【1】 序 江戸期の様々な情報の集大成としてよく知られている喜田川守貞『守貞漫稿』がある(もりさだ まんこう、しゅてい まんこう、喜田川守貞は文化七年(1810)の大阪生まれで、天保十一年(1840)30歳頃から江戸に定住したとされる。『守貞漫稿』の記述は幕末の嘉永六年(1853)まで及んでいるが、没年は知られていない)。稿本のまま残されていたのが、明治に なって活字本『近世風俗志』として出版された。自筆の挿絵も沢山入っていて、なかなか面白い。現在は国会図書館がデジタル化して公開しているので、ネット環境さえあれば、この大著を容易に無料で入手できる(岩波文庫は全5冊)。 その中のひとつの項目に「大根畑」がある。 「大根畑」 或書云、江戸本郷の町、宝暦六年(1756)頃迄、圃にして本郷の町「大根畠」というのは、宝暦六年の頃までは実際に畑地であって「萌し物」を作っていたが、そのころからその土地に町家がたちはじめ、後に料理茶屋で賑わうようになった。酌婦が出て人気の岡場所として知られるようになり、そこは通称「大根畠」と言われた。「萌物」に「キザシ」物とフリガナがあるのは原文どおりだが、今の辞書では「萌物」は「モヤシモノ」 と読みが付いていて「江戸時代、促成栽培された野菜」という解説になっている。 上の『守貞漫稿』から引用の最初、“ある書に云う”の「或書」は斎藤 〇本郷新町家、此の頃迄空地や大根畑などであった場所に、宝暦の頃から(1750年頃から)町家が建ち始め、料理茶屋ができ女を置き、岡場所として知られるようになった。そこは後に「本郷新町家」という町名が付いた、というのである。 次図は江戸時代の中期、明和七年(1770)の江戸地図の一部で(都立図書館Tokyoアーカイブがデジタル公開、「本郷谷中小石川丸山絵図」)、右が北、左が南である。 地図の中ほどに広い空地があり、「上野御 [地図1] 明和七年(1770)「本郷谷中小石川丸山絵図」(都立図書館) 空地の東側(下側)の屈曲のある道に沿って、「大根ハタケ」と記してある。この空地全体を漠然と「大根畠」と呼んでいたのではなく、少なくともこの地図が作成された時代には広い空地の東側の道沿いの部分を「大根ハタケ」と呼んでいたのであろう。「この辺が例の遊女屋の場所だ」と述べていることになるが、面白いことに本郷のこの一帯に限って「大根畠」が岡場所を含意する語として使われていたらしいのである。その点は後に再び取り上げる。 この空地の北側(右側)の土地にもうひとつ赤四角を描いておいた。その中の4行の文字は、 宝林山 霊雲寺 覚厳比丘 (ただし「霊雲寺」は異体字を使い「㚑雲寺」となっている。)「霊雲寺」は元禄四年(1691)に将軍綱吉が徳川幕府の祈願所として創建した寺で、江戸時代を通じて権威を持ち現在も健在である。もう一つ赤四角が霊雲寺の北西側にあるが、これは霊雲寺よりさらに古い「麟祥山 天 「霊雲寺の南に大根畑と俗称されるところがあった」というように、定点として使われる(地図によっては字画を減らすためだろうが、開基の「覚厳比丘(覚彦とも書く)」を用いて「カクゲンビク」とカナ書きしていることも多い)。不忍池から神田川の間の地図は、各種のものを今後何度も示すことになる。 次図は[地図1]から90年余を経たほぼ同じ場所の地図であるが、万延二年(1861)刊行の明治維新直前のもので、家屋敷が詰まってきていることがよく分かる(都立図書館Tokyoアーカイブの「小石川谷中本郷絵図」)。「霊雲寺」を見つけると分かりやすいが、「大根ハタケ」のあった場所が「本郷新町家」となって細かく分けられていることが分かる。霊雲寺と道をはさんだ向かい側に「本郷新町家」とある(ただし本郷の「郷」はその草書体を使用してるようだ。草書体は「日本古典籍くずし字データセット ここ」から戴きました)。他の赤四角は「上ノ御家来屋舗」(「上ノ」は上野で、上掲地図の「上野御下屋鋪」と同じ意味)と「御霊八所大明神」(こちらは少し説明を加えたいので、下で述べる(ここ))。 [地図2] 万延二年(1861)「小石川谷中本郷絵図」(都立図書館) なお、[5]節で「妻恋坂」の写真を掲げるので、上の地図でその位置を説明しておく。「神田明神社」の右上に「妻恋町」が在るのは見つけ易いが、そのすぐ下の赤枠が「妻恋稲荷」(横書き。なお今は「妻恋神社」として健在、『江戸名所図会』には「妻恋大明神社」とある)。その前の道が「ツマコヒサカ」である。この坂名は現在も使われている。 家康の崩御は元和二年(1616)四月十七日、駿府の久能山に葬られた。が、ただちに日光に改葬することになり、一周忌の元和三年四月十七日に日光で改葬祭が行われた。家康の遺言を託されたのは金地院崇伝、南光坊天海、本多正純らで、長命であった天海がその後もっとも力を発揮した。天海は寛永二年(1625)に上野の寛永寺を開いているが、江戸城の北東の鬼門に当たる位置である。「寛永」という年号の使用を勅許されているのも、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣ったものである(延暦四年(785)に後に根本中堂となる一乗止観院ができており、最澄の死後であるが「延暦寺」の寺額を勅賜された。平安京における朝廷と直結した延暦寺の在り方を手本として、天海は江戸においてそれを再現しようと構想していたと考えらる。比叡山に倣って上野の山を「東叡山」と呼ぶことにした。なお、家康の霊は神とみなされ、後水尾天皇が天和三年(1617)に「東照大権現」という神位を贈っている。それを祭る神社が「東照宮」で、江戸時代には大名らによって競うようにして全国各地に東照宮が造られたという(約700社)。 ついでに、徳川家の菩提寺は寛永寺と芝の増上寺であるが、寛永寺に葬られたのは四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の6人。増上寺には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、6人の墓所がある。三代家光は特別で寛永寺を経て日光の輪王寺に葬られた。) 日光は古くからの修験の山で、天平神護二年(766)に勝道上人が「四本龍寺」を建てたとされる。弘仁元年(810)、嵯峨天皇により勅願の寺号「満願寺」の称号を賜っている。弘仁十一年(820)には空海が登山したと伝えられている。さらに、嘉祥元年(848)には円仁が入山している。この辺りの年代で、天台宗の流れが日光に入ったと考えられる(空海は高野山真言宗の祖だが、円仁は比叡山延暦寺で天台宗の最澄に師事している。遣唐使として唐にわたり天台山に詣で、五台山巡礼も果たしている)。 東国の政権である鎌倉幕府は日光山と関係が深く、頼朝は十五町を三昧田として寄進している。 延慶元年(1308)鎌倉七代将軍、維康親王の長子、仁澄大僧正が日光山第二十八世座主に補せられるに及び、日光山の皇族座主の始まりとなる。以後、代々の皇族座主は天台座主に補せられるものものあり、多くは鎌倉に居住し、日光山の執務は御留守居座禅院が扱うことになる。(中川光熹「日光山修験道史」『日光山と関東の修験道』(名著出版1979)所収)日光山における「皇族座主」の先例が鎌倉時代に始まっており、また天台座主を兼ねることもあったという記述は重要。天正十八年(1590)の小田原の戦役の際、日光山は北条氏側に加担し秀吉側と対立したので、戦後に秀吉から領地を没収され、荒廃の時期をむかえる。 慶長十八年(1613)天海大僧正が日光山第五十三世座主に就任するが、勝道以来の伝統をいわば乗っ取った形で、家康=東照大権現を日光山へ遷座し、自分の唱道する「一実神道」によって新たな伝統を作り上げることに成功し、徳川将軍家の後ろ盾によって日光山が大いに繁栄することになる。現在では「天海大僧正を日光山中興の祖」と称している。 文京区は文化的事業に熱心で、しかも、それが形ばかりではなくこころ配りが行き届いている。区内各地に「旧町名案内」という看板を設置し(同一の町内に数ヶ所設置していることもある)、しかも、その情報をまとめた『旧町名保存事業報告』という立派な冊子(125頁)を作成しており、PDFでネット公開している( 1992年 ここ)。 「地図2」に記載されていた「御霊八所大明神」は当初の名前で、現在は明治維新や太平洋戦争での全焼などを経ているのだが、同一場所に「御霊神社」として健在である。わたしは文京区の上記冊子を頼りに、Googleの「ストリート・ビュー」で霊雲寺の門前からたどってこの看板を探し当てることができた。湯島御霊神社の鳥居の北側の道路際にある。(ストリート・ビューでは、次の写真のように鮮明には見られないので、ブログ「歴史を求めて街歩き (ここ)」から戴きました、深謝。右の文章は文京区の冊子『旧町名保存事業報告』(p86)からです)。
