き坊の ノート 目次

モンゴル・ノート(その1)




(はじめに)

2002年8月20日の「き坊の近況」で、活仏ボグド・ゲゲン9世についての新聞の特集記事を紹介した。その中で活仏は、日本の新聞記者の「自分の役割は何だと考えますか?」という問に(インタビューは7月にモスクワで行われている)
モンゴル民族の精神的指導者として仕えることだ。ロシアではブリヤーク、カルムイキア、トゥワの3共和国でその役割を果たしたい。
と答えている。ロシアで「モンゴル民族の精神的指導者として仕えることが自分の役割だ」と言って、「ブリヤーク、カルムイキア、トゥワの3共和国でその役割を果たしたい」と言い切ってしまうことが、ロシアが持つロシア帝国以来の覇権主義に対するきわめて過激な発言になっていることを、毎日新聞の特集記事はかならずしも十分に書いていなかった。また、「モンゴル民族の精神的指導者」という場合にはモンゴル民族が中・露・蒙(モンゴル)の国境をまたがって分布しているために、内モンゴルを抱える中国政府を刺激する。旧外モンゴルであるモンゴル国は、中・露の覇権主義のせめぎ合いの谷間に位置する弱小国として、外交上、中・露それぞれの顔色をうかがっている必要があるのである。
わたしたちは、モンゴルといえばチンギス・ハーンやフビライ・ハーンのモンゴル帝国をまず思い浮かべるし、中国を支配した元王朝の独特の世界性を考える。その一方で、20世紀のモンゴルは、中国とロシアに挾まれた「遊牧の弱小国」というイメージもある。(近ごろでは、雄大な平原の地へのあこがれで観光の対象としてとても人気がある。大相撲を連想する人も多いかも知れない。) その全体が統一した像を結びにくい。そこで、ここではまず、「モンゴルとは何か」という問をたて、ノートを作ってみた。
最後にもう一度「活仏ボグド・ゲゲン9世」に戻り、この数奇な運命のチベット人の紹介と活仏仏教がモンゴル民族に持つ意味を考えて、締めくくる予定である。


(1) モンゴル民族とは

現在モンゴルという国がある。これは1992年にできた国名で、ごく新しい。その前は「モンゴル人民共和国」(1924年にできた)、その前は自称「モンゴル」(「活仏モンゴル」とも「自治モンゴル」とも)いうが、中華民国は自領内の「外モンゴル」として第2次大戦終了まで独立国家として認めなかった。これは辛亥革命(1911年)のときにできた。そのまえは、清帝国の「外蒙古」である。
モンゴル民族という民族がある。これはモンゴル国家をつくっている人々とはかなりの程度重ならない。独立国としてのモンゴル、中華人民共和国の内モンゴル自治区、ロシアのブリヤート自治共和国などに分散して分布している(正確にいうためには、もっと沢山のことを付け加えないといけない。それはおいおいと必要に応じて行う)。重要なことは、国と民族はちがうということである。現代のモンゴルの悲劇はその点を押さえないと分からないし、また、日本がその悲劇に荷担していたことも分かってこない。

12世紀のなかば、モンゴル高原には強力な統一勢力はなく、モンゴル系・トルコ系の遊牧民が部族単位で散在している状態であった。「モンゴル」は、もともとはモンゴル高原の広大な草原で生活するある部族名だったと考えられている。13世紀に、その部族出身のテムジン(のちにチンギス・ハーン)がその勢力を拡大するにつれてその傘下に加わる人々がモンゴルを称し、ついには一大民族として勢力を誇ることになった。それを「モンゴル民族」と呼ぶことになった。つまり、草原に散在していた多数の多様な小部族が、チンギス・ハーンという英雄の出現によって統合・形成されてモンゴル民族が生まれたのである。したがって、モンゴル民族のなかにはいくつもの異なる素性の部族が入っていて、単純な構成ではないと考えるべきである。遊牧民が少数で征服して多数の農耕民を従える「征服王朝」式の支配方式を考えてみれば、当然「混血」が生じるし、征服者が引き上げて故地に撤退する際に多数の「混血者」を残していったであろう。
同じことが文化的な面でも生じているはずだ。例えば、言語的に多様な異なる言語をもった部族が「モンゴル民族」の中に流れ込んでいるはずであり、モンゴル語方言で片づかない多様な言語が含まれている。
平凡大百科事典で「モンゴル系諸族」を引くと、次のような説明がある。
 内陸アジア東部の草原に発祥したモンゴル系諸族は,モンゴル国のハルハと内モンゴルのチャハル(東群),バイカル湖周辺のブリヤート(北群),ジュンガリアのオイラートとボルガ流域のカルムイク(西群)に三分される。アムール上流域のダフールとアフガニスタンのモゴールなどを南群として四分する場合もある。
「モンゴル国」といっているのは、モンゴル民族をマジョリティとする唯一の独立国のモンゴルのことである。これを構成しているモンゴル民族を「ハルハ・モンゴル族」と言っているのである(ハルハ喀爾喀は民族名であるが、ハルハ河など外モンゴル地方を指すときも使われる)。中国内モンゴル(内蒙古自治区)に分布するモンゴル民族を「チャハル・モンゴル族」と言っている。「ブリヤート・モンゴル」はロシアのブリヤート共和国に分布するのだが、ややこしいことにブリヤート共和国での多数民族ではないのである(ブリヤートはロシア語式で、17世紀までにロシア領内から南下し満州地方へ移ってきたものをバルガ巴爾虎という)。「ジュンガリアのオイラート」というのは中国新疆ウイグル自治区の「オイラート・モンゴル族」のことである。このオイラートが黒海沿岸に飛び地をつくっているのを「カルムイク・モンゴル族」という。想像されるようにこれには複雑な歴史があるが、後に述べる。

