炭 焼 と 魚




       一 章   

 今から約二十年ほど前に、私は和歌山県の古座川町、高池小学校樫山分校なる僻地の学校に赴任し、ここで四年間を過ごした。昭和四十四年四月一日から昭和四十八年三月末日までの四年間である。それまで私は紀伊半島熊野の海岸線の小さな学校を転々としていた。それもいわば小遣い稼ぎでやっていたようなものであった。
 熊野というところは昔から貧乏なところで、それはいわば昔から置かれた地理的条件に由来するものであろう。南は太平洋の荒波に洗われ、北は山々が雪崩込み、その狭間には猫の額ほどの農地がひしめき、大小の河川が南北に貫いて走るといった土地柄である。産業はと言えば、この地理的自然条件に依存するより仕方なく、沿岸添いでは漁業と農業、山間部では林業と農業といったところが基盤をなしてきた。したがって、山林主でもないかぎり、一般は貧しい生活を強いられてきたといえる。
 貧しさは貧しさゆえに冒険心を生むものでもある。これは一昔前の話であるが、とくに私が子供時代を過ごした串本町周辺では、生活の息苦しさから逃れるために遠くアメリカやハワイに移民したようである。それも密航という手段によって彼らなりの活路を求めた。船倉の石炭の中に自らの身を埋めて幾日も幾日も耐え、遥か彼方の楽園を求めたという話である。やがて、サンフランシスコ湾が彼らの眼前にかすかに眺望できたとき、炭塵で汚れた肉体をざんぶと海に飛び入れた。幸運な者は泳ぎ着き、不運なものはそのまま海の藻屑となって消えた。それは遥かな昔、海上の彼方に極楽浄土を夢み、読経しながら即身成仏したと伝えられる渡海上人の姿を彷彿させるものがあった。彼等は生きんがために死に、死なんがために死んだ上人の違いはあるとしても、そこには何か熊野の風土の今昔を貫く因縁のようなものが感ぜられる。今思えば、ベトナムや中国からのボートピープルとまったく同じだったわけである。
 戦後、異国での貧しさに耐えぬいたある者達は、一様にアメリカナイズされた姿で帰国したとき、郷里の人々は彼等を羨望視したのは当然だったろう。労働で身をすり減らした代償にいくばくかの貯金を持ち帰り、原色華やかなアロハを着た彼等は、しかし最早人生の大半を終えていた。ハワイに行った者は焼きだまエンジンなるものを普及させ、とくに紀州最南端の串本町では「ケンケン」と称せられるトローリング漁法によって、鰹、ヨコワ(鮪の子)などの漁獲量を伸ばしていった。そして、戦後いくばくかの年月が流れた後も、アラフラ海の真珠を求めて遠くオーストラリアに出かけていった。いずれにしても根の国の山々に背後から追いたてられた彼等には海においてしか生きる場はありえなかったことは事実であった。その他の人々は異国の年金によって細々と老後の生活を送っていたのであった。
 話は横道に逸れてしまったが、以上のような風景を幼い頃に見ながら育った私は海岸でなく、山間の生活というものにはほとんど無縁だったから、樫山なる僻地についてはまったく無知であった。
 半島はほとんどが山ばかりで、そのため山間部に入ると小さな学校が多く点在している。私の勤務する東牟婁郡では僻地の学校に級数が付けられており、それは一級から四級まであって、数字が高くなるにつれて不便な土地になっていく。級数の基準は役場や郵便局、医療機関、交通機関、一般商店などの有無によって分けられていた。そして、その僻地校に一年勤務すると、僻地点数なるものが加算されていく。たとえば、一級地であれば一年で一点、二年勤めれば二点、三年で三点・・・という具合に増えていく。どうしてこんなことをやっているかといえば、教職員の移動を公平にするために始められたものである。人間の人情からいって、だれも不便な僻地で長く生活したいとは思わないのが当然で、一日も早く海岸線の便利な土地で勤めたい、暮らしたいという願望がある。したがって、この移動基準点数制なる制度はこの願望によってできたものである。僻地校で勤務するものは十二点に達すれば平地校(海岸、または海岸に近い学校)に転任する資格を得ることになる。