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本所五つ目、羅漢寺・さざえ堂の百観音と高村光雲

上の地図は「江戸圖 安政」(安政六年1859)で、日文研所蔵地図として公開されているものである(ここ)(上図は鮮明ではないが、日文研サイトに行けば拡大部分図を見ることができ、地図の細文字を読むことができる。
簡単に説明をしておく。図の「上-下」は、ほぼ「北-南」になっている。隅田川が南へ流れ、上から「東(吾妻)橋」、「両国橋」、「新大橋」(隅田川(墨田川)が正式名称となったのは昭和時代。江戸では浅草川・大川・宮戸川などとも呼ばれていた)。地図の左上に不忍の池と寛永寺があり、中央上部に浅草寺がある。なお、赤い地域は寺社を表している。川向の右下に羅漢寺がある。周辺には「カメドムラ 田 畑」「五ノハシ丁」などと記してある(亀戸村、五の橋町)。
「両国橋」で隅田川にそそぐのが神田川で、神田川のやや上流に「筋違御門 すじかい」があり近くに「旅籠町 はたご」を書き込んでおいた。これは清水晴風の家があったところ、晴風と光雲との直接の交渉はなかったようである(晴風の方が1歳年長。竹内久一は5歳年長。『高村光雲懐古談』には、光雲が東京美術学校の彫刻科に雇われてからは「竹内久一先生」として幾度も登場するが、竹内とは個人的に親しい付き合はなかったのか、そういうことは述べられていない) 「下谷西町」は後に光雲が独り身のころ製作に励む所(他にも転居する)。「東雲」と書いたのは、師・高村東雲が明治10年ごろ住んでいた駒形をしめす。「枕橋」は光雲が駆けつけた下金屋がある場所。

松雲が鉄眼師に難波瑞龍寺で入門したのが寛文十年1670のことで、松雲は作仏聖であったようだ(作仏聖に関しては、拙論「福山周平の由来記」の【7】弾誓上人のことで扱っている)。天和二年1682松雲は江戸に下り、五百羅漢像(木造)を造立することを志す。元禄四年1691、浅草寺で羅漢像を作り始めた。本尊の丈六釈迦像を彫りはじめるのが元禄六年。そのころから松雲の造仏が評判となり、本所五の橋に将軍から土地を賜ったのが元禄八年。五百羅漢の造立が完成したのが元禄十三年1700。享保十九年1734に、将軍吉宗が土地をさらに下賜し寺域が6000坪となる。
『江戸名所図会』第七巻に多くの挿絵を使って紹介されている。本堂があり、その両翼に「東羅漢堂」と「西羅漢堂」が延びている。それ以外に、「三匝堂 さゝいどう」(さざえ堂)が出来たのが安永九年1780で、百観音を安置した。江戸で木彫仏の優品が多数集まっている唯一の寺となったのである。


東都名所 五百羅漢さざゐ堂(広重) 「錦繪でたのしむ江戸の名所-国会図書館」による

もともと本所・深川はゼロメートル地帯の低地で、出水や高潮の被害が多かった。弘化三年1846は長雨の水害がひどかった。安政二年1855は安政の大地震で、本堂、三匝堂が大破し、東西羅漢堂、天王殿倒壊の被害があった。翌安政三年には暴風雨と高潮で壊滅的打撃。
これら天災に加えて、明治維新後の「神仏判然」、「廃仏毀釈」の新政府の政治方針が重なり、羅漢寺は見る影もない状態になっていた。そして、明治8年1875には、三匝堂は百観音像とともに売りに出されたのである(この点について、高村光雲の体験を以下紹介する)。
羅漢寺の本堂・東西羅漢堂はかろうじて残り、明治41年1908に本所から目黒に移転した。明治初年に内務省に届けた仏像が460体であったのが、この時点で370体になっていた、という(ここは、目黒の天恩山五百羅漢寺のサイトの「五百羅漢寺について」を参考にした)。

修業時代の高村光雲(さざえ堂が売りに出された明治8年に23歳)にとって羅漢寺や「さざえ堂」がどんな意味を持っていたのか、『高村光雲懐古談』を引く。わたしはこれを読むまでは、羅漢寺についてごく平凡な印象しか持っていなかった。
私の修業時代は,本所の五ツ目の五百羅漢寺といえば、東京方面における唯一の修業場であって、よい参考仏が一纏りになって集まっているのでした。もっとも、五百羅漢、百観音は、いずれも元禄以降の作であって、古代な彫刻を研究するには不適当であったが、とに角、その時代の名匠良工の作風によって、いろいろと見学の功を積むには、江戸では此寺これに越した場所はありませんでした。
それで、私などは、朝から、握飯を持って、テクテク歩きでこの羅漢寺へやって来て、いろいろと研究をしたものであります。日が暮れると、またテクテクとやって家へ帰る。他に便利な乗物がないから、弟子も師匠も,小僧も旦那も、それだけは一切平等でありました。
『高村光雲懐古談』p120
「さざえ堂」が取り壊され、百観音像は縄でくくられて「下金したがね屋」(古金を扱う業者)の庭に山となっている。光雲は明治7年に11年間の修業は明けて独立していたが、まだ師匠の高村東雲の家に住み込んでいた。この知らせを聞いて光雲は必死の思いで下金屋に駆けつける。下金屋というのは古道具屋ではなく(つまり、仏像を像として扱うのではなく)、仏像に使用してある貴金属などにだけ関心がある。金箔などの金を取り出すために、像を燃やして灰を吹くのである。
下金屋は本所枕橋(地図に記入)の際、八百松から右へ曲がった川沿いの所にあった。その川沿いの庭に,百観音のお姿は、炭俵や米俵の中に、三、四体宛、犇々ひしひしと詰め込まれ、手も足も折れたりはずれたり荒縄でくくって抛り出されてある。これは、五ツ目からこの姿のままで茶舟にせられ、大河おおかわを遡って枕橋へ着き、下金屋の庭が荷揚場になっているから、すぐそこへ引き揚げたものである。
そうして、彼等はこれをどうするのかというと、仏体はそのまま火をつけ焼いてしまい、残った灰をふいて,後に残存してる金をとろうというのです。
いまだ下金屋らには顔の知られていない光雲は、冷たくあしらわれるが、ともかく、よいと思える5体を選び出したところに、下金屋に顔の利く師匠の東雲が来てそれらを買うことが出来た。
帰宅後師匠に頼んで、その内の観音一体を自分の「守り本尊」とするということで、自分のものにすることが出来た。それは光雲があらかじめ松雲の作であると見立てておいたものであった。
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