(2) モンゴル帝国

テムジン(のちのチンギス・ハーン)が生まれたのは、12世紀半ば以降と考えられている。13世紀の初めにテムジンはモンゴル高原の覇権をにぎり、その地の遊牧部族をすべてモンゴルに統合した。モンゴル王国の君主チンギス・ハーンとなったのは1206年とされる。
チンギス・ハーンは従来の部族制を解体し、「千戸制」を布いた。千戸づつの等質な軍隊単位=行政的な官僚単位のうえに専制君主としてチンギス・ハーンが君臨するのである。それを万戸ごとにまとめて、興安嶺方面・中部・アルタイ山脈方面へそれぞれ配置した。
このすぐれた戦闘国家の体制をもって、各方面へ征服へでかけた。こうして「モンゴル帝国」が形成されるのであるが、チンギス・ハーンの死去は1227年である。
東西交易路を押さえ、チンギス・ハーンの子・孫が遠征した地に「ハン国」をつぎつぎに建国した。キプチャク=ハン国(ロシア平原)、チャガタイ=ハン国(トルキスタン)、オゴタイ=ハン国(西北モンゴル)、イル=ハン国(西アジア)。フビライは1260年に即位し、これら4ハン国の全体の上に立つと共に、自らはモンゴル・中国北部・チベットを支配していた。やがて、元朝をたてて中国を支配する(元朝1271~1368)。
モンゴル族の征服王朝というのは、圧倒的少数のモンゴル人が農耕民族を政治的・社会的に支配するというやり方である(そもそもモンゴル族はチンギス・ハーン時代で70万人程度とされる)。特徴的なことは、多元的な身分制のもとに多種族の人々が多層的に生活していたことである。
元朝は、その多種族的国家の統治に当たっては、身分的規制をおこなった。元では、モンゴル遊牧民を国族、イラン系・トルコ系などのイスラム教徒、さらにヨーロッパ人などさまざまな西方種族を色目人と称し、遼・金の支配下にあった華北の民衆> ── 渤海人・契丹人・女真人・中国人など── を漢人、そして、かつて南宋の治下に あった江南に住む中国人を南人と呼んで区別した。このうち、クビライ-カンの一族をはじめとするモンゴル遊牧貴族層が社会の最上層を占め、モンゴル帝国および元朝政権の樹立に功績のあった色目人、漢人 ── とくに軍閥 ── やその子孫がこれについだ。 その下に下級官吏や軍人出身者が位置し、漢人・南人の大衆層は、そうした特権的身分から完全に排除されていた。(『中国文明と内陸アジア』「人類文化史4」三上次男・護雅夫・佐久間重男 講談社1974)

元の時代、朝鮮半島へ侵攻し、高麗が服属したのが1259年。が、高麗軍は抵抗を続け、さいごは済州島まで転戦して、そこで敗北する(「三別荘の乱」というが、これについては拙論泉靖一『済州島』(東京大学出版会1966) について第2節で触れている)。つづいてすぐ日本征服の軍をくりだすが(1274、81年の2回)、いずれも海戦で日本に敗れ、日本侵攻はできなかった。しかし、モンゴルは約百年間の元時代を迎え、独特の「世界帝国」を作り上げる。この元時代にマルコ・ポーロの「世界旅行」があったように、インド洋から南シナ海へかけての海上交通路のネットワークが安定して保持されていたことも重要である。
14世紀後半にモンゴル高原へ退きモンゴル帝国は消滅するが、ユーラシアのほとんどの地域にその民族的・文化的影響を残した。モンゴル民族は故地・モンゴル高原へ退き、群雄割拠時代へ戻る。つまり、敗北し征服されたということではない。

モンゴル帝国の崩壊という巨大な出来事のなかで、“モンゴル系”の民族が広大な帝国の旧版図の各地に散らばってしまうことになった。和光大のユ ヒョ ヂョンさんの講演が、すぐれていると思ったので、引かせてもらう。「中国にはモンゴル族以外に五つのモンゴル語系の言葉を使う民族が分散している」という。
このような集団の形成には、広大な地域におよんだモンゴル帝国の広がり方および崩壊のしかたが深くかかわっているといわれます。つまり、優れた機動性をもって、広域にひろがったモンゴル人が、その過程で各地の異民族を自分たちのなかに組み入れ、同化させた結果として、または当のモンゴル人自身が、展開した地域にそのまま定着したり、または逆に戦争に敗れて逃走し、その地に定着した結果、このような「飛び地の捨て子」が生れたものと考えられています。アフガニスタンの奥地に約三千人がいて、同じくモンゴル語系のことばのモゴール語を使っていると伝えられるモゴール族や、モンゴル草原から遠く離れた中国の雲南、四川両省の六~七万のモンゴル族の場合も同様の状況が生んだものといわれています。ただし後者の内かなりの部分は、モンゴル人の末裔としての意識はともかく、言語、名前、その他のほぼすべての面においてモンゴルらしきものはほとんど残しておらず、それゆえつい最近まで漢族その他の民族として識別されていました。それが、八〇年代に自らの申請によってモンゴル族として「再発見」され、モンゴル族への族籍変更が認められたユニークなケースです。
このあと中国は、漢民族による明(1368~1644)となる。明は276年間持続する。。

