き坊の ノート 目次

南紀旅行 2003年春(3月25日~4月8日)



目次

  • 長澤芦雪
  • 桜とミツバチ
  • イタチ
  • 鰹となれ鮨(熟れ鮨)
  • 植物
  • 最後に

 長澤芦雪

今度の旅行は、南紀に在住している古い友人T氏のご縁で、主として串本町の臨済宗のE寺に宿泊した。E寺は臨済宗妙心寺派の南紀ではなかなか位置づけの高い(専門用語があるのだが忘れてしまった)お寺なのだそうだが現在は専任の住職がなくて、串本のT寺の住職が兼務で寺の経営一般を扱っておられる。それで、若い見習僧のA氏が留守をあずかる形で住み込んでいて、早朝の清掃・勤行からはじまり夕べの鐘までの禅寺の日常業務をまかされている。わたしはA氏の客分という形で10日ほど居候させていただいたのである。

潮岬の西側の太平洋を枯木灘というが、枯木灘沿いに海と陸の境目を走る国道から、ひと気のない曲がりくねった路地を入り込んでいくと、高さ2m半はある立派な石垣のうえにE寺が静かに建っている。
本堂まえの庭は白砂利できちんと整えられていて、雑草ひとつ生えていない。横に広い堂々たる本堂の屋根のうえは寺領の裏山がそびえていて、山裾は竹藪がひろがり、その上は樫の密林が暗緑におおっている。
石段を登って本堂前に立ち止まると、風の音とイソヒヨドリやメジロの声があるだけで、まったくの静寂が支配する昼間である。



串本には長澤芦雪(ろせつ)の作品を集めた「無量寺・串本応挙蘆雪館」がある。芦雪は丸山応挙の弟子で、南紀の諸寺の招きで応挙の代理として南紀へ出向き、当地へ多くの作品を残した。串本には1年近く滞在したとされる。「天明6年(1786)から7年にかけて、南紀、串本町の無量寺を皮切りに、古座町の成就寺。白浜町の草堂寺、田辺市の高山寺に滞在し、半年にも満たない間に140面を超える襖や屏風を描きあげたことは有名で、そのほとんどが重要文化財の指定を受けています」(和歌山県立美術館パンフレット むちゃ日記より拝借)

18世紀末に長澤芦雪が南紀に滞在したとき、E寺にも芦雪が宿泊したと思われる。その何よりの証拠は、本堂前庭の蘇鉄を描いた芦雪の作品が残っていて、現に床の間に掛けてあるのである。
右の蘇鉄は、実は、芦雪が描いたであろうものの子孫で、写真の奥のより本堂に近いところに蘇鉄の葉の低い塊があるが、そこに古い巨大な蘇鉄があったそうである。戦後のある時期にそれは枯れてしまい、根分けした新しい株が写真手前の蘇鉄である。

これが、芦雪の「蘇鉄図」(仮名)である。
ごく簡単な筆法で蘇鉄を立体感をもって表現し、まだ、幼樹と思える勢いのいい葉を描いている。蘇鉄の根元に、雀が2羽並んで声を挙げているが、想像で配したのではなく、実景であっただろうと思わせる。



元気のいい雀たちが明らかに写生であるのは、円山派の得意とするところだ。尻を振り上げ、大口を開けてさえずっている。観念的に様式化されておらず、精気あふれる雀である。

わたしは、見習僧A氏のはからいで、なんとこの「蘇鉄図」が床の間に飾られている客間で寝かせてもらうことになった。こんな豪勢な寝室はわたしの一生で最初の最後だろうと思う。


次図は、この客間の隣室に掲げてある仙がいの「福の神と博多ゴマ」(仮名)である[「仙がい」の「がい」は、涯からサンズイを取った字]。仙がいは博多・聖福寺の住職で本山・妙心寺の第一座になったこともある高僧(1750~1837)。書画を得意とし、同時期の白隠と並び称される。(この絵について論じ始めると、長くなりすぎるので省略)