上図は文京区が出している文章であるから、盛られている情報はいずれも拠ろがあるとしてよいだろう。まず、そこでいう「輪王寺宮」は三代目の公弁輪王寺宮である(寛永寺住職としては第五世)。公弁の生没年は寛文九年(1669)~正徳六年(1716)であるから、上野の山に公弁の隠殿(公的な住居・寛永寺ではなく、別荘ないし息抜き所となる別邸)があったのだが、寛永寺の墓地を広げるために彼の隠殿の土地を取り上げられてしまった、ということだろう。そのために、代替え地として後に湯島新花町となる広い空地に相応の土地を用意し、そこに新たな隠殿を建造した。ところが公弁輪王寺宮は、隠殿ができて間もなく正徳六年(1716)に亡くなってしまう。四代目以降の輪王寺宮も、寛永寺での公務から離れて通う隠殿が後の湯島新花町の土地では気に入らなかったのか、使い手がおらず「隠殿は廃止され、跡地は菜園となり、大根畑・御花畑と呼ばれた」のである(使い手がいなかったことは確かなのだが、まさにその場所に元禄八~十年に「金座」の鋳造所ができたが、わずか3年で火災のため日本橋へ移った。手前吹を改め全国の金鋳造を一ヶ所に集中したことと火災という経緯に、輪王寺宮の周辺が何か禍々しいものを感じて、忌避したのではないか)。 江戸幕府が編纂した江戸の地誌『御府内備考』(全145巻、文政九年1826~同十二年)がネット上で活字本『大日本地理体系』として公開されている。「本郷 新町屋」は巻34にある。そこに土地の広さなど載っているので、できるだけひらがな書きにして引用する(振り仮名も引用者による)。
上野寛永寺の地所内の「ご隠居屋敷」が「一万七千坪余」の広さであったが、寛永寺が墓地を広げるために「御上り地」とした。その代替地として、本郷新町屋に「一万百弐坪五合」及び王子塚平村に「七千百九拾三坪」を加えて公弁輪王寺宮に差し上げた(「下水とも」云々は分かりません)。宝暦七年(1757)にこの土地に町家を作ってよいことになり、上納地として寛永寺に上納金を収めるのであるが、上野の御隠殿から移された「鎮守御霊、稲荷両社」およびその「別当妙厳院地所」は寺社奉行の管轄なので別扱いとする、ということ(この先の細部は『寺社書上 71』「本郷寺社 書上 全」の冒頭にあるが、省略))。 小論にとって貴重なのは、新町屋となる地所が「一万百弐坪五合」=約3万3000㎡=約183m四方、200m×167m。「鎮守御霊、稲荷両社」が建てられた地所は約575坪で、この部分は町屋とは別で、寺社奉行の扱いになる。 上の引用の少し先に、「大根畠」が明記されている。
つまり『御府内備考』では、「大根畠」という俗称は「御隠殿」の前菜に大根などが作ってあったことから出た言葉であるとして、「岡場所」には触れずに上品に説明付けたのである。 なお現在、根岸の方に「御隠殿跡」があり、そこには台東区教育委員会による案内板がある。その一部
となっており、ここに述べられている隠殿は、文京区の大根畠と呼ばれるようになった場所の隠殿とは時代も場所も異なり、別物である。公弁の後の輪王寺宮のために造られた隠殿なのだろう(この台東区教育委員会による案内板があるのはGoogle-Mapでは「根岸薬師寺」のところで、山手線のわずかに数十メートル外側になる)。 上の文京区「旧町名案内」の中に 元禄8年(1695)、霊雲寺のそばに金座(大判小判の鋳造所)が設けられた。という重大な情報が書かれている。これについては[3]金座で扱う。 【2】 湯島天神 この拙論「大根畠のこと」におけるわたしの基本戦略は、色々な江戸地図を出来るだけ多く参照して、そこに登場している「大根畠」を見つけ出す、ということであった。近頃、多くの公的図書館が所有する貴重文書をデジタル化して公開している。国立国会図書館、東京都立図書館、日文研所蔵地図データベース、ARC所蔵・寄託品 古典籍データベース、早稲田大学図書館などがデジタル公開している江戸地図に片っ端からアクセスして、本郷あたりに「大根畠」が記載されていないかを調べた。 次の[地図3]は延宝四年(1676)出版のもので、江戸市内が詳しくうかがえるものとしては、かなり古い方だ(早稲田大学図書館の「新版江戸大絵図(絵入)」。同版の地図で延宝三年(1675)のものを国会図書館が公開しているが、ちょうど地図をたたんだ時の折り目が「此所大根畠」を横切っているので、採用しなかった。資料としてはそれの方が1年古い)。「しのばすの池」と神田川の間であることは上掲地図と同じ(神田川の橋は、「すじかいはし」と「かりはし」(仮橋か))。神田川の向こう岸(内神田)と比べると、町名や屋敷名がまばらで、江戸前期の郊外という雰囲気がある。 前節で「座標」に使えるといった天沢寺は印刷が悪いので記入しておいた。もう一つの「座標」霊雲寺はまだ創建されていない。不忍池の近くに絵入の「湯島天神」は見つけやすいだろう。「キケンイン」は別当「喜見院」を示す。青丸が「ちゃや」と「ちゃや丁」であり、境内の西側(上側)に太い赤四角で示したのが「 ずっと左の赤四角二つで「神田明神」である。中ほどの赤四角は「妻恋イナリ」である。今の人は日本神話をすっかり忘れてしまっているからピンとこないかもしれないが、これは 湯島聖堂の創建は将軍綱吉のときで、元禄三年(1690)である。霊雲寺の創建は元禄四年(1691)である。当然この地図にはそれらの記載はない。 「此所大根畠」の文字の西側に「木工町」とあり、そのさらに上側の空地辺りが霊雲寺が建てられる土地である。その南側(左側)の空地が後に「湯島新町屋」と呼ばれることになるのだろう(ただし、この地図の道路の記載などは変動があった可能性があるから、おおよその話である)。 [地図3] 延宝四年(1676)「新版江戸大絵図(絵入)」(早稲田大学図書館) 地図の青丸はすべて「ちゃや (茶屋)」ないし「ちゃや丁(茶屋町)」である。湯島天神の境内には神社を囲むようにかなりの数の茶屋があり、茶屋町と称するほどに広がっていたことが分かる。それが発展して料理茶屋で女が色を売るようにもなったのを、隠語めかして「大根畠」と言うようになった、と考えたい。[1]序の最初で紹介したが、『守貞漫稿』に宝暦年間(1751~64)ころ以降のこととして、本郷新町家では「此頃より町家に改る。後は料理茶屋を出し女を抱へ酌に出す。世人大根畠と号す」とあったが、この[地図3]によれば湯島天神境内ではすでに延宝ごろから(宝暦の約80年以前から)「大根畠」という隠語を使った「色茶屋」とでもいうべきものが生まれていたと考えられる。 このことは、「大根畠」という隠語の成長にとっても重大な意味を持つ。[1]序で紹介したように、隠殿の前栽に大根が植わっていたなどにちなんで「大根畠」という町称が生まれたのだというのが、上品めかした説明に過ぎないことが暴露されている。 無声道人(朝倉無声)『岡場所図会』はその冒頭の数頁の美しい筆跡の原稿のみが岩瀬文庫でサンプル公開されている(ここ)。