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この帥殿[隆家]は花山院とあらがひごと[争い事、ここは賭け事]申させ給へりしはとよ。いと不思議[思いもよらないこと]なりしことぞかし。隆家に対する「帥殿 そつどの、そちどの」という呼び名は、後のことだが隆家が長和三年(1014)十一月に大宰権帥[だざいのごんのそつ]に任ぜられているからである。『大鏡』はこの「あらがひごと」の話の前に、隆家が6年間の大宰権帥時代に、「刀伊の襲来」があり「筑後・肥前・肥後九国」の人を奮い立たせて3ヵ月ほどで撃退したが、その九州における最高責任者として立派であった、としている。兄・伊周に比べて隆家は政治家として胆力があり、刀伊の襲来で歴史に名を残したのである。『大鏡』は「やまとごころかしこくおはする人」(p192)と賞讃している。ただ、宮廷では現地に勅符が到達する前に刀伊を撃退し終わっていたので、賞する必要はない、という見方が多数派で、隆家は特に論考行賞に与っていない、という。ただ、隆家は部下として戦った在地豪族や在庁官人らの褒賞を求め、藤原実資(小右記の筆者)の主張もあって、それはかなえられた(なお、「刀伊の襲来」は寛仁三年(1019)のことで、隆家四十一歳。 花山院は寛弘五年(1008)に、伊周は寛弘七年(1010)にすでに没している)。「わぬしなりとも、わが門はえわたらじ」
とおほせられたりければ、「隆家、などてかわたり侍らざらん」
と申給て、その日と定められぬ[その賭けの日を、いつとお決めになった]。(古典体系本p194)
(隆家は)輪強き御車に逸物[いちもち]の御車牛かけて、御烏帽子・直衣いと鮮やかに装束[そうぞ]かせ給ひて、えびぞめの織物の御指貫すこしゐでさせ給ひて[サシヌキ袴を少し座席からお出しになって]、祭のかへさに[賀茂祭の還り立ちの日]紫野走らせ給ふ君達のやうに、踏板にいと長やかに踏みしだかせ給ひて、括り[指貫の裾の紐]は土にひかれて、すだれいと高やかに巻き上げて、雑色五六十人ばかり声のある限りひまなく御先[先払い]参らせ給ふ。丈夫な車に強い牛をつけ、賀茂祭のときのような装束で飾りたて、雑色5、60人ほどが先払いの大声をあげて勇ましく進んでいった。めざすは花山院の正門の面している通りである。
えもいはぬ勇幹々了[ゆうかんかんりょう 「勇悍」は勇ましくすばやいこと]の法師原・大中童子など合はせて七八十人ばかり、大なる石・五六尺ばかりなる杖ども持たせさせ給ひて、北・南の門[かど]、築地づら、小一条の前、洞院のうらうへ[両側]にひまなく立てなめて、御門の内にも侍・僧の若やかに力強きかぎり、さるまうけ[しかるべき準備]して候。(同p195)「法師ばら」は法師たち。「大童子」は「僧家で召し使う童子のうち上童子の下、もしくは年かさの童子」、「中童子」は「給仕や高僧の外出時の供などの雑用に使った少年の僧」と『大辞泉』にある。花山院の周辺に集まっている者たちが主として法師や童子たちであったことが注目される。それ以外に「侍 さぶらひ」もいた。
さることをのみ思ひたる上下の、今日にあへる気色どもは、げにいかがはありけん。いづかたにも、石・杖ばかりにて、まことしき弓矢まではまうけさせ給はず。「さることをのみ思ひたる上下」という『大鏡』の評が、実にうまく花山院とその周囲に集まっている“ごろつき法師”たちの様子を表している。“騒動好きの上皇とその取巻たち”ということなのである。花山院の考えている“騒動”というのは、本物の暴力沙汰や闘諍となっては困るのであり、あくまでも“遊び半分”でなければならない。それゆえ「石・杖ばかりにて、まことしき弓矢まではまうけさせ給はず」という歯止めを設けたのである。その「院の本性」を見透かして暴力沙汰を辞さない悪法師どもが周囲に集まってきていたのである。
こういう騒動のことばかり考えている院に仕える上下の者たちが、今日という日に逢えた喜び勇んだ気持ちは、まったくどんなだったでしょう。けれど、どの者も石・杖を持つだけで、本当の武器である弓矢などは準備しておりませんでした。
