き坊の ノート 目次

モンゴル・ノート(その2)




(7) ノモンハン・ハルハ河戦争

いわゆる「ノモンハン事件」のこと、1939年5月~9月。日本軍とソ連軍が正面から対決し、日本軍はソ連の近代装備に正面からぶつかり苦戦し、数万の犠牲者を出した。関東軍が政府の不拡大方針を無視して攻勢を試みるなど、日本陸軍の無謀で強硬な作戦が行われた。ソ連軍側は、勇猛な日本兵の突進に手を焼きながら、冷静で合理的な戦法をとったといわれる。ソ連側の資料では日本側の損失6万1千名、ソ連モンゴル側の損失1万8500人という。日ソの対戦中、8月23日の独ソ不可侵条約の締結発表,そして9月1日ドイツのポーランド侵入により第2次大戦が始まった。そのため日ソともに停戦交渉の妥結を急ぎ、モスクワで9月15日に停戦協定が結ばれた(これに関して、前節でモンゴルのボルド氏の見解を引いた)。
この問題については膨大な戦記や研究書があり、とてもそれの全体を見渡す準備ができていない。ここでは、「ノモンハン事件」は単に「事件」というには規模が大きく、その軍事作戦の意味が重たいことを述べることにする。

8月の関東軍第6軍の兵力とソ連軍ジューコフ軍の兵力をならべてみる。戦車は日本182台、ソ連498台。飛行機は日本300機、ソ連515機。日本兵7万8000人、ソ連兵5万7000人(『ハルハ河会戦 参戦兵士たちの回想』の監修者田中克彦の「日本の読者のために」から)。この数字だけで、多数の飛行機が使われている本格的な機甲部隊の大規模な衝突であることが分かる。それにもかかわらず、なぜ「ノモンハン事件」という小規模で偶然的な印象を与える名称が使われているのか。そもそも、「ノモンハン事件」と言い始めたのはどこの誰なのか。それが、どのようにして定着したのか。・・・・・・こういう初歩的な疑問に、わたしは答える力がまったくない。前掲の『ハルハ河会戦 参戦兵士たちの回想』の田中克彦の文ではじめて知ったが、ソ連においても「ハルヒーン・ゴルの事件」と「事件」を使っているそうである。モンゴルでは「戦争」や「会戦」という語を宛てている(日本で「ハルハ河戦争」という語を言い始めたのは田中克彦である)。「戦争」というのは、国家間の軍事衝突で、宣戦布告で開始し停戦交渉の後和平協定を結ぶ、という定型を想定するのが「古典的戦争」であろう。この古典的戦争は国家の正当な行為とみなされていた。「ノモンハン事件」は、小規模な国境紛争が何ヶ月も断続したのち、宣戦布告なしに始まった大規模な航空・機甲部隊の「会戦」であった。4ヶ月間の戦闘であったが、双方の人的損耗は数万をもって数え、その意味でも大規模であった。

モンゴルの立場で、ハルハ河戦争を考えるとどういう問題の立て方になるのだろう。本稿ではこれが本来は中心になるべきだが、(日本語)資料そのものがほとんどないと思われる。 (1)東アジア情勢とハルハ河戦争 (2)「ソ連化」の完成としてのハルハ河戦争 (3)独立国=衛星国としてのモンゴル などがすぐさま思いつける(あくまで、思いついただけで、展開する準備も力もない)。
日本陸軍に即してこの問題を考えると、(1) 国境紛争に関する問題と、(2) 戦闘作戦行動の問題の2つをわたしはまず立てる。ここではこの2つについて、これまで勉強したところを開陳して、あとは今後の努力に期すということにしておく。

(ⅰ) 2種の国境のこと

「ノモンハン事件」で問題になる国境は、現在はモンゴル-中華人民共和国(内モンゴル自治区)の国境である。1939年当時はモンゴル人民共和国-満州国の国境であった。その前は、国境ではなく外モンゴル-内モンゴルの境界線、つまり中国(中華民国や清)の内部の行政境界線であった(外蒙-内蒙という旧式な言い方もある。内モンゴル自治区の中国での表記は内蒙古自治区)。
内・外モンゴルの成立は、(3) 清によるモンゴル領有で簡単に記しておいたが、17世紀前半に内モンゴルが清に属し、17世紀末に外モンゴルを領有した。そして、その段階以降に内・外モンゴルの行政境界線が画定された(最初の画定を「境界画定」といい、その後の修復などの際は「確定」と言うのが正式であるという)。すぐ説明するように、境界画定は1734(雍正12)年のことであった(雍正は清の年号)。

