き坊のノート 目次

〈着ダ〉再論




目次
(1)貞任らの首
(2)首の入洛
(3)「着ダ」と「免」
(4)首の見物
(5)「鋒」と「鉾」
(6)源頼義の上洛
(7)安陪宗任のこと




はじめにお断りしておくが、「着ダ」の表記は、前論文「〈放免〉と〈着ダ〉」の冒頭で断ったのと同様、“”のことである。これを“着[金+大]”と書くこともある。また、“着[金+太]”も同字である。

前論文では、「着ダ」という語は、“ダを着する”という語義で使われているのではなく、着ダされている人、すなわち囚人の意で使われていること、しかも、囚人でありながら実際には着ダもされず、放免より下位の検非違使庁の最下等の下部[しもべ]として、暴力装置の最前線で使役されていたことを示したかった。そのために、〈着ダ〉と表記した。
この「〈着ダ〉再論」では、表題こそ〈着ダ〉としたが、史料からの引用の「着ダ」と〈着ダ〉の区別が煩わしいことから、カッコが必要な場合は、すべて「着ダ」とし、カッコ無しで使っているところも多い。了解願いたい。

したがって、この論文の主たる目標は、「放免」も「着ダ」も検非違使庁の下等の下部であること、いずれも囚人出身ないし囚人そのもので、穢れの範疇の外にいる検非違使庁の暴力装置として使役されていたことを示すことである。




(1)  ――  貞任らの首  ――


「今昔物語集」の「巻第二十五の第十三」は、「源の頼義朝臣、安陪の貞任らをうちたること」という「陸奥話記」のダイジェスト版のような、とても長い話になっている(「安」の表記は、『今昔物語集四』による)。いわゆる「前九年の役」である。
頼義・義家らと貞任らの最後の死闘は、衣川の関から厨川の楯[たて]と続く。康平五年(1062)九月十四~十七日のことで、ついに貞任は討たれる。

貞任は釼を抜きて、軍[いくさ 官軍]を斬る、軍は鉾を以て貞任を刺しつ。さて、大きなる楯に載せて、六人して掻きて守[かみ 頼義]の前に置く。その長け六尺余、腰の囲[めぐり]七尺四寸、形ち厳めしくて色白し。年四十四也。守、貞任を見て喜びて其の頸を斬つ。(日本古典文学大系25『今昔物語集四』p401 送りがなは適宜補っている。)
「釼 つるぎ」と「鉾 ほこ」の使用法の違いが明瞭である。この描写は、貞任が極めて巨漢であったことを示す、有名な場面である(「陸奥話記」では三十四歳)。ここで貞任と弟の重任も首を斬られる。宗任はいったん逃げるが、数日後に結局降人となる。

藤原秀郷の子孫といわれる奥州藤原氏の経清は、当初は陸奥守・藤原登任[なりとう]に従っていた。経清は安陪時頼の女婿となり、貞任の義弟となる。安陪氏が登任の後任である頼義と対立するようになって(前九年の役の開始)、経清は安陪氏の陣営に加わる。朝廷軍は安陪氏と奥州藤原氏の両勢力を相手にすることになり、苦戦を強いられ、戦は長びく。朝廷は頼義の後任として高階経重を派遣するのだが、高階経重なすすべなく、頼義が陸奥守に再任され、征討を命じられる。征夷大将軍となる。
そこで頼義は、“俘囚”のもうひとつの雄、清原氏を抱き込む計画に出て成功し、ついに、厨川の合戦にまでこぎつけ、長年の“役”を終わらせるのである。したがって、前九年の役が長びいた理由のひとつは、奥州藤原氏の動向にあったということができ、藤原経清の裏切りは、国司・源頼義に深く恨まれていた。

厨川の戦いで貞任が鉾で刺されて戦死する前に、経清は生きて捕まる。その経清を引き据えて、頼義は経清の裏切りは「その罪最も重し」という。
汝[経清]、我が相伝の従[とも]也。しかるに年ごろ我をないがしろにし、朝[みかど]の威を軽しめて、その罪最も重し。(中略)
経清首[こうべ]を垂れて云うことなし。守[かみ 頼義]鈍き刀を以て漸く経清が首を斬りし。
(同前p401)
わざと鈍い刀を使って、苦痛を長びかせて、経清の首を落した。

さて、このようにして、貞任・重任・経清の3つの首が源頼義の戦功を象徴するものとして、京都まで頼義軍によって運ばれる。その時の上洛の責任者は「傔杖」・藤原季俊で、頼義は陸奥にあって動いていない。頼義らが降人を引き連れて帰洛するのは、「前九年の役」の戦闘が終結してから2年後の、康平七年(1064)三月のことである。その時に、降人の一人として安陪宗任も上洛する。

貞任らの首が都に到着したのは康平六年(1063)二月のことである。首を切られてから約5ヵ月経過しているのであるが、おそらく、塩漬けにされ容器に保存されて運ばれたと思われる。その労役を果たしたのは、貞任の従者だった者たちである。源頼義の使者・季俊は、3つの首級を都の境界で(実際には賀茂の川原で)朝廷の警備隊である検非違使に無事引き渡す必要がある。その引き渡し式は、重大な政治的な儀式であり、都人にとっては盛大な見物の機会である。
それゆえ、使者は、都に入る前に首を出して洗い、髪に櫛を通し顔を整えた上で、「鋒」に刺し、威儀を正して行進するという準備が必要である。

