き坊のノート 目次

花山院のこと (第2章)




目次
花山院のこと (第1章) (1)~(5)
(6) 花山天皇の出家
(7) 花山天皇の出家(つづき)
(8) 道隆・道兼の急死
(9) 花山院襲撃事件
(10) 花山院襲撃事件の後始末
花山院のこと (第3章) (11)~(13)


本稿では、和暦の年月日・数えの年齢に和数字を使い、西暦の年月日には算用数字を使っている。(ただし、図の中の月日は、和暦月日も算用数字にしていることがある。)





---  その(6)  花山天皇の出家  ---


冷泉天皇は“狂気”があるとされ、私的居住の宮殿である紫宸殿で即位式を行わざるを得なかった稀有な例であることは、すでに述べた。冷泉天皇の“狂気”は知能の劣るものではなく、発達障害など幼少期から発現する行動異常ないし適応異常を伴うものだったのであろう。ADHDなど。じっとしていられない、などの症例を考えると、知能は正常だが“紫宸殿での正式の即位式などは無理だ”と周囲が判断することがありうる。
村上天皇が没したのは康保四年(967)五月二十五日で、冷泉の即位は同年十月十一日で、十八歳であった。その第一皇子・師貞[もろさだ 花山]が生まれたのは翌年、安和元年(968)十月二十六日のことで、母親は藤原懐子[かいし]で、藤原伊尹[これまさ]の女[むすめ]であり、伊尹邸・「一条第」で生まれた。伊尹は師輔[すでに960年に死没している]の嫡男であり、この時点で、冷泉-師貞(花山)の系列が摂関家の嫡流を外戚として将来が期待されるものであった。ところが、この将来性には様々な障碍が生じる。ひとつは生まれたばかりの師貞(花山)を皇太子にするのは無理で、冷泉の弟たちから皇太子を選ぶことは村上帝時代から既定方針であった。もうひとつは、師尹さらに伊尹の死没である。道長時代の系図

冷泉天皇は通常の政務はつとめられないので、藤原実頼[さねより 小野宮]が関白に立てられた。第2節で冷泉の即位式のことを「小野宮殿の高名、此の事なり」と『古事談』が評しているという、賢臣・小野宮実頼である。この段階で公卿会議の3長老である、実頼が関白・太政大臣に、源高明が左大臣に、藤原師尹もろただ]が右大臣となって、“組閣”した。
上述のように冷泉天皇は長期政権は不可能であるから、皇太子人事が重要となる。冷泉の同母弟が2人あり、為平(952年生まれ)と守平(959生まれ、のちの円融天皇)である。年齢が七歳もことなり、冷泉即位の時、為平はすでに十六歳であったわけだから、為平親王の立太子が順当である。すでに為平は源高明の娘を娶っていた。(村上帝も憲平=冷泉と比べて為平の聡明さをみて、皇太弟とするつもりでいた、とされる。
村上帝が没し冷泉即位となったわけであり、村上帝の既定方針に抵抗する藤原摂関家勢力が力を増す。もし、為平が即位すれば源高明が外戚となり《王位が藤原氏から外に出てしまう》という危機的な状況となる。藤原氏は結束して為平降ろしにあたり、守平=円融の東宮を実現した。さらに、源高明を失脚させる陰謀が企てられ、「高明は為平親王を奉じて謀叛を起こそうとしている」という密告をもとに高明を太宰府へ配流する(安和の変、969)。この陰謀の首謀者は師尹といわれ、源満仲も加わっていた。

師尹は高明に替わって左大臣となるが(上述のように実頼が関白太政大臣)、わずか半年後に死没してしまう。五十歳。『大鏡』のその個所を引いておこう。
このおとど[師尹]、忠平のおとどの五郎、「小一条のおとど」ときこえさせ給めり。御母、九条殿[師輔]に同。大臣のくらひにて三年。左大臣にうつり給事、西宮殿[こうめい]つくしへ下り給う御替わり也。その御事のみだれ[政治的陰謀事件]は、この小一条のおとど[師尹]のいひいで給へるとぞ、よの人きこえし。さてその年も過ぐさず失せ給へることをこそ、申しめりしか[世の人が高明の祟りだと取り沙汰したようでした]。(岩波古典体系本p95)
守平親王が東宮となったのは康保四年(967)九月一日で、高明左遷に成功して、安和二年(969)八月十三日冷泉天皇は在位わずか2年で譲位し、守平親王は十一歳で即位して円融天皇となる。左大臣になったばかりの師尹が同年十月十五日に急死する。
円融は幼い天皇であるから実頼は引き続いて摂政になるが、高齢であり、 天禄元年(970)五月十八日に病没する(七十一歳)。源高明は、太宰府に配流されていたが天禄二年(971)十月に許され召還されるが、実際の帰京は翌年四月で、政界に復帰せず隠棲し、天元五年(982)、六十九歳まで生きる。
なお、小論「今昔物語の人糞を喰う犬」 ここ で扱った慶慈保胤は同時代の人物で、『池亭記』のなかに、源高明の追放直後にその豪邸が火災にあい、高明の帰京後も再建されなかったことを述べている事などに触れた。保胤が侍読として仕えた具平親王・後中書王は、村上天皇の第7皇子で、冷泉・円融の異母兄弟である。
村上天皇の崩御以来の数年間で、天皇-公卿会議のリーダー達の死亡が相次ぎ、高明が追放され、顔ぶれがガラリと変わり若手が登場することになる。実頼の没した時点での新リーダーは伊尹・頼忠・兼通・兼家らである。


兼通と兼家は仲が悪い。というか、兄弟で覇権争いをしているのだが、兼道は貞元二年(977)十一月八日に没する。それで小野宮流の頼忠が摂政の地位を継ぎ、兼家が藤原摂関家のトップの地位を確実にする。この段階で左大臣は源雅信である。
円融は兼家の甥であり、兼家の女・詮子を妃としているから、兼家にとっては都合の良い天皇である。この天皇の系列を大事に育てていけば、雅信らの醍醐源氏系列は問題にならない。円融の第一皇子・懐仁(のちの一条天皇)を詮子が生んだのが天元三年(980)。幸運が兼家に回ってきたのである。しかし、円融は病気がちであり、その東宮が師貞(後の花山天皇)であることが心配の種である。師貞は(故)伊尹を外祖父としているのであるから。

病がちの円融は花山に譲位する。それが永観二年(984)で、即位式が十月十日。これが第1節で取りあげた、十七歳の花山が女官を高御座に引きこんで交合していたという即位式である。なお、東宮ははじめから円融の第1子懐仁親王(一条天皇)が定められていた。(円融上皇は、翌年病気のため出家するが、7年後の991年まで生きる。

このようにして、やっと、わが主人公の花山天皇が登場したわけであるが、系図を一見して明らかなように、花山は(故)伊尹の系列であり、花山の子供に天皇が実現することになれば、伊尹の息子たち、義孝・義懐らが外戚として権力をふるうことになる。したがって、兼家とその息子たち(道隆、道兼ら)は花山をできるだけ早めに退位させ、懐仁親王(一条天皇)を皇位につけたいと考えていた。
花山サイド(反兼家サイド)は、花山にできるだけ早く男子を作らせ、後継の天皇の可能性を根づかせたいと考える。幸いに花山天皇自身は極めて女好きで“カワイ子ちゃんならどんどん手を出すというタイプだった”。今風に言えば『栄華物語』はこういう書き方をしている。即位式のときに女官を高御座に引きこむほどの、正常と異常のあわいを簡単に超えてしまうほどの危ういものであったが。
今のみかど[花山]の御年などもおとなびさせ給ひ、御心掟もいみじう色におはしまして、いつしかとさべき人々の御女[むすめ]をけしきだちの給はす。(岩波古典体系本75『栄花物語 上』p90)

花山天皇は、御年十七歳でじゅうぶん大人びていらっしゃって、ご性質もとても色好みで、さっそく然るべき人々の娘をさしだすよう露骨におっしゃる。
われわれは近代の(ヨーロッパ近代の)常識をもって「御心掟もいみじう色におはしまして」を解してしまいがちであるが、性の抑制や羞恥心がまったく異なる中古期の文学であることを思い出す必要がある。しかも、生殖によって血統を継ぐことが最重要な役目である天皇は、“色好み”であることはとても望ましいことなのである。貴族たちも、適当な娘をもっていれば、機会さえあれば競ってさしだす。
ついでに記しておくが、ネット上の文章では、花山院を「好色な天皇」と決めつけるのが常套になっているふうがあるが、そういう表現にはほとんど意味がないと考えておいた方がよい。「すべての天皇は好色であった」とする方が花山院を特別視するよりましである。いわば天皇の性生活は業務であり、その好色振りを隠すかどうかの点で花山院は普通ではなかった、といえよう。それは花山院の「狂気」と関連がある。

『栄花物語』では、次の順につぎつぎに入内したとなっている。
諟子関白太政大臣・頼忠の女)⇒ 婉子村上帝四男為平の女)⇒ 姫子兼通三男朝光の女)⇒ シ子(「シ」は、りっしんべんに氏、しし、よしこ)(師輔九男為光の女
古典体系本の「補注」(p484)によると、史実では、シ子姫子諟子婉子 の順が正しいのだという。ともかく、半年ほどの間に、四人がつぎつぎに入内したのであるが、花山がもっとも寵愛したのがシ子である。その話にはいる前に、この四人を系図で確かめておこう。


すぐ気づくことは、シ子を除く3人(姫子・諟子・婉子)はいずれも、醍醐天皇の曾孫であること、殊に婉子は、父方についても母方についても醍醐曾孫である。しかも、花山天皇自身が醍醐天皇の曾孫であることである。それに対してシ子は小野宮系と九条系の両方が合流している。
だが、シ子の父・為光は師輔の9男であるが、その母は醍醐天皇の第十皇女・雅子である。つまり、醍醐-雅子-為光-シ子と辿れば、やはり、醍醐の曾孫なのである。この所は、師輔と醍醐帝との特別な関係を押さえておく必要がある。師輔は醍醐帝の内親王3人も娶っているのである。内親王の臣下との婚姻は認められないことであり(いったん臣下に下ってからの婚姻しかできない)、厳密に言えば「密通」に当たるのである。この異例の関係があって、はじめて、藤原氏・九条流の摂関家としての繁栄が可能になったのである。
要するに、ここに登場する花山と4妃はいずれも醍醐の曾孫であるという、異様な情景であることを認識しておく必要がある。

この時点(花山即位の時点 984)で健在であった実力者は、頼忠(61 関白太政大臣)、雅信(宇多源氏)(64 左大臣)、兼家(56 右大臣)であり、次の世代に移り変わろうとしていた。道隆(32)、義懐(28)、俊賢(26)、道兼(24)、道長(19)などである(年齢はすべて数え)。なお花山天皇は十七歳。


---  その(7)    花山天皇の出家(つづき)  ---


花山天皇は即位すると、半年ほどの間につぎつぎに四人の女性を入内させた。が、なかでもシ子よしこ とも)を殊に寵愛した。シ子が女御となり弘徽殿に住むのが、永観二年(984)十一月七日のことである。その寵愛ぶりがあまりにも激しいので、周囲から陰口が聞こえるほどであった。
「かかる事は今も昔もさらに聞えぬ事なり」「久しからぬものなり」など、ききにくく呪ヽしき[のろのろしき]事ども多かり。かかる程にただならずならせ給にけり。(岩波体系本『栄花物語』上、巻第二、p94)

