炭 焼 と 魚




      六 章

 昼も過ぎた頃からぽつりぽつりと降りだした大粒の雨が、やがて篠つく雨勢に変わり、夕刻になると住宅の下の川は泥水の水量を増して氾濫しそうな勢いで流れ下っていた。早い時刻に雨戸を立て、一風呂浴びてサントリー・レッドのダブルサイズの晩酌をやっていると、どんどんと普通は聞き慣れぬ調子で雨戸を叩く音がする。出てみると例のK氏があの猿どもを追い散らした姿で立っていた。さすがに鉢巻きは外していたものの、汚れた服装はそのままで、泥の匂いに交じって備長炭の匂いがかすかに伝わってきた。独酌で酩酊していた私は気軽に招じ入れようとするのであるが、彼は少し遠慮気味でためらっていた。しかし、こんな山奥で、しかも雨に降りこめられる淋しさというものは、人を求め酒を求めるものであることは理の当然である。彼もこの目的ゆえに私の門を叩いたのだ。
「今日は猿どもがよう騒いでおったのう。」と私の方から誘い水をかけてみた。彼は訝しげな顔つきで、
「なんでまた先生そんなこと知っとるんじゃ。」と探るような目付きで問いかけてきた。早朝の出来事を話してやると、納得したらしく、
「あの猿猴どもが来るとろくなことはない。」とさも憎々しげに言う。事情を聞いて行くと納得できた。彼はこの地にくるまでに各地を転々としながら炭を焼いてきた。小学校の時分から親父に連れられて熊野のいろんな奥地に連れて回られた。それは子供にとってはかなりの重労働であったが、毎日毎日親父の後について仕事をしていると、「わしのような馬鹿でも」自然と炭の焼き方、作り方くらいは覚えることができた。
「戦時中はいろんな事があった。」二杯目のウイスキーを注いでやると、やや顔を赤らめながらほほえむような調子で呟くともなく言った。
「食い物が無くて困らんかったかね。」と月並みな質問をすると、
「それは今もかわらへん。」ときよろきよろと初めての部屋を見回しながら言う。Kの言葉につられて、我が身を振り返ってみれば、何だかいつも暗い防空壕に入って茶粥ばかり啜っていた無気力な自分が思い出される。そういえば、終戦記念日が近付く頃には、平和、反戦と喧しくなって、作文募集の要項などがこんな奥地にまで舞い込んできていた。
「勉強らせいでもよかった。わがだけ生きとったらよかったからのう。ただ、けぶりがたたんようにしとったらよかった。」となにかほほえむような感じで言う。
「今のわしと同じや、ただけぶりだけはたたんがのう。」というと、むっとした調子で、「先生はちがうやろ、月給も多いやろ。」とにらめつけておいてから、
「いまどき月給がええのはこの辺りじゃ、先生か公務員ぐらいのもんや・・・当時はどこも食い物が無かったんやが炭焼きほどひどいもんはなかった。」と今度は穏やかな調子で語りだした。
「味噌、醤油、塩、こんなものまで手に入りにくいし、まして米や麦はもちろんのこと南瓜や芋さえなかなか手にはいらんかった。」と鯵の開きの干物の頭にそのままかじりつくと一口、二口ガリガリと音たてて飲み込んでしまった。当時の食糧難を思い出して興奮しているのかと観察してみるがそんな様子でもない。
「親父はあいも変わらずに、毎日毎日炭ばかり焼いてた。いくら仕事やからというてもようまあ腹もすかんもんじゃと不思議に思たのう。親父はいつもこういうとった。『いくら戦争じゃ、戦時じゃというても炭が無かったらだれも生きてかれへん。わがら炭さえやいとったら困らへん。』親父はそれでええとしても、売りに行くのはいつもわしやったからのう。」と言う。
「焼くより売りに行く方が楽やからのう。」といい加減に答えると、
「先生、あほ言うたらあかん。ほんぐ(本宮)の奥から大八牽いてみい。それも空車やったら楽や、俵の五つも乗せてみい、梶支えるだけでも難儀なこっちゃ。小学六年のひ弱いわしがしんぐ(新宮)まで牽いていったんや。荷が重すぎるとおもわんかい?」何やら無意識で偶然の洒落が飛び出したので思わずぷっと吹き出してしまった。ややあって向こうも解ったらしくけらけらと大声で笑っている。Kが最初本宮の山奥でおったことを知らなかったから、私は無責任なことを言ってしまったのであるが、改めて想いをいたすと、彼の当時の苦難苦労が痛切なまでに納得された。
 雨勢は衰えるどころかますます激しく、住宅の雨戸に弾け、渦巻く風が家全体を揺すぶっては駆け抜けて行く。この調子だと、たぶん明日からはこの地も陸の孤島になってしまうに違いあるまい。食料のためおきはどうだったろうか?などということがふと頭を掠める。太田川線を車で下るには、小匠という下流にある防災ダムを通過しなければならない。道路はダムのコンクリート壁を貫徹して下っているのであるが、大雨で雨量が増せばシャツターが降りて、道路は水中に没してしまう。ままよと思いながらKの方を見れば、独りでレッドをなみなみとコップに注いでいる。
「あれは何月頃やったかのう。ちょうど桜の花が満開過ぎてようようちらほらと散り始めるころやったのう。」しばらく黙っていると、彼は精悍な顔つきに似合わぬ感慨ぶかげな表情で語り継いだ。私は一方で、いま現に焼いている彼の窯のほうが心配で「ところで、炭窯は大丈夫かのう。」と尋ねると、快い午睡を叩き起こされたような不機嫌な顔つきで、
「あんなものほっといても炭になるんや。」とぶっきらぼうな調子で答える。
「その日も大八牽いて新宮向いて下っとったんやが、あんまりえらいのと暑いのとで大八ほったらかして、川原へ下りてったんや。そのまんま、ざんぶと飛び込んだときの気持ちのええことは今もよう忘れんなあ。熊野川は今とちごて底の石まで透き通ってきれいに見えとったし、上へのぼる鮎のなぶらも仰山見えとった。戦争やと思えんほど静かやったなあ。」どうもこの男の独壇場になってきた。まさに彼は完全に過去にタイムスリップし、私の眼前にいる彼は魂の抜けてしまった亡霊に等しかった。彼はちょうど酔いの上り調子にあり、私は下り調子で眠気さえ覚えてきていた。
