き坊のノート 目次

田中一村   (上)

                   1995-4




 私が田中一村という稀有の画家を知ったのは、この画家を知っているほとんどの人の場合がそうであったように、NHKの日曜美術館というTV番組(1984)の紹介によってであった。というのは、この画家は画壇の誰にも知られることなく、奄美大島の借家で自炊生活をしていて没したからである(69歳、1977)。
 一村は1908(明治41)年に栃木県に生まれ、彫刻家であった父弥吉・稲村がその才能を見抜き、幼い頃から絵を描かせ「米邨」[ベイソン]という画号を与えていた。現在見ることのできる米邨作の南画などの手際は、幼少の手になった作品とは思えないほどの早熟ぶりをしめしている。芝中学を最優等の成績で卒業し1926(大正15)年には東京美術学校日本画科に入学した。同期生には橋本明治、東山魁夷らがいた。一村はこの段階までは、たぐい稀な才能を示す少年画家として、当時の最高のエリートコースを歩んでいた。実際『大正15年度全国美術家年鑑』(1925年12月発行)には、「超然並びに余技」の部に最年少で
   田中米邨  独学 19歳 四谷坂町44
と記載されているという(『アダンの画帖 田中一村伝』(南日本新聞社編1995 小学館)p32。この本は南日本新聞社中野惇夫記者によって、1985年に連載された記事をまとめたもので、翌86年に道の島社から出版。ことし出版社を変えて再版されたものである)。

 田中一村が画家としてのエリートコースから外れるのは、東京美術学校入学後わずか3ヶ月で退学してからである。退学の理由は結核の発病と困窮といわれているが、教授陣から学費なら何とかなるからと慰留されている(前掲書P31)。彼は自己の運命に引きよせられるように、幾つもの好意ある申し出をかたくなまでに拒絶した、と考えるのがよいのではないか。彼は南画家として立とうとし、「田中米邨画伯讃奨会」というものが催されたりして、国会議員なども含む少数の支持者が出来ていた。1931(昭和6)年、23歳のとき、すでに顧客のために南画を描くことに疑問を感じていた米邨は、南画の支持者とも絶縁する。父譲りの彫刻の才を生かして、帯留めや根付などの小物をつくって生活費を稼ぐことになった。木魚を作ってもいる。
 東京の貧しい借家暮らしで肉親を次々に失い、1938(昭和13)年に千葉市千葉寺にきょうだい3人(長女喜美子、長男孝=米邨、2女房子)で移り住む。当時千葉寺はのどかな農村風景の中にあったが、米邨は食料自給のために農業を習い、写生にも精を出した。姉妹は縫い物や絞り染めなどの内職で米邨の画家修業を支えていた。房子は嫁ぐが、姉喜美子は終生、弟の画業修業のために尽くした。弟の画業のもっとも深い同情者であった、といえよう(喜美子は麹町小町といわれて「家庭画報」のグラビアに登場したほどの美人で、琴は名取の才媛。女学校のころ久米正男からの結婚話もあった、とか(前掲書p152)。戦後、一村がカメラに熱中したときポートレートのモデルになった写真が残っている)。
 生来勤勉で研究心旺盛な米邨は熱心に農業を学び、陸稲・イモ類・野菜はもちろん果樹も研究し、接ぎ木の技術に殊にすぐれ千葉寺で有名になり、時期には接ぎ木の注文が多くてひっぱりだこであったという。花鳥画の伝統に従い庭には草花が植えてあり、幾種類もの小鳥を飼い、シャモを飼った。いずれも卵からかえし成長を見守り、精確なスケッチを残している。この時期の「野の馬」や「農家の庭先」などの身近に取材した作品は、地味であるがすてがたい魅力をもっている。

