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第七巻 02
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紙屑拾ひ

朝空を
 ちらして行や
    屑拾ひ

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江戸の非人のうち、小屋頭の小屋に雑居する非人たちは、車善七へ届け出て鑑札をもらい紙屑拾いをするものが多かった。定められた区域内で紙屑を拾い、所定の親方「控え旦那」へ持ち込み、月毎に代価をもらう仕組み。紙屑だけでなくボロ布その他をも対象にしたのはいうまでもない(塩見鮮一郎編著『江戸の下層社会』明石書店 p59~63)。

明治四年1871 の賎民解放令で非人は名目上は消滅したが、実態は連続しており、貧民ないし細民の中で紙屑拾い(バタヤ)は多かった。国民新聞(明治27年1894)によると東京市内の紙屑拾いが898人いる、という。
好事家あり、東京市内の紙屑拾ひを計算せしに、総計八百九十八人あり、毎日午前二時頃より午後十時まで奔走すれば一人平均一貫五百目()の紙屑を拾ひ得ると云ふ、一貫目の代価六銭、一日一人の得る處は九銭、総計七十五円八十二銭。国民新聞 明治27年2月22日
国民新聞は「好事家」と言ってデータの出所を示していないが、下の草間八十雄の「大正15年に650人」より3~4割多かった。
今(昭和7年1932)で東京道路人夫は1日1円20銭から2円であるが、当時(明治30年)は36銭、工場職工35銭、石工50銭、大工33銭、下駄屋30銭、羅宇すげ替え20銭、チョボクレ、カッポレ等の下等遊芸人25銭、紙屑拾いが15銭の有様である。もっとも紙屑拾いの15銭は当時ではいい方である。今は紙屑拾いが多くなったからこんなに金にならない。昔は労働失業者は立ちん坊になったものであるが、今は大抵紙屑拾いになるので、これがたいへん増加した。草間八十雄「東京における細民の生活」1932)『近代日本のどん底社会』(明石書店1992)所収
東京府から鑑札をもらえるのは定住者に限り、大正15年に650人、「ルンペンのもぐりの紙屑拾いは無数にあるといっていい」。いうまでもないが、晴風が描いたのは明治後半の紙屑拾いである。

「街頭生活者絵巻」に「紙屑拾」と思える画像がある(ここ)。これは江戸時代の風俗である。

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