清朝は、内・外モンゴルを領有したあと、この北辺の地の安定を図るために「守備隊」を募集編成する(後の、満州国中央部ハイラルの南方、嫩江[ノンジャン]地方で兵を募集して、内モンゴル北西辺境のホロン・バイル平原へ移駐せしめた)。そして、この守備隊を核として周辺の牧民を結集させ、軍事組織「旗」として編成した。これが、旧バルガである。その後、外モンゴル(ハルハ地方)から移住してきたのが新バルガで、同様に「旗」を持って編成した。
新バルガの移住してきた年(1734)に、ハルハ(外モンゴル)とバルガ(ホロン・バイル平原)の境界が境界画定されたのである。この時代、清は内・外モンゴルだけでなく、新疆・青海・チベットなどまで最大の版図を誇っていた。その領域内の秩序形成として行われた境界画定の作業であって、本格的なものである。
現地において清時代の公文書を直に手にして調査した北川四郎の証言を引用する(『ノモンハン 元満州国外交官の証言』現代史出版会 1979)。
私は昭和12年5月、満州里の弁事処付きから、新京の外交部本部の調査司第1課へ転勤になった。通称「調一」と呼ばれたが、この部署はもともと外交部ロシア科の国境班から独立したものであった。私が転勤して驚いたのは、ハイラルの元ホロン・バイル副都統衙門(役所)等にあったのであろう、おびただしい数のマンジュウ語档案(公文記録)が集められていたことである。・・・・・・清時代のホロン・バイルの行政公文書である档案には、当然のことだがこのマンジュウ語が使用されていた。档案の大きさは縦約35センチ、横約25センチ、厚さ約67センチに綴られ、竹筆で書かれていた。調一の部屋には、およそ五〇冊以上も集められていただろうか。興安北省から出向したマンジュウ人二名と蒙古人一名が、この档案を中国語に訳し、さらにそれを中国人が日本語に翻訳したのである。
この清時代の公文書に従って、境界を示すオボ(石積み)が実際に存在しているかどうか、満州国の合同調査が行われた。外交部からそれに参加した北川四郎は報告書を書くのである。その報告書ができあがったのが1937年秋のことで、ノモンハン事件勃発までに1年半以上あった。
その話に入る前に、この「満蒙国境」がどのようなところであるのか、前提となる情報を少しあげておく。ホロン・バイル平原の一般的概念である。
面積はちょうど九州に匹敵するぐらいで、草原と砂丘が海の波のように広がっている。高い山も樹木もなく、湖沼が所々に点在してはいるが、全体としては単調そのものである。この草原の草は牧草としては優良といわれ、古くはモンゴルの遊牧民族が家畜の群を養うためにそこを行き来したという。・・・・・・われわれ日本人には、九州に匹敵する広さの平原が現実的に思い浮かばない。さらに、湖沼とあるが、これは日本における「湖」「沼」とはかなり違う。この平原に散在するのは塩分を含んだ塩湖であり、沼は泥炭質の泥沼という、およそ飲料などの生活用水には適さない代物である。当時、そして現在も、生活用水を得るのはハルハ河とその支流のホルステン河であった。この2つの河の水は透明な真水であり、モンゴルの遊牧民族はホロンバイル平原の牧草を馬や羊に食べさせ、ハルハ河の水を飲ませてその生活を営んでいた。(三野正洋『ノモンハン事件日本陸軍失敗の連鎖の研究』(WAC 2001年)より )
北川四郎は「面積約15万5600平方キロの広さに人口はわずか7,8万にすぎない。その60パーセントはハイラル、満州里などの鉄道沿線都市に集中していて、残りの40パーセント、つまり3万4,5千人が大草原に点々と住んでいた」と書いている。大草原の中で「蒙古人を見かけることはごく稀であった」という。

図中「国境線」とあるのは、ソ・蒙側の主張する国境。日・満側の主張はハルハ河


下図「ハルハ河断面図」は右が西[モンゴル=ハルハ]側、左が東[満州国=バルガ側]で、上図と反転していることに注意。川岸の高い方がモンゴル側。縮尺にも注意。(北川前掲書より)

この人口希薄な辺境地帯が、突然、現代史の先鋭で悲劇的な舞台となったのは、外モンゴルがモンゴル人民共和国として独立し、その東隣りに日本の傀儡として満州国が内モンゴルの東北部分と黒竜江省などをもって1931年に成立したからである(日本は満州国ひとつで満足したわけではなく、自余の内モンゴルに工作を行いいくつかの自治政府を作ろうとした。1939年の「蒙古連合自治政府」など。)(次の地図はつからはらの日本史工房から借用)。


日本-満州国側の国境認識はどういうものであったであろうか。この地方を日本は本格的に測量したことはなく、日本側の資料は、日露戦争で帝政ロシア軍から鹵獲した地図しかなかった。北川四郎「ノモンハン戦の国境意識」(『ノモンハン・ハルハ河戦争 国際シンポジウム全記録1991年東京』所収)より引用。
帝政ロシア軍は日露戦争前から清国の許可を得て、正規の測量器具を使用し、警備隊までつけて満州の測量を始め、戦後もザバイカルとアムールの2測量隊を満州に残して測量を継続し、全満の測量をほぼ完了した。これに対し、日露戦争中の日本軍の作戦用地図は30万分の1という縮尺で、おまけに奉天以北は粗雑というより白紙同然だった。従って、戦争中は鹵獲したロシア軍の地図を利用し、また戦闘中に測量して急場をしのぐありさまだった。日露戦争後も満州国建国まで、日本は中国側の許可を得られなかったため、ロシア軍と比較してきわめて精度の低い秘密測量に頼るしかなく、シベリア出兵時に入手したロシア軍の8万4000分の1の地図を原図として、10万分の1の地図を作製したのである。 「帝国」として未熟で促成栽培的な日本帝国の実状がよく分かる。それにくらべてロシア帝国は、日露戦争が敗北に終わり国内は革命勢力の台頭で不安定であったのに、満州の測量を完成させるまで測量隊を残していたというのは、さすが16世紀からのシベリア進出の歴史を持つ帝国と思わざるを得ない。

さて、それで日本軍はロシア帝国軍由来の地図を使っていたのだが、その地図のロシア-清の国境線はキャフタ条約(1727年)で決定された。このキャフタ条約の際、露清両国ともに「(国境には)山または河を利用すべきである」という共通の基準を持っていたと思われると、上記北川氏は述べている。露-清国境線が山や河を用いて確定したのだが、後にモンゴル-満州の国境線となるのは清の行政境界線であって、キャフタ条約の対象にはならない。だが、ロシア軍は勝手に露-清国境線の方式(山・河利用)を内・外モンゴル境界にも適用し、ハルハ河を国境線とした。そのために、日本軍もそれをそのまま踏襲したものと思われる(それの方が日本に有利でもあった)。
ロシア帝国軍の地図を継いだソ連赤軍は、「1932年から34年にかけて、ハルハ河流域では旧露軍8万4000分の1の地図を現地補整して20万分の1の地図に編集し直し」、このときモンゴル側の要請に従って境界線をハルハ河からハルハ河東北方へ書き改めた。


