き坊の ノート 目次

「大石駅」の出る合戦


―― 貞観富士噴火と河口浅間神社 ――


目次
《1》 鉢田合戦
《2》 武田源氏の存在感
《3》 貞観の富士噴火
《4》 甲斐-駿河を結ぶ街道
《5》 河口浅間神社

和暦は和数字で表記します





はじめに
今から35年以上前のことだが、ある方から河口湖近くの山林の土地を「勝手に使ってかまわないよ」と言われた。中年真っ盛りだったわたしと遊び仲間は、そのご厚意に飛びついて、遊びの基地になればよいというだけの気持ちで皆で薮を切りひらき、プレハブ小屋(六畳一間、電気・水道なし)を建てた。週末にハメを外して酒を飲むのに便利であったことと、当時皆の共通の趣味だった「探鳥」の足場として使えるので、よく利用した。

その探鳥の仲間もすでにバラバラになり、今ではわたしがひとりで「探虫」をやっているばかりになった。これまでにその小屋周辺で撮影して拙サイトに掲げた虫は3種のみ。 イシハラカメムシ ヒゲナガハナアブの仲間 ハナダカハナアブ、いずれもやや珍しい種類に属する。

大石部落はその小屋へ行くのに、必ず通るところだった。食料や雑貨を購入することもあった。水を汲ませてもらった。それで大石には親しみを感じるようになっていたし、河口湖周辺にはある程度土地勘ができていた。
しかし、35年も経過して忘れかけていたところに、思いも掛けず「大石駅」という語に『吾妻鏡』で出会って、 驚いた。驚き感動した。その勢いに乗って調べてみた。




《1》  ―― 鉢田合戦 ――


『吾妻鏡』の治承四年(1180)十月十三日条に、甲斐源氏の軍勢が富士の裾野を回って駿河国へ向かって南下する動きを叙述するところがある(以下引用は永原慶二監修『全訳吾妻鏡』(新人物往来社1976)による。なお、以下の全ての引用を通じて、強調や下線は引用者が施したものである)。
また甲斐国の源氏、ならびに北条殿父子、駿河国に赴く。今日暮れて、大石駅に止宿すと云々。

戌の刻、駿河の目代(橘遠茂)、長田おさだ入道が計をもって、富士野を廻りて襲ひ来るの由、そのつげあり。よって途中に相逢ひて、合戦を遂ぐべきの旨群議す。

武田太郎信義・次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・井澤五郎信光等は、富士北麓若彦路わかひこぢを越ゆ。ここに加藤太光員みつかず・同藤次景廉かげかどは、石橋合戦以後、甲斐国の方に逃れ去る。しかるに今この人々に相具して、駿州に到ると云々。
この部分は3つの文節からできていると考えて、3分した。。
その第一は、甲斐源氏の軍勢と北条父子(時政・義時のこと、石橋山の合戦で敗北したあと頼朝と別行動をとって甲斐国に来ていた)らは、駿河国で平家軍と合戦するために移動を開始し、大石駅で泊まることになった。甲府盆地から一日の行程のところに大石があるのだろう(後に示すが、甲府-大石が八里)。
第2の文節。「戌の刻」(午後8時ごろ)駿河の目代らが、はかりごとを持って襲来するという報せが入ったため、群議して、目代らと途中で遭遇戦にもちこもうということになった。積極的に攻めて出る発想である。
第3の文節。そこで武田信義ら武田源氏の面々に、石橋合戦のあと甲斐勢と合流していた加藤太光員らも加わって、駿州に向かって進んだ。そのときの道が「富士北麓若彦路」であった。


だいたいの地理を頭に入れてもらうために、現代の略図を掲げる(原図は 「goo 地図」 から頂戴しました)。甲斐源氏の一行は鳥坂峠を越え、大石峠を越えて、大石に到着したものと考えられる。そこは、河口湖の湖岸で、東すれば河口を経て富士山を東回りに東海道に達する「鎌倉街道」(鎌倉往還)となる。すなわち、御坂峠越えで河口湖に出て、山中湖から篭坂峠越えで沼津に達する鎌倉街道へ合流できる。西すれば西湖-精進湖-本栖湖方面へ進み、「中道なかみち往還」(後述)に接続する。これは富士山麓の西回りになる。このように考えると、大石(もしくは河口)は重要な分岐点になっていたと考えられる。
大石で「止宿」していたところ、駿河国の軍勢の動向情報を手に入れ、一行はただちに立って、夜行軍で「富士北麓」を急行して翌日の戦闘に間に合わせたのである。そこで起こる戦闘の様子と、そのような場所はどこであったのか、以下考えていく。

つぎに「武田太郎信義」であるが、甲斐源氏の祖といわれているのは新羅三郎義光(1045~1127)で八幡太郎義家の弟。それから3代目が信義(1128~86)である。この年、治承四年は五十三歳である(「甲斐の武田」というと武田信玄(1521~73)がすぐ思いだされるが、信玄は戦国武将で信義の15代後、400年後の人物)。
また、武田以外に安田、逸見、河内、井澤など種々の家系の全甲斐源氏の混成軍になっている。さらに、頼朝の挙兵直後の石橋山合戦などで敗走した加藤などが武田勢に逃げ込み合流していた。こういう混成軍のなりたちも興味深い。

治承四年十月」という時点が、とても重要であることを認識しておきたい。
前年、治承三年十一月にいわゆる「清盛のクーデター」があって平家独裁政権が始まる。「治天の君」たる後白河上皇は鳥羽に幽閉され、高倉天皇は治承四年二月に安徳天皇に譲位する。安徳は清盛の娘・徳子(建礼門院)の息子であり、この時点で三歳(満年齢1年2ヵ月の赤ん坊)であった。これによって清盛は外孫天皇を持つことになり、独裁政権の基盤を固めた。
だが、この年の事態の進展は急であって、四月に以仁王もちひとおう後白河の三男、この年三十歳)が平家追討の令旨を発する。が、五月末には以仁王・源頼政は宇治で討死して亡びる。六月になると、京都の安全性に不安を覚える清盛は福原遷都を開始。八月頼朝が伊豆で挙兵。頼朝の鎌倉入りは十月七日である。十月二十日に平家軍は戦わずして富士川から敗走。十一月には福原から戻り始める(福原還都)。十二月二十八日、平重衡による南都焼討。翌年、治承五年一月高倉上皇死去。二月、この頃から養和の大飢饉がはじまる。閏二月四日、清盛急死。(この大飢饉は鴨長明『方丈記』で有名。この2年続きの飢饉は全国的で、その故に戦どころではなく、翌年・寿永元年(1182)の戦局の推移が停滞したといわれる。

治承三年(1179)十一月十四日清盛のクーデター
治承四年(1180)二月二十一日安徳天皇践祚
四月九日以仁王の令旨が発せられる
五月二十六日以仁王・源頼政ら宇治に亡びる
六月二日福原遷都はじまる
八月十七日源頼朝、伊豆で挙兵
十月七日頼朝が鎌倉へはいる
十月十四日武田信義ら鉢田合戦で勝利
十月二十日平家軍、戦わずして富士川から敗走
十一月二十三日福原還都はじまる
十二月二十八日南都焼討
治承五年(1181)一月十四日高倉上皇死去
閏二月四日平清盛死去
養和二年(1182)五月二十七日改元養和の飢饉
寿永二年(1183)七月二十五日平家都落ち