(3) 清によるモンゴル領有

満州族・女真のヌルハチが後金をたて(1616)、明との対決のなかでヌルハチは負傷し死ぬ。太宗ホンタイジは明と結んでいる朝鮮に出兵して降伏させ、講和する。つづいて内モンゴルのチャハル部(大体の場所は、張家口辺り、長城の北方)を平定し、その際、元朝直系に伝わる玉璽を入手した。それでみずから皇帝の位につき国号を清とあらためた(1636)。1644年、瀋陽から北京に遷都し、清は中国に君臨する征服王朝となった。
ロシアのシベリア進出は16世紀後半のコサック隊長イェルマクの探検隊に始まるとされるが、17世紀半ばには黒竜江流域にその勢力は達していた。康煕帝ピョートル大帝に親書を送り、1689年にネルチンスク条約を結んだ。それによると清・露の国境はスタノボイ山脈=外興安嶺からアルグン川ということになった。スタノボイ山脈は、いまのバム鉄道の北側の山脈であり、ロシアは黒竜江から沿海州方面への南下を大きく阻まれたのである。それで、ロシアはカムチャッカからアラスカへ進んだ。また、北方から日本へ南下してくることにもなる。アルグン川は現在の内モンゴル-ロシアの中・露国境線そのものである。しかし、モンゴル方面の清・露国境は未確定のままだった。
オイラートのガルタン・ハーン(1676~97)のとき中央アジアの大国となり、ハルハ・モンゴル諸部を圧迫した。ハルハは「内モンゴル」に逃れて、清に救援を求めた。康煕帝は1690と96年に親征してガルタンを破り、「外モンゴル」を清の領有とした。ここに登場するハルハ族こそが、外モンゴルの主役である。
本当は記述の論理的順が反対で、清の方から見て早期に服属せしめた地域をのちに「内モンゴル」(バルガ)と言うことになり、後に領域に入れた地域を「外モンゴル」(ハルハ)としたのである。
1728年に批准したキャフタ条約によってモンゴル地域の清・露国境が決まった。これで外モンゴル-ロシアの国境線が確定したのである。

「カルカ部」は「ハルハ部」のこと。第1学習社『新訂世界史図表』(p76)


モンゴル族の多くが清に服属することになったが、清からいうと外モンゴルのさらに外、バイカル湖周辺に分布するモンゴル族がかなりあった。それがブリヤート人(ブリヤート族)としてまとまるのは17世紀末ごろだったと考えられる。17世紀初頭からコサックを先兵としたロシアの進出が始まったが、ブリヤート人の抵抗も激しく、この地域全体がロシア領となったのは17世紀の終りごろであった。
ロシア帝国の支配下に組み入れられたブリヤート人は差別的な扱いをうけるとともに、強制的キリスト教化政策の対象となった。19世紀末には,移民用の土地を確保するためにブリヤート人の土地をとりあげる政策がとられ、ブリヤート人は東部で土地の36%,西部で53%を失ったという。これに対するブリヤート人の反抗は激しく、十月革命・内戦期にはブリヤート人の一部はモンゴルとの統一を求めて、日本が後押しをしていた反革命の G. M. セミョーノフ軍の側に立って“大モンゴル国”の実現をめざしたが成功しなかった。
この地域は干渉戦の舞台となり,18年夏にはセミョーノフ軍の,次いで日本軍,アメリカ軍の支配下におかれた。20年に赤軍が奪回し、21年には極東共和国内に、22年にはロシア共和国内に,それぞれブリヤート・モンゴル自治州が成立した。極東共和国の廃止に伴い,23年5月この両者が合体してブリヤート・モンゴル自治共和国が成立した。(この条、青木節也、平凡社百科事典「ブリヤート共和国」より)ブリヤート族はロシア全域で約42万人いるが、そのうちブリヤート・モンゴル自治共和国に住むのは25万人程度(1989年)。

(4) 内モンゴル自治区

1926年に内モンゴル人民革命党がコミンテルンに報告したところでは、
  • 面積:216万7489平方キロ
  • 人口:1459万5000人、うちモンゴル人379万2000人(26%)
  • であったという(田中克彦『言語の思想』1975)。
    現在(平凡社百科事典による1995年のデータ)は
  • 面積:118万3000平方キロ
  • 人口:2284万人、うちモンゴル人10~15%(228万~343万)
  • となっている。さらに、人口の80~90%が漢族で「ほかに北東部にダフール(達斡爾),オロチョン(鄂倫春),エベンキ(鄂温克),東部に満州,中部に回族などの諸民族がみられる」としている。
    きわめて顕著な変化があったことが分かる。面積が半減していること、人口比も半減していること。モンゴル自治区といいながら、モンゴル人は1割程度しかいないのである。面積の半減は明確な理由がある。中華民国から中華人民共和国となって(1949年)「内蒙古」が「内蒙古自治区」となり、やがて自治区の半分ほどがけずられて周辺の省に併合されていった。