中納言殿[隆家]の御車、一時ばかりたちたまて、勘解由小路[かでのこうぢ]よりは北に、御門[みかど]ちかうまではやり寄せ給へりしかど、なをえ渡り給はでかへらせ給ふに、院方にそこら集いたる者共、一つごころに目を固め守り守りて、やり返し給ふほど、“は”と一度に笑ひたりし声こそ、いとおびただしかりしか。さる見ものやは侍しとよ[あんな面白い見ものはあったでしょうか]。「一時ばかりたちたまて」はよく分からないが、「しばらく躊躇の時間があって」ぐらいのことだろう。隆家の車は意を決して、勘解由小路を越えて正門近くまで突っ込んだが、正門を越えていくことはできず引き返した。花山院側の守備を固めていた者たちは、皆いちどきに勝利の笑い声を挙げた。
王威はいみじきものなりけり、え渡らせ給ざりつるよ。「無益の事をもいひてけるかな。いみじきぞくかう[辱號 恥をかくこと]とりつる」とてこそ、(隆家は)笑ひ給ふけれ。院は勝ちえさせ給へりけるをいみじと思したるさまも、事しもあれ、まことしきことのやうなり。(同前195)ここのカッコの付け方は古典体系本(松村博司校注)に従っているのだが、「王威はいみじきものなりけり、え渡らせ給ざりつるよ。」をも隆家のセリフに入れても良いと思う。「何といっても皇室の威力はすごいもので、御門を渡ることは出来ませんでしたよ。つまらぬ強がりを言ってしまい、ひどい恥をかきました」
度斎宮南小路之間、飛礫如雨、縦度門前猶不可被打歟、況無門之所、何有其制乎「斎宮」は、賀茂斎宮の常の御所で、紫野にあったという(角田文衛によると現在の上京区檪谷七野神社付近。内裏のほぼ真北の位置で、一条大路から1kmほど北上した辺り)。その南側の小路を牛車で通行中に、公任が雨のごとき飛礫に遭った。記事はそれだけなので、なぜ公任が門前でもなんでもない小路で飛礫を打たれたのか、何も分からない。「飛礫如雨 飛礫、雨の如し」というのだから偶発的に石が飛んできたということではなく、公任の牛車めがけて組織的に意図的にかなりの数・量の石を打たれたということであったのだろう。牛車の中にいれば重大な負傷は免れるだろうが、心理的な恐怖感はあるだろう。
大納言・公任が斎宮の南小路を渡る間に、雨のごとき飛礫に遭った。たとい門前を渡る際であっても飛礫に打たれることがあってはならないのに、いわんや門の無いところで打たれるとは、どんな罰則を作ればいいのだ。
午時許左少将(源)師良乗車馳渡小野宮北門、雑人等欲打車之間依思後勘当不能制止云々、大臣家門又大臣不渡、何況已次乎、師良年齢十許、不知物情、不可咎不可奇、実資はここで自分の小野宮邸の雑人たちのことを述べているのだが、実際にこのとき雑人らが飛礫打ちをしたかどうかは、あいまいになるような書き方をしている。雑人らは、無礼にも北門まえを「乗車馳渡」るのを見て、飛礫打ちをしたいと思ったのである。だが、主人の実資が日頃その「悪習」を止めさせようとしていたことを考えて、後で「勘当」(江戸時代の“縁切り”ではなく、咎め懲らしめられること)があるかもしれないことを思ってためらったのである。言い換えると、この 《大臣家の門は大臣といえども渡らず、況んやその下の者は》 という京の町の習慣は、「大臣」の意思で継続していたのではなく雑人らの意思で守られていたのである。主人の名誉のためにこの習慣を行っている、というのでもない。雑人らの意志ないし欲求によってこの習慣は保たれている。この習慣の起源がどういうところにあるのかは別として、すくなくともこの時代には雑人らの権利・既得権に属することになっている、気晴らし・ウップン晴らし、ないし威張り散らす楽しみなど。
昼頃、左少将・源師良が小野宮邸の北門を牛車に乗ったまま、馳せ渡った。雑人らは車に飛礫打ちをしようとした。後で主人からきっと懲らしめられると思ってとどまった。 《大臣家の門は大臣といえども渡らず、況んやその下の者は》 というが、師良は年齢は十ばかりで、ものを知らない子供にすぎない。咎むべからず、奇とすべからず。
従内出後、従右衛門督[藤原懐平]以(平)重義朝臣示云、只今従小野宮帰来間、渡近衛御門東門間、随身・火長彼家中取篭由云々、仍遣人、閉門無向人と申、還来間、随身無冠・胡録[正しくは竹冠+録 やなぐひ]・箭等帰者、即重義遣彼家、令人問案内、還来云、別当[懐平]不知渡門、只有取垣板者、仍捕之耳、彼自家人々来向取相去者、能案、別当還家後、随身取垣板所捕云々、然彼消息立後由有消息、仍令人召、入夜明日召下手人示可遣由了、道長の室・明子[めいし]は、安和の変で失脚した源高明の女。道長の正妻は倫子とされ、明子はそれに継ぐ地位(妻妾的な地位)であった。