『陸奥話記』は、首を運搬して来た貞任の部下であった者たちが、涙ながらに自分らの櫛で髪を整えたことを述べている。
先是、献首使者、率貞任従者降人也。称無櫛由。使者曰、汝等有私用櫛、以其可梳之。担夫則出櫛梳之。垂涙鳴咽曰、吾主存生之時、仰之如高天。豈図以吾垢櫛忝梳其髪乎。悲哀不忍。衆人皆落涙。雖担夫、悉忠義足令感人者也。(群書類従より)

首級が入洛する前のことである。首を朝廷に献ずる源頼義の使者は、貞任の従者や降人たちを引き連れていた。首を整えさせるとき、従者が「櫛がありません」という。使者は「おまえらは自分の櫛を持ってるだろう、それを使え」といった。
首級や荷物を運ぶ役を果たしてきた貞任の従者だった者たちは、ただちに櫛を出して髪をくしけずりはじめた。従者らは、涙を流し鳴咽しながら言った。「わが主がご存命のときは、高い天を仰ぐような気持ちで拝見したものです。その髪をわが垢まみれの櫛で、忝なくも、くしけずるとは、まったく、考えたこともありませんでした。なんと悲しいことでしょう」
見物の者たちも皆もらい泣きした。賤しい担ぎ人夫といえども、みな忠義の心を持っていて、人を感動させるのに十分だった。
幸いなことに、『水左記』(村上源氏・左大臣、源俊房の日記。但し俊房が実際に左大臣であったのは20年以上後のことで、永保三年(1083)~保安二年(1122)の長期にわたる)に、貞任らの首3つが入洛する時の記事が残っている。時は、康平六年(1063)二月十六日のことである。(わたしが『水左記』のこの条の存在を知ったのは、『今昔物語集 四』(頭注補記p404)による。これは拙論「〈放免〉と〈着ダ〉」を書く際には知らなかった史料である。



(2)  ――  首の入洛  ――


康平六年(1063)二月十六日、その日は晴天であった。俊房は早朝から朝廷に出仕し、左大臣・藤原頼通の下で、「前鎮守府将軍源頼義」から「俘囚貞任、重任、経清等首」が献上される書類と、「降人交名」(捕虜の名簿)が会議に上がって、確認されたことを記録している。
「交名」は頼通の「御所」に留め置かれたが、「解文」が上位から下位の役職に下される。治部卿→頭弁・藤原泰憲→大夫史・實長。實長は右衛門陣に大夫尉・源頼俊を呼んで、「件の首を請け取るべき由」を口頭で下命する。「大夫尉」というのは、衛門府の「尉」であり検非違使を兼ねていることを意味している。「廷尉」と通称される。
つまり、この日の首請け取りの儀式の検非違使側の代表者が、源頼俊であった。

さて、「水左記」の筆者・俊房自身が都人らの大評判になっている3首級の入洛の儀式を見物しようと、出かける。
抑件俘囚首、本所随騎兵ニ人(一人傔杖季俊、一人軍曹)、歩兵二十余人許也、各被介冑、殊耀武威、先於粟田山大谷北丘上踟[足+厨]徘徊、三首各插鋒植之、余偸行見之、(『増補史料大成 8』による)

そもそも件の俘囚の首には、もともと頼義軍の騎兵二人(一人は傔杖・季俊、一人は軍曹)と歩兵二十人ばかりが随っていた。各々甲冑を身につけ、武威を示して、殊にかがやかしいものであった。行列は、まず、粟田山大谷北丘上で行きつ戻りつ、時間をかけて進行した。
三つの首はそれぞれに插して、それを直立させていた。自分は隠れてついて行きながらそれを見物していた。
「傔杖」は護衛武官だが、この場合は、陸奥国守・源頼義に対して宮廷から給された武官で、藤原季俊である。季俊が、3首級を護衛して上洛する責任者になっており、宗任らの首を護衛する騎馬のひとつに乗っていたのである。もうひとつの騎馬は「軍曹」としか分かっていない。

首は「鋒」に插し、それを垂直に立てて持って、行進した。この行列の主人公はなによりも貞任の首なのであった。行列は、検非違使に引き渡す儀式が行われる鴨川のほとりまで進む。
漸及[日+甫]刻指洛持入、検非違使於四条京極間請取、其儀、抜本鋒(代鉾云者非也)、以検非違使鉾插之、即以着[金+太]持之、先貞任、次重任、経清也、但鉾緋銘其姓名、又各傍看督長二人、免十余人相従、三級相別渡行、(同前)

