田中一村 補遺2


田中一村記念美術館を訪ねて (4月4日 2002年)


   

 田中一村記念美術館は奄美大島の「奄美パーク」のなかにあるひとつの施設である。
 一村は50歳で奄美大島にわたり、70歳で死ぬまで紬工場で働きつつ絵を描いた。奄美ではほんの数名の身近にできていた同情者(という表現があたっているだろう、尊敬の念も含んだ同情である)以外には交わる人もなく、まして理解されることなく生きた。同情者たちは、一村の優れた人品と絵を描くことへの常軌を逸した真剣さにうたれた庶民たちであった。彼らは一村作品の絵画としての質や意味を理解したうえで同情したり尊敬したりしていたわけではない、と言っていいと思う。その点についていえば、いま田中一村記念美術館を訪れる大部分の観光客も同じであろう。
 一村の没年は1977年であるから、25年前である。その四半世紀の間に何があったか。バブル経済の急騰と没落があり、NHKなどによる田中一村の画業の発掘と全国的な展覧会があり、かれは有名画家のひとりになった。まったくの無名と不遇のうちに営々とひとり南の島で画業を積んでいたというNHK受けしそうなストーリーとともに。だが、それは田中一村のあずかり知らぬことである。
 

 「奄美パーク」というものをまず説明しておく。
 日本の多くの観光地にはたしかに「パークの思想」とでも呼びたいような「観光思想」があると思う。それはバブル経済の落とし子のひとつである。それは観光についての方法論であるが、たんなる方法に終わらずに「何を見て、何で満足するか」という観光に関してある「全体性」をもっている思想であると思う。小論はそれを述べるところではないが、わたしの問題意識を、以下ですこし述べてみる。
 光・風・夢あふれる/未来へのゲートウェイ
これはパンフレット「奄美パーク」の冒頭のキャッチコピーである。旧奄美空港敷地を使った広大な敷地内に、「奄美の郷」と「田中一村記念美術館」のふたつの大きな施設がある。これ以外は、展望台・多目的広場と野外ステージ・広い駐車場がある。パンフレットの文章を示しておく。
奄美の美しい自然や多様な歴史、文化をビジュアルに紹介するとともに、人々の交流の場となる「奄美の郷」と、奄美の自然を描き続けた日本画家、田中一村の作品を紹介する「田中一村記念美術館」の二つの施設を中核とする奄美群島の新たな観光拠点施設です。
「奄美の郷」というものをご存じない方は、ここまでの説明でどういう施設であると想像なさるであろうか。実は、わたしは前日奄美大島に着いて、簡単なパンフレットを奄美空港で手に入れていた。それをざっと見たうえで行ったのであるが、入口の若い女性に「ここ、何ですか」と尋ねてしまった。どこから入ったらいいのか分からず、案内の女性につい声をかけてしまったのである。昔(戦争直後のことであるが)産業博覧会というものが盛んに行われたことがあったが、あれの現代版というふうなものである。(右図はパンフレットの表紙。白いドームが「奄美の郷」。その手前に黒い小ドームの上に白い帽子が見える3つの建造物が「田中一村記念美術館」。超望遠撮影なので遠近が圧縮されて見えている)

薄暗い空間に案内され、足をおく位置が床に描いてあって、案内嬢に「その壁をご覧ください」と丁寧に言われる。すこしかがんで見下ろすような位置に立体映像がでる。ウミガメが泳いでいて、熱帯魚が出てきて、・・・。「さらにお進みください」という声で前進すると、床が透明な板になっていて足元が直接海中になっている。
 「奄美の郷」という施設そのものは、木造骨組のドーム式の巨大なもので、その1階がテーマ展示の会場。わたしが薄暗い入口から入ったのは「海の道」というテーマ展示の場所だったわけだ。展示はさらに「シマの道」(奄美諸島の民俗紹介)と「森の道」(陸地の生態紹介)とあって、3部構成になっている。大きな画面、動く映像、音響も立派で、ずいぶん金がかかってるなあ、というのが感想。セコくなくて大盤振る舞いなんだけど、博覧会とちがう恒久施設としては古くさくなったらどうするんだろう、と余分な心配をしてしまう。そういう心配をさせるような、立派さと軽薄さが同居している。軽薄さは「バーチャル」な展示に重点をおいていることに由来しているように感じられた。
 ついでに、入場料は「奄美の郷」300円、「田中一村記念美術館」200円、共通券400円という安さ。入場料収入は問題にしていないという感じだが、美術館200円というあまりの安さに、これから行く田中一村の展示内容が心配になってくる。
 わたしが訪れた日は春休みの終わり近い木曜日で、客はマアマアの入り、というところだった。混み合ってはいないが閑散というほどまばらではない。しかし、じっくり足を止めて展示を見ている人はまずなくて、キョロキョロしながらつぎつぎに移動していく。