このようにして教員移動を平等、公平化する趣旨で始まった点数制ではあるが、現在では破綻が生じてきておりり、かつてはあれほど嫌がっていた僻地に逆に行きたがる教員が増えてきた。それは教育に情熱を燃やし、恵まれぬ僻地児童、生徒のために全身全霊を打ち込もうといった教師が多くなってきたためではなく、中にはそういった立派な教師もいることはいるが、大半は、平地校の生徒に非行が多く、校内暴力や登校拒否をはじめとして、生活指導などの面でいろんなやっかいな問題が多く出てきたために、同じ勤めるならば気楽な学校でということで、僻地を希望する者が多くなってきた。
 樫山分校は当時僻地級数四級地で点数は一年六点。したがって二年勤めれば海岸に出られる学校であった。しかしこれは正式に教員資格を取っている教諭に限られたもので、私のように臨時教師という身分であちこち転々としていたものはあくまで対象外であった。この分校に赴任することになったいきさつも、半年ほど勤めた前の学校の校長が、どこに行くあてのない私の身を心配してくれて、「きみ、樫山へ行かんか」と言うので「はい行きます。」と即答して決まってしまった。
 ところが、実際赴任するとなると大変で、それはまず所帯道具の運搬からして苦労した。ちょうど三月の末で、土木工事が競って工期内にその工事を完了しようとしてどこもかしこも道という道は通行止めになっていた。学校に行く道は、二通りしかなく、ひとつは那智勝浦町の領域から入る道と、もう一方は古座川町の領域から入る道の二つしかなかった。このときは古座川町からしか入れなくて、取り合えず布団、鍋釜といった類の生活するうえでの最小限度の荷物を車に積んで目的地にむかった。運転免許をとったばかりの私には自信がないため、この日は特別運転手として若い従弟を雇い、それに友人のN氏とその息子でまだ三歳にも満たない幼子とが同乗した。最初のうちはドライブ気分で、春の、まだ冷気の適度に漂っている山間の見慣れぬ光景に見惚れながら快適に車を走らせていった。私の脳裏の片隅にまだ未練たらしくたゆたっていた、あの東京の数々の風景・・・・・・・・満員電車、ビル、アスファルト騒音の乱射、酒、ネオン、焼き鳥、焼酎、女、香水、芸術、論議、バー、喫茶店、クラシック、ジャズ、・・・・・・・・・ それらは山々の緑のなかにことごとく霧消していくのを覚えた。
 車は次第に山道を上りはじめ、エンジンは徐々にその響きを高鳴らせていくに従つて、ますます視界が開け、幾重にも連なった山々がウインドウの外に広がってくる。「もっと、ゆっくり、おいこら、煙草消せ。」N氏が運転手の従弟に注意している。それもそのはずで、山の斜面を削りとっただけの道は、わずか前方だけに道が見えているだけで、横の窓から見えるのは断崖絶壁の谷底だけである。からくも車輪だけが路肩に引っ掛かっているといった道である。一瞬の不注意は死を意味する。そして、生死はハンドルを握る従弟の両手に握られている。N氏が蒼白な顔で注意するのも当然である。彼はやや晩婚でしばらくして男の子に恵まれ、日頃目のなかに入れても痛くない様子で可愛がっていた。自分の船の名前さえこの長男の名をそっくりそのままとってM丸と名付けたくらいである。普通の漁師なら例えば、「海幸丸」とか「大洋丸」「豊漁丸」・・・といった船名のところを息子の名前をつけたものだから、他の漁船のなかでもよく目立った。まるで漢文の白文のなかに書き下し文が一行交じっているような感じである。その溺愛する息子を連れているのだから、彼の内心は後悔でいっぱいだったにちがいない。一度に回れないV字カーブが三、四カ所もあって、そのつど山の中から丸太を運んできては前輪の歯止めにしたりしながらやっと無事に山のほぼ頂上らしきところに着いた。