(私-道長-が)内裏より退出してきた後、右衛門督・懐平が重義をつかわして言ってきた。それによると、
今小野宮邸から帰り来る途中、近衛御門の東門を通る際に、引き連れていた随身・火長らが邸内にとりこめられた、それで、人をやって交渉しようとしても、門を閉じて応対する人もいない状態だ、という。重義をすぐ近衛御門家に遣わし、状況を調べさせた。帰ってきて言うのには、
別当(懐平)が家に帰りくる間に随身らは解放されたが、冠を取られ、やなぐい・箭も持たずに帰ってきた。
近衛御門家では、次のように申しております。よく考えてみると、別当が家に帰った後に随身が垣の板を取ろうとしたのを捕らえた、と近衛御門家側は言いたいのだろうが、しかし、別当の消息によると、別当は後ろに立っていたと消息に書いて有る。よって、夜に入ってから、明日下手人を召し出せ、と命じてやった。
検非違使別当の懐平様が門前をお渡りになるとは知らなかった。ただ、垣の板を取っているというのでその者を捕らえたまでです。その者の家より人々が垣の板を取りに来て持ち去っていこうとしたのです。
これが近衛御門家の言い分です。
検非違使の庁は初め二箇所にして、左右衛門府内に在りしが、寛平七年(895)始て左右検非違使の庁を定め、天暦元年(955)右庁を廃し、専ら左庁にて事を行へり、仁安の比(1166~69)には庁荒れて久しく修せざりしを以て、年始の政も行ふこと能はず、治承の比には終に別当の新任する毎に、庁を其の宅に設くることになれり。(p101)検非違使別当の自宅の中に検非違使庁の役所を設けていた、ということである。これは、平安京の秩序を守るべき警察権力が、いわば、私的警備隊と違いのないような実態になっていた、ということを意味する。
火長は看督長、案主長等の総称なり。看督長は、獄直を為し、及び追捕の事に当たり、案主長は、文案に当たるものとす。放免は、庁の下部なり。犯人の放免せられたるものを役して、追捕囚禁の事に従はしめ、或は流人を護送せしむ。此輩は賀茂祭に美服を着けて之に従ふことあり。贓物を染めて用ゐるものなりと云ふ。(p101)とある。「火長」は「看督長、案主長等の総称」であると言っている。また「放免」は「庁の下部」であるが元罪人であった者を使っており、しかも面白いことに、放免を着飾らせて賀茂祭の呼びもののひとつになるのだが、その衣裳は「贓物を染めて用ゐるもの」であったといっている。元罪人の最下等の者を賀茂祭の呼びものに仕立てるというところが、祭の本質を演出するものとして面白いのである。
検非違使は京中の非違を検察するものにして、祭祀、法会の場に臨み、或は道橋を、巡視し、掃清を催督し、斎王を護衛し、又は糺弾、聴訟、追捕囚禁、断罪、行決、免囚、収贖等の事を掌れり。此等の職は、原来衛府、弾正、刑部、京職の分担なりしが、終に此庁に帰し、勢力の大いに張れるに従ひ、検非違使以下放免の輩の漸く暴横 を肆にし、世上の弊害となりしきことも少なからざりしが、鎌倉幕府の起るに至り、其権挙げて武家に移れり。(p102)いま読んでいる『御堂関白記』の長和二年(1012)正月二十六日の記事は、検非違使の「庁荒れて久しく修せざりし」という「仁安の比」より150年もさかのぼる時代のことだが、すでに、検非違使たちの武力の実力は有力貴族が自分の邸宅内に養っている家人・雑人たちの実力にかなわない場合があったことを意味している。
廿七日 己未、夜部下手人以(藤原)頼任[よりとう]朝臣送別当家、即返送、仍給(源)頼国朝臣令禁、こういう、いわば世俗の雑事にまで道長がその処理にかかわっているというのは、ちょっと、意外だ。加害者側が近衛御門家であったので、道長が扱うことになったのだろうと思う。
廿七日 己未[つちのとひつじ]、(近衛御門家から当の下手人が差し出されてきたので)夜になって下手人を被害者である検非違使別当家に藤原頼任によって送り届けさせた。(別当家では確認して)直ちに送り返してきた。よって源頼国によって拘禁の措置をとらせた。