 「パーク」の特徴をいくつか上げておくと、
  1. バーチャルな展示法が多い たいていテーマが設定してある
  2. 移動しながら観る 
  3. 広大な敷地、××広場という施設がある
  4. 食堂が唯一のくつろいで停滞できる場所
 

 「田中一村記念美術館」は「奄美の郷」巨大ドームから出て、100mちかく歩いたところに、南島の高床式建物をイメージさせる構造物が3つ、浅い池のうえに造ってあって、それら同士は渡り廊下で接続している。各構造物は、池に足を下ろした数本の柱の上に窓なしの小ドームが乗ってるもの。ドームの頂上が四角くくりぬかれた上に白い帽子の乗った明かり取りになってる。
 渋い朱色の制服を着た案内嬢の会釈を受けながら、木目も美しいフローリングの長いアプローチを行く。アプローチや接続部の渡り廊下はガラスをふんだんに使っているので池や高床式構造物やが眺められる。池の面には、わたしが昨日初めてみたリュウキュウツバメが数羽さかんに飛び交っている。池の周囲の地面はおそらく奄美大島の砂をそのまま使っていると思うが、白っぽい黄土色の砂が敷き詰められている。まぶしいほどの明るさで、そこに建物の影がくっきり落ちている。イソヒヨドリが数mのところに来ているのがガラス越しに見える。
 「田中一村記念美術館」はなぜ「記念」を入れたのか不明であるが、展示しているのは一村の作品だけである。構造物が3つあり、常設展示が3室に分かれていて、「幼年期から千葉時代」、「千葉時代から奄美まで」、「奄美時代の代表作」の3期にわけた展示になっている。展示品数は、さして多いとは言えない。ワープロ作成の「展示作品(平成14年1月10日〜4月9日)」という目録(A3用紙1枚)を数えると、45点ある。この日付からすると、年に3回の展示換えがあるようだ。
 あとで売店で買ったのだが、立派な『田中一村−収蔵作品−』(NHK出版)という「目録」も用意されている。だが、それとは別に当日展示してある作品を展示順にならべた簡単な目録が作成してあるのは、美術館として当然だと思うが実際には良心的な方だ。わたしの経験では、ワープロ作業で簡単に作れるはずの作品一覧表ていどの目録さえない美術展や展覧会がかなりある。正式の目録もなく、絵はがきのようなものもなく、そのうえカメラ使用お断り、という展覧会に入ると腹立たしくなってくる。鑑賞しながら目録に簡単にメモを書きこんでおくと、あとでその展覧会を思い出すときにとても便利なものである。いや、何も書きこまなくても、作品名が並んでいる目録だけで大いに助かることがある。(美術館・博物館では、基本的にスナップ・カメラの使用は認めるべきだと思う。フラッシュ・三脚禁止などの一定の条件をつけて。)
 
 長いアプローチの先に案内嬢がいる小テーブルがあり、そこを右折すると第1室の入口となる。入口には壁一杯の白黒の田中一村の写真が掲げてある。千葉のどこかの庭に立っている写真だったと思うが、等身大以上の大きさの写真で、ちょっと圧迫感を覚える。
 やや照明を落とした展示場に、軸装作品が何点もさがっている。10歳のときの「ハマグリ」、これは色紙だが前に見たことがある。一村の早熟ぶりを示す作品として有名。10代の達者な山水画がならび、そのあと「倣」の字を冠した南画作品、「倣木米」とか「倣蕪村」とかが並んでいたが、こちらは40歳頃の作品。「コレクターの注文に応じて描いた」という。
「倣」は先人に学ぶという自覚のもとに描いていることを示しており、10代の作品とは明らかにちがう、
という解説が付いていた。この解説には感心した。
 しかし、この室で作品として見るべきは「千葉寺風景A」だった。とても大きく感じる画面で(77×94p)、一村の冴えた技術を強く印象づけられた。影絵的な逆光で、色彩的には単調な平野の浅い杉林である。手入れのよくされた足の長い杉の林立、暗い樹冠の大胆な扱い、白雲の動きも素晴らしいまぶしい空。杉林の下に黄色い牛がおり、大八車がみえる。一番手前が合歓の木で、合歓の花の薄紅が効果的である。この絵はじっくり眺めていて惓きない。(上図は『田中一村作品集[新版]』NHK出版p73より)
 
