄紫色のスターアップル[水晶柿]を食べている。痩身のアレマンは魅力的なチェスのチャンピオンだ、打ち負かせないことは別にして。ウィンストンのように彼も深い熱帯雨林の中で育った、が、彼と違って、アレマンはブルーフィールズにやってきた。

 突然彼のビショップをチェック・メイトの位置に動かしながら、彼はほほ笑んだ。「これは戦争に似ている」と彼は手話をした「あなたは集中している必要がある、そうでないとあなたは負ける」。

 アレマンはいくらか遅い年齢であるが、15のときニカラグア手話をならった。知力と熱心な努力で、しかし、彼はほとんど完璧な流暢さでその表現様式を身につけた。「ぼくは幼いときから手話を学ぶことができませんでした」と彼は手話をする、「ぼくは森の中で育ったからです。それもまた戦争の間のことでした、そしてぼくの父は反政府でしたから、サンディニスタ軍に追い詰められ、ぼくたちはつねに隠れていました。だから、ぼくは覚えています、銃、火、隠れていたことを。ブルーフィールズに来たとき、ぼくは驚きました。ぼくはまるで」――彼はしばらく言いよどんだ――「大都会に出てきてはじめてエレベーターに乗ったババルのようでした。」

 アレマンは私に、彼が小さいときに消防車に衝突されたことについて、わずかばかりの舞台と登場人物の説明を散りばめながら、長いこみ入った物語を話す。「ぼくは自分の子ども時代を思い出すことができます」と彼は手話をする、「でも、ぼくはコミュニケーションの方法がまったくなかったことも思い出します。それで、ぼくの心はまったく空白だったんです。」彼はこの空虚さをあらわす痛烈な手話サインをした、手のひらで自分の額を拭いて誰かが黒板を消すのを示すことで。

 しかし、アレマンがなにも書かれていない石版に戻ることは決してないだろう。彼は、若く動的に発展しつつある言語の中心に立っていて、その言語はいまいくつかの方言と変異に枝分かれしつつある。すべての生きている言語と同じく、ニカラグア手話は柔軟で、欲得ずくであり、気楽に枝分かれしていく――熟語やスラングやさらに基本名詞であろうとも、気に入ればどこであろうとも拾いあげる。さらに「街角」方言というのも存在する。それはときに猥褻すぎて、ニカラグア民族ろう者連盟[ Nicaraguan National Association of the Deaf]の公式な認定から離れていく。

 ニカラグア手話の正確な知的な意義は、いまだ言語学者によって熱心に考究されている。ノーム・チョムスキーは、ニカラグアで起こったことを「驚くべき自然な実験」と呼んでいるが、我々の脳の中には「生物的文法」があるという理論を数十年間にわたって提起してきている。(彼の主張したところだが、英語からズールー語に至るどの言語も主語と動詞を持っているというのは決して偶然ではない。)しかし彼はケーグルの研究が問題を解決しおえたというのには慎重である。「この子どもたちは我々になにか驚くべきことを示してくれたのだろう、もし本当に彼らが外部からの入力をほんの少しかそれとも無しで、この言語とともに登場したのだとしたら」彼は言う「本当にそうなら、それはまったく興味をそそる状況だ」

 しかしこの世界的な言語学者の瞑想も、レイズ公園へ我々と共にぶらぶら歩きで下がっていくアレマンと、そんなに関係があるわけではない。農業機械の赤錆びた部品、飾りたてたゴムのタイヤ、そしてニカラグアの詩人ルーベン・ダリロのボロボロの胸像に囲まれたココナツ林の下に我々が座ると、公園はまるで世界の涯てのように見える。ミスキート・インディアンの女たちが私たちが共に手話をしているのをみて、驚いてしげしげと見つめ、そしてすぐにそこらのシャーベット売りに合流する。

 「ぼくは想像もできません」とアレマンは手話をした、心の底から当惑して、「あなた方はぼくらが話すのを聞きに、ぜんたいなぜやって来たんです。それは単にぼくらの言葉なんです。それがどうしたというんです」