 頂上では今や遅しと部落の人々が背負いこやおこ(天秤棒)を持って待っていた。老若男女色とりどりの風体である。鍋、釜、布団といった実に簡単な荷物なので我々三人で運べるつもりでいたところに部落総出で出迎えられて私はかえって恐縮し、赤面した。少ない荷物を分散して、さらに山道のまるで獣道といった細い路を三、四十分テクテク歩いてやっと樫山なる部落にたどりついた。すでに私の住むべき住宅はきれいに片ずけられ、周囲の庭の雑草はこれもきれいに刈り払われていた。やがて、村人達が去り、友人達が去ってしまったがらんとした住宅の畳のうえに寝転がって、小川のせせらぎの音と鳥の甲高いさえずり以外に音らしいもののない静寂の中でこれから暮さねばならない自分の境涯をやや感傷的な気分で思っていた。




      二 章

 ところが来てみると、人家は七戸、人口は十七ぐらいのなんというか、世間から離脱した村落共同体の化石といったような有様で、よくこんなところに根を張って生きているなと思われる様子で人々は暮らしていた。私の住宅は、六畳、四畳半、台所、流し、風呂、それに便所は外にあった。現代風に言えば、2DKというところであろうか。ひとりで生活するには、ゆったりとした間取りであった。まず、水道は山間の谷水を長い管で引き、いったん住宅の上の台地に据えたコンクリート製の桶にため込み、ここから再びホースで台所に連絡するといった具合で、蛇口から出る水の勢いは至って弱いものであったが、暮らし向きには不自由を感じることはなかった。
 時折、蛇口から泥鰌や鰻の稚魚が出てくるといったハプニングもあった。しかし、雨などが降ると、水は濁り、泥がホースにつまって断水はしょつちゅうのことであった。その頃は電気炊飯器が普及していたので、それで飯を炊いて自活していたのであるが、腹を減らして注意もせずに米をとぐのもそこそこに炊いてみると、自然と鰻、泥鰌、蛭の炊き込みご飯になっていることもあった。ちなみにこの部落にいつ電気がきたかというと昭和三十三年のことのようで、住宅の傍の電信柱(杉の木の電柱)に黒々と書かれた文字から鮮やかに読み取れた。あまりに水が濁ったりしたときは、水道の使用を中止してすぐ下の川を利用した。この川は太田川に注ぎ込む支流になっていて、いわば源流に位置している。河幅は四、五メートルといったところであるが、上流には住み家なく、まったくきれいなもので、水深は五十センチぐらいと浅く、いつもさらさらと透明に川底の砂利を洗って流れていた。ときどき、ハエやウグイが銀鱗を光らせ、体をくゆらせながらその上を渡っていく姿が観察された。茹だるような酷暑の折りなどには、デッキチェアーを担いでいって、川の真ん中辺りにザボンと浸けて、ちょうど具合よく日陰を提供してくれる椿の大木を見上げながら昼寝をしたり読書をしたりした。やがて、また暑くなれば、ザボンと身を川水の中に浸けるといった繰り返しで終日を過ごしたことだった。
 ものを煮炊きするには、プロパンガスを使用した。プロパンガスは、ここから十五キロメートルぐらい海岸に下ったところのガソリンスタンドで買い、自分の車に積んで住宅まで運んだ。このころはあの赴任してきたときと違って、那智勝浦町に通じる路を車で走った。これからの話をわかりやすくするために、あの死にそうになった路を古座川線。これからこの話に登場する路のことを太田川線(那智勝浦に通じる)とすることにしよう。太田川線についてはまた後々の話の中に登場することになろう。
 しかし、風呂の燃料は薪で、この薪は父兄はもちろんのこと部落のすべての人々が協力して私のために切り出し、乾燥した後、さらに適当な長さに切り割って、住宅の前に積み上げていてくれた。いわば、昔の勤労奉仕のようなものであった。私ごときのもののために勤労奉仕してくれたわけである。私の住宅から見える周囲の山々はだいたい人工林が四分、自然林が六分といった割り合いであった。この部落の人々にとっては、おそらく昔からの入会制度の掟が残存していて、自然林は必要に応じて伐採してもよろしいといった合意が成立していたのだろうと思う。そのことが、教員である私に暗黙のうちに適応したのであろう。このことのおかげで、少し不便であったものの毎日風呂をそれらの薪で炊き、欅の浴槽に思う存分に浸かって楽しむことができた。とくに赴任した当時は、春もたけなわ、戸外で鳴きたてる鳥どもの声を聞きながら、また、小川のたえまないせせらぎの音の合間を伝って流れてくる河鹿の声を聞きながら入るのはなんといっても最高の愉楽であった。
