き坊のノート 目次

花山院のこと (第3章)




目次
花山院のこと (第1章) (1)~(5)
花山院のこと (第2章) (6)~(10)
(11) 花山院の騒動
(12) “門前を渡る”騒動
(12.1) 公任が飛礫を受けたこと
(12.2) 小野宮家(実資)の雑人が飛礫を自制したこと
(12.3) 検非違使別当の随人等が乱暴を受けたこと
(12.4) 実資の牛飼童が顕光邸前で頭に負傷したこと
(13) 花山院の騒動(つづき)
(13.1) 賀茂祭見物の牛車を飾りたてること
(13.2) 賀茂祭と花山院闘乱のこと





---  その(11)  花山院の騒動  ---


花山院は退位し上皇となってから22年間生きるのだが(寛和二年986~寛弘五年1008)その間に、様々な騒動をつくり出している。その第一が(9)(10)で述べた「花山院襲撃事件」である。この事件は長徳二年(996)正月のことだったが、それを道長が政敵・伊周と隆家を失脚せしめるのに十二分に利用したので、歴史的に重大な事件となった(長徳の変)。

ここでは、それほど罪のないものの一つを紹介する。時期は不詳なのだが、「花山院襲撃事件」の少し前のことで、中納言・隆家が隆盛を誇る中関白家の若者であった頃である。
花山院が隆家に「おまえは、おれの家の正門前を通れるか」と挑発して、隆家がその挑発に応じた、という「あらがひごと」である(『大鏡』第4巻 道隆(隆家)による)。
この帥殿[隆家]は花山院とあらがひごと[争い事、ここは賭け事]申させ給へりしはとよ。いと不思議[思いもよらないこと]なりしことぞかし。

  「わぬしなりとも、わが門はえわたらじ」

とおほせられたりければ、

  「隆家、などてかわたり侍らざらん」

と申給て、その日と定められぬ[その賭けの日を、いつとお決めになった]。
(古典体系本p194)
隆家に対する「帥殿 そつどの、そちどの」という呼び名は、後のことだが隆家が長和三年(1014)十一月に大宰権帥[だざいのごんのそつ]に任ぜられているからである。『大鏡』はこの「あらがひごと」の話の前に、隆家が6年間の大宰権帥時代に、「刀伊の襲来」があり「筑後・肥前・肥後九国」の人を奮い立たせて3ヵ月ほどで撃退したが、その九州における最高責任者として立派であった、としている。兄・伊周に比べて隆家は政治家として胆力があり、刀伊の襲来で歴史に名を残したのである。『大鏡』は「やまとごころかしこくおはする人」(p192)と賞讃している。ただ、宮廷では現地に勅符が到達する前に刀伊を撃退し終わっていたので、賞する必要はない、という見方が多数派で、隆家は特に論考行賞に与っていない、という。ただ、隆家は部下として戦った在地豪族や在庁官人らの褒賞を求め、藤原実資(小右記の筆者)の主張もあって、それはかなえられた(なお、「刀伊の襲来」は寛仁三年(1019)のことで、隆家四十一歳。 花山院は寛弘五年(1008)に、伊周は寛弘七年(1010)にすでに没している)。

「わぬし」は「主 ぬし」[おまえ]を強調した言い方、「わどの」などともいう。ここでは、花山院が隆家に向かって言う“いくら気の強い負けん気のおまえでも”ぐらいの挑発的な表現。
「わが門はえ渡らじ」は、面白い言い方だが、“じぶんの正門の前を、横切っては行けまい”という意である。
「渡門 門を渡る」や「渡門前 門前を渡る」という慣用的表現があり、高貴な者の邸宅の門前を牛車に乗ったまま通過することを意味していた。それは礼を失する行為として邸宅の従者・下人などに飛礫を投げられたり、通行を妨害されることがあった。その具体事例は後ほど紹介する。
つまり、花山院が隆家を挑発したのは、“やっちゃいけないこと”として一定の規範的ルールがあったのを、“敢えて破って、それを犯すことができるか”という言い方であったのである。

血気盛んな若者である隆家は“受けて立ちましょう! やってやろうじゃないか”と勢い込んだことは言うまでもない。
隆家は)輪強き御車に逸物[いちもち]の御車牛かけて、御烏帽子・直衣いと鮮やかに装束[そうぞ]かせ給ひて、えびぞめの織物の御指貫すこしゐでさせ給ひて[サシヌキ袴を少し座席からお出しになって]、祭のかへさに[賀茂祭の還り立ちの日]紫野走らせ給ふ君達のやうに、踏板にいと長やかに踏みしだかせ給ひて、括り[指貫の裾の紐]は土にひかれて、すだれいと高やかに巻き上げて、雑色五六十人ばかり声のある限りひまなく御先[先払い]参らせ給ふ。
丈夫な車に強い牛をつけ、賀茂祭のときのような装束で飾りたて、雑色5、60人ほどが先払いの大声をあげて勇ましく進んでいった。めざすは花山院の正門の面している通りである。

騒動が大好きな花山院は、しかも自分から隆家に言いだした賭けであるから、隆家を迎え撃つその準備が周到であったことは言うまでもない。
えもいはぬ勇幹々了[ゆうかんかんりょう 「勇悍」は勇ましくすばやいこと]の法師原・大中童子など合はせて七八十人ばかり、大なる石・五六尺ばかりなる杖ども持たせさせ給ひて、北・南の門[かど]、築地づら、小一条の前、洞院のうらうへ[両側]にひまなく立てなめて、御門の内にも侍・僧の若やかに力強きかぎり、さるまうけ[しかるべき準備]して候。(同p195)
「法師ばら」は法師たち。「大童子」は「僧家で召し使う童子のうち上童子の下、もしくは年かさの童子」、「中童子」は「給仕や高僧の外出時の供などの雑用に使った少年の僧」と『大辞泉』にある。花山院の周辺に集まっている者たちが主として法師や童子たちであったことが注目される。それ以外に「侍 さぶらひ」もいた。

花山院の正門は、西側の東洞院大路に開いていたようである。向かいは小一条邸であった。それ以外に南北の門もあったようであるが、これは“横門”であって、隆家との賭けの場になるのは正門である。それで、築地塀の表面にも、小一条邸の側にも洞院大路を両側から石や杖で武装した法師・童子がぎっしりと固めていた(花山院の平安京での位置は前に使った平安京の北東部地図をみて欲しい)。もちろん、正門の内側にも、侍や僧たちがしっかり武装して待ち構えていた。
さることをのみ思ひたる上下の、今日にあへる気色どもは、げにいかがはありけん。いづかたにも、石・杖ばかりにて、まことしき弓矢まではまうけさせ給はず。

こういう騒動のことばかり考えている院に仕える上下の者たちが、今日という日に逢えた喜び勇んだ気持ちは、まったくどんなだったでしょう。けれど、どの者も石・杖を持つだけで、本当の武器である弓矢などは準備しておりませんでした。
さることをのみ思ひたる上下」という『大鏡』の評が、実にうまく花山院とその周囲に集まっている“ごろつき法師”たちの様子を表している。“騒動好きの上皇とその取巻たち”ということなのである。花山院の考えている“騒動”というのは、本物の暴力沙汰や闘諍となっては困るのであり、あくまでも“遊び半分”でなければならない。それゆえ「石・杖ばかりにて、まことしき弓矢まではまうけさせ給はず」という歯止めを設けたのである。その「院の本性」を見透かして暴力沙汰を辞さない悪法師どもが周囲に集まってきていたのである。
だが、花山院の狂気は常に“則を越える”危険性をはらんでおり、いつ暴走するか分からないものであった。そういう院のお目付役に義懐がいたことを、第1章その(4)寛弘三年(1006)十月五日の火事(つづき)で扱った。後に道長がお目付役になる場面を紹介する予定である。

完璧とも言える花山院の防御態勢をみた隆家の牛車行列はどうするか。
中納言殿[隆家]の御車、一時ばかりたちたまて、勘解由小路[かでのこうぢ]よりは北に、御門[みかど]ちかうまではやり寄せ給へりしかど、なをえ渡り給はでかへらせ給ふに、院方にそこら集いたる者共、一つごころに目を固め守り守りて、やり返し給ふほど、“は”と一度に笑ひたりし声こそ、いとおびただしかりしか。さる見ものやは侍しとよ[あんな面白い見ものはあったでしょうか]。
「一時ばかりたちたまて」はよく分からないが、「しばらく躊躇の時間があって」ぐらいのことだろう。隆家の車は意を決して、勘解由小路を越えて正門近くまで突っ込んだが、正門を越えていくことはできず引き返した。花山院側の守備を固めていた者たちは、皆いちどきに勝利の笑い声を挙げた。
この“大騒ぎ”のあとの両人の感想がつけ加えられている。
王威はいみじきものなりけり、え渡らせ給ざりつるよ。「無益の事をもいひてけるかな。いみじきぞくかう[辱號 恥をかくこと]とりつる」とてこそ、(隆家は)笑ひ給ふけれ。院は勝ちえさせ給へりけるをいみじと思したるさまも、事しもあれ、まことしきことのやうなり。(同前195)
ここのカッコの付け方は古典体系本(松村博司校注)に従っているのだが、「王威はいみじきものなりけり、え渡らせ給ざりつるよ。」をも隆家のセリフに入れても良いと思う。「何といっても皇室の威力はすごいもので、御門を渡ることは出来ませんでしたよ。つまらぬ強がりを言ってしまい、ひどい恥をかきました」
それに対して花山院は、冗談事なのにまるで本当の戦いに勝利したかのような大層なお喜びようでした。ここでも花山院の“狂気”の、ほんとなのか演技なのかわからない境界性が指摘されている。


