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第四巻 16
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馬糞浚ひ

四十まで
四ッ谷で暮せ
馬糞取

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馬は反芻しないので繊維分の多い糞である。それで良い肥料として売れた。牛糞は肥料として喜ばれなかった。

「四ッ谷内藤新宿」と一緒に言うことがある宿駅。広重の「名所江戸百景」には馬糞が描かれている(ここ)。四ッ谷は馬糞が多かった。また、それが有名だった。
四谷から馬糞のつゞく枯野哉 (青峨 江戸中期の俳人

森銑三『明治東京逸聞史』の明治三年条に、矢崎嵯峨之舎さがのや文久三年1863~昭和22年1947)の「明治初年の四谷坂町」という文章から引用している。
その時分に四谷には、馬糞拾ひという職業がありました。何しろ世間に、「四谷街道馬の尻狙ひ」といふ歌もあったくらゐで、一切の荷物が、甲州街道から馬の背で運ばれるのですから、往来の馬糞は、大変なものです。それで背に竹籠を負って、竹の先に三角形の鉄の網の附いたものを手に持って、立ちながら馬糞をすくって、肩越しに籠に入れていくのです。
晴風の少年が手にしているのはシュロ箒かと早合点していたが、「鉄の網」ないし「竹の網」の様なものらしい。少年はちょんまげなので、明治三年より少し前と考えたい。

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