 部落は、直径四、五百メートルくらいの四周を山々に取囲まれた摺り鉢状の底部に位置していた。その底部は高低二段に分かれ、その境目を太田川に流れ込む支流が分かっており、高い方の台地には民家が四戸、低いほうには三戸並んでいた。私の住宅は下の方に位置しており、いちばん川の上流にあった。南面の障子を開けると、川音がよく聞こえ、息苦しいほどに向こうの山が迫って見えた。河鹿がヒュルヒュル、ヒュルヒュルと清流の息吹の合間を縫って聞こえてくる。最初のうちはその鳴き主の正体が分からず、鳴き音をたどっていくのであるが、肝心のところにたどりつくと、はたと音が途絶えてしまう。何度か失敗のあげく、抜き足差し足でやっと成功することになった。モーツァルトは実に繊細で、川面にやや飛び出した小石の上で鳴いていた。ほどよく濡れた小石の上で、スマートな蛙が喉を微妙に膨らませてはその外形に似あわぬ音色を奏でていた。これはまさしく山里のバッハであった。
 この部落では、村民のすべてが山林業に従事し、それで生活を支えていた。山林業といっても、自分の持ち山を管理し、木材を産出するのでなく、山持ち(山の持ち主)の山を任されて管理していた。春先の杉や桧の植林から始まって夏の下刈り(植林した木々の周囲に茂ってくる雑草を刈り取ること)や間伐といった仕事を年間を通じてやっていた。詳しくは「山人の記」(主に熊野の山仕事の体験を描いている宇江敏勝の作品を参照してもらいたい。)彼らはその報酬を年間二度、盆正に分けて支払われていた。台地には田圃や畑があったが、猫の額ほどの面積ではとても年間食えるような代物ではなかった。その他、お茶、椎茸、柚子、山菜といったものはかなり豊富であった。かなり文明の洗礼を受けた者にとってはよほどの忍耐心がなければこんな山奥ではあほくさくてやっていられないというのが正直なところだろうと思われた。




      三 章   

 あの引っ越しの日以来、ひとりの生活が始まった。可愛い小学校一年生の二人の子供を相手に授業をして一日が暮れるといった繰り返しで、自分で何か見付けてやらなければ気が狂ってしまうほどの退屈な毎日であった。二人の子供の父兄はいたって親切で、何かとよく面倒を見てくれた。
 この学校は、私の住宅から二、三百メートル川下の、小山の頂上を削り取った上に建てられたいかにも小さなものであった。運動場を含めて大体三百坪といったところだろうか。周囲は植林された杉や桧に取り囲まれ、その下方をぐるりと円形に小川がめぐっている。まるで、小さなお城のような配置になっていた。戦後は炭焼きの子供たち、部落の子供たちでかなり賑わったそうであるが、社会が次第に復興するにつれて、一戸去り二戸去りといった具合に不便な山里から便利な海岸に移住してゆき、そして現在たった二人の子供(就学児)が残る寂れた学校と化してしまっていた。その証拠にこの学校(全て木造建て)の隅々至る所に、往時の面影、過疎の亡霊たちの跡が偲ばれた。
 例えば、黒ずんだ教室や廊下の床にしみ込んだ墨跡、傷んだ古風な黒板、画鋲の穴の無数に開いた掲示板、紙質の変色した数々の図書雑誌などなど・・・・それだけになお三人だけの学校は建物だけが空漠として広く寂しいものであった。外部から訪れる客といえば、郵便配達の局員が二日にいっぺん新聞や郵便物を持ってくることぐらいであり、電話は学校になく部落に赤電話が一つあるだけで、緊急の場合以外はほとんど利用することはなかった。ただこのことは私にとって都合のよい事も多くあった。面倒臭い教育方針などの連絡はなく、私流にやればよいので、いたって自由気侭に振舞うことができた。あの気も遠くなる退屈な、教育と銘打っての研究会などに出なくてもいいだけでとても幸せであった。授業は大体午前中で切り上げ、子供たちと昼飯を食って、私にとってはどこもかしこも無限に未知なる山々に分け入っては日が暮れるまで遊び回った。蕨、ぜんまい、野生に生える椎茸、蕗、芹、虎杖、タラやクサギの新芽・・・・など、おうよそ食べられる山菜の類はすでにこの子供たちは知っていた。むしろこの山里の自然界においては彼らの方が教師であったわけである。またある時は延々と川を遡ったり下ったりしながらハエやウグイやカワムツや鰻などを釣って回ったりした。