このようにして、モンゴル人民共和国-満州国の国境が2種生まれてしまった。
  1. ハルハ河東北方約15kmの国境線。これは清朝の行政境界線に由来するもので、モンゴル側の主張。
  2. ハルハ河を国境とする。これは「河を国境にする」というキャフタ条約を拡張適用してもので、ロシア帝国によって使われ、自国に有利でもあったので日満側が主張した。
法理論からは明らかにモンゴル側の主張が正当であるが(注2)、この2種の国境線が国境紛争の火種になったことは容易に想像がつく。なぜなら、日本陸軍ことに関東軍は独善的に、ソ連軍-モンゴル軍を弱いものだと決めつけており、ことを起こして威嚇し攻め込んでいけばよい、という安易で好戦的な方針をもっていた。そのために、「ハルハ河が満蒙国境である」と信じて疑わない第1線の将兵をかりたてて、ことを起こすことになんら躊躇しなかった。

[注2] 戦史叢書『関東軍〈1〉』は防衛庁戦史室の編纂によっているため、旧陸軍の判断がそのまま窺えるところが多い。日・満とソ・蒙の国境線の食い違いに関して、『関東軍〈1〉』は次のように述べている。
当時、日満側がハルハ河をもって国境としていたのに対し、外蒙およびソ連側は、清朝の雍正12年(1734年)におけるバルガ、ハルハ両族の勢力争いに対する清朝政府の裁断を楯に取り、その境界線が200余年後においても効力があるものと主張して譲らなかった。(p318)(地名の漢字表記はカナ表記とした)
あるいはまた、「注」において次のようにも述べている。
(東部、北部の)満ソ国境線について、当時の現況から日満側がソ連の主張に幾多の不満を持ったとしても、もともとは国家間の条約に由来したものであったのに対し、前述のハルハ河流域の境界線のごときは、当時の清国内部の辺境における一時的な行政区分にほかならなかった。(p318)
この『関東軍〈1〉』の評者は、つぎのように言っているのである。満ソ国境は国家間条約に基づいているもので、ソ蒙側の主張には一定の根拠があった。それに引き替え、ハルハ川流域の国境線は、200年も前の清国辺境でのバルガ・ハルハ両族の紛争の「一時的な」裁断にすぎず、それに固執するソ蒙側の態度はおかしい、というものである。これは評者の国境に対する無知を示していることは明かである。200年も前の2族の紛争の一時的な裁断が、現在まで継続して効力を持っていたことが重大であり、その「一時的な行政区分」について、境界標識が現在も残っているのかどうかを調査した満州国調査隊の方法論は正当であると言わざるを得ない。
これに対して、ハルハ川国境の根拠として評者があげているのは
現に明治39年(日露戦争の終わった翌年)帝政ロシアのザバイカル軍測量隊の調製による8万4千分の1の地形図には明らかにハルハ河に境界線が引かれてあり(後略)
が最も古いオリジナルであって(実際に測量して作成している)、その後本格的な測量や境界線についての外交的な確定作業はなされていない。つまり、ハルハ河国境説は帝政ロシア軍にしかさかのぼらないのである。


1935年1月8日に最初の衝突「ハルハ廟事件」があった。
外蒙騎乗兵10余人が渡河して、オランガンガの満軍監視哨を追い払ってハルハ廟を占拠し、外蒙第16騎兵連隊本部長ドンドフが参加してきた。急報により派遣された満軍北警備軍の偵察隊と衝突して、相互に数名の死傷者を出した。(矢島庚允「ノモンハン戦の契機と動因」前掲『シンポジウム全記録』所収)
モンゴル側からすると、渡河した騎乗兵10余人は自国の国境内の行動をしている。したがって満軍監視哨を破壊するのは当然の防衛的行動である。おそらくハルハ廟なる古い施設がモンゴル国内の施設であることについては、現地での古い慣習が裏付けていたであろう。それに対して日満軍の認識からすると、騎乗兵がハルハ河を渡河した時点で国境侵犯である。外蒙兵を攻撃するのは当然だと考える。
この「ハルハ廟事件」についてゲンデン首相は「この地方が外蒙領であることを確信しているが、満州国側が国境確定の交渉を提議していることに鑑み、交渉に応じる」と声明して、会議がもたれることになった。これが満州里会談である。
この満州国-モンゴル人民共和国のあいだの会議は、その双方の背後に日本とソ連とが控えているのであるから簡単にまとまるはずがない。日本は満州国を足がかりに内モンゴル全体を把握しようとしており、ソ連はモンゴルの軍事支配を完成させようとしていた。

日満側はこの会談で初めてモンゴル側の国境線の主張内容を知り、それが歴史的に根拠のある主張であることを察知したものと思える。それで日本から満州国へ東洋史学者3名(矢野仁一・和田清・稲葉岩吉)をまねき、満州国内外の資料を調査・研究させた。そしてその結果、清時代のマンジュ語档案[永久保存用の公文書]が残っていて、モンゴル側の主張通りであることが確認された。
1937年6~9月にかけて、境界標識「オボ」が現存しているかどうかの満州国としての現地調査が行われた。調査団の構成は、興安北省・外交部・治安部と警備兵約20名である。北川四郎は、一員として終始この現地調査に加わった。その間の、自然風物の描写など興味深いものがあるがそれはすべて省略して、肝心の所だけ示す。
満蒙国境は、北の満蒙ソ三国国境から南の満蒙支三国国境まで、全線約760キロ。・・・・全線にわたって、外蒙兵が2騎づつ、4~5キロの距離をおいて我々と並進するのを見た。ハルハ河沿岸では、対岸に彼らの姿を見かけた。・・・・発見された境界オボは、南方の[満蒙支]三国国境オボを含めてこの北方につづく山岳地帯の4つだけであった。古老は、躊躇なく案内してくれた。ただ石を積んだだけのなんの変哲もないオボであった。人がまったく踏み入らぬ山岳地帯のため、毀損されることもなく残ったものと考えられた。・・・・こうして、オボのあったとされる跡は、古老の案内で全部確認することができた。(北川前掲書p90-99)