---  その(12)  “門前を渡る”ことの騒動  ---


平安京においては、そもそも、貴族なり権力者なりの正門前は特別な空間で、乗馬・牛車などのまま通行できないというような不文律があったらしい。おそらく下りて徒歩で通行するのは問題なかったのだろう(これらの詳細は未確認)。門そのものに権威が具わっていると考えられていて、正門付近には門を守る従者・家人が常に控えており、警戒していた。無礼な通行の仕方を見とがめて通行を制止したり妨害したり、時には石を投げることもあったらしい。必ずしも無礼でなくとも、気にくわない相手が門前を通行する際に石を投げつけたり、お付きの者に乱暴したりするというようなこともあったようである
前節の花山院が中納言・隆家に、「わが門前を渡ることができるか、できまい」と挑発したのも、この不文律が前提になっていると考えられる。

「門前を渡る」という語も興味深い。船などで川や海を横切るときに使われる「渡る」が本義だろうが、それを大仰に門前通過の際にも援用したものと思える。通過に困難があったり危険性があったりする場所をあえて通過するのを、船で川を横切る際の困難さなどを連想しつつ広く「渡る」と言ったのであろう。さらに天皇が移動することを「渡御」と言ったりするが、移動そのものを重々しく扱った表現にして、尊敬や丁寧な語法としたと思える。
現代でも「信号を渡る」とか「日比谷通りを渡って」という言い方は普通に使っている。

この節では、花山院から離れて、門前を渡る際のトラブルを『小右記』などから拾い出して読んでみたい。なかなか興味深い事例が出てくる。なお、こういう事例を拾い出すのは、現在ではネット上で『小右記』、『御堂関白記』等が、全文検索つきで公開されているので、容易である。前に紹介しているが、ここで再度述べる。
「東京大学史料編纂所」のデータベース入口から、画面の最下段の「データベース選択画面」をクリックし、次ページの「全文検索」のうちの「古記録フルテキストDB」へ入る。すると、キーワード検索窓が開くから、そこへ、今の場合「渡門前」などを記入して検索してみればよい。「門前 礫」とスペースで区切って入れると複数語の“AND”検索になる。この検索機能は速く手軽で優れている。大いに活用すべきだと思う。
和風漢文を読んでいる際の難読個所にぶつかったら、検索してみて類似個所を調べるという使い方も役に立つ。



この節で登場する主な人物たちの、系図上の位置をあらかじめ示しておく。




 (12.1)     ▼▲ 公任が飛礫を受けたこと ▼▲

『小右記』長和三年(1014)七月三日に、大納言・藤原公任が飛礫[つぶて]に遭った、という記事がある。公任(966~1041)は小野宮流の頼忠の息子、道長の下にあって一条朝を支える優秀な官吏として名を残した(四納言、俊賢・斉信・行成・公任のひとり)。
度斎宮南小路之間、飛礫如雨、縦度門前猶不可被打歟、況無門之所、何有其制乎

大納言・公任が斎宮の南小路を渡る間に、雨のごとき飛礫に遭った。たとい門前を渡る際であっても飛礫に打たれることがあってはならないのに、いわんや門の無いところで打たれるとは、どんな罰則を作ればいいのだ。
「斎宮」は、賀茂斎宮の常の御所で、紫野にあったという(角田文衛によると現在の上京区檪谷七野神社付近。内裏のほぼ真北の位置で、一条大路から1kmほど北上した辺り)。その南側の小路を牛車で通行中に、公任が雨のごとき飛礫に遭った。記事はそれだけなので、なぜ公任が門前でもなんでもない小路で飛礫を打たれたのか、何も分からない。「飛礫如雨 飛礫、雨の如し」というのだから偶発的に石が飛んできたということではなく、公任の牛車めがけて組織的に意図的にかなりの数・量の石を打たれたということであったのだろう。牛車の中にいれば重大な負傷は免れるだろうが、心理的な恐怖感はあるだろう。
一般に飛礫は、古くから武器として使われたり(たとえば『陸奥話記』の「遠くは弩を発してこれを打ち、近くは石を投げてこれを打つ」、「弩」は「いしゆみ」。中世の合戦で飛礫は兵器として実戦に使用されていたことが中沢厚『つぶて』(法政大学出版1981)に出ている。中沢厚は宮本常一『私の日本地図5』(同友館)によって毛利文書に戦功のひとつとして「礫疵 つぶてきず」の記録があることを知ったという。そして、山城などを踏査する以外に、「礫疵」文書の探索も行っている。前掲書p161~170)、祭礼の際の「印地打ち」のような儀礼的・象徴的な場合もあった。重大な負傷にならなくとも、敵をひるませる威力は十分にあったと考えられる。

その報告を聞いて、実資が大いに憤慨しているわけだが、その感想の中に、「たとい門前を渡る際に打たるなお不可、いわんや無門の所においておや」と述べているのが、貴重である。
つまり、門前で飛礫に遭うことは、ままあったことが分かる。それは実資にいわせれば悪習としてあって、それも禁止した方がいいというのに、門も何もないところで飛礫を打たれるというのでは、どうしたらいいのだ、憤懣やるかたない、というわけだ。
わたしは、本節はじめに“貴族なり権力者なりの正門前は特別な空間で、乗馬・牛車などのまま通行できないというような不文律があったらしい”と書いたが、不文律と言ってしまうのはすこし言い過ぎになるようだ。そういう“悪習”があったが、良識ある士人はそれを否定していた、ということになろう。それにより安全な通行が妨げられるのであるから、軽微な場合は見過ごされても、場合によっては取り締まりの対象になりうる。

ここで読んだ『小右記』長和三年(1014)七月三日では、公任が理由もなく斎宮の南小路で飛礫に遭ったということよりも、実資が憤慨していることによって「門前を渡る際に飛礫を打たれる」という“悪習”があったことが確認されるところが、貴重なのである。しかも、実資はこの“悪習”に対して強く批判的である。そのことを、次に見ることができる。


 (12.2)     ▼▲ 小野宮家(実資)の雑人が飛礫を自制したこと ▼▲

それから十年も後の『小右記』であるが、万寿元年(1024)四月十三日には、実資自身の門前を若い源師良という左少将が「馳せ渡る」という事あったのを記している。実資・小野宮家の雑人たちは飛礫打ちを喰わせようとしたが、思いとどまっている。実資は門前通過に対して飛礫打ちをすることに批判的であって、そのことを実資の家人・雑人たちは承知していたらしいのである。
午時許左少将(源)師良乗車馳渡小野宮北門、雑人等欲打車之間依思後勘当不能制止云々、大臣家門又大臣不渡、何況已次乎、師良年齢十許、不知物情、不可咎不可奇、

昼頃、左少将・源師良が小野宮邸の北門を牛車に乗ったまま、馳せ渡った。雑人らは車に飛礫打ちをしようとした。後で主人からきっと懲らしめられると思ってとどまった。 《大臣家の門は大臣といえども渡らず、況んやその下の者は》 というが、師良は年齢は十ばかりで、ものを知らない子供にすぎない。咎むべからず、奇とすべからず。
実資はここで自分の小野宮邸の雑人たちのことを述べているのだが、実際にこのとき雑人らが飛礫打ちをしたかどうかは、あいまいになるような書き方をしている。雑人らは、無礼にも北門まえを「乗車馳渡」るのを見て、飛礫打ちをしたいと思ったのである。だが、主人の実資が日頃その「悪習」を止めさせようとしていたことを考えて、後で「勘当」(江戸時代の“縁切り”ではなく、咎め懲らしめられること)があるかもしれないことを思ってためらったのである。言い換えると、この 《大臣家の門は大臣といえども渡らず、況んやその下の者は》 という京の町の習慣は、「大臣」の意思で継続していたのではなく雑人らの意思で守られていたのである。主人の名誉のためにこの習慣を行っている、というのでもない。雑人らの意志ないし欲求によってこの習慣は保たれている。この習慣の起源がどういうところにあるのかは別として、すくなくともこの時代には雑人らの権利・既得権に属することになっている、気晴らし・ウップン晴らし、ないし威張り散らす楽しみなど。