 田中孝・米邨が一村と号を改めたのは1947(昭和22)年で、この年、川端龍子の主催する青龍展に「白い花」が入選する。ヤマボウシの白花とみずみずしい青い葉が画面一杯にひろがり、背後の霧のなかに竹藪の奥行がわかる。左下にトラツグミが背を屈めた姿勢で静止している。清新な林の香りが流れ出てくるような作品。これが一村が生前に作品を発表した唯一の機会となった。翌年には作品評価をめぐって龍子と対立し、けんか別れになってしまう。一村は戦前も戦後も院展や日展などの公募展になんどか応募しているらしいが、そのたびに落選を繰り返している(彼は自分の画才はいささかも疑わず、人脈や画壇のひきがないせいだと割り切っていたという)。「白梅図」、「花と軍鶏」(1958)などの中期の優れた作品を残している。
 後年、一村を有名ならしめた奄美での生活は、1955(昭和30)年の旅行がきっかけである。石川県羽咋郡に建立される聖徳太子殿の天井絵の仕事があり、一村は薬草48種を描いたが、その後で四国・九州への画題を求めての旅行を計画した。和歌山から四国ヘ渡り、九州では鹿児島から種子島、屋久島、トカラ列島まで足を延ばした。南へ行くほど風光も植物も一村の絵心をそそり、いったん千葉へもどった一村は家をたたみ、姉喜美子は遠縁の家に身を寄せることにし、退路を断って画業三昧の放浪の生活を決心した。彼が千葉を立って南に向かったのは1958(昭和33)年の年末である。
 一村は奄美大島に落ち着いて数ヶ月目に、つぎのような書翰を書いている。(前掲書p111〜114)

  今、私が、この南の島へきているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなけ
  れば、人生修業や絵の勉強にきているのでもありません。私の絵かきとしての、
  生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。

  漠然と私が修業鍛練された人間となって、立派な作品と適当な衣服と、かなりの
  財産を作って、堂々と千葉へ帰ってくると、夢のような期待をかけられたら、実
  に迷惑千万なことです。私が千葉へ帰るときは必ず乞食です。乞食で帰っても受
  け入れてくれるのは姉一人です。

  きょうは、山からヨモギを取ってきて、スイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べま
  した。千葉寺で米を買う金がなく、スイトンのゆで汁から丼を洗った水まで姉と
  一緒に飲んで勉強したことを思い出し、泣きました。

 一村はこのときちょうど50歳で、「絵かきとしての最後」という意識がつよくあった。1961(昭和36)年に千葉の岡田家の襖絵をかくために半年間千葉に滞在した時と、65年に姉喜美子が死去しその遺骨を引き取るために上京した時と、77年死の年に千葉で全作品を友人らに披露した時を除いて、名瀬市でぎりぎりの日常生活と画業の生活を20年間続ける。
 5坪の菜園に得意の野菜を作り菜食を徹底する。しかし、持っていったわずかの貯金は切り詰めた生活費1年分にもならず、紬工場に彩色工として働きに出ることになる(だだし彼の彩色能力は抜群で、日給450円は有数の熟練工待遇であったという)。工場の同僚たちは口数の少ない一村を、内地で食い詰めた絵のうまい一種の奇人として遇したようで、芸術家として認識している者はいなかった。一村は5年間働き、1967(昭和42)年夏に60万円の郵便貯金を蓄えていた。この資金で3年間、画業三昧の生活に入る。紬工場を辞める時「3年間絵を描いたら、またここで働きます」と挨拶したという。
 3年後、70年に再び紬工場で働きはじめる。2年間働き72年から絵画制作を再開するが、この年すでに64歳で腰痛やめまいで体調を崩し、苦闘する。物価高騰は奄美も例外ではなく、翌65歳から国民年金(年額15万)をもらうが、せっぱつまって千葉時代の知人に絵を買ってもらおうとまでしている。「私の命を削った絵で、閻魔大王への土産品なのでございます」と手紙のなかで語っている2作品「アダンの木」や「クワズイモとソテツ」などはその苦闘の中で仕上げられていく。「奄美焼」窯元の宮崎鉄太郎と知合い、一村は晩年の作品を託す。
 76年、脳血栓で倒れ、リハビリに励む。回復し絵筆が握れるようになり、新しい借家に移って間もなく、77年9月12日心不全で死亡。前夜、ひとり夕食の準備中に倒れたらしく、刻んだキャベツがあり右手近くに包丁がころがっていた。

 『アダンの画帖』の筆者・中野惇夫が南日本新聞社の奄美大島支社に赴任したのが78年のことで、他の取材で宮崎鉄太郎と知合い、孤高の生涯を奄美で終えた画家の存在を知る。3回忌にはぜひ遺作展をしたいと考えていた宮崎氏の念願は、奄美高校の美術教師西村泰博の協力をえて、遺作展実現の運びとなる。西村氏が田中一村の画業を評価した最初の専門家ということになる。中野氏の記事の力もあって、名瀬市教育委員会が動き、79年11月に名瀬市中央公民館で3日間の遺作展が開かれた(絵12点、デッサン類数十点)。人口5万人の名瀬市で、3千人の市民が押し掛けるという異常な程の盛況であった。80年にNHK鹿児島放送局が「幻の放浪画家 田中一村」(15分)を放映。84年12月NHK日曜美術館で「黒潮の画譜 異端の画家・田中一村」が全国放送され、大きな反響があり、翌月1月16日に異例の再放送が行なわれた。『アダンの画帖』のもととなる連載は85年5月〜9月で、その秋に大阪・京都・鹿児島で作品展が開かれ、ことに鹿児島では4万5千人の入場というブームとなる(市の人口は50万)。93年、中学高校の美術教科書に一村の素描が参考作品として掲載される。94年劇団文化座が「夢の碑 私説田中一村伝」を上演した。95年春〜秋、全国で作品展(額装・軸装・屏風・襖絵など百余点、素描・色紙など数十点。3分の1は新発表の作品である。東京は秋に来る)。    (上)終り。