寛仁二年閏四月廿二日(途中から引用)、「歩み板」というものは、現在でも工事現場などで使用されている歩行用の板である。現在は金属製のものになっているが。すでに延喜式に備品として登場しているという。ものの上に渡して(貴人の)歩行に役立てた。『小右記』には、塀が破れたので、「歩み板を以て垣とする」という記事がいくつか見える(ただし、「歩板」の実際の使用法はよく分からない。儀式などで臨時に歩板を敷きつめる、という例もある。平安京はぬかるみ道が多かったことも関連があるかも知れない。)
牛付三郎丸・石童丸等臨夜随身車為運歩板向堀河、度左府[藤原顕光]門前之間盗人二人出来、以大刀打破頭、血流出、放叫言、今一人牛付童[三郎丸]、少後従堀河東辺同行、聞叫声走向、盗人二人走入堀河西辺小屋閇戸、其間左府男出来、見驚石童丸・三郎丸等、参来所申也、
(実資の)牛付きの男、三郎丸・石童丸らが夜になって、歩み板を運ぶために堀河に向かって随身の車を駆っていった。左大臣・藤原顕光の門前を渡るときに盗賊が二人出てきて、大刀をもって石童丸の頭を打ち破り、血が流れ出た。石童丸は大きな叫び声をあげた。もう一人の牛付き童である三郎丸は、牛車から少し遅れて堀河東あたりを歩いていたが、叫び声を聞いて現場に走った。盗賊二人は走って堀河西あたりの小屋に入り戸を閉めた。
以上が、その間に左大臣家の男が出てきて、石童丸・三郎丸らを見て驚き、(実資に)報告にやってきて申した内容である。
即差副出納男於石童丸遣右衛門志守良[安倍]所、令申云、明旦申別当[藤原頼宗]糺行者、所推量者非盗人歟、以大刀不可打、若乗車門前之間為彼殿雑人被打歟、夜及深更不能尋問耳、顕光が左大臣になったのは寛仁元年三月だが、このときには道長は関白を息子の頼通に譲っている(ただし、道長は関白であったのは准摂政の時を加えても2年間ほどである。道長は左大臣であった時代が長く、22年間に及ぶ)。顕光は無能呼ばわりされることが多いが、有職故実の枝葉末節にこだわる宮廷で嘲笑されることが多かったというのであって、道長の下のナンバー2として右大臣を22年間務めており、単なる無能というのではなかったろう(『小右記』が左府・顕光について出仕の日より今日まで「天下之人嘲哢」と書いたのは寛仁元年(1017)十一月十八日条)。
ただちに、負傷している石童丸に出納男を付き添わせて、右衛門志[えもんさかん 検非違使庁の下役人]・安倍守良の所へ差し向け、あす朝別当・藤原頼宗の取り調べ(糺行)をするようにと、申し云わせた。
自分(実資)が推量するところでは、盗賊のしわざではないのではないか、大刀によって打ったというのではないだろう、むしろ門前を乗車して通ろうとしたときあそこの邸の雑人に打たれたのではないか、夜も深更におよび尋問は不可能になった。
早朝守良来云、夜前事申別当、仰云、可糺行者、仍罷向、指申堀河辺宅尋問之處、侍尚侍殿[藤原威子]称侍従之女住件宅、申云、無一人男、又無走入者、但去夜乗空車者渡左府門前、彼殿人擲石打破頭、放叫声、宅下女等出涼戸外之間、驚叫声帰入宅内、此外無事者、侍医相法[和気]宅隔壁、仍問案内、申彼宅無男由者、この年の閏四月廿二日は太陽暦(グレゴリオ暦)では6月14日にあたり、夏の京都盆地の蒸し暑さに夕涼みをする習慣はすでに平安京でも同じだったことが分かる。
早朝に右衛門志・守良が来て報告した。昨夜のことを検非違使別当に申しましたところ、取り調べよとの仰せでした。それで現場へ出かけ、堀河辺りの家を尋問してみました。すると侍尚侍殿[藤原威子]の侍従であるという婦人の住む家でした。その女性の申しますことには、「この家には男は一人もおりませんし、走り込んできた者もありませんでした。ただ、昨夜はだれも乗っていない車が左府様の門前を通るとき、お邸の人たちが石を投げ牛飼い童の頭を傷つけ、叫び声がいたしました。うちの下女たちはちょうど外に出て夕涼みをしておりましたが、叫び声に驚いてうちの中に逃げ込みました。このほかは無事でございました」と。
壁を隔てた隣家は、侍医の和気相法という者であった。よって、そこでも事情を調べてみたが、その家にもあやしい男は無いということでした。