「岡場所」と呼ぶ前は「色茶屋」と称していたという考証の部分を引く。 正徳年代(1711~16)以前江戸に於ける私娼の巣窟を、世に色茶屋と呼びたり。是を岡場所と称するに至りしは享保度(1716~36)の事にして、『雨の落葉』(享保十八年江戸版)に「それ/\に岡遊女にも座敷持」とあるを初見とすべし。蓋し正徳年代以前江戸に於ける私娼の巣窟は表面水茶屋の体裁にて隠し売女を抱置きたりしかば、世人堅気のそれと区別せんが為に色茶屋と呼びしものなるべし。然るに享保度以来俄然勃興し子供屋料理茶屋を初め寄場見盤台屋等に至るまで完備したる遊里を構成して吉原と対抗するの隆盛を極めしかば、色茶屋の名目は不適当なるを以て自ら消滅し岡場所と称するに至りしものといふべし。無声道人は「岡目八目」の「岡」と同じで、本格の吉原に対して「岡場所」と言い出したのだろうという。江戸っ子の洒落っ気が加味されて生まれた語なのであろうという考え方である。 もう一点述べておきたいことは、「色茶屋」ともいうべき「大根畠」が湯島天神境内に生まれる契機としては、不忍池に接し人の集まる湯島天神という絶好の土地であるということは勿論重要なことだったが、宗教施設に参拝した後の精進落としに色町施設で遊んでいくという日本に古くからある慣習が力を発揮したのは間違いないのである。ともかく、延宝の頃(1670年代の頃)湯島天神の境内の南西隅に「此所大根畠」と呼ばれるような場所が存在していたことは確かである(下の『江戸名所図会』の挿絵湯島天神の中では「左手前の横雲が多数描き込まれている辺りの密集した家並の所」である)。 もう一つ指摘しておきたいことは、地図の記載としては「此所」という語がついているのは普通ではないということだ。例えば水田が広がっているのなら単に地図へ「水田」と記載すればよいのであって「此所水田」と記載する必要はない。「竹林」しかり「松林」しかりである。したがって「此所大根畠」とわざわざ念を入れたので「此の所が、例の、大根畠だよ」と言うニュアンスが伝わってくるのである。 [地図4] 元禄十二(1699)「江戸大絵図」(国会図書館) この[地図4]は[地図3]の23年後の発行である。右に不忍池、左に神田川があるのはこれまでと同じ。湯島天神のところは「天神」とのみ書いてあるのが中央の赤四角、下の縦長の赤四角は「キケンヰン」(喜見院)、上の横長の赤四角は「クワンヲン」(観音)。 青丸はいずれも「チャヤ」で、湯島天神境内やその周辺には茶屋が多かったことが分かる。[地図3]のように「大根畠」とは書いていないが、おそらくそれらの「チャヤ」の中には「色茶屋」と称してもおかしくないようなものもあったのだろうと思われる。中央付近の小さめの赤四角は妻恋稲荷で「ツマコヒイナリ」とある。すぐ傍の漢字は「大神宮」。左下の赤四角は神田明神で「カンダ明神」とある。ここにも茶屋が多かったことが分かる。神田川に沿ったところの大きな字は「昌平御殿」だが、ちょうど地図の折れ目に当たっていて、字が歪んでいる。後の「聖堂」である。 春日局の「天沢寺」は分かりやすい。その左下、湯島明神の左上に絵付きの「カクゲン」という施設がある。これが[地図3]には無かった霊雲寺のことである。既に述べたが、開基の「覚厳比丘」を指している。霊雲寺は元禄四年(1691)に綱吉の指示でできた。将軍のお声掛りなので江戸時代を通して権威を持っていた。その左側(南側)は「昌平御殿」まで続くひろい空地だったらしいが、そこに後に本郷新町家ができることになる。この段階ではまだ特別の施設などのない、空地であったと思える。(後に示す大根畠 年表に出ている元禄十六年(1703)発行の「寛永十三年江戸大絵図」には、その空地に「アキチ」と記載している。) 『江戸名所図会』(天保七年1836に完成。作者は斎藤長秋・莞斎・月岑の三代にわたっている。なお月岑は[1]節で『武江年表』の作者として紹介した)の「湯島天神」の挿絵を取上げる。 まず標題「湯島天満宮」の横を読む。
右下の説明文は、「表門」から正面の鳥居(表鳥居、
湯島天神 (江戸名所図会巻三)
A:東叡山 現代のわれわれは「上野の山かあ」と動物園などを思い出すだけだが、『江戸名所図会』の時代には徳川将軍たちの霊が居ます寛永寺であり、江戸の町々を C:戸隠 『江戸名所図会』には次のような興味深い解説が付いている。 湯島神社:土人戸隠明神と称す。本社の後ろの方にあり。すなわちこれは、「湯島天満宮」ができる前から、古く地元の人々によって祀られていた「地主の神」である、ということ。『風土記』には次のようにあるという。 豊島郡湯島神社。雄略天皇の御宇二年八月、官より天手力雄神(あまの たぢからおのかみ)を祀る所なり、云々と。由来は古く「戸隠明神」を信仰する宗教者がこの地に神社を設け、土地の者たちが長年それを祀ってきた。近き世になり湯島天神が新たに設けられ、多くの信者を集めた、ということであろう。本殿の後ろに「戸隠明神」が由来のはっきりしない古い神として信仰が持続しているのである。 E:くわんをん(観音) 地図4に出ていた。観世音信仰は日本では聖徳太子の救世観音信仰に遡るとされ、西国三十三ヶ所巡礼など熱心な信仰が広まった。関東には「坂東三十三観音」などある。湯島天神にも熱心な観音信仰家がよりどころとなる石像なり祠なりを造ったのであろう。観音信仰は仏寺の信仰だが、明治初めの「神仏分離」以前は、神仏が混交して信仰されていた。F:いなり、I:ぢぞう なども類似の信仰形態である。 J:坂(女坂) K:坂(男坂) 上の図では小さくて分かりにくいが、女坂が湯島天神の台地に登り詰めるのは北の方角からである。つまり不忍の池を背にして登ってくる。それに対して男坂は東側からまっすぐ登ってくる。つまり、女坂と男坂は方角が90度食い違って登り詰める。 男坂・女坂の向きについては、よく知られている広重「湯しま天神 坂上眺望」が、卓抜でしかも正確な空間表現を見せている(「名所江戸百景」(安政二年1856)、Honolulu美術館、「浮世絵検索」サイトからいただきました。深謝)。
N:別当 いくつも紹介している「江戸地図」の解説で何度も述べた「喜見院」のこと。湯島天神は庶民に大人気であった富くじの代表格「江戸の三富」の一つ(他は谷中感応寺と目黒不動)であったので、その管理者たる別当はたいそうな権威を持っていた。喜見院の寺域も広かったと言われるが、明治維新の神仏分離で廃寺となった。 L:茶屋 男坂のところに茶屋が記してあるが、上で説明したように、表門の参道の両側に多数の茶屋が並んでいた(既述のように、上図には描かれていない)。その門前町はよく知られた岡場所となっており、「陰間茶屋」で有名だった([地図5]のところで、再び触れる)。[地図3]にあった「此辺大根畠」は表鳥居に向かって左方であるから、上図では左手前の横雲が多数描き込まれているあたりの、密集した家並のところだろう。ただし、『江戸名所図会』の時代とは160年も隔たっているので、「大根畠」の岡場所と直接結びつけるのは難しかろう。 O: P:芝居 神社や寺院の境内で行われる芝居を「 村の祭礼の際に村芝居が掛かることに深い歴史的由来があるように、神仏と出会うという非日常の場所である寺社に「芝居」が存在していることは、たんなる娯楽施設ということを超えた必然性があったのである。 【3】 金座 「大根畠」の由来を調べていてなぜ「金座」に行き当たったか、それは自分でもまったく予想もしていなかったことだが、 「顎十郎捕物帳」の第7話『 江戸金座は元禄のころまでは、手前吹き、つまり 久生十蘭は各種文献をよく調べている人で、歴史的に有名な「元禄の改鋳」の際に、元禄八年「本郷霊雲寺わきの大根畑」に小判の「吹所」を新につくったと述べている。この吹所はわずか3年足らずで火災のため、事務部門のある日本橋本町一丁目(今の日本銀行のところ。