き坊の 目次

田中一村     (下)



 千葉のそごう美術館で田中一村展をやっていることを知り、3月の春休み中にでかけてみた。私はそれまで田中一村の作品を一度も見たことがなかった(印刷、TV映像を別にすれば)。また、千葉市に行くのは実に久しぶりで、大都市となった千葉市へいくのは初めてのことといってよい。千葉駅前は巨大工事が幾つも重なりあっている大量の人と自動車と建築重機と騒音の、雑然とした喧騒の渦であった。工事用の鉄板が広場を狭く通路に仕切り、見通しのきかない人々の群れが鉄板沿いに右へ左へと流れていて、自分もその中に入って、空を仰いで見ると鉄板の上に巨大なビルがいくつも延び上がっていて、それのひとつがそごうデパートであるのであった。。
 人の波にもまれるようにしてデパートに入る。柔らかい照明が工夫してあるが、エスカレータに乗って上がっていくと、各階に同じ巨大な花瓶に花が山をなして活けてあり、遠目には生花に見えるが、近寄って見ると精巧な造花である事が分かる。ニセモノメ!というような独り言が口から出そうになる。美術館に入るのには最悪の状態である。しかし、デパートの中の美術館というは、入るのに困ってしまうことがしばしばである。大売り出しの特別大催場の紅白の幔幕を横目でみながら美術館入口に達するというような場合が多い。縁日の見世物小屋を連想する。
 昼食がまだだったので、デパートのかなり高い階の吹き抜けに小川がしつらえてあるようなところのウナギ屋に入り、日本酒を体に入れる。体がほぐれて来るにしたがって、自分の気持ちも周囲となずんでいこうとしている。

(1) 軍鶏
 美術館は観客は多かったが静かだった。田中米邨十歳ごろの不思議な早熟ぶりを示す南画から展示が始まっていた。美しい花鳥図を幾つか見た後、私が「これは・・・!」と強い感動に捕らえられた最初の作品が襖絵仕立ての長大な「花と軍鶏」だった。
 背伸びするように姿勢を正して左を向く雄の軍鶏は、尾羽を勁く延ばしてあたりを威圧する。眼光あくまで鋭く、太い脚は激しい闘志を示している。この雄のさきに白い牡丹が咲き誇り、牡丹をはさんで雌がいる。雌はいくらか両足を開き、充実した体形をみせて、雄の鋭い視線を受け止めている。画面全体に強い緊張感がみなぎり、しかも、たとえようもなく美しい。
花鳥画の伝統をまっすぐに受けている正統な作品であるが、私はこの「花と軍鶏」から受けたような質の感動を、伝統的な花鳥画から受けたことがないように思う。小林忠は「江戸時代の花鳥画家伊藤若冲」と対比している(目録『田中一村の世界』所収「忘れられなかった画家」)が、若冲のいくつかの有名な鶏図を思いだすときそれはもっともだと思われるが、しかし、一村の軍鶏には若冲の鶏の奇抜さや大胆なポーズやときにどぎついまでの構図を通して感受されるあくの強い表現はない。一村の軍鶏は勁いけれども静かで優しい。それは、「白い花」の、画面から流れ出てくるのが感じられるような清新な林の香りと通底するところのものである。
当時(1953ころ)軍鶏の世界では全国的に名をしられていた田辺義郎という「軍鶏師」が千葉市におり、一村はそこに通って軍鶏について学びつつデッサンをした。田辺氏は一村の熱意を認めて、理想の軍鶏像を襖絵に残す、という注文を出した。田辺夫人のうめさんは、軍鶏師と孤高の絵かきという稀有の二つの個性のぶつかりあいを
毎日が、シャモのけんかどころの騒ぎではなかったよ。人間様のけんかの方がたい
へんだったんだから・・・・・・・・・(『アダンの画帖』p78)
と説明している。
 一村は人物画を描いていない。農民漁夫を画中に登場させた例はあるが、人物画ではない。まして自画像はない。生前の一村をよく知る川村昭というひとが次のように語ったという。
お気づきになりませんか。あのシャモの絵があの人の自画像ですよ。感覚を研ぎ澄まし、闘魂を燃やし、立ち向かってくるやつはすべて敵だといわんばかりに、眼光鋭くあたりをへいげいしている。そんな感じの人でしたよ。(同前p75)
 
