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第三巻 77
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葛西金町半田稲荷


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『武江年表』の「享保年間(1716~36)記事」に
葛西半田稲荷社、平井聖天宮参詣多し
とある。それで享保年間を読んで、関連しそうな項目を拾い出してみた。
享保十三年九月 大水 死者万余人
十五年 冬より翌年春にいたり麻疹はしか流行
十七年 天下飢饉、疫癘行はる
十八年 七月上旬より、疫癘天下に行はる。十三日、十四日、大路往来絶えたり。藁にて疫神の形を造り、これを送るとて鉦太鼓をならし、はやしつれて海辺にいたる。
藁で造った疫神の形を、鉦太鼓ではやしながら海まで行き、流した。これはまさしく願人坊主の得意とするふるまいである。今に伝わる「はしかも軽い、疱瘡も軽い」というはやし言葉も生まれたのであろう。(この項目は「大道芸通信 第170号」に多くを教えていただきました。)

「江戸年中風俗之絵」に「半田行人」の彩色画がある。それで分かるように、左図の行人も真っ赤の身支度で赤い旗をもって鈴を鳴らした。

なお、第3巻-60から-83(巻末)までのうち、この-77のみ「広重人物画稿」に含まれていない。したがって、「広重人物画稿」を原画としているのは、計23枚あったことになる。この「葛西金町半田稲荷」がここに置かれた理由が新たな問題なるが、前(76)が「願人坊主」、次(78)が「金比羅参り」なので、晴風オリジナルの半田行人を間に挟んだのであろう。

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