治承四年は事態が急テンポで推移していたことが分かるであろう。「大石駅」が登場しているのは、この治承四年(1180)十月十三日条なのである。

翌日の『吾妻鏡』十月十四日条を読む。
十四日癸巳みずのとみ 午の刻、武田・安田の人々、神野かみのならびに春田の路を経て、鉢田はちたの辺に到る。駿河の目代、多勢を率して甲州に赴くのところ、こころならずこの所に相逢ふ。
「目代」とは、遥任国司(ようにんこくし 任地に赴かないで都にいる国司)が代理人として現地に派遣した自分の家人(けにん)などのこと。駿河国国司は平家が握っていた。橘遠茂の「橘」は「伊予橘」で皇室系の橘とは別系統。伊予水軍の河野氏などに連なる一族で、軍事的な実力を背景として目代に採用されていたのであろう。

駿河勢は予期しないところで、甲斐勢にまみえることになったようである。甲斐勢の方が土地の利を心得ていたというふうに受け取れる。そもそも「若彦路」ないし「富士北麓若彦路」に関して土地勘を持っているのは甲斐勢であったのであろう。
甲斐勢は、神野⇒春田⇒と辿って鉢田に達したのが「午の刻」()であった。そこで両軍が衝突したのだから昼の戦である。下で見るように合戦は夕刻までに決着した。

次が「鉢田合戦」の様子であるが、道は地形的にかなり特殊な狭隘な所を通っているらしい。また、その地形を巧みに利用して甲斐勢が優勢に戦いを進めた。
境は山峯に連なり、道は磐石をそばだつるの間、前に進むことを得ず、後に退く事を得ず。しかれども(井澤)信光ぬし敬意を表す接尾語)は(加藤)景廉等を相具し、先登に進みて、兵法力を励まして攻め戦ふ。遠茂、暫時防禦の構えを廻らすといへども、つひに長田入道が子息二人を梟首きょうしゅし、遠茂を囚人めしうどとなす。従軍寿いのちて、きずかうぶる者そのかずを知らず。後につらなるの輩は、矢をはなつこと能はず。ことごとくもって逃亡す。酉の刻、かのくびを富士野の傍、伊堤いでの辺にくと云々。
甲斐国の軍勢は井澤信光がリーダーで、加藤景廉がサブリーダーである。狭い道で敵と向かいあって前進も後退も自由にいかない。どういう「兵法」を取ったのか具体的には分からないが、甲斐勢は遠茂の防戦を打ち破り、長田入道の息子二人の首をとり、遠茂を捕らえた。駿河勢は矢を射ることもならず多くは死に、負傷し、逃げ去った。源氏勢の圧倒的勝利に終わり首を「伊堤」に晒した。「酉の刻」というのは夕方の6時頃である。

ここに登場する 神野 春田 鉢田 伊堤 などの地名の所在を考えたい。

そのための手がかりとなる重要な文献としてまず挙げられるのが『甲斐国志かいこくし』である。松平定能さだよしが幕府の内命を受けて編纂事業を行ったといわれる。わたしは小論を書き進めながら初めて『甲斐国志』を読んだのであるが、とても周到な議論をしており、説得力のある書きぶりになっているのは驚くほどである。これならもっと早くから読めばよかったと正直なところ思った。近頃のはやりの言い方では“上から目線”がほとんど感じられず、疑問は疑問としてちゃんと提出してある。
文化十一年(1814年)に成立した地誌124巻で、甲斐国に関する膨大で総合的な情報が盛られていて、定評がある。しかも、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で数種の活字本が全巻公開されているので、自由に閲覧できるし、PDFファイルによるコピーができ、とても有用である。(近代デジタルライブラリー」に入り、その冒頭の検索欄へ“甲斐国志”を入力して検索しておくと、便利である。わたしはさらに「目次」の部分をPDFファイルにしてとって置いて、或る項目を探し始めるときに、まず、それを見る。なお、印刷本を複写しているので、印刷が鮮明であるものとそうでないものとが有る。おおむね出版年月の新しい本の方が鮮明である。しかも各刊本が完全には同一でないので、不明な個所に出会ったら、別の本で同一個所を調べてみるべきである。
「近代デジタルライブラリー」から、コピーの取り方
『甲斐国志』(に限らないが)の然るべきページのコピーを取りたいというとき、初めは、分かりにくい。原文からPDFのPDFを作る、という手順です。

原文を見ている状態で「印刷する」を押す>コマ指定の窓に入力(例えば、19-21、というように)>「印刷/保存」を押す>PDFファイルが現れる>そのPDFファイルの「文書のコピーを保存」ボタンを押す>自分のPCに(デスクトップなどに)PDFファイルができる


『甲斐国志』は「若彦路」の項目を何ヶ所かに立てている(実は、この構成が『甲斐国志』の欠点といえば欠点である。村里部・山川部・古蹟部・神社部・仏寺部・人物部・土庶部など異なる観点から記述され、同じ項目が何ヶ所かに出てくる。精密な索引がほしい)。第一巻「提要」の中の「道路 関梁」という項目にある「若彦路」を参照してみる。
若彦路ワカヒコヂ 板垣村より東南に出、国玉クダマ、小石和、八代ヤツシロ、武居を経て鳥阪トリザカを超え、上下壹里余、蘆川村に口留の番所あり。府中より五里、都留郡大石村へ三里(乃ち東鑑あづまかがみ記す所大石の駅なり。是より先は中の金王路と云い、富士山の西麓を過ぎ駿州上井出に到る)。(以下略(『甲斐国志』第一巻提要)
「板垣村」というのは甲府の「府中御城」から出てすぐの所、そこから鳥坂峠を越え芦川村に至り、大石峠を越えて大石村に達している。府中から大石村まで八里である。この大石村は『吾妻鏡』に出ている大石駅のことで、そこまでを若彦路といい、その先は「中の金王路」といって、富士山の西麓を過ぎ駿州上井出に到る。この井出は『吾妻鏡』の伊堤のことだろう、というのがほぼ定説である。

ここに、「中の金王路」という新しい路の名称が登場してきた。落ち着いて考えないといけないが、じつは『吾妻鏡』に出ているのは「富士北麓若彦路」であって「若彦路」ではない。大石で「止宿」しているところで情報が入り、夜の行軍で「鉢田」まで移動するが、その道筋が「富士北麓若彦路」なのである。『甲斐国志』のいうように「若彦路」は国府から大石村までを結ぶ道だとすれば、その道の続きは富士北麓を延びていて、富士北麓地帯を行く「若彦路」という『吾妻鏡』の表現になったと考えられる。原文は「越富士北麓若彦路」である。
しかも、その途中、神野・春田を経て鉢田のあたりに達したとしている。その部分を再掲しよう。
神野ならびに春田の路を経て、鉢田の辺に到る。
原文は、「経神野并春田路、到鉢田辺」である。神野や春田を経る路の意味であろう。『甲斐国志』によると大石から先は「中の金王路」につながって「富士山の西麓を過ぎ駿州上井出に到る」という。ただし、「中の金王路」は『吾妻鏡』には出ておらず『甲斐国志』に出てくるのだから、時代が下ってから出来た路であるということかもしれない。