  (2) 白梅図

 襖4枚に描かれた白梅の巨木である。右手に根があり、そこから太い幹が幾本ものび出している。左へ主幹が伸び上がり、それから下方へ出ている幾つかの分枝に、2、3分咲きの白梅の花がついている。幹にはウメノキゴケがつき、ヘラ状の羊歯が垂れ下がっている。枝振りは雄大ではあるが、特に印象に残るような奇態な屈曲を見せているというのではなく、ぶっきらぼうに直線状に延びた枝が空間を斜め十文字に斬るという構図である。人手のかかっていない自然の梅の巨木であると思う。ただ、これだけしか描かれていない。地表にも空にもなにも描かれていない。
 この白梅図のみどころは、左方に斜めに下垂する大枝に咲き始めた純白の梅花と鈍赤紫の莟が、画面の左上を埋めるように無数にちりばめ置かれているところである。早春の野末の梅の花の一輪一輪が互いに会話を交わしあっているような、輝きがみごとである。見る者はこのみごとな梅の世界に浸りこんでいるしかない。生きた梅花のひとつひとつに、様式化されて装飾単位になってしまわない個別性が感じられる。静寂でひんやりした春の野末の大気が感じられる。
 
 「クワズイモとソテツ」などの最後の力作を託した宮崎鉄太郎氏は「奄美焼」窯元で奥さんの富子さんが店番をしていた。「ステテコにランニングシャツ姿、地下たびをはき、左手にふろしき包みを抱え、右手のコウモリ傘をつえ代わりにつかって」いる老人をいつも見掛けていた。紬工場へ通う一村である。富子さんは老人にお茶をすすめ店先で休んでもらったことがあった。それから10日ほどして老人はまた「奄美焼」に立ち寄り、大きな花瓶に投げ入れた野の花が飾ってあるのを見て、花瓶に向かって会釈して話しかけたという。「ほう、お前さんたち、きれいに飾ってもらってよかったなあ。ここのご夫婦に拾われて本当によかった。お前さんたちの顔を見ると、いつも心がなごむ。ありがとう。」
 宮崎夫婦は老人の花に向かっての言葉に感動して、「先生、どうぞお掛けになってください」とすすめると、老人はびっくりするような大声で「宮崎様、先生とはなにごとですか。田中とお申しつけください」という挨拶が返ってきた。これが田中一村との出会いであった(1974年)。