「このようなご執心ぶりは、昔も今も一向きいたことがない事です」「どうせ永続きしないものだ」などと、聞きにくく呪いがましい事など色々と多かった。そうしているうちに、ご懐妊なさった。
懐妊3ヵ月目で里に下ろうと申し出ても、さまざまとどめられ、結局5ヵ月余りになって里へ出ることになった。里の邸で心安くすごすことができると思われ、それまで宮中から出ることができなかったのが、やっと出ることができて、手分けして色々のご祈祷などをなさった。
はじめは悪阻でほとんど食べられなかったが、月が経っても同じようにまったく食べられず、ひどく痩せ細ってしまわれた。ご祈祷など手をつくしたが、「橘一つ」を食べてもすぐに吐き出してしまって、かわいそうなほど哀れに心細げに見え、父親の為光も胸がつまり深刻に嘆きくらしておられた。
帝(花山)の方からも夜昼わかたず使いを立てて、「よろづの物」を運ばせ、それが余りに頻繁なので殿上人や蔵人も難儀に思ったほどであった。帝は女御に会いたい一心で「ほんの宵のうちだけでも」とおっしゃった。
結局、病身の女御を再度宮中へ上げることになる。
帝は女御を)せめておぼつかなく恋しく思ひきこえ給ひて、「ただ宵の程」とのみの給はすれど、(大納言・為光は)えおぼし立たぬに、女御もさすがにおぼつかなげに思ひきこえさせ給へれば、大納言殿、ただ一日二日とおぼし立ちて参らせ奉り給。弘徽殿に参らせ給ふとて、御しつらひなどいふ事を、かたへの御方々の口よからぬ人々、「ゆヽしういまいましきこと」と聞ゆ。(同前p95)

帝は女御をせつに気がかりに恋しがっていらっしゃって、「ほんの宵のうちだけでも会いたい」とおっしゃるが、大納言為光は決心がつかない。シ子女御もさすがに帝にご心配をおかけするのも気がかりなことと思われるので、大納言も、ほんとうに一,二日だけ、と考えて決心し、宮中へ上げることにした。弘徽殿に参らせるとして、部屋の飾りつけなどするのを、同輩の方々につかえる口悪い女房たちは、「不吉な縁起でもないことだ」と噂した。
帝・花山の懇望に負けて、5ヵ月の妊婦である女御・シ子を再び弘徽殿に上げたのであるが、女御は健康なときの「いとざれをかしうおはせし人」とはまるで変わり、やせ細った体で悲観的な嘆きにくれているばかりであった。しかし、帝は弘徽殿に入り浸りになってしまう。
かくて参らせ給へれば、あはれに嬉しうおぼしめして、夜昼やがて御膳にもつかせ給はで入り臥させ給へり。「あさましう物狂し」とまで内わたりには申あえり。(中略)
いとざれをかしうおはせし人とも覚えず、いみじうしめらせ給て、ただあべい[あるべしの音便形]にもあらぬ嘆きをのみせさせ給へば、上も泣きみ笑ひみ、涙にしづませ給へり。
(同前p96)

このようにして女御が弘徽殿にいらしゃると、帝はたいそう嬉しくおもわれて、夜も昼も食事もしないで、弘徽殿に入りっぱなしで共寝している。「あまりにも常軌を逸したことだ」とまで宮中では噂しあった。
女御はたいそうしゃれて美しかった人とも思われず、ひどく陰気で涙がちになられて、ただ生きていることもできそうもないと嘆いていらっしゃるばかりで、帝も泣いたり笑ったりして、涙にしずんでおられた。
女御は5ヶ月を越えた妊婦である。愛情を抑えることがなくただひたすらに女御と一体であろうとする花山のあり方は純情無垢であるが、それがゆえに何日も共に臥しているのだとすると、常軌を逸していると言わざるを得ないだろう。純粋な動機を持ちつつ、行為は異常な領域に踏み込んでいってしまっている。つねは正常域にありつつ、ときに異常域に渡っていく。そのあわいにブレーキがかからない。花山のそういうあり方をここにも見ることができる。

3日目になって、迎えの人々や御車を用意して里帰りをうながしたが、帝は許さず「いま一夜、いま一夜」と七,八日になるまで引き留めていた。大納言・為光が「いとまめやかに」説得して、ついに帝も納得して「泣く泣く御暇許させ給ふ」。

再び里帰りした女御・シ子は、そのまま「はらませ給て八月といふにうせ給ぬ」。『小右記』の寛和元年(985)七月十八日条に「弘徽殿女御卒」とし、「この女御御懐妊七箇月に及ぶ」とある。花山天皇にとってこの日付はひとつの区切りになるのだが、彼の即位は何度も書くように、前年の十月十日のことであった。それから4人の女が入内するのだが、花山はシ子・弘徽殿女御に夢中になり、それ以外の女性には関心がむかない状態のままシ子が妊娠する。里に下ろすが、シ子の健康状態は良くない。5ヵ月頃に一度弘徽殿に迎えるが、彼女はまるで人柄が変わったように陰気に湿っぽく痩せた病人であった。花山はそういうシ子と共寝したまま7,8日も過ごす。幼い子供が昆虫を可愛がるのに夢中になって虫を殺してしまうことがあるような、一途さが残虐さと同居している、ということができよう。しかし、常識人にはむずかしい純粋な真情の発露がそこには共存している。
彼女は再び里へ戻り、八ヵ月近くで死去した。

『栄花物語』は“女語り”らしく、花山がそのあと夜伽の女御を寄せつけなかったことを露骨に書いている。
内にも外にも、「あないみじ、悲し」とのみおぼし惑ふ程に、はかなう日も過ぎもてゆきて、さべき御佛経の急ぎ[仏の図像や写経のしたくに忙しいこと]につけても御涙乾[]るまなし。内[]にもこの御忌の程は、絶えていづれの御方々もつゆもうのぼらせ給はず[夜伽に上がってくることを許さない]。宮の女御[婉子]をばさやうになど聞えさせ給折あれど、「御心地悩し」などの給はせつつ、上らせたまはず。(同前p97)
この年の秋に花山院が詠んだ和歌のなかに、弘徽殿の女御を失った悲痛をそのまま表したと考えられるものが、いくつか知られている(岩波体系本『栄花物語』上の補注111が示す今井源衛の研究)。
同年八月十日内裏歌合の花山院御製
秋の夜の月に心はあくがれて 雲居に物を思ふころかな
荻の葉における白露珠かとて 袖につヽめどとまらざりけり
秋来れば虫もやものを思ふらむ 声も惜しまず音をも鳴くかな


新千載集所載の花山院御製
  弘徽殿の女御かくれ侍りにける秋、雁の鳴くを聞かせ給ひて

なべて世の人より物を思へばや 雁の涙の袖につゆけき
花山の狂気あるいは狂態は、こういう和歌の高い水準と共存していることを忘れてはならない。このことにこそ花山院の魅力がある、と言うべきである。

そうこうしているうちに、「はかなく寛和二年にもなりぬ」。『栄花物語』はこの寛和二年について一風変わった導入の仕方をしている。
世の中正月より心のどかならず、怪しくもののさとしなど繁[しげ]うて、内にも御物忌がちにておはします。又いかなる頃にかあらん、世の中の人いみじく道心起して尼法師になり果てぬとのみ聞ゆ。(同前p98)

世の中[宮中ないし貴族社会]は、正月から落ちつかない。怪奇な暗示やお告げの現象が頻繁にあり、天皇も物忌みがちであることが多かった。また、いつ頃からか、世の中の人々がしきりに発心して尼や法師になる話ばかりが聞こえてきた。
古典体系本『栄花物語』の補注は「史実を検しても、寛和二年春には怪異の記録が多い」として、虹・蛇・鴿(ハト)・宣陽殿で鳴き声などの記事を挙げている。また、出家の例は資子内親王・藤原暁子(従三位)・藤原邦明(左馬寮権頭)・・・などが上がっているが、四月二十二日には大内記慶慈保胤が出家している(同書p485)。

帝(花山)は、しきりに念仏を唱えたり、花山寺(山科の元慶寺)の巖久阿闍梨を呼んで説教をさせたりするようになった。太政大臣頼忠や身近につかえる惟成の弁や中納言・義懐は、帝が出家することがあっては大変であると、心配し始めていた。
惟成[これしげ]の弁は、小論(1)に登場したように、『江談抄』(二)の題名が「惟成の弁、意に任せて叙位を行ふ事」であった。すでに紹介したが、花山天皇の乳兄弟であり、幼少時からそば近く仕えた。義懐[よしちか]は伊尹の息子で花山天皇の伯父にあたる。花山天皇となって急激に出世した人物。
懐妊したまま死亡する女人はいっそう罪深いという考え方を知り、花山は真剣に罪障消滅を思い仏道を念じはじめた。
「あはれ、弘徽殿いかに罪ふかからん。かかる人はいと罪重くこそあなれ。いかでかの罪を滅ぼさばや」と、おぼし乱るヽ事ども御心のうちにあるべし。(同前p98)
この時期、帝は「妻子珍宝及王位」という語句を口癖のように言うようになっていたという。これは「大集経偈」で、下句が「臨命終時不随者」である。“妻子・珍宝・王位などをいくら大事にしても、あの世に持って行けやしない”という意義。
『古今著聞集』(巻第十三哀傷472)には、この句を最初に帝が知ったのは、当時「蔵人の弁」であった道兼がたまたま扇に書いて持っていたのを目にすることがあってであるという。つまり、道兼は花山天皇が最愛の弘徽殿を失って仏道を真剣に考えている頃に、その傾向を後押しするような扇をもって天皇に近づいたのである。
粟田殿[道兼]は、御修業あらばおなじさまにて、いかならん所までも契[ちぎり]申されて、(行方不明になる)その夜も御供せさせ給ひたりけれども、さもなかりけり[契りの通りではなかった]。(岩波体系84『古今著聞集』p375)
道兼は花山天皇に、自分もいっしょに御修業にどこまでもついていきます、と約束しておきながら、それどころか、花山退位をきっかけに、みるみる出世していく。最後は関白まで。そして、流行病で急死する。
花山退位の後)五ヵ月のうちに、正三位中納言までになられにけり。二心おはしまして、たばかりたてまつられたりけるとぞ、世の人は申しける。天徳元年[長徳元年が正しい 995]に、関白になり給ふといへども、ほどなくうせ給にけり。世には七日関白とぞ申しける。(同前p375)
『古今著聞集』では道兼はとことんけなされているのだが、興味深いことに、すこしも天皇崇拝の観点を持ちだしてはいない。道兼自身が「妻子珍宝及王位」という教えを持ち出しておきながら、花山との約束を破り、それと正反対に関白まで成り上がったが、天罰てき面で「七日関白」で世の人から笑われた、という嘲笑をぶつけている。

そして、寛和二年六月廿二日の夜、にわかに帝の行方が不明になったという大事件が持ち上がったというのが『栄花物語』である。しかし、『栄花物語』は義懐・惟成側のうろたえた様については詳しいが、兼家-道兼側の企みについては、なんら触れない。

『大鏡』は同じ事件を述べるが、男語りであるから、天皇出家に至るまでの陰謀がわかるような叙述になっている。しかも、相当詳細である。それで次に、『大鏡』によって花山出家のいきさつを読んでおく。
前代未聞のことだがこの日の深夜、ひそかに帝は道兼とともに夜の御殿を抜け出す。出家の決心をしたのである。
心を動かされることですが、皇位を下りなさった夜、帝が清涼殿の夜の御殿から藤壺の上のお局へ通じる妻戸を出る際、ありあけの月がとても明るかったので、「みなあからさまに見られてしまう。どうしよう」とおっしゃった。 道兼は「そうはいっても、皇位にとどまることは不可能です。神璽・宝剣は、すでに移動させてあります」と、帝をせき立てた。というのは、帝がまだ御殿をお出になる以前に、道兼自身が神璽・宝剣をとって、春宮(懐仁・一条天皇)の御殿に移しておいたので、帝が退位の決心を途中で変更して再び夜の御殿に戻ることがあってはならないと考えていたので、このように申し上げたのだ。