又令実検牛童疵守良申云、非以大刀打損、若以石打破歟、覆問童申云、不知大刀・杖、只従彼宅来俄打破也者、初申全以大刀打破之由、今所令申者大刀与杖間不慥見者、事頗荒涼、至今已被疵可尋糺之由仰守良了、大刀による傷ではなく、投石による負傷のようだという守良の報告は「侍尚侍殿の侍従」という女の話とよく合っている。
また、牛飼い童の疵をしらべさせた守良が申し云うのによると、大刀で打ち傷を負わせたのではなく、むしろ石を投げつけられ負傷した疵のようだと。
童を再尋問したところ、「大刀か杖かは知らないが、ただあの邸から来てにわかに打たれ傷つけられました。初めはまったく大刀を以てやられ負傷したと申しましたが、いま申しあげれば、大刀なのか杖なのか不確かでございます」という。話はすこぶる頼りない。今一度疵を受けた事情を調取せよと守良に指示した
其後致行朝臣[藤原]参、問此事申云、前佐渡守為行子法師朝久童子以石打破頭之由所承也、臨昏侍医相法来云、今朝守良問案内、答不知由、令尋聞者、朝久法師童子石犬丸以石打破云々、可無事隠者、前佐渡守為行の子法師・朝久童子なるものがいて、石童丸に石を投げつけて負傷させた、ということが解明された。『小右記』は何も書いていないが、この朝久童子はおそらく顕光邸の雑人の一人であって、門のあたりにいて牛車を駆ってくる石童丸に石を投げつけたのである。だが、何らかの理由によって(その理由は示されていないが)、被害者・石童丸の主人である実資に報告するのに、顕光家の家人・雑人らは、顕光邸門前で石童丸が「盗人」二人に襲われて大刀で負傷した、と虚偽の話をでっちあげたのである。
その後で、藤原致行朝臣が参りこの事件について問うたところ、次のように語った。「前佐渡守為行のところの子法師・朝久童子が石を投げつけて頭を負傷させた由を聞きました」と。
暮れ方になり侍医の相法が来て言うには「今朝守良様に事情を聞かれました際にお答えできませんでした。尋ね聞かせたところ、朝久童子が石犬丸[石童丸]に石をぶつけて傷つけたということです」云々。これですべてが明るみに出た。
殿[道長]は使の君の御出立の事御覧じ果てヽぞ、御座敷へはおはします。多くの殿ばら・殿上人引き具しておはします。そしもあらぬだに[道長の長男という特別な地位の場合でなくても]、この使に出で立ち給君達は、これをいみじき事に親達は急ぎ給ふわざなれば、まいてよろづ理[ことわり]に見えさせ給。御供の侍・雑色・小舎人・御馬副[むまぞひ]までし造させ給程、えぞまねばぬや。」今年はこの使のひびきにて[使いが頼通だという評判によって]、帥宮[敦道]・花山院など、わざと御車仕立てヽ物を御覧じ、御桟敷の前あまた度渡らせ給。敦道親王や和泉式部の登場する系図は、前章の花山院の女性関係。敦道親王や花山院は、特別に衣装を凝らして飾りたてた車に乗り、桟敷席の前を何度も、行ったり来たりした。
帥宮の御車の後[しり]には、いづみ[和泉式部]を乗せさせ給へり。岩波古典文学大系『栄華物語 上』(p243~244)
花山院の御車はきん[琴、金]の漆などいふやうに塗らせ給へり。網代の御車をすべてえもいはず造らせ給へり。「さばかうもすべかりけり[こんなふうに工夫してみるべきだった]」と見えたり。御供に大童子の大きやかに年ねびたる四十人、中童子廿人、召次[めしつぎ]ばら、もとの俗ども仕[つか]うまつれり。花山院の「御供」の連中は、いつもの「大童子・中童子」これらは寺院・僧家で使われている者たち、「召次」というのは院の庁の下役で取次などの雑用を行う、「もとの俗ども」というのは世俗の風体のままの者たち。
御車の後に殿上人引き連れて、色々様々にて、赤き扇をひろめかし使ひて、御桟敷の前あまた度渡り歩かせ給程、ただの年ならばかヽらでもなど[そんなにまでしなくてもなど]、殿見奉らせ給つべけれど、使の君の御ものヽ栄えに思ほされて、上達部うち頬笑み、とのヽ御前「猶けしきをはします院なりかしな。この男の使に立つ年『我こそ見はやさめ』と宣はすときヽしもしるく、ゆくりかにも出で給へるかな[『自分(花山院)こそ見物して盛りあげてやろう』とおっしゃったとお聞きした通りに、奇想天外な様子で出ていらっしゃった]」と、みな興じきこえ給。(同前)