   (3) 「アダンの木」
 
 一村の奄美の作品の中でも代表作といっていいだろう。156×76cmの大きな縦長の画面。下から3分の1位の低さに水平線があり、海は灰色である。一見、だれでも目を引き付けられるのは前面に大きく取り入れられているアダンの木である。黄色の実が画面中央におかれ、それに目が奪われてしまう。パイナップルの葉のような形の葉が左右に上下に手を広げ、くねる枝には未熟な実らしい鈍い色の塊がみえる。アダンは辞書では「阿檀」などの字があててある。タコノキ科の常緑小高木。奄美諸島、琉球諸島の海岸地帯に自生。高さ6m、径9〜12cmに達する。
 そごう美術館では、陳列の最後ちかく、奥まった突き当たりの壁にあった。私はそれまでに画集で見知っていたのでそれとすぐ分かったが、想像していたより大きく、離れていてもよく分かるアダンの木は大味で、それほどの第一印象ではなかった。初老の男が画面に顔を擦りつけるようにして見ているので、私は「アダンの木」を飛ばして近くにならんでいる一村の晩年の力作を見ていった。「草花と蝶」、「花と鳥」(これにはルリカケスが出ている)、「ダチュラとアカショウビン」、「エビと魚」、「ビロウとアカショウビン」など、など。
 花や鳥や葉や幹が画面一杯に描きこまれている。精確で微細な(しかし十分に図案化されデフォルメされてもいる)描写が、画面の隅々にいたるまで容赦なく徹底して行なわれている。伝統的な日本画の手法のような、余白的な扱いをしているところはまったくない。見る者は息詰まるような濃密な絵画空間にまず圧倒される。この点は、奄美に来てからの晩年の絵の最大の特長である、といってよいと思う。一村の絵のこの変貌(「白梅図」などの中期の傑作からすると変貌といっていいだろう)はどのようにしてなしとげられ、何を意味しているか、は一村論の重要なテーマであろう。
 一つ一つの晩年の力作にみとれ目からの快感に浸っていて、ふと気づいたのだが、そごう美術館が異常に静かなのである。客は満員ではないがかなりの入りである。近頃の美術館では中年夫人グループのおしゃべりは覚悟していないといけないのは常識であるが(日本の野球の途切れのない応援ととともに)、それがないのである。人々の吐息や移動する時の足音や衣擦れの音が会場を埋めているばかりである。人々はおざなりではなく、ごく真面目に作品に感動しているのだとおもう。
 私はそのことは素晴らしいことだと思いながら、一村の作品に一種の大衆性があることを指摘しておきたい。大和絵が本来持っている修飾性(きれいで目から入ってくる快楽)が花鳥画では極限にまで達することが可能で、その特長は意味性が抜かれている、ということだと思う。作品が観客を選別するという働きがほとんどない、といってもいい。
 驚いたことに「アダンの木」の前には、先刻と同じ初老の男がいた。感に耐えたような素振りで作品から数歩下がり、また、顔を擦り寄せるようにしたりもする。近くにいて私は彼がなにか呟いているのに気づいた。大半は意味のないことを呟いているようだったが「雲も素晴らしいじゃないか!」という句ははっきりと聞き取れた。
 私は隙をみて今度は自分の番だというつもりで接近し「アダンの木」の前に立った。作品に顔を寄せていって初めて分かったが、アダンの木の背景には、広い海岸のスロープと穏やかな波の打ち寄せる海が実に細密に描きこんであるのである。アダンの木の根元からはるか先の波打ち際まで小石が無数にびっしりと並んでいて、息を飲むような緻密さと美しさで描きこまれている。汀の先は灰色の海に弱い金色の光線があたり、穏やかな波が幾重にも幾重にも打ち寄せちかづいている。水平線のあたりは金色に煙り、スコールを孕らんでもいるらしい分厚い雲の峰が立ち上がり、黒い雲の腹の更に上まで視線をもちあげてくると、白くかがやく雄大な雲群が画面の一番上を占めている。「雲も素晴らしいじゃないか!」という先の男の感想が良く分かる。
不幸な兵士は空をあおぎ
翳りゆく運命の暗示を求めて
大いなる積乱雲のさけ目をみつめた
これは、鮎川信夫「海上の墓」の一節だ。南島列島に戦争のイメージが付きまとって離れないためなのか、あるいは別の理由かもしれない。私は30年ぶりに鮎川信夫を、「荒地詩集」を思い出した。
(下 終り)





き坊のノート 目次

田中一村 (補遺)

 

田中一村と小笠原登

1995-7 大江希望


 田中一村が奄美に行ったのは1958(昭和33)年12月のことである。一村は千葉の住居を売り払って退路を断ち、南島へ画業完成のためのあてどなき流浪に赴いたのであるが、千葉時代の禅の修養会で知合った千葉大医学部関係の人から幾つかの紹介状をもらっていた。その一つに国立らい療養所の奄美和光園の小笠原登医師あてのものがあった。一村は名瀬の「梅乃屋」という下宿屋に落ち着くと、すぐに和光園を訪ねている。