新京へ帰任したあと、当然のこととして私が報告書を書きあげた。測図には、川瀬さん[川瀬志郎、参謀本部陸地測量部を定年退職して、治安部に入ってきた、測図一筋の職人的人物]に頼んでオボ跡を屈折点として道光29年の境界線を入れてもらった。さすがに、これに「正しい国境線」という名称をつける勇気はなかった。しかし、報告書では、道光29年の境界が正しい国境であると解説しておいた。(同p102)
「道光29年」の道光は中国年号で、道光29年は1849年=嘉永2年に相当する。北川前掲書に「外交部は、道光29年の境界図写を持っていた」(p76)といっているから、それのことと思われる。
この「ハルハ河国境説を否定する報告書」(同(p122))は、一連番号を付した極秘資料として日本国外務省、関東軍、陸軍省、参謀本部、駐満海軍部、満州国治安部へ送付された。1937年秋のことである。しかし、報告書は実質的に目を通されることもなく、その重要さを認識されずに終わってしまった。1939年初めから、「ノモンハン・ハルハ河戦争」の前哨戦はすでに始まるのである。(通常、ノモンハン事件は39年5月11日から始まるとするのが公式的であるが、これは次に述べる「満ソ国境紛争処理要綱」が作戦命令として4月25日に下達されたことに関係がある。)

ちょっと信じがたいようなことである。「ノモンハン事件」の2年前に現地調査が行われ、国境についての双方の見解の相違はなくなることが資料的にも実地調査でも確認されているのである。一口でいえば、ノモンハン戦は避けることができるし避けるべき戦いであったということになる。だが、その資料は日の目を見ず、激しい戦闘に突入し、幾万の死者を双方でつくることになる。なぜ、そのような愚かなことが行われたのか、問い直してみる必要がある。
  1. 10数㎞の国境線の位置変更に、重要な紛争の種となる資源的なもの(油田など)が関連するのか。→
  2. 日満側、日本陸軍にはモンゴル占領や、シベリア占領の戦略的な展望(北進論)があったのか。→
  3. 「ハルハ河国境論」が根拠薄弱であることに、国家として引け目を覚えなかったのか。→そんな観点さえなかった。
北川四郎は前掲書あとがきに、
それにつけても、遺族の方々は、事件前に「正しい国境線」が分かっていた事実を知られれば、さぞかし驚かれることであろう。・・・・ノモンハン事件はなぜおこったか。それは日本人が国境というものを知らなかったことが根本的原因である。(p235)
と、書いている。おそらく、その通りなのだろう。だが、その無知のまま、なぜ、関東軍は兵士の命を湯水のように使う無意味な敗北戦に突入したのか、という問がますます浮かび上がってくる。

(ⅱ) 「満ソ国境処理要綱」

満州国の独立宣言は1932年2月である。いち早く日本が承認したが、独・伊などを除くと国際社会は一向に承認しなかった。実質は日本-関東軍の傀儡国家であった。満州国成立によって、新たに満ソ、満蒙の国境が生まれた。
満ソ国境は清ソ国境を引き継いだもので、国境協定そのものは存在していた。が、ロシアの不平等条約に発しており、東部国境には不明確な所が多かった。石の国境界標が失われている所が大部分で、しかも、勝手に移動してあったりした。つまり、東部国境は、国境協定はあるが現場での実際の国境線が不明確であった、ということだ。しかし、アルグン川を国境とする北方国境においても、冬季結氷時期に渡河調査を行うなどで紛争となっている。この場合は国境線は明確であるといえよう。いずれにせよ、国境紛争が多発した。関東軍の調査による件数は

年次1932-343536373839404142
回数計1521761521131661951519858
東部--948111096---
北部--44224248---
北西部--1491451---

の多数回にのぼる(「-」は資料欠、戦史叢書『関東軍〈1〉』p310)。ソ連、満州国のいずれに非があるのかはともかく、日本-満州国側はソ連に非があるとして、その大部分について抗議書を提出している。

[注3]『関東軍〈1〉』の上表には「概況」という欄があり、関東軍側からの観測があげてある。日本側からの国境侵犯にはまったく触れていないのだから一方的な言い分かも知れないが、参考までに、1937~39年の部分の「概況」を引用してみる。
この時期におけるソ軍の国境侵犯は、大規模かつ一層計画的となり、航空兵力、機械化兵力をもって近代武力戦を展開し、その状況はあたかも戦争に至らざる程度の武力戦実験場のような観を呈した。ソ軍の目的には、多分に政略的、戦略的なものがあったようである。
また、『関東軍〈1〉』は上表に続く本文中で、つぎのように、日本とソ連の東部・北部の国境紛争への「基本的態度」の違いを指摘しているのは興味深い。
紛争解決の基本的態度として、日満側は何よりも「国境線の確定」を第1義としていたのに対し、ソ連側は、国境線はアイグン、天津、北京の3条約と興凱湖、琿春の2界約によりすでに明確に決定済みであるので、改めてこれを討議する必要はなく、ただ、発生した紛争のみを取り上げるべきであるとした。(アイグンは[王+愛]琿が正しい表記。興凱湖界約は1861年6月、沿海州をロシア領としたことに関連して東部国境の確定に関する界約。琿春界約は1886年5月、興凱湖界約による標識設置に関する界約。)
帝国主義者として新参者である日本の苛立ちがよくわかるような「基本的態度」の相異である。