ようやく日暮近くなって洛中へ向かって入っていった。検非違使・頼俊は首を、四条と京極の交わる辺りで請け取った。その儀式は、まずもとの鋒から首を抜き(これを鉾とするのは間違い)、検非違使は鉾に插した。そして着ダがこれを持った。まず貞任の首が先頭で、次が重任、そして経清の順である。ただし、鉾に緋色でその姓名を書き付けた。また、それぞれの首に看督長[かどのおさ]が二人、放免が十余人従った。そして、三つの首はその後、別々に行進した。
3つの首級を献上する頼義軍サイドの行列は、「粟田山大谷北丘上」辺りではじまったようである(現在の地名では、東山区粟田口に粟田神社があり、蹴上、南禅寺がある)。とすれば前節の、首を洗い、くしけずって準備したのもその近くであったろう。
行列は時間をかけて至極ゆっくりと進み、「四条京極間」で検非違使サイドへ首を引き渡す儀式が行われた。この表記は今なら四条京極という地点と解されるが、ここでは「四条と京極の交わりに於いて」の意であろう。拙論「長谷部信連を巡って」第六章で、45年後、源義親らの首5つが入洛する記事を、『中右記』天仁元年(1108)正月二十九日を参照して確かめているが、そこでは「於七條末河原、検非違使等受取」とあった。
「京極」は京の町が終わる極点のことだから鴨川のほとりであり、貞任らの首の場合も、実際の儀式は鴨川の川原で行われた可能性が大きい。つまり、上の『中右記』の「七條末河原」は、七条京極と同義であると解することも許されるのではないか、ということである。実際、『今昔物語集四』の「源の頼義朝臣、安陪の貞任らをうちたること」では、その部分を、次のように書いている。
首[かうべ]を持入る日、公[おほやけ]、検非違使等を川原に遣して、此れを請取る。(上掲書p402)
単に「川原」といえば、それだけで「鴨川の川原」を指す。その付近には、交易場など日常的に群衆の集まる広場が出来ていたようである。(「〈放免〉と〈着ダ〉」の第8節で、小犬丸夫妻が木材交易のために出かけたのは、三条京極であった。
したがって、「四条と京極の交わりで」と解するのが字義通りだが、「四条末の鴨川川原で」というのを「水左記」がこのように記したのである。この当時「京極」が洛中と洛外の境界線になっていたのであろう、と考えられる。

なお、貞任らの首の入洛の行列があった日からおよそ1世紀経つと、平家全盛期(12世紀後半)を迎えるわけだが、そのときの平家の拠点となった“六波羅館”は、死体を葬る場所とされた東山の鳥辺野や六波羅蜜寺などがあった鴨川の東側の荒野を開いて造られたものである。この史実が、鴨川の東側(東山側)がいつごろ開けていったかの、およその目安になる。



(3)  ――  「着ダ」と「免」  ――


ここで、われわれの主題である「着ダ」が登場した。原文をもう一度確認しておく。
以検非違使鉾插之、即以着ダ持之
ここの原文は「検非違使は鉾を以て首を插し」という文意である。当然、その際に首を請け取る検非違使サイドがあらかじめ用意していた「鉾」を用いているのである。「そのうえで、着ダを以てこれを持たしむ」という、「着ダ」を使役する文意であろう。いずれにしても、「着ダ」を「持之 鉾を持つ」の主語にしないと、意味が通らない。「着ダ」をその原意の「ダを着する」(「ダ」は[金+太]で、足枷・首枷などの「かなぎ」)すなわち、囚人を拘束し苦痛を与えるために「枷などを着する」と理解すると、意味が通らない。ここに於いても、「着ダ」は人間である、としか考えられない。
この「着ダ」は、実際に「ダ」を装着されていたかどうかは別で「囚人」ということであろう。触穢を考慮する必要のない、通常人の範疇にはない人間として、“現役の”囚人を検非違使庁が使用しているのである(逃亡を防ぐために、なんらかの拘束具を付けられていた可能性はある。なにせ、武器「鉾」を持つのだから)。この読み方を間接的に補強するのが、次の、「」である。

「鉾緋銘其姓名」は、『中右記』の義親らの首の場合のように、「各付赤比禮書名 名を書いた赤い布を付けた」のを、このように記したのかも知れない。
「又各傍看督長二人、十余人相従」各々の首に看督長が二人ずつ付き、「免」が十余人従った。この「免」は、『古事類苑』「法律部五 上編 死刑」に引いてある「水左記」のこの部分では、「放免」となっている。したがって、俊房が「放免」を「免」と略記したと理解することができる。しかも、何よりもこの部分は「免十余人」というのだから、「免」あるいは「放免」が人間であることは疑いないのである。検非違使の首行列の中心に、着ダと放免の2種類の特別な存在(囚人と元囚人)がいて、彼らは触穢を顧慮せずに行動し労役させられたのである。

検非違使サイドの行列は、三つの首がそれぞれ別々の隊伍をなし、一つの首に二人の看督長がおそらく赤い衣に威儀を正して付き、十余人の放免が付き従っていた。この放免たちは、太い杖状のホコや大刀をもち警備の意味もあって、周囲を威圧していたのであろう。そして肝心の首は、緋色で書かれた名前をつけた鉾の上に插され、着ダが垂直に支え持っていた。

われわれは、前に「〈放免〉と〈着ダ〉」の冒頭で『平治物語絵巻』の、信西の首が検非違使一行に護られて行進する様を見ている。それを、再度、引用してみる。

先頭に、長刀に縛りつけた信西の首が行く。それを持つのは甲冑をつけたハダシの男である。その左には脛巾[はばき]をつけて、同様に甲冑をまとい、右手を大刀において威圧の姿勢を示している。その右は、同様に甲冑をまとい、長刀を右脇に挾んで持ち、左手を大刀に置いた威圧を示す男。もう一人、違う被り物だが、脛巾をつけやや立派な大刀に右手を置いた男。この4人が、首を直接に警護していると見られるが、りっぱな甲冑をまとい、しかも、脛から下は極めて身軽で、実戦的な服装の歩兵と見られる。もし、この検非違使の一行の中に「着ダ」がいるとすれば、この4人しか可能性はない。
その後ろの中央に黒馬に乗り弓を持った「廷尉」の源資経がいる。黒馬の両側に赤い服装の二人が、看督長(火丁とも)である。烏帽子に水干姿で裸足の者が6名、だが、この6人は長い顎髭を蓄え、派手な模様のついた衣服を身につけている。そのあとに騎馬の隊列が続く(画面では騎馬の隊列は切れているが、全員が弓箭を携えている)。