実資が日記に「師良は年齢は十ばかりで、ものを知らない子供にすぎない。咎むべからず、奇とすべからず」と記したということは、雑人らは飛礫打ちをしたかったが主人の意向を汲んで思いとどまった、ということであろう。そして、主人・実資はその現場にいたわけでなく、後に、そういう報告を聞いて日記に記録した、ということになろう。

くり返して書いておくが、平安京には貴族の門前を牛車・馬に乗って渡ってはいけない、それを犯した場合は飛礫を打たれるなどの妨害を受けることも有りうる、という不文律があった。それを悪習と考えて止めさせようと考えている貴族もいたが、“騒動”の材料にしようとする花山院や隆家のような遊び好きの貴族もいた。
この不文律が続いていたのは、直接には貴族の邸宅の雑人階層の意志によるものであるが、この習慣を面白がっている都の庶民層もあったと思われる。なんといっても、牛車や馬に乗っている貴族たちを標的に、飛礫打ちを公然・隠然とすることこができるのであるから。
しかし当然のことながら、この不文律は法的には有罪であって、この不文律に遭遇して被害にあった場合、検非違使が出動して「下手人」を出すように命じられたことを、(12.3)、(12.4)、(13.2)で読む。


 (12.3)     ▼▲ 検非違使別当の随人等が乱暴を受けたこと ▼▲

『御堂関白記』に長和二年(1012)正月二十六日の門前通行に際してのトラブルの例があがっている。
「右衛門督」というのは衛門府の長官のことだが、つまり検非違使長官である。その検非違使長官・藤原懐平[かねひら]が随身・火長らを引き連れて小野宮から帰る途中で、近衛御門[このえのみかど 道長の室・明子邸]の東門で下人らに門内にむりやり連れ込まれた、というのである。ずいぶん、だらしのない検非違使らだと思うが、冠も武器もとられて解放された。つまり、このケースは、牛車が攻撃されたというのではなく、検非違使長官の従者たちが、いったん拘束され、さんざんの目に遭わされたのである。検非違使長官は乗馬だっただろう。
従内出後、従右衛門督[藤原懐平]以(平)重義朝臣示云、只今従小野宮帰来間、渡近衛御門東門間、随身・火長彼家中取篭由云々、仍遣人、閉門無向人と申、還来間、随身無冠・胡録[正しくは竹冠+録 やなぐひ]・箭等帰者、即重義遣彼家、令人問案内、還来云、別当[懐平]不知渡門、只有取垣板者、仍捕之耳、彼自家人々来向取相去者、能案、別当還家後、随身取垣板所捕云々、然彼消息立後由有消息、仍令人召、入夜明日召下手人示可遣由了、

(私-道長-が)内裏より退出してきた後、右衛門督・懐平が重義をつかわして言ってきた。それによると、

今小野宮邸から帰り来る途中、近衛御門の東門を通る際に、引き連れていた随身・火長らが邸内にとりこめられた、それで、人をやって交渉しようとしても、門を閉じて応対する人もいない状態だ、という。
別当(懐平)が家に帰りくる間に随身らは解放されたが、冠を取られ、やなぐい・箭も持たずに帰ってきた。
重義をすぐ近衛御門家に遣わし、状況を調べさせた。帰ってきて言うのには、

近衛御門家では、次のように申しております。
検非違使別当の懐平様が門前をお渡りになるとは知らなかった。ただ、垣の板を取っているというのでその者を捕らえたまでです。その者の家より人々が垣の板を取りに来て持ち去っていこうとしたのです。
これが近衛御門家の言い分です。
よく考えてみると、別当が家に帰った後に随身が垣の板を取ろうとしたのを捕らえた、と近衛御門家側は言いたいのだろうが、しかし、別当の消息によると、別当は後ろに立っていたと消息に書いて有る。よって、夜に入ってから、明日下手人を召し出せ、と命じてやった。
道長の室・明子[めいし]は、安和の変で失脚した源高明の女。道長の正妻は倫子とされ、明子はそれに継ぐ地位(妻妾的な地位)であった。
何といってもこの話で驚くのは、検非違使別当が連れている随身・火長といえば、だれが見てもそれが分かるような服装をしていたはずである。それにもかかわらず、近衛御門の家人たちは随身・火長たちを門内に引きずり込み、武器を取りあげ、無冠にするという侮辱の姿で放り出したのである。なぜ、そんなことが可能だったのであろうか。

これは『伴大納言絵詞』の中の、白衣で乗馬の廷尉(検非違使の長)と、火長(赤い衣)2名、放免(長い杖を持つ)などである。随身は貴族の警護のために給付された近衛府の役人である(この図に出ているかどうか、わからない)。いうまでもなく、この図の登場人物はみな冠をつけている。当時、その冠を脱がされることは、大変な恥辱であったことは、よく知られている。

古事類苑の「官位部二十七」の「令制官職二十三」は「検非違使」である。その序文にあたる文章は、おそらく、明治時代の古事類苑編者が書いたものだろうが、検非違使を概観していて、分かりやすい。(原文は、漢字カナ書き。)
その冒頭から
検非違使の庁は初め二箇所にして、左右衛門府内に在りしが、寛平七年(895)始て左右検非違使の庁を定め、天暦元年(955)右庁を廃し、専ら左庁にて事を行へり、仁安の比(1166~69)には庁荒れて久しく修せざりしを以て、年始の政も行ふこと能はず、治承の比には終に別当の新任する毎に、庁を其の宅に設くることになれり。(p101)
検非違使別当の自宅の中に検非違使庁の役所を設けていた、ということである。これは、平安京の秩序を守るべき警察権力が、いわば、私的警備隊と違いのないような実態になっていた、ということを意味する。
これは、検非違使が形式化して、実力の伴わない組織となって、祭などのお飾りの警備隊になっていったことの裏づけになる事実である。逆に、警備の実力は、有力貴族や寺社に所属する武士などによって担われていくのである。

その終わり頃に
火長は看督長、案主長等の総称なり。看督長は、獄直を為し、及び追捕の事に当たり、案主長は、文案に当たるものとす。放免は、庁の下部なり。犯人の放免せられたるものを役して、追捕囚禁の事に従はしめ、或は流人を護送せしむ。此輩は賀茂祭に美服を着けて之に従ふことあり。贓物を染めて用ゐるものなりと云ふ。(p101)
とある。「火長」は「看督長、案主長等の総称」であると言っている。また「放免」は「庁の下部」であるが元罪人であった者を使っており、しかも面白いことに、放免を着飾らせて賀茂祭の呼びもののひとつになるのだが、その衣裳は「贓物を染めて用ゐるもの」であったといっている。元罪人の最下等の者を賀茂祭の呼びものに仕立てるというところが、祭の本質を演出するものとして面白いのである。
検非違使は京中の非違を検察するものにして、祭祀、法会の場に臨み、或は道橋を、巡視し、掃清を催督し、斎王を護衛し、又は糺弾、聴訟、追捕囚禁、断罪、行決、免囚、収贖等の事を掌れり。此等の職は、原来衛府、弾正、刑部、京職の分担なりしが、終に此庁に帰し、勢力の大いに張れるに従ひ、検非違使以下放免の輩の漸く暴横 を肆にし、世上の弊害となりしきことも少なからざりしが、鎌倉幕府の起るに至り、其権挙げて武家に移れり。(p102)
いま読んでいる『御堂関白記』の長和二年(1012)正月二十六日の記事は、検非違使の「庁荒れて久しく修せざりし」という「仁安の比」より150年もさかのぼる時代のことだが、すでに、検非違使たちの武力の実力は有力貴族が自分の邸宅内に養っている家人・雑人たちの実力にかなわない場合があったことを意味している。

もう一度記事に戻ろう。
どのような事情・いきさつがあったのかは別として、検非違使別当という都の警備の最高責任者が引き連れていた部下たちが、揃って邸内に引き込まれ、いずれも無冠で武器を取りあげられて放たれるという信じがたいことが起こったのである。しかも、検非違使別当がまさに現場にいたのに起こった事件である。これだけのことから、少なくとも次の2点は確かだろう。 事件の最中は門を閉じて外からの呼びかけにだれも応対しなかったが、直後に源重義が改めて問いただしに出向くと、「垣の板を取ろうとしている者がいたので捕らえたまでです」と見えすいた言い逃れをしようとする。「まさか、検非違使の別当様の関係者とは、存じませんでした・・・」と。こういう、言い逃れは、現代も変わらず行われているように思う。
道長はただちに言い逃れを見破り、「明日、下手人をさしだせ」と近衛御門側へ命じた。

翌日の『御堂関白記』には、ちゃんと問題の下手人が差し出され、拘禁されたことが書かれている。
廿七日 己未、夜部下手人以(藤原)頼任[よりとう]朝臣送別当家、即返送、仍給(源)頼国朝臣令禁、