つぎに、『甲斐国志』巻五十三古蹟部第十六上から「神野路」を引く。ここでは“「中の金王路」は「若彦路」であり、それは「神野路」だ”といっている。「神野」を「富士の巻狩」で宿所を作ったことで有名な狩宿近くの地名とし、そこを経る路なので「神野路」という、としている。
神野路 東鑑に曰「治承四年十月十四日午刻武田安田の人々神野並に春田路を経て鉢田辺へ至る。(『吾妻鏡』からの忠実な引用、途中略)」今此の道、大田和より西南富士山下を経て駿州上井手及び人穴へ出づ。此の間七里余人家なし。東鑑に建久四年(1193)鎌倉右大将家富士山狩の時神野に旅館を建ること見ゆ。下方の郷に対し上野の義なるべし。本州(甲州中のこんのうと云路より(駿州へ入り)人穴村の北へ出て上井出に会す。東鑑に所謂若彦路是ならん。之に據る時は神野路は若彦路の別称なり。富士麓野不毛の地なれば路は縦横何条も有りしなるべし。(『甲斐国志』古蹟部第十六上)
「大田和」は不詳。しかし、河口湖南岸近辺の地名なのであろう。その辺りから「西南」へ向かい、「富士山下を経て駿州上井手及び人穴へ出づ」として、此の間七里余人家なしと言っている。これは重要だと思う。貞観噴火の際に噴出した溶岩流の台地を横切っていく直線的な横断路であり、十九世紀初め文化年間にできた『甲斐国志』の段階でも「此の間七里余人家なし」という状況であった。農耕のできない「不毛の地」で、歩きにくい溶岩台地なのである。この路を「中の金王路」という。
「神野」に結びつけて『甲斐国志』は、頼朝の富士巻狩の際「富士野に五間の仮屋を建てた」(『吾妻鏡』建久四年五月十五日条)に言及しているのである。下の地図には「狩宿」として記入した。しかし、「狩宿」の辺りに「神野」があったとすると、「神野ならびに春田の路を経て、鉢田の辺」に到り、そこで戦闘があり、打ち取った首を「伊堤」=井出に掲げたという流れには、スムーズな動線が考えにくい。『甲斐国志』も、仮に「神野」が頼朝の富士の巻狩の「富士野」の狩宿であるのなら、神野路=若彦路ということになる、という保留を含んだ記述になっている。
「富士麓野不毛の地なれば路は縦横何条も有りしなるべし」は、農地・村落がないから安定した路ができず、不安定な小径がいくつも出来たのではないか、と言いたいのだろう。ただ、それが事実かどうかは不確かだ。

甲斐府中(甲府)から大石村までの若彦路についてはどこからも異論は出ていない。大石村を出た甲斐源氏の軍勢が「富士北麓若彦路」を夜行して翌日の昼、鉢田で合戦をするのである。その鉢田の位置が問われている。
待ち伏せの場所まで夜を徹して急行するのであるから、なによりも、駿河軍勢が甲州攻めで使うであろう道で待ち伏せなければ意味がない。それは、甲斐-駿河を結ぶ主要道の一つで最短路の「中道街道」であったのではないか。

少し広域の地図を用意した。今の国道139号-358号がおおよそ「中道街道」である。
甲斐源氏の軍勢は大石から夜の行軍で翌日に鉢田に達し、駿河勢を待ち伏せ攻撃する。わたしは、甲斐-駿河の国境付近(後述するが天保絵図に「わり石」とある)で待ち伏せたのではないかと、想像する。(かつての国境は現在の県境としてよい。


上図の赤下線は、議論に関連のある地名である。実はわたしはまったく素人考えで、最初から「わり石」説をとっていたが、海老沼真治「『富士北麓若彦路』再考――『吾妻鏡』関係地名の検討を中心として」(山梨県立博物館「研究紀要 第5集」2011)という論文があることを知り、それを入手して読んでみた。本格的な手堅い論考で教えられることがたいへん多く、有難かった。そして、海老沼真治氏は鉢田=「端足はしだ峠」説をとっていた。上図には端足峠も記入しておいた。
素人のまぐれ当たりなのだが、甲斐源氏の一行が大石から中道街道へ急行して、そこで待ち伏せした、という基本構図において、拙論が海老沼氏と類似していたのである。(この問題は《4》でより詳しく取り上げる。



《2》  ―― 武田源氏の存在感 ――


この鉢田合戦の戦闘の様子を、半月ほど遅れて京都の貴族が書き留めていた。藤原経房(1143~1200)の日記『吉記きつき』の治承四年十一月二日条である。経房は吉田経房とも称し、有能な実務官僚で、後白河院の信任も厚くまた頼朝も信頼した。“吉田の日記”の意味で後世その日記が『吉記』(きちき、きつき、きっき)と呼ばれている。

東国の“賊軍”源氏に対して「追討使」が派遣され、あろうことか、その追討軍は戦わずして逃げ帰ってきた。都はその噂で持ちきりである。その噂の中に、駿河国の目代が率いる軍勢が甲州に攻め上ろうとして大敗したという情報があった。
追討使の事、閭巷りょこう説縦横、但し或る者云ふ、権亮(平維盛)駿河国に下着するの節、一国の勢二千余騎を以て(目代、棟梁となす)甲州に寄せしむるのところ、皆率入るるの後に路を塞ぎ、樹下巌腹に隠し置きたる歩兵、皆悉く射取らしむ。異様の下人少々の外、敢へて帰る者無し。(史料大成『吉記 一』治承四年十一月二日条)
二千余騎を率いた目代・橘遠茂の軍勢が、鉢田の隘路に入りこんだところで退路が塞がれ、あちこちに隠れていた歩兵に待ち伏せ攻撃に遭った。歩兵に射かけられ、這々の体の下人少々が逃げ帰ることができただけであった。
『吉記』はこの後、かなりの字数を使って、維盛率いる追討軍が戦わずして京へ逃げ帰るいきさつを書いている。小論では省略する。