「川原の砂利の上にそのまんまごろりと寝転んだとたんに眠てしもとった。どのくらい経った頃やったかのう。大きな音がするんで目覚ましたら、大っきな飛行機が三つ四つなぶらになって川上へ飛んでった。こんなに大きな飛行機を見たのははじめてやった。いっつも山の中から見てたことは見てたけど小さな奴やった。そのうちに、しんぐの町に爆弾でも落とされたらかなわん思て、梶棒とって急いでいったら、ちょうど桧杖(ひづえ)のトンネルのとこへさしかかった。山の向こうからもくと仰山なけぶりがあがっとった。暗いトンネルで、いっつも恐い恐いと思てびくびくしながら通っておったんやが、このときばかりはいつ通り抜けたかわからんうちに抜けとった。神倉さん(お燈祭りで有名な神倉神社の山)の見えるとこまで来たときぁ、もう間違いのうしんぐの町が爆弾で燃えとるのがわかった。町中へ入ったときにゃ男もおなごもバケツ持って右往左往走りまわっとるし、けぶりは目や鼻に入り込んでくるし、大八は跳ね飛ばされるわで、わしは半ぶ泣きもて、やっとのことで大王子の料理屋(料亭と知らなかった)へ辿り着いた。」ひと息ついて、またがぶりとウイスキーを飲み込んだ。なかなか猿猴憎悪のいきさつは出てきそうにない。漱石の「我輩は猫・・」のバイオリンの話のようなものである。たぶんこの男がそこまで行くには明け方になっていよう。夢見心地で、自分の話しに陶酔している男の前でしらふで聞いている自分が阿保らしくなってきた。かくなる上はこちらも自棄くそになって聞いてやろうと決心して、この男に負けずに、ウイスキーをがぶがぶ飲んでやった。
「先生もよういけるのう。」と有り難いことに褒めてくれる。
「料理屋の後でどうなったんや?」と催促すると、
「これからが肝心な話しなんや。裏口の戸を開けて呼ぶと、暗い土間の奥から小さな女の声が聞こえてきた。下駄を引っ掛けて土間の戸口に出てきた女は、なりも顔も小綺麗な年増やった。もともと煤だらけの顔に、けぶりの中を通ってきたわしの顔を見て、はじめくすくす笑ってから、『ようまあこんな日に来たなあ』とびっくりした様子で『今日は初めての空襲で十人くらい死んだそうな、旦那さんがあんたが来るのを心配しとった。よう無事やったなあ。』と死んだお母よりも優しゅう言うてくれて、冷たい井戸水で絞った手ぬぐいで何度もわしの顔を拭いてくれたんや。それからちょと待てというので待っていると女は奥の座敷の方へ入っていって、何やら新聞紙をかぶせたものを持ってきて『これお食べ』と言うのでとってみると、なんと真っ白な大きな握り飯や。ながーいこと見たことなかった飯の白さに見惚れておった。腹は減っとったが勿体のうてとても食えんから、じいーと眺めて立っとった。そんなら女が『旦那さんが消防に出掛けてくときに、炭焼きの坊主が今日来ることになっとるんやが、今日炭を持って来いというたのはわしや。ひょつとして空襲でやられて死んでしもたかもしれん。前々から一遍銀飯食わしたろおもてたのに、今日に限ってこんな空襲や。無事に家に辿り着いたら、食わしたってくれといって出掛けられたんや。遠慮はいらんから食べてお行き』わしを土間の上がりとに連れていってお茶まで出してくれた。握り飯のうまかったのは勿論やったが、世の中にこんな優しい人たちがおるんやなあと思うと、わしは泣けてきたんや。」酒の酔いも手伝って本当に泣いている。何だか私もしんみりとしてきた。男はしばらく自らの興奮を覚ますためにウインナソーセージを口に入れ、今度は並の飲み方でゆっくりとグラスを空けた。
「俵を納屋に運びこんで帰ろうとすると、今日はまだ町中がごったがえしていて危ないから、一晩家に泊まって朝はようほんぐへ帰ったらええ、ぜひそうしてくれと頼むんや。旦那さんに言われておったことを、わしにそのまんま伝えようと言っとるんかと思てたが、どうも真心から言うとることがよう解った。生まれてからこんな優しい他人の情けを受けたことはなかったなあ。わしのような炭焼きの子になあ。」先ほど涙を流したほどの興奮はなかったものの、まだ緩やかに男は感情の余韻を引きずっていた。
 小学生時分に泥んこになって家に帰ってくると決まり文句のように「なんや炭焼きの子みたいにきたないなりして。」と怒鳴られたものだ。正真正銘の炭焼きの子が、なおそのうえに煤で化粧した顔とはどんなものだったかがよく想像できたし、野良犬のように邪険にあしらわれて追い出されても文句のいいようのないところを望外な温情を浴びせられて感極まったことは当然だったろう。そう考えてみれば、往時を思って涙するこの大の男の気持ちはごく自然な純粋なものに思えてくる。
「それでよう。わしは山へ帰ってからこの料理屋のことばっかり考えとったんや。握り飯のことと違うんや、わしに親切にしてくれた三十くらいの小綺麗な女の人のことと、その時会えなんだ旦那さんのことや。なんとかして礼せなあかんと、そればっかり考えとった。炭焼いとる親父のはたにおってもそのことばっかり考えとったもんやから、『あほ、なに寝呆けとんや。』と怒鳴られて、いっつも拳骨食らわされた。いっつもいっつもそんな調子やったから、親父のほうが却って心配しだしたんや。ほんまにあほになったと思たらしい。これまでわしのことなんど親身になって構ってくれなんだのに『どうしたんや。』と聞いてきた。ほんまに民主主義になってきたんや。」それまで真面目に聞いていたところが、この民主主義という不似合いな言葉が突然飛び出したので、私は口に含んでいたウイスキーを一度に吹き出してしまった。悪いことにそれがK氏の顔をもろに直撃することになってしまった。私はすぐ様失礼を詫びたが、彼は何食わぬ顔でやおら腰の手ぬぐいをとりいつもの汗を拭く緩慢な様子で顔を拭った。