廿七日 己未[つちのとひつじ]、(近衛御門家から当の下手人が差し出されてきたので)夜になって下手人を被害者である検非違使別当家に藤原頼任によって送り届けさせた。(別当家では確認して)直ちに送り返してきた。よって源頼国によって拘禁の措置をとらせた。
こういう、いわば世俗の雑事にまで道長がその処理にかかわっているというのは、ちょっと、意外だ。加害者側が近衛御門家であったので、道長が扱うことになったのだろうと思う。
前夜道長は「明日召下手人」という指示を出しているが、これは警備担当の検非違使庁へ差し出せ、という意味だろう。翌日、近衛御門家は下手人を出してきたので、藤原頼任という役人に下手人を(被害者としての)別当家に連れて行かせた。別当家は下手人として確認したのであろう、すぐ送り返してきたので、今度は獄へ送り源頼国によって拘禁の措置をとった。

私が読んでいる「東京大学史料編纂所」の『御堂関白記』には、頭注が付いているがそれによると、「検非違使別当藤原懐平随身火長道長室明子ノ下人ニ凌礫セラル」となっている。辞書によると「凌轢」が正しいようで 「しのぎ合いて仲あしくなる」こととしている。いじめられ辱められたということなのだろう。
事は「近衛御門東門を渡る間に」起こったのであるが、検非違使別当側に何か無礼があったのかどうかは、不明である。近衛御門の下人たちは初めは「垣根の板を取る者をこらしめた」といっていたが、近衛御門家では非を認めて「下手人」を差し出したのである。
この事件は、これ以上の真相は不明である。しかし、現代の(近代国家の)われわれが考えるような権力行使とはまったく異なった、中古期の権力中央と有力貴族の家人団の実力の関係がうかがえる。


 (12.4)     ▼▲ 実資の牛飼童が顕光邸前で頭に負傷したこと ▼▲

『小右記』寛仁二年(1018)閏四月廿二日、廿三日にわたって、「門前を渡る者への暴行傷害」事件がかなり詳細に書いてある。
寛仁二年閏四月廿二日(途中から引用)、
牛付三郎丸・石童丸等臨夜随身車為運歩板向堀河、度左府[藤原顕光]門前之間盗人二人出来、以大刀打破頭、血流出、放叫言、今一人牛付童[三郎丸]、少後従堀河東辺同行、聞叫声走向、盗人二人走入堀河西辺小屋閇戸、其間左府男出来、見驚石童丸・三郎丸等、参来所申也、


(実資の)牛付きの男、三郎丸・石童丸らが夜になって、歩み板を運ぶために堀河に向かって随身の車を駆っていった。左大臣・藤原顕光の門前を渡るときに盗賊が二人出てきて、大刀をもって石童丸の頭を打ち破り、血が流れ出た。石童丸は大きな叫び声をあげた。もう一人の牛付き童である三郎丸は、牛車から少し遅れて堀河東あたりを歩いていたが、叫び声を聞いて現場に走った。盗賊二人は走って堀河西あたりの小屋に入り戸を閉めた。
以上が、その間に左大臣家の男が出てきて、石童丸・三郎丸らを見て驚き、(実資に)報告にやってきて申した内容である。
「歩み板」というものは、現在でも工事現場などで使用されている歩行用の板である。現在は金属製のものになっているが。すでに延喜式に備品として登場しているという。ものの上に渡して(貴人の)歩行に役立てた。『小右記』には、塀が破れたので、「歩み板を以て垣とする」という記事がいくつか見える(ただし、「歩板」の実際の使用法はよく分からない。儀式などで臨時に歩板を敷きつめる、という例もある。平安京はぬかるみ道が多かったことも関連があるかも知れない。
牛車を歩み板運搬のために使用していることが分かる。この事実も興味深い。実資の従者である石童丸は牛車を駆って行く途中、顕光邸の門前を渡るとき盗賊に襲われたというのであるが、被害者が実資の従者であることを知り顕光邸の男が実資のところへ報告に来たのである。

その続きである。
即差副出納男於石童丸遣右衛門志守良[安倍]所、令申云、明旦申別当[藤原頼宗]糺行者、所推量者非盗人歟、以大刀不可打、若乗車門前之間為彼殿雑人被打歟、夜及深更不能尋問耳、

ただちに、負傷している石童丸に出納男を付き添わせて、右衛門志[えもんさかん 検非違使庁の下役人]・安倍守良の所へ差し向け、あす朝別当・藤原頼宗の取り調べ(糺行)をするようにと、申し云わせた。
自分(実資)が推量するところでは、盗賊のしわざではないのではないか、大刀によって打ったというのではないだろう、むしろ門前を乗車して通ろうとしたときあそこの邸の雑人に打たれたのではないか、夜も深更におよび尋問は不可能になった。
顕光が左大臣になったのは寛仁元年三月だが、このときには道長は関白を息子の頼通に譲っている(ただし、道長は関白であったのは准摂政の時を加えても2年間ほどである。道長は左大臣であった時代が長く、22年間に及ぶ)。顕光は無能呼ばわりされることが多いが、有職故実の枝葉末節にこだわる宮廷で嘲笑されることが多かったというのであって、道長の下のナンバー2として右大臣を22年間務めており、単なる無能というのではなかったろう(『小右記』が左府・顕光について出仕の日より今日まで「天下之人嘲哢」と書いたのは寛仁元年(1017)十一月十八日条)。
その顕光邸の家人の通報内容を実資は疑っているのである。左大臣邸の門前で盗賊が出るというのもおかしいし、牛飼いの童を大刀で打ち破るというも解せない、ということだったのだろう。あるいは貴族邸宅の門前で起こりがちの雑人と牛飼童の間の暴行事件であろうとはじめから見通していたのかも知れない。ともかく、検非違使庁に通報し、明朝すぐ取り調べて欲しいとしたのである。

その翌朝、寛仁二年(1018)閏四月廿三日のことである。検非違使庁の役人の現場捜査で、いろいろと興味深いことが分かってきた。
早朝守良来云、夜前事申別当、仰云、可糺行者、仍罷向、指申堀河辺宅尋問之處、侍尚侍殿[藤原威子]称侍従之女住件宅、申云、無一人男、又無走入者、但去夜乗空車者渡左府門前、彼殿人擲石打破頭、放叫声、宅下女等出涼戸外之間、驚叫声帰入宅内、此外無事者、侍医相法[和気]宅隔壁、仍問案内、申彼宅無男由者、

早朝に右衛門志・守良が来て報告した。昨夜のことを検非違使別当に申しましたところ、取り調べよとの仰せでした。それで現場へ出かけ、堀河辺りの家を尋問してみました。すると侍尚侍殿[藤原威子]の侍従であるという婦人の住む家でした。その女性の申しますことには、「この家には男は一人もおりませんし、走り込んできた者もありませんでした。ただ、昨夜はだれも乗っていない車が左府様の門前を通るとき、お邸の人たちが石を投げ牛飼い童の頭を傷つけ、叫び声がいたしました。うちの下女たちはちょうど外に出て夕涼みをしておりましたが、叫び声に驚いてうちの中に逃げ込みました。このほかは無事でございました」と。

壁を隔てた隣家は、侍医の和気相法という者であった。よって、そこでも事情を調べてみたが、その家にもあやしい男は無いということでした。
この年の閏四月廿二日は太陽暦(グレゴリオ暦)では6月14日にあたり、夏の京都盆地の蒸し暑さに夕涼みをする習慣はすでに平安京でも同じだったことが分かる。
道端の縁台などで夕涼みをしていたのか、下女たちは一切を目撃していたのである。「乗空車者渡左府門前」、「空車 むなぐるま」に乗る者が左府の門前を渡る、というのは主人である貴人は乗っていない牛車に、牛飼い童だけが牛を駆って門前を通ろうとした、その車には「歩板」が積んであったのだろう。牛飼い童は顕光邸の雑人らの飛礫に遭い、頭を負傷した、・・・・これが侍尚侍殿の侍従であるという女の申し立てであった。この申し立てでは「擲石打破頭」としており、石を投げ頭を打ち破ったのであるから、飛礫であることがはっきりと分かる。
隣家は和気相法という侍医であり、そこでも聞き込みをしたが、なにも出てこなかった。

石童丸の頭の傷を調べた所見が、つぎに記されている。そして、牛童の再尋問があった。
又令実検牛童疵守良申云、非以大刀打損、若以石打破歟、覆問童申云、不知大刀・杖、只従彼宅来俄打破也者、初申全以大刀打破之由、今所令申者大刀与杖間不慥見者、事頗荒涼、至今已被疵可尋糺之由仰守良了、