この『吉記』のことは、川合康『源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館2009)でわたしは知った。そこに川合康の非常にすぐれた戦闘論が展開されているので、引用させてもらう。
すなわち、甲斐源氏の軍勢が駿河国目代の軍勢を山中の間道に引き入れたうえで、道を塞いで立ち往生させ、そこを狙って樹木や岩陰に隠れていた歩兵が、一斉に矢を放って、大勝利を収めたという。
源平合戦と聞くと、騎馬武者同士が原野で馬を走らせて矢を射合う馳射はせゆみの一騎打ちをイメージしがちである。しかし、治承・寿永内乱期には、このように地形や樹木、あるいは「城郭」(掘や土塁、逆茂木、掻楯かいだてなどで構築された交通遮断施設)を利用することによって、敵の騎馬隊の機動性を封じ込め、味方の歩兵の遠矢・投石などの集団的な攻撃力を生かす戦闘法が、一般的に展開するようになる。こうした戦闘では、敵がいったん退けば、「城郭」の木戸口から味方の騎馬隊が追撃するという歩兵と騎馬武者の連携も見られ、また、多くの民衆が歩兵や「城郭」の構築・破壊にあたる人夫・工兵として、戦場に駆り出されていたことに注意しておきたい。
(川合前掲書p115)
ここに解説されている戦闘法だけでなく、「城郭」について述べられていることも新鮮である。「城郭」といってもいわゆる「城」ではなく、臨時に・かなり自在に造られる「交通遮断施設」をさしている。そして、用済みとなればすぐ解体して、軍勢が討って出たり前進したりする。そういう際の労働力として、百姓[ひゃくせい]・民衆が動員されていた。

これが治承四年十月の「鉢田合戦」である。
甲斐勢と駿河勢の衝突は実は八月段階からすでに始まっている。頼朝が伊豆で三島社の神事にあわせて挙兵したのが八月十七日である。その報がすぐ甲斐国へも伝わった、武田源氏らはすぐさま呼応して立ち上がったと考えられる。平清盛の命によって派遣されてきたのは大庭景親で、頼朝らは石橋山合戦でさんざんに敗北するが、それが八月二十四日である。敗走の途中で一行は分散して逃げ切る作戦を取り、北条時政と次男・義時は甲斐国へ向かう。頼朝は土肥を経て真鶴岬から海を渡って房総半島へ行く。
『吾妻鏡』のその場面を引いてみる。箱根の行者・山伏たちが活躍している。
よって(頼朝は)山の案内者、実平ならびに永実等を召し具して、箱根みちを経て、土肥郷に赴きたまふ。北条殿(時政)は、事の由を源氏等に達せんがために、甲斐国に向かはる。(中略)件の僧を相伴ひ、山臥やまぶしの経路を経て甲州に赴きたまふ。(『吾妻鏡』治承四年八月二十五日)
頼朝が土肥を経て真鶴岬から安房へかろうじて渡ったのが二十八日である。北条時政らが甲府の武田信義らの所へ達したのは九月十五日である。時政たちが甲府へ行くのも「山臥の経路」を案内されていることが注意される。

八月に挙兵した段階で、頼朝の勢力はまったくわずかのもので、いわばゲリラ的なものでしかない。それに対して、源氏の軍事的勢力の中心は甲斐国にあることが明らかである。時政が甲斐国へ向かう事にした理由も「事の由を源氏等に達せんがため」であったとしていることからも、そのことがよく分かる。『吾妻鏡』は頼朝中心に事態が推移したように粉飾気味に書かれている。
頼朝が時政と伊豆の山中で別々の方向を目ざすことにした八月二十五日、実は、富士北麓で「波志太山合戦」と言われる戦闘が行われている。蜂起したという頼朝に合流せんとする安田義定ら甲斐源氏の一行と、甲斐源氏を攻撃しようと軍勢を進めていた俣野五郎景久、駿河国の目代橘遠茂らである。ネズミの話が突然出てきたりして奇妙なのだが、『吾妻鏡』を引用する。
俣野またの五郎景久、駿河国の目代もくだい橘遠茂の軍勢を相具し、武田・一条等の源氏を襲はんがために甲斐国に赴く。しかるに昨日昏黒こんこくに及ぶの間、富士北麓に宿するのところ、景久ならびに郎従帯するところの百余ちょう弓弦ゆみつる、鼠のために喰い切られをわんぬ。よって思慮を失ふの刻、安田三郎義定・工藤庄司景光・同子息小次郎行光・市川別当行房、石橋において合戦を遂げらるる事を聞き、甲州より発向するの間、波志太はした山において景久等に相逢ふ。おのおのくつばみめぐらし、矢を飛ばして、景久を攻め責む。挑み戦ひときを移す。景久等弓弦を絶つによって、太刀を取るといへども、矢石しせきふせぐこと能はず、多くもってこれにあたる。安田已下の家人等、また剣刃を免れず。しかれども景久雌伏せしめ逐電すと云々。(同前二十五日条)
この「波志太山」の場所も特定されていないそうだが、西湖と河口湖の間の足和田山に比定する説もある(ウィキペディア「波志田山合戦」注3 杉橋隆夫「富士川合戦の前提」『立命館文学』509)そうだが、海老沼真治氏は「端足峠近く」に比定している。
この合戦は、2ヶ月後に行われる「鉢田合戦」とよく似ている。橘遠茂が出てきて、敗北することも似ている。しかし、この時は甲斐源氏がたまたま俣野景久・橘遠茂勢と遭遇し、平家勢の甲府進出をくい止めた。「鉢田合戦」では、平家勢を徹底的に打ち破り、甲斐源氏が東海地方へ進出している。大石で十月十三日の夜駿河勢が甲州攻めで寄せているという情報を得たとき、駿河勢は二ヶ月前とおなじ中道街道を上ってくることに想到し、ただちに国堺の「鉢田」辺りまで急行したというのは、考えやすい。

この観点をもって、『吾妻鏡』の「鉢田合戦」の部分を再び読んでみる。
十四日癸巳 午の刻、武田・安田の人々、神野ならびに春田の路を経て、鉢田の辺に到る。駿河の目代、多勢を率して甲州に赴くのところ、意ならずこの所に相逢ふ。は山峯に連なり、道は磐石を峙つるの間、前に進むことを得ず、
駿河勢は甲州に攻め入ろうと考えていたところ、意ならず「この所」で甲州勢に出会ってしまった。原文は
赴甲府之処 不意相逢于此所 境連山峯 道峙磐石之間
である。駿河勢は「甲府」すなわち甲斐の府中へ向かって進もうとしていたが、その途中「この所」で甲斐勢に出会ってしまった。「この所」は「鉢田の辺」を指している。それが国境付近であって、「」は山峯が連なるところで道はそばだつ岩の間を抜けるようになっていた。鉢田が国境付近の地名であることを前提とすれば、「境は山峯に連なり」は国境の状況を述べているのではないか。私案として提出しておく。





《3》  ―― 貞観じょうがんの富士噴火 ――


「大石」という地名が12世紀に存在していたことが確かめられたが、「河口湖」は果たして古くからの呼び名なのであろうか、という疑問をわたしは持った。というのは『吾妻鏡』の地名索引に「河口(湖)」がなかったからである。

そこで『六国史』索引をあたってみたら、甲斐の「河口海」が『三代実録』にきちんと出ていた。それだけでなく、富士山の大噴火や河口浅間神社の由来などが何ヶ所にもわたって述べてあること分かった。(なお、富士山噴火の、信頼できる文書による最初の記録は『続日本紀』天応元年(781)七月六日だそうである。その後に『日本紀略』の延暦年間(800,802など)の記録がある。それに続くのが貞観噴火である。なお、富士山噴火に関する歴史記録に関しては、小山真人「富士山の歴史噴火総覧」(2007)が、よりどころになる貴重な研究である。