ところが、既述のように、満州国西北部国境の満蒙国境での紛争は少し意味合いが違う。国境線があいまいだったのではなく、彼我の主張が食い違っていたのである。ハルハ河(日満)と、それより10数㎞東よりのノモンハン・オボーを通る国境(ソ蒙)の違いである。これは「国境線が不明確であった」というのとも違うので注意されたい。国境協定自身がいまだできていなかったので、繰り返すが、日満側とソ蒙側の国境線の主張が相異していたのである。
国境線の主張が相違していれば、交渉によって解決するのが本筋である。実際、満州里会議が持たれたのであるが、実らないまま3回で終わってしまった(1935~36年)。

ノモンハン・オボー付近で衝突事件が増えてくるのは、1938~39年であるという(半藤前掲書p36)。そもそも、日本-満州国が「ハルハ河国境説を取り始めたのはいつからか」という重大問題がある。国境の主張は国としてもっとも基本的な主張の1つであるからである。つまり、日本帝国憲法下では、天皇の裁可にかかわる問題だということである。満州里会議で日本はハルハ河説を主張したのは間違いのないことである。だが、それは天皇裁可に達しないところで主張されていた。
天皇、内閣・政府、参謀本部、関東軍、満州国政府のそれぞれのレベルで、この問題がどのように扱われ、結論が出され、認識されていたか。矢島光允『ノモンハン全戦史』(自然と科学社 1988年 p16)に引用してある額田旦『陸軍省人事局長の回想』(著者は当時陸軍省補任課長であった人物)という書物によると、 などが判明する。北川前掲書(p126)には1939年6月3日付の陸軍省から関東軍あての電報には次のようにあり
従前満州里会議等の経緯もあり、国境線として、ハルハ河の線を主張せざるを得ざるに付き、この点ご了承ありたい。
陸軍省がハルハ河国境説をとっていた証拠になるとしている(なお、この日付はノモンハン事件の最中である)。これらの情報を見ていると、日本-満州国側が、「ハルハ河国境説」を採っているといっても、根拠をきちんとさせて天皇から第1線将兵まで一致しているというのではない。旧ロシア帝国の地図を見ている陸軍省が「ハルハ河国境説で行きましょう」と言っている程度[そういう段階]である。
半藤前掲書(p36)には、「昭和9年の関東庁の地図では、外蒙古側が主張するハルハ河東方13キロの線が国境となっていたということである」という興味深い情報がある。「関東庁」は、ポーツマス条約の結果ロシアから継承した関東州租借地、満鉄付属地の支配をするため、1906(明治39)年に置かれた役所で、初めは「関東都督府」と言った。また、関東軍は満州国国境の警備隊を分駐するのに、ノモンハン・オボーなどモンゴル側の主張する国境線に沿って(ハルハ河から10数㎞後退して)置いていた。この事実は、関東軍といえども現場においては、その主張する国境線(ハルハ河)と歴史的な境界線(ノモンハンを通る線)とを区別せざるを得なかったことを雄弁に物語っている。
前述のように、ハルハ廟事件(1935年1月)の後、満州里会議が3回にわたって持たれる(第3回が1936年11月終了)。この会議を受けて、満州国による国境調査が実施され「ハルハ河国境説は誤謬」の内容を持つ報告書が書かれた(1937年秋)。だが、関東軍はもとより日本陸軍全体がハルハ河国境説に固まっていて、すでに、学術的に厳正な一編の報告書では、どうにもならない状況になっていた。

この段階における、関東軍の「国境」に対処する方式が辻政信参謀の起案による「満ソ国境処理要綱」である。この要項の好戦的な性格が、ノモンハンの国境紛争を拡大し、避けることのできた紛争を、甚大な被害を伴う一大会戦としてしまった、といえるのである。
「満ソ国境処理要綱」は全8条で、「関作令(関東軍作戦命令)第1488号」として1939年4月に発令されている(次の引用は、戦史叢書『関東軍〈1〉』からだが、読み易いようにひらがな書きにし濁点・句読点をつけた。第1項を「方針」とし、第2~8項を「要領」としている)。
方針
 軍は侵さず侵さしめざるを満州防衛根本の基調とす。之が為満「ソ」国境に於ける「ソ」軍(外蒙軍を含む)の不法行為に対しては、周到なる準備の下に徹底的に之を膺懲し、「ソ」軍を慴伏せしめ、その野望を初動に於いて封殺破摧す。

要領

 敵の不法行為に対しては、断固徹底的に膺懲することに依りてのみ事件の頻発又は拡大を防止し得ることは、「ソ」軍の特性と過去の実績とに徴し極めて明瞭なる所以を部下に徹底し、特に第1線部隊に於いては国境接壤の特性を認識し、国境付近に生起する小戦の要領を教育し、いやしくも戦えば兵力の多寡理非の如何に拘わらず必勝を期す。

 国境線の明瞭なる地点に於いては、我より進んで彼を侵さざる如く厳に自戒すると共に、彼の越境を認めたる時は、周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用い之を急襲殲滅す。右の目的を達成する為一時的に「ソ」領に侵入し又は「ソ」兵を満領内に誘致滞留せしむることを得。この際我が死傷者等を「ソ」領内に遺留せざることに関し万全を期すると共に、勉めて彼側の屍体、俘虜等を獲得す。

 国境線明確ならざる地域に於いては、防衛司令官に於いて自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し、無用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ。而して右地域内に於いては、必要以外の行動を為さざると共にいやしくも行動の要ある場合に於いては、至厳なる警戒と周到なる部署を以てし、万一衝突せば兵力の多寡ならびに国境の如何に拘わらず必勝を期す。