また、牛飼い童の疵をしらべさせた守良が申し云うのによると、大刀で打ち傷を負わせたのではなく、むしろ石を投げつけられ負傷した疵のようだと。
童を再尋問したところ、「大刀か杖かは知らないが、ただあの邸から来てにわかに打たれ傷つけられました。初めはまったく大刀を以てやられ負傷したと申しましたが、いま申しあげれば、大刀なのか杖なのか不確かでございます」という。話はすこぶる頼りない。今一度疵を受けた事情を調取せよと守良に指示した
大刀による傷ではなく、投石による負傷のようだという守良の報告は「侍尚侍殿の侍従」という女の話とよく合っている。
それに対して「牛飼い童」本人の申し立てが変だ。彼はともかく大刀か杖でやられたと言っており、飛礫のことは言わない。ただし、彼は大刀と杖を区別できなかったと申し立てている。つまりこの時代、大刀は“切る”より“叩く”武器であることが分かる証言内容になっていることが興味深い。もちろん、それ以外に“突く・刺す”という機能も有効であったはずだが。
しかし、この場合の牛飼い童・石童丸が、石をぶつけられたとは思わず大刀か杖でやられたと、本当に考えていたのかは疑いが残る。まったくの不意打ちで石で気絶した、というようなことでもないと、その状況は考えにくい。石を投げる音や気配があったであろうし、大刀か杖で打たれるのとは区別できておかしくない。しかも強盗二人は走って逃げたというのだから。
そうこうしているうちに、真犯人が判明したという知らせが来る。
其後致行朝臣[藤原]参、問此事申云、前佐渡守為行子法師朝久童子以石打破頭之由所承也、臨昏侍医相法来云、今朝守良問案内、答不知由、令尋聞者、朝久法師童子石犬丸以石打破云々、可無事隠者、

その後で、藤原致行朝臣が参りこの事件について問うたところ、次のように語った。「前佐渡守為行のところの子法師・朝久童子が石を投げつけて頭を負傷させた由を聞きました」と。
暮れ方になり侍医の相法が来て言うには「今朝守良様に事情を聞かれました際にお答えできませんでした。尋ね聞かせたところ、朝久童子が石犬丸[石童丸]に石をぶつけて傷つけたということです」云々。これですべてが明るみに出た。
前佐渡守為行の子法師・朝久童子なるものがいて、石童丸に石を投げつけて負傷させた、ということが解明された。『小右記』は何も書いていないが、この朝久童子はおそらく顕光邸の雑人の一人であって、門のあたりにいて牛車を駆ってくる石童丸に石を投げつけたのである。だが、何らかの理由によって(その理由は示されていないが)、被害者・石童丸の主人である実資に報告するのに、顕光家の家人・雑人らは、顕光邸門前で石童丸が「盗人」二人に襲われて大刀で負傷した、と虚偽の話をでっちあげたのである。

実資ははじめから顕光家の男の話を信用しておらず、石童丸は顕光家の雑人たちにやられたらしいと疑った。それで、翌朝一番で取り調べるようにと、検非違使の下役人を介して検非違使別当に申し入れたのである。
さすが「賢人右府」の名を残した実資の眼力は鋭かったわけだが(ただし、彼が右大臣になったのはこの事件の3年後の治安元年(1021)のこと)、むしろ顕光家の雑人たちは石童丸が小野宮・実資家の牛飼い童であることが判明して実資の名に怖れをなして、「盗人のしわざにしようぜ」と相談し、石童丸も金でもつかまされその相談に一枚噛んでいたのかも知れない。それで、「大刀か杖か不確かだった」というような「荒涼」としたことをわざと言っていた可能性がある。実資の「事頗荒涼」は、そういう裏も読んだ上での自分の牛飼い童への批評である可能性がある。(まったく想像だが、顕光家の雑人たちが夜、牛飼い童一人が駆って来る牛車を見て「襲った」のかも知れない、何か金目の物でも奪えれば好都合と考えて。ところが雑人たちは予想していなかったことだが、遅れてもう一人の牛飼い童が歩いていて、石童丸の悲鳴を聞いて駆けつけてきた。相手が二人であることを知った雑人たちは、急遽方針変更して、石童丸らを巻き込んで盗賊が逃げていった、という話にしたのではないか。


---  その(13)  花山院の騒動(つづき)  ---


花山院のお祭り好きというか、騒動好きというか、“目立ちたがり”の面をとても良く表している『栄華物語』のエピソードをまずひとつ紹介してから、本題の長徳三年(997)四月十七日「賀茂祭と花山院闘乱のこと」に入りたい。


 (13.1)     ▼▲ 賀茂祭見物の牛車を飾りたてること ▼▲

『栄華物語』巻第八「はつはな」に、寛弘二年(1005)四月二十日の、「祭の使」に道長の長男・頼通(992生)がなるというので、父・道長は大喜びであり、豪勢な桟敷席を造って見物することになった。殿上人たちはみな競って見物に出かけた。(ただし、これは史実ではなく『栄華物語』の作者が祭の見物が否が応でも盛りあがるように、設定したもの。事実は源雅道(雅信の孫)が「祭の使」。前節(12)に既出の系図で、雅道、頼通らを確認できる。

道長は枇杷殿という邸から「使の君」の出立[いでたち]を見届けてから、桟敷席へ出かけた。(「枇杷殿」は近衛大路に面する花山院の斜め前の邸宅。先の地図に書き込んでおいた。
殿[道長]は使の君の御出立の事御覧じ果てヽぞ、御座敷へはおはします。多くの殿ばら・殿上人引き具しておはします。そしもあらぬだに[道長の長男という特別な地位の場合でなくても]、この使に出で立ち給君達は、これをいみじき事に親達は急ぎ給ふわざなれば、まいてよろづ理[ことわり]に見えさせ給。御供の侍・雑色・小舎人・御馬副[むまぞひ]までし造させ給程、えぞまねばぬや。」今年はこの使のひびきにて[使いが頼通だという評判によって]、帥宮[敦道]・花山院など、わざと御車仕立てヽ物を御覧じ、御桟敷の前あまた度渡らせ給。
帥宮の御車の後[しり]には、いづみ[和泉式部]を乗せさせ給へり。
岩波古典文学大系『栄華物語 上』(p243~244)
敦道親王や和泉式部の登場する系図は、前章の花山院の女性関係。敦道親王や花山院は、特別に衣装を凝らして飾りたてた車に乗り、桟敷席の前を何度も、行ったり来たりした。

花山院の飾りたてた牛車とお付きの者たちの行列の様子に対して、『栄華物語』は得意の筆を振るっている。
花山院の御車はきん[琴、金]の漆などいふやうに塗らせ給へり。網代の御車をすべてえもいはず造らせ給へり。「さばかうもすべかりけり[こんなふうに工夫してみるべきだった]」と見えたり。御供に大童子の大きやかに年ねびたる四十人、中童子廿人、召次[めしつぎ]ばら、もとの俗ども仕[つか]うまつれり。
御車の後に殿上人引き連れて、色々様々にて、赤き扇をひろめかし使ひて、御桟敷の前あまた度渡り歩かせ給程、ただの年ならばかヽらでもなど[そんなにまでしなくてもなど]、殿見奉らせ給つべけれど、使の君の御ものヽ栄えに思ほされて、上達部うち頬笑み、とのヽ御前「猶けしきをはします院なりかしな。この男の使に立つ年『我こそ見はやさめ』と宣はすときヽしもしるく、ゆくりかにも出で給へるかな[『自分(花山院)こそ見物して盛りあげてやろう』とおっしゃったとお聞きした通りに、奇想天外な様子で出ていらっしゃった]」と、みな興じきこえ給。
(同前)
花山院の「御供」の連中は、いつもの「大童子・中童子」これらは寺院・僧家で使われている者たち、「召次」というのは院の庁の下役で取次などの雑用を行う、「もとの俗ども」というのは世俗の風体のままの者たち。
花山院の周辺に集まっている者たちの特徴は、貴族・武士・農民などの世俗社会を構成する者たち以外であり、寺院・僧家の使用人・召使層を中心とし都市の雑階層・雑色などをふくむ者たちであった。

180年ほど後の源平合戦時代の法住寺合戦のときに、後白河法皇側が集めた兵力のことをわたしは連想する。木曽義仲が平家を西海へ追い出したが、義仲の京都支配に不満が積もり後白河法皇が僧兵や京都庶民をかき集めて義仲軍に対して合戦を挑む。法皇が拠っていた法住寺に法皇軍を集めたので法住寺合戦と呼ばれている。素人の寄せあつめにすぎない法皇軍は簡単に打ち破られ、散々な敗北を喫する。
この合戦の時、法皇が集めた者たちについて、『源平盛衰記』は次のように述べている。
院の御所法住寺殿を城郭に構へて、官兵参り集まる。山門園城[おんじょう]の大衆[だいしゅ]、上下北面の輩の外は、物の用に立べき兵ありとも覚ず。堀川商人に、向飛礫[むかひつぶて]の印地の冠者原[かじゃばら]、乞食法師、かようの者共を召されたれば、合戦の様もいかでか習ふべき、風吹けば転び倒れぬべき者共也。(『源平盛衰記』下巻p275 有朋堂文庫1912)
同じところ、『平家物語』では
院の御所には、山法師、寺法師、京中の向轢[むかひつぶて]、印地、いひかひなき冠者ばらが様なる者どもを召し集めて、「一万余人」とぞ記[しる]されたる。水原一校注『平家物語』(中巻p297 新潮社1980)
となっている。