 やがて日もとっぷりと暮れ、小川のせせらぎの音が昼間より一段と高く聞こえ、時折フオーフオーと聞こえてくる梟の鳴声とともに送る夜はとても長いものであった。とくに夏は電灯を点ければ誘蛾燈のようにあらゆる虫どもが部屋に乱入し、悪戦苦闘の末、蚊帳の中で読書をしたり酒を飲むといった按配で過ごした。障子を開け放し、電灯を消して寝ているといつも蚊帳の天井に蛍が二三匹まぎれこみ、あちらでピーカピカ、こちらでピカピカと実に調和のとれた間をおきながら光っている。「乾坤の変は風雅の種なり」と言った芭蕉のことばが改めて納得されるとともに、しかし、「乾坤の変」を日々に目前しながら表現のできぬいらだちと悲哀といったものを日々感ぜずにはおれなかった。いったい、芭蕉なり西行なりの目は自然というものをどのようにとらえ、とらえられたどのような現象が彼らの詩心を揺り動かし、そして、文字という言語媒体によって摘出し、表現として結実していったのか。さらに、彼らの短い定型詩がいまなおわたしたちの心を揺すぶるのはなぜだろうか?日本人の心に伝統なるものがあるとすれば、いったいその伝統なる心情とはいかなるものか。漠然と日々を送っていた私にとって、これらの夜の静寂は少しくものを考える方向に私を導いてくれたような気がした。
 引っ越しこのかた父兄は別として部落の人々とはあまり会話をもたず、それというのも私が朝起きだす頃にはすでに山仕事に出掛けており、夕飯の支度や風呂の支度に追われている頃に山から帰ってくるといった繰り返しであったから、その機会がなかったというべきであろう。隣家には子供のいる夫婦、その隣が老人夫婦、そのまた隣が一人暮らしの老人が住んでいた。しかし、彼らがどのような人間であり、また、どのような職業に従事しているのかの詳細はこのときはまだ分からなかった。




      四 章

 山桜の花が散り、艶やかな新葉に変わり、私の住宅の玄関先に植わっていた椿の花がうっとうしいほど散り敷こうとしていたそんなある日のこと、初めて隣の住人の訪問を受けた。年令は三十くらいか、四十くらいか、見様によってはどちらにでも見て取れるといった年格好の女がべつにあいさつをするでもなく玄関に入ってきて、無遠慮に土間の上がり框に腰をおろした。赴任してこのかた、隣家に住人がいることは分かっていたけれど、いつも見かけるのは五六歳くらいの男の子と、その父親らしい男だけでこの妻である女を見たことはこのときが初めてであった。男の子が「母ちゃん母ちゃん・・・・」とほとんど泣き声になって叫んでも、一向にその姿を家から現さなかった。男の子が家に入ってしまった後は嘘のように静まり返り、物音一つ聞こえてはこず、すすぼけた閉ざされた障子が不気味に外界を遮っている感があった。
 学校への行き帰り、このトタン屋根の、古く年月をきざみこんだと思われる小さな家の中から、人間の会話といったもの音が流れ出てくるのを一度といっていいほど聞いたことはなかった。しかし、今よく思い返せば私はきっとこの女に日常の一部始終を見られていたに違いない。おそらくこの女が障子の破れ目か障子の隙間から窺っていたに相違ないように思われる。上がり框に腰を降ろしたまま動こうともしないこの女の無表情でありながら、そのくせ白目がちの目は瞬時も休まず、私の方には目もくれず、まるで舐めるがごとく私の部屋の隅々を観察しているのである。私は背筋がぞっとする思いでしばらく女を見ていた。
 「先生。なんでこんなとこへきたん?」それがこの女の第一声であった。
 「わし、こんなとこ好きやから。」唐突な問いに応えるすべもないので答えると、浅黒く血色の悪い顔を向けて