さやけき月かげをまばゆく思われるている時に、月の面に群雲がかかってすこし暗くなった。それで「わが出家は成就するようだ」とお思いになって、歩き出しなさった際に、弘徽殿の女御からのお手紙の、日頃破り捨てることもしないで目も離さず見ておられたのを思い出して、「ちょっと」といって、取りにお入りになろうとなさった。道兼は「何をお考えでいらっしゃいますか。ただ今を過ごすと、なにか差し障りも出てくるかもしれません」と、うそ泣きまでして、お止めもうしあげたのでした。

土御門から、東にむかって案内してお出しした。安陪晴明の家の前を通り過ぎなさったとき、晴明みずから声をあげて、手をひどく「はたはた」と拍ったようだった。「帝が御退位なさるという天変があったが、すでに退位なさったように見える。宮中へ参って申し上げよう。車の準備をせよ」と。その声を帝もお聞きになったであろう。さぞや、心をうたれなさったことであろう。晴明の声が続いて「ともかく式神一人、内裏へまいれ」と命じたので、目にみえないものが戸を押し開けて、花山院の後ろ姿をみやって、「ただいまこの家の前を通りすぎていかれたようだ」と返答した、とかいう。その家は土御門町口にあったので、帝たちの通り道にあたっていた。

花山寺に到着なさって、帝が剃髪した後で、道兼は「ちょっとお暇をいただいて、父の大臣(兼家)にも自分の剃髪前の姿を最後に今一度見せて、事情をお話ししてから必ず参ります」と言って、立ち去った。
花山院は「自分を欺くたくらみだったのだ」とおっしゃって、お泣きになった。まことに悲しいことであった。つね日頃道兼が、「いっしょに仏の御弟子になりましょう」と約束して、帝の出家を勧め申しあげていた恐ろしさよ。

東三条殿(兼家)は、「もしかして、道兼が帝といっしょに出家してしまうということもあるかもしれない」と危ぶんで、しかるべく思慮深い人々、なんとかいう立派な源氏の武者達を、護衛にひそかに添えていた。京中ではかくれて後をつけさせ、賀茂川の堤辺りからは公然と姿をあらわして護衛していった。寺に入ってからは、道兼が強引に出家を強制される危険性も考えて、一尺ばかりの刀を抜いて威嚇の姿勢で守っていた。
(同前p51~53の意訳)
この『大鏡』の記事によって、花山天皇の出家は、弘徽殿の女御の死去に傷心を扱いかねている帝の一途さに付け込んだ兼家とその息子たちの周到な計画によるものであることが、はっきりと分かる。一番帝に身近に接近して最終的に帝の剃髪を見届ける道兼が孤立してしまわないように、護衛に名を借りた“九条流一派”の威力を顕示して、帝と道兼を包囲していたのである。『大鏡』でよく知られている五月雨の夜の「肝試し」に登場するのは花山天皇、道隆、道兼、道長であるが、彼らが世代的にも近く親しい関係にあったことが分かる。前掲のように花山即位の年の年齢は、花山(17)、道長(19)、道兼(24)、道隆(32)であった。そういう親しい間柄を利用して、弘徽殿女御を失って悲嘆に沈む花山を出家の気分に誘導するのに、道隆ら兄弟は最適だった。
花山寺の最後の段階では抜き身をみせて武威を見せていたというところ、原文は「一尺許の刀などをも抜きかけてぞ守り申しける」である。これは兼家配下の武力集団のプロの仕事だと思える。花山天皇のような繊細な感受性を持ち一流の表現能力をもつ人物が、プロ集団に手もなくあしらわれて、兼家の権力の欲望に翻弄されているといえる。


上図は、京都市埋蔵文化財研究所のサイトの「平安京図.dbf」に、岩波体系本『大鏡』の補注(第1巻26、p442)の安陪晴明宅が書き込んである地図のデータを記入したもの。
土御門大路を東進したとすれば、上東門を出たと考えるのが最短だが、偉鑒門から出たという説もあるそうである。いずれにせよ、安陪晴明宅との関係がつくことは地理的には分かりやすいが、それがどのような意味を持つのか。「退位の予見」とか「式神」とか陰陽師の超能力を顕示するエピソードが入っているのは、『大鏡』に資料を提供する側に、晴明ら陰陽師の筋があったのであろう。晴明らがこの陰謀の一端に関与していた可能性も考えられる。
陰陽師らが秘密情報に通じ、場合によっては後世の忍者のような非合法活動もしていたであろうことは、十分想像される。今井源衛『花山院の生涯』(桜楓社1976)によると、「大鏡に見える安陪晴明の重要な役割が、当時のいわば秘密警察的なものであろうことは、吉永登氏の説であり、又満仲等の武士が、貴族の手足となってその策謀に加わる性格をもっていたことも史家の指摘する所である」(p92)と述べていて、参考になる。なお、今井源衛は「史家」として石母田正『日本史概説』(上p135)を揚げている。

「花山寺」は山科の元慶寺[がんぎょうじ、がんけいじ]のことである。元慶寺は元慶年間(877~885)にはすでに存在していた由来の古い名刹であるが、内裏からはかなりの距離である。賀茂川堤まで出て、南下したことは確実だが、粟田口から山科へ行くにしても旧東海道の道で山科へ行くにしても10km近くはあろう。晴明が内裏に出向くのでさえ牛車の用意を命じているくらいだから、ひそかに内裏から忍び出るのは徒歩であったとしても、警護の武士たちが姿を現すあたりまでには、車に乗ったと思われる。(この点、『栄花物語』が言及しているので、そこで、再論しよう。

『栄花物語』は、寛和二年六月廿二日の深夜、帝が「にわかに失せさせ給ぬ」として、大騒ぎする様子が描かれる。
内のそこらの殿上人・上達部、あやしの[身分いやしい]衛士・壮丁にいたるまで、残る所なく火をともして、到らぬ隈なく求め奉るに、ゆめに[一向に]おはしまさず。太政大臣よりはじめ、諸卿・殿上人残らず参り集りて、壺々[御殿の間の小庭]をさへ見奉るに、いづこにかはおはしまさん。

あさましういみじうて[気も顛倒し一大事として]、一天下こぞりて、夜のうちに関々固めののしる[各関所を警護しおおさわぎする]。

中納言[義懐]は守宮神[すくじん 外記庁に祀った神]・賢所[かしこどころ 神鏡を祀ってある]の御前にて伏しまろび給て、「わが宝の君はいづくにあからめ[にわかに見失う]せさせ給へるぞや」と、伏しまろび泣き給。

山々寺々に手を分かちて求め奉るに、さらにおはしまさず。女御たち涙を流し給。「あないみじ[なんと大変なことだ]」と思ひ嘆き給程に、夏の夜もはかなく明けて、中納言や惟成の弁など花山に尋ね参りにけり。そこに目もつづらかなる[きょろきょろさせた]小法師にてついゐ[突き居るの音便で、かしこまっている]させたまへるものか。
天皇の姿が突然見えなくなってしまう、ということは歴史上そうたびたびあったことではないだろう。関白・太政大臣[花山の場合は頼忠]のついているお飾りのような天皇であっても、そのお飾りとしての意味は重大であったことが、こういう大騒ぎでよく分かる。
宮中を徹底的に探すことは当然であるが、京の関所を固めて異常事態に対処しようとしている。陰謀を企んだ側からの意図的なリークなのか、安陪晴明のような立場の者を介しての情報開示なのか、警護の武士たちが働いたとすれば関連する者たちからの情報が伝わることも考えられる。ともかく、義懐と惟成は花山寺へ行って、そこで、小法師となっている花山天皇を見いだした。目をきょろきょろさせてかしこまっている小法師という憑きが落ちたような花山の様子をうまく表している。

とっさにその場で、義懐と惟成は兼家らの陰謀を悟ったであろう。花山の出家によって政治家としての自分らの生命が絶たれたことを知り、二人とも即座に出家する。それが彼らにとってもっとも安全な道であることを悟ったのであろう。
「あな悲しや、いみじや」とそこに伏しまろびて、中納言も法師になり給ぬ。惟成の弁もなり給ぬ。あさましうゆヽしうあはれに悲し[大層忌まわしく、しみじみと悲しい]とは、これよりほかの事あべきにあらず。

かの御事ぐさ[くちぐせ]の「妻子珍宝及王位」も、かくおぼしとりたるなりけり[このように出家なさるつもりで心中に悟っておいでになったのであった]と見えさせ給。「さても法師にならせ給はいとよしや[大変ご立派であったことだ]。いかで花山まで道を知らせ給て徒歩より[かちより 歩いて]おはしましけん」と見奉るに、あさましう悲しうあはれにゆヽしくなん見奉りける。
『栄花物語』同前p99
花山院が一途に弘徽殿の女御を失った悲しみを受けとめ、「妻子珍宝及王位 臨命終時不随者」を正直に実践しようとしたことが、哀切に思われる。道兼の通俗人としての卑小さが浮彫にされるといってもよい。さきに引用した「新千載集」所載の花山院御製を再掲する。
なべて世の人より物を思へばや 雁の涙の袖につゆけき
さきに述べたように『栄花物語』は、花山天皇が徒歩で花山寺までいったとして、より強く哀切を強めている。

『古事談』には
嚴久候御車側、嚴久遣車也、道兼騎馬 向御花山、即以嚴久令剃御頭給

嚴久は御車の傍で伺候していた。嚴久が用意した車である。道兼は騎馬であった。花山寺に向かい、即座に嚴久が天皇を剃髪した。
とあり、あらかじめ花山寺の嚴久と連絡が取れていて、嚴久の用意していた車で寺まで行ったことになっている。道兼は騎馬であった。寺に着くと、すぐに嚴久が花山天皇の頭を剃ってしまった。あらかじめ嚴久がこの陰謀の重要な締めくくり役として、準備を整えていたことが歴然としている。
前掲、今井源衛『花山院の生涯』には、「嚴久について」という分量のある「註」が設けてあって、嚴久が権力に取り入る「厚顔」な人物であったことを示そうとしている。そこには、嚴久が「積極的な陰謀の加担者であったことは疑いない」(p97)と述べられている。

『百錬抄』には
僧嚴久、蔵人左小弁道兼扈従、以左少将道綱献剣璽於東宮、道兼之謀也、権中納言義懐・左中弁惟成、追参花山寺、同以出家

僧嚴久と蔵人左小弁道兼が帝に扈従した。左少将道綱が剣璽を東宮へ献じたが、それは道兼の謀によるものだ。権中納言義懐と左中弁惟成が花山寺に追参し、帝と同じく出家した。
とあり、嚴久と道兼が同道したことを述べるだけでなく、花山天皇が夜御殿を出ると同時に、そこから東宮の御所へ剣璽を移動してしまったのは、道綱が実行したことを明らかにしている。


厳密に言えば、道兼に導かれつつ花山が自分の夜の御殿を出て、道綱が神璽・宝剣を東宮(懐仁)の御殿へ移した瞬間に、すでに後戻りできない皇位の禅位・受禅は成立していたということだろう。もし、花山が道兼の「うそ泣き」を振り切って弘徽殿女御の手紙を取りに戻ったら、あるいは密かに推移をうかがっていた兼家の手の内の者が登場して花山を拘束するというような展開(一種のクーデター)があり得たかも知れない。義懐と惟成の即座の出家がつづいたことは、すでに後戻りできない過程が進行している舞台裏での暴力的威圧を推測させるものである。


翌日にはただちに一条天皇(七歳)が即位し、その東宮には冷泉院の二宮・居貞(十一歳、のちの三条天皇)がなった。いずれも兼家の孫であり、兼家の構想は完璧に実現した。兼家自身は幼帝の摂政となった。
この日同時に行われた臨時の補任で、道兼は蔵人頭に、道綱は蔵人に、道長も昇殿を許された。これは、これら兄弟が前夜までの陰謀で働いたことへの露骨な褒賞であることを意味している。