      ホロンバイル盟    → 黒竜江省
      ジェリム(哲里木)盟  → 吉林省
      ジョーウダ(昭烏達)盟 → 遼寧省
      バヤン・ノール盟東部 → 寧夏省
      バヤン・ノール盟西部 → 甘粛省

    わたしは田中克彦(前掲書)から引用しているのだが、そこでは「1960年代末から、彼らの自治区のぼぼ三分の二にあたる地域が切り取られ、中国の直轄地となった」また「こうして、内モンゴルは70万平方キロ(日本のおよそ2倍弱)の面積と六百万の人口を失った」としている。田中はD.バザルガリダ「大漢民族排外主義と内モンゴルの運命」というロシア語論文を参照していると断っているが、平凡百科事典のデータとはかなりの開きがあるようだ。が、傾向ははっきり見て取ることができる。中華人民共和国はソ連(当時)やモンゴル人民共和国との国境近くに漢民族を多数移住させ、また、モンゴル自治区を狭める政策をとったといえるだろう。内・外モンゴルの民族は、呼応して一体となる運動を起こさないとは限らないと、中国政権中央からはたえず疑われる可能性がある。国境を挾む同一民族の矛盾がここにもある。
     国境を強く意識する政策が、中ソ論争から出てくるのか「大漢民族排外主義」から出てくるのか考えてもあまり意味がないと思うが(要するに、それらはロシア帝国と中華帝国の覇権主義の対立から出ているのだから)、モンゴル自治区とはいいながら人口の一割程度しかモンゴル人がいないのであれば「モンゴル人による自治」の実質的な意味は少なくなっていると言えよう。
     

    すこし叙述が先回りになってしまうが、ここでモンゴル民族の現在的な問題に触れておきたい。先にもちょっと触れたが、和光大学のサイトに「モンゴル学術調査報告」(1998)があり、かなりの分量であるが、どれも読んで面白いレポートである(針生一郎がこういうところで名誉教授をやっていることを知った)。その中の一つに中国内モンゴル出身で、和光大講師フフバートルの「モンゴル」から「モンゴル」へという論文がある。広くいえば「モンゴル民族意識とは何か」という問題をたてそれへ答えようとしているのだが、内モンゴルからの留学生とモンゴル国からの国費留学生との意識の違いを述べている。
    モンゴル国からの留学生たちのほとんどが理科系やコンピューター、または、経済、法律などの勉強をしています。まさに若いモンゴル国の将来の担い手として日本で先端技術や近代的学問を学んでいるわけです。一方、内モンゴルの留学生たちは、私も含めて日本でモンゴル学を学んでいる人がたくさんいます。これには来日以前の内モンゴルでのモンゴル族の教育事情や個人の都合があることはいうまでもありませんが、内モンゴルからの留学生たちには学問の領域でも「民族」にこだわる傾向があるように思われます。

    このように、仮にモンゴル国の留学生たちの行動が「国家的」「近代的」と言えるならば、内モンゴルからの留学生たちの行動は「民族的」「伝統的」だと言えます。実際にモンゴル国の留学生たちは渋谷のモンゴル大使館の二階から上に上がっていけば自分が「モンゴル人」であることが確認されますが、内モンゴルの留学生たちは代々木公園で相撲を取っているか、またはモンゴル祭のゲルの中で羊肉の塩煮を食べていない限り、自分が「モンゴル人」であることを確認する手段はありません。「モンゴル大使館の二階」と申しましたのは、「国際法上」二階から上はモンゴル国民しか上がれないからです。また、代々木公園では毎年一〇月にモンゴル相撲大会が開かれます。
    国家エリートとしてのモンゴル国からの留学生は国籍がそのアイデンティティを保証しているのに対して、内モンゴル出身者にとっては中華人民共和国という国籍はむしろ少数民族のアイデンティティをあいまいにするものでしかなく、民族的伝統によって文化的にそのアイデンティティを確かめるしかない、というのである。
    フフバートルは「異なるモンゴル・アイデンティティをもつ両側のモンゴル人たちが、こうした意識の違いをお互いに理解していくことはたいへん難しいことだと思います。」と締めくくっている。わたしは両側のモンゴル人という言い方を、そもそも珍しく感じたのだが、ここには国境の両側の同一民族という問題の難しさの端緒が述べられているのだと思う。  