「民主主義てそんなに可笑しいかのう。」と不思議そうに聞くので、いや、決して可笑しくないこと、ただ戦争中にはそんな言葉は禁句であったし、だれも使っていなかったこと、戦後の言葉であることをわかりやすく説明してやった。
「そんならわしが酔うてしもて、今と昔をチャンポンしてしもたんやのう。」となかなか飲込みのいいところを見せた。こんなことでせっかく彼の話の腰を折ってしまってはと思い、なるたけもとの話し手の感情の流れに引き戻したくて、
「親切にされた人のことは誰でもよう忘れんもんやのう。」とやや感慨を込めて言ってやると、
「そうや。親父もその時そんなこといっとった気がする。礼する言うてもこの山の中じゃし、こんな世の中じゃ。茸か、ぜんまいか、蕨か、独活ぐらいしかないやろのうとしんみり言う。今度いつしんぐへいけるかわからんから、せっかく採ってきても腐ってしもたらなんにもならん。そこで一番ええのが椎茸や思た。毎日の山暮しやからほかのことは知らいでも山のことやったらどこへ行けばどんなものが生えとるかは目つぶっててもようわかってた。炭にする木は、大体が椎や樫や楢やウバベ(ウバベ樫。和歌山県の県木)やったから、全部椎茸のなる木や。これはまったく都合がよかったんや。椎茸菌入れてよう作らなんだんやが、山の中に入ったら、自然に生えとる奴はいくらでもあった。立ち枯れの椎の木の根元から天辺までびっしり生えとる奴も珍しいことはなかった。たった一つ面倒くさいことがあったんや。ひとっところに生えんとあっちゃこっちゃといろんな場所に生えるもんやから、採りに行くのに時間とグがかかるんや。それで仕事の合間に見つけしだい鋸で引いてきては窯の裏山の日陰のところに貯めておいたんや。これやったら何時でも採りに行くことができてほんまに便利やった。。ちょうど春子(春出る茸)の終わりの時期で、薄っぺらいんが仰山出ておった。ちょつとでも大きゅうしてと思て一雨来るのを待ってたら、晩方からええ具合に雨ががきた。楽しみで夜もおちおち眠れんかった。朝、目覚まして飛んでった。ところが、きちんと並べて立てかけてたボタがどこもかしこも目茶苦茶に倒れて転がってるやないか、一本一本よう見てみると椎茸の根元から抉った跡が白うついとって、根こそぎ盗られとった。あの時ほどがっくりきたことはなかったよ。」とふうっと溜め息を漏らす。
 雨戸が一段と激しく揺れ、轟々と濁流の音が木々を吹き抜ける風の音よりも高く唸っていたが、篭城の覚悟を決めたときからそれはもう私にとってはどうでもよくなっていた。山越えで行けば買い出しぐらいは行けるだろう。どうもこの男の山中体験が私にも乗り移ったと見えて度胸が据わってきた。
「盗人がそんなとこにおったんかのう。」と同情すれば「盗人やあるもんか。猿猴の仕業やったんや。鉄砲でもあったら撃ち殺したるんやった。」と憎々しげな表情を顔いっぱいに剥き出して言う。
「それで、糞ったれ猿猴と怒鳴ってたんやなあ。しかし、猿猴には人間の事情などわからへんのやから仕方ないなあ。たまたま、あんたが腹減らしとったときに握り飯にありついたようなもんや。」と今度は少し突っぱねて言ってやる。たぶん目を剥いて反発してくるだろうと思っていたが、平静な顔つきで、             「そうやなあ、当時は土台子供やったからのう。今朝怒鳴ったのはあの当時のわしの血が怒鳴らせたんやなあ。恐ろしもんやなあ。」とまるで心理学者か哲学者のようにこちらが拍子抜けするような冷静な態度で答える。
「椎茸はやられたもんの、わしはそれで諦めたわけやなかったんや。親切にしてもろた人の情けちゅうもんはそうそう忘れることはできんもんや。」と残りのウイスキーを飲み干した。
 どんどんと激しく戸を叩く音が聞こえた。
「何しとるんや、こんな夜中まで。」と罵声が外の荒れ狂う風雨を突き破る勢いで聞こえた。Kははっとした表情でやおら立ち上がった。その顔には先程までの夢想に酔ったような柔和な感じはすでに失われていた。玄関の戸を空けると、傘もささずにやって来たらしい例の女房がおりからの風にもみくちゃになった髪の毛を逆立ててまるで夜叉のような姿で立っていた。男はすごすごと女房の後について吹きすさぶ風雨の闇の中に去っていった。荒れ狂う雨と風と濁流の響きと木々のうなりが狭い戸口から部屋いっぱいに流れこんできた。





      七 章

 炭焼きK氏の突然の訪問を受けて以来、再び変哲もない退屈な日常の生が私を待ち受けていた。午前中は二人の子供たちと国語や算数や社会科等の正規の授業を一応こなしていったが、もともと小学校などで教えた経験のない私にとっては手数がかかる行き届いた綿密な指導など出来るはずがなく、気長さが要求される授業の各所で、 「ええい、こんなことも解らんか。」と罵声を飛ばし、すぐ拳骨を振るったりした。 可哀相なのは子供の方で涙ながらに考え正解を導きだすといった具合であった。いじらしい澄んだ瞳に涙をいっぱい浮かべて叱られまいと必死で考えている彼らを見るにつけ、住宅に帰った後ではいつも多少の後悔と自責の念を綯い交ぜたような暗鬱な気分として残るのが常であった。したがって、多く叱った日の午後などには罪ほろぼしのために多く遊んでやるという習慣がいつのまにかついてしまった。K氏のかみさんの言うように「こんなところではろくな教育はできん」と言うのももっともなことに思えた。かてて加えて私のような教師に教わればますますかみさんの言が真理を帯びてくるような気がしてきた。