それと隣接して鋳造所を設置したのでそこが「金吹町」という町名になる)へ移った。 顎十郎は北町奉行所の「ひょろ松」を連れて日本橋の金座を視察に出かける。そこで、金座の工房で行われている作業を詳しく述べている。 東京市役所『徳川時代の金座』(昭和6年1931)は発行が執筆年代と近いので久生十蘭が参照している可能性がありそうだと考えて調べてみた(国会図書館デジタル公開)。その「第二篇 第一章 金座の所在地」(p120~)に色々と述べられている。 元禄八年貨幣改鋳に際し、従来の手前吹き制度に弊害ありといふ理由で、本町一丁目後藤官宅の外、初めて別に本郷霊雲寺の付近大根圃(本郷新花町)に貨幣鋳造の工場を新築した。此の時以来金座の名称が広く呼ばれるに至った。その後屡々祝融の災(火事)に遭ひ、元禄十年焼失後、更に事務所と工業所とを右のように隔離して置くは不便不取締りであるといふので、同十一年正月、吹所を再び本町一丁目後藤邸内に新築し、爾来慶応二年(1866)十月九日の火災に至るまでに前後十三回の火災に罹ったが(火災の年月記載を省略)、常に同一場所へ再建して継続した。(p120~121)火を使うとはいえ吹き所がなぜこのように頻繁な火災に見舞われたかについて、同書は不正行為を隠滅する意図があったらしいと述べている。 なほ金座が、元禄以降のみにても前後十数回、長きは八十年を隔てるが、短きは連年、火災に会ったのは、当時の防火設備の不完全であったは勿論、座人がその不正を覆はんとして、記録其他の証拠品の消失を悦んだのも亦その一原因であるといはれて居る。(p121)ともかく、「本郷霊雲寺の付近大根圃(本郷新花町)」という『徳川時代の金座』の記述を信ずれば、元禄八年(1695)には、その付近を通称「大根畠」と言っていたと考えられる。だが、まことに残念なことに、貨幣史関係の文献には、元禄八年ごろに本郷の霊雲寺の近くを大根畠と呼んでいたことを示す原資料が示されていない。 日本銀行関係の現代の研究者の論文にも、次のように出ている。 元禄8(1695)年、慶長金が元禄金に改鋳されるにあたって新たに本郷霊雲寺近くの大根畑に吹所(鋳造所)が設立され、江戸、京都、佐渡に分かれていた原判金の鋳造を始め、後藤の屋敷(後藤役所)で行われていた検定・極印打ちの作業は本郷で一貫して行われることとなった。(大貫摩里「江戸時代の貨幣造幣機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割」1999)あたかも元禄八年に霊雲寺の近くに大根畑とよばれる場所があったのは常識であるかのような書きっぷりである。貨幣史の文献で国会図書館で読むことができるものを色々と探してみたが、吉田賢輔『大日本貨幣史』(大蔵省 明治9~16年)の第5巻には元禄八年に貨幣「改造す」とあり詳細な記述がなされているのだが、その改鋳作業した場所には触れていない。鈴木俊三郎『金座考』(ペン書き写真版漢字カナ書き句読点なし、全17巻、明治36年1903)(活字本は大正12年、塚本豊次郎編『日本貨幣史』に納められている。いずれも国会図書館でダウンロード可能)のポイントとなる個所は次のようになっていた。 元禄八年(西暦千六百九十五年)貨幣改鋳の時に当り、始めて本郷霊雲寺の側、旧大根畑と称する地(後 新花町と云ふ)を卜し、改鋳の局を設く。わたしはここを読んで「この鈴木俊三郎はオリジナルだな」と感じた。「本郷霊雲寺の ところで、わたしが目下見つけている資料で、後の本郷新花町付近を「大根畠」と通称している最も古いものは、『江戸 慶長金銀吹かへ、本郷大根畑に二町四方に金座を建てる。是を元禄金といふ。始て金の位これによって、宝暦の頃(1760頃)に「本郷大根畑」という言い方があったことは確かである。だが、この筆者はこの金銀吹替で「始て金の位、悪敷なる」と述べており、かなり貨幣のことに詳しいようだ。上の「慶長金銀吹かへ、本郷大根畑に二町四方に金座を建てる」という指摘はそのまま受け止めてよいだろう。少なくとも、宝暦の頃に本郷に大根畑と呼ばれる場所があったことは確かなことと考えたい。湯島天神社の境内の西側に「大根畠」があったのは延宝四年(1676)の[地図3]で確かめた。それから約20年ほど経て、本郷に金吹所があったのは元禄八年~同十年(1695~97)で、同十年に火事に遭って日本橋へ移ったのは同十一年(1698)正月からである。この議論の続きは「大根畠 年表」のところで行う。 「二町四方」を二町×二町と考えれば、約218m四方(長さ1町は約109m)。[1]序の末尾で『御府内備考』を引いて、公弁輪王寺宮が代替地として「一万百弐坪五合」を新町屋にもらった事を記したが、この代替地を同じメートルの正方形に換算すると約183m四方となる。『江戸真砂六十帖』は大きめの見積もりだが、概算では許せる表現だろう。同時代の人が「二町四方」と金吹所の規模を示しているのが貴重である。 次図[地図5]は早稲田大学図書館の「江戸図正大全」であるが、惜しいことに板行の年次が入っておらず「元禄 春改之」と空欄になっている。しかし、この地図には、「カクケンヒク」(霊雲寺)の南側(左側)に広い面積を取って「金吹コヤ」とある。これは「金吹小屋」の意味で「金吹所」である。現在の地図上で霊雲寺の南の町ブロックを見積もるとほぼ180×170m程度である。 この地図は元禄年間の出版であることは確かであるが、上述のように元禄八~十年のいずれであるか決められない。しかし、わずか三年足らずの期間しか存在しなかった大根畑の金吹き所を記載している江戸地図に出合ったのには、まったく驚いた(元禄九年版を国会図書館が持っているが残念ながら非公開である)。 湯島天神のところの赤四角の文字を読んでおくが、「ユシマ天神」、「キケンイン」(喜見院)、「天神マエ丁」。ここには天神前町という門前町が出来ていることを示している。また、こういうところには「色茶屋」めいたものが当然含まれていたと考えられることは既述の通り。しかも、湯島には「陰間茶屋」が多かったことで知られているが、喜見院の支配下の僧侶たちが湯島天神の門前町の陰間茶屋に集まったという。 売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着した。江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある。 (ウィキペディア「陰間茶屋」)同じくウィキペディア「陰間茶屋」の注に陰間茶屋の軒数が多い順に挙げてある。江戸で一番多かったのは「芳町-13軒」(現 日本橋人形町ふきん)、次が堺町・葺屋町(同前)、その次が「湯島天神門前町 - 10軒」と第3位であったという。(蛇足だが、僧侶の女犯は仏教理論上の罪であるが、衆道は問題にならなかった。) [地図5] 元禄年間(1688~1704)「江戸図正大全」(早稲田大学図書館) 上の地図には「黒点」を打って広く埋めている個所がかなりある。「金吹コヤ」の南側、その先の神田川まで。神田川の下流側に聖堂の先、同様な黒点を打った広い場所がある。よく見ると、神田川の両岸の土手の地帯に黒点が打ってある。わたしは「町屋」などになっていない荒地ないし草地を意味しているのではないかと考えている。 次の地図は素性が分からないので困っているのだが、霊雲寺の西・麟祥院の南に「御金吹所」とあるので取上げておく。この地図は例によって不忍池から神田川の間を示しており、右が北である。赤四角で囲った文字を念のために読んでおくと、「湯島天神」、「喜見院」、「霊雲寺」、「神田明神」である。なお霊雲寺のあたりの空地にいくつも書き込んである文字は「会所」で、役所の管理地の意味である。 「地図5」では霊雲寺の南側(左側)の空地に「金吹コヤ」と記してあったが、この「地図6」では、近くだがそれとは別のブロックに「御金吹所」とあり明らかに異なった作図であるが、「地図5」と同時期であろう(元禄年間(1688~1704))。