わたしは、甲冑姿で信西の首を持つ者たち4人が、まさしく着ダたちである、と考える。この者たちは囚人であるが、検非違使庁の最下層にいて使役され、汚れ仕事も実力行使も何ためらうこと無く実行するもっとも恐れられている実力部隊であった。都人に威力を表さなければならない検非違使の行列の先頭を切るこの者たちが、ひ弱な拘束具をつけた囚人としての着ダであるはずがない。首を支え持つのが着ダだとすれば、彼らはもっとも狂暴な戦闘部隊として、十分な武装をした姿で検非違使行列の先頭におかれ、都人へのアッピールを意図されたことだろう。
その後ろに、二人の看督長が左右を護った廷尉が乗馬姿で、この行列の最高責任者として威儀を示し、その後ろに、派手な格好をした放免が(この場合は6名)従う。放免の集団は、行列の華やかさを演出する役割があった。黒っぽい服装の前の3人のうちの、中央の人物は、何か、長いものを右肩に担いでいるように見えるが、不明である(放免の服装については前稿「〈放免〉と〈着ダ〉」第5節で、様々に論じた)。その後ろに、検非違使庁の下位の役人(武官)たちが、騎馬で従っている(図では12名)。
朝敵・反逆者・俘囚などの首を都に入れる行列は、穢れのある禍々しいものを都城に導き入れる深刻な行事であると同時に、強固な検非違使に護られた繁栄の楽土を演出する祝祭でもあった。その祭の中心に首が存在し、それを直接護持する着ダ・放免の囚人らがあった。

信西の首は、「伊賀国境」の山中で出雲前司光保に斬られて、光保の神楽岡(今の吉田神社ちかく)の自宅に持ち帰って、首実検が行われていた。その翌日に、光保の軍勢が「三条河原」まで首を持参し、その場で、検非違使に受け渡すという儀式が行われた。この段取りは、1世紀前の貞任の首のときと同じなのである。
十七日、源判官資経以下の官人、三条河原にて、信西が首をうけ取て、大路をわたし、西獄門のあふちの木にかく。是をみる人、夢かとぞ思ける。
これは、『平治物語絵詞』の「詞」である。『百錬抄』の該当の条には残念ながら、より詳しい情報はない。
十七日少納言信西入道首廷尉於川原請取渡大路懸西獄門前樹件信西於志加良木山自害、前出雲守光保所尋出也(百錬抄より)

十七日、少納言信西入道の首を、廷尉が川原に於いて請け取り、大路を渡し、西獄門前の樹に懸けた。件の信西は信楽山で自害したのを前出雲守光保が探し出したものである。
なお、『百錬抄』はネット上に公開してある(ここです)。茨城大学図書館の菅政友文庫に収録してある。この「菅文庫」はほかにも有益な古書を公開している。

悪人の首を都に入れるには、鴨川原で、都を警備する責任者である検非違使の長(判官、廷尉)に首を渡す儀式が行われなければならなかった。「大路をわたす」際の行列の先頭に、着ダの支え持つ首が進み、廷尉が騎馬で威儀を示し、放免の集団、武官の集団が続くのである。
但し、信西の場合は、長刀に首を縛りつけて、それを支え持っている。

次図は、光保軍が、首を三条河原まで持ってきたときの情景である。短冊形が書いてあるのが出雲前司光保である。『平治物語絵詞』の巻物の実際の場面では、下図に続く左の場面には、三条河原に出迎えている検非違使らの一行が描かれている。

首は、検非違使の行列の場合とまったく同じように、長刀に縛りつけて、それを垂直に支え持っている。支え持つ者の左右に、大刀に右手をかけている者と長刀を右脇に掻い込んでいる者とが護衛しているかのようであるのも、同様である。この3人は膝までの袴(四幅袴?)をつけ、脛巾をつけ、足ごしらえが厳重である。この点、検非違使一行の先頭で首を持つ4人(「着ダ」か?)の裸の脚とは違う印象を受ける。

ここまでに、首入洛を3通り検討した。「水左記」によって貞任らの首の入洛の様子を調べ、『平治物語絵巻』を見ながら論じ(行列先頭の4人が「着ダ」であろうという仮説を述べた)、すでに拙論「長谷部信連を巡って」の「第6章」天仁元年(1108)正月廿九日で義親らの首の入洛の様子を調べた。それらを表にしてまとめてみる。

事件資料西暦年首級廷尉看督長着ダ放免官人
前九年の役水左記1063貞任ら3源頼俊2人記載有十余人人数不明
源義親の乱中右記1108義親ら5平兼季と源光国十余人記載有人数不明氏名十名
平治の乱平治物語絵詞1159信西の1源資経2人4人6人12人

義親の首入洛の場合がもっとも規模が大きかったと思われるが、それは、首が5つという多数であったからという理由が大きいのであろう(他の理由もあったかもしれない)。平治の乱の信西の首は、長刀に縛りつけてあった。『中右記』では、正盛軍は「首指桙令持下人五人」と記載しているので「首を桙に指した」とわかる。検非違使側では「首立令持着ダ」として、首を指したのか縛りつけたのか、記載がない。「水左記」の場合は、すでに繰り返し述べたように、頼義軍も検非違使側も「首を插した」のは疑いようがない。
ただし、「指す」や「插す」がただちに、「刺す」と同じであるかどうかは即断できない。首を長刀に縛りつけた状態を「鉾に插す」と和風漢文の日記が記さなかったとは言えないだろうから。なお、『平治物語絵詞』も『後三年合戦絵詞』も「桙にさす」とひらがな書きになっている。