花山院の取巻連中と法住寺合戦の院方の勢力とは、類似点があることを指摘しておきたい。まず、花山院も後白河院も“法皇”であったこと、この二人の個性的な法皇は、自由奔放な生活態度で都市生活を楽しんだ点で本質的な類似性がある。第2に寺院関係の者が集まっていること(一方は童子、一方は僧兵)、第3に京都庶民の雑人階層。
庶民層の戦闘手段として「飛礫」が登場していることに興味をひかれる。ついでに、「堀川商人」というのが、よく使われる語であるのかどうかわたしは分からない、京都域粋(第41号)が「堀川」について詳しい。

さて、堀川は造都段階から重要な役割=建築資材(木材)を運ぶ運河としての機能を担いました。太い木材が、丹波山中から大堰川(嵐山)→桂川→天神川、そして堀川を遡って運ばれたそうです。かつては五条~六条辺りに貯木場が設けられて、多くの木材業者が軒を連ねる地域でした。鎌倉~室町期には、堀川材木座と呼ばれる、材木販売を独占した商人の組織が成立しており、後の江戸時代を通じても存在しました。「丸太町」という通り名も、その名残りとのことです。

花山院の周辺に集まってきていた者たちは、寺院関係の悪僧・童子たちの他は、京都の都市の雑階層の「いひかひなき冠者ばら」であったこと。この雑階層の者たちは、邸宅の雑人として正門の陰から飛礫を投げた者たちでもあったであろう。


 (13.2)     ▼▲ 賀茂祭花と花山院闘乱のこと ▼▲

長徳三年(997)四月十六~十八日の三日間にわたって『小右記』に書きとめられた、花山院の「供奉人」らの「濫行」事件とその余波の騒動を読んでいく。
この時は、ちょうどこの年の賀茂祭の最中であり、この騒動は都中の耳目を引きつけたものと思われ、『小右記』以外に『百錬抄』、『大鏡』、『古事談』が書きとめている。

まず、事件の発端は、道長邸から公任[きんとう]と斉信[なりのぶ]が同車して退出してきて、花山院ちかくの近衛大路を通っているときに起こった。次に示すのがこの日の『小右記』の全文である。(人物については一条朝の人々を、花山院の周囲については花山院の地図および平安京の北東部地図をみて欲しい。
(長徳三年四月)十六日 己酉、右衛門督[公任]示送云、宰相中将[斉信]同車自左府[道長]退出之間、華山院近衛面人数十人、具兵仗出来、乍令持榻捕籠牛童、又雑人等走来飛礫、其間濫行不可云者、驚奇無極、

公任が示し送ってくれた情報によると、斉信と同車して道長邸から退出してきたところ、花山院の近衛大路に面するところで、十人ほどの兵仗をたずさえた者が出てきて、牛車を抑え牛童を捕まえて拘束してしまった。また、雑人らが走ってきて飛礫を投げた。その間の濫行は口に出来ないほどで、驚くべき奇怪な所行は極まりない。
まず、日付に注目して欲しい。「長徳三年四月十六日 己酉[つちのととり]」この「酉の日」は賀茂祭の当日なのである。賀茂斎院((12.1)で扱った公任が飛礫を投げられた所)から、斎院が出て、一条大路まで南下し、そこで朝廷からの奉幣使などの一行と合流して一条大路を東へ進み、賀茂下社から上社へいく。この日は上社に一泊する。一条大路に桟敷が設けられ、見物で賑わった。
長徳三年(997)は一条朝が始まって以来(ということは、花山天皇が退位・出家して以来ということだが)すでに丸十年を経ている。そして公任と斉信は一条朝を支える重要な公卿である(“四納言”のうちの二人)。その二人が、道長の土御門第を退出して近衛大路を花山院にかかったところで、武装した者十名ほどが出てきて牛車を止め牛童を捕らえて、おそらく門内に引きずり込んだのであろう。さらに、雑人たちが出てきて飛礫を投げて攻撃し、まったくひどい濫行であった。
『小右記』では事件の起こった時刻がわからないが、『百錬抄』は翌十七日にまとめて書いていて、そこに「去夕濫行」という語があるので、夜になっての事件であることが分かる。賀茂祭の第1日目を見物して、公任と斉信は道長邸に寄ったのではないか。祭見物は昼間だが、道長邸を辞したのは夜になっていたのだろう。

花山院の邸内から出てきた者たちに2種類ある。「兵仗」をたずさえた「人数十人」と、飛礫を打つ「雑人等」である。それに対して公任・斉信の牛車の側にさしたる落度はなかったように見える。花山院は大邸宅であるから近衛大路側にも門があったであろうが、正門は西側の東洞院大路に面していたと考えられている。しかも、公任・斉信らは政務を預かる重要公卿たちであり、《大臣家の門は大臣といえども渡らず、況んやその下の者は》という不文律につき合うほどヒマではなかった。
この不文律を支え実践していたのは雑人階層であり、花山院(邸)では花山法皇の騒動好きの性格もあって、その家人・雑人らはヒマさえあれば門前を通過する“無礼な”牛車に濫行を働くのを楽しみにしていた。 そこで、二人の貴族が牛車に乗ったまま通過するのを見つけて、「兵仗」をたずさえた「人数十人」が出てきて牛車を止め、牛童を拘束した(「持榻」はよく分からないが、牛車の部品を抑えたのだろう。「榻」は椅子とか床の意味がある。「捕籠牛童」は牛童を捕り籠めた、というのだから、牛童を捕まえ、邸内に連れ込んで拘束したと考えられる。)。「兵仗」をたずさえた「人数十人」というのは、抵抗するのを許さない、かなりの勢力であって“遊び”のレベルを越えている。しかも、それに加えて、別に待ち構えていた「雑人等」が走ってきて、牛車にむかって「飛礫」を打った。
公任と斉信は牛車の中で飛礫に当たらないように小さくなっていたのだろうが、負傷はしなくともかなりの恐怖感と屈辱を味わったことだろう。

ここまでのところ、花山院は直接には登場していないがこの騒動の背後にいて、この“悪ふざけ”の出来をみて大いに喜び大笑いしていたのを想像できる。賀茂祭の当日の夕刻であり、いくらか賀茂祭の浮かれ気分が影響していたのだろう。
公任と斉信は、法皇の部下たちだといっても“悪ふざけ”が過ぎる、必ず厳しい取り締まりによって押さえ込んでやろうと、考えたと思われる。当日のうちに実資(『小右記』の筆者)に連絡を取っていることからも、それが推測される。

翌日の四月十七日は、「還立 [かえりだち]」の日で、賀茂社(下鴨社の神館)で一泊した斎院が前日とは異なった道筋で、紫野の知足院中世に廃絶・ 雲林院を経て斎院へ還る。それの見物が、やはり桟敷席もできて、大いに賑わった。
前夜、政府の重要公卿二人(公任と斉信)の一行に濫行を働いた、その責任者である花山院は、しばらくはおとなしくして、ほとぼりの冷めるのを待って当然なのに、奇想天外な姿の悪僧や童を大勢引き連れて紫野に現れたのである。『大鏡』第三巻が面白く書いている。
あて又、花山院の、ひとヽせ[ある年]、まつりのかへさ[賀茂祭の還立]御覧ぜし御ありさまは、誰も見たてまつりたまふけんな[給ひけんな、の音便形]。前の日、事いださせたまへりしたびのことぞかし。さることあらんまたの日は[あのような騒動のあった次の日は]、なを御歩き[ありき]などなくてもあるべきに、いみじき一のものども[たいそう勢いのよい院の一番のお気に入りたち]、高帽頼勢[カウホウライセイ]をはじめとして、御車の後[しり]に多くうち群れまいりしけしきども、いへばおろかなり。
なによりも、御ずヾ[数珠]のいと興ありしなり。小さき甘子[ミカンの類]をおほかたの玉にはつらぬかせ給て、だつま[留めにする大玉]には大甘子をしたる御ずヾ、いと長く御指貫に具していださせたまへりしは、さるものやはさぶらひしな[そんな面白い見ものはかつてあったでしょうか]。
高帽頼勢は、おそらく、いつも目立った“背の高い帽子をかぶっていた”頼勢という名の山伏かなにかだったであろう。そういう者たちが多数車の後に従っているのだが、花山院自身は、ミカンで作った巨大な数珠を懸けて、牛車から指貫にそえて出して見せていた。