 桜とミツバチ

E寺にはソメイヨシノの若い樹が6,7本あって、満開の花を誇っていた。
晴れた暖かい日中、この満開の花の下にいくと、まるで飛行機が上空を舞っているかのような「ブワァァァ~」といううなり声に驚かされる。けしてこれは誇張ではなく、はじめてこのうなり声を聞いた人は驚いてしまう。それは、無数のミツバチの羽音なのである。
花を振り仰いでよく見ると、小さなミツバチが花から花へ蜜を求めて休み無く動き回っていることに気づく。ヒヨドリにはすぐ気がつくが、ミツバチには案外気がつかないのである。東京ではスズメが桜の花を食い摘んでいるのをよく見かけるが、当地では気づかなかった。無数のミツバチが桜の花に集まっていて、その羽音を聞きながらの花見となるのは、初めての体験だった。

ミツバチが多い理由のひとつが、この地方では養蜂がとても盛んであることがあげられるだろう。直径50㎝ほどの丸太を高さ50㎝ほどに切ったものの内部をくりぬいて日当たりの良い山裾などに置いておいて、ミツバチが巣をつくるのを待つのである。巣を掛けてくれればもうけもので、正真正銘の天然物の蜂蜜が手にはいる。
わたしは滞在中、E寺周辺の川べりや農道を熱心に散策したが、写真のようにミツバチが営巣しているのをいくらも見かけた。
他地方でもこのような養蜂用の巣は見かけるが、使用されているのが珍しいくらいだと思うが、ここでは、多くの巣に実際ミツバチが付いていた。ミツバチの生息数がとても多いことは間違いない。




 蝶

デジカメで蝶をねらうのは面白いものだが、今回は、つぎの2枚しか撮れなかった。両方とも那智勝浦町(潮岬の東側の熊野灘側)で撮影したもの。

ちかごろ作ったばかりに見える熊野古道「大辺路」(おおへじ)と立て札のある山道を歩いていたら、

足元をちらちらかすめ飛ぶ茶色の小形蝶がいる。これはテングチョウ(天狗蝶)らしいと思って止まるのを待つ。幸い、すぐ足元に止まったので、しゃがんでシャッターを切る。このときは、2枚写している。そのうちの、より大きく接近している方である。蝶や鳥を写すときは、飛去られたらお終いなので、まず“とりあえず”のつもりでシャッターを切る。そのあとで、だんだんと近づいて行って何枚か写しながらより条件の良い写真を試みる。飛去られるまで何枚か撮る。
テングチョウの名の由来は頭の前方に突き出しているところがあるから。

海が荒れたときは実際に波浪がぶち当たる、海岸のコンクリート製の防波堤面に止まった、やや大型の橙色の美しい蝶。これはヒオドシチョウ(緋縅蝶)。ほとんど垂直な塩をふいたコンクリート面に春の太陽が真上からさしている。時刻は11時。
せっかくの写真なのに、コンクリー面にピントが合い、ヒオドシは少しボケ気味ですね。これは“とりあえず”写真で、もう一枚撮ろうと身動きしたら、そのとたんに逃げられてしまった。



 イタチ

わたしのような都市に住んでいるものには、野生の四つ足動物にであうことは、めったに体験できない。
上の熊野古道「大辺路」の立て札の先の荒れた急坂を、フウフウいいながら登っていると、暗い急斜面の林の中に軽やかに移動する音がした。その動きに合わせて注視していると、3,40m前方で灰色の鹿がふいに止まったのに気づいた。鹿はこちらを見ている。その鹿の奥手にもう1頭いることに気がついた瞬間、2頭は軽々と林の奥へ入っていった。これはニホンカモシカだったようだ。そのときは、写真を撮る時間もなかったが、そういう気持ちの余裕もまったくなかった。
独りで始めての林の中を歩いていると、移動している物音を聞いただけで、ちょっと身がすくむ思いがする。そのあとの数秒間にすべてのことは起こり、終わったのである。暗すぎて撮影は無理だということもあるが、そんなに残念な気持ちは起こらなかった。むしろ、大きな四つ足動物に遭遇した感動があって、昂揚した気分に酔っていた。

E寺から海の方へ歩いて、枯木灘を見下ろす崖の上まで出るのに30分くらいかかる。
強い風が紀伊半島の奥から枯木灘へ向けて吹きすさぶ日だった。
崖の上は、ゴマやインゲンやネギの畑が作られ、所々には花卉栽培のフレームハウスがあった。枯木灘には波浪をものともせず大型貨物船が走っているのが見えた。