(4)  ――  首の見物  ――


都人の物見高さは、昔も今も同じようであったらしい。長年にわたる陸奥での戦いの強敵であった「俘囚」らの首を見に、大変な人が集まったようだ。行列がゆっくり進行して、観衆に十分に見物させるという手法も、今と共通しているようだ。
覩者或車、或馬、亦緇亦素、始自粟田之下、迄于華洛之中、駱駅雑錯、人不得顧、奔車之声、晴空聞雷、飛塵之色、春天拂霧、希代之観、何比之有乎、於戯皇威之在今、更不耻於古者歟、但従四条西行、朱雀大路、至于西獄[木+惡][木+口]梟之云々(同前)

見物の人々は、あるいは牛車だったり馬だったり、また黒衣であったり白衣であったりした。
粟田の下より始めて、華洛の中まで、往来は雑踏して、振り返って見ることもできないほどだった。牛車をやる声は、晴れた空に雷のように聞こえ、土埃の舞う色は、春の天の霧を払うようだった。
この稀代の有様を、何に比べることができよう。ああ、皇威は健在であり、なにを古に恥じることがあろうか。

ただし検非違使の行列は、四条通りを西に行き、朱雀大路に入り北上し、西獄の樗木に梟首した。
「始自粟田之下、迄于華洛之中、駱駅雑錯、人不得顧」は、粟田口から洛中まで人の波で、身動きが取れないほどだった、という表現である。上天気であった春の一日(グレゴリオ暦で3月24日)、都人たちは「俘囚」首の行列見物という、なによりの気晴らしに過ごしたのであろう。

四条の末の鴨川の川原辺りで、首請け取りの儀式をして都のうちに3首級を受け入れた検非違使は、行列を組んで、四条通りを朱雀大路まで進み、そこを右折して「西獄」(右獄)まで行って、行列が終わったのである。そこで樗[オウチ あふち]の木に懸けて、さらし首とした。おそらく、そこでも見物人が雑踏したであろう。

なお、樗[楝とも]は、万葉集にすでに登場する植物で、「センダン」とも言われ(ただし、「双葉より芳し」の栴檀とは別)、初夏のころ薄紫のすがすがしい花をつける樹木で、住宅街、公園でもよく見かける。
伊勢貞丈『安齋随筆』(天明四年1784)には、つぎのようにある。
古き書共に、首を斬て獄門の樗の木に掛くると云うことあり、樗の字を用るは誤也、和名抄に楝、阿布智[あふち]とあり、(中略)何故獄門に楝を植しぞと云理は、何の書にも所見なければ詳に知れず(前編三 ただし『古事類苑』法律部五より重引)
貞丈は上引の後に、斬首の「血にあへる」とか「アヘ血」の連想から「あふち」が来たのじゃないか、と「無証の推量の説は無益なれども」と断りつつ、自説を述べている。



(5)  ――  「鋒」と「鉾」  ――


検非違使が首を請け取る儀式に於いて、「水左記」の表現が、「鋒」と「鉾」を厳格に区別しているのが、注目される。その点を考えてみよう。
ともかく、「水左記」は俘囚らの首を插すのに、頼義軍が「鋒」を使い、検非違使は「鉾」を使ったとし、それらの混用は「非也」とわざわざ注記している(『増補史料大成 8』では、次の引用のカッコ書きの部分を行の右に細字で書き込んでいる)。俊房は実際に儀式の現場を見ているのだから、「鋒」と「鉾」が別種のものであり、それを区別して記すべきだと考えていることは間違いない。
検非違使於四条京極間請取、其儀、抜本鋒(代鉾云者非也)、以検非違使鉾插之
つまり、首を献上する頼義軍は「鋒」を用いて、それに首を插して(「三首各插鋒植之」)粟田口から行進してきた。「四条京極間」で頼義軍と検非違使一行は対面し、首を「本鋒」から抜いて、検非違使に献上した(誰が首を抜いたか書いていないので、そう推測しておく)。首を請け取った検非違使は、あらかじめ用意してきていた「鉾」に首を插した。

くり返すが、「鋒」と「鉾」は別種のものであるが、しかし、首をそれから「抜」いたり「插」したりするという点では、同じような使用法である。つまり、いずれも、刺突可能な武器の形態をしている、と考えてよいであろう。要するに先が尖っているということだが、それだけでは、武器の形態を限定することはできない。
近藤好和「武具の中世化と武士の成立」(元木泰雄(編)『院政の展開と内乱』(日本の時代史7)吉川弘文館2002 所収)という興味深い論文があるが、それのなかに光明皇后の『国家珍宝帳』(756年 『東大寺献物帳』の一部)からの引用が示してあった。それは、次のような具合である。
『珍宝帳』には、釼・唐大刀・唐様大刀・高麗様[こまよう]大刀・大刀・懸佩刀[かけはきとう]・横刀・杖刀[じょうとう]などの多様な様式の「たち」がみえる。(中略)それらの刀身についての注記は「者両刃 きっさきはもろは」または「者偏刃 きっさきはかたは」のどちらかであり、(以下略 前掲書p160)
つまり、8世紀以来、「鋒」は「たち」の先端を意味する文字として使われていた、「きっさき」である。これを「ほこさき」ないし「ほこ」とも解するのは、原義を発展させた使用法である。わたしは、『国家珍宝帳』の使用を教えられて、そのことに改めて気付いた。
それに対して「鉾」は、原義「ほこ」であって、尖ったきっさきをもち、刀身から柄までの全体を意味している。ふたたび、近藤好和論文を引く。
「ほこ」の表記は鉾・矛・槍・桙などと様々で、本来は「ほこ」ではない戈[]や戟[げき]も「ほこ」と訓読し、中国では各表記で構造が異なるが、日本では表記ごとの区別も瞹眛である。(中略)
「ほこ」は、既に少しふれたように刀身は両刃[もろは]で両鎬造[もろしのぎづくり]か三角造で、茎[なかご]の部分をソケット状にしてそこに柄を差し込む穂袋[ほぶくろ]式となる。正倉院遺品によれば、柄はすべてが3メートルを超える長寸で、断面は円形でおおむね木を芯に割竹で包んだ打柄[うちえ]で、一部が木製である。(同前p170)
「ほこ」の一般論や正倉院遺品はこの通りであったとしても、中古期の絵巻物などをわたしが調べた限りで、「ほこ」に首を刺した例、また「ほこ」に首を縛りつけた例を見ていない。実際に首を刺しているのは、刀か長刀である。