この陰謀のなかで長男・道隆がどういう役割を果たしたのか、よく分からない。あるいは、この陰謀に加わっていないかもしれない。今井源衛『花山院の生涯』は次のように述べている。
花山退位直後の除目に道兼が陰謀の功労者として、蔵人頭となったことは前述したが、小右記(七月十六日条史料通覧本)によれば、
(寛和二年(986)七月十六日)坊官の除目有り云々、此の次に、蔵人頭左少弁道兼を以て右中将に任ず云々、中納言道隆中将一門任ずるを停む云々
とあって、道隆一門のみは、この度の栄進には外されたものらしい。あるいは道隆は、この陰謀に反対だったのであろうか。(前掲書p127)
しかし、兼家の政権は長続きせず、彼が病没する正暦元年(990)までの四年間で終わり、長子・道隆に政権を譲るが、『大鏡』によると弟・道兼はこれをひどく憎んだという。陰謀に荷担しなかった兄が政権を取ることに不満があったのか。
中関白・道隆の栄華は、清少納言などの筆で後世のわれわれは強く印象づけられているが、長徳元年(995)までの五年間のことであって、けして、これまた長期政権ではなかった。



---  その(8)    道隆・道兼の急死  ---


頼忠が摂政となったのは貞元二年(977)のことで、それから10年間その地位を守ってきた。源雅信は宇多源氏で、貞元三年(978)から15年の長きにわたって左大臣の地位にあることになる。つまり、雅信が公卿会議のトップ(一上 いちのかみ)であった。
兼家は右大臣であったから、そのまま事態が推移すると、いつまでたっても公卿会議のトップを握ることは出来ない情勢であった。しかし、花山天皇退位の陰謀の成就によって、兼家は幼帝・一条の摂政となり一挙に政権中枢を把握する。すなわち、彼は公卿会議側ではなく、天皇側に立場を移したのである。
そして、兼家は息子たち道隆・道兼・道綱・道長の地位を思うままに、強引に引きあげていくのである。

後世のわれわれからすると、御堂関白道長の出世の道が開けていて当然であるかのような錯覚を持つが、面白いことに、決してそうではなかったのである。
花山退位の寛和二年(986)の時点で兼家五十八歳、道長二十一歳であるが、道長には3人もの兄達が健在であった。道隆三十四歳、道綱三十二歳、道兼二十六歳(ただし、この兄のうち道綱は、ボンヤリした人物で才覚がなかったといわれ、道長の競争相手から外しておいてもよい)。おまけに長兄・道隆には伊周[これちか]十三歳、隆家五歳の男子があり、数年後には道長の競争相手になることは明らかであった。
つまり、この時点で道長は、天皇の外戚という極めて有利な家筋にあったことで将来有望の若手貴族ではあったが、兄たち道隆・道兼の後を追うしかない立場であり、すでに甥・伊周という有力な競争相手もいたのである。したがって、出世は期待できるが、トップの地位を望むのは無理、というところであった。

道長にとって将来決定的に有利となる布石がこの時期に打たれている。それは左大臣源雅信の女倫子との結婚である。永延元年(987)のことで、道長二十二歳、倫子二十四歳。雅信が長い間左大臣にあり「一上 」であったことも重要だが、それ以上に、倫子には多くの子女が生まれ、男は関白に女は妃にと、道長係累を根深くひろげたことが、更に重要であった。最初の子が翌年に生まれており、それが彰子(のちの一条帝中宮、上東門院)である。倫子はつづいて頼通・妍子・教通・威子・嬉子を生んでいる。娘は皆それぞれ天皇に入内し、特に嬉子は後朱雀天皇妃となり後冷泉帝を生んだ。
なお、同時期に道長は源高明の女・明子を妻にしており、多数の子女をあげている。(前掲の「道長時代の系図」はここ

父・兼家は関白・太政大臣の地位にのぼったが、正暦元年(990)五月に病気を理由に関白を長男・道隆に譲り同年七月に没する。
道隆はこの年の正月に、長女・定子を一条天皇の女御として入内させており、定子が中宮の地位をうるのは同年十月のことである。中宮・定子を中心とした一条帝の宮廷生活の明るく機知に富んだ様子が清少納言『枕草子』によって伝えられている。中関白・道隆も明るい冗談好きのおじさんとして登場している。

最も有名な「淑景舎」[しげいさ 藤壺の殿舎の名前、そこに住まうことになった定子の妹・原子を指す]が中宮・定子の宮殿・登花殿を訪問したときの場面の一部を引いてみる。淑景舎・原子は東宮・居貞(のちの三条天皇)の妃となって、はじめて定子を訪問したのである。あわせて、彼女らの父母である道隆と妻・貴子も登花殿を訪問して、食事の場面になる。清少納言は好奇心に堪えかねて多くの女房達とともに、屏風の蔭からその様子を覗っている。道隆が「殿」という名称で登場する。
殿は、薄色の御直衣、萌黄の織物の指貫、紅の御衣ども、御紐さして[直衣の襟元の紐を留めて]、廂の柱にうしろをあてて、こなた向きにおはします。めでたき御有様を、うちゑみつつ、例のたはぶれごとせさせ給ふ。淑景舎[しげいさ]のいとうつくしげに、絵にかいたるやうにてゐさせ給へるに、宮[定子]はいとやすらかに、いますこしおとなびさせ給へる、御けしき[顔の色艶]のくれなゐの御衣にひかりあはせ給へる、たぐひはいかでかと見えさせ給ふ。
「例のたはぶれごとせさせ給ふ」は、いつもの冗談を言って皆を笑わせているというぐらい。そのうち、食事が運ばれてきて、清少納言たちを隔てていた屏風がかたづけられる。女房達は、御簾や几帳の蔭からうかがうのだが、衣の裾や裳などはみな御簾の外に押し出されて、道隆から丸見えになってしまう。
殿、端の方より御覧じいだして、「あれ、誰そや。かの御簾の間より見ゆるは」ととがめさせ給ふに、「少納言がものゆかしがりて侍るならん」と申させ給へば、「あなはづかし、かれ[清少納言]はふるき得意を[古いなじみなのに]。いとにくさげなるむすめども持たりともこそ見侍れ」などのたもふ、御けしきいとしたり顔なり。(岩波古典体系19『枕草子 紫式部日記』「104段」p162)

道隆さまは、端の方から見とがめなさって、「あれ、だれだ。あそこの御簾の間からみてるのは」とおとがめなさる。「清少納言が見たがってるんだろう」とおっしゃる。「なんと恥ずかしい、彼女は古いなじみだというのに。たいそう醜い娘たちを持っていることと思って見てるんだろう」などおっしゃるのは、とても得意そうなご様子だ。
考証によると、この『枕草子』の記事は長徳元年(995)二月のことで、道隆はその四月十日に死亡する(上掲『枕草子 紫式部日記』の補注90,p345)。大酒飲みだった道隆は、糖尿病だったらしいが、「淑景舎」の巻の道隆は生き生きとしており、2ヶ月後に死ぬ人とはみえない。この時期は流行の疫病(疱瘡説がある)のために、多くの貴族が死んでいる記事があり、道隆も持病の糖尿病に加えて疫病にかかっていたのかも知れない。死を前にして道隆は後継の関白として嫡男の伊周(内大臣 これちか)を望んだがそれは容れられず、道兼が関白となる。それは道隆死亡後の長徳元年(995)四月二十七日のことである。

疫病の大流行のこの時期、『小右記』はとびとびにしか残っていないが、同年四月廿四日条は次のようになっている。
去夜左大将[藤原済時]薨、年五十五。去今日間四位五位多卒。関白葬送云々。

昨夜、左大将・藤原済時が薨じた。享年五十五歳であった。昨日今日の間に、四位・五位の者多数が死んだ。関白道隆の葬送のこと。
このように、宮中の高官も含めた多数の貴族たちがバタバタと死んでいく慌ただしい状況であった。平民の死者はいうまでもなく数え切れないものであったであろう。

道兼は、このような慌ただしい状況に中で関白を受けついだのであるが、じつはその時点すでに道兼自身がこの疫病にかかっていた。『大鏡』は同年五月二日に「関白の宣旨」があったとしているが、その日、宮中で急に様態が悪くなり、清涼殿の殿上の間から自力では歩行できず、「御湯殿の馬道の戸口」に前駆の者を呼んで、そこから担がれて退出した。関白となったばかりの目出度く嬉しい時であるから、道兼は「胸はふたがりながら、心地よがほをつく」って運ばれていった。

『大鏡』は、実資(『小右記』の作者)が関白就任のお祝いの挨拶に来て、母屋の御簾を下ろして、伏しながら対面したことをかなりの字数を使って述べている。実資がのちに語ったこととして、道兼は偉容のある立派な人だったのに、顔色も変わり、正体のないようになりながら、「長かるべきことどものたまひしなん、あはれなりし 将来の末永きことをおっしゃっていたのは、お気の毒でした」と書いている(第四巻「道兼」p198)。
道兼は、兄・道隆からは嫡男・伊周と関白を争う相手と見られて、憎まれていたのだが、その一方では“胆力のある人物”と評価している実資のような有力者もいたのである。花山院を退位に追いこむ陰謀では、道兼は花山天皇を説得して元慶寺(花山寺)まで連れ出すという最も危険な役目を果たしている。『大鏡』はつぎのような面白い表現を用いている。
粟田殿[道兼]、花山院すかしおろしたてまつり、左右衛門督[嫡男・兼隆]、小一条院[敦明親王]すかしおろしたてまつり給へり。みかど・春宮の御あたりちかづかでありぬべきぞうといふ事のいできにしぞ、いと希有に侍きな。(同前p201)

道兼が花山院を欺して退位させたように、息子の兼隆が敦明親王を欺して後一条天皇の東宮であったのを辞退させた。それで、この家筋には帝・東宮はちかづかないほうがいいという噂が立ったが、まったく珍しいことでした。
敦明親王というのは、三条天皇の第一皇子で、後一条天皇の東宮となっていた(母親は済時女で、済時は左大臣藤原師尹の次男)。後一条のあとは敦良(のちの後朱雀)に即位してもらいたい道長の圧力を受けて、敦明は東宮を辞退することになる。後一条も後朱雀も道長の孫だからである。他に資料はないらしいが、この東宮辞退劇に兼隆が動いたとして『大鏡』は道兼-兼隆一族をからかっているのである。
『大鏡』は、中関白(道隆)や道兼一族が衰退して、道長の流れだけが栄華を極めるという歴史を鼓吹する立場にあるから、このような書きっぷりは当然だとも言えるが、それにしても、「花山院すかしおろしたてまつり」という表現をくり返していることは記憶されていいと思う。けして神秘化せず、冷静で皮肉な歴史描写なのである。

『大鏡』第四巻の末尾は、父・兼家は花山天皇を退位させた最大の功労者である自分(道兼)に関白を継がせるべきだった、と息巻いて、兼家死後の喪中にすこしも慎まず騒いでいた、という道兼を示している。
花山院をばわれこそすかしおろしたてまつりたれ、されば、関白をもゆづらせ給ふべきなり。(同前p202)
こうして、道兼は関白となって幾日もたたないうちに死んでしまう。それで「七日関白」といわれたということは、既述した。

道長の立場で見れば、年齢の階梯という強い障壁で自分の前に立ちふさがっていた兄ふたり道隆・道兼があいついで急死したのであり、タナボタ式に幸運が転がりこんできたということになる。
この段階で、道長は三十歳、従二位・権大納言の超エリートではあるが、公卿会議のヒラのメンバーである。競争相手の伊周はすでに内大臣となっている。他の上位の者は左大臣の源重信だけであったが、重信も道兼と同日に疫病で死んでいる(右大臣は道兼であった)。
一条天皇はこのとき十六歳で、すでに、自立的に判断を下し始めている。が、生母・詮子が健在であり、弟・道長は姉・詮子との近しい関係で有利な立場にあった。