ここでは扱わないが、延暦噴火に関しては次の2論文を紹介する。小山真人「富士山延暦噴火の謎と『宮下文書』」(2004)が分かりやすい。これの元になった本格的な論文は小山真人「噴火堆積物と古記録からみた延暦十九〜二十一年(800〜802)富士山噴火 : 古代東海道は富士山の北麓を通っていたか?」火山1998 PDF23頁が公開されていて手に入る。この中で真正面から扱ってある「宮下文書」についての解説は、門外漢には貴重である。


貞観の大噴火は、富士山の北西方向の山体に割れ目噴火が起こり、大量の溶岩流が流出し、青木ヶ原樹海をつくった。そのとき本栖湖とならんで大きな「の海」という湖があったのがほとんど溶岩流によって埋まり、現在の精進湖と西湖が生まれた。

富士山噴火の報せが平安京に届いたのが貞観六年(864)五月二十五日である。この報せは駿河国からである。『三代実録』から引用する。

駿河国言ふ、
富士こほりの正三位浅間大神あさまのおおかみの大山に火あり。その勢ひはなはださかんにして、山を焼くこと方一二里ばかり、光炎の高さ二十丈ばかり、らい有り、地震三度、十日余りをれども火なお消えず。いわを焦し嶺を崩し、沙石しゃせき雨のごとく、煙雲は鬱蒸うつじょうし人近づくを得ず。大山の西北に本栖水海もとすのみずうみあり。焼けし巌石流れて海の中に埋もれ、遠さ三十里ばかり、広さ三四里ばかり、高さ二三丈ばかり、火焔遂に甲斐国との境にく。
と。


「地震三度」で十分に分かりやすいが、ちゃんとした読みは「地震なゐふること三度みたび」とすべき(?)。ついでに、湖を「水海」と書かれると変な気がするが、本当は「水海みずうみ」でよいことに改めて気づいた。以下の引用で、表記は読みやすさを重視して、適宜簡略にする。
富士火山は神格化され「浅間大神」である。この大神の激しい噴火活動を“懐柔”するために、「正三位」という高い位が与えられている。それをまつるのが駿河国一宮の浅間神社(富士宮市の富士山本宮浅間大社)である。上の『三代実録』の引用で分かるように、富士山は往古から駿河国に属し、「浅間大神」を祀りなだめるのは駿河国一宮の浅間神社の重大な任務なのであった。

この時代の1里=650m、1丈=10尺=3mだそうだ。「遠さ三十里ばかり、広さ三四里ばかり、高さ二三丈ばかり」というのは、溶岩流の大きさで、長さ20km、幅2~2.6kmほどで、厚みは6~9mということであろう。先端は本栖湖に入っているという状況であり、甲斐国との国界くにざかいに達している。駿河国からすれば隣国に被害が及ぶかどうかは“外交上”の重大問題であったろう。

次図3枚は富士山の火山活動を研究している科学者たちによる論文から拝借しました(小山真人・鈴木雄介・宮地直道「古記録と噴火堆積物からみた富士山貞観噴火の推移」富士山ハザードマップ検討委員会2001)。図の1枚目は上引の駿河国から報告が都に届いた最初の段階を表している。本栖湖に溶岩流が流入し始めているが、「剗の海」にはまだ入っていない。
このときの火口は山頂ではなく、富士山北西山麓1~2合目、海抜1000~1500mの辺りに幾つか生じた割れ目噴火である。この地図では、現在は埋もれてしまってよく分からない「剗の海」を復元している。

約2ヵ月経過して同年七月十七日に、実際に被害が及んでいる甲斐国が次のように報告してきた。その間に事態は激しく進展した。融けた土や石の流れが本栖の海と剗の海を埋めた。人的被害も甚大であった。
甲斐国言ふ、
駿河国の富士大山ふじのおほやま、突然に暴火あり、崗巒かうらん丘と山]を焼砕し、草木を焦殺す。土しゃく石流し[土は融け石は流れる]、八代郡の本栖ならびにの両水海を埋めた、水は熱して湯のごとし、魚鼈ぎょべつ魚と亀]皆死す、百姓ひゃくせいの居宅は海と共に埋まった、或いは宅有りて人無し、その数記し難し。両海の東、また水海あり、名づけて曰く河口海かわぐちのうみ、火焔は河口海に向かって赴いた。
本栖と剗の海が未だ焼け埋む前に、地は大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野弁へ難し、然る後、この災異ありき。
と。
まず「駿河国の富士大山」と甲斐国が述べていることに注目される。隣の国から火山の災厄が襲ってきた、という書き方である。
剗の海に溶岩流が入り、人家が埋まり人も埋まった。そうなる前、地は大いに揺れ、雷が激しく、野も山も区別できないほどの雲霧で薄暗くなった。しかも溶岩は東の「河口の海」にも向かって進んだ。
この激しい天変地異に人々の驚愕と恐怖はいかばかりだったであろう。富士北麓の深い森林の中で溶岩流が噴出し流れ下ると、森林が焼け大量の煙と炎が上がったであろう。「草木焦殺、土鑠石流」「雲霧晦冥」とはそれらを表現している。この時期が、もっとも噴火活動が盛んな時期であった。小山真人ら上記論文では、次のように述べている。
『三代実録』貞観六年七月十七日の)報告の日付から考えて、噴火開始から2ヵ月以上過ぎた時点での状況が語られている。溶岩流の別の流れは河口湖方面へと向かっている。この情景描写は、現在の溶岩流の分布状況(次々図)をほぼ満たしているから、貞観噴火のクライマックスは噴火開始から2ヶ月以内であったと見られる。なお、湖への溶岩流入前に大きな地震があったことも記述されている。
溶岩流の図の2枚目。これが、噴火開始からほぼ2ヵ月経過して、剗の海の大半が埋まり、現在青木ヶ原となっている広大な地域が溶岩の原になった状態。「A」で示されているように、河口湖方面へ流れ行く一部の溶岩流も存在している。この時の溶岩流は、この図でよく分かるように現在の長尾山(1424m)付近から噴出したものである。


次図が、溶岩流の図の3枚目。2枚目と大きくは違わないが、これが、千百数十年以上経った現在の青木ヶ原の溶岩台地の状況である。

同年八月五日に朝廷が次のような決定を、甲斐国に対して「下知」した。
五日己未つちのとひつじ甲斐国司かいのくにのつかさに下知して云ふ
駿河国富士山に火あり、彼の国言上す。これを蓍亀しき卜筮]に決するに曰く
浅間名神あさまのみやうじんの禰宜はふりたち、齋敬さいけいを勤めず致すところなり
と。よって鎮謝すべきの状、国に告げ知せおわんぬ。宜しくまたみてぐらを奉り、解謝すべし
と。
駿河国の報告で富士山が火を噴いているという、その理由を占ったら、浅間明神への祀りが足りないということであった、駿河国には十分に浅間明神へ「鎮謝」せよと命じたが、甲斐国でも奉幣して「解謝」せよ、と下知する(「鎮謝」と「解謝」は、神の怒りを鎮め謝する解き謝するという義か)。