崖の突端はツバキなどの灌木が密生していてほとんど見晴らしが利かないのだが、釣り人がおりるらしいロープを設備したところに一ヶ所だけ木を切り払ったところがあった。
左図は、そこから潮岬方面を見たところ。有名な潮岬灯台が写っています(不分明ながら、最遠景半島の高台の先端部)。

四つ足動物と出会うのさえ珍しい体験なのに、写真まで撮ってしまったのだから、この日わたしがどんなに僥倖に恵まれていたか分かるだろう。
崖を降りると、岩礁が奇形・奇岩をみせており、浜辺は丸い小石が積み上がった歩きにくいところ。そこにハマエンドウやハマダイコンの群落がひろがっていて、花を付けている。 イソヒヨドリ、トビ、ツバメ、イワツバメなどの声と波の音だけがする。崖に遮られて烈しい風がウソのように落ち、まるで別世界である。

左:ハマエンドウ       右:奇岩“めがね岩”(仮称)

“めがね岩”(仮称。仮称というのは、わたしが勝手に名づけたということです)の近くに腰を下ろして、しばらく双眼鏡で周辺をながめたり、ノートにメモをとったりしていた。すると突然、だいぶ先の繁みの中からヒョコっと茶色の小さな動物が、白い小石の浜辺に出てきた。辺りをうかがいながら、跳ね歩く。それでノウサギであることがすぐ分かった。カメラを取り直している間に、そいつはふいに繁みの中に入り込んでしまった。
「残念、残念」シャッターを押すまで至らなかった、と残念がっているところに、さきほどノウサギがヒョコっと出てきたところから、茶色の胴長のやや大きめの動物が出てきて、しきりに臭いをかいで探す風でノウサギの歩いた辺りを行き来している。これはイタチだな、とすぐ見当が付いた。今度はシャッターを何度か押すことが出来た。イタチは一度はわたしの視界から見えなくなる位置まで浜辺を歩き、また、戻ってきた。臭いが探り当てられたものか、すばやくノウサギの消えた薮の中に入っていった。


ハマダイコンの中を跳躍するイタチ


「四つ足」初心者であるわたしは「イタチ」と書いてしまったが、図鑑やインターネット上の情報を確かめてみると、いろいろ疑問がわいてきた。「スステン」がもっとも妥当じゃないか、と思っている。まあ、ここでは、“イタチ科”の動物ということで「イタチ」のままにしておきます。わたしの疑問はスステン検討にまとめました。上図以外の写真も掲げましたので、興味のあるかたはご覧ください。


 鰹となれ鮨(熟れ鮨)

那智勝浦町のT氏宅でのご馳走は、なんといってもこの時期は初鰹である。T氏宅のすぐ前が漁業組合で、鰹がどんどん水揚げされていた。ここでは漁業組合のことを「漁会」(ぎょうかい)と言っている。波止場(荷揚場)のことも組合の事務所もひっくるめて漁会と言う。
ここの鰹漁は「けんけん漁法」(一種のルアー釣り)で、昼の3時から漁会の水揚げが始まる。波止場は猛然と活気づく。

計量のおわった鰹には船の名前と重さをメモした紙が貼られ、セリの始まるのを待つ。見事にまるまると太った鰹たち。背中の深い紺色、見事な紡錘形、逞しい尾鰭を見てください。さっきまで潮岬沖の黒潮のなかを泳いでいたものだ。
今年の初鰹は、例年に比べてやや早めで、すでに十分に脂がのって美味しいという評判だった。

実は、わたしが食べたのは漁会に水揚げされたものではなく、古いなじみのM氏が自家用に釣り上げていた大鰹を、わたしの歓迎用に持ってきて下さったものだ。なにせ、わたしがこの地に最初に来たのは20代の頃だったから、M氏とも35年来の付き合いなのである。
鰹は大きいほど美味しい、しかし、鰹は外見ではわからないが当たり外れがあり、外れの鰹は身が筋っぽくてうま味がまるで無いのだそうだ。だが、M氏の大鰹はまったくの大当たりで、非常に旨かった。味はもちろんだが、弾力・色艶が素晴らしく(右写真を見て涎を垂らしてろ!)、食べても食べてもさらに食べたくなるというような“感動もの”の鰹だった。長年地元で鰹を食べているM氏、T氏、T氏夫人が口をそろえて「こいつは旨い」と言うほどだった。