 (1)
 小笠原登(1888(明治21)〜1970)は愛知県豊橋市の浄土真宗円周寺という由緒ある寺の次男として生まれ、僧籍にあり終生独身で過ごした。祖父の小笠原啓導は同じ円周寺の僧侶であり、漢方医として癩病・淋病・梅毒・瘰癧・黒内障などの治療を得意としていた。真宗系の寺院では古くから癩病救済が行なわれており、その伝統を受継いでいた。登はその影響もあり医者を志し、京大医学部卒業が1915(大正4)年、同皮膚科の助教授として癩病治療にあたる。彼は黒詰め襟の学生服に黒ボタンをつけ、絶えず数珠を手元に置いているような医者であったという。同皮膚科で癩病の外来診療(皮膚科特別研究会)を実践し続け、ことに昭和10年代は国−癩学会の絶対隔離主義に抵抗し続けた。「外来診療」は在宅患者を前提としているので、患者全員を療養所に隔離するという国−癩学会の方針に真っ向から反するのである。1948(昭和23)年の定年まで同職にあった(この条は「資料・先駆者たち」ハンセン病資料館1993を参照した)。
 学生時代に皮膚科特別研究会にボランティアとして参加していた大谷藤郎(のち厚生省医務局長。医務官僚サイドからであるがハンセン病だけでなく精神病や難病等についても良心的な対応を示した人物)はつぎのように小笠原登を描写している。
一度先生に会った人は、いつも太い数珠を手にした浄土真宗僧侶としての柔和な物腰、人懐っこさ、思いやり、和漢洋の学才に通じ、そこから滲み出てくる知識人としての深い教養に魅了された。当時、犯罪人・非人のように取り扱われていたハンセン病の患者さんに対しても他の客人と同じように接し、くどくどした患者さんの質問や訴えに対しても、日が暮れて暗くなってしまっても答え続けられてうむということがなかった。先生の黒谷の家で起居を共にしたときは、朝夕の勤行、端座され合掌してされる食事作法など、親鸞上人が現代に生きておられるのではないかとティーンエイジャーの私の目には映じた。(大谷藤郎『現代のスティグマ』p86)
 癩病に対する偏見は、明治以前には「癩は遺伝病である」というものが大きかった。それ故に癩は不治であり、癩の家筋というような考え方が根強く残った(昭和前半まで残っていた)。しかし、癩菌が発見され「癩が細菌性の病気である」ことが判明しこの偏見は減少していったのだが、逆に次の二つの偏見「細菌性であるから伝染病である」、「病気として悪質である」が広まっていった。この二つの偏見が誤りであったことは現在ではまったく疑問の余地がないのであるが、国のイデオロギッシュな指導もあり(「民族の血の浄化」というような優生主義に根ざしたイデオロギー)、官民上げての絶対隔離政策を徹底する運動(例えば「無癩県運動」というような)などを通じて、国民の間に「常識」として定着していった。
 小笠原登の医学的な主張は、癩菌の伝染力はきわめて弱いものであり癩病をコレラ・チフスなどと並べて伝染病というのは誤りであること、むしろ癩菌に反応しやすい体質があるので体質改善を計るべきであること、正しく治療すれば完治するので決して病気として悪質ではないことなどであった。その根拠にたって、病人を療養所へ隔離することに反対し、「外来治療」を貫いたのである。
 小笠原登の第8回日本癩学会(昭和10年)での発表「最近2年間に我が診察室を訪れた癩患者の統計的観察(特に感染経路について)」には、つぎのような、一見不可解な数字が示されている。小笠原は癩の隔離政策に反対し京大において外来で診察していたのであるが、その癩患者382名に問診し、発病以前に他の癩患者との接触があったかどうかについてのデータをえている。

(1)見たことすら無し 177名 46.3%
(2)単に見たに止まる56名14.7%
(3)間接接触36名9.4%
(4)直接接触66名17.3%
(5)一族中に曽つて癩患者を有した者47名12.3%


遺伝病の迷信が消え去っていない時代であったから、虚偽の答えをなした者がいないとはいえないが、小笠原はその吟味も行って、これらの数字が一応信頼おけるものであるとしている。
 この数字で驚くことは、癩の罹患者の約半分は発病以前に癩患者を「見たことすら無し」としていることである。(1)と(2)を「接触なし」と考えると、じつに、患者の6割以上が「接触の経験なし」と述べていることになるのである。むろん、被調査者は癩患者であって、いずれかの段階で癩菌に感染していることは客観的事実なのである。したがって、この6割強の人たちは軽微な段階の発病者か単なる保菌者との直接/間接の接触があったと推量される。けれども本人は意識していないのである。このこと自体、遺伝病である可能性をかなり否定するものである(遺伝なら身近に患者がいることが普通だから)。
 遺伝病でないとするなら、癩菌による感染病という一点にしぼればよく、それで問題がなさそうに思えるが、そう簡単ではない。この論文後段で小笠原が報告しているが、この病気は「夫婦間の感染が甚だ稀有である」ということが注目される。接触で感染する病気であったとすると強い接触があるほど感染しやすいはずであって、夫婦間感染が稀であるという事実は理解しにくいことだ。癩菌の感染の機制は単純ではなく、ひと筋道ではないことが想像される。
 菌に触れることを「接触」というなら、発病と接触の強弱とは関係がない、と考えるしかない。一般に菌に触れ(接触)、菌が体内に侵入していずこかに隠れ潜み(感染)、発病するという3段階を想定することが(一般論として)可能であるが、
接触 → 感染 → 発病