しかも「御金吹所」がやや黄色の色分けになっているのが分かるであろうが、これは地図末に「凡例」のような説明があり「御用屋舗地」の色であり、公的な施設である。この「地図6」では「御金吹所」から神田川方向へ最短路を進んだ先に川べりに同色の土地があるが、そこには「火消御役屋舗」とあり、たしかに公的施設である。この「地図6」は由来(年代、作者、出版元など)が分からないので判断を下せないのだが、丁寧な作りで精確な地図になっている。本郷の地に3年足らずの短期間だけ存在したという金吹所について今後何かが新たに判明するかもしれないので、疑問をつけて保留しておく。 [地図6] 「江戸絵図」(国会図書館)(作成年代不詳 二葉目の表紙に「関八州川筋絵図」とあるが不明。) もうひとつ、金吹所に関連する話題を取り上げておく。「元禄の大火」と呼ばれるものは三回あった。(1)元禄十年(1697)十月十七日、大塚の善心寺が火元。(2)同十一年、京橋が火元で千住まで焼く。できたばかりの寛永寺根本中堂が焼失(勅額火事)。(3)同十六年、小石川の水戸藩邸が火元。 せっかく作った金吹所が元禄十年には焼けてしまい、同十一年正月には日本橋の金吹町で小判造りの作業を開始したという。元禄大火の第一回目は元禄十年十月十七日であるから、時間的にはこの大火で焼けた可能性があると考えて、次図を作ってみた(ただし、この火事の時点で、本郷に「大根畑」があったかどうかは不明)。江戸大火の史料は「東京大学史料編纂所>東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第4 446頁~461頁:元禄10年火災」(ここ)で、今回初めてこういう便利な公開手法でネット上に出ていることを知った。本当は元禄十年当時の江戸地図が使えれば良いのだが、適当なものが見つからず75年ほども後の地図を用いた。赤字が「東京市史稿」に被害に遭ったとして挙げてある町名などを、地図上に見つけることができた限りで、表記したものである。善心寺が火元で南東方向へ火事が広がったらしい。下図では代官町までしか記入していないが、更に燃え広がったようである。ただ、本稿で重要な「本郷(大根畑)の金吹所」がこの大火で焼けたかどうかについては、重要な情報がある。上の「東京市史稿>No.2>変災編が示す「元禄録」の引用の中に、 立慶橋川端橋より東へは火移らずとある。下図の立慶橋には「リウケイハシ」とカナ書きしてあり、江戸川が神田川に合流する近くである(川端橋は不明だが、おそらく立慶橋のすぐ南側の神田川との合流地点の「ドン/\橋」のことであろう。この橋は現在はJR中央線の飯田橋駅前の「船河原橋」として健在である)。この辺りより東(下方)へは火が燃え移らなかったということであろう。「金吹コヤ」はそこから神田川のかなり下流(下図の「大根畑」)、南へ(左へ)火勢が移動した元禄十年の大火は金吹所へは及ばなかったようだ。が、おそらくその前後の時期に別の出火によって金吹所は焼けて日本橋へ移ることなったのであろう。 [地図7] 明和九年(1772)「分間江戸大絵図」(国会図書館)但し赤字は元禄十年(1697)の大火の地域 【4】 大根畑 [2]湯島天神の[地図3]は、延宝四年(1676)「新版江戸大絵図 絵入」(早稲田大学図書館)であった。江戸時代前期、元禄以前の地図である。霊雲寺はまだ創建されていないし、後に「上野御下屋敷」となり「本郷新町家」になるあたりは、何も記入のない空白地帯である。だが、それにもかかわらず湯島天神の境内の西側には「 湯島天神は、社伝では雄略天皇を引いているようだが([2]湯島天神で、『江戸名所図会』に「戸隠明神」という「地主」神があることを示した)、太田道灌が再建したという文明十年(1478)辺りから確かなものになる。徳川家康の江戸入城(天正十八年1590)の後、将軍家から重く扱われ、江戸庶民の信仰を集めた。既述のように、古くから日本人にとっては寺社信仰と行楽遊興は表裏一体のものであり、[地図3]によって江戸庶民に人気のあった湯島天神境内に、江戸時代初期から大根畠と称される「岡場所」めいたものが生まれていたことが確認できるのは自然な成り行きであるし、またこの「此所大根畠」は貴重な証言なのである。 三浦浄心『慶長見聞録』巻十に「湯島天神ご繁昌の事」という節がある。江戸初期の雰囲気を知るために引用しておく。浄心の生年は永禄八年(1565)。 見しは昔、湯島天神の御社荒れ果て、社檀はなお、国会図書館は芳賀矢一校訂『慶長見聞集』をも公開しているが、それの解説や内容は『雑史集』所収のものとやや相違しているところがある。 「 ただし、江戸は大火とよばれる火事だけで49回を数えるといい、京都が9回、大阪が6回、金沢が3回であり「比較して江戸の多さが突出しているといえる」(ウィキペディア「江戸の火事」)。つまり明暦の大火だけを強調して江戸の都市計画に大きな影響を与えたというのは妥当ではない。この点に関して下で再論する。 「明暦の大火」のおびただしい犠牲者や膨大な災害に対して、復興計画をたてる前に正確な江戸地図の必要性が認識され、実測による江戸地図の作成が計画された。江戸初期の湯島天神の様子をうかがえる『慶長見聞集』を紹介したのにあわせ、湯島天神やその周辺が正確に描かれている「新板江戸外絵図」を紹介する。 [地図8]は寛文十~十三年(1670~73)に実測をもとに作成された精確な江戸地図の1枚(の部分図)で、画期的なものである。この実測図は全部で5枚からなり、「寛文五枚図」と呼ばれている。江戸城の外堀に囲まれた内側( (ついでながら、伊能忠敬が測量した19世紀初頭の日本付近の「地磁気偏角」に関する論文がネット上にいくつか公開されていることを知った。野上道男2022ここ(PDF)の「図2」など。その時期の地磁気偏角はたまたま約0度だった(-1.0~+1.5度)という。 国土地理院が公表している2015年地磁気図の偏角と、長岡半太郎(1890)による図1と本論説の図2(伊能忠敬の測量データをもとにした図)を比較して見ると、日本付近の偏角は200年程度の時間経過でも大きく変化していることがわかる。伊能忠敬の測量が本格的に始まったのが寛政十二年(1800)からで、「大日本沿海輿地全図」の作成は最晩年まで努力したらしい。没年は文化十五年(1818)。「伊能忠敬と伊能測量関連年譜(渡辺 一郎 編)」ここが参考になる。たまたま日本列島付近の地磁気偏角が±1.5度に収まるような時期であったので、「伊能は広域にわたり偏角がゼロであると信じていた」(同前野上道男p48)ので伊能地図に記録されている「北」と現在の地図の「北」との差は、伊能が測量した時の地磁気偏角に他ならない。そのことを利用して、伊能の地図から伊能の時代の「地磁気偏角」を知る研究が行われているのである。) [地図8] 寛文十三年(1673)「新板江戸外絵図」(都立図書館) [地図8]も、これまで掲げた地図と合わせて右を北にしている。不忍池から神田川までを示しているが、湯島天神と妻恋明神と神田明神を記入しておいた(妻恋明神のところは詳しくは「妻コヒイナリ大神宮」とある)。湯島天神と神田明神の周囲の赤丸はいずれも「ちゃや」である。参詣人の多い人気の神田明神や湯島天神に「ちゃや」が集中していることがわかる。上図は実測に基づいた湯島天神や神田明神付近の地図であることを考えると「ちゃや」も実測して記載しているわけで、感慨が湧く。 次の[地図9]は延享五年(1748)の地図で、湯島天神の境内に「此所大根畠」と記載があった[地図3]の70年余り後に、「上野御用地」の西側の「ケンスケ丁」(金介町と同じか)の上野御用地と反対側の境界に沿った位置に「大コハタケ」と記されている(大根をダイコと口語風に訛ったもの。