都会に住むわたしがそうなので蛇足を付け足しておくが、M氏はその大鰹をぶら下げてきて「今夜これで、一杯やらんし」(一杯おやりなさい)と言って、大鰹をT氏宅の台所に置いていくのである。わたしらだったらそんな大鰹を投げ出されて行かれても困るというところだが、T氏夫人は少しも騒がず、持ち重りのする大鰹をぶら下げその腹を平手で叩いて、「こらァ、いい鰹やでェ」とご満悦。台所の外のタタキに新聞紙を敷いて「ウン」とか「エイ」とか気合いを入れながら捌いていく。実は彼女は鰹の本場の高知の漁師の家で育った料理上手なのである。この晩は刺身だけだったが、翌日はあら煮を用意して下さって、ご馳走になった。それがまた素晴らしかった。こういう食環境の豊かさは、まことにうらやましい。



T氏宅で今回ご馳走になったもうひとつが、サンマの熟れ(なれ)鮨である。これは南紀の「珍味」として有名なものである。わたしは新宮の専門店で食べたこともあり、T氏宅から熟れ鮨を戴いたこともあり、決して食べるのは今回が初めてというわけではないが(わたしは熟れ鮨は大好物である)、熟れ鮨が漬けられている様子、その専用の桶から出すための作業などを見るのは始めてだったのである。
言うまでもなく熟れ鮨は、酢を使った早鮨(即席鮨の意)に対する言葉で、鮨は本来はみな熟れ鮨だったのである。魚肉と合わせたご飯を乳酸発酵させて作るもので、古い伝統のあるものだ。中尾佐助の発言を聞いてみよう。
すしは大体山地民のものだね。川魚を使って、それを飯の間に段にして詰めて乳酸醗酵させたのがすしだからね。いま日本に残っているのは滋賀県のフナずしタイプのやつ。これはボルネオ、タイ、ラオス、カンボジアそれから江南にある。(『照葉樹林文化』p127、中公新書1969)
南紀のサンマの熟れ鮨はまさに「滋賀県のフナずしタイプのやつ」なのである。専用の木桶に羊歯のウラジロを敷き、背開きにして骨も取ったサンマを「飯の間に段にして詰め」るのは、まったく中尾佐助のとおりである。

熟れ鮨を漬けた木桶は、温度の安定している床下などに3週間ほど保存され醗酵を待つ。T氏夫妻はわたしの訪問を待って熟れ鮨を開けて下さるお積りだったので、少々漬かりすぎかも知れない、と心配しながら木桶を見ている。しっかり水が上がり、青カビが来ている。上部に見える灰色の物体は重しの岩である。
水没している木の中蓋の下で、酸素が断たれた環境のなかで乳酸醗酵が進み、熟れ鮨はじっくり熟成しているのである。

上の写真から左の写真までには、1日日付が変わっている。その間に何をしていたかというと、水を絞り出していたのである。中蓋を付けたまま桶全体を逆さまにして、重しを掛けて水分を十分にしぼりだす。それをしないと、びちゃびちゃのものになってしまうので、大事な作業である。
はじめて、桶の中蓋を開けたところ。多量のウラジロが使われていることが分かる。ウラジロの香りが辺り一面にたちこめている。南紀のサンマの熟れ鮨の香りは、ウラジロの香りなのである。T氏は良いウラジロを採るのに古座川町の某所に行くのだと、後にその付近を案内してくださった。

熟れ鮨本体を被っていたウラジロをはがして取り除いた、感動の瞬間。
2つのことに気づいて欲しい。まず、銀色に光るサンマにウラジロの葉の模様や葉柄がくっきりと刻み込まれていることである。かなりの圧力がかかっていたこととサンマの新鮮さが確認される。この熟れ鮨は大成功だったのである。もうひとつは、ご飯をサンマの身のところだけでなく、隙間の生じないように全体に隈無く詰め込んであることである。このご飯は乳酸発酵しているので、もちろん食べることが出来る。