この条によれば、朝廷の認識でも富士山は駿河国に属し、その神である浅間明神を駿河国が祀っていた。つまり浅間神社は駿河国にあったが、甲斐国にはなかった。そう理解される。しかし、その浅間明神が大いに暴れて隣国である甲斐国に大災害をもたらしているという現実が生まれている。したがって、朝廷では、駿河国にはちゃんと齋敬を行うようにと命じ、とりあえず、甲斐国でも奉幣しなさい、と命じたのである。朝廷の論理では、富士山が(浅間明神が)暴れているのは、駿河国の齋敬が十分でないことが原因である、ということである。駿河国だけでは不充分かも知れないから、甲斐国も浅間明神の怒りを鎮めるべく祀ってくれ、と加勢を求めたのである。

一年後の貞観七年(865)十二月九日に次のような長文の記事が出る。
甲斐国でも、浅間明神の禍を本格的に「鎮謝」する神社を建てることにし、官社とする、また、溶岩台地近くに造られた美麗な社宮もその官社に所属させることを勅許した、というのが主文である。甲斐国の国司の報告のなかに、真貞という人物が神懸かりして浅間明神の託宣を語る文章と、富士山頂を調査せしめた「使者」の報告文とが含まれている。
九日丙辰ひのえたつみことのりして甲斐国八代郡に浅間明神あさまみやうじんの祠を立て、官社に列しむる、すなわち禰宜を置き随時に祭を致さしむる。
これより先、かの国司が言うには、
往年[昨年]八代郡暴風大雨、雷電地震あり、雲霧杳冥やうめいして山野わきまへ難し。駿河国の富士大山の西峯、突然に熾火しくわあり巌谷を焼碎す。 今年八代郡の擬大領ぎたいりやう無位伴 直 真貞とものあたへまさだが託宣して云うには、
我は浅間明神なり、この国にていつき祭らるるを得んと欲し、頃年このごろ凶咎きようきうし、百姓の病死をす。しかるに未だつて覚悟さとらず。よってこの恠[]をなせり。早く神社を定め、兼ねてはふり禰宜を任じ、宜しくきよめ祭奉るべし。
真貞の身、或いは伸びて八尺ばかり、或いは屈して二尺ばかり、体を変えて長短をなし、件のことばを吐けり。国司これを卜筮ぼくぜいに求むるに、告ぐる所託宣と同じ。ここに於いて、明神の願いに依り、真貞をもって祝とし、同郡の人伴秋吉とものあきよしを禰宜と為し、郡家ぐんけ以南に神宮を作り建て、かつ鎮謝ちんしゃせしむ。

然りといへども、異火の変今に止まず。使者をつかはし検察せしむるに、
剗海せのうみうづむること千町ばかり、仰ぎ之を見るに、正中の最頂に社宮を飾り造り、垣四隅に有り。丹青の石を以てその四面に立つ。石の高さは一丈八尺ばかり、広さ三尺、厚さ一尺余りなり。石の門を立て、相去ること一尺にして中に一重の高閣有り、石を以て構へ営み、彩色の美麗は言うにふべからず。
望み請ふはいつき祭り、兼ねて官社に預らむと。
之をゆるした。


『三代実録』を解読するのに武田祐吉・佐藤謙三訳『訓読 日本三代実録』臨川書店1986)を参考にした。
はふり禰宜ねぎはいずれも神官であるが、その違いは必ずしも明確に規定されているものではないらしい。ここでは、祝には霊的能力のある伴真貞が任じられ、禰宜には地元の有力者伴秋吉が選ばれたと考えておく。(「宮下文書」のなかの「富士山中央高天原変化来暦」と「延暦貞観大噴火大熱湯後之形之泰略図」は貞観八年866に伴真貞が執筆したことになっている。小山真人前掲論文1998。

前年八月に、朝廷から、甲斐国でも浅間明神を「解謝」しなさいと指示が出たことは、“新たに浅間神社を造りなさい”と公許を暗示されたのに等しい。剗の海が埋まり、山腹一帯が黒い溶岩の台地と化したのを目にしている人々の気持ちもそこへ向かっていたであろう。伴真貞はそういう状況と人々の気持ちを受けとめる感受性に富んだ人物であったのだろう。伴秋吉という人物は、状況の推移に政治的な意味を読み取ることが出来たのかも知れない。「官社」を獲得する重要なチャンスであると考える「国司」であれば、根回しをしたことも十分考えられる。(当時「官社」は単に宗教的施設というにとどまらず、中央朝廷と直結した情報や人心が集まる国家的なセンターであったと考えられる。

伴真貞は浅間明神になって、我田引水のじつに都合のいいことをしゃべっている。
「我こそは浅間明神である。自分は甲斐国で祀られたくて、何年も凶作をもたらし病気を流行らせた。しかし、お前達は一向に祭祀を行うことに気付かないので、火山の災害を起こしたのだ。はやく神社を造って、祝と禰宜を任じ、盛大に祭りを行え」
被害の状況を調べに「使者」を出して「検察」させた。「仰ぎ之を見るに、正中の最頂に社宮を飾り造り」というのは、どういう事であろう。噴火の最強の時期は過ぎて序々に納まってきているのだが、「異火の変今に止まず」。つまり、少しは噴煙がでていて、時に震動もある、溶岩の小噴出もある、というような状況下に、溶岩台地の現場に行った使者が「仰ぎ之を見るに」という「之」とは何であろう。盛りあがった溶岩台地そのもののことか。盛りあがりの頂点の「正中」に社宮を造ってあった、ということになる。
わたしは初めは、富士山頂の社宮という可能性も考えたが、社殿が美麗であることをいう表現が細かすぎるので、無理があると判断した。溶岩流の噴出口の近くに石造りの社殿を築き、直接に荒ぶる火の神を「鎮謝」したいという発想であろう。ただし、中央への報告であるから、誇張や演出があるだろう。

『甲斐国志』(神社部第十七上)に「小室浅間明神」があり、
富士二合目に有り。これは富士山中に最初に勧請された社地なり。按ずるに、『三代実録』の貞観七年十二月九日の
仰ぎて之を見る、正中最頂に社宮を飾り造り(・・・、以下『三代実録』からの引用略
けだし、この社のことなるべし。
と述べている。この小室浅間明神は、わたしが『三代実録』からイメージしていた「美麗」な社のあり方とピッタリだったので、意を強よくした。(現在の下吉田の小室浅間神社は里に下ったもので、ここで問題にしている社宮を「山宮」と称している。吉田口登山道の二合目にある。ただ、青木ヶ原からはだいぶ離れているが。