次図は、『後三年合戦絵詞』の金沢の柵が落城したときの場面である(「詞」では「寛治五年(1091)十一月十四日」であるが、史実は「寛治元年(1087)」)。対応する「詞」を引いておく。
城中美女ども、兵あらそひとりて、陣のうちへゐてきたる。男のかうべは桙にさされてさきにゆく。めは涙をながしてしりにゆく。

首は4つ見えるが、長刀に刺されているのがひとつ、大刀に刺されて肩に担がれているのが3つである。しかも、「詞」には、「男のかうべはにさされて」と記されている。つまり、長刀も大刀も「桙=鉾」と書いている。
首を実際に刃の先に刺している例として、前に家衡の首を義家に捧げる場面を掲げたことがある(ここです)。そこでも、長刀に刺しているのに「桙にさして」と記していた。

「水左記」に戻る。繰り返しになるが、「傔杖・季俊」によって献上される首が運ばれてくる様を再掲する。
抑件俘囚首、本所随騎兵ニ人(一人傔杖季俊、一人軍曹)、歩兵二十余人許也、各被介冑、殊耀武威、先於粟田山大谷北丘上踟[足+厨]徘徊、三首各插鋒植之
3つの首は、各々「鋒 きっさき」に插していた。「之を植う」は、それを垂直に保っていた、という意だろう。(漢和辞典の、「植」は「木を直立する義より転じ、根生物を植える義とする」を生かした。ただ、首をきっさきにしっかり差し込んで固定した、という意ともとれる。
この場合は、おそらく長刀を用い、そのきっさきに刺していた、ということであろう。「鋒 きっさき」の語意を生かすと、これ以外に解釈のしようがない。しかもこれは、長年戦ってきた強敵の首を、凱旋する頼義軍が都人に見せつける強いアッピール力のある様式として、ふさわしいものではないか。

義親の首の上洛を記録した『中右記』では、廷尉の平兼季が「重服 じゅうぶく」(喪服)を着ていたのは、45年前の俘囚貞任の首の廷尉であった源頼俊の例に倣ったのだろう、と注している。
検非違使大夫尉二人、平兼季[束帯重服、是康平年中俘囚貞任首受取之日、大夫尉源頼俊重服受取之例歟]源光国[布袴
つまり、外域から運ばれてきて献上される首を請け取る検非違使は、厳重に前例を守っているのである。
都の域内に朝敵や賊の首を入れるのは、それ自体、都全域に触穢を振りまくことになり、重大で深刻な行事なのである。その裏面には、華やかでハメを外した見物の出るお祭りであるという性格もある。検非違使はその二面性ある大きな行事を演出する重大任務を負っているのである。

平治の乱の際、信西の首を請け取る検非違使・源資経は、その首を長刀に結びつけ、着ダらに保持させて行列の先頭を歩かせている。この方式は、資経が思いついたものではなく、必ずや前例を参照して、それに倣っているとおもわれる。したがって、わたしは、義親の場合も、さらにさかのぼった貞任の場合も、検非違使の行列では先頭に長刀に首を縛りつけて、着ダらがそれを保持して進行するというやりかたをしたであろう、と考える。それを西獄門の樗樹に懸けるという段取りと、うまく、つながる(なお、信西の場合は朝敵でもないのに、梟首までして扱いが厳罰過ぎると批判が出たようである)。
繰り返し参照するが、貞任の首を請け取る検非違使の側の儀式は、次のように記されていた。
其儀、抜本鋒(代鉾云者非也)、以検非違使鉾插之

その儀式は、本のきっさきから抜いて(これを「鉾」と記すのは間違いである)、もって、検非違使はこれを鉾に括りつけた
手元の漢和辞書を引くと、「插す」には2義あり、(1)さしはさむ、挾・夾に類似 (2)さす、刺・指に類似、とあった。すくなくとも、わたしの仮説は「插す」の語義に反してはいないことになる。

なお、外敵と戦い、その戦勝の象徴として首級を掲げて帰洛する軍の側は、それぞれの戦闘の経緯と軍の構成によって、必ずしも同一の形式で首級を掲げる必然性はない。「前九年の役」の頼義軍、「義親の乱」の正盛軍、「平治の乱」の光保軍のそれぞれで、それぞれのやり方があっても不思議ではない。