 第2室への渡り廊下には厚い板を使った木製イスがおいてあって、単純なフローリングによく映えている。余分なものがないのが好ましい。しかし、第2室の入口には再び壁一杯の一村の写真がある(どういう写真だったか忘れた)。
   この室では「ザクロ図」が圧倒的だった。枝つきのザクロの実が左に口を開けていくつか転がっている。枝が黒い墨で微妙な屈曲を見せながら一気に横へ延びている。ザクロの枝のしなるけれどもゴツゴツしている感じがよく出ている。どう描けばこんなにリアルになるのだろうと思って、しげしげと見ても、何の不思議もない。単に手練のわざで横引きした、というだけなのである。黄葉が枝に残って散りがてにしているのが実に軽やかな筆致で処理してある。77×95pだからかなり大きな絵である。(上図は『田中一村の世界』NHK出版p29より)
 この室には、昭和30年の四国・九州旅行のときの色紙や、奄美大島に移ってからの魚を描いた作品がいくつか展示してあった。「熱帯魚」など。
 前者の旅行で一村は、種子島・屋久島・とから列島まで足を延ばしている。一村は南に下るほど色鮮やかになる植物や自然風物に魅せられたようだ。が、昭和30年の旅行のあと、姉の喜美子さんに南国の魅力について飽くことなく語っていた、という。彼が奄美大島に渡るのは昭和33年12月のことである。彼は奄美大島を訪れるのはそれがはじめてであった。(『アダンの画帖』p82以下参照)。
 
 第3室の入口にも一村の壁一杯の写真。海岸でアダンの木の写生をしているポーズの写真であったと思う。「奄美の春」と題した室で、一村を有名にした奄美での作品のいくつか、「ビロウとアカショウビン」、「パパイヤ」、「ビロウ・コンロンカに蝶」などが掲げられ、他に色紙数枚と、印刷掲示物があった。
 印刷物は一村が奄美に来たばかりの頃(昭和33年)、与論島旅行をしたときの長文の手紙のコピーだった。与論島の「民のあり方が数千年の太古に戻ったようだ」とか、隣室で蛇皮線をかき鳴らし深夜までうたい踊り騒ぐのを興味深く瞥見して、「さながら泉鏡花の小説の一章のようだ」と述べていたりする。わたしは時間をかけて全文を読んだが、この手紙は中野惇夫『アダンの画帖 田中一村伝』(小学館1995)にその概要が紹介されていて、知っていた。また、別にスケッチ帳に書き留めていたという俳句のような短詞がかなりの量掲示してあったが、これを見たのははじめてだった。「熱砂の濱あだんの寫生吾一人」が印象に残り、メモした。


 わたしはここまでこの美術館の長所をげてきたつもりである。残念ながらこのあと、数点の欠点を述べなければいけない。しかも、かなり致命的な。
 まず最初は模写(レプリカ)作品の展示の問題である。この美術館にはいく枚かの模写作品が展示してあるが、困ったことに一村の作品と完全に並べて展示しているので、続けてみていって「アレッ変だ」と思って説明札をみて模写であることに納得する、ということを何回か繰り返すことになる。ちゃんと見れば紛れないのだが、一見すると区別できないような程度の模写である(写真版ではない)。もし、どうしても模写作品を展示したいのであるならば、額装をはっきり変えるなどの配慮が欲しいところである。というのは、何度か模写か本物かというふうな見方を強要されると、その後も、次の作品の前に立ったとき「本物かな、模写かな」という雑念を振り切り難いのである。この美術館は唯一の田中一村の美術館として多くの作品を所蔵しているであるから、作品数が少なくて困る、ということはないはずである(立派な目録『田中一村 収蔵作品』には所蔵作品一覧表がある)。模写を見せるぐらいなら、1枚でも多くの一村の作品を展示すべきである。高い航空運賃を払って飛んできた客としては、心底そう思う(東京からひと飛びで支払う国内航空運賃の最高額が羽田−奄美4万円だそうだ)。
 だが、模写作品をなぜ展示するかを考えると、この美術館のコンセプトにかかわる問題にたどり着くので、ことは重大だと思う。