 当時はまだそれほど車が普及しておらず、車を運転し、持っていたのは私だけで、村の男衆はオートバイで海岸の店屋などに買い出しに行っていた。K氏などは一歩誤れば谷底に転落し、確実にあの世行を約束された林道をぶっ飛ばして四十分もあれば勝浦まで行けると豪語していた。しかし、家内に病人などが出たときは大変で、オートバイの後の荷台に病人を括り付けるように跨がせて、太田の村落の医院まで連れていった。年の若い病人ならまだしも、もっとも難儀をするのが年寄の病人であった。彼等はすでに荷台の把手を握る力がなかった。そんなときは余所に住んでいる親戚の者を頼んで病院まで運んでもらっていた。
 私も何度か隣の老人を運んだりした。老夫婦は一人息子を若く病死させ、ほとんど身寄りという身寄りもなく細々と暮らしていた。彼らがもっとも心配していたのが病気に掛かることであった。村の人々はすべてなんらかの血縁で、親戚同志ではあったが、謙虚に遠慮しあうところもあった。私が彼らの身近に住まうようになって彼らは私を厚遇してくれ、時々夕食などに呼んでくれるようになった。そして、隣のお婆さは私のポンコツ車のことを「先生の御車」などと御丁寧に「御」までつけて呼んでくれるので、「どうかその御車だけはやめてください。何だか天皇陛下のようだから。」と再々訂正をお願いするのであるがどうしてもやめてくれなかった。
 子供たちを多く叱った代償に私は自分の車に彼らを乗せていろんな所に自由に連れていった。算数でお金の計算が出てくるが、彼らはお金というもののなす価値を知らなかった。私の海岸の自宅まで連れていき、二三日逗留させ、そのまま彼らの為すがままに任せておいた。彼らの親達は子供たちが先生宅に世話になるという訳で多少の小遣い銭を持たせたが、それは私に対する気兼ねであって子供自身にとっては無意味なものであった。山奥の子供たちにとって商店の陳列は魅力的なものである。物品は金で購入できるという経済学の初歩を彼らはすぐに了解し、毎日店屋通いに精を出し、挙げ句の果てには紀の国屋文左衛門さながらにすっからかんになって私の車で山奥に帰ってきた。しかし、このような経験のおかげで算数の問題なども容易に解けだすという結果を得ることになった。それからというものは不思議なもので計算や計画性が伴って、私が酒でも飲んでいようものなら「先生、酒ばっかり飲んでおったら嫁さんもきてくれんで」などと親達の陰口に自分たちの経済学をまぜくちゃにしてぬかすようになってきた。私が自分の栄養補給に理科の観察だと誤魔化して飼わせていた鶏のすき焼きを食べているときにそのようなことを言うのである。
 そのような訳で、退屈な日の午後であるとか、土曜日から日曜日の休みにかけてよく車で出掛けた。大体が潮岬や太地の鯨館や梶取り岬や那智の滝に出掛けることが多かった。僻地四級地は月給の二十パーセントの手当てが付くのでたまに子供に飲み食いさせることは何の訳もないことであった。こちらも自分の退屈が紛れてちょうどよい具合であった。あるとき、管轄の教育委員会の連中がぼくたちの学校の視察のためにやって来たが、あいにくぼくたちは出掛けていて留守だった。彼らは教師も子供もいない学校を視察してはるばると訪れた労力の要る山路を帰っていったそうである。それでも委員会からは文句も言ってこなかった。それから幾度か校長や教育委員にあったが文句を言われたことはなかった。それどころか私の顔を見るごとに「いつもご苦労さんやねえ。」と遠慮気味に激励してくれた。たぶん私に文句を言って止められることにでもなったら代わりの教員を探すのが困難だったのであろう。
 どこでどう嗅ぎつけたものか、NHKが重い撮影機材などを持ってぼくたちの授業風景を取材にきた。彼らは二日ほど滞在し、あらかじめ彼らが決めた筋書きどおりのことを勝手に喋らせ、筋書きどおりの撮影をして自己満足の気分を土産にして帰っていった。TVで放映されたのがきっかけとなってさらに新聞記者が来、カメラマンが来、さては教育評論家などもやって来た。彼らが作り上げた映像にしろ記事にしろ、それらはすべてぼくたちの現実以前にすでに彼らの頭ででっち上げられた映像や記事であって、金と人材と労力をかけて現地を探訪したというアリバイによって捏造された彼らの創作品であった。そこには多少の真実はあったものの、私が日頃体験している生の現実との間には無理からぬことではあるが隔たりがあり、隔靴掻痒な感じがしてならなかった。そんな訳で、以来私と子供たちと学校は多少世間に知られるようになった。梅雨もそろそろ明けようとする予兆が感じられるようになって、私たちは水泳を始めることにした。一応体育の授業などはあったものの、子供二人では何も出来ず、またやったとしてもすぐ飽きてしまう。だから、しぜん山を駆け回ったり野を駆け回ったりして遊んできた。特別彼らに体力をつけなくても今までの生活環境の中で十分についていた。
 部落を分断して学校の森の下をめぐって流れ下る細い川は、太田川の最上流ともいえる渓流で砂利や砂は少なく、川底は岩盤が露出しているところが多く水深は浅かった。所々カーブになっているところは深い淵になっていて、青々としていたが、そんなところを除けばすべてが安心して泳げる水泳場であった。川岸には成長するたびに大水に痛め付けられて、まるで自然に出来た盆栽のような躑躅がいたるところに見られた。目白や鴬やほうじろの鳴声を悠長に聞きながら私たちは泳ぎ回った。私の水泳指導は功を奏し子供たちは一日一日目に見えて熟練していった。寒さでぶるぶる震え上がるようになって一日の日課が終わったときにはすでに日も西に傾きだしていることが多かった。