(6)  ――  源頼義の上洛  ――


貞任らの首3つは、儀仗・藤原季俊を使者として、都に送られた。だが、源頼義は奥州にとどまったままであった。首の入京の儀式があったのが康平六年(1063)二月十六日であった。その十日ほど後、頼義不在のまま、賞が決定された。『百錬抄』には次のようにある。
康平六年(1063)二月)廿七日 被行追討貞任之賞、源頼義叙正四位下任伊予守、一男義家任出羽守、二男義綱任左衛門尉、散位武則叙一階任鎮守府将軍、献首使藤原季俊任馬允。(既出の茨城大学図書館菅政友文庫による)

廿七日に貞任の追討が行われたことへの褒賞が決定された。源頼義を正四位下に叙し伊予守に任ずる。その長男義家を出羽守に任ずる。その次男義綱を左衛門尉に任ずる。散位清原武則を一階に叙し、鎮守府将軍に任ずる。首献上の使者藤原季俊を馬允に任ずる。
清原武則は奥州の大豪族で、清原氏の援助があって頼義軍の勝利がはじめて可能であった。「散位 さんみ」は位階はすでに授けられているが、現在官職にない人を言うのが原義である。「一階に叙す」とは、位階をひとつ進めるの意。ここでは、朝廷の秩序の外にいて当然無位無官であった武則に、六位にあったとみなして「従五位下」を授け、朝廷にとって好都合な「鎮守府将軍」に任じた、ということであろう。

正四位下と伊予守という褒賞を受けた頼義は、しかし、なかなか上京してこなかった。下向井龍彦『武士の成長と院政』(「日本の歴史07」講談社2001)は、「前九年の役」の事後処理に関して、つぎのように解説している。
伊予守に任じられた頼義は、残党掃討と帰降者処分の未定、勲功の追加推挙者の恩賞未定を理由に、さらに一年間陸奥国に逗留した。翌康平七年(1064)三月、頼義は政府の指示を待たず、宗任ら主従37人を引き連れ、13年ぶりに京の土を踏んだ。七十五歳になっていた。(上掲書p176)
再び『百錬抄』を参照して、頼義の上京の様子を見ておこう。
康平七年(1064))三月廿九日 伊予守頼義自奥州相具所上洛之降虜宗任等、有議不令入京分遣国々、宗任家任遣伊予、良照遣太宰府、治暦三宗任等移遣太宰府、依有欲逃帰本国之聞也(同前)

三月廿九日、伊予守頼義が奥州より捕虜として引き連れて上洛した宗任らについて、入京させずそれぞれの国々に分離しておくべきだと決した。宗任と家任は伊予へ、良照は太宰府へそれぞれ配流された。宗任らが本国に逃げ帰ろうとしているというので、治暦三年(1067)には太宰府へ移した。
「降人」たちを、京都の内にいれるのを禁じた、というのである。「首」と扱いが異なっている点が面白い。
同じところについて、下向井龍彦の解説を読んでおく。事情がよく分かるからである。
政府は帰降者たちを俘囚として扱うことに決め、8~9世紀の俘囚移配の故事にのっとり、宗任らを頼義の任国伊予に、良照らを大宰府に移配し、「長く皇民となし衣類を支給せよ」と命じた。政府はこのたびの合戦を、最終的に夷狄征服戦争と位置づけたのである。「乱」ではなく、「役」というのは、そういう含意がある。治暦三年(1067)、宗任らは本国へ逃帰の恐れありとして、大宰府に再移配された。(下向井上掲書p176)
頼義が没したのは、承保二年(1075)八月十三日のことで、八十八歳。このとき義家は三十七歳であった。「後三年の役」の終結は寛治元年(1087)十二月で、義家四十九歳である。

ネット上で“貞任の首”を検索していたら、「京都新聞」が2007年に「安倍貞任伝説(南丹市八木町-京都市右京区)」という読物記事を掲載していることを知った(ここです。地図も載っています)。京都市の北西、桂川の上流、愛宕山の裏に貞任峠があり、そこに貞任の首を埋めたという伝説があるという。他にも、付近には、貞任の腕や足を埋めた場所、という伝説の地もあるそうだ。奥州からは首だけが来たはずだが。



(7)  ――  安陪宗任のこと  ――


小論の主題(「着ダ」)と宗任の運命とは直接の関係はないのだが、“俘囚”安陪氏の一面を知るのに意味があるので、すこし触れておく。

まず、宗任は『平家物語』(120句本)の「釼の巻 下」に登場する。
頼義は「蜘蛛切り」という)かの大刀にて九年があひだに攻めしたがへ、貞任を首を切り、宗任をば生捕[いけどり]にし、(都へ)のぼられけるが、(宗任は)丈六尺四寸なり。殿上人うち群れて、「いざや、奥の夷を見ん」とて行かれけるに、一人梅の花を手折りて、「やや、宗任、これはなにとか見る」と問はれければ、とりあえず、
わが国の梅の花とは見たれども
        大宮人はいかがいふらん
私たちの国の梅の花とお見受けしますが、ここの貴族様がたは何とおっしゃるのですか
と申しければ、殿上人しらけてぞ帰られける。そののち筑紫へ流され、今の松浦党とぞ承る。
(新潮日本古典集成『平家物語 下』p280)
(なお、新潮日本古典集成『平家物語』は「120句本」を活字化しているが、これの校注・編者の水原一によると、「釼の巻 下」を本文に載せているのは、「120句本」に限るという。『下巻』p423)

