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第四巻 21
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飲用水賣みづや

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巻一-29 「水賣」も同一の職業。

江戸の町では玉川上水・神田上水などを利用した上水が細かく引かれ、共同井戸から汲んで洗い物などに使った。これを「上水井」という。下町では良い掘り抜き井戸はなかった。そのため、飲料水は上流のきれいな水や良い掘井で汲んだ水を担いで売った。これが水屋。
明治のころ,東京の下町あたりではだいたい1荷1銭くらいで朝夕2回定期的に買う家が多かったようである。世界大百科事典より
江戸期を通じて神田・玉川両上水、つまり江戸水道の恩恵を直接うけられなかった深川地区では、日常生活に欠かすことのできない飲料水は、数少ない掘抜き井戸と、両上水の余水あるいは中川あたりから汲み上げてきた、水売りの水で賄われていた。『都史紀要31 東京の水売り』東京都1984 p23
上掲書p91に「飲料水の検査(明治19年1886)」という表があり、それによると上水が来ていない本所区、深川区を合計して堀井が457あり、検査によって飲用禁止となったのが実に 373(82%)であった。これでは水屋から購入するしか無いわけである。
上水の来ているところで、本数の多い日本橋区をあげておくと、上水井は2034あり、そのうち飲用禁止となったのが968(48%)、「上水の水源での水質は比較的良好ではあっても、木樋に導かれてひとたび人口密集地に入るや、汚物の混入によりにわかに水質が悪化していったのである」(p89)。日本橋区に堀井は339あったが、飲用禁止が261(77%)で本所・深川と同様の有り様だった。

明治19年7月以降数ヶ月間は、横浜から始まりコレラが大流行し、東京府下で9800余人の死者を出している。府は飲用水の「濾過煮沸」の励行を呼びかけたが、「東京中は一種のコレラ・パニックとでもいうような状況におちいった」(p94)。

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