    (5) モンゴル人民共和国

    外モンゴルは1911年の辛亥革命をきっかけにして活仏モンゴルによる自治を宣言した。翌年ロシアは承認したが、中華民国は宗主権をゆずらず、その軍隊を駐留していた。活仏モンゴルは、ロシアを頼りながらかろうじて「自治政府」を維持していた。そこに1917年のロシア革命が起こる。
    中国軍はただちに首都クーロン(庫倫、1924にウランバートルと改称)を占領し、外モンゴルの自治権を否認した。しかし、その一方でロシア革命を好機としてモンゴル民族の独立をめざす民族意識が燃え上がったのは当然である。外モンゴルだけでなく、内モンゴルやブリヤートなど各地のモンゴル民族の知識人。革命家たちがクーロンに集まってきた。「モンゴル民族の独立をめざす民族統一戦線」と言っていいだろう。あるいは、もっと民族主義的なニュアンスをこめれば「大モンゴル主義」ないしは「汎モンゴル主義」といってもいい。
    この統一戦線には、ブリヤートと外モンゴルの統一独立国をめざすという勢力もあった(田中克彦『言語の思想』(p144))。内モンゴルを含めた大統一を構想する民族革命家もあったであろう。しかし、革命ロシアを背景にした社会主義革命家がどれほど存在していたかどうか、明瞭ではないが、スヘバートル、チョイバルサンらの秘密組織とコミンテルンとの連絡が取れるようになったことは事実である(スヘバートルらがソ連へ援助を求めて使者をおくりだすのが1920年6月)。
    中国軍によって一時自治さえ危うくなった活仏政府のもとで、人民義勇軍の募集があり、 人民軍は旧活仏政府の軍隊の流れも汲み、貴族・諸侯勢力の一部を味方に付けつつ、きわめて雑多で幅広い統一戦線勢力として存在し続ける。この勢力はロシア赤軍との連携があり、シベリアからモンゴル一帯の混沌たる状況の中で、徐々にモンゴルで主導権を握っていく。田中克彦は牧民革命という表現をとっている(「モンゴル独立闘争の基本的性格」1969)。
    レーニンは白衛軍や日本などの反革命勢力から革命ロシアを守るために、極東共和国(1920年4月から22年11月まで存在)をつくって「ブッフェル」(buffer 衝突除け)としたいとした。極東シベリアを失っても仕方がない、という戦略的決断があったと考えられるが、実際には、極東共和国内のパルチザンを人民革命軍に編成し、住民勢力ともあいまって白衛軍を破り、日本軍を撤退せしめた。極東共和国は日本軍撤退後ソビエト・ロシアに併合されるのである。
    1921年7月11日に、人民義勇軍とロシア赤軍がクーロンを奪取し、新政府樹立を宣言した。この「牧民革命」は諸侯諸部族が力を持っているモンゴル平原で、「人民」という抽象的な理念が中核にある「人民政府」を勝ちとった革命なのである。革命ロシアは、まだ、自らが永続的な政権として勝ち残れるのかどうか自信をもっていない時期であり、たしかにコミンテルンの思想的な指導があり(それがなければ「人民」という不確かな理念に歴史的な重みを付けることはできなかった)、ロシア赤軍はモンゴル人民軍に援助の手をさしのべた。そのことによって、ロシア革命のあとにつづく最初の「革命」が成し遂げられた。
    1921年のモンゴルの革命は、突如はじまったものではなく、それ以前の反清蜂起の連鎖の上にある。しかし、21年の革命がそれ以前の場合と根本的に異なる点は、貴族や諸侯によってではなく、貧しい牧民出身者で闘う以上に脱出口を持たなかったひとたちによって、歴史上かって例をみない規模で行われたという点にある。スヘバートルは伝統的な民族主義的軍人指導者として民衆の前に姿を現し、貧民兵士、中・下級官吏から諸侯・貴族に至までの広い層に根をおろし、かれらと共に民族の未来を摸索した。

    決定的瞬間に首都にせまって敵を壊滅させた赤軍には、モンゴル牧民との共闘はまた極東共和国の安全にかかわるものであった。
    1921年の牧民による闘争の結果は二百年にわたる清朝支配からの脱出をもとめてきたモンゴル民族の苦難の摸索の中から生まれた、最も冷静で成算のある解答であり、内外の情勢に目をふさいで、狭い視野で行われた教条主義にもとづく選択ではなかった。(田中克彦、前掲論文 強調は原文傍点)
    1921年11月、スフバートルらモンゴル代表団がモスクワを訪れ、レーニンと面会している。そして、モンゴル・ソビエト友好条約が結ばれる。この当時レーニンは前資本主義的段階にある後進諸地方で起こる革命に、どのような理論的展望を与えるか、という切実な問題に直面していた。たとえばモンゴル牧民は中世的遊牧段階から資本主義を体験せずに一気に社会主義革命=人民革命を成功させなければならないという、ウルトラ級の難問に直面させられていたわけである。つぎは、1920年のコミンテルン第2回大会のレーニンの報告である。
    (コミンテルンは)先進国のプロレタリアートの援助をえて、後進国はソヴェト制度へうつり、資本主義的発展段階を飛びこえて、一定の発展段階を経て共産主義へうつることができるという命題を確立し、理論的に基礎づけなければならない。(大月版レーニン全集第31巻、1920年7月26日)