朝廷では、検非違使が出動して昨夜の花山院での濫行の下手人を捕らえるという方針が決まった。情報をいち早く知った行成(『大鏡』は、現在の「権大納言殿だが、当時はまだ若かった」と説明をつけている)が、紫野の花山院へ使者を出して、「はやく逃げ帰りなさい」と報せてやった。花山院と行成は従兄弟の間柄なので(いずれも伊尹の孫、系図の確認は、先に掲げた花山院の周辺)、注意してやったのである。
紫野にて、人々(花山院の)御車に目をつけ奉りたりしに、検非違使まいりて、昨日、事いだしたりし童べ捕らふべしということ、いできにけるものか。このごろの権大納言殿[行成]、まだそのおりは若くおはしましヽ程ぞかし、人走らせて、「かうかうのことさぶらふ。とく帰へらせ給ひね」と(院に)申させたまへりしかば、そこらさぶらひつる者ども、クモの子を風の吹き払ふごとくに、逃げぬれば、たヾ御車添ひのかぎりにて遣らせて[車に付き添う人だけで車を動かして]、物見車のうしろの方[かた]よりおはしましヽこそ、さすがにいとをしく[気の毒で]忝なくおぼえおはしましヽか。
「検非違使が昨日の件で下手人を捕らえに来る」という情報が伝わると、院の車にしたがって得意になって行列していた者たちは、クモの子を吹き散らすように逃げていった。院の車は、牛車を扱う者たちだけで、見物のために並べて止めてある牛車の後ろを通って、こそこそと帰っていった。さすがに気の毒で申し訳ない感じがした。

『大鏡』の記述はここまでで、後はこの事件についての批評が付いている。
さて検非違使付きやいといみじう辛う[からう]責められ給て、太上天皇の御名は腐[くた]させ給ひてき。
かヽればこそ、民部卿殿[俊賢]の御言事[いひごと]は、げにとおぼゆれ。
その後の検非違使の監視はとても厳しく、太上天皇の名を落とすことになった。つまり、“悪ふざけが過ぎる”ということで、みっちりと油を絞られた、お灸をすえられた、ということ。前述の公任・斉信の報告が効いているのであるが、公卿会議の中心である道長が、“ここで花山院に“ゴツン”と分からせてやる必要がある”と意を決していたのである。
「民部卿殿の御言事」というのは、第1章その(4)で出てきた、「冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術なきものなれ」のことである。

同じ日の『小右記』を読んでみたい。すこし違う角度からの記述や、異なる内容もあって、なかなか興味深い。
(長徳三年四月)十七日、庚戌、修理大夫[藤原懐平]同車、為見物向智足院辺、華山法皇御其辺、未及見物、中間還御、未知其由、左府[道長]又座彼辺、仍余進左府見物処、並車見之、宰相中将、勘解由長官、在左府車、左府被示花山院濫吹之事、或云、件事自左府被奏聞、有可追捕院人々仰、召遣在神館之使官人等之間、側有漏聞、法皇懸車還御云々、見物畢帰家、

(私 ― 実資は)修理大夫・懐平と同車して、(還立の行列の)見物のために知足院辺りへ向かった。花山法皇もその辺りにいらっしゃっていたが、まだ見物が始まる前に途中でお帰りなった。その理由はまだ分からない。
左府(道長)もその辺りに座をしめておられたので、自分も左府の場所に進み、車を並べて見物した。宰相中将・勘解由長官が左府の車に乗っていた。左府は花山院の濫吹事件について話された。またさらにお聞きしたところでは、その事を左府から(天皇へ)奏聞し、花山院の供奉人らを追捕するよう仰せがあった。神館[かんだち、こうだて]にいた使や官人らを追捕に派遣したので、側で漏れ聞いたところでは、法皇は見物を諦めてお帰りなったということだ。自分は見物しおわってから、家に帰った。
すでに述べたことだが、賀茂祭の第1日目は斎王が紫野の斎院から出て、一条大路で朝廷からの一行と合流し、一条大路を行進して下鴨社の神館に入る。神事があり、さらに上賀茂社へ到る。そこで神事を済ませて、初日の行列は終わるが、斎王は上賀茂社の神館で一泊する。第2日目が「還立 かえりだち」ないし「祭のかえさ」と言われるもので、斎王は上賀茂社から出て、紫野の雲林院[うりんいん]・知足院[こちらは中世に廃絶した、藤原忠実を知足院殿というのは一時ここを邸宅にしていたことがあるから]を通って斎院に戻る。
「召遣在神館之使官人等」は、「神館に在った使・官人等を召し遣る」ということだろう。祭の当日、神館に詰めていた朝廷の使者や官人、その中には警備の検非違使庁の役人も含まれていたであろうが、そういう者たちを動員して、前夜の花山院での「濫吹事件」の下手人を拘束するという実力行使をしたのである。
ここの『小右記』の記述でわれわれが気づくことのひとつは、この祭が国家行事である、ということである。祭を遂行する主体はたしかに神社の神官であったり神人であったり、また、斎王であったりするのであるが、それは、宗教団体が宗教行為を行っているという近代的理解とはまったく異なる世界なのであって、国家行為としての祭儀が行われているのである。この祭儀は国家の統治行為の重要な部分なのである。きらびやかな衣装を凝らした盛大な行列があり、多数の見物人が集まり、その目や耳を驚かすということも含めて、国家の重要な統治行為が行われている、と理解すべきである。

『小右記』の十七日条の後半は、つぎのように、驚くべきことが書かれている。
花山院とその取巻の一行は、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったので、検非違使らは花山院(邸)を取り囲み、「下手人」を差し出すように交渉したようである。
(中略)或者云、検非違使等、依勅囲華山院、申去夕濫行下手人云々、此間難得慥説、奉為院太無面目、積悪之奉致也云々、或云、下手人等若遂不令出給、可捜検院内之由、有綸旨、此事左衛門尉則光、[検非違使、又彼院乳母子也]、通彼云々、嗷々説不可記(下略)

ある者がいうところでは、検非違使らが勅命により花山院を囲んで昨夕の濫行の下手人を出すよう申した云々。この間のたしかな説は得がたい。院に大いに不面目をなし奉ったのは、積悪の致し奉るところである云々、別の情報では、下手人等をもしついに(花山院が)出さしめ給はざりしかば、院(邸)内を捜検すべき由、綸旨あり。この事は院の乳母の子である左衛門尉・橘則光を通して、院に通達した云々。ゴウゴウの説、記すべからず。
花山院(邸)を検非違使らが取り囲み、下手人を出さないと邸内に踏み込むぞ、と威嚇したのである。実資にさえ十分な具体的な情報が届かないぐらい現場は緊張していたのであろう。「奉為院太無面目、積悪之奉致也」花山院は大いに面目を潰したのだが、それは長年の“悪ふざけ”の報いだ、と実資は「積悪」という語を使って厳しい書き方をしている。
もちろん、このような厳正な態度で取り締まりに臨んだのは、公任・斉信の報告を受けて道長を先頭に「公卿会議」が一致して“ここで、花山院にお灸をすえておこう”と決意しているからである。一条天皇はこの時十八歳であり十分「公卿会議」の意向を受けとめ自分の判断で「綸旨」を出しているであろう。
「乳母子 めのとご」は“乳兄弟”であり、一緒に育てられているために、とても近しい間柄であることが多い。それで、検非違使庁の役人・左衛門尉・橘則光を立てて、花山院と交渉しているのである。

結局その日の明るいうちには、花山院(邸)を包囲しての強談判は決着せず、夜になって下手人をだした。花山院は折れて「公卿会議」に屈服したのである。あるいは「公卿会議」が本気であることを、やっと、理解したと言ってもいいだろう。
十八日、辛亥、(平)公誠朝臣并下手人四人去夜自崋山院被出、検非違使奏聞事由、至公誠朝臣令候、又々可追捕者、

(院の近臣である)平公誠朝臣と下手人四人が昨夜花山院から出頭した。検非違使がその事由を奏聞した。公誠朝臣をも拘束した。重ねて追捕すべきか。
花山院は下手人を四人出頭させた。『小右記』には、この後も公誠朝臣は顔を出しており、花山院からの書類を公卿会議に出す仕事を続けているので、おそらくこの時は下手人四人の引率という格で出頭したと思われる。その公誠朝臣が責任を問われたかどうか、不明である。