院の御所法住寺殿を城郭に構へて、官兵参り集まる。山門園城[おんじょう]の大衆[だいしゅ]、上下北面の輩の外は、物の用に立べき兵ありとも覚ず。堀川商人に、向飛礫[むかひつぶて]の印地の冠者原[かじゃばら]、乞食法師、かようの者共を召されたれば、合戦の様もいかでか習ふべき、風吹けば転び倒れぬべき者共也。(『源平盛衰記』下巻p275 有朋堂文庫1912)同じところ、『平家物語』では
院の御所には、山法師、寺法師、京中の向轢[むかひつぶて]、印地、いひかひなき冠者ばらが様なる者どもを召し集めて、「一万余人」とぞ記[しる]されたる。水原一校注『平家物語』(中巻p297 新潮社1980)となっている。
(長徳三年四月)十六日 己酉、右衛門督[公任]示送云、宰相中将[斉信]同車自左府[道長]退出之間、華山院近衛面人数十人、具兵仗出来、乍令持榻捕籠牛童、又雑人等走来飛礫、其間濫行不可云者、驚奇無極、まず、日付に注目して欲しい。「長徳三年四月十六日 己酉[つちのととり]」この「酉の日」は賀茂祭の当日なのである。賀茂斎院((12.1)で扱った公任が飛礫を投げられた所)から、斎院が出て、一条大路まで南下し、そこで朝廷からの奉幣使などの一行と合流して一条大路を東へ進み、賀茂下社から上社へいく。この日は上社に一泊する。一条大路に桟敷が設けられ、見物で賑わった。
公任が示し送ってくれた情報によると、斉信と同車して道長邸から退出してきたところ、花山院の近衛大路に面するところで、十人ほどの兵仗をたずさえた者が出てきて、牛車を抑え牛童を捕まえて拘束してしまった。また、雑人らが走ってきて飛礫を投げた。その間の濫行は口に出来ないほどで、驚くべき奇怪な所行は極まりない。
あて又、花山院の、ひとヽせ[ある年]、まつりのかへさ[賀茂祭の還立]御覧ぜし御ありさまは、誰も見たてまつりたまふけんな[給ひけんな、の音便形]。前の日、事いださせたまへりしたびのことぞかし。さることあらんまたの日は[あのような騒動のあった次の日は]、なを御歩き[ありき]などなくてもあるべきに、いみじき一のものども[たいそう勢いのよい院の一番のお気に入りたち]、高帽頼勢[カウホウライセイ]をはじめとして、御車の後[しり]に多くうち群れまいりしけしきども、いへばおろかなり。高帽頼勢は、おそらく、いつも目立った“背の高い帽子をかぶっていた”頼勢という名の山伏かなにかだったであろう。そういう者たちが多数車の後に従っているのだが、花山院自身は、ミカンで作った巨大な数珠を懸けて、牛車から指貫にそえて出して見せていた。
なによりも、御ずヾ[数珠]のいと興ありしなり。小さき甘子[ミカンの類]をおほかたの玉にはつらぬかせ給て、だつま[留めにする大玉]には大甘子をしたる御ずヾ、いと長く御指貫に具していださせたまへりしは、さるものやはさぶらひしな[そんな面白い見ものはかつてあったでしょうか]。
紫野にて、人々(花山院の)御車に目をつけ奉りたりしに、検非違使まいりて、昨日、事いだしたりし童べ捕らふべしということ、いできにけるものか。このごろの権大納言殿[行成]、まだそのおりは若くおはしましヽ程ぞかし、人走らせて、「かうかうのことさぶらふ。とく帰へらせ給ひね」と(院に)申させたまへりしかば、そこらさぶらひつる者ども、クモの子を風の吹き払ふごとくに、逃げぬれば、たヾ御車添ひのかぎりにて遣らせて[車に付き添う人だけで車を動かして]、物見車のうしろの方[かた]よりおはしましヽこそ、さすがにいとをしく[気の毒で]忝なくおぼえおはしましヽか。「検非違使が昨日の件で下手人を捕らえに来る」という情報が伝わると、院の車にしたがって得意になって行列していた者たちは、クモの子を吹き散らすように逃げていった。院の車は、牛車を扱う者たちだけで、見物のために並べて止めてある牛車の後ろを通って、こそこそと帰っていった。さすがに気の毒で申し訳ない感じがした。
さて検非違使付きやいといみじう辛う[からう]責められ給て、太上天皇の御名は腐[くた]させ給ひてき。その後の検非違使の監視はとても厳しく、太上天皇の名を落とすことになった。つまり、“悪ふざけが過ぎる”ということで、みっちりと油を絞られた、お灸をすえられた、ということ。前述の公任・斉信の報告が効いているのであるが、公卿会議の中心である道長が、“ここで花山院に“ゴツン”と分からせてやる必要がある”と意を決していたのである。