    「資本主義的発展段階を飛びこえて」という命題は、ロシア革命が成ってから数年しか経ていない時期の、微笑ましいような涙ぐましいような雰囲気をもっている。この命題は「それ以来モンゴルの発展のスローガンとなった。ウランバートルの国立図書館の横の壁には、モンゴル服を着た青年が馬をおどらせて、『資本主義』と書いた黒い縞をとびこえている図が、大きく描かれている。」(磯野富士子『モンゴル革命』p191)
    1924年に活仏ボグト・ゲゲン8世が死亡し、人民革命党は「活仏は再び転生せず」と公布し、モンゴル人民共和国へ移行した。
    一般論として、(ⅰ)ある活仏が転生するかしないかはどのようにして決まるのか、(ⅱ)或る活仏が転生しない場合はどういう場合か、が問題であろうと思う。(ⅱ)については、非常な偉大な活仏の場合は転生しないで、よりレベルの高い「来世」(シャンバラという)へ転生してこの世には戻ってこない、ということはあり得るものらしい。また、チョギャム・トゥルンパ活仏自身の自伝『チベットに生まれて』の中にある逸話で、トゥルン・マセ活仏が死ぬ間際に弟子たちに次のように話した。
    自分は生まれ変わる(転生する)ことはない。わたしの教えこそが私の化身であり、肖像なのだから。(p23)
    活仏ボグト・ゲゲン8世の場合がこれに当たるのかどうかは分からない。
    (ⅰ)の問題は、少なくとも宗教の問題で、「国民大会議」などの政治機構が立ち入ることはできないように思う。ただし、活仏ボグト・ゲゲン8世の“8”という数字に意味があるのかも知れない。8代までは転生するが、それで終わる、というような。最後にもうひとつ考えられるのが、唯物論の立場で宗教を否定する考え方から、8世死没をチャンスとして活仏制を止め純然たる「人民共和国」に切りかえようとする一種の制度革命があったのかも知れない。わたしはモンゴル政治史を読んでいて、活仏ボグト・ゲゲン8世が転生しないと宣言されたということを初めて知ったとき、てっきりこの最後の立場(唯物論)によるんだろうと思っていた。
    活仏ボグト・ゲゲン8世は転生しないと政府発表があったのにもかかわらず、9世の指名が1934,5年頃にチベットのある農民の赤ん坊(1932年生まれ)に対してなされた。それが、小論冒頭で紹介した、活仏ボグト・ゲゲン9世である。この問題については、小論の最後で再び扱う予定である。

    この1924年の時点で、ソ連邦はいまだ覇権主義を振りかざしてはおらず、モンゴル人民共和国はいまだ「衛星国」(オーウェン・ラティモア)というレッテルを必要としていなかった。レーニンの死没は1924年、ソ連邦で第1次5ヶ年計画が始まるのが1929年。[人民という語について、下に「注1」をつけた]
    次の絵画「レーニンの肖像」はB.シャラヴの1924年の作品である。今年(2002年夏)の「モンゴル近代絵画展」にも出展された作品。この絵画展の目録の(モンゴル側による)解説の中に、「背景に描かれている地球は、レーニンが全世界の人々の指導者であり教師であることを表し、下方にはレーニンの思想が賢明で気高いものであることを示す百合の花が描かれている。この作品はモンゴルのみならずアジアで初めてのレーニンの肖像である。」とあった。いくらかレーニン崇拝の余韻が残っているような解説である。
    しかし、田中克彦はウランバートルの国立美術館でこの絵画を見たときの印象を、次のような卓抜な感想として発表している。1969年という早い時期である。
    作者はシャラブという、現代モンゴル絵画の祖である。この絵の中央には、なじみの禿頭のレーニンが描かれ、頭の周りには仏画に見られるのと同様に光背があるが、この光背は世界地図になっている。手法は伝統的なモンゴル仏画の方法に、西欧的なニュアンスを加えたものだ。モンゴルの革命期に生まれた絵で、これほど象徴的なものはない。仏はレーニンになり、仏のおしえのかがやきは世界地図となったのだ。つまりこれがモンゴルの革命であった。

    「モンゴルの革命」はマルクスやエンゲルスらが19世紀に予言した「社会主義革命」とはまったく異なったものであったことを、これほど的確に見事に表した批評は他にないのじゃないかと思う。もちろん、田中克彦は「社会主義革命」でなかったことを批判したり残念がったりしているのではない。「民族」というものが繰りひろげる不思議な宿命とでもいうべきものを見つめようとしている。

    [注1]従来、社会主義革命の議論の中で、人民という概念の重要性と特異性に注目されることがあまりなかったと思う。マルクスらの想定した古典的な社会主義革命は、西欧のもっとも発達した資本主義国で起こり、プロレタリア階級が革命の主体になるとされた。ロシアにおいてはプロレタリア階級は生まれておらず、農民と労働者と兵士らの下層民が知識人・革命家の指導を受けて革命を行った。この革命の主体を人民と呼んだのである。
    本来の社会主義革命であれば、プロレタリア階級がその主体になるのであるからその階級を呼ぶ言葉(「労働者」のような)が革命の「主体」であって、特別の新しい言葉を必要としなかったはずである。だが、理想型ではないロシア革命はその主体に「労農」というような複合語を必要とし、それに代わる新しい名称「人民」の創出を必要としたのである。まして、モンゴルにおいておや。
    重要なことは、「人民」には特定の実体がないことである。市民階級の市民や、プロレタリア階級の労働者に実体があるような意味では、人民には実体がない。革命に参加し闘う、闘う者としての個人はすべて人民となることができる。人民は階級概念ではなく、出身階層にも関係がない。革命理念を支持し、参加する者はすべて人民である。この、無制限で無規定な抽象概念が人民である。
    したがって、誰であろうと人民を名乗ることはできる。しかし、それを名乗る者たちが、「人民軍」とか「人民政府」のような実力を持つようになると、不思議な逆転が起こる。誰が人民であるかがきわめて恣意的になるのである。恣意的という言い方が上品すぎてわたしの意図が伝わりにくいかも知れない。党派的になるのである。
    人民という普遍的な価値を示す語を冠にかぶった理念は、すべて疑ってかかるべきである。それらは、普遍的な価値を表しているのではなくて、狭歪な党派性をあらわしているのかも知れない、と。人民軍、人民委員会、人民共和国、人民民主主義共和国、人民党。
    最高の普遍的な理念は、最低の狭歪な党派性を表す。これは、スターリニズム時代の普遍的な定理である。