親しみを感じる)。この70年余りの間隔を開けて記されている地図を見つけたのは、わたしにとっては重要な発見であった。その70年余の間の地図をかなり丹念に調べているのであるが、「大根畠」の載った地図は未発見である。 大事な点は、「ケンスケ丁」の西側(上側)の道に沿った辺りに「大コハタケ」と称する地域があって、地図に記載されるほどの存在になっていたのである。[地図3]では湯島天神境内の西側のところに「大根畠」があったが、この様な色町とも岡場所ともいえるような場所が、湯島天神-妻恋稲荷-神田明神の周辺地に生まれていたのは確かで、その場所は何十年の間には移動があったと言える。この付近の庶民たちは「大根畠」を岡場所を含意する語として記憶していたのである。 [地図9] 延享五年(1748)「分間延享江戸大絵図」(国会図書館) 赤四角でマークした個所を読んでおく。天沢寺と霊雲寺(㚑雲寺)は「座標」という語をつかって何度も説明した。不忍池のそばの「ユシマ天シン」(湯島天神)とその別当の「キケンイン」(喜見院)は明らかであろう。「チャヤ」とあるのは門前町の辺りである。ここは「陰間茶屋」で知られていたことなど[地図5]で説明した。わたしが見出している「上野御用地」という語が記された最初の例。これ以前には「日光御門跡」などの語が使われていた(下の大根畠 年表を参照)。 次の[地図10]は上図より15年後の宝暦十三年(1763)である。上野御用地の西側の「金スケ丁」(金介丁、金助町)の上野御用地側に接して「此ヘン大コンハタケ」とある。[地図9]とあわせ考えてみると、延享~寛延~宝暦(1744~1764)にかけて、金介丁に「大根畑」と俗称される岡場所があったと考えられる。また、「大コハタケ」の記載位置と「此ノヘン大コンハタケ」の記載位置が違っていること、また「此の辺」というぼかした書き方になっていることなどを考えると、金介町のなかでも岡場所的な茶店の位置が固定化されずにあちこち動いていたことが想像される(ついでながら、[3]金座の冒頭で紹介した久生十蘭『顎十郎捕物帳』の主人公・顎十郎がときに小遣いをたかりに行く伯父さんの住処が、本郷の金助町である)。 しかも、[1]序 の終わりのところ「旧町名案内」の看板の情報として、宝暦七年(1757)になって「町屋が開かれた」ということを述べた。つまり、このとき正式に「上野御領地」内に町屋を建てることが許されたのである。[地図10]は、それから既に6年経過しているのであるから、「上野御用地」の中にはかなり「町屋」が建っていたとして良いだろう。その中には茶屋も混じっていたことであろう。[地図9]では金介丁の上野御用地と一番遠い側に「大コハタケ」が出来ていたが、[地図10]では上野御用地側に張り付いた形で「此ヘン大コンハタケ」となっている。「此ヘン」というぼかした表現は、すでにいくらか上野御用地内にも大根畠が侵入してますよ、と言いたげである。 [地図10] 宝暦十三年(1763)「分間江戸大絵図」(国会図書館) 上図の赤四角の地名などを読んでおく。「天沢寺」と「レイウンジ」(霊雲寺)は度々出てきている。「レイウンジ」の南側(左側)が「上野御用地」である。「ユシマ天神」と「キケンイン」(喜見院)はすでにおなじみであろう。「ツマコイイナリ」は妻恋稲荷、その南に「神田大明神」と「聖堂」。(日文研に「明和江戸図」がありここ、「内容年代 1771」としている。その地図は多色で見かけは異なっているが、地図そのものは[地図10]と同板である) そして、叙述順は逆になるのだが、上の[地図10]より7年後の明和七年(1770)が[地図1]なのであった。すなわち「上野御下屋鋪」の内側に東側道路に沿って「大根ハタケ」と呼ばれる岡場所が出来ていた、ということになるのである(次に[地図1]を再掲します)。この地図が「上野下屋舗」と掲げつつ、その東側のへりに「大根ハタケ」が存在していることを表しているのは、[1]序 の末で「旧町名案内」を示して述べたように、宝暦7年(1757)になって町屋が開かれて、それからすでに13年を経過しているのであったからと考えることができる。 [地図1] 明和七年(1770)「本郷谷中小石川丸山絵図」(都立図書館) [地図1]の二年後の明和九年(1772)の分間江戸大絵図が、次の[地図11]である。ここで初めて上野御領地の全体に「大根畠」と名付けた地図が登場する。しかも「上納地」であると言っている(実はこの[地図11]は[地図7]と同一の地図である。[地図7]を部分拡大して[地図11]としている)。 この地図のメインは、言うまでもなく「上野御領地 大根畠ト云 上納地」である。この土地は上野寛永寺の「御領地」であるが、そこを借地として町人が使っていますということを表している(「上納地」というのは「上納金を納めて使用を認めてもらっている公の土地」の意)。注目されるのは「上野御領地 大根畠ト云 上納地」というこの言い方は、「大根畠」が単なる俗称や隠語ではなく、上納地の正式名称のように使われていることである。 つまり、「ケンスケ丁」や「金スケ丁」の一部に「大根畠」と俗称される岡場所ができていたが、広い空地になっていた「上野御用地」の中に町屋が建ち並び、「大根畠」が侵入して来た。そのうちに、その上納地全体を大根畠と云うようになった。 「上野御領地」は、徳川家の菩提寺たる上野寛永寺の領地であるから寺社奉行の管轄する土地であるが、そこを「町屋」として使ってよいという許可が宝暦七年(1757)に下り、上納金の取り決めなどがなされて、この土地は「大根畠ト云 上納地」と地図に書かれるまでになったのである。 [地図11] 明和九年(1772)「分間江戸大絵図」(国会図書館) この[地図11]の時代以降は、「上野御領地」は序々に町屋で埋まっていき、やがて「新町屋」という町名がつくことになる。つまり時間の経過とともにその場所を、例の岡場所の「大根畠」と、広く江戸庶民の口に上るのが普通になったのであろう。逆にこの時代以前には、「大根畠」と呼ばれれていた岡場所は、湯島天神の境内であったり(地図3)、金介町であったり(地図10)と、あちこち浮動的だった。 元禄八~十年(1695~97)の3年間だけ「金吹所」となった後、広大な空き地となっていた「上野御領地」が、宝暦七年(1757)に町屋に解放された(解放といっても所有は「上野御領地」のままで、「町屋」としての使用を許すという「上納地」となった)。この事実の背景には、江戸の町がいわゆる「大江戸」として発展を続けていて、土地不足の現象が生じていたという一般状況と無関係ではない。この都市変貌は「江戸のスプロール」と言われたりする。 幕府開設以降、江戸は一大名としての城下町から、幕藩体制の政治中枢として巨大都市化する。それは建設当初には幕府も想定できなかったような規模とスピードで進行し、17世紀もなかばをすぎるころには、火災その他、都市災害の発生によって大改造を迫られるようになる。----明暦の大火(明暦三年1657)がその一大契機となった。明暦の大火の大災害から立ち直ることが契機となって、その後の「都市改造」が新たな江戸を作り上げたということが、「振袖火事」の伝説ともあいまってなかば定説化していた。それに疑問を投げかけたのが、岩本馨『明暦の大火』(吉川弘文館2021)である。実証的に資料を読み直して、明暦の大火以前から江戸の町の「スプロール」は始まっており、この大火は一つの有力な契機となったと考えるべきだとしている。 いずれにせよ、われわれの「日光御門跡下屋敷」が町屋へと変貌し「大根畠という上納地」となったのは偶然のことではなく、「江戸」が「大江戸」となり巨大都市に育っていく必然的な過程の一コマなのであった。 