この3段階はそれぞれにおいて人体と癩菌との未知の機制を含んでいて、けして各段階が直線的なものではないと考えるべきだろう。
 本人も意識しないほどの弱い接触でも発病するし(これが6割をこえる)、夫婦関係のようにきわめて強い接触があっても発病しないのが普通のこともある。これらをふまえて小笠原は、各個人の癩にたいする「感受性」という概念を提出した。
しかれば予の統計的事実を如何に考ふべきであらうか。予の統計的事実は、癩の生成には患者との接触以外に更に大なる条件の存在する事を示すものと解される。その条件とは感受性である。即ち癩の如き微弱な伝染病に於ては、病原体の問題よりも感受性の問題が重大である。予はこの条件の最も主要なものの一つとして、栄養不良の影響のもとに築き上げられた体質を考へている。 
現在では、癩菌にたいする特異な免疫不全の体質が定説となっている。先の大谷藤郎のまとめを参照しておく。
世界においても、日本の医学者においても、今日ではハンセン病は「ハンセン菌による感染症であるが、ハンセン菌を身体に受けても免疫学的特異な感受性のある人のみがハンセン病を発症するのであって、よほどの条件がかみあわない限り、一般普通の健康人にはまず発病しない」というのが通説になっている(大谷同前 p21)
しかしながら、第15回日本癩学会(1941(昭和16)年)においては、学会あげて小笠原登を否定する騒ぎになり、大阪朝日新聞が大きく取り上げた。梅毒学者として高名な村田正太議長が「大学の助教授たる人が根拠の薄い説を振り回すのは遺憾千万だ」と語り、大島療養所の野島所長は「わが国救癩国策たる隔離政策さへ危殆に瀕した」と語った(大谷前掲書p83〜96参照)。
 1995年4月、らい学会総会は長年にわたり日本の癩隔離政策を支持してきたことを反省し、らい予防法の廃止を求める統一見解をまとめた。
ハンセン病は当初から外来治療が可能で、特別の感染症として扱う必要はない。・・・・・・旧らい予防法(1931)も立法の必要はなかった。それでも現行法(1953)は旧法の基本原理(絶対隔離)を変えずに制定された。・・・・・・わが国は療養所中心のハンセン病対策を続けた。必然的に、社会との共存を訴える世界保健機関とは相いれず、世界から孤立した。・・・・・・らい学会が、これまでに現行法の廃止を積極的に主導せず、ハンセン病対策の誤りを是正できなかったのは、学会の中枢を療養所の関係会員が占めて、学会の動向を左右していたからでもあり、長期にわたって現行法の存在を黙認したことを深く反省する。・・・・・・隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、ハンセン病の恐怖心をあおるのを先行させてしまったのは、取り返しのつかない重大な誤りだった。(朝日新聞4月23日より)
小笠原登が国際的な医学常識に合致し、日本癩学会が独善的であったことは今となっては明からである。しかし、小笠原登が学会での孤立を恐れず断固として自説を曲げず治療を実践しえたのは、学的真理に忠実な近代的知性の故ではなく、浄土真宗の僧としての癩病者とともに歩いて来た長い伝統に根ざす信念があったからであろうと私は考える。