    (6) 粛正

    1921年に、モンゴルの牧民革命が成功した(「労農革命」とさえ言えない、中世的牧民による革命、というニュアンス)。この牧民革命は、ロシア革命のあと、それに影響されつつ起こった無産者革命の最初のものであり、中国からの独立を実現したことに大きな意義がある。そのあと2段階革命のプロセスをとり、21年の段階では人民党の指導の下の革命ではあったが、統治形態は「活仏」第8代ジェプツンダンパ・ホトクトを中心においた立憲君主制であった。活仏は1924年に没し、「8代を持って活仏は転生せず」と決議して人民共和制へ移行した。この年の11月に第1回人民大会議を開催してモンゴル人民共和国を正式に宣言したのである。憲法を制定し首都をウラン・バートル(赤い英雄)と改称した。
    既述のように、モンゴル人民党は初めから革命ロシアとレーニンの指導を受けていた。レーニンの死没が1924年で、モンゴル人民共和国の誕生の年である。
    そのあと、ソ連の第1次5カ年計画が1929年から始まる。モンゴルではそれに倣って、29年から社会主義計画経済が導入され、強制的な牧畜の集団化が行われる。また、ラマ教弾圧が行われる。しかし、そのことによってモンゴルの経済も精神生活も破壊され、1932-37年の暴動の頻発と内蒙古への逃亡が増大する、といわれる。その暴動の実態を述べた資料が見つからないのだが、ドプチン・サンボ将軍の「西部大叛乱」、バタマエフの反ソ虐殺事件(34年11月)などの叛乱があったという(矢島庚允「ノモンハン戦の契機と動因」『ノモンハン・ハルハ河戦争 国際シンポジウム全記録1991年東京』所収)。それらの暴動の鎮圧にソ連軍が進駐し、駐留が常態化したと思われる。そういうモンゴルとソ連の関係のなかで、ソ連はモンゴルを日本-満州国に対する防御網として「衛星国」に仕立て上げていくことになる(柳条湖事件[1931]、満州国建国[1932])。

    1934年11月に、スターリンはゲンデン首相をモスクワに呼び、「相互援助協定」(口頭)を強制したといわれる。スターリンは36年3月に、外国記者の取材に答えて次のように語ったという(アルヴィン・クックス『ノモンハン』(上(p35))。
    もし日本が蒙古人民共和国の攻撃に踏み切り、その独立を侵すようなことがあれば、我々は外蒙古を助けなければならない。1921年(牧民革命)の時と同じように。
    そして、同3月12日に、ソ連・モンゴル友好条約を結んでいる。これは34年の相互援助協定(口頭)の強化されたものである。ソ連は多額の軍事援助をモンゴルに対して実施し、ソ連軍を満州国との国境付近に配備した。しかし、モンゴル民族主義の信念堅かったゲンデン首相はスターリンの「政治指導」に抵抗し、病気療養名目でモスクワに呼び出されクリミアで拘束された後、銃殺された(これらの事実は、ソ連崩壊後に明らかになってきたこと。後述)。
    モンゴル人民共和国戦略研究センター書記長ボルドは、1991年に東京で行われたシンポジウムで、スターリンとゲンデンの関係について、次のように発言をしている(『ノモンハン・ハルハ河戦争-国際学術シンポジウム全記録1991東京』原書房1992)。
    スターリンとゲンデンは1934年と35年の2回にわたって会談している。2回の会談は何日にもわたって行われた。あるときはモロトフの家で酒を汲み交わしながら、またあるときは別荘地でおこなった会談もある。これらの会談でスターリンはゲンデンにひとつの要求をした。それはモンゴル国内にいる反革命勢力を撲滅せよというものであった。
    反革命勢力というのは仏教勢力、おもに僧侶である。当時、モンゴルには約9万人の僧侶がいた。スターリンは、この僧侶たちは非常に危険な存在である、日本がこの僧侶たちを利用する可能性が大いにあると警戒していた。ゲンデンは1934年に1万7000人の僧侶を処刑した。一方、37年9月にはソ連軍の大規模な部隊がモンゴルへ入ってきた。そしてモンゴル内で9月10日から大粛正がはじまった。
    ボルドは、このシンポジウムでソ連の研究者に対して「ハルハ河戦争で、ソ連がモンゴルを支援して闘ってくれたことは事実だが、ソ連はモンゴル支援よりもソ連の極東部の防衛の方が重要だったのではないか」と鋭く追求したという。その証拠に、独ソ不可侵条約の密約で、ポーランド分割を急ぐあまり9月15日に日本側の停戦提案を安易に飲んでしまい、モンゴル自国領を満州国に取り込まれるという失態を演じていると指摘している(その領域はいま中国領となっている)。

