ブラウン運動の虚実

                            安田毅彦 


(1)                                   
 その話というのはこうだ。顕微鏡下で、水中にある微粒子が水分子の衝突によってはげしく不規則な運動をするのが観察されるが、これをブラウン運動といっている。イギリスの植物学者ブラウン(R. Brown、1773〜1858) が花粉の研究をしていて発見した現象で、分子の熱運動(ひいては分子の実在)を視覚的に証明するものとされている。問題なのは、ブラウン運動が発見された経緯を説明している書物のほとんどが、とんでもない思い込みにもとづいて書かれていることだ。
 たとえば、子供向けの科学雑誌の記事には「花粉を水の中に入れてごらん。ほら、びくびく動いている!」と書かれ、物理や生物の専門書には「花粉を水の中に入れると細かい運動をする。これがブラウン運動の発見である」などと記されているのである。
 実際には、花粉は水の中でブラウン運動などしない。あんな大きなものが、水の分子がぶつかったくらいで、あっちにフラフラ、こっちにピクピクと動くわけがない。植物の花粉は普通30〜50ミクロン(3x10-5〜5x10-5メートル) くらいの直径である。カボチャやオシロイバナの花粉は少し大きくて100ミクロン(10-4メートル) を超え、小さい方ではワスレナグサ、オジギソウなどの花粉が10ミクロン(10-5メートル) を少し下まわる。一方の水分子の直径は、2オングストローム(2x10-10メートル) くらいだから、花粉にぶつかる水分子というのを、わかりやすい比率に置き換えれば、直径1kmの小惑星に衝突するパチンコ玉ということになる。とても動くとは思えませんね。
 なぜこんなことになったのかというと、ブラウン運動の発見者のブラウンが見たのは花粉そのものではなくて、水に入れた花粉が膨潤して破裂し、中から出てきた顆粒状の微細粒子の動きだったのに、初期の紹介者が迂闊にも「花粉が動くのを見て云々」とやってしまったのだ。ブラウンの原論文の標題には「植物の花粉に含まれている微粒子について」とあって、主役が花粉そのものでなく、花粉に含まれている微粒子であることが明確で、もちろん論文中でも花粉が動いたなどとは書いてないらしいのである。

 この話は『思い違いの科学史』(青木国夫他、1978、 朝日新聞社)という本に出ている。これは科学史上のいろいろな謬った考えや思い違いについての話題を集めた本で、科学の裏面史を誤謬の克服の観点からとらえた面白い読み物だ。その最終章がブラウン運動の話なのである。筆者は科学史の専門家で国立教育研究所の職員である板倉聖宜という人である。

(2) 
 じつをいうと、ぼくは子供のころから「花粉のブラウン運動」を疑っていた。疑いつつ信じていたように思う。昔、春の雨上りには砂利道の水たまりに空と雲が映っていて、覗き込むと足元に無限の深みが口を開いていた。蒼い空が黄土色になって反転し、本当の空よりもリアルだった。あまりの深さに空恐ろしかったものだが、そんなときに松の花粉が一面、薄黄色に浮いていることがあった。地面の中の無限遠空間にひき込まれながら、花粉がどうかして動かないものかと見つめていた。花粉のひと粒が肉眼で見分けられるわけもないが、たくさん浮いているから一つ一つの存在の有無はわかるのである。浮いている様子から、これらが動いて水面における分散配置の姿が変わるのを見落とすはずがないと思った。微風で揺られたり寄せられたりするのとは簡単に区別できそうだった。
 しかし松の花粉は動かなかった。たぶん、花粉が大きすぎるため、水の分子がぶつかってもほんの小さな動きしかしないのだ、そんな動きは顕微鏡でしか見えないのかも知れないが、でたらめにブルブル動いているうちに眼で見える程の位置の変化をするに違いないのに、おかしいなと、きわめて論理的に考えていた。そのころ顕微鏡を所有できるほど裕福だったなら、見えるはずのブラウン運動が見えなくて、もっと悩んだだろう。
 ドラム缶に水をはった防火用水。伸びはじめた松の新芽をちぎり、切り口からでる透明な松ヤニを松葉の先にちょっとつけて水面にはなす。松ヤニの薄膜が水面にひろがる勢いが推力となって、松葉はクルクルスイスイと動きまわる。そんな遊びの時にも松の花粉は浮いていて、真剣な観察の対象になったが、ブラウン運動は姿を見せなかった。床の間の水盤にはさまざまな花の花粉が浮いていて、やはり長時間の観察を強いたものだが、花粉はいつまでも同じ位置にいた。顕微鏡なら見えるのだろうと思うのだけれど、所有の欲望にまで成長しなかった。水の表面張力の観念を入手したときは、花粉は顕微鏡的な動きをするけれども表面張力に束縛されて位置を変えられないのだ、という苦しい仮説を思いついて身を任せたりした。