 田舎のプールでの合格証を彼らに渡したので、次に彼らを海に連れていこうと考えた。少しの泳ぎに自信を得た彼らは「水」を侮り、そのことが却って事故を呼ぶのではないかと私には危惧せられた。私の自宅からはどこの海水浴場も真近にあった。中でも浦神湾の入り口に近い粉白の海水浴場はどこまで行っても遠浅で初心者向きで手頃であった。太田川が海に注ぎこみ、運びこんだ砂の粒子が細かくきれいだった。子供たちは大はしゃぎで例の小遣い銭を持って私の車に乗り込んできた。最初のうちは清流の真水と勝手が違って海水に顔を漬けるごとに顔を上げては両手で拭い、唾をぺっぺっと吐いては気味悪がっていたが、それも次第に慣れて臆することなく泳ぎ始めた。近辺の小学校などはまだ水泳などはしていなかったから砂浜には人影すらなく寂しいものであった。甲羅ぼしの合間に大の大人が二人の子供を相手に砂の塔などを作って遊んでいる姿は他人目には滑稽に映ったことだろう。しかし、そんな時ほど私にとってはあの大都会の喧騒の上に広がる煤けた灰色の空を懐かしく思ったことはなかった。




      八 章

 真夏が近付き、熊蝉ががなりたて、周囲の山々の木々の緑がその暗さを一層つのらせるにつれて私たちの水泳教室はますます熱を帯びてきた。いつものように海岸で泳がせた後で、子供たちを車に乗せ物見遊山としゃれこんで太地の岬に立ち寄った。
 太地は昔から捕鯨の町として栄えてきた。しかし、最近は鯨の種の絶滅を恐れる国際的世論のあおりを受けて捕獲種と捕獲頭数の制限を定められて以来嘗てのような賑わいは見られなくなった。現在では僅かにゴンドウ、ミンク、イルカくらいのもので、あの勇壮なセミやマッコウやイワシなどは町から消えてしまった。嘗ては港の湾に追い込まれ、岩山の巨大な黒い岩石のような肌に銛を何本も打ちたてられ、海面を真っ赤に染めて絶命する姿は哀れな同情とともに原始からの人間の営みの力強さを感じさせた。小さな人間たちがよってたかって仕留める姿はさながらにモビーディクを怨念の炎と燃やして追い続けるエイハブ船長の姿であった。古式捕鯨の長い歴史の中では巨大な鯨に蟻のように群がり暴れる鯨の尾鰭で叩きつけられ海の藻屑と消えた勢古たちの数はたぶん数百はを数えるだろう。食わんがために殺し、殺すがために殺される長い歴史の繰り返しの果てに人間も鯨も対等の立場においてお互いが憎悪を剥出しにしたであろうことは不思議ではあるまい。歴史を無視したところには哀れみがあり歴史を思い描くところには逞しい人間の営みが見えてくる。
 白亜のこじんまりとした灯台に真夏の陽光が眩しく照りつけ、強い潮風のために背丈をもがれた木々の向こうにはるか水平線が見渡せた。「狼煙場跡」と黒く書かれた場所に佇むと、遠い昔この場所に立ち、かすかな鯨の潮吹きを発見した古人のはやる興奮の情があたかも時空という壁を吹き払い眼前に彷彿する。絶壁の足下では荒波が白く砕け、点在する磯島では釣り人が糸を垂れている姿が遠望された。子供たちの騒ぐ黄色い声が芝生の望楼から聞こえてくる。
「先生、先生ーどこやー」目ざとく見つけて傍によってくる。山の子供たちに鯨について説明してやる。しかしそれはたぶんエスキモーにキリンを説明するようなものである。「ふん、ふん」と彼らは神妙に一応聞いてはいるが、その目は大洋に注がれているのがわかる。
「先生、先生、あれKのおっちゃんと違うか?」彼らはここでも部落の限られた人々にことよせて他人を観察している。滑稽感に先立って私には哀れな同情すらおぼえてくる。彼らが指差す方向を目で追うと比較的近い島の突端に座っている人影が目に入った。
 なるほど顔までは見えないものの全体の姿はK氏によく似ている。まさかこんなところにK氏がいる筈はあるまい。
「絶対にあれはKのおっちゃんや。」
「あほなこと言うたらあかん。」などとたあいもない議論を繰り返しながら延々と曲がりくねった、ぬかるみだらけの寂しく細い林道を伝いながら部落に帰った。
 陽に焼け、潮風にさらされた疲れた体を住宅に運ぶとK氏の宅の閉まった障子の表で息子が一台のパチンコに向かって熱心にチンジャラジャラとやっていた。しばらく前にK氏が行きつけのパチンコ屋が潰れたとかで五百円とか六百円とかで買ってきたと隣のお婆さんが言っていた。遊び相手のない息子は母親の傍にくっついている時以外はいつもこのパチンコ台に向かって一人孤独にチンジャラジャラをやっていた。遊びの仲間にいつも誘ってやっても長続きがせず、知らぬ間に母親のもとへ帰ってしまっていた。パチンコ台の向こうの煤けた障子は締め切っていたが、その向こうに母親がおり、どこかの隙間から全神経を集中させて外部の気配を窺っているのが感ぜられた。この所しばらく顔を見たことはなかったので、また例の病気が始まったとおおよその察しはついていた。
「病気の時にはかあちゃんは触らせてくれんし、飯も作ってくれん。」と前にK氏が露骨にぼやいていたのを聞いたことがある。たぶんK氏が炊事や洗濯をやっているに違いない。しかし、そのようなことが長くつづくとK氏も眠っていた道楽心がもちあげてきて、パチンコや磯釣りに出掛けてしまい、二三日姿をくらましてしまう。帰ってきたときには必ずと言っていいほど悶着が生じて大喧嘩が始まるというのがこの夫婦の年間サイクルになっているように思われた。
「T君、父ちゃんは?」と尋ねると、しばらく熱中していたパチンコ台から首だけひねって、うろんくさい白目がちの瞳を向けて、