    鎌倉英也『ノモンハン 隠された「戦争」』(NHK出版 2001)において、鎌倉英也はゲンデン首相の娘ツェレンドラムさんを捜し出しインタビューすることに成功している。「お父さんはどうしてスターリンと対立したと思われますか?」という問に対して、ツェレンドラムさんは次のように答えている(p115) 。
    私は、調べた結果、父がその当時成し遂げようとした五つの政策のために迫害されたことが分かりました。
    1. 国民を監視するスパイともいえる内務省施設を増やさないこと
    2. ソビエトの軍隊を駐留させないこと
    3. ラマ僧を粛正しないこと
    4. 国民に自由経済を奨励し、富を蓄積するよう呼びかけたこと
    5. その富から独力で国家予算を組もうとしたこと(税制を敷こうとしたこと)
    いま考えてみれば当時の父の考え方には、現在の市場経済の発想があったと思えます。
    ツェレンドラムさんによると、ゲンデンの首相在任は1936年3月までで、その後捕らえられクリミヤで拘束状態におかれ、最後は銃殺だった。1937年11月26日、ソビエト連邦最高裁判所軍事協議会の決定により銃殺、罪状は「反革命運動を企てた日本のスパイ」というものであった。(「ラマ僧粛正」についてボルド氏の報告とツェレンドラムさんの調査とは食い違っている。いずれにせよ、多数のラマ僧の殺害は事実であるが)
    暗殺されたゲンデンに代わった次期チョイバルサン首相は、1936年からスタ-リンの命を受けて僧侶や反ソ的人物を容赦なく粛正した。スタ-リンの意図は、モンゴルをソ連の「衛星国」とし満州国-日本へ対抗する防波堤にすることであった。
    ゲンデン旧邸は1996年から「モンゴル粛正博物館」となっているそうだが、そこが記録している粛正犠牲者は、軍人721人、民間人9852人、僧侶17612人。(前掲書p117)

    満州国-日本からの軍事的圧力とそれに呼応する「モンゴル内の反ソ活動」を、未然に圧殺することがソ連の極東政策として焦眉の問題となっていたのである。「反革命を企てた日本のスパイ」というゲンデンに対する罪状は、まったく荒唐無稽の言いがかりとはいえない一定の客観情勢はあったのである(ゲンデンについて当てはまる罪状であるかどうかは別問題として)。
    「ノモンハン事件」前夜、1938年にモンゴル軍ビンバー大尉が満州国へ亡命してきたという事件があった。そしてビンバー大尉はモンゴル内で起こっていた粛正の状況を「朝日新聞」に詳しく述べ、当時日本で大きく報道されていた。鎌倉英也『ノモンハン 隠された「戦争」』は、社会主義政権崩壊後のモンゴルでビンバー大尉の証言に対応する「極秘文書」の発掘に成功している。ゲンデンの後継首相・アモルとダンバ軍団長の「クーデター計画」が存在し、ダンバはその尋問調書のなかで、ビンバー大尉の役割について述べていたのである。
    (尋問者:日本側に伝えた情報は?)モンゴル軍の現状況、ハルハ河流域の軍配備増加状況、モンゴル国内で行われている反革命組織に対する粛正の拡大状況について。
    (尋問者:それはどのようにして伝えたか?)アモル首相の命令により、ビンバー大尉に託して持たせた。チョイバルサンは殺人者である。我々は反革命の戦いを続行する必要がある。ソビエト軍およびモスクワの影響を排除した、自由主義による力あふれたモンゴル民族統一を成し遂げなければならない。
    チョイバルサンはアモルの後継首相で、「ノモンハン・ハルハ河戦争」を戦い、モンゴルの全権力を一身に集めモンゴルの「ソビエト化」を果たした人物。悪役を振られたことになる人物ともいえるが、われわれはチョイバルサン『モンゴル人民革命簡史』(田中克彦訳 未来社1971)を読むことができる。この『簡史』では述べてはいないが、中・ソ・日の強国に挾まれたモンゴルはどのようにすれば「独立」を維持できるかという難題を解くべき地位と役回りを強制されたチョイバルサンという人物は、単純な悪役とはいいきれないと思われる。
    1939年2月9日、チョイバルサンは、スターリンから下の指令を受け取ったことを在モンゴル・ソビエト全権代表に報告している。
    モンゴル人民共和国政府からアモル首相を駆逐すること。首相ポストにはチョイバルサンが就任すること。チョイバルサンは国防大臣・内務大臣・外務大臣をそのまま兼ねること。アモル逮捕に際しては、まず国民に広く労働者の利益に反する活動を行っていたことを認知させ、なぜ彼を首相から解任するか十分説明し、その後、アモルを逮捕すること。
    「以上の指令に基づき、チョイバルサンは固い決心のもと、直ちにこれを実行に移し、さらにドブチン財務大臣、ドルジ貿易・運輸大臣も逮捕すると述べた(p141)」これも鎌倉前掲書が発掘した秘密文書の一節である。スターリンの視点からすれば、チョイバルサンを首相に据えたことによってモンゴルから「反ソ分子」を一掃し、満州国-日本に対する防波堤=衛星国=モンゴル人民共和国をもって、日本軍の軍事侵略への政治的準備が完成したのである。
    この日時1939年2月には、すでに「ノモンハン・ハルハ河戦争」の前哨戦である小競り合いが始まっていた。


    [モンゴル・ノート(その1) 終わり]


    モンゴル・ノート(その2) き坊の ノート 目次

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