 「ようまあよりによって・・・こんなとこにねえ。」といかにも蔑む感じで問いかけるとも答えるとも分からぬ独り言のように呟いた。その表情の中には、どうせこんな山奥にくる教師なんぞはろくな奴ではあるまいといった念が読み取れた。
 このようなことがあってから、女はたびたび私の住宅にやってくるようになった。障子の破れ穴から二三週間外ばかり覗いていたと思われるこの女が急転直下、外を歩き回り、部落の誰かれともなく捕まえては立ち話をする姿がよく見られるようになった。部落の人々は別段不思議がる様子もなく受け入れているところを見ると、この女の素性を前々からよくわきまえていたのであろう。新参者の私だけが気味悪がっていたと思われる。たぶん私の隣に躁鬱病者がいることを私が知ればこの部落から逃げだしてしまうのではないかと思ったにちがいない。だから私がこのことを自然に知るまで彼らはしいて私に知らせなかったのであろう。これも田舎人の善意というものであろう。
 この女の名前は、当時流行していた歌手の名前と同じで、K・Rといいこの当時から二十数年たった現在でも忘れることはない。いつもひとり息子のT君を従えて私の住宅に押し掛けてきた。読書をしていようが、飯を作っていようが、掃除をしていようがそんなことにはおかまいなしに部屋に上がり込んできては話していくといった日課がつづいたが、このことのお陰で私はこの隣人の生活の輪郭といったものが次第によく分かるようになってきた。
 いつもまずこの女は自分の夫の悪口から始め、悪口でもって終わるというパターンでしめくくった。いや、自分の自慢話の合間に亭主をこきおろすと言った方が正しかろう。女の話は大体次のように進み次のように終わるのが常であった。
 まず夫が真面目に炭を焼かないで、その仕事に真剣に取り組まない。窯に火を入れてから二日ぐらいは辛抱もするが、三日目くらいになるとそわそわしだし、まともに炭の焼け具合も観察しないで、パチンコに行ってしまったり磯釣りに行ってしまう。炭ができればできたでそのお金を家に入れずにあらかたパチンコですってしまう。ある時などはパチンコに行っている間に炭窯がぺしゃんこに崩れてしまい、一銭にもならず、一家心中さえ考えたが、ようやく思いなおして、この坊主も(Tの頭を撫でながら)一緒に連れていって泣きながら修復した。しかし、こんなことでは懲りる亭主ではない。こんなことを何度も繰り返しながら私は辛抱してきたのだ。とにかく、この甲斐性のなさはひとえに亭主の頭の悪さからきているのだ。と最後はここに結びつけてしまう。「私は中学校を卒業した。」これがこの夫人の金鵄勲章ともいうべき自慢の終極点となる。このときには、いかにも誇らかに私の方を正視して胸を張って言うのである。「ところが、父ちゃんときたら小学校もろくすっぽ出ていない。」この学歴の低さが頭の悪さにつながり、遊びしか脳のない人間にしてしまった。そして、取りもなおさず私たち一家の不幸も全てこの学歴のない父ちゃんの頭の悪さから生じていると結論づけてしまうのである。やはり、人間、勉強しなければいけない。せめて父ちゃんも自分ぐらい学問があって「中学校」を出ていれば、今のような生活をしていないはずだ。勉強は大切だ。学問は大切だ。だから、私はこの子だけは勉強させて父ちゃんのようなぐうたらな人間にはしたくない。そして改めて私の方を向いて、「こんな山奥の学校ではろくな教育はできないねえ先生。」と言うのである。私は適当に「まったくそのとうりやなあ。」と相づちを打っておく。それでますます調子にのって亭主のことを糞みそに罵り、息子のことを褒めそやし、自分の学歴の高さを自慢して帰っていくのがこの女の日課となった。




      五 章

 炭焼きの女房とは懇意になったものの、肝腎の亭主とはしばらくの期間が経つまでは話したことはなかった。住宅から見ているかぎりでは亭主はいつも年の割りには頭の薄い髪にねじり鉢巻きのスタイルで二キロぐらい離れた焼き窯に通っていた。背丈はないものの胸幅が厚く、いつも丸出しの両腕は丸太のごとくに筋肉が隆々としていた。山中で熊が現われようともこの男であればたぶんそこそこの格闘はできるように思われた。顔つきはいわば新モンゴロイド風で扁平的でありながら、精悍さがいつも表情ににじみ出ていた。