左は食卓に乗せた状態(左奥に、M氏の鰹刺身の皿が写っています)。
数㎝幅に切り、ウラジロを敷いた食器に盛られている。これを、七味を加えた醤油を少しつけて食べるのが一般的。また、それが合っている。
もっちりした食感にやや渋みのあるサンマの味と乳酸発酵したご飯の酸味と甘みが渾然一体、実に旨い。ウラジロの香りが全体を包んでいる。日本酒の肴にも、とてもよい。
ヨーグルトを食べたときのような腹調の良さ(「腹調」という語はいま造語したのだけど、けっこう良いんじゃない?)があり、早鮨(普通の鮨)のような満腹感がなくいい感じなのだ。
わたしは南紀の熟れ鮨は最初から「これは旨い!」と気に入ったのだが、多くの人はそうではない。はじめはとても食べられなかったが、段々美味しいと思うようになり、後ではやみつきになった、というような話を良く聞く。熟れ鮨を食べられない人は、乳酸発酵したご飯の、乳臭い柔らかい感じを嫌うのじゃないかと思う。
T氏夫妻から面白い言葉を教えてもらった。それはこの地方では、「熟れ鮨はくばり鮨」というのだそうである。熟れ鮨を作るには大層な手間と時間とお金がかかっている。しかし、沢山作った熟れ鮨の桶をいったん開けてしまうとすぐ醗酵が進行するので早く食べる必要があり、自家用には多すぎるのをもともと配るための鮨として作った、というのである。しかも、熟れ鮨を嫌いな人も多いので、誰に配るかをちゃんと心得ておかないと、差し上げてもかえって悪印象を与えてしまうことになるのだという。つまり、気配り鮨でもあるという。

でも、まえに一度言ったのをもう一度くり返しておこう。この地方の食環境の豊富さはまったくうらやましい!


 植物


大根の花(那智勝浦町)



シロバナタンポポ(那智勝浦町)



桃の花(那智勝浦町)



ワラビ(那智勝浦町)



梅の実(串本町)



サルトリイバラの花と若葉(串本町)



マムシグサ(串本町)



タラの芽(串本町)



 鳥


左:イソヒヨドリ(♂)(那智勝浦町)    右:イソヒヨドリ(♀)(同所)


左:ヒレンジャク(那智勝浦町)    右:イワツバメ(串本町)


左:ジョウビタキ(♀)(串本町)    右:カワセミ(那智勝浦町)


左:セグロセキレイ(串本町)    右:シロハラ(串本町)


左:セグロカモメ(那智勝浦町)    右:コサギ(串本町)


わたしのデジカメは、オリンパスのC-700Ultura Zoom というもの。光学ズーム10倍と手持の自由さでデジカメ写真の楽しさを味わっている。被写体を追い、好きなだけシャッターを押す。128Mbのメモリーを使っているが、画質モードHQ(1600×1200)で250枚ほど撮れる。連写などしないかぎり、250枚を1日で写すことは難しいくらいの枚数である。
しかし、ご覧になってお分かりのように、10倍ズームだけでは鳥の写真はちょっと難しくなる。写したのだけれど、お見せするほどのものではないのが、モズ、メジロ、ホオジロ、ノビタキ、コチドリ、アオジ、ビンズイ、アオサギ、ウミウなどでした。

渡ってきたばかりと思えるノビタキを霧雨の休耕田で追った写真は惜しかった。天候のせいもあって暗く、ピントが合っていない(右写真)。カワセミも見ていただくほどのものではないのだが、賑やかしに加えた。このカワセミは“とりあえず”の1枚のあと丁度親子連れのハイカーが接近し、逃げられてしまった。
ヒレンジャクは、村の中を歩いていて1羽だけが電線に止まっているのを発見したもの。日暮までの数時間同じところに滞在してくれていたので、かろうじてものになった写真。そのあとレンジャクの群れに出会えるかと期待していたのだが、だめでした。





最後に、南紀の典型的な陸と海の1枚を掲げておく。
紀伊半島の山々はぎりぎりまで海に迫り、青い黒潮の海がその裾を洗う。


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