 私は彼に多くの人々が、少数のろう児たちが世界で最も若い言語をどうやってつくり出したのか知りたくてたまらないことを話す。

 「ぼくはそんなふうに考えたことが一度もなかった」と彼は手話をする。

 「それは美しい言葉だよね」私は手話で答えようとする。両方の手のひらを胸にあて、腕を上下させ、「手話」を表す。そして、右手の人さし指と親指をつけて丸を作る――ほとんどアメリカ人の「O.K.」とおなじだ――そして「美しい」を言うために、それを私の胸から滑るように離す。

 「それが?」とアレマンが応える。そして、隠しようのない喜びをみせる。「そうです」彼はいう、「ぼくもそう思います」

1999年10月24日

終わり


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中米ニカラグアの地図。文中に登場する地名、首都マナグアとメキシコ湾側の ブルーフィールズ Bluefields と パール・ラグーン Laguna de Perlas に赤線を書き込んだ。Google Map を原図としている。なお、Google Earth で Bluefields 辺りの詳細を眺めることをお勧めします。複雑な入江の奥に町が位置していることがよく分かる。多くの投稿写真も見ることができ、臨場感を増す。Haulover という地名もでている。



【訳者より】

これは、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の1999年10月24日号に掲載の「A Linguistic Big Bang By LAWRENCE OSBORNE」の拙訳である。
冒頭にも明示したように、原文は
http://www.nytimes.com/library/magazine/home/19991024mag-sign-language.html
で、現在も見ることができる。ただし、翻訳許可はもらっていない。

わたしは、日常的には、まったく英語に触れない(会話はもちろん英文も読まない)生活であるので、この程度の英文の読解にもだいぶ苦労した。初歩的な誤りを犯していると思うので、お気づきの方は、ぜひ、お知らせ下さい。とくに、固有名詞の読み方、スペイン語の地名などは誤りがあると思う。

それにもかかわらず、この「A Linguistic Big Bang」を訳してみようと思ったのは、1980年代のろう児たちによる「ニカラグア手話の創造」という驚くべき事実のみ喧伝され、その実際を知る資料が非常に乏しいことに気づいたからである。多くの日本文の論評をみても、スティーブン・ピンカー『言語を生みだす本能』(NHKブックス)のなかの数頁の孫引きが多い。
おそらく、言語学の専門分野では詳細な研究書が出版されているのであろうが、日本の読書人を稗益するような訳書やすぐれた解説書は見ていない(斉藤くるみ『視覚言語の世界』の参考文献に何冊かでている)。その出現を期待するものである。


訳注
(1) 「sign」の訳語を、文脈でいろいろと訳し方を変えている。「手話」「手話サイン」「サイン」など。ちゃんと訳し分けるほどのことはしていない。
(2) 「siner」は「手話の使い手」であろうが、「サイナー」とした。
(3) 「ホームサイン」は身ぶり・手ぶり(ジェスチャー)によって、家族内や狭い範囲でなんとかろう者と意志を通じさせようとして自然発生するサイン。
(4) 「communication」「communicate」は適当な日本語がなく、コミュニケーションなどとした。「会話」では適当でないことが多い。特に困るのは動詞形で「コミュニケートする」としたところもある。
(5) 「ピジン」は言語学的に言えば「接触言語」というのだが、異なる言語が出会い言語的な混合による「間に合わせ」が生じるが、それをいう。完全な言語とは見なせないものである。その子どもの世代で言語的に成熟したものを「クレオール」と呼ぶ。
(6)第3節に出てきたが、the lenuaje,the idioma はいずれもスペイン語の「言語」を意味する語だが、それを、英語の中に定冠詞をつけて使っている。前後の文脈から推定して訳しておいた。
(7) 訳文中の強調は、すべて訳者の私意によるもので原文にはない。ただし、写真の挿入や大文字の見出しなどについては、原文に似るように努力した。

(2008-9/19)

大江 希望
kib_oe@hotmail.com




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