上引の貞観七年(865)十二月九日条で新たに官社として認められた浅間神社は八代郡に建てられたことはまちがいない。伴真貞も伴秋吉も八代郡の人である。「郡家以南」というのは、八代郡の「郡家」の南側に、すなわち富士山側に宮社を建てたということであろう。ところで、困ったことに八代郡の「郡家」どころか郡域がどこであるか確定できないのである。
とりあえず、天保絵図を示してみる(国立公文書館のデジタルアーカイブズ。次図では、郡の境など、わたしが書き加えています)。天保絵図は幕命で作成され完成は天保九年(1838)、1里を6寸とする縮尺約1/1600で統一されている。色の付いた点は村落の位置を示し、拡大すれば村名や石高などが分かる。郡毎に色分けしている。この完成年は『甲斐国志』完成の24年後である。
『甲斐国志』の極くはじめの部分(「提要」の「甲斐国」)に、次のような面白いことが書いてあったので紹介しておく。甲斐4郡の分割の仕方である。
おおよそ本州[甲斐国]の地図は四郡の全体を三かつするに、東を都留となし、西を巨摩となす。中を両断して、上を山梨となし、下を八代となす。
郡境は川であることが多い。ついでに、この地図に見える富士五湖の表記がやや変わっているので、挙げておく。左から
本栖之池 精進之池 西湖之池 川口之湖 山中之湖
わが「大石」は「川口之湖」の北岸にある。河口湖には「鵜の島」が描き込んである。全体としてこの地図は、 富士山を円錐形に描くなど、近代的な地図画法と比べるとあまり正確とは言えない。
この地図において、富士山の西側の国境くにざかいを説明しているところを『甲斐国志』で示しておく。
都留郡は)西は駿州富士郡に接し、富士山薬師ヶ嶽より無間ヶ谷三俣より長山の尾崎・三水さんか・孤カ木・破石われいし等を国境とす。富士八合目より頂上は甲駿の境なし。(『甲斐国志』村里第十六上)
下線を引いた地名は、天保絵図(次図)の富士山の西側斜面に記載されていることを示す。「富士八合目より頂上は甲駿の境なし」というのも興味深い。(既述したが、天保絵図は「わり石」とし『甲斐国志』は破石われいしとしている。


この天保絵図では河口湖は明らかに都留郡に属している。上で示した『三代実録の』貞観七年(865)十二月九日条で「官社」として甲斐国で最初に認められた「浅間明神」は八代郡に置かれたのであるから、河口浅間神社にとっては不利な材料である。一方、その「官社」は一宮町の一宮浅間神社であるとしている論があり、その説には有利な材料となっている(一宮は上図では八代郡だから)。
『甲斐国志』は次に見るように、かなり強烈な河口浅間神社説である。
富士浅間明神 川口村 三代実録に曰く、貞観七年十二月九日丙辰、勅して、甲斐国八代郡に浅間明神の祠を立たしめ、官社に列す(以下、真貞の神懸かりのことなど、引用省略)。川口村はいにしへ八代郡に属しき、則ち八代郡の南に当たり富士の正北面裾野よりあらはれ見ゆれば、いわゆる「郡家以南神宮を作り建つ」とあるは川口の浅間たること明らかなり。且つ、前年の瀑火に富士山裾野の諸村皆埋没しけれども、この里は川口の湖の北岸に在りければ、瀑火は湖水に隔てられて及ぶことなかりしなり。神名帳に八代郡浅間と載せたる是なり。(『甲斐国志』神社部第十七上)
わたしは、これで十分に説得力があると思うが、もう一つ、川口村が昔は八代郡であったことを論じているところを引いておく。「川口村」の項目である。
この村往昔は八代郡に属す。後世都留郡の管内に入る。今に至るに風俗言語大いに八代郡の人に類せり。いま他村へ出るを「郡内へ行く」と云ひ、返るを「国に返る」と云ふ。いつの比都留郡に属せしことを知らず。慶長十四年善応寺の棟札に「八代郡河口村」とあり、又天和三年浅間明神の幣串の銘には「浅間大神甲州八代郡名神大社、天和癸亥十月吉祥願主谷村奉行根岸吉右衛門、山口武兵衛」とあり。(中略)文禄三年、寛文九年の検地帳は皆都留郡と記すれば前記どもと齟齬せり。思ふに天正壬午みずのえうま天正十年1582、信長・家康軍が甲斐に攻め込み、武田氏が亡びた)以前は郡中も所々に小領主ありて、この村もそのかみ川口左衛門と云ふ者あれば古来のままに八代郡ならん。壬午の後、一郡一領主となれば地勢に随って自ら本郡(都留郡)に入しなるべし。然れば、公廳()には二百年前より都留郡と唱へしなるべし。(同前 村里第十六上)
『三代実録』から、もう一つ引く。貞観七年(865)十二月九日条で甲斐国八代郡に官社を創ることを許したが、その十日ばかり後、山梨郡へも指示が出ている。
貞観七年(865)十二月廿日丁卯ひのとう、甲斐国をして、山梨郡に浅間明神を致祭せしむること、もはら八代郡と同じ。
この簡明な書き方から、官社を新規に創るのではなく、既存の神社で浅間明神を手厚く齋祀せよ、という文意に読める。
一宮浅間神社は、境内に「立石」があり、古い巨岩信仰ないし山岳信仰に由来する神社であったように思える。上の、十二月廿日条が言及しているのは、この一宮浅間神社であろう、という説に賛同する(この説は、一宮浅間神社は太古以来の土着神を祀ってきた神社であり、河口浅間神社は朝廷の指示で貞観七年に出来た新興の神社であるという考え方である)。
天保絵図では「八代郡」になっている一宮浅間神社が実は昔は「山梨郡」であったと、『甲斐国志』が論じている。
一の宮の辺、古は山梨郡に属し二百年前までも猶ほ然り。川口は後世に至って都留郡に入りし故に世人は八代の浅間たることを知らず。又、(三代実録貞観七年十二月廿日にいう山梨郡の浅間明神は)今の一の宮浅間の社なるべし。今山梨郡を尋るにほかに然るべき社なければ、一の宮の社たること疑いなかるべし。(同前神社部十七上)
もうこれ位で切り上げるが、『甲斐国志』はかなり念を入れしつこく、貞観七年(865)十二月九日の「官社」=河口浅間神社説を述べているのである。しかし、わたしがたまたま図書館で見た谷川健一監修『日本の神々 神社と聖地 10 東海』(白水社1986)の齋藤典男「甲斐」は一宮浅間神社説を述べている。つまり一宮説は健在なのである。が、小論はその当否を扱わない。なお、一般に全国にある“浅間神社”の数は猛烈なもので、それらの間での“権威争い”は大層なものだ。(全国の浅間神社というサイトは522の浅間神社を数えているが、関東、中部がほとんどである。