 夕暮ともなれば、四周の静寂を無造作に破って大八車が大地を蹴る音が私を驚かせた。それはまるで鴎外の「空車」を彷彿させた。自分の宅の前で急停車させ、頭の鉢巻きをやおら取ると流れ出る顔面の汗を心地よげに一拭きしてから家に入っていくのが常であった。
 そろそろ梅雨期にかかろうとする頃であった。私はこの僻地の無聊をかこつためにすこし前から目白を飼っていた。目白という鳥は鳴かせて楽しむために飼うもので、どれだけ長く飼っても人間には慣れない。文鳥や山雀は飼えば飼うほど慣れて芸もするが、目白に限っては鳴き声のすばらしいものほど人間には慣れない。しかも子飼いといって雛からかえって巣から飛び立つ時期を見計らって山でとらえてきたものから飼わなければなかなか立派な鳥にはならない。ここ樫山というところは「樫山目白」といわれて近在の目白フアンなら知らぬものがないほどに有名で五月半ばごろから七月ごろまでは囮篭を風呂敷に包んだ人々が押し掛けてきた。熱心なものは真夜中ごろにやって来て車のなかで仮睡をして黎明を待ちかねて山へ登っていく光景がよく見受けられた。私はこの点では地の利をえていた。その日も四時ごろに起きてまだあけやらぬ山道を懐中電灯の頼りなげな明かりにすがって山道を登っていった。目的の尾根道にたどりつく頃には幾重にも織りなす山々の彼方から陽が昇りはじめる。それと同時に鳥どもの合唱が始まる。手近の小枝を引き千切り、それにモーチを巻き、比較的背の低いバベ樫の枝に囮篭を掛ける。風呂敷からとかれた囮の目白は元気よく鳴きはじめ、山々の目白の鳴声に耳ざとく反応して次第に興奮状態になり、ついに高音を連続する。どこからともなく数羽の目白が梢に姿を見せ、囮の目白を威嚇するために鳴声鋭く鳥篭に迫ってくる。それは自分たちの縄張りに闖入し、しかも逃げるでもなく厚かましくも鳴きたてる無頼ものに対しての敵意と憎悪を剥出しにして迫ってくるかのごとくである。一段また一段とモーチに近づいて来るのを木陰に身を潜めて見つめているときの緊張感は格別なものである。親どりは普通三四羽の雛どりを連れてやってくるが、子鳥たちが陥穽にはまろうとする寸前にはどこからともなく猛然と現われ、両翼で子鳥たちをパチパチと撥つつ追い払う。小さな生物界の大きな愛情に触れる思いがする。しかし、子供の行動の全てを親が監視できないのと同じように、一瞬の間隙が彼らを陥穽に落とし込むことになる。モーチに乗った小鳥は一瞬反転し、天地を逆さまにぶら下がる。このときを待って木陰から身を踊らせるのである。
 この日も四五羽の収穫を得て明るくなった峠の山道を下っていた。ちょうど例の炭焼き小屋を見下ろす崖の真上にきたとき、猿どもがギャーギャーわめきたてながら小屋のすぐ上の樹にぶら下がって遊んでいた。よく見ると炭焼きが使い捨てた手拭をうまい具合に木にくくり付け、ターザンまがいのブランコをしている。中には背中に子猿を負ぶって朝日の日光浴としゃれこんでいるものもある。しばらく眺めていると、小屋のなかから例のK氏が現われ、小石を拾って猿どもの群れに投げつけている。「糞ったれ猿公ども」という罵声が私のいる峠まで聞こえてきた。猿どもは少し退散して私のいる方向に近付いてきたが、喚き立てることを止めずまるでからかうように騒ぎたてていた。炭焼小屋からはかすかに煙が上がりあの何とも言えぬ備長炭特有の匂いが私のところまで漂って来た。
 猿どもは次第に私のいる崖の方向に向かって上がってきたが、やがて歩哨の奴が立ち枯れの樫の木の天辺から私の姿を発見し、今までにない嬌声を放つとともにまるで蜘蛛の子を散らすように三々五々慌てふためいて逃げ去ってしまった。山々にもとの静寂がよみがえったあとで崖下を見下ろした時にはすでにK氏の姿は小屋の中に消えていた。




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