長徳元年(995)六月十九日、道長は道兼急死後の政権中枢に右大臣として入り、内大臣・伊周を一歩先んじる。つまり、そこで道長はついに「公卿会議」側のトップの地位に就いたのである。



---  その(9)    花山院襲撃事件  ---


花山天皇が「すかしおろ」されたのは、寛和二年(986)六月二十二日のことだった。出家し、「太上天皇」の尊号を辞退している(同二十八日)。直後に書写山円教寺(今でいうと姫路市郊外)に詣でている。さらに、比叡山において受戒を受けている。それから数年間、比叡山で仏道修行に励んだ模様。そして熊野参詣の旅に出る。
花山院の熊野参詣(熊野修行)は、年次がわかる資料が存在している。今井源衛『花山院の生涯』は次のように述べている。
この熊野入山に就いては、明徳四年(1393)に作られた粉河寺縁起(花山法皇御幸第六)にも
正暦二年(991)の冬熊野山より御下向の次に、当寺に御参詣あり、扈従の人は、入道民部卿能俊、入道左大弁惟成、三井寺元清阿闍梨なり。法皇は笈を懸て入おはします。
とあり、(以下略 前掲書p106)
惟成はすでに永祚元年(990)に死去しているので、この資料「粉河寺縁起」の信頼性はだいぶ落ちることはあきらか(なお「粉河寺縁起」は岩波「日本思想体系20」『寺社縁起』p46~47)。今井源衛はほかにも資料を示し、同書巻末の「略年表」では、正暦三年(992)に「春ゴロ熊野入山」と記している(p288)。そして、花山院は同年の七月までには帰京しているという(p111辺りの考証)。つまり、花山院の熊野修行は「三年千日の参籠」などと伝説化されているが、実際には、数ヶ月間の参詣であったという。(花山院の熊野修行は、西行が「山家集」に詳細に取りあげていることもあり、伝説化している。この事については、後に別に扱いたい。

寛和二年(986)六月に出家した花山院は、書写山・比叡山・熊野に足跡を残し、京にもどってきてふたたび世俗の付き合いが始まるのが、正暦三年(992)夏ごろからである。つまり、この6年間ほどが花山院の「仏道時代」とでもいえるのである。感受性豊かなこの人物の十九~二十五歳の6年間であり、けして短いとはいえないだろう。
その間、兼家の孫である一条天皇は花山の譲位を受けて七歳で即位したのだったが、すでに十三歳となっている。中関白[なかのかんぱく]・道隆の女・定子が入内したのは一条の元服の時で十一歳であった。この頃はちょうど中関白家の全盛時代といえるだろう。兼家や道隆は一条に一日でも早く子供を作らせようと“はやく、はやく”とせっついているわけだ(定子は三歳年長。第1子・敦康が誕生したのは一条が二十歳のときだが、すでに中関白家の没落が始まっていたので、敦康は皇位から遠ざけられる)。

6年間の「仏道時代」を経て都の世俗世界へ戻ってきた花山法皇は、一方では高貴な身分にありながら修行を重ねてきた効験あらたかな験者として尊崇を集めたが、同時に他方では好色放縦の生活をだれ憚ることなく開始している。

前者については、わたしは寺社の歴史資料を読む力がないので又しても今井源衛『花山院の生涯』に頼るが、『元亨釈書』十七には、次のようにあるという。
寛和皇帝[花山院](略)回都在花山寺、闢密学受潅頂者多矣

花山院は都にもどり花山寺に在った。密教の学を身に付け潅頂を受けるものが多かった。
帰京早々は、歴年山林斗そう[手偏に數]を積んだいみじき験者としての名声も高かった頃で、授業を乞ふ者も多かったであろう。(前掲書p152)
『大鏡』第三巻「伊尹」の「験くらべ」の話は有名なので、それを参照しておこう。熊野の「中堂」で
かかるほどに、御験いみじう付かせ給ひて、中堂に登らせたまへる夜、験くらべしけるを、試みんとおぼしめして、御心のうちに念じおはしましければ、護法付きたる法師、おはします御屏風のつらにひきつけられて、ふつと動きもせず、あまり久しくなれば、今はとて許させ給ふおりぞ、(はじめに護法を)付けつる僧どものがり踊りいぬるを、「はやう(なるほど)院の御護法のひきとるにこそありけれ」と、人々あはれに見奉る。
それさることに侍り。験もしな(身分)によることなれば、いみじき行い人(修行者)なりとも、いかでかなずらひ(比較)申さん。前生の御戒力に、又国王の位を捨て給へる出家の御功徳、かぎりなき御ことにこそ、おはしらすらめ。
(岩波古典体系本『大鏡』p148)

熊野の中堂の「僧ども」が護法童子(不動明王に付き従う童子)を「法師」に付けたのに対して、花山院は念じてその法師を屏風に引きつけて動かなくさせた。念を解くと法師は踊るようにして「僧ども」の方へ退いた。そもそも花山院は、前生の戒行の果報として国王になったに、その国王を自ら降りたのだから、有り余る法力は限りを知らない。
『大鏡』は天皇を「国王」と崇めてその権威を輝かすことで、道長の〈王権〉を荘厳し偉大たらしめようとするイデオロギーに貫かれているから、こういう論法になるのは仕方がない。花山院の験力が神秘化され山岳修行が伝説化されたのは、平安末のことであろう。たとえば『大鏡』の成立は花山院の頃から1世紀後の、白河院政期といわれる。
重要な点は、花山院の「仏道」なるものは比叡山や南都仏教に象徴される仏教の中心とはだいぶ外れた熊野修験道であることである。それは、山伏たちの伝えている列島古来の山岳宗教に源流を求めることができる。

帰京後の花山院の放縦な好色生活は、『栄華物語』の「巻第四 みはてぬゆめ」で弘徽殿の女御の父親・太政大臣為光が正暦三年(992)六月十六日に死去した話のあとに、花山院が伊尹の「九の御方に」(九女、花山院の叔母にあたる)「あからさまにおはしましける程に」と書いている。「あからさまに」は「かりそめに」ぐらいのニュアンス。当然、男女の関係にあった、ということである。この九の御方が住んでいたのは「東の院」で、東院-東一条院などと呼ばれ、以下に示すいきさつで花山院とよばれるようになる。
花山院は当初は花山寺から通ってきていたのであろうが、自分の御乳母[めのと]の女の中務[なかつかさ]とも親しくなり、東院のどこかに住まいを構えることになる。ついで、中務の女・平子とも出来てしまい、後にそれぞれに子供をうませることになる。
院自身の乳母といえば、育ての母親でとても親しい関係にある。それは“血のつながらない肉親”とでもいうべきものだ。その女・中務はいわば血のつながらない姉妹という“近さ”にある。その心やすさの関係で脚を揉ませたりしていた、という下の『栄華物語』は、いかにも催淫的である。
かヽる程に花山院、東の院の九の御方にあからさまにおはしましける程に、やがて院の御乳母の女中務といひて、明け暮れご覧ぜし中に、何ともおぼし御覧ぜざりける、いかなる御様にかありけん、これを召して御足など打たせさせ給ける程に、むつまじうならせ給て、おぼし移りて(愛情が移って)、寺へも帰らせ給はで、つくづくと日頃を過ぐさせ給。
九の御方、我が見奉らせ給をばさるものにて(当然いとわしいが)、世に自から漏り聞ゆる事を、わりなうかたはらいたくおぼされけり。(中略)かヽる程に中務が女、若狭守祐忠[すけただ]と言ひけるが生ませたりけるも召し出でて使わせ給ほどに、親子ながらたヾならずなりて、けしからぬ事どもありけり。
(前掲書p134)
しかも花山院は、自分の弟の弾正宮・為尊親王に九の御方を紹介し、通わせている。
さすがに甘へいたくやおぼされけん[気まま過ぎるとお思いになられたのか]、我が御はらからの弾正宮を語らひきこえさせ給て、この九の御方に婿どりきこえさせ給ふ。「悪しからぬ事なり」とて、宮おはし通はせ給ふ。(同p135)
このあと、『栄華物語』は花山院と弾正宮が東院で出会って軽口を言いあっているところなどを示している。東院における3人の女を相手にした放縦な生活に弟を引き入れるところについても、この話は“近しさ”の催淫効果をねらって語られているように感じられる。
だが、これはフィクションではなく、だれ憚るところのない法皇としての地位に裏づけられた花山院の実生活であったと思える。平衡感覚を容易に逸脱して極端な世界にスムーズに入りこむことのできる花山院の「狂気」とは、そういうものだった。

加えて、修験道や密教では、験者の“力”を示すことを第一に考え、呪力のすぐれた験者になることを修行と考えて、荒行や呪術的秘教に偏る傾向があった。そのためにオーソドックスな仏教の戒律は無視され、妻帯を禁じない場合もあった。
山林斗そうや山岳修行を専一に実践するためには、山中の修行者を支える“山伏村”が必要で女人結界の境界付近にベースキャンプ的な山伏村ができていた。当然その村には家庭が存在し世代継続がはかられ、物資補給などが可能な体制ができていた。そういう山伏村に出入りする修験者のうちで傑出した者が、病気治療や呪法の要請をうけて名を挙げるということもあった。
したがって、花山院のようにすぐれた験者でありつつ(そういう評判を維持しつつ)、女性関係も世俗人と変わらず保つということがあり得た。出家者が妻帯することが、必ずしも破戒行為とされないのである。神仏混淆の教理の中に修験道は位置を占めていた。
だが、オーソドックスな仏教(建前としての仏教)からすれば、それは破戒であり僧としてあるまじき行為であった。(ついでに言っておくと、花山院について「好色」と形容するのが倣いになっているが――わたしもそうしている――、彼は自分の好色振りを隠さなかったという意味で「好色」なのであって、この時代の天皇たちの中で特別に“女好き”であったり“性欲旺盛”であったということではない。彼が自分の好色振りを隠さなかったことは彼の「狂気」と関連していることだ。たとえば名帝の評判のある醍醐天皇は「皇代記」が記録するだけで38人の子供(男20、女18)を作り、妻妾18人である。醍醐帝の師輔との関係は相当の放縦であったらしいことは、既述した。性生活は天皇の“業務”の一部であり、天皇の性生活が盛んであることは嘉すべきことであって、「色好み」は歓迎すべき性格であった。「隠せば名帝」ということだ。

道長の政敵を倒す大事件が起こるのは、花山院のこのような奔放放縦な生活の中からである。
上述のように花山院が「仏道」修行を終えて都に戻ってきたのは、正暦三年(992)夏ごろとされている。それ以降に東院において伊尹(伊尹は20年ほど前に没している)の九の御方および中務とその女・平子との関係が始まっている。中務が昭登親王を生んだのは長徳四年(998)であり、平子が清仁親王を生んだのも同じ頃(不詳)である(言うまでもないが、この二人は正式に親王として認知されているのであり、これが花山院の男子のすべてである。皇女は4人いる。昭登と清仁は同時に袴着の祝をしているので同年かせいぜい1~2歳の差であろう)。中務と女・平子の母子と、同時にしかも同じ家屋で関係を持ちつづけるのは、ずっと継続していたと考えてよいであろう。弾正宮に九の御方を紹介したのは、東院での男女関係をすこし整理したい気持ちがあったからかもしれない。
花山院の波乱に富んだ生活のきっかけとなったのは、弘徽殿の女御・シ子[正しくは、りっしん偏に氏]の妊娠が原因の死没であった。シ子の父親・為光が没したのはちょうど花山院が都に戻ってきた年の夏、六月十六日である。その為光邸・鷹司殿には、三君、四君、五君の3女がいた。長女は義懐室となっており、二女がシ子であった。『栄華物語』巻第四「みはてぬゆめ」は、「女子はただ容貌[かたち]を思ふなり」といって、シ子と三君は美人だったが、四,五の君はそうでもなかったことをちがう場所でくりかえし二度も述べている。シ子が没した直後の記事を参照する。
女君たち今三ところ一つ御腹におはするを、三の御方をば寝殿の上[御方]と聞こえて、又なうかしづききこえ給ふ[またとなく大切にし申し上げておられた]。四・五の御方がたもおはすれども、この女御[故 シ子]と寝殿の御方とをのみぞ、いみじきものに思ひきこえ給ける。「女子は容貌を思ふなり」と宣はせけるは、四・五の御方いかにぞ推し量られける。(前掲書p134)
『栄華物語』は“女語り”らしく、遠慮なく露骨に美醜を述べたてている。