「知らん。」と無愛想に答えてまた首をパチンコ台に戻してしまった。
 一風呂浴びて飯を食い、ひっくり反っているときに、「おい、先生おるか?」と声がするので出てみると、赤ら顔に日焼けしたK氏が両手に大きな魚を二つぶらさげて立っていた。外は長い夏の陽もようやく山に落ち、残光が薄暗い闇を作りつつあった。この時期では遅手の蛍が二つすぐ前の小川の土手の縁を飛んでいた。K氏の様子はどうもまだ家の敷居も跨いでいない風なので、一度家に帰って出直したらどうかと言ってやると、素直にうなずき、「あとで一杯やりにくる」と言い残して帰っていった。一悶着生じるだろうと思って、どうせ来るはずはあるまいとたかをくくっていたが、予想に反して一時間ほどするとKはなに食わぬ顔で入ってきた。魚を料理してきたと見えて生臭い匂いが鼻を突いた。しかもまだ一匹手にぶらさげている。よく見ると、それは石鯛で、「幻の魚」と呼ばれている高級魚であった。この魚はめったに釣れず、しかし、釣れたときの引きの凄さは抜群で、一度経験した釣り師はその魅力に取りつかれて遠く阪神地方や名古屋方面から紀州を訪れてくる。今、K氏がぶらさげているのは大きなものでほとんどあの特有の縞模様は消えてなくなっていた。大体、七十センチぐらいを超えると模様は消え、顔つきが厳ついものに変わってくる。この地方では「ワサラベ」と呼称するのが常であった。まず、二人で料理することにして、住宅の下の川に下りていった。私が懐中電灯と俎を持ち、K氏が魚と包丁を持って水辺まで下りて行き、砂利のうえに陣取って捌きにかかった。周囲は完全に闇に包まれ、清流の流れの静かに澄んだ音以外に聞こえてくるものはなかった。私が照らしだす薄暗い懐中電灯の光の輪の中でK氏は山男らしからぬ器用な手つきで順序よく捌き続けた。薮蚊が来襲し、私たちを悩まし続けた。時折、K氏は包丁を置いて首筋の蚊をぴしゃりぴしゃりと叩いては並はずれた集中力でもって料理を進行させた。三枚にきれいに削いだ身と細かな鱗を刃先で念入りに除けた皮、寸分狂わぬ丈に切り取った強靭な骨、四、五片に叩き割った頭蓋、これらを見るにつけ私は彼を炭焼きとして置いておくのが惜しい気がしてならなかった。
 住宅に引き返した私たちは、刺し身はK氏に任せ、煮物は私が担当し、やがて近来目にすることのできなかった華やかな夕餉の食卓が出来上がった。まず焼酎で乾杯しあった。K氏は以前と同様に一気にグラスを干してしまった。夫人の機嫌が思いの外よかったらしく、目を細めゆったりとした満足気な表情を満面にたたえていた。私はKが釣りを好むことは聞き知っていたものの、たぶんそれは湾内で釣る小物だろうと想像していた。今日、太地の梶取岬で子供が指差し、Kのおっちゃんだと指摘したことを笑ったが、おそらくそれはまぎれもなく眼前にいるK氏その人であることは間違いないものと思われた。
「今日、梶取のはなからあんたが釣るとこ見とったよ。」とそれとなく確かめるつもりで問いかけてみた。
「わしは継子にいたんやがのう。」と別に驚く風もなく答える。継子というのは太地半島の西端に突き出した岬のことで、昔、継子を嫌い食い扶持を減らすために投げ込んで殺したところから通称「継子投げ」と呼称されるようになったと聞いたことがある。足下はほば垂直に切り立った断崖で梶取の断崖よりさらに深い絶壁になっている。梶取は憩いの場を持つやすらぎが感じられる岬とすれば、継子は険しさと寂しさを感じさせる岬であるといえる。目の前に浦神半島の先端がパノラマのように見え、さらにそのずっと向こうに大島の先端である樫野崎が霞んで見える。そして絶えず大型のタンカーから小さな漁船の行き交うのが見渡せた。
「高いとこからようあんたを見るのう。猿を追っ払っておったときもそうやった。今度も間違いのうあんたやと思うたがのう。」やはり子供が見たのは別人であることがわかった。ワサラベの白く削がれた身が表面に適度の油をたたえて食欲をそそった。醤油に付けるとなるほどぱっと油脂が広がる。何ともいえぬ歯触りのなかにかすかな甘味が口一杯に漂った。
「旨いもんやのう。しかし、釣るのは難しいやろのう。」と独り言のように呟けば、Kは耳ざとく聞き取ったらしく、
「まあ、易しいもんとは言えんのう。」と自慢げにうなずき、
「わしのように泳げんもんにとったらそれはまあ命懸けや。」と笑った。
「あんた、ほんまに泳げんのか。無茶苦茶やのう。」いつ滑り落ちるか、波に飲まれるかわからない危険極まりない磯で魚を釣ること自体が私には想像もつかないことであった。そしてそれにもかかわらず何度も釣りに出掛けていくKの無鉄砲さには趣味といった境地をすでに逸脱したものであり、まさに気違いの境地であると思えた。 「何回も通うとったら、一度や二度は滑り落ちることもあるやろのう。あんた生きとるのが不思議やのう。」とまじまじとKの顔を窺うと、
「そうや、死に目に遭うたことは二度三度はある。運よう救けられたり、助かったりしてきたが、これからはそう都合よういくとも限らん思て、今は自分の体を綱で岩へ結わえて釣っとるんや。」
「何もそこまでして釣りに行くことはない筈や。魚のために命落としたらそれこそええ笑いもんや。」呆れ返って、焼酎を飲み、分厚い刺し身を口に入れると、私の顔を覗き込んで、
「どうや先生、旨いやろ。」と陽焼けの顔に朱をはしらせ、満面笑みをたたえている。こんな命知らずに説法をしてみても始まるまいと、
「握り飯とおんなじや。それ、あんたが新宮で食った握り飯や。」と前の話に誘い込んでみた。Kは一瞬訝しそうな表情をしたが、思い出したとみえて、