(3)    
 ブラウン運動が日本に紹介されたのは1908年のことだが(東京帝大物理学教授・鶴田賢次『物理学叢話』)、しかしここには花粉のことは出てこないという。その2年後にはあの有名な長岡半太郎(やはり東京帝大物理学教授)が「ブラウン運動について」という講演を行なっていて、「その起源を申せば、英国の植物学者Brownが1827年に植物の花粉を研究して、それがあたかも生きているように運動するのを見て甚だ不思議千万だと思ったのが始まりです。」と述べたと、記録にあり、このあたりが誤解の始まりらしいのである。これ以後、連綿と誤解が再生産されるのだが、そこには、科学における専門分化と相互交流の不在という大きな問題が横たわっていた。物理の先生は花粉の何たるかを知らず、生物の先生は水の分子については無関心だったわけである。
 しかしそれだけではないよね。早い話が、もっともらしい事柄は確かめずに書くという習慣ができあがっているのだ。これはべつだん、権威に弱いとか、そういう話ではないと思う。今は個人で確かめられることなんて、科学の世界にそう多くはない。
 一方で、見てきたような潤色がほどこされる。上記の板倉があげている例では、「その花粉が水の中を絶えずあっちこっちフラフラと揺れ動いているのです。実際に顕微鏡で覗いていますとですね、(…)幼稚園などで小さい子供がたくさん集まってチッタラタン、チッタラタンといいながら踊りますね、あのチッタラタンという言葉がいかにもピッタリするような愉快な動き方なのです」(平田森三1975『キリンのまだら』中央公論社)というのなどは最高傑作であろう。
 板倉とその協力者は、当時出版されていた一般人向けの科学書、百科事典、児童向けの科学書などで、ブラウンの研究や花粉との関係に言及している本を調べあげた。 湯川秀樹の本(『素粒子』岩波新書)も、坂田昌一の本(『物理学原論』国民図書刊行会)も、武谷三男の本(『科学入門』勁草書房)も、ぜんぶ、落第。中学校の理科の教科書もみんなアウト。 彼らは53冊の本を調べたが、そのうち「ブラウン運動するのは花粉そのものではなくて、花粉がこわれて出てくる微粒子だ」と書いてある本は、岩波洋造の本3冊だけだったという。岩波洋造はこの件に関してすでに『植物のSEX――知られざる性の世界』(1973、 講談社ブルーバックス )で明確に指摘し、告発しているのであった。
 翻訳書でも、訳者が頑固な思い違いをしているものだから、もとが正しくてもつい「花粉が動く」と訳してしまうらしい。アインシュタインの『物理学はいかにつくられたか』(岩波新書)や、アメリカの有名な教科書『PSSC物理』の訳文の中でも、花粉がブラウン運動をしているのである。
 もっとも、欧米でもこの誤解は広まっているらしく、花粉そのものが動くように書
いている著者はたくさんいるということだ。

(4) 
 ぼくも手元にある本を何冊か覗いてみたが、ありました、ありました。
    
「花粉を水に浮かべておくと、水の分子が方々からそれにぶつかる。一つ一つの分子の力は、非常に小さいけれども、上に述べたような理由で、花粉はギザギザ運動をする。」      (坪井忠二1970『力学物語』岩波書店)