この鷹司殿に、花山院が通い出した。いつの頃からかわからないが、東院での放縦生活と併行してであろうことはたしかである。そのきっかけはシ子への思い出だったかもしれないが、欲望のままに容易に“則を超える”花山院の行き方(それを「狂気」と言ってもいい)からシ子の妹たちに興味が生じたのだろう。花山院は四君に通い出した。
ところが、内大臣・伊周は美人の聞こえ高い三の御方へ通っていたので、花山院が三君を横取りしようとしていると短絡的に考えた。そして、弟の中納言・隆家に花山院を何とか懲らしめられないか、相談する。
花山院この四君の御許に御文など奉り給、けしきだたせ給けれど[態度にあらわしてお迫りなさった]、[四君は]けしからぬ事とてきき入れ給はざりければ、たびたび御みづからおはしましつつ、今めかしう[華やかに]もてなさせ給ひける事を、内大臣殿[伊周]は、

  「よも四君にはあらじ、この三君の事ならん」

と推し量りおぼいて、わが御はらからの中納言[隆家]に

  「この事こそ安からず覚ゆれ。いかがすべき」

と聞え給へば

  「いで、ただ己にあづけ給へれ。いと安きこと」
(前掲書p156)
『栄華物語』は伊周側の誤解にもとづく恋のさや当て事件だとしているのだが、花山院のことだから三君、四君の両方を掛けていたかも知れず、真相は分からない。この事件を通して伊周側は悪者役を振り当てられており、道長の競合相手がこの事件で失脚して、競争相手としては完全に消滅することになる。そういう話にするために『栄華物語』は、花山院を“恋の誤解”の犠牲者にしておきたかったのであろう。
隆家の室は伊尹の女で、花山院の母・懐子の妹であり、隆家から見て花山院は“義理の甥”であって、兄・伊周の恋のさや当てに一役買って出て、放縦すぎる花山院にちょとお灸を据えるぐらいのことは引き受けただろう、というのは今井源衛の解説である(前掲書p132)。実際、『尊卑分脈』をみると、伊尹には6女があり、その第1女が「中納言隆家卿室」とあり、第2女が「国母冷泉院女御花山院母 懐子」とある。ほかに為光室、為尊親王室(これが「九の御方」である)など。

鷹司殿からの帰りの夜道で、花山院に矢を射かけるという事件が起こる(通常花山院奉射事件といわれる。たとえば『日本紀略』が「奉射法皇御在所」と書いている)。上引の続きである。
「いで、ただ己にあづけ給へれ。いと安きこと」

とて、さるべき人二三人具し給ひて、この院の、鷹司殿より月いと明きに御馬にて帰らせ給けるを、「威しきこえん」とおぼし掟てけるものは[院を威し申し上げようと計画したのだが、その結果]、弓矢といふものしてとかくし給ひければ、御衣[おんぞ]の袖より矢は通りにけり。
『栄華物語』は院に対して矢を射かけるという表現自体をはばかって、「とかくし給ひければ」とぼやかして婉曲に暗示しているのである。隆家は手勢のもの数名を引き連れて、鷹司殿から月の下、帰って行く花山院に矢を射かけ、矢は袖を貫いたのである。
慈円『愚管抄』は
隆家ノワカク、イカウキヤウナル人ニテ[厳く軽なる人]、ウカガヒテ弓矢ヲモチテ射マイラセタリケレバ、御衣ノ袖ヲツヒヂニイツケタリケリ[築地に射付けた]。(古典体系本p172)
と述べている。今井源衛によると奉射の事実を明確に記載した記録類は存在しないそうだが、下で見るように、「小右記」などによっても「院が射られたかどうかは分からないが、院と伊周らとの間にかなり物騒な乱闘があったことは察せられる」(前掲書p131)。

袖を射られた花山院は恐れおののいて帰宅して、この事件が外に漏れないようにしていた。『栄華物語』は次のように述べている。
これを公[一条天皇]にも殿[道長]にも、いとよう申させ給ひつべけれど、事ざまのもとよりよからぬ事の起りなれば、恥しうおぼされて、「この事散ちらさじ、後代の恥なり」と忍ばせ給ひけれど、殿にも公にも聞こしめして、おほかたこの頃の人の口に入りたる事はこれになんありける。(前掲書p156)

この事件を一条天皇や道長に訴えることはたやすいことだったが、法皇が女の許に通うという外聞よくないことから起こったことなので、恥ずかしく思い、外に漏らさぬようにしようと忍んでいらっしゃったが、道長や天皇に知られ、ついには世間の大評判になってしまった。

「恋のさや当て事件」というのは『栄華物語』の扱いで、実相がどうであったかは別問題である。伊周は内大臣(右大臣・道長がトップで、その次の地位にある)という重要な地位にある政治家であるので、自分の恋人・三君を花山法皇が奪おうとしていると誤解して法皇を襲撃するという戯画には、どうもそぐわない感じがする。襲撃を引き受けた隆家も中納言という地位にある。ただし、『愚管抄』も言うように、彼らは若かった、伊周(二十三歳)、隆家(十八歳)。年齢にそぐわない出世をしてしまった(させてしまった)と言えばそれまでだが、事件には別の裏があったのかもしれない。
長徳二年(996)正月十六日という日付のある記録は2つある。ひとつは『日本紀略』(編者不詳、平安末期に成立。『六国史』の抜粋、および、その後の宇多~後一条の記事からなる。後者の記事は編者が独自に作成したとされる。最後の記事は長元九年 (1036))の同日条は
今夜華山法皇密幸故太政大臣恒徳公[為光]家之間、内大臣[伊周]並中納言隆家従人等、奉射法皇御在所

今夜、花山法皇は密かに故太政大臣・孝徳公(為光)の家に幸したが、その際に、内大臣(伊周)と中納言・隆家の従人らが、法皇の御在所に弓を射奉った。
となっている。『栄華物語』や『愚管抄』との重大な違いは、馬に乗って帰る途中の花山院に射かけた、というのではなく、花山院が密会している建物に向かって弓を射た、としていることである。これなら、“威嚇”目的であって、花山院暗殺が目的ではないと思える。

ところが『野略抄』(『小右記』の異文のひとつ)の同日条には次のような、血なまぐさい事件が出てくる。
右府[道長]消息云、花山法皇・内大臣・中納言隆家相遇故一条太政大臣家[為光]、有闘乱之事、御童子二人殺害、取首持去云々、

右府(道長)情報では、花山法皇と内大臣(伊周)と中納言・隆家が故一条太政大臣(為光)家でたまたま出逢った。乱闘があり、法皇の童子二人が殺害され、首を持ち去られた
ほぼ同じ情報が、『百錬抄』(作者未詳、13世紀成立。記録類の抜粋)でも確かめられる。
(長徳二年)正月十六日、内大臣・権中納言隆家於恒徳公一条第、奉射華山院子細見栄華物語、御童子二人被殺害、取首持去云々、

(長徳二年)正月十六日、内大臣(伊周)と権中納言・隆家が恒徳公(為光)の一条第で花山院を射奉り(子細は栄華物語で見ることができる)、御童子二人を殺害し、首を持ち去った。
上引の『野略抄』の出ている『小右記』も、『百錬抄』もネット上で見ることができる。
『小右記』は東京大学の「史料編纂所」のこの画面の最下段の「データベース選択画面」をクリックして入る。次の画面の「古記録フルテキストDB」で「右府消息」などと入れてみればよい。『御堂関白記』も同時に検索していることが分かる。この全文検索はとてもすぐれている。
「菅文庫」の『百錬抄』の該当個所は、ここの10ファイルのなかの最後 00170020。こちらは、画面が見やすいです。

ついでに、『尊卑分脈』は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で公開している。ここの検索窓に「尊卑分脈」と入力する。使い方は「第13冊 索引」から人名を調べるか、あらかじめ、ある程度の下調べをしておいて、どの分冊に該当者が記載されているか、見当を付ける。
たとえば、「伊周」の場合は、藤原北家-道隆流だろうと見当を付けて、第2冊の道隆公流略系、道隆公流本系などを見る、など。画像がきれいでなく、探しにくいですが、図書館へ出かけてしらべる時間がないときに使えます。
「童子」と書いているからといって必ずしも子供であることを意味しない。「童姿」の男である可能性が強い。後に見るように、花山院の周りには常に悪僧などの無頼の徒がついていて、「取り巻き」を形成していたようである。 その中には、修験崩れの者たちも交じっていたであろう。
童子が二人殺害された、というのは「童子姿の付き人」の意味であろう。花山院の用心棒も兼ねた取巻きの者である。伊周と隆家とその手勢の者数名が弓矢などの武器を持って、花山院が密会している鷹司殿の建物を襲撃した。花山院側も何人かのお付きの者が警備に当たっていて、その者たちが手向かいし、そのうち2人が殺害され首を取られた。
政治的な力を持たない花山院を暗殺する陰謀は考えにくいから、寝所の建物に“矢を射かけて威かそう”ぐらいの計画が現場のなりゆきで殺人事件に発展したのであろう。思いがけず花山院の用心棒の手向かいにあい、隆家の手勢との乱闘になり、花山院の童子2人が殺害され首を取られるという血なまぐさい事件になってしまった。
『栄華物語』や『愚管抄』の、鷹司殿から月下に馬で帰る途中の院が矢を射かけられた、という話と両立させるには、鷹司殿の密会場所を見張って機会をうかがっていた隆家の手勢の者が、建物から出て帰ろうと馬に乗った花山院をみて、矢を射た、というような状況が想像される。院は現場からかろうじて逃げだしたが、手下同士の闘乱が死者2名を出すまでに発展した。

都での殺人事件となれば検非違使が登場するし、当時の検非違使別当がほかならぬ藤原実資(『小右記』筆者)であった。右大臣として政界トップの地位になったばかりの道長は、競合者の伊周・隆家を片づける願ってもない好機到来と考えて、できるだけ有利に事を運ぼうとするのは当然である。



---  その(10)    花山院襲撃事件の後始末  ---


花山院襲撃事件は長徳二年(996)正月十六日のことだった。2名が殺害され首を奪われるという事件であり、内大臣・伊周と中納言・隆家の兄弟のひきおこした事件であることが明らかとなり、伊周・隆家それぞれの家司など関係者への捜索が行われた。『小右記』は事件当日の正月十六日の後半から二月五日前半までの記事が「脱落」している。そのため、この事件直後の具体的模様は不明なのだが、二月五日の後半は、つぎのような、事件関連の捜索の記事になっていて、大変、興味深い。
(五日 丙子、)□尉致光[源 むねみつ]兄弟等宅、有隠居精兵之聴、遣廷尉可令捜檢[正しくは檢が、手偏]、雖云五位以上宅、不奏事由直以可捜檢、又自余疑所々可捜檢、件事似有事(疑)、董宣[菅原 ただのぶ]朝臣者内大臣[藤原伊周]家司也、致光又在彼宅□也、内府多養兵云々、承仰退出、詣右府[道長]、即帰□仰権佐孝道[]朝臣及検非違使等、入夜廷尉等帰家来云、捜檢董宣宅、董宣朝臣向故入道三位((源)清延)、葬送所、但捜檢彼宅、有八人者、(弓・箭二腰)、即捕得者、参内可令奏聞之由仰了、又捜檢致光、無致光、隣保云、召使未来之前、七八人兵逃去已了者、件所々佐以下皆悉馳向、事頗可驚、多是依京内不静所被行歟、京内及山々日々可捜檢之由、仰官人等了、□は不明字

