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第三巻 54
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崋山「一掃百態」に原画があった。これ
この巻29に既に「女太夫」があった。
女太夫らは売春も行った証言。
筋違の加賀ッ原(秋葉原の電気街)、築地の采女が原(東銀座、歌舞伎座の前)、芝の久保町原(不詳)、向両国のコリ場(両国橋の東詰)には葦簀張りの小屋ありて、これには常に三五人の女太夫居りて、三弦を弄したりしが、這は(これは)その芸を売るものとおもひきや、その実、勤番の武士等が人目を忍びて、そと葦簀の内に入り、窃に慇懃を通じたる所なりしとは、云々(朝野新聞 明治25年7月15日号、塩見鮮一郎編『江戸の下層社会』明石書店1993 p66)
上引の注記は塩見鮮一郎による。「朝野新聞」は明治25~26年にかけて、1年3ヶ月にわたる連載読み物(多くは連日掲載)「徳川制度」を掲げ評判となった。上掲書はそのうちの「町奉行支配」という項目に含まれる記事をまとめたもの。塩見鮮一郎「解説」の「朝野新聞」の歴史も興味深い。
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