清水晴風『町の姿』の「両国猫ふ院佛施」
上図の左にある説明文。
猫の面を冠り 手にあわび貝を持 両国猫院佛施と 僧体の乞喰 戸毎に彳み 布施すれバ にやんまみ陀佛を繰返して 釈杖をがら/\/\と鳴らし行もの也
猫の面で「あわび貝」をささげ「にやんまみ陀佛」とまで凝っている。回向院佛施にあやかった乞食が実際にいたのだろう。

式亭三馬『浮世風呂』(文化六年1809刊行)には化政期の口語の非常にレベルの高い描写がなされているが(厳密な音声表現をしようと工夫している)、最初の節「朝湯の光景ありさま」に、男湯が開くとすぐにその入口に様々の物売が来て声を掛ける。番頭さんが捌いていく。その中に「木魚を叩く坊さま」があり、
なむあみだぶ/\。なむあみだぶ。ポクポク/\/\。
この「坊様」に対しては「番頭」は「あげませう」と言って、報謝する。つぎに、二人連れの腰の曲がった老婆の比丘尼が「リン」をならしながら来る。「番頭」はやはり「進ぜませう」と言い、比丘尼たちは
アイ おありがとう。にゃんまみじゃぶ、にゃんまみじゃぶ
と応える。式亭三馬は、比丘尼たちが猫のマネをしたのを現そうとしたといのではなく、僧の「なむあみだぶ」と対比して老尼の軟らかい語り口を「にゃんまみじゃぶ」と表したのだろう。

明治8年の「平仮名絵入新聞」(同年4月17日)に、寄席でアワビ貝を使った弁当を出した話があった。
本月十一日、長谷川町の梅の家といふ茶亭で皆様おなじみの講談師桃川燕林が猫談会とか云ふ事を催し、来客一人宛鮑貝へすしを入れて弁当のかはりに出したとの事なり。(以下略
桃川燕林は後の如燕。桃川如燕については「清水晴風のこと」の「本妙寺再訪」末尾でちょっと触れた。
明治の初年は大きなアワビの殻がいくらでもあった時代だったのだろうと想像されるが、猫の食器として広く使用されていた。漱石『吾輩は猫である』第5章の初め、
晩餐に半ぺんの煮汁だし鮑貝あわびがいをからにした腹ではどうしても休養が必要である。
というところがある。
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