岩波古典体系本は「東松本・大鏡」というものを底本として使っているが(名古屋市の東松了枩氏の所蔵にかかるもので、『大鏡』写本中最古の完本という。1953年に重要文化財の指定を受けた)、本文の裏面に関連した内容の資料などが書かれていることがある。それを「裏書」といっているが、かなりの分量の裏書が検出されている(ページ数でいうと、およそ、本文全体の半分ぐらいにも上る)。
本書はまた各巻紙背に裏書を有しており、群書類従本の大鏡裏書は、本書の裏書を拾い採ったものであり、またその他の裏書に比較しても最も詳密なものである上に、精細な傍訓は国語研究上にも一資料を提出するものとして、その価値は極めて高い。(古典体系本『大鏡』「解説」p26)
どのようなものか知らない人が多いだろうから、われわれがここで読んでいる賀茂祭2日目の行成の行動についてもっとも臨場感のある内容を持つ資料を引用してみる。「精細な傍訓」も再現してみる( 古典体系本21『大鏡』p352より 裏書39「花山院御覧賀茂祭事」)。
或人記云[経記ケイキ]前一條院御時賀茂祭日四條大納言別當參議斉信タダノブ民部卿[宰相中将]同車ニテ見‐物花山院シメウタタマフ21

ある人の記(経記ケイキ)に云う、前の一条院の御時、賀茂祭の日、四条大納言[公任]と別当参議斉信タダノブ民部卿[宰相中将]が同車にて見物、しかるに花山院打たしめ給ふ。よって共に内に参って愁へ申さしむ。

次日入道殿[左大臣]於2紫野ムラサキノ1見-物花山院同オハシマス2紫野1殿トノ故民部卿[道方職事時]被仰云只今參-内シテ也院坐2紫野ムラサキノシテ2此處13ムト2タヽシヲコナハ1

次ぎの日、入道殿(左大臣)紫野に於いて見物し給ふ。花山院同じく紫野におはします。殿は故民部卿(道方職事の時)を召して、仰せられていはく。「只今参内して申すべき也、院紫野におはします、此の處に於いて弾し行はむと欲す」、てへり。

戸部承スコシキハカリアユミ又帰被申云宣下若クタサ者上ケイウケタマハル歟其時故源戸部[俊賢]侯2殿トノ御車シリ1申云此事以2内侍宣1歟者

戸部仰せを承りて、すこしきばかり歩み去りて、又帰りて申されていはく、「宣下もし下さるれば、上卿承るべきか。」その時、故源戸部俊賢は殿の御車の後に候す。申していはく「此の如き事、内侍宣を以て下さるべきか」、てへり。

御堂シメ2許諾1仍故戸部被參内之間行成大納言[宰相時歟]被32雲林院大門1被問云ヲハスル2何事1哉答2殿御使1參内スル也重被問云何事哉被答云カタキ申事也者

御堂許諾しめ給ふ。よって故戸部参内の間、行成大納言(宰相の時か)雲林院の南の大門の辺りに逢はれ問はれていはく「何事におはするや」、答ていはく「殿の御使に依て参内するなり」、重ねて問はれていはく「何事なるや」、答えられていはく「申し難きことなり」、てへり。

行成得21使シテシム人申1レヘシシメ1逐電チクテン其後民部卿帰參被申云聞食了早可被行ハル1然-トモシメ帰給了アタハタヽサ云々

行成その心を得て、人をして院に「早く帰らしめ給うべし」と申さしむ、てへり。院逐電帰り給ひおはんぬ。その後民部卿帰参し申され云ふを聞こしめしおはんぬ。早く行はるべし、てへり。しかれども、院帰らしめ給ひおはんぬ。弾[ただ]さらるに能はず云々
「民部卿」が三人登場していて、しかも、民部卿の唐風の呼称「戸部 こぶ」も使っているので分かりにくい。
この長徳三年(997)の「賀茂祭と花山院闘乱のこと」の時点で民部卿であったのは“四納言”のひとり藤原斉信(967生)である。斉信は前日に公任と一緒の時に花山院(邸)の前で乱暴を被っている。
翌「還立の日」に、源俊賢(959生)は道長の車の後ろの車に乗っていて、助言しているのであるが、「故源戸部俊賢」と呼ばれている。彼が民部卿になったのは、23年後の寛仁四年(1020年)十一月のことである。もう一人の民部卿が、源道方(969生)であるが、この時点ではまだ「職事」(しきじ、蔵人所の、頭と五位と六位蔵人の総称)であった。道方は文才を認められ、『枕草子』にも「琵琶いとめでたし」として出てくる才能豊かな人物。民部卿となったのは長元十一年(1035)十月で、この事件の38年も後である。

前日に花山院家人らから乱暴を受けた斉信・公任が道長に訴えているから、道長は“今度ばかりは花山上皇を懲らしめておこう”と腹を決めていた。紫野で「還立 かへりだち」見物に出かけた道長は、花山院が人目を引くいでたちの僧侶・雑人らを引き連れているのをみつけた。それで、職事・道方を呼んで
今すぐ宮中へ行き、紫野に花山院が来ているからこの場で昨日の下手人を拘束すると言って、執行許可をもらってこい
と命じた。
道方は、すぐに行きかけたが、戻ってきて、
宣旨が下されるとした場合、どなたを上卿にするのか予めお聞きしておかないと困ります
と言った。ちょうど、俊賢が後ろの車に乗っていて、
このような緊急時には、内侍宣でいいのだ
と言った。道長が認めて、この助言が通ることになる。
「上卿 しょうけい」は宣旨の作成をしかるべき役所へ命じる公卿(摂関・太政大臣・参議はふくまない)のこと、つまり、宣旨の書類上の主体(人格)のこと。緊急の場合などには「内侍名」で発する宣旨「内侍宣」の形式を用いた。これは、本来は内侍が扱う「内廷」のことに限られていたが、平安中期頃には、追捕のような緊急の場合、太政官の上卿を経ないで内侍が蔵人に検非違使へと伝達させる形式のものが多くみられるようになる。「典侍何某宣」という書式をもつが、蔵人自身が典侍の名を借りて宣する場合も多い(『古事談 続古事談』岩波書店「新日本古典文学大系41」p35の脚注を利用した)。

道長が「内侍宣」を許したので、あらためて道方は参内しようと内裏へ向かった。その途中、雲林院の門の辺りで行成と行き会った。
行成: 何事ですか

道方: 殿のお使いで参内するところです

行成: 何のお使いですか

道方: 申し上げにくいことで・・・
行成はピンと来て、人を立てて花山院に「追捕があるから、すぐご帰宅なさい」と連絡した。得意になって浮かれていたお供の者たちが蜘蛛の子を散らすように“逐電”してしまった。花山院自身も祭見物の車の後ろを隠れるようにしてすばやく帰って行った。
すでに見たように、『小右記』によれば、神館にいた役人を動員して花山院供奉人らの逮捕に向かった検非違使らは、紫野では取り逃がしてしまった。検非違使一行はそのまま花山院(邸)に向かい、包囲して下手人を出すよう圧力を掛けたのである。

花山院(邸)が検非違使に取り囲まれ、“下手人を出さないと、踏み込む”という恫喝に、夜に入ってついに花山院は屈して4人の下手人と引率の公誠朝臣を差し出したことは既述の通りである。この日のことは、『古事談』の記事が一番、想像力をかき立てられる。前引と同じ『古事談 続古事談』の読み下し文を使う。
此の度、院下手人を惜しまる。入道殿、使庁の下部[しもべ]に仰せて、院の築垣の上に昇らすに、院之を恐れて下手人を出さる、と云々。(同前p35)
「使庁の下部」というのは「放免」のことである。道長は放免を築垣の上にあげて、“これから暴れ込ませるぞ”と威してみろ、と命じたというのである。ここは、原漢文の方が迫力があるかもしれない。
院被惜下手人、入道殿仰使庁下部、昇院築垣上、院恐之被出下手人云々
道長が『古事談』のいうように「使庁下部を院の築垣の上に昇らせろ」と本当に命じたのかどうかは、他の傍証する史料がなく何とも言えないらしい(『古事談 続古事談』脚注)。だが、『古事談』のここの記述は、すくなくとも「使庁下部」が周囲からひどく恐れられる存在であったことを前提としている。そういう証言である。
既述のように『小右記』は翌十八日に、下手人四人と公誠朝臣が「去夜」出頭してきたことを記録している。道長のお灸は効いたのである。

道長は天皇・上皇に対してつねに丁重な扱いをしているが、それは儀礼的な形式に於いてであって、実質的な政治・財政・経済の世界に於いては最高権力を貫徹させていた。国家における宗教的なもの(天皇制)と国家実態との関係には、つねにこのような二重性があり、特に、花山法皇との関係では道長は祭見物の牛車の中でちょっと指示を出す程度で花山院を震え上がらせることができるような、そういう関係にあった。
くり返すが、道長は花山院に対するそういう関係をけして露わに出すことはなく、つねに丁重なへりくだった態度に終始していた。それが“誠実に”できるところに最高権力者道長の真骨頂があった。


「花山院のこと (第3章)」 終




「花山院のこと(第4章)」以下は、準備中です。   7月6日(2010)


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