かヽればこそ、民部卿殿[俊賢]の御言事[いひごと]は、げにとおぼゆれ。
(長徳三年四月)十七日、庚戌、修理大夫[藤原懐平]同車、為見物向智足院辺、華山法皇御其辺、未及見物、中間還御、未知其由、左府[道長]又座彼辺、仍余進左府見物処、並車見之、宰相中将、勘解由長官、在左府車、左府被示花山院濫吹之事、或云、件事自左府被奏聞、有可追捕院人々仰、召遣在神館之使官人等之間、側有漏聞、法皇懸車還御云々、見物畢帰家、すでに述べたことだが、賀茂祭の第1日目は斎王が紫野の斎院から出て、一条大路で朝廷からの一行と合流し、一条大路を行進して下鴨社の神館に入る。神事があり、さらに上賀茂社へ到る。そこで神事を済ませて、初日の行列は終わるが、斎王は上賀茂社の神館で一泊する。第2日目が「還立 かえりだち」ないし「祭のかえさ」と言われるもので、斎王は上賀茂社から出て、紫野の雲林院[うりんいん]・知足院[こちらは中世に廃絶した、藤原忠実を知足院殿というのは一時ここを邸宅にしていたことがあるから]を通って斎院に戻る。
(私 ― 実資は)修理大夫・懐平と同車して、(還立の行列の)見物のために知足院辺りへ向かった。花山法皇もその辺りにいらっしゃっていたが、まだ見物が始まる前に途中でお帰りなった。その理由はまだ分からない。
左府(道長)もその辺りに座をしめておられたので、自分も左府の場所に進み、車を並べて見物した。宰相中将・勘解由長官が左府の車に乗っていた。左府は花山院の濫吹事件について話された。またさらにお聞きしたところでは、その事を左府から(天皇へ)奏聞し、花山院の供奉人らを追捕するよう仰せがあった。神館[かんだち、こうだて]にいた使や官人らを追捕に派遣したので、側で漏れ聞いたところでは、法皇は見物を諦めてお帰りなったということだ。自分は見物しおわってから、家に帰った。
(中略)或者云、検非違使等、依勅囲華山院、申去夕濫行下手人云々、此間難得慥説、奉為院太無面目、積悪之奉致也云々、或云、下手人等若遂不令出給、可捜検院内之由、有綸旨、此事左衛門尉則光、[検非違使、又彼院乳母子也]、通彼云々、嗷々説不可記(下略)花山院(邸)を検非違使らが取り囲み、下手人を出さないと邸内に踏み込むぞ、と威嚇したのである。実資にさえ十分な具体的な情報が届かないぐらい現場は緊張していたのであろう。「奉為院太無面目、積悪之奉致也」花山院は大いに面目を潰したのだが、それは長年の“悪ふざけ”の報いだ、と実資は「積悪」という語を使って厳しい書き方をしている。
ある者がいうところでは、検非違使らが勅命により花山院を囲んで昨夕の濫行の下手人を出すよう申した云々。この間のたしかな説は得がたい。院に大いに不面目をなし奉ったのは、積悪の致し奉るところである云々、別の情報では、下手人等をもしついに(花山院が)出さしめ給はざりしかば、院(邸)内を捜検すべき由、綸旨あり。この事は院の乳母の子である左衛門尉・橘則光を通して、院に通達した云々。ゴウゴウの説、記すべからず。
十八日、辛亥、(平)公誠朝臣并下手人四人去夜自崋山院被出、検非違使奏聞事由、至公誠朝臣令候、又々可追捕者、花山院は下手人を四人出頭させた。『小右記』には、この後も公誠朝臣は顔を出しており、花山院からの書類を公卿会議に出す仕事を続けているので、おそらくこの時は下手人四人の引率という格で出頭したと思われる。その公誠朝臣が責任を問われたかどうか、不明である。
(院の近臣である)平公誠朝臣と下手人四人が昨夜花山院から出頭した。検非違使がその事由を奏聞した。公誠朝臣をも拘束した。重ねて追捕すべきか。
本書はまた各巻紙背に裏書を有しており、群書類従本の大鏡裏書は、本書の裏書を拾い採ったものであり、またその他の裏書に比較しても最も詳密なものである上に、精細な傍訓は国語研究上にも一資料を提出するものとして、その価値は極めて高い。(古典体系本『大鏡』「解説」p26)どのようなものか知らない人が多いだろうから、われわれがここで読んでいる賀茂祭2日目の行成の行動についてもっとも臨場感のある内容を持つ資料を引用してみる。「精細な傍訓」も再現してみる( 古典体系本21『大鏡』p352より 裏書39「花山院御覧賀茂祭事」)。