前節で確かめたように、朝廷は降人を洛中に入れることを禁じているので、この宗任のエピソードは、洛外のいずれかの宿所で起こったことであろう。宗任は「丈六尺四寸」で、兄・貞任と同じく大男であった。殿上人たちは、“陸奥からきた異人を見物しよう”と出かけて、宗任を取り巻いて無遠慮にじろじろ見た。中の一人が、梅の枝を折って、“おい、宗任、これは何だと思う”とその野蛮ぶりを嘲笑しようと、声をかけた。宗任は、即座に、皮肉たっぷりの和歌で答えたというのである。
宗任ら安陪氏(『今昔物語集 四』は「安陪」、『平家物語 下』は「安倍」。一般には後者がよく使用されている)は、蝦夷ないし夷であって、大宮人からすると「いざや、奥の夷を見ん」というような異人視の対象であったことは間違いない。しかも、彼らは当時の畿内民などとは段違いの大きな体格であったようだ。だが、彼らは蒙昧野蛮な種族だったわけではなく都人の言語を解し、宗任は大宮人を向こうに回して一歩も引けを取らない当意即妙を示すほどの、文化的力量を持っていた。そういう文化的地力があってこそ、奥州藤原氏の平泉文化が可能であったのであろう。
宗任は伊予に流され、さらに、数年後、大宰府へ流された。宗任は、120年後の源平合戦においても重要な役割を果たす「松浦党」に合流している、というのである。

「陸奥の夷」として西国へ流された宗任は、帰順した「俘囚」という扱いを受けて、当初は、源頼義らの監督下にあったが、九州へ再配流される。
しかし、宗任はよほどの人物であったと思われる。九州において実力を発揮し、みるみる勢力を増していったのである。(ことは、単なる「人物」の問題ではなく、狩猟・漁猟の北方文化圏に属する蝦夷ないし夷たちは、北日本海-樺太-黒竜江方面を縦横に動きまわっていて、水軍・水運の技術に長けていたのではないか。そういう北方交易圏に注目すべきだという観点を、海保嶺夫『エゾの歴史』(講談社1996)で学んだ。

真島節朗『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』(郁朋社2003)という興味深い本が、松浦党の一員である志佐氏に伝えられる『志佐記』(元禄頃に成立)という文書を紹介している。
宗任遠流康平五壬寅、寛治二戊辰年松浦郡、彼杵、壱州、宗任に給わる。宗任御子六人の分と云(上掲書p202)

宗任の遠流が決まったのが康平五年(1062)のことで、それから26年後の寛治二年(1088)には、宗任の子息6人に対し、松浦郡・彼杵・壱岐を給わったという。
はるか後の後裔が伝説的な先祖を語る文書であるから、信憑性には問題があるのだが、宗任は多数の子孫を残し、松浦地方の有力勢力として定着していったことは信じてよいだろう。すくなくとも、鎌倉期に成立した『平家物語』はそう信じていたからこそ、「(宗任は)そののち筑紫へ流され、今の松浦党とぞ承る」と書き伝えたのである。

真島節朗『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』に教えられたもうひとつは、壇ノ浦の合戦の最後まで平家に加勢した松浦党が、なぜ、源氏から追及されることなく、その後の繁栄を続けたか、という問題意識である。 平家は、12世紀初頭からの正盛-忠盛-清盛の三代で急激に成長し繁栄したのであるが、その富の重要な基盤が宋貿易であった。正盛は、九州~隠岐~出雲で暴れた源親義を亡ぼし、さらに、九州有明地方にも勢力を延ばしている。忠盛はその後を継いで、宋貿易の利益をかき集めた。清盛は厳島神社に海神信仰の拠点をおいて、西国経営(西国独立?)へ乗り出そうとする姿勢を示していた(急逝するが)。
官営貿易は遣唐使派遣中止後、大宰府官僚のもとで続いていたが、さまざまな利権をめぐって運営が次第に乱脈化していた。中央でも院政という行政の二元化が進み、九州沿岸に発達した荘園に商船が着岸して、直接貿易する者がでてきた。肥前国の鳥羽院領・神崎荘(佐賀県)もそのひとつである。
この地方は、まず正盛が藤津荘(佐賀県)に本拠を持つ平直澄の追捕に成功(1119年)し、有明海沿岸におよぶ勢力圏を確保していた。さらに、子の忠盛が鳥羽院・院司の地位を得たことにより神崎荘の実権もにぎった。まさに「鬼に金棒」である。上皇の指示によるという強制力で大宰府の介入を拒否、自主貿易を推進して巨利をものすることができた。(真島上掲書p215)
忠盛が鳥羽院の時に「内昇殿」を許される(1135年頃)。そのとき公卿らのイジメに遭う話が『平家物語』冒頭の「殿上闇討」である。鳥羽院の別当(長官)となったのは、1140年頃である。宗任の子息6人らに土地を給わったというときから、すでに半世紀を経ている。宗任の孫・曾孫の世代が活躍している時代であろう。
自主貿易といっても、京都にいる忠盛が遠隔操作で簡単に実施できるわけがない。現地にいて外国商人とわたりをつけ、外国船を誘導入港させ、商談や取引を斡旋し、さらに輸出入品を運ぶ内航船を手配するなど、貿易実務に馴れた者がいなくてはならない。(同上p215)
まさに、そこにおいて宗任の子孫らが、松浦党としてその実力を遺憾なく発揮したのであろう。
鎌倉時代になっても、貿易の拠点とそこでの実務者を鎌倉政権は手放すはずがなかったのである。



「着ダ」再論   終

2009年10月12日


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