「ああ、あの話か。」と応じてきた。私のほうではなんだか面白そうな映画を途中で中座して結末が今だにわからないような気分で、折りあらば一度酒でも飲ませて聞いてやろうとその機会を待ち受けていた。
「どこまで話ししてたかのう。」と腕組みしながら天井を見上げている。
「あんたが大八引いて、大王子で握り飯もろて、感激して泣いた話しやがなあ。そいで、どうしても義理果たさんならんと思て椎茸集めて、しまいに猿に食われた話のことや。」そこまで言ってやると記憶の糸がつながったらしく、しばらく沈黙してから勢い込めて残りのグラスを一気にあおった。




      九 章

 敗戦が迫るにつれて紀伊半島は空襲銀座と化した。敗戦の前年八月にマリアナ諸島が米軍の手に落ち、グアム、テニアン、サイパンなどの島々からは日夜B29がまるで蜂の大群のように本土を向けて攻め寄せてきた。さらに硫黄島が陥落してからは小型戦闘機のP51が燕が餌を襲うようなスピードで半島の上空を飛び回った。それらはまるで地上の鼠を攻撃する鷲や鷹のごとくであった。米軍の本土攻撃目標は敗戦の三月から六月にかけてのあの大都市爆撃ですでに終わっていたように思えるが、かれらは執拗に爆撃の手を緩めなかった。遥か海上を見はるかし虚空を突き切って飛来した彼らの大群は紀伊半島最南端の潮岬の上空で集結し、いったん隊列を組み直し、さらに阪神、中部の軍需施設や工業施設に規則正しい爆撃を加えていった。しかし、最早彼らの抱えた爆弾のすべてを消費し尽くすほどの対象を見つけることは困難であった。さりとて、産卵期の蟹のように腹部に重い爆弾をつけて基地まで飛行することも困難であった。負担になったお荷物は捨てるにかぎるわけで、彼らは臨機爆撃と称して、行きずりに紀伊半島の各地に多くのお土産を落としていった。海上を低空で飛行してきた彼らは、紀州の山並みをいったん駆け上り駆け下っては猫の額のように狭い陸地を容赦なく攻撃しては海上に消えていった。紀勢線の列車は勿論のこと、作業中の農夫、漁船、製紙工場、潮岬や樫野崎灯台、学童のはてまで容赦なく狙い射った。 私はその頃はまだ国民小学校に入学しておらず、空襲警報が鳴るたびに祖父の背中に負ぶさって防空壕に駆け込み、終日暗い穴蔵の中で無為に過ごした経験があるが、当時すでにKは本宮から新宮までの長い道程を炭俵を大八車に乗せて、家計を支える労働力の一員として額に汗していたことを思えば、なんだか彼の顔がまぶしく感ぜられてくる。
 しかし、一つだけ私の腑に落ちないことがあった。当時私が穴蔵の中で感心したことは、どれだけ空襲がひどくなっても学童はみな通学していたことである。B29やグラマンが機体を美しく光らせ、上空を優雅に飛行する光景のうちに、隠し持った死の牙を瞬時に剥き出し襲い来るであろうし、また、いつ巨鯨のような潜水艦が海面に姿を現し艦上から砲弾を浴びせてくるかわからないその下を、命懸けで通学することなど思いも及ばなかった。K氏の話だと父親と二人で本宮の山奥に篭もって炭を焼いていたことになるが、そんなことがとうてい許されるはずがないように思える。
「あんた、学校に行かんでもよかったんか。どうもそこのとこがようわからん。」と疑問をぶつけてみると、
「ああ、わしは行きとうなかったんや。」と呆れるばかりのそっけない返事が返ってきた。石鯛の刺し身をぱくつきながら私の疑問など無視するように旨そうに焼酎をぐいぐいと空けている。
「行きとうなかったら行かんで済んだらええが、そんな訳にはいかなんだと違うか。戦時中いうたらいまと比べもんにならんくらい先生も厳しかった筈やし、なかなか許してくれなんだ思うがなあ。」と追求してやると、
「まるっきり行かなんだ言うたら嘘になる。すこし行っとってそれから行かんようになった。まあ今で言うたら中途退学いうようなことや。」とこれまたそっけない一語につきる。酔いが回って面倒なことを考える暇がないのかと思って改めて観察してみるが、べつに顔つきにしても呂律にしろしっかりしている。
「チンオモフニワガコウソコウソウクニヲハジムルコトコウエンニ・・・と言うの習わんかったんか。あの当時の子供やったら、意味はとにかくみんな空で憶えていたちゅうでえ。あんたも憶えとるやろう。」と言ってやるとしばらく天井を睨んでいてから、
「ああそれやったらちょっとは憶えとる。他の者なら全部憶えておったがわしだけはよう憶えんかった。もともと頭悪かったし、それに当時の担任がえらいきつうて、どっちかいうと殴られてばっかりやったんでよう憶えんかったんや。戦争終わってからその先生中風で死んだったと風の頼りに聞いた時は清々したのう。罰があたったんや思うたのう。」よほどひどい目に遭ったと見え、瞳が殺気立ったように見えた。
「あの当時はみなそうやったんや。なにもその先生だけやなかったんやないかのう。死んだ人を糞味噌に言うたら今度はあんたが罰あたって死んでしまうで。」とその先生を弁護してやると、むきになって膝を乗り出してきて予期しなかった興奮した語調で、
「なに抜かすんや、知りもせんで。先生やから先生の肩持つんはわかるけど、わしがどんだけ殴られたかわかったら、あんたでもあいつが死んでわしが清々した気持ちがわかる筈や。」よほどくしゃくしゃしたと見えて一升瓶を鷲掴みにするとコクコクと自分のコップに焼酎を注いだ。私のコップも空になっていたがまったく注いでくれる気配はなかった。しばらくしてから、
「気に障ることを言うてすまんことをしたのう。わしはあんたがどんなひどい目に遭うたか知らなんだもんやから、つい月並みなことを言うてしもうて。」しかし、一時に機嫌を直すのはばつが悪いと見えて、しばらく拗ねていた。私が無駄口を叩いたおかげで乗ってきつつあった会話の流れが中断してしまった。しかし、腰を上げて帰ろうとしないところを見れば彼の興奮もそう長く続くものでないことは目に見えていた。案の定、