は省略)
この作戦命令が実際に前線に「示達」されたのは、いわゆる「第1次ノモンハン戦」の直前の4月25日である(第1次ノモンハン戦の始まるのが5月11日)。この「満ソ国境処理要綱」は作戦命令であるので、この命令に違反することは許されない厳重なものである。
まず、を一読感じることは、独善的で相手を見下している口調の異常さである。「徹底的に之を膺懲し」とか「慴伏せしめ」とか「その野望を初動に於いて封殺破摧す」というような用語の異常さである。冷静な彼我の計量や合理的な思考ではなく、高飛車に強く出れば相手は恐れ入って縮こまってしまうという前提に立っている。「ソ軍の特性と過去の実績」とまで言っているのは、理由のない思い上がりとしか思えない。これは日露戦争のことを言おうとしているのである。満州事変後の情勢をうけ、参謀本部作戦課が作成した極秘資料「対ソ戦闘要綱」(1933)というものがある。半藤一利『ノモンハンの夏』から重引しておく。
ソ連人は「素朴にして特に運命に対し従順」で、政治的暴圧に「多くは消極的自棄をもってこれを甘受し、あえて難境を打開せんの企図心に乏し」。
ソ人は概して頭脳粗雑、科学的思想発達せず。従って事物を精密に計画し、これを着実かつ組織的に遂行するの素性および能力十分ならず。また鈍重にして変通の才を欠くところ多し」(p46)
引用するのが情けないほどの内容だが、こういうロシア=ソ連蔑視が、現実に「満ソ国境処理要綱」に具現化しているのである。それによって誤った作戦がたてられ万余の兵士が死んだことを思うと、恐ろしいことだ。

この「満ソ国境処理要綱」が実施された場合にどのような問題が起こるか、具体的に検討すればすぐ分かることだが、この命令はとんでもなく好戦的でむちゃくちゃな命令なのである。「国境を防衛する」ことを目的とした戦闘であれば、「国境線が明瞭な地点」では、敵の「越境」を認めたら、“国境線の向こうへ退却させる”というのが基本となるはずである。ところが、この作戦命令はまったく違う。がいうように「彼の越境を認めたる時は、周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用い之を急襲殲滅す」としているのだ(繰り返すが、これは作戦命令なのである)。「急襲殲滅」しないといけないのである。少なくとも、「急襲殲滅」をめざして作戦行動が組み立てられなければならない。急襲殲滅とは、敵を突然襲って皆殺しにほろぼすということだ。“国境線の向こう”へ「逃がしてしまう」ことがあれば、これは作戦命令からすると失敗で、「逃がさないように」しないといけない。敵を包囲し逃げられないようにして、全滅させるべく攻撃する、ということになろう。万一逃げるような敵があれば、追っていって、やっつけることになる。だから追撃のさい、「一時的に『ソ』領に侵入」することがあってもかまわない、というのである。
平たく言えば「越境している敵を見付けたら、それを好機として、敵を全滅させる作戦をとりなさい」ということだ。つまり、国境紛争処理ではなく国境紛争を好機とした開戦方針なのである。これなら、場合によっては全面戦争になることもありうる。ノモンハンでは実際そうなったのであるが。

には、さらに非常識な内容が含まれている。「国境線明確ならざる地域」(満・蒙国境線を、このように表現している。実際は彼我の国境線の主張が相違していたということなのだが)においては、“彼我の接触を避け、できるだけ余裕を持った国境地帯を設定し、外交交渉の結果を待つ”というのが常識的な(表側の)作戦命令であるはずだろう。ところが、この作戦命令では「(その地域の)防衛司令官に於いて自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し、無用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ」という、国境についての無知をさらけ出した非常識な作戦命令を下している。国境は国家意思の高度な表明の1つであるから、個々の司令官が「自主的に認定」できるような性質のものではないのである。それを敢えてせよ、と作戦命令しているのであるから、軍事命令が帝国憲法に違反していると言える。言い換えれば「天皇の顔にドロを塗る」ことになるわけである。
前線にいる司令官が、国境線を「自主的に認定」するというのだから、「国境線明確ならざる地域」では何でもありになる。敵兵をみたら殲滅あるのみである。しかも、信じがたいことだが「兵力の多寡ならびに国境の如何に拘わらず必勝を期す」という。何度も言うように、これは正式な作戦命令であって、精神訓話の類ではないのである。彼我の兵力の「多寡」は実際に戦闘を仕掛けるかどうかの際に重要な判断材料になるはずだが、それを考えずに常に「必勝を期す」という命令である。味方が多勢の時はもちろん、「独りになっても勝つつもりで突貫せよ」ということだ。これでは、退却とか敗北ということは不可能になる。「国境の如何に拘わらず」とは、敵国へいくら追撃して入り込んでもかまわない、ということだ。「必勝を期す」、つまり、勝てばそれですべては許される、と。
「戦争はきれい事ではない」のだから、必勝の信念が重要だ、と考える人があるかもしれない。彼我の国境線の主張が違う地帯で、「敵を挑発してたたく」という作戦をとることもあるのではないか、と考える人もあるかもしれない。それはあるかも知れないが、それを正式な軍の作戦命令として発令する国は、非常識な国だといわれるだろう。つまり「表の命令」ではなく「裏の指令」としてならあり得るかも知れない、とわたしは思う(「表の行為」としての戦争は「きれい事」なのである)。
国家の持つ表の暴力としての警察と軍隊は、法的秩序に則って行動することが前提となっており、国際法に従って行動する限り軍事行動は正々堂々たる国家行為と見なされるのである。したがって、「関作令第1488号」がどのように非常識であるかを、まず確認しよう。そして、このような非常識な作戦命令を認めるほど、この時期の参謀本部-陸軍省は腐敗していたのか、というのが次の問題となる。満州の関東軍から上がってくる「満ソ国境処理要綱」は、関東軍の上位組織である参謀本部-陸軍省の承認を受けているのだから(形式的には天皇の承認も)。

(ⅲ) 「満ソ国境処理要綱」(続き)