或人記云[「民部卿」が三人登場していて、しかも、民部卿の唐風の呼称「戸部 こぶ」も使っているので分かりにくい。経記 ]前一條院御時賀茂祭日四條大納言与 別當參議斉信 民部卿[宰相中将]同車ニテ見‐物而 花山院令 打 給 仍テ共ニ參テレ内ニ令ム2愁ヘ申サ1
ある人の記(経記 )に云う、前の一条院の御時、賀茂祭の日、四条大納言[公任]と別当参議斉信 民部卿[宰相中将]が同車にて見物、しかるに花山院打たしめ給ふ。よって共に内に参って愁へ申さしむ。
次日入道殿[左大臣]於テ2紫野 ニ1見-物シ給フ花山院同ク坐 2紫野ニ1殿 召ス故民部卿[道方職事時]被テ仰云ク只今參-内シテ可キレ申ス也院坐ス2紫野 ニ於 2此處ニ1欲ス3令ムト2弾 行 者リ
次ぎの日、入道殿(左大臣)紫野に於いて見物し給ふ。花山院同じく紫野におはします。殿は故民部卿(道方職事の時)を召して、仰せられていはく。「只今参内して申すべき也、院紫野におはします、此の處に於いて弾し行はむと欲す」、てへり。
戸部承テレ仰ヲ少 許 歩 去テ又帰テ被申云宣下若シ被レ下 者上卿 可レ奉 歟其時故源戸部[俊賢]侯ス2殿 ノ御車ノ後 ニ1申云ク如レ此事以テ2内侍宣1可キ被ル下サ歟者リ
戸部仰せを承りて、すこしきばかり歩み去りて、又帰りて申されていはく、「宣下もし下さるれば、上卿承るべきか。」その時、故源戸部俊賢は殿の御車の後に候す。申していはく「此の如き事、内侍宣を以て下さるべきか」、てへり。
御堂令 2許諾1給フ仍故戸部被參内之間タ行成大納言[宰相時歟]被テ3逢2雲林院ノ南ノ大門ノ辺ニ1被問云ク坐 2何事ニ1哉答テ云ク依テ2殿ノ御使ニ1參内スル也重テ被問云何事哉被答云ク難 申事也者リ
御堂許諾しめ給ふ。よって故戸部参内の間、行成大納言(宰相の時か)雲林院の南の大門の辺りに逢はれ問はれていはく「何事におはするや」、答ていはく「殿の御使に依て参内するなり」、重ねて問はれていはく「何事なるや」、答えられていはく「申し難きことなり」、てへり。
行成得テ2其ノ心ヲ1使 シムレ人申1レ院ニ早ク可 令 帰ラ給フ1者リ院逐電 帰リ給ヒ了ヌ其後民部卿帰參被申云聞食了ヌ早可被行ハル1者リ然-而 院令 帰給了ヌ不レ能 レ被ニレ弾 云々
行成その心を得て、人をして院に「早く帰らしめ給うべし」と申さしむ、てへり。院逐電帰り給ひおはんぬ。その後民部卿帰参し申され云ふを聞こしめしおはんぬ。早く行はるべし、てへり。しかれども、院帰らしめ給ひおはんぬ。弾[ただ]さらるに能はず云々
今すぐ宮中へ行き、紫野に花山院が来ているからこの場で昨日の下手人を拘束すると言って、執行許可をもらってこいと命じた。
宣旨が下されるとした場合、どなたを上卿にするのか予めお聞きしておかないと困りますと言った。ちょうど、俊賢が後ろの車に乗っていて、
このような緊急時には、内侍宣でいいのだと言った。道長が認めて、この助言が通ることになる。
行成: 何事ですか行成はピンと来て、人を立てて花山院に「追捕があるから、すぐご帰宅なさい」と連絡した。得意になって浮かれていたお供の者たちが蜘蛛の子を散らすように“逐電”してしまった。花山院自身も祭見物の車の後ろを隠れるようにしてすばやく帰って行った。
道方: 殿のお使いで参内するところです
行成: 何のお使いですか
道方: 申し上げにくいことで・・・
此の度、院下手人を惜しまる。入道殿、使庁の下部[しもべ]に仰せて、院の築垣の上に昇らすに、院之を恐れて下手人を出さる、と云々。(同前p35)「使庁の下部」というのは「放免」のことである。道長は放免を築垣の上にあげて、“これから暴れ込ませるぞ”と威してみろ、と命じたというのである。ここは、原漢文の方が迫力があるかもしれない。
院被惜下手人、入道殿仰使庁下部、昇院築垣上、院恐之被出下手人云々。道長が『古事談』のいうように「使庁下部を院の築垣の上に昇らせろ」と本当に命じたのかどうかは、他の傍証する史料がなく何とも言えないらしい(『古事談 続古事談』脚注)。だが、『古事談』のここの記述は、すくなくとも「使庁下部」が周囲からひどく恐れられる存在であったことを前提としている。そういう証言である。