長徳二年(996)二月五日、・・・致光およびその兄弟らの宅、精兵を隠して蓄えているという情報があり、廷尉らを捜索に向かわせた。五位以上の宅であっても、事由を奏せず直に捜索すべし、また、それ以外の疑わしい所々も、疑のありそうな事柄も、捜索すべし。
菅原董宣朝臣は内大臣・藤原伊周の家司である、致光もまたその宅にいるようである。内府(伊周)は多くの兵を養っている云々。仰せを承って退出し、右府(道長)に寄った。すぐ帰宅し、権佐[ごんのすけ]・源孝道朝臣および検非違使らに指示を出した。夜に入り廷尉ら帰り来たったら、董宣宅を捜索するように云え、と。
董宣朝臣は故入道三位・源清延の葬儀に行っていたが、彼の宅を捜索した。弓箭をたずさえた者八名がおり、ただちに捕らえた。参内し奏聞すべき由、指示した。また、致光宅を捜索したが、致光はいなかった。隣保の者が云うには、捜索の者が来る前に、七八人の兵が逃げ去った。そこへ佐以下皆が馳せ向かった。事はたいへん驚くべきである、多くの者は京内の静かでないところへ行ったか。京内および山々を日にちをかけて捜索すべきの由、官人らに指示した。
なお、「山々京内」というのは、大がかりな大捜索を京内外に展開するときの常套語らしく、同年五月二日「盗人捜事」にも使われている。

国家側-政権側とは、つまり、右府・道長がそのトップにいる公卿会議のことなのだが(「公卿会議」はわたしの造語)、政権側は内大臣・伊周が精兵を隠して国家転覆の準備をしていたということを証明しようとしている。内乱罪ないし内乱準備罪の疑いである。そのために、伊周の家司[けいし]である菅原董宣の邸や、その配下にある源致光やその兄弟の邸を、検非違使組織を使って捜索したのである。
この捜索で実際に発見されたことは、董宣邸で8名の武装した者を捕らえたのと、致光宅では7~8名の者が事前に逃げだしたという隣の家からの情報だけである。これだけの規模では、国家転覆のための軍事力どころか、用心棒的な手勢ないし警備員ぐらいのことでしかない。それでも伊周や隆家の犯した童子2名の殺人事件は、内乱的な軍事行動であったと罪を問うには十分であった。
要するにこの捜索によって、政権トップの道長は自分の地位をおびやかす可能性のある伊周を政治的に葬る口実を作ることができたのである。その意味で、この検非違使らを動員した旧政権派(中関白系)つぶしは大成功であったわけである。

おなじ二月五日の捜索を、『百錬抄』は次のように短くまとめて書いている。しかしそこには、上の『小右記』でははっきりしなかった観点が読み取れる。
二月五日内大臣家司董宣并同家人右兵衛尉致光宅養2置兵衛佐1廷尉令2捕之1則捕得参内

二月五日、内大臣・伊周の家司・董宣ならびに家人・右兵衛尉致光の宅に兵衛佐を置き養っていた。廷尉をもって之を追捕し捕え得て、参内した。
督-佐-尉-志[かみ-すけ-じょう-さかん]の位階を思い出して欲しい。「右兵衛致光の宅に兵衛を養い置いていた」というのはどういうことなのか(「交番の中に、警察署を勝手につくって置いた」というようなことになろうか?)。
内大臣・伊周の配下が行っていたことは、単なる私兵勢力を蓄えていたということではなく、国家組織の一部である「兵衛府」を部分的に私邸内に組織しようとしていた、というように解釈できよう。兵衛府組織の名を借りて、私兵武力を公的武力(軍隊)として作り上げる、というふうにも言える。それはまさに、公的権力が私的権力に分散的に吸収されていく「中世化」の過程に他ならないのであるが。 10世紀末の段階で、「中世化」のモデル的な事例が『小右記』のような有名文献に登場していることは、興味深い。また、この時点の政権側(道長側)からすれば、公的秩序の建前を振りかざして、公的武力(軍隊)の私物化を国家転覆の準備として罪に問うことができたのである。

この捜索から20余日経って、二月二十八日には東三条院(一条帝の母・詮子)の「御悩」がとても重く、大赦が行われた。『小右記』にはその詳細が記述されているのだが、その翌朝、実資(『小右記』筆者)は、女院(詮子 あきこ)を見舞い、右大臣・道長に拝謁している。その記事で、女院に呪詛がかけられていた事実が判明したことが述べられている。
早朝参女院、謁右大臣、院御悩昨日極重、被停院号・年爵年官等事之由、昨夜被奏聞了、又云、或人呪詛云々、人々厭物自寝殿板敷下掘出云々。

早朝に女院(詮子)に参り、右大臣(道長)に謁した。女院の昨日の御悩は極めて重く、院号や年爵年官も停止したいとの意向なので、昨夜(一条天皇へ)奏聞なさったということだった。また右大臣が云われるのに、或る人が女院を呪詛しているとのことで、人々は寝殿の板敷きの下から「厭物 おんぶつ」を掘り出したということだった。
東三条院・詮子は国母として権力を発揮し、弟・道長を有利に導いた人物。彼女の歿年は長保三年(1002)であるから、この時点からまだ六年後のことである。
彼女は自分の優越的地位や経済的特権を放棄するから自分の病悩から解放して欲しいと、あまりの苦しさに道長に訴えたのである。特別な地位や物質的贅沢が病悩の原因になっているという仏教の因果応報の論理からの東三条院の言葉なのである。なお、女院の病苦をやわらげるための「大赦」は、慈悲心を示すことで仏の加護を期待し、病気平癒を願うという論理であり、当時の朝廷要人の病気のために行われた例は多い。

ところが、女院の病悩は「呪詛によるもの」であるという情報が道長に入り、その証拠となる「厭物」を寝殿の床下から掘り出した者たちがいる、という。実資は「或人呪詛」と書いているが、実際の会話では具体的な人名がささやかれていたはずである、「伊周の呪詛」と。
こういう情報を流して歩く者たちこそが、安陪晴明などのような権力の周辺にたえず付いている陰陽師たち(公認の陰陽師)である。彼らは、必要とあらば「厭物」を床下に埋めておくぐらいのことはやったであろうし、呪詛を専業とする民間の陰陽家の状況にも詳しかったであろう(ただし、呪詛は犯罪であり、公認の陰陽師は呪詛に手を染めないという建前である。ただし、「呪詛封じ」のような防御は許されていたという)。

なお、『百錬抄』には、この半年ほど前の長徳元年(995)八月十日に、内府・伊周が高階成忠と結んで右大臣・道長呪詛を行っていたようだという記事がある。
(長徳元年八月)十日咒2咀右大臣1之陰陽師法師在2高二位法師(高階成忠)家1事之躰似2内府所為1

長徳元年(995)八月十日、右大臣(道長)を呪詛する陰陽師法師が、高二位法師(高階成忠)の家にいた。ことがらの様子からすると、内府(伊周)の企てのようである。
記事はこれだけですべてであるので、事情はよく呑み込めないが、高島成忠は伊周の生母・貴子の父、すなわち伊周の外祖父である(伊周の父は、むろん、中関白・道隆)。その成忠の家に「陰陽師法師」が居て、右大臣(道長)の呪詛を行っていたことが判明した。どうやら、その首謀者は内大臣・伊周らしい、というのである。
この長徳元年(995)は、四~五月に道隆、道兼の兄弟があいついで死亡し、六月十九日に道長がついに右大臣となり、伊周を抜いて公卿会議のトップの地位に就いている。その異動には東三条院・詮子の意向が大きく働いているといわれる。
したがって、政界での指導的地位を道長に奪われてしまった伊周(および伊周の出世を望む係累)の立場からすると、道長とその背後に存在する国母・東三条院を呪詛する動機が、長徳元年六月十九日以降はげしく高まったのである。そう考えると、二ヶ月足らず後の八月十日に高階成忠が「陰陽師法師」を雇って自分の家に住まわせて道長呪詛を行っていたというのは、納得がいく。八月十日に事件が発覚したのであるから、六月十九日の人事異動の直後から呪詛は始められていたと考えられる(あるいは、それ以前から 上掲の年表参照)。

蠱毒・呪詛は、律令社会では重罪にあたる。「蠱毒 こどく」はマジナイの手段として使用するもので、「諸種の悪虫を容器に合わせ入れて互いに喰い殺させ、人を害するまじないの手段とするもの」と『律令』(日本思想体系3)の頭注にある(p95)。「厭魅 えんみ」は「図形・人形などを用いて人を害するまじないの法」(p96)とある。該当する「賊盗律」を引いておこう。15,17条の一部。
凡そ蠱毒を造畜し(謂はく、造り合はせて蠱に成して、人を害するに堪へたるをいふ)および教令[きょうりょう 勧めそそのかす]せらば、絞。造畜の者の同居の家口[けく]は、情知らずと雖も、遠流。

凡そ憎み悪むところ有りて、厭魅を造り、及び符書呪詛を造りて、以て人を殺さむとせらむは、各謀殺を以て論して[謀殺行為として論じて]二等減ぜよ。
(『律令』(日本思想体系3)岩波書店1976 p95~97)
「陰陽師」は律令当初は、大陸伝来の技術「方技」(天文・地相・暦作成など)を担当する陰陽寮の役人であった。 平安時代にはいり御霊信仰が盛んになるとそれに応えるために陰陽道が宗教化し、陰陽師は方違え・物忌などの貴族たちの日常生活の指針を与えるほど生活に密着した存在となった。
その中で、公的な役人である陰陽師に対して、私的な“自称陰陽師”が発生した。上の「陰陽師法師」というのはそういう私的な陰陽師で、僧侶姿をしていたと思われる。仏教でいう「私度僧」に似たような存在である。
「陰陽師法師」たちは、報酬によって、犯罪と知りつつ呪詛を引き受けたのである。その多くは、「符書」のような「厭物」を床下などに埋めて、人を害する呪法を行った。

花山院襲撃事件の決着は、3ヵ月余の後の四月二十四日に、伊周を太宰権帥として太宰府へ、隆家を出雲権守として出雲国へ配流することに決まった。厳しい処断が下ったと言ってよいであろう。『小右記』を参照する。
仰配流宣命事 射花山法皇事、呪詛女院事、私行大元法師事等也、
「配流宣命」では、罪状が3つ挙げてあって、(1)花山法皇を射たこと、(2)女院・詮子を呪詛したこと、(3)私に 大元法[だいげんのほう]を行ったこと。
(1)、(2)は既述の通りだが、(3)は『栄華物語』では「大元帥法」と書いていて、通常「帥」の字は読まないという(『小右記』は「大元法師」と記す)。
大元帥法[だいげんのほう]:正月八日から十四日まで七日間、治部省で大元帥明王を本尊として行う大法会。天子の衣裳を箱に入れ、緋の綱で結び、檀上に送って修法する。臣下の行うことは禁ぜられていた秘法。(古典体系本『栄華物語』p157の頭注)
「関を固める勅符」が出されたことを述べた後、『小右記』には、太宰府と出雲国へ護送する担当者の官名と名前がながながと列記されている。
伊周は自分の邸(二条院)に居り、そこへ護送を担当する允亮朝臣(惟宗 允亮 これむね ただすけ)が行き、配流の勅語を示し、ただちに配所へ向かうことを通達する。伊周は「重病」を理由に出発できないと応え、時間稼ぎをする。なお、この伊周第の北宮には懐妊3ヵ月の中宮・定子(伊周の3歳下の妹)が三月四日に里帰りしているので、『小右記』は「二条北宮」と書いている。
允亮朝臣向権帥家[藤原伊周]、中宮[藤原定子]御在所也、謂二条北宮、使等入自東門、無陣門也、経寝殿北就西対、帥住居也、仰勅語、而申重病由、忽難赴向配所之由、差忠宗令申、無許可、早載車可赴之由重有仰事