辻政信(関東軍作戦課員)が「満ソ国境紛争処理要綱」を起草したのは、1939(昭和14)年3月またはそれ以前と思われる。関東軍司令官植田謙吉はこれに同意した。その後、東京で師団長会議が開かれ、関東軍からは磯谷参謀長が出席したが、その際に「満ソ国境処理要綱」案を参謀本部に提出した。陸軍省へは、「ハルハ河国境説」を正式に承認するよう要請したと言われる(矢島前掲書p16~17)。
ところが、参謀本部は多忙を極めていたこともあろうが、「処理要綱」の検討を即座にはせず放置していた。関東軍では、参謀本部から特に反対されなかったのでこれを認可されたものとして、4月に「関東軍作戦命令第1488号」として発令し、既述のように4月25日には新京に兵団長をあつめ植田関東軍司令官自らが直接に「下達」した。これ以後は「隷下の司団長としてこれ(満ソ国境処理要綱)を実行しなければ命令違反となる」(北川前掲書 p126)ということになったのである。
したがって最前線の将兵たちが、ハルハ河国境を信じ、それを「越境」して我が方へ侵入してくるモンゴル騎兵を「急襲殲滅」せんとし、「必勝を期」したのは当然なのである。そうしなければ、命令違反となるのだ。

関東軍の立場からすれば、参謀本部へ正式な形式によって「満ソ国境処理要綱」案を提出してあって、認可を待っていた。師団長会議がおそらく3月末~4月初にあり、数日~1週間程度待ったのではないか(これについては目下資料なし)。特に咎めれらる点も注意もなかったのでそのまま受理されたものと理解して満州へ帰った、というのはありうることだ。(参謀本部で未検討であることを、うすうすは知っていても、それをいいことに、頬被りして、受理されたものと理解するというやり方をした、ということも考えられる。)
当時の参謀本部作戦課長の稲田正純大佐は、戦後、雑誌「別冊知性」の論文で、次のようなあいまいな説明をしている。
当時の情勢上、北辺においては極力平静を維持する必要があったので、紛争が起こった場合など、単に関東軍限りの立場において兵力使用の適否と限度を判断してはならなかったのである。
この問題につき中央としては如何なる程度まで関東軍の裁量に委すべきやは、情勢を勘案して明確に律する必要があり、これが中央の同軍に対する重要な統帥事項であった。
要するに中央部の意図はケース・バイ・ケースの方式で、事態を紛糾拡大させないよう現地と密接に連携をとりつつ処理するというのである。右処理要綱の趣旨についても以上の大筋に立脚した上で認めるというのがその真意であって、これら中央の意向について幕僚連絡その他によって十分に伝わっていたはずである。(『関東軍〈1〉』(p425~6)より重引)
稲田課長のこの言い訳は、事後のお役所作文でしかない。「重要な統帥事項」が統帥されていなのは歴史的事実であって、それは全くのところ「中央」の参謀本部の怠慢以外のなにものでもない。「処理要綱の趣旨」は「以上の大筋」と完全に背馳していることを正確に読みとって、きびしく国境紛争の処理法の理念に則った「処理要綱」を示すのが、参謀本部の役割である。
関東軍の暴走がたしかに問題であったのだが、暴走を押さえる役割の陸軍中央がその役割を果たしていない所にも問題があった。ここに示しているのは、太平洋戦争直前の日本陸軍が、すでにコントロールの効かない暴走をはじめていたことの、具体例の1つである。
例えば、かつて歴史ブームのきっかけとなったシリーズ中央公論社「日本の歴史」の第25巻は林茂『太平洋戦争』であるが、それがノモンハン事件を概括しているところを引用しておく。
東京で三国同盟問題が難航しつつあったころ、満州の西北部、外蒙古との国境に近いノモンハン付近では、日本軍とソ連軍とが激しい砲火を交えていた。いわゆるノモンハン事件である。この事件は(昭和)14年5月11日、外蒙古軍と満州軍とのあいだに小規模な衝突が起こったことに端を発したが、最初のうちはたんなる局地的な国境紛争にすぎなかった。
日本側でも参謀本部・陸軍省などの陸軍中央部は、日華事変が泥沼の状態にはいり、三国同盟交渉も行きづまっている現在、この紛争が外蒙古を援助するソ連との全面的衝突に発展することを警戒して、できるだけ局地的に解決する方針を示していた。しかし、関東軍では服部卓四郎中佐・辻政信少佐などの作戦参謀らが強硬意見を主張し、第23師団を中心に大部隊を動員し、さらに陸軍中央部の以降を無視して130余機の航空部隊によって、外蒙古領の飛行場を爆撃した。
こうして日本軍とソ連軍の戦闘はしだいに本格的なものとなった。(p126)
これは、ノモンハン事件についての「定説的」な見方だと思う。関東軍の服部-辻の強硬派が独断専行し、陸軍中央がそれに引きずられるという構図で、関東軍が悪者になっている。しかし、関東軍以上に陸軍中央の無能と無策を厳しく指摘することが必要ではないだろうか。泥沼状態の「支那事変」の状況下で、「北辺」の静穏を心がけるという陸軍の戦略構図があったのは確かである。この状況下でソ連とことを構えること、まして全面戦争に入ることは避けたいとするのが「陸軍中央」の意志であったとしてよいかも知れない。だが「陸軍中央」はその方針を徹底しない。
小論ですでに指摘してきたように、「ノモンハン・ハルハ河戦争」は戦う必要のない戦争であった。このことは1万を越える死者、多数の負傷者・悲惨な運命をたどった捕虜達を考えると、憤りを覚えずにはいられない。外交交渉のレベルへ問題を持ち込んで戦争を回避するチャンスが少なくとも2つはあったのである。 厚生省援護局の発表(1972年)では、ノモンハン事件の日本人戦没者を1万1124名としているという。矢島前掲書は妥当な日本人全死傷者数を2万2000名程度と推測している(p433)。ソ連軍事百科事典(1980年)では、ソ蒙軍の死傷者数1万8500人としているそうである。これらの人数は、捕虜数もふくめて、現在も日本・ロシア・モンゴルの研究者の間で論争となっているところである。わたしは、この双方合わせて数万人の死傷者が、戦争が回避されれば出なくて済んだことを、重く考えたい。(なお、戦史では死者数と負傷者数を合計して死傷者数または「損耗数」としたりする。傷病を一緒にする場合もあろう。いずれにせよ、戦闘可能な兵士数が問題なので、死者と傷病者を区別しないのである。)
もうひとつの観点は、この関東軍の好戦的な方針が何ら全体的な戦略をもたない孤立・無謀な戦闘に駆り立てるだけであったことを指摘したい。怒りをもって指摘したい。辻らの策謀は実に無責任で、日本国家や国民の全体の行く末を考慮に入れていない手前勝手なものであった。辻らに即して言えば、「勇壮無比な戦闘集団」であることを示したいというエリート意識と顕示欲でしか動いていないと言っていい。
当時ソ連の最も優秀な将軍といわれていたジューコフは、ノモンハンで日本陸軍を圧倒しつづいてヨーロッパ戦線に飛んで活躍し勇名をはせた。『ジューコフ元帥回想録 革命・大戦・平和』(朝日新聞1970)の中でつぎのように日本陸軍を痛烈に批評しているのは有名である。
[ノモンハン後モスクワで、スターリンが「君は日本軍をどのように評価するかね」と質問したのに対して] われわれとハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。とくに接近戦闘でそうです。彼らは戦闘に規律を持ち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決まったように捕虜として降らず、「腹切り」をちゅうちょしません。士官たちはとくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性が無くて紋切り型の行動しかできないようです。日本軍の技術については、私は遅れていると思います。(p132下)
ジューコフは冷静で、しかもフェアである(この浩瀚な『回想録』はスターリン批判後の書物であるが、スターリンに対しても世評におもねることなく常に「正当な評価」を貫いていると評価が高い(訳者「あとがき」))。飛行機についても機甲部隊についても、ソ連軍の欠点・弱点を指摘しすぐさまそれを補う手をうっていく。その合理的で有無を言わせぬ実行力は小気味よいほどだ。日本軍を出し抜くために「音響装置」をつかって「飛行機の爆音や砲、迫撃砲、機関銃、小銃射撃などによる擬音」を出して、夜の部隊の移動を行っている。「(日本の)高級将校は・・・紋切り型の行動しかできない」と指摘し、「日本軍の技術については、私は遅れていると思います」と言っている。これらのジューコフの評語は30年近くも経てからの言葉であるので、細部を取り上げても仕方がないが、こういう冷静でフェアな評語自体が、期せずして日本陸軍の「夜郎自大」(矢島庚允前掲書で頻発する語)な、「矮性」(三野正洋『ノモンハン事件 日本陸軍失敗の連鎖の研究』(WAC 2001) が多用する熟語)な日本陸軍との対比をよく表している。