 (2)
 小笠原登は1948年に万年助教授を停年退職したあと、国立豊橋病院へ移籍。1957年から国立らい療養所・奄美和光園に移り、66年まで医師として勤務した。奄美和光園に来たときは69歳である。
 田中一村と小笠原登の両名がはじめて出会ったのは58年の暮のことで、一村は50歳、小笠原医師は70歳である。二人とも独身であり、硬骨漢であり、すぐ意気投合したようだ。一村は小笠原のいれる茶の湯によく呼ばれていたという。
 奄美に来て1年足らず経た59年秋に、一村は「梅乃屋」の下宿を引き払い小笠原の官舎に移り住み「変わり者同士の二人暮し」をはじめた。『アダンの画帖』は
食事は一村式の生野菜を中心とした菜食だった。園内の人たちは「似た者同士」の共同生活の目につくひとこまひとこまを、敬愛の念を込めておもしろおかしく語り合っては、わらいこけていた。二人は、官舎の縁側でよく声高に談笑していた。・・・・・・俗界を離れたような二人の暮らしぶりは、人々の好奇の目を引き付けるに十分な雰囲気を漂わせていた。(p127)
と述べている。残念ながら具体的に二人がどのような会話をかわしていたかは分かっていない。
 一村は園内に菜園を開いて野菜を育てていた。患者たちとの交流も始まった(1960年の患者数325名)。らい療養所の「患者」というのは、完治しても療養所から出て行けないという制度的な差別の烙印を押された人々であった(らい予防法が存続している現在、この状況は変わっていない)。患者たちは入園のとき、肉親と2度と会うことはできないと思って写真を持って来ており、一村に、その肌身はなさず持っている写真をもとにして肖像画を描いて欲しいという注文があった。一村の技量と誠実な仕事ぶりが評判になり、注文が殺到した。
一村は横向きの写真をもとに、正面をむかせて、きれいな着物を着せ、手前にはユリの花やヤマザクラをあしらい、生きている人のように肖像画をかいた。患者たちは、一村のかいた肖像画に手を合わせ、涙を流して喜んだ。長年肌身につけボロボロになった両親の写真を取り出して、一村に「もう一度、親に会わせて下さい」と泣いて頼む老女もあった。色紙大の肖像画は、どんなに念を入れてかいても、一枚千円だったという。(p131)
 一村の父稲村は彫刻家であったが、華道教授で生計をたてていた。「投げ入れ」を主としたいわゆる「文人生け」であった。その影響もあり一村はつねに生け花に興味を持っていたようだが、奄美に来たばかりの時、下宿屋「梅乃屋」の玄関にアダンの葉を生けてあるのに注目し、宿の女将笠畑ナオの師匠の福田恵照を知る。恵照は奄美の東本願寺住職で、小笠原登とも親しい人物であった。一村と恵照が小笠原の官舎に集まり、茶の湯を楽しんだ後、3人で生け花談義に時を過ごしたこともあったらしい。奄美の生け花は奄美の自然を生かしたものであるべきだという考え方で、一村と恵照が山に入って糸芭蕉(芭蕉布の原料)やツタなどを採って来て、大ぶりの生け花にまとめて和光園の食堂にかざった。「大胆な生け方で、奄美の自然がよく生きており、好評だった」(p128)という。

 一村と小笠原登との共同生活は半年足らずのものだったようだ。稀有の人物同士の出会いであるが、具体的な相互の影響の証拠は残っていない。70歳と50歳の専門の異なる個性であるから、直接的な影響は残らないのが普通であるかもしれない。しかし、一村の方からすると、医師として学者として孤立を恐れずに生き抜いた20歳年上の小笠原登の生き様には勇気づけられるものがあったであろうと想像される。
 60年の前半に、一村は千葉の岡田藤助氏に招かれ、岡田家の襖絵を描くために翌年春まで滞在している。岡田氏らの強い慰留を振り切って、ふたたび奄美大島にもどって来た一村は、62年に借家を借り、紬工場で染色工として働きはじめる。

 一村の晩年を飾る「アダンの木」などの異数の作品群は、ほぼこの後の「昭和40年代(65〜74)」(カタログ『田中一村の世界』による。以下の題名も同じ。)に描かれている。異数というのは、伝統的な花鳥画の表現を突詰めそれを超えて「現代絵画」としての表現の位置を確保しえている、と思うからである。その作品群の中で最も早いものは、「ソテツとアダン」(1961)・「海辺のアダン」(昭和30年代)・「パパイアと高倉」(昭和30年代)などであろうと思われる。いずれも「一村」と署名があり、全面に近景の植物の細密な描写があり、小さく遠景に岬や島や家がおかれている。この構図は最晩年まで続くが、署名はなくなる。ただ、ここにあげた晩年初期の3作品はいずれも比較的淡彩で仕上げられているが、晩年の作品群の最も特徴的な作品には、大和絵風の濃彩をほどこした「クワズイモとソテツ」や、画面全面を細密描写でうめつくした「ビロウとコンロンカ」、「ビロウ・コンロンカに蝶」、「ビロウ樹」、「エビと魚」(これには「古希一村」と署名あり、1975か)などがある。

 私は、遠景をもたない細密描写であってしかも花鳥画風の明るさを持った「草花と蝶」や「ダチュラとアカショウビン」などが、一村の到達した最後の境地だったのではないかと想像している。奄美の生物たちを描くことを喜びとしているように感じられる。




「草花と蝶」
(昭和40年代 155×73cm 絹本 NHK出版『田中一村作品集』よりデジカメ撮影)



                               (補遺 終り)

「補遺2」はこちら。
田中一村記念美術館訪問記


烏合の会 目次  き坊の 目次



inserted by FC2 system