允亮(ただすけ)朝臣は権帥(前内大臣・伊周)の家に向かった。中宮(定子)の御在所で、いわゆる二条北宮である。使者が無陣(警備のない)の東門から入り、寝殿北を経て、西対の権帥の住居へ行き、勅語を伝えた。「重病で、すぐに配所へ赴くことは難しい」とのことだった。忠宗をつかわして「それは許されない、早く車に乗るように」と重ねて伝えた。
先に使った地図を、ここに再掲する。

二条大路に面し、東三条院と鴨院に接している「二条院」が伊周第である。なお、前節までで話題となった「花山院」もこの地図に出ている。

上引の『小右記』では伊周への伝達を「仰勅語」とか「有仰事」というように「仰 申し上げた」と敬語表現を用いている。これは、伊周は罪人であるが「太宰権帥正三位藤原伊周元内大臣」という位置づけで遇しているからである(隆家は「出雲権守従三位藤隆家元中納言」 いずれも、『小右記』四月二十四日の表記)。
政府側(天皇-道長側)は、関を固めることまでして不測の事態に備え、伊周・隆家の処断に臨んでいるのであるが、どうも、伊周側は煮え切らない態度なのである。使者の度々の督促にもかかわらず出立しようとしないどころか、数日後の二十八日になっても妹・定子と泣き暮らしている、という。それが京都中の評判になり見物人が集まり、邸内に乱入する騒ぎになってしまう。
二十八日の『小右記』の一部である。
中宮与権帥相携不離給、仍不能追下之由、再三令奏之、京内上下挙首乱入后宮中、凡見物濫吹無極、彼宮内之人悲泣連声、聴者拭涙、

中宮(定子)と権帥(伊周)は手を握りあって離れようとしない。よって配流地へ追下すことはとてもできないと、再三報告が上がってきた。京内の上下庶民は、中宮の二条第へ物見高く乱入し、およそ見物の大騒ぎの様子は極まりない。邸の中からは悲しみの泣き声がつらなり、それを耳にする人々はみは涙をぬぐっていた。
「東門は無陣の門」であるということであったが、これは、警備の者がいない門ということであろう。だれでも通行可能だということで、「京内上下挙首乱入」ということができる状況であった。また、この内大臣邸は今は后宮であるのだが、「上下乱入」を咎めたり制止する者がだれもいないようである。そのこと自体とても興味深いが(おそらく平安京はこのようにごくオープンな状況であった)、ここでは、内乱が疑われるような大罪人・元内大臣邸が、いかにも無防備で無警戒であることが重要である。
つまり、内乱を疑い、大げさに捜索し、厳しい処断をしたのは政府側(天皇-道長側)だけであり、罪人側はそれほどの大陰謀があったとは思えない幼稚な伊周の振舞いなのである。それは、隆家も同様である。陰謀を企むほどのものなら、こんな無防備ではあるまい。

五月一日になって、昨夜のうちに二条院の「大殿戸」を打ち破っておいたので、隆家は朝になり「その責に堪えず」出てきた。隆家が捕らえられ、病気だというので網代車に乗せられ配所へ送られることになる。大層な見物人が出た。ところが、伊周も二条第に居るはずなのに、出てこない。伊周は「逃隠」してしまった。それで「宮司」に命じて「御在所及所々」を捜させたが、見つからない。
一条天皇の中宮・定子が妊娠のために里帰りしているその「御在所」を「夜の大殿」の天井裏・床下まで強制的に捜索するというのは、極めて乱暴で、天皇に対してもその権威を無視することだと言わざるを得ない。つまり、こういう捜索は警察権力(検非違使)の一存でできることではなく、それができるのは、最高権力者の右大臣・道長しかないことは、明らかである。実資(『小右記』筆者)には翌日の二日になってから、中宮御在所の捜索の詳細が、直接の担当者の口から語られている。その部分だけ引用する。
中宮権大夫(源)扶義談云、昨日后宮乗給扶義車、懸下簾、其後使官人等参上御所、捜檢夜大殿及疑所々、放組入・板敷等、皆実檢云々、奉為后無限之大恥也、又云、后昨日出家給云々、事頗似實者、

いつも中宮に付いている中宮権大夫・源扶義が語ったことだが、昨日は中宮は扶義の車に御簾を下ろして乗り、その後に担当官が御所に入っていった。夜の大殿(寝室のある場所)や疑わしいところを、組入天井や板敷きを開け放って、みな実際に調べた、という。后に対して無限の大恥をかかせ奉ったことになる。また、后は昨日出家なさったというが、どうも本当のことらしい。
五日の記事には、さらに、生々しい詳細がある。
朔日依宣旨、官人及宮司等破皇后夜御殿扉、扉太厚不能忽破、仍突破戸腋壁板令開扉、女人悲泣連声、皇后者奉載車、捜於夜御殿内、后母敢無隠忍、見者歎悲、

一日は宣旨によって、官人および宮司らが皇后の夜御殿[よるのおとど]の扉を破ろうとした。扉は太く厚く、すぐには破れなかったので、脇の壁板を突破して開扉させた。女人の悲泣の声が連なっていた。皇后は車にお載せしておいて、夜御殿の内を捜索したが、后の母(高階貴子)は敢えて姿を隠忍なさらなかったので、見る者はみな悲しみ歎いた。
わざわざ「宣旨に依って」と断っている。つまり、この捜索は形式的には一条天皇の意思として行われた、という形をとった。しかし、検非違使らの現場の者たち(その最前線では、放免も働いていた)がどのようにふるまうかまで、規定してあるわけではあるまい。現場の責任者の裁量に任されるところが必ずあり、そういう中間段階の責任者は道長のような最高権力者の意向を推し量りつつ活動していただろう。『栄華物語』は、この場面を、次のように詳しく書いている。「えもいわぬ人」とは、言葉にできない人の意で下部=放免のことである。
さても中納言[隆家]は在る気配しはべり、帥[伊周]はすべて候はぬ由を奏せさすれば、「あさましき事なり。宮を[「帥を」の誤か]さるべう隠し奉りて[伊周様を上手に隠して差し上げて]、塗籠をあけて組入の上などをも見よ。」とある宣旨しきりにそふ。「御塗籠あけさせ給はむ。宮[中宮]去りおはしませ」と、検非違使申せば、今はずちなしとて、さるべく几帳などたてて、あさはかなる様にておはしまさせて[ほんの仮初めの奥深くない様でいらっしゃって]、この検非違使共のみにあらず、えもいわぬ人して、この塗籠をわりののしる音も、ゆヽしうあさましう心憂し。「さば世中はかく有わざにこそ有けれ[さても人生はこのようにあさましいものであった]」と、目もくれ心もまどひて、涙だに出でこず。(中略)このあやしのもの共の入り乱れて、しえたる気色[手柄顔の様子]どもぞあさましういみじき。(前掲『栄華物語』の巻第五「浦々の別」p166~167)
塗籠を壊して中を見たり、天井裏を捜したりするのには、放免らが動員されていたことがわかる。そういう意味で『栄華物語』の露骨な書きぶりは貴重である。この個所だけでなく「えもいわぬ人」はときどき出てくる。

一条天皇は定子とは最愛の仲であったといわれるが、このとき定子は若い一条(十七歳)の最初の子を身ごもっていたのである(定子は上引のようにこの捜索直後に出家し、十二月に女子を出産。そのあとも、一条天皇との関係は続き、第2子・敦康親王を生み、第3子出産で死亡する)。「宣旨」とはいえ、一条天皇はわが種を宿している中宮・定子が、几帳ひとつへだてて放免らの作業を見聞きすることなどを容認したとは思えない(上引のように、中宮は扶義の車の中にいたかも知れないが)。それを無視した、道長の権力者としての容赦ない断固たる手法を、ここに見るべきである。競合者・伊周および中関白家をたたきつぶす手法である。そのためには、いざとなれば天皇の意向をおもんばかることをしないのである。
道長はへりくだるべき際にはいくらでもへりくだるが、勝てる勝負に出るときは断固として突進する。そういう腹の据わった大器であったらしい。

伊周は二条院から密かに「逃隠」し、再び姿を現すのは四日で、そのとき彼はすでに出家していた。つまり、道長に対して完全敗北を認めたということである。
『栄華物語』の巻第五「浦々の別」は詳しく伊周の逃避行を書いているが、それによると、木幡山の父(道隆)の墓所を訪れたといい、北野の天神も参詣したという。そして、粗末な網代車で二条第に戻ってきた事になっている。 ただ、『栄華物語』は日付が『小右記』と大幅に異なり、おそらく、伊周らの没落を描きながら、道長の容赦のない処断手法を伊周とその母(貴子)との別れなどの涙の「女語り」で覆おうとしている。

五月十五日に、やっとのことで、配流が実施されるのであるが、伊周と隆家が病気であるという理由で、伊周は当分播磨国に「安置」すること、隆家は但馬国に「安置」することになった。伊周はこの年の十月に病母を見舞うために密かに入京し、それが発覚して、十二月に太宰府に送られる。
翌年、長徳三年四月に、東三条院(詮子)の病状が改善しないため、大赦が行われ、伊周・隆家の兄弟の罪も許され、召還。伊周が実際に帰京したのは十二月である。

花山院襲撃事件を起こしたとき伊周は二十三歳であった(隆家は十八歳)。伊周は年齢的に若すぎるというだけでなく、そもそも、軍事力を動かす政治的陰謀を企むほどの人物ではなかったようである。密かに「呪詛」を計画するぐらいの器だったのだろう。したがって、花山院との為光の三君・四君をめぐる“恋のさや当て”の誤解は事件の実相であったと考えてよい。花山院も伊周もその周囲にゴロツキ的用心棒をたえず連れ歩いていたようだから、たまたまその付き人同士の争いから死者2名が出た、というだけの事件にすぎなかった。
道長はそのチャンスを見逃さず、事件を本格的な国家転覆計画としてでっちあげ、伊周を太宰府へ・隆家を出雲へ、いずれも遠国へ配流することにしたのである。そして、伊周拘束の際には、一条天皇の初めての子をお腹に宿す中宮・定子の夜御殿を打ち破って捜索するという、強烈無比な処断を行った。(また、そういう処断を引き出すような仕掛けにまんまと乗った伊周は幼稚であった。
これは、明らかに道長の政治的演出によって創られた事件であって、若い一条天皇を完璧に牛耳っていることを証明している。もちろん道長は威張り散らしてそうするのではなく、やむを得ない手を打っているように見せてそうするのである。しかも、その前2代の上皇(花山院、冷泉院)を思うさま操ることができることをも、同時に示している。

実際、伊周も隆家も道長の“真の政敵”ではなかったのであって、わずか半月後に伊周・隆家の配流先を、播磨・但馬の近国に変更している。幼稚な伊周は病母に会うために入京して再び掴まり、こんどは本当に太宰府まで流されることになった。しかしそれも、1年もしないうちに大赦が出され、帰洛が許されることになる。


「花山院のこと (第2章)」 終




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