 一村が常々「閻魔大王への手みやげ」と言って手放したがらなかった晩年の大作「クワズイモとソテツ」や「アダンの木」(いずれも個人藏)が模写で展示してあった(後者はワープロ印刷「目録」に載っているのでまちがいない。前者はなぜか「目録」にはないが、わたしの記憶にはある。ワープロ印刷「目録」ではただ作品名と制作年を示すだけで模写のことには触れていない)。
 それらの大作はたしかに圧倒的な存在感があり傑作である。今後長く記憶される日本絵画の名品に入るだろうと思う。だが、この美術館は、そういう大作を所蔵していないからといって、なぜそれらの模写作品を掲げたくなったのであろうか。しかも模写であることに一見気づかないような展示法で。一村作品の「晩年の傑作」といわれるいくつかを、模写作品によって補ってでも、展示したいという展示コンセプトは何を意味しているか。この美術館が、個々の所蔵作品を展示することを超えた「或る価値」をこれら“模写作品で補った一村作品全体”に見出そうとしている、ということを意味するとわたしは考える。すなわち、その見出された「或る価値」は、「晩年の傑作」がなければ展示が完結しないような「或る価値」であるということを意味する。
とすると、この場合これらの模写作品が担わせられているのは「晩年の傑作」という“名札”でしかない。つまり、「晩年の傑作」の内実よりも、“あの「晩年の傑作」”という名札が必要であったのだ。「晩年の傑作」へ向けての系列として作品評価を設定するというコンセプトを美術館は持ち、これらの模写作品はそのコンセプトを担わせられているのである。しかも、この美術館はそのコンセプトをこそ展示したいと考えている。こういう展示法は、鑑賞者に展示されている作品のひとつづつが持っている輝きを、個別に踏みこんで鑑賞するという姿勢をとりにくくさせる。個々の作品が持っている輝きは、その作品に向かっていた一村という存在の、その作品の制作時点でのかけがえのない輝きであるという観点である。ある作品の制作時点には、一村にとってその作品の現在があるだけで、何年か未来に逢着するであろう「晩年の傑作」があったわけではない。一村は「晩年の傑作」のために生きていたわけではない、という考え方が当然ありうるのだから。
 この美術館のコンセプトは、一村の作品を「人生論」的にみようとしていると言っていいだろう。早熟な少年画家として出発し、当代一流の有名画家たちと東京美術学校日本画科で同級でありながら敢えて独りの道を選び、最後は南島で清貧のうちに大作をものし無名のうちに死んだ。この美術館のコンセプトは、そういうNHK式の「感動人生」を下敷きにしている。感動人生が主役で、個々の作品はそれを表現するための材料である、という位置づけとなる。
 第1室から第3室まで、室の入口に巨大な写真を掲げるという展示法にも、このコンセプトは貫かれている。一村の巨大写真は、彼の「感動人生」を表現しておりそれを鑑賞者に押しつける効果がある。そもそも、3室に分かれた展示が「幼年期から千葉時代」、「千葉時代から奄美まで」、「奄美時代の代表作」と年齢順の展示になっていたこともこのコンセプトと関連していたことが納得される(画家の作品を年齢順に並べる展示法は珍しくないが)。
 
 個々の作品の鑑賞に踏みこみにくい展示コンセプト、ということに関連して、2点気付いたことを記しておく。ひとつは、作品名・年代を示した説明札が少し曲がっておかれている所が何ヵ所かあったこと。本年1月以来の展示期間の最終時期であるためにそういうことも生じるかと思うが、学芸員が展示チェックのつもりで開館前に見回れば、簡単に直せることである(警備員は何度か巡回してきた)。礼儀正しく制服も魅力的な案内嬢(教育訓練をちゃんとやったと思う)に比較して、お粗末である。
 もう1点は、売店で絵はがきを買おうとして、「ザクロと秋色を3枚づつと・・・」と頼んだら、売店の女性は「セットでしかお売りいたしません」と気の毒そうに言うのである。そういう決まりになっているという。美術館の売店では自分で印象に残った作品を絵はがきで買うというのが本筋だと思う。非常に混み合う場合などのセット販売はまた別だが、ゆっくり時間をかけて見ている客は自分以外にいないような美術館で、売店に寄る人も稀なのだから、いくらでも対応できるはずだが。売店嬢の礼儀正しさに負けて(この訪問記はこういうの多いね)、絵はがき3セットと目録『奄美に描く 田中一村 田中一村記念美術館収蔵作品』(これが、正式名)を買うことにした。

 わたしの指摘した問題点はつぎの3点であった。
  1. 展示全体のコンセプトが「人生論」的。NHK的。
  2. レプリカを区別しない展示は、個々の作品を「作品名札」の位置に貶める。
  3. 表示板の曲がり・絵はがきの売り方など、隅々までのこころ配りが不足。
これらをまとめて一口でいえば、NHK的押しつけと「パーク」思想のない交ぜの中に、一村作品が並んでいる。「田中一村の孤高の人生」が見せ物になっている。これが、わたしの田中一村記念美術館批判である。