平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」(1997、ここ、PDF)によると、「大根畑」と呼ばれてきた岡場所は、「上野御門跡」の土地であることから岡場所取り締まりの際に土地を取り上げられないという甘い扱いを受けていたという。 松平定信の「寛政の改革」(天明七年1787~)の直前の岡場所最盛期に、取締りが緩やかであったという文脈で次のように「大根畑」が出ている。 本来、岡場所が摘発された場合、遊女商売を行っていた者はもちろん、家主・五人組まで罪科を問われ、建家地面は取上げとなるのであるが、大根畑の名で知られていた岡場所である本郷新町家は、明和九年(1772)と安永七年(1778)に淫売女を置いていたことが露顕した際、「上野御本坊納戸入之場所」であることを理由に、いずれの時も、遊女商売を行っていた町人のみ処罰を受け、建家地面は取上げないという採決が下されている。また、明和七年(1770)の浅草万福寺門前の「上納地」の例で、淫売女が摘発されたが請負人の交代のみで地主はお咎めなしとなったという。 この様な処置は、岡場所の統制を緩和することにより、上納地などによる経済的効果を利用しようという幕府の意図の表れではないだろうか。上野御門跡の上納地のような権威とつながっている土地では、幕府の経済政策が重視され経済的に発展している時代にはさまざまな優遇処置が採られていたことが分かる。しかし、松平定信が老中に就任したのちの天明八年(1788)になると、「一転して土地建家とも取上げときめられた」。 その理由は、上野寛永寺領は、建家地面を取上げないので淫売女を置くことを止めず、取締りが緩やかであるため、淫売女を置く不埒者が以前より多くなっているからであるという。芝神明の門前町も同じ扱いとなり、市ヶ谷八幡なども同様な事情で岡場所としての長年の歴史が終わりになる。恐らく「大根畠」も同様に岡場所としては終わりになり、名前の評判だけが残ったのであろう。 つぎの「年表」は、「大根畠」と記載されている江戸地図をできるだけ探し出して、年代順に並べたものである。「大根畠」が記載されている地図を見つけてそれを示すことを主眼にしているので、それ以外は後に「新町家」と呼ばれるようになる土地に何と記載されていたかをいくつか取上げているだけである。[2]湯島天神で既に述べたが、元禄十六年(1703)に「アキチ」(空地)と記載されていたのは珍しいし、参考になるので取上げておいた。それ以前は無記入ばかりだった。以後わたしが見出したのでは正徳二年(1712)の「分間江戸大絵図」に「日光御門跡」と記入されたのが最初例である(なお、同年の「分道江戸大絵図[乾]」には「此所屋鋪」とある)。 この年表を眺めていると、湯島・本郷あたりで隠語めいて「大根畠」と言われていたのにも、つぎの3段階があるようだ。
そのあとは幕末まで、「日光御門跡」、「上野御用地」、「上野御下屋鋪」などと様々に記入されるようになる。 明和九年(1772)に「上野御領地 大根畠ト云 上納地」と記載された「分間江戸大絵図」が幕末近い弘化年代(1840年代)まで続く。この第3段階の70年ほどの間、定評のあった地図「分間江戸大絵図」(金丸彦五郎影直 図、須原屋茂兵衛 出版)が「上野御領地 大根畠ト云 上納地」と記載し続けたことは、世評に影響を与えたと思われる。「大根畠」という遊里を暗示する語が湯島の新町屋と結びついて、江戸の皆に記憶されることになったのである。
「上野御領地」が「上納地」となり、そこが「大根畠」と広く呼ばれるようになったのは、言うまでもなく岡場所として知られていたからである。だが、いったいそこはどのような岡場所であったのか、簡単な評判記のようなものを調べてみる。 まず初めは、『契国策』(作者不詳 安永五年1776)の冒頭に掲げられている「遊里方角図」である。江戸の遊里を方角で分類して一枚の図に表示したものである。ここには全部で62か所が挙がっているから、「大根畠」は江戸の岡場所60余ほどの内には数えられるものであったことになる。
湯島天神の門前町の女郎屋に入っていくのは、こんな具合(読みやすく漢字を宛てている)。 程なく女郎屋の店へ、どろどろと上がるをみると、内より女郎かけ出で、「三さん、介さん来たか。よく来たな。おらが野郎はなぜつれて来ぬ。エゝ好かないぞ」とは慇懃なる挨拶と、聴くに興を催しける。「湯島天神」の門前町には「男色」の店があり、その先の大根畠を「色の種を植えたる畠」と表現しているのである。 「切見世」(原文は「切みせ」)は最下級の女郎屋のことで、1軒が間口4尺~1間、奥行3間以下の箱のような狭い店(見世)がつながって長屋式に造られていた。その一つの見世に女郎が一人おり、抱主が数軒を管理したという。「切り」というのは「時間切り」の意味で、「ひと切り百文」が相場だったという。(古今亭志ん生の落語「お直し」はケコロが舞台になっているが、「切見世」がよく分かる。You Tubeのここ) 『 「九蓮品定」の「九蓮」は、極楽往生する行先の「蓮の 一 この書は、東は霊岸島、深川、本所に限り、西は赤坂、内藤宿に限り、南は芝三田、麻布、品川にかぎり、北は本郷、音羽、板橋、千住にかぎり、すべて御面白く感じるのは岡場所を「極楽浄土」になぞらえているところだ。「悪所」などということもあるが、遊びに行く男にとっては「極楽」だろう。上で紹介した「遊里方角図」で少し方角がおかしいと言っていたが、きちんとなって、本郷や音羽が「北」になっている。最後にもうひとつ、色町の女を「白拍子のすへ」、「遊女のすへ」の二種に分けている。実は『婦美車紫鹿子』の最初の章は「遊婦の譜ならびに 故に今の遊女のはじまりは、旅駅の招女をもって根元とす。しこふして遊女に白拍子のすへ、元暦の平家の流れのおじゃれ二類ありとまとめている。「元暦の平家の流れのおじゃれ」をここでは簡単に「平家」と記している。白拍子の始まりは男舞が有名だが、要するに舞や唄の芸事を売り物とする芸妓(遊婦)を「白拍子」と称し、 実例として、まず最初に出てくる「上品上生」の部の「新吉原」を紹介する(# は注)。
この様な情報量で、70ヶ所も岡場所が列挙されているのであるが、そのうちで「大根畠」は二度出てくる。少し異なるものが二度紹介されているのかどうか、よく分からない。大根畠の全体は広いので、すこし異なる評価を受ける場所があった、ということではないか。まず一つ目は、「中品中生」に出ている。
もう一回「大根畠」が出てくるのは、「下品上生」で「本郷 大根畠千坪」という名称のところ。
江戸の岡場所について書かれた各種の文書を見定めて、要領よくまとめてくれているのが石橋真国『かくれざと』である(真国の没年は安政二年1855、国会図書館がデジタル公開している『近世文芸叢書 第十』所収)。「天保中に廃せられし地(岡場所)」を「上巻」とし、「寛政間に廃せられし地」を「下巻」としたと巻頭の「凡例」に書いている。それぞれ天保の改革、寛政の改革で廃止させられた遊里を指している。大根畠は下巻に出てくる。 そのうち『楼妓遷』(年号知らず、大根畠細見)からの一部引用を示しておく。例によって読みやすさを重視しての引用である。難解語がいくつもあるがそれは軽く注を付けるだけにして、「千坪」が3度出ていることを強調しておく。 ここに聖天の霊地あり。広さ千坪四六呼出し、皆それぞれに賑ひて、茶屋の提灯絶間なし。是通しの客は廻りの拍子木に時を計り、色客の小座敷は寺の半鐘に夜明るを悲しみ、千坪の長屋は鉄棒の音暇なく、四六見世は巻舌にてふせぎもあぐみ、雨降れば横根坂ぐちゃ/\として見へ、客転ばん事を恐れ、駕賃おのづから高し。風吹けば見盤の線香は役たゝん事を思ひ、芸者を呼ぶ事さらに稀なり。五十嫂のそゝりはだんのうを唄って帰り、二朱見世の客は長唄を歌ってゆがみ、帰る頬冠あり行く頭巾あり、駕舁ヤッサ コラサの汗をだし、さめわり町に杖を止め、酒一杯にならん事を願ふ。けんとん屋は千坪の泊りにかつぎも草臥、きつぢ屋ものは南鐐一分の光を分ち、ふらるゝ客は天井板を友となし、しっぽり客は芸者を嫌ふ。「大根畠・広さ千坪」というイメージが江戸庶民たちの間には共有されていたように思える。[1]序 で取り上げたが、本郷新町屋の面積が全体で「1万102坪余」であった。従って、「大根畠千坪」はその1割弱に相当することになる。本郷新町屋の一割ほどの面積を占める岡場所「大根畠」を、岡場所に通う庶民たちは「大根畠千坪」と言いならわしたのではないか。寺社の前や橋のたもとなどに自然発生的に生まれた岡場所が不定型な形態だったのに対して、ある程度広さを感じさせたか。