「今でもよう忘れんがのう。・・・・」としばらくして切りだしてきた。今度は話の腰を折らずに静かに聞くことにして、自分のコップに酒を注いだ。
「先生がさっき言うとった勅語のことやけど、四年の時やったかのう。修身の時間に一人ずつ空で憶えたのを言わされたことがあった。同級生たちは次々に立ってすらすらと上手に言うのでわしは心配になってきたんや。そのうちにもだんだんわしの番が近付いて来るにつれて、心臓がドキンドキンと大きな音で打ち出し、頭がキーンと鳴って、さっきした筈の小便がまたしとうなってくるんや。ちょっとは憶えとったはずの文句が全然頭から消えてしもうたところでわしの番に回ってきた。チンオモフニの切りだしのところはまあうもういったんやが、トクヲタツルコトシンコウニ・・・のとこでどうしても『トク』のとこが出てこんのや。手のひらに一杯汗が出てきてべとべとになって俯いて必死で思い出そうとしとった。先生の苛立っている顔が見いでも鬼のように浮かんできた。早う言わな叱られる、叱られると思て『チンヲタツルコトシンコウナリ』と言うてしもうたんや。瞬間わしの目にいっぱい火花が散った思うたら、思いっきり板敷に叩きつけられていた。」私はおかしく笑いたいのを辛抱していたが、また笑ってKのご機嫌を損ねては今度こそ怒って帰ってしまうのではないかと恐れて黙っていたが、
「何にもおかしいことないのに、そのくらいのことで殴るなんてけしからん先生やなあ。そりゃああんたが怒るのも無理ないこっちゃなあ。」と過分に胡麻をすれば、今度は上機嫌で乗り出してきて、
「そうやろう。『この不謹慎者奴』やの『非国民者奴』と怒鳴りたてたが、今から思えばあいつの方が『助けべえ奴』やったんやというのがようわかるやろう。わしはなにもそんなこと考えて言うたんやない。」
「それで学校へ行かんようになったんかのう。」内心では、たった一回くらい殴られただけで、と皮肉を言ってやりたい気持ちを押さえながらたずねてみた。
「いくらなんでも、それ位のことで行かんようになったんやない。そのくらいやったら、まだ炭焼くより学校の方がましやった。しかし、それからというもんは先生にはいつもせちがわれることになったが、学校中の奴らがわしの顔を見るたんびに、チンヲタツル、チンヲタツルスミヤキ・チンヲタツルなどと抜かしてからかわれたんでだんだん行くのが嫌になってしもたんや。それだけやなしに、そんなに言われる自分がつくづくアホに思えて勉強してもしょうないと思うようになったんや。毎日毎日勉強より校庭に立たされる方が多いし、アホアホ言われるんやったら、お父の炭焼き手伝うたほうがましやと思えてきたんや。」嘗て、Kの女房が「父ちゃんは小学校もろくに出ていない。」と言ったが、今、その事情がはっきりしたように思えた。
「あんたが学校に行かんようになった事情はようわかったが、そんなこと学校の方で許すはずないように思うがのう。学校へ行くよりも来い来いと催促されて行かんほうが気が重かったんと違うやろか。いくら戦時中とはいえ義務教育には変わらんわけやからのう。今より権力持って追いかけてきたんと違うんか。」彼はもうそんなに残っていない刺し身に手を付けず、煮付けたあらに手を付けていた。骨に付いた身を丹念に箸でほじくりだしてはまるで蟹のようにせっせと口に運んでいた。
「そうやなあ、そいつの方が恐かったがのう。しかし、わしも強う決心しとったんで絶対に捕まらんつもりでおった。何回もあの先生が山までやってきたが、山の中でわしを追わえても勝ち目はないのは当たり前で、何度もすごすごと山を下りて帰っていった。いつも親父に捨て台詞を残していったそうな。今度は警察呼んでくるとか、憲兵に来てもらうとか。結局、みんな嘘でそんなもんは来んかった。わしみたいな役にたたんアホな小学生を捕まえるのになんでそんな者が来るかいな。脱走兵やったら来るかもしれんが、わしは脱走生やがなあ。」話に興が乗ってくるといつもの癖でなかなかおもしろい言葉が彼の口を破ってくる。
「それでも、大八引いて新宮に行く途中で、よう捕まらんかったなあ。」
「はじめのうちは何度か待ち伏せしていてそのたんびに追わえられた。わしは大八放って山の中に逃げ込んだ。山へ入ればこっちのもんや。道路で地団駄踏んで悔しがっておるのを山の上から眺めておった。長いこと山の中に隠れておって、折り合いを見計ろうて出てくると、大八まではよう取って行かなんだと見えて、いつも無事やった。しかし、こんな鼬ごっこもそう長いこと続かなんだ。」彼はそこで一息つぐようにして、時計を見た。時計といっても、畳の上に置いている目覚まし時計である。夏の短い夜はかなり更けたと思われたが、それほど更けてはいなかった。暗い電灯のまわりをくるくると大小二匹の蛾が飛び交っていた。外に珍しく車のエンジンの音がして何やら、ボソボソと低い男の話し声が伝わってきた。
「鰻を密漁に来たんや。」とKは静かな声で言った。この部落で車を持っているのが私一人であってみれば、外部からの闖入者であろうことは間違いなかった。
「バッテリーで盗りにきたんや。」と続けて呟いたが、彼らを咎めに戸外に出て行く気配はなかった。それよりもKの様子は、先程の自分の話の続きを思い出し、整理しているように私には見て取れた。男たちは闇の中に消えたと見えて、またもとの静寂が訪れた。



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