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第六巻 06
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子供先 五厘が
程の飴を買へは
此馬車に乗せて
一區を廻り下すといふ
新工風の飴賣なり
此馬車元 張子製
の馬をつけて飴賣
自ら車をおして甚
不完全なりしも後
支那産の輓馬に
車を引せるに至る
  一時 子供の意に投
  して繁昌せり

◆-◆

「甚だ不完全なりしも」のところ、実はわたしには難読個所で、苦労した。「輓馬」の「輓」は旁だけ書いてある。

日本には「乗合馬車」がなく、幕末に横浜に外人居留地が出来て、彼らは当然のように江戸・汐留の公使館まで馬車でやってきた。日本人が日本橋-横浜間の乗合馬車を運営し始めたのは明治二年からである。
東京の「馬車鉄道」(軌道を敷き、馬車を走らせる)は明治15年に日本橋-上野-浅草に開通した。これが電化するのが明治36年1903からで、それからわずか1年足らずのうちに鉄道馬車は消滅してしまった。

馬車には「子供鐵道馬車會社」とあるので、東京で馬車鉄道が始まった明治15年以降であると考えられる。

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