ハコモノ行政という言い方がある。離島振興策などの予算とどのようにかかわるのか、わたしは調べていないが、奄美大島を歩いていると、そういう語を身にしみて感じることがしばしばあった。この美術館はハコモノであるが、施設全体としては「パーク」思想というのがいいかもしれない。わたしは数日後に「マングローブ・パーク」へ行ったのだが、そこでも同じことを感じた。そのパークはマングローブそのもの以外に、水生博物館と展望台があり、やはり広大な広場と駐車場がある。広い食堂がある。マングローブの中をカヌーを漕いでいく「探検ツアー」があり、わたしも参加したがとても面白い。一人乗りのカヌーを操りマングローブの水面に出てみるのはバーチャルではない体験であって、緊張感があり達成感もある。
水生博物館には、リュウキュウアユの大きな円形水槽があり、ていねいな説明もあるのだが、足を止めてちゃんと見る人は少ない。リュウキュウアユを放してある人工の川があり、その下をくぐる小トンネルがあり、滝壺の底から鮎たちを眺めあげる施設があったが、大きな施設の割りに人気がまったくないようだった。
参加型の施設やコースの重要性を「パーク」の思想はもっと意識する必要がある。ディズニーランドなどの人気のある「パーク」は、参加型・体験型でない施設はつくっていないのじゃないのか(実はわたしはTDLもTDSも、一度もいったことがないのです)。半分真面目に言うのだが、「食堂」を観るだけだったり通過するだけだったら食堂に行ったとは言わない。「食堂」は確かに参加型なのだ。

 奄美大島には、主要地や観光施設どうしをむすぶ立派な道路がある程度できている。トンネルの多い、難工事だっただろうと思わせる快適な道路である。わたしは後に奄美北部の「自然観察林」をめざして一日中林道を歩くことで体験したのであるが、林道を無用に舗装しているところ、ゴルフ場開発といって原始林をひろく皆伐した無惨な跡などがある。金作原[キンサクバル]原生林への林道(未舗装)の扱い方にも疑問を覚えた。
奄美の島としての全体の方向性が観光にあるとしても、それを統御するコンセプト不在を強く感じた。個々の施設への予算投入がわれがちに行われていて全体の調和を欠いているという悲しむべき状況である。
 
 

 「パーク」に行ったらお約束の食堂に入らないとパーク見学が完成しない。
 美術館を出て、「一村の路」と名付けられた砂利道を歩くと「壁泉」なるコンクリートの岩組と滝がある。真夏のような日差しと青空は悪くないのだが、歩いているのはわたし一人である。植え込みや道の全体の雰囲気がいかにも人工的なしつらえで落ち着かない。広いゆったりした階段を上っていくと、先の「奄美の郷」ドームの2階のドアに達する。そこは食堂になっている。
 食堂はドームの面積の半分を占めていて、「奄美の郷」のイベント広場を見下ろすようになっている。窓側は海岸方向で、海岸まで数百mあるが、青い太平洋が広々と水平線がよく見渡せる。6割ほどうまった席の間を歩いて、わたしは、イベント広場側の席に座った。イベントをしていないイベント広場は、客足の途切れた駅のホールのようなものである。はじめに見学したテーマ「シマの道」の映像に附属していた音楽とアナウンスが聞こえている。一日中何度も繰り返してやっているのだろう。
 「奄美の弁当」というような定食を注文し、焼酎を頼む。焼酎を頼めば、黒糖焼酎のお湯割りがすぐ出てくる。昼過ぎであるが、アルコールを頼むことにまったく抵抗感がない。生ビールを飲んでいるテーブルの方がやや多いようだった。子供連れが半分あって、けっこう騒がしい。家族連れが注文する品で「ケイハン」と盛んに言っていた。わたしはその時には分からなかったのだが、「鶏飯」である。ささみ肉や卵焼きなどをご飯の上にトッピングし鶏がらスープをかけて食べる。名瀬には鶏飯専門店もあることを知った。
   「食堂」ではこういう新知識も手にはいるし、ふんだんに方言が聞ける。生き生きした祭りの雰囲気がある。「奄美の郷」や「田中一村」の高尚な見学を済ませて(通り過ぎてきて)、リラックスして飲み食いしましょう、という雰囲気である。
 ドームの天井は木組を見せたとても面白いもので、はいり込んだイソヒヨドリが木組の間でさえずっている。わたしは焼酎は2杯で止め、名瀬行きのバスの時刻を調べてもらった。  (2002年6月19日記)
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