「英国の植物学者Brownは1827年に、植物の花粉を顕微鏡の下に観察していたが、その運動がリズムもなく、また規則性もなく、あちらこちらに躍っているのをみた。彼はこれを無機の物質のコロイド溶液についても拡張して上の現象が一般的の現象であることを認めた。」
          (原島鮮1963『物理学(上)』学術図書出版社)


「ブラウン運動は1827年に植物学者のロバート・ブラウンによって発見されたものである。彼が顕微鏡で小さな生物を研究しているときに、液体の中で、植物の花粉の粒がせわしく動き回るのに気がついた。」
      (ファインマン他1968『ファインマン物理学』岩波書店)

 ファインマンのものでは「花粉の粒が…」と訳されているところにちょっとひっかかる。原文では「花粉から出た粒子が…」という意味になっているかも知れないからだ。(この点について佐々田友平の註がある。)
 ところで『岩波理化学辞典』の「ブラウン運動」の項の説明は、ブラウン運動のようにフラフラと移り変わった歴史があることがわかった。
 1935年の初版では、ブラウンが「花粉を観察中」に発見したと書いてある。1953年の第2版では「Brownは花粉を水に浸して顕微鏡で観察し、この微粒子が絶えず不規則な運動を続けていることを見出した」となり、1971年の第3版では「Brownが顕微鏡下に水中に浮遊する花粉が不規則な永久運動を続けることを発見したことによりこの名がある」と、どんどん間違いの方向に訂正されたが、1987年の第4版にいたってようやく、「彼は、水を吸って破裂した花粉から出る微粒子が水中で不規則に激しく動くことを顕微鏡下に観察し、はじめ生命による運動と思ったが、化石の粉から鉱物の粉、煙の粒子などまで、粒子さえ微小なら同種の運動をすることを発見した」とほぼ正しい記述に落ち着いている。
 板倉聖宣や岩波洋造の啓蒙の効果があったのかどうか、『思い違いの科学史』以後のもので、ぼくが見たのは前記の理化学辞典を含めて、たまたま岩波書店のものばかりなのだが、『岩波ジュニア科学講座2・運動・光・エネルギー』(1985年) 、『岩波科学百科』(1989 年) の説明はおおむね妥当のようである。そういえばと思いついて、それ以前のものである『万有百科事典19・植物』( 小学館、 1972) のブラウンの項をひいたら、「花粉粒中の顆粒の運動(いわゆるブラウン運動)の発見」と正しい記述になっている。しかし、よく見ると執筆者に岩波洋造の名があった(項目執筆は鈴木善次)。


(5)
 こういう種類のことを、板倉聖宣は裸の王様の話そっくりだと言っている。誰も花粉を水に浸して顕微鏡で覗いてから啓蒙書を書くわけではない。花粉から出て来る微粒子という記述を原文で読んでも、これをも花粉だろうと思ってしまう。そのうえ昔から「花粉がブラウン運動をする」という話を聞き知っている。これでは間違いが訂正されようがない。しかも、子供達や教師達は、顕微鏡で花粉のブラウン運動が見られないとしても、顕微鏡が悪いのか、標本の作り方が悪いのか、観察の仕方がいけないのかと思ってしまう。 しかし、この種の問題というのは他にも結構ありそうな気がしてならない。ありそうなのだが、今のところは誰も王様が裸であることに気がつかず、自分の眼がいたらないのだと思い込んでいるから、それと指摘するわけにいかないのだ。
 的はずれを承知であげてみれば、「蓮の花が開く時はポンと音がする」という俗信などは、これに近いかも知れない。この俗信は夏目漱石が小説の中に書いたことで広まってしまったという説がある。早朝のこととて、確かめにいく暇人があまりいない ために、そして確かめた人が漱石ほどの流通パワー(有名力)がないために、今でも真説が流布しないのであろう。そして、ポンと鳴った方がめざましくてチャーミングだから、俗信と知りつつ捨てられないのだ。また、いまは勢力激減状態だが、天皇現人神説などもかつては相当の裸の王様振りを発揮したといえるのである。

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