「男芸者」は二人一組なので「十組二十人」となり、「女芸者」は一人ずつなのであろうか。こういう世界に詳しい人は、もっと多くの情報を引き出してこられるのだと思う。 石橋真国『かくれざと』は、友人石塚豊芥子がその草稿を読んで随所に詳細な注を挿入してくれている。「大根畠」に対する注は次のように、たいへん興味深い。 [豊芥子 曰]天明七丁未年(1787)七月、此所の売女町御奉行石川土佐守殿に召し捕はる云々。かなり本格的な大根・もやしなどの野菜作りが行われていたのは本当なのであろう。ただ、こういう説明だけにとどまると、なぜ、「上野御領地大根畠」と地図にまで書かれるようになる時点の、百年ほども前に湯島天神境内でも「此所大根畠」と言っていたのかのうまい説明がつかない。また金助町など周辺のあちこちでも「大根畠」が岡場所の隠語めいて使われていたのであった。
【5】 本郷新町屋 わたしは 他に「江戸絵図」(鍬形紹真 早稲田大学図書館)、「大江戸鳥瞰図」(鍬形蕙林(蕙斎の孫)、都立図書館)などがある。しかし、蕙斎による最大の力作は六曲 本郷は武蔵野台地の海寄りの外れの位置にあり、東京湾が間近なところだ。埋め立てがさして進んでいなかった江戸時代初期にはまことに海が近かった。本郷は台地の末端なので坂が多い。前節で一部引用した石橋万国『かくれざと』の大根畠の描写の中にも坂が登場し、「 いかにもあちこちに急坂があったり石段があったりしそうなことが分かるだろう。図中にさりげなく目立たないように記入してある地名を探し出すのも楽しみなものであるが、小論がこれまで扱ってきた地名を赤四角で選び出してみた。 江戸鳥瞰図部分 鍬形蕙斎(江戸東京研究センター・法政大学)
上で示した鍬形蕙斎の「江戸鳥瞰図」は「江戸東京研究センター(法政大学)」が公開しているものであった。そのサイトには「所蔵資料」という場所があって、わたしが名前だけ聞いていて自由にダウンロードできることを知らなかった資料がいくつも並んでいる。ここで特に取り上げたいのは、「新撰東京名所図会」の全巻(第1~64編)である。 その第48編(明治40年1907発行)が「本郷区 1」であり、「聖堂」や「東京高等師範学校附属中学校および付属小学校」などの項目が並び、挿絵がある。 「湯島新花 湯島新花町は、宝永十年(宝永七年が正しい。町名案内で示した)上野山内徳川家新廟の建設に際し、、輪王寺宮御隠居屋敷上地となり、此處に於て一万0百二坪五合の代地を御領得あり。御隠殿の経営ありしが、正徳年間(1711~16)廃撤せられ、その後宝暦七年新に商店を開設す。因って新町屋と唱ふ。「里俗の称」の項目に「大根畑」が出ていた。 これだけなので、岡場所との関連などは完全に伏せられていて、ごく上品な町名紹介に終わっている。 続いて「景況」という項目には次のようにある。 当町は霊雲寺の名刹ありて名高く、其の南部は「霊雲寺の南は、甚だ入組たる市街にて」という筆致に、「大根畑」という「里俗の称」には、かつて岡場所として江戸でよく知られた場所だったという気持ちが込められているか、と思われる。 下は、「湯島新花町」の写真である。撮影年代は不明だが、明治30年代かと思われる。角の柳から緑の葉が垂れている。裾をからげて黒いコウモリ傘を持った男。白い着物に白足袋の婦人が日傘を差し包みを左手に支えている姿が明治を感じさせる。その後ろには帽子に洋服の男。大八車に白っぽい荷物を積んでいる、四斗樽か。これから坂を下っていこうとしている。本郷には坂が多いことがこんな写真でも分かる。二階家が多いのは「商家等櫛比せり」を反映しているのであろう。 湯島新花町 次は「妻恋坂」と名付けられた写真。影の具合から、左から日が差しているようだから、写真は西へ向かって写している。右の女性は傘を杖についているようだが、坂を上がっているのだろう。横木が沢山ついている電信柱も時代を感じさせる。その電信柱の手前に鳥居が写っている。鳥居のところは右手が広くあいているらしいが、写真では良く分からない。そこが妻恋神社である。先で道は右へ折れているはずであり、真っ直ぐは暗くなっていて良く分からない(下の「東京図測量原図」明治16年(1883)参照)。 まず「妻恋坂」という項目の説明を読んでおく。 妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。明暦大火(1657)に際して大超和尚が浅草に移ったというのは目下確認できていないが、[4]大根畠の地図 8のところで議論したように、この大火をきっかけにして江戸の実測地図が作成された。その地図「新板江戸外絵図」中に「妻コヒイナリ大神宮」と記入してあることを紹介しておいた。少なくとも「新板江戸外絵図」ができた寛文十三年(1673)には、今と同じ場所に妻恋明神が存在していたことは確かである。 妻恋坂 つぎに、「妻恋神社」の説明を引くが、これは様々な資料からの引用が並んで、長文である。そのほんの一部のみ使う。上の「妻恋坂」の写真をもう一度よく見てもらいたい。坂の途中右側に鳥居があることは間違いないが、「妻恋神社」の説明の初めに、これは「木造の鳥居」であると書いてある。 妻恋神社は妻恋坂上右側八番地に鎮座す。門前に木造の鳥居あり。明治二十四年二月吉日と刻す。「左に拝殿」というのが、上の写真で電信柱の向こうに 次の挿絵は『江戸名所図会』巻五の「妻恋明神社」を用いたもの(実は、『新撰東京名所図会』もこの絵を引いているが、画質が悪い)。『江戸名所図会』の後半(四~七巻)の出版は天保七年(1836)であるので、それから60年以上経ている明治30年代とは様子が変わっていても当然である。まず、鳥居は明治二十四年(1891)に木造鳥居を建て替えたというのだから、安政の江戸大地震(安政二年1855)などで石の鳥居が破損(倒壊?)していたのではないか。すぐ気づくもう一点は「拝殿が瓦葺」という点だ。『江戸名所図会』では千木や もう一つ大事な点は、鳥居を入ると拝殿まで「甃石」を敷いているとしている点である。『江戸名所図会』の挿絵は妻恋坂から鳥居をくぐって境内に入るのに、まったく石段らしきものがなく、境内に鶏が遊んでいる様子は土の庭のように見える。写真「妻恋坂」では鳥居の下からゆるい傾斜の石段が数段あってもいいか、と思わせるが、それ以上は分からない。『新撰東京名所図会』の説明文の「門より拝殿まで甃石を敷けり」は信じてよいと思われる。
広い敷地を誇る霊雲寺があって、その南側に広がる一角が湯島新花町のかつての「大根畠」であるが、周辺の町々と比較してとりわけ家並みが「櫛比している」とは言えないように思う。まん中を南北につらぬく路があって、その中ほど西側に「八幡社」がある。これは[1]序で紹介した「御霊八所大明神」である。 妻恋坂を西へ登っていくと右に妻恋稲荷があり、その先でややあいまいな角にぶつかる。右へは湯島天神まで行く路が延びているが、左側はこの地図では「畑」となっている。この角でまっすぐ進むと不明の路地のような場所になる。幾つか建物があり、「畑」と関連のある農家などか。ともかく、向こうへ通り抜けられないようである。写真「妻恋坂」をもう一度見ていただきたい。15年ほどの差があるので、地図と写真ではある程度変化があって当然である。 2022-5/20 目次 |