悲しいことに、日本人は全体として戦争犯罪や戦争責任の問題に正面から向き合うことがなかった。だが、それは日本人の「特殊性」や「民族性」などの問題に一面的に収斂させないで、アメリカの第2次大戦後の世界戦略の中で戦後処理をされていった日本のあり方を究明するという視野の中で扱われるべきだと考えている。この問題は、自ずと、この小論のあとのわたしの課題を示しているというわけである。

辻政信は終戦時には大佐まで位を上げ、マレー・ガダルカナル・ビルマ等で強硬な作戦を常に主張した。自分も幾度か負傷している。当時の戦史物を読むと「下克上」という表現が出てくるが、(関東軍のような)出先の部隊が参謀本部の指示を待たずに(指示を無視して)独断専行することを言う。中央がそれを事後承認せざるをえないようにするのである。辻政信は「下克上」の典型であったと言えよう。
辻は終戦後、日本に帰国せずタイ・仏印・中国と潜伏を重ね、3年後に帰国した。しかも、一種の英雄気取りで選挙に立候補し1952(昭和27)年には衆議院議員に当選している。辻の英雄気取りを支持する日本人も多かったのだ。59年には参議院議員となり、61年に東南アジアに潜伏し行方不明で終わっている。無責任で自分本位であったとして戦史物では現在ほとんど批判的に扱われている人物であるが、辻政信的な人間の戦争責任-政治責任を正面から問うことはなかなか難しい。(2002年6月、鈴木宗男が斡旋収賄で逮捕される前後に、辻政信と比較する論が出ていた。)


つぎの(8)(9)は、材料はほぼ集めてあるのだが、「モンゴル・ノート」といいながら日本陸軍問題にいつまでも関わっている気がしてきたので、ここはひとまず飛ばして先へ進もうと思う。

(8) 越境作戦行動

(ⅰ) タムスク爆撃

(ⅱ) ハルハ河渡河作戦

(9)満蒙国境確定会議




このあと、わたしは、「木村肥佐生論」に進んだ。モンゴルから、重心がチベットに移ったことは否定できない。が、同時に、木村肥佐生という類まれな心の清新な人物を知って、人物論としても打ちこみたくなった。そういう体験をした。
木村肥佐生は語学の才のある人で、しかも運動能力も胆力も抜群であった。わたしは、そのどれも欠如していて、その面でも憧れる気持ちがあったのだろうと、後で気づいた。

モンゴル・ノートの当初のもくろみでは、朝鮮問題にもどって、太平洋戦争の問題、日本の戦後処理問題を追及することを考えていた。その、もくろみを捨てたわけではないが、明治維新以降の「近代天皇制問題」をこそやるべきだとする新しい展望が開けてきて、すこし様子が違ってきた。(2007年 秋)

[モンゴル・ノート(その2) 終わり]



モンゴル・ノート(その1)  木村肥佐生論

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