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第六巻 67
機械的な製氷機ができる前は、氷室などへ氷を保存しておいて、真夏に取り出して利用した。こうした天然氷の利用法は古くから行われ、たとえば『栄花物語』に道長の妻(のひとり)高松殿・明子が心労でやつれているときの描写に氷が出てくる。真夏である。 はかなき果物もきこしめさで、消え入り/\せさせ給へば、けづり氷ばかりを御前に置きて、たえず勧め参らせける。(岩波古典体系本76「みねの月」)江戸時代には、加賀藩が将軍家へ白山の氷を献上したとか、富士山の氷穴から切り出した氷を献上した、などという。冬の寒いうちに江戸まで運んで氷室に保存しておけば、真夏の献上も可能だったのだろう。 アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』に1867(慶応三)年7月の新潟で、「凍雪」のご馳走の事が出ている。 私は初めてこの地で当時の日本で氷の代用をつとめていた凍雪を見たが、この季節にしてはきわめて贅沢なものだと思った。(坂田精一訳 岩波文庫下p11)そのすぐ後、金沢のある家でも同じ経験をしている。 この家では、おいしいメロンと林檎と、町の裏山から取ってきた凍雪などが出された。(同前p22)アンモニアを冷媒とした製氷機は幕末から知られていた。明治16年(1883)にできた東京製氷会社が日本初の会社であるという。明治中期以降の東京では、金さえ出せば夏季の氷が当たり前になっていく。巻六-17「アイスクリンム賣」でも製氷会社を扱った。 |