《4》  ―― 甲斐-駿河を結ぶ街道 ――


《1》では途中までしか引用しなかった『甲斐国志』の「若彦路」の項目を最後まで引く。
若彦路ワカヒコヂ 板垣村より東南に出、国玉クダマ、小石和、八代ヤツシロ、武居を経て鳥阪トリザカを超え、上下壹里余、蘆川村に口留の番所あり。府中より五里、都留郡大石村へ三里(乃ち東鑑あづまかがみ記す所大石の駅なり。是より先は中の金王路と云い、富士山の西麓を過ぎ駿州上井出に到る)。
若彦とは日本武尊やまとたけるのみことの御子稚武彦ワカタケヒコの封を受けし所武部タケベの地を経る故に、路の名とす。武部は今の竹居(武居、竹生ちくふにも作る)。尊の御陵あり花鳥ハナトリ岡と云。其東南の山を鳥坂と云。即ち白鳥の陵にてとなえてんじたるなりと云へり。
(『甲斐国志』第一巻提要)
後半部を先に読もう。「若彦路」という名前の由来を説明している。日本武尊と弟橘媛おとたちばなひめの息子に稚武彦王がいたという記述は、景行天皇紀五十一年に出てくる。日本武尊は死して白鳥となったという記述は同四十年条にあり全国に白鳥の陵が言い伝えられている。が、稚武彦王が甲斐国に受封されたという記述が何に依るのか、わたしはつきとめていない。ただ、日本武尊が
新治にいばり 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 云々
と詠じたのが、甲斐国の酒折宮さかおりのみやであるのは有名であるから、日本武尊-稚武彦王の足跡がこの地域にあっても不思議ではない。「武部」いまの竹居がその稚武彦王が「封を受けた」地であるという。甲府盆地から鳥坂峠に上がっていく途中に竹居がある。

先に示した「天保絵図」の「甲斐国」で、この「若彦路」の説明を克明にたどることができる。府中御城の東側の板垣村から国玉村、八代郡に入り八代村竹居村上芦川村、ここに関の印がある。大石峠を越えて都留郡となり大石村に至る(下線の村名は絵図にあることを示す)。

「蘆川村に口留の番所あり」が絵図に出ているので、右図に示した(色彩は強調している)。青丸は八代郡の村であることを示し、「上芦川村」の傍には「高三拾壱石余」とある。左は「上芦川村御林」。図の上が南で、赤線で示された道は大石峠に向かう。

このように、大石村までの道ははっきりしており、少なくとも『甲斐国志』の時代には国府から大石までの八里の道を「若彦路」としていた。そして、富士山西麓を上井手まで直接結ぶ道は「中の金王路」と言っていた。
『吾妻鏡』では、武田信義ら一行が大石から急行したのは「富士北麓若彦路」であり、「鉢田」に達しそこで待ち伏せ戦法をとった。とすると、『吾妻鏡』の頃には「若彦路」の大石から先にそれの延長として「富士北麓若彦路」が存在していたことは確かであり、「中の金王路」と「富士北麓若彦路」は同じ道筋ではない可能性がある。

今の道路で説明すると、甲府から県道36号で南下して御坂山塊に向かい、2008年に出来た若彦トンネルを抜けて河口湖畔大石に出る。そのあとは、西湖・本栖湖方面へ行ったとわたしは考えている。「中の金王路」は溶岩台地を突っ切って上井手まで出る道で、貞観噴火から316年目の治承四年(1180)にはどれだけ森林が回復していたのか、どれほど歩きやすい道が開かれていたのか、疑問である。

 
撮影日 2011年9月27日。このときには「若彦路」という歴史的語句を知らなかったので、何の考えもなくメモとして写した。大石側出口。まだ、真新しいトンネルですね。中でカーブがあり、かなりの長さだが、利用する車はとても少なかった。次に撮影する機会があったら、もう少し周囲の様子の分かる写真にします。

県道39号の鳥坂峠への登りは自転車族のヒルクライムで人気らしい。その登りの途中に「竹居」がある。旧道の鳥坂峠を目ざした古道趣味のベテラン・ヒルクライマーのブログ「鳥坂峠」(2011)には、古道の現状を示す映像があり、地図がある。その地図に「竹居」が大きく載っている。

『甲斐国志』の「川口村」の項にこの辺りは地味が肥えていたことを述べているところがある。
この間、御坂の険岨あり。南吉田村へ弐里、船津を越え地蔵マルビ丸尾)に出る。これ古の鎌倉への官道なり。この村御師職の家多く農家少なし。この地、湖南と違ひ貞観暴火の焼石なく、他村に比すれば土肥えたり。(『甲斐国志』村里第十六上)
「貞観暴火の焼石なく」というのが注目される。この事情は大石村にも共通しているだろう。北岸側は南に開けているために比較的温暖であるという。(「丸尾」とは、溶岩流の固まった形を形容した語で、富士吉田市歴史民俗博物館だよりが「MARUBI」と名乗っているのは、なかなかのものだ。“なぜ貧乏くさい名をつけるんだ”と言われるという。この博物館のホームページでは「MARUBI 16」から最新号「39」まですべてPDFで公開している。面白い内容で、かなり読みでもある。ここです。なお「まるび」を説明しているのは「MARUBI 25」。

「大石駅」のにも注目される。古代律令制の「駅家 えきか、うまや」は、五畿七道には三十里(約16km)ごとに設けられた、という。駅馬を置き駅家が設置され、駅使が宿泊できた。その運営のため駅稲の制があった。五畿七道と国府など主要地を結ぶ支線にも駅が設けられることがあった。
大石駅がどのようなものであったか分からないが、若彦路という主要道があり、東海道と結ぶ富士山西回りと東回りの路との分岐点であったと考えられる。河口湖に臨む集落があり、駅家に類する施設があったのであろう。

「甲斐の三駅」というのは、「延喜式」に規定のある「甲斐路」(東海道からの枝路で甲斐国府へ達する公道)に水市、河口、加吉の3駅が規定されていて、どうやら、甲斐国府から御坂峠を越えて河口湖へでて山中湖から篭坂峠を越え、富士山東麓を行き御殿場へ出た。ただし、水市、加吉の比定地は定説はないようだ。「延喜式」の編纂が始まったのは醍醐天皇のころで、10世紀初頭である。富士山周辺の地名は、繰り返された噴火・降灰等による地形の変化・廃道などのため、復元がとても難しいという。(先に紹介した小山真人1998では、「古代東海道は富士山の北麓を通っていたか?」という副題の通り、延暦噴火の噴出溶岩の新知見を根拠に、興味深い議論がなされている。

次ぎに示すのは、富士宮市のホームページにある「駿河と甲州を結ぶ古道」である。そこには「中道往還(甲州街道)は、駿河と甲州を結ぶ最短経路である」と解説がついている(色付き字は引用者が記入した)。


「河内路」は富士川沿いの街道である。「鎌倉街道」(鎌倉往還)については、すでに何度か述べたが、御坂峠越えで河口湖-山中湖-篭坂峠-東海道という街道である。
「若彦路」に関しては、この地図は明らかに修正を必要としている。上で見たように『甲斐国志』は「若彦路」は甲府から大石までであると明言しており、その先は「中の金王路」だという。その一方で、『吾妻鏡』の時代には大石から湖沿いの道が「中道街道」まで延び、それが「富士北麓若彦路」と呼ばれていた、と考えられる。

次は、「中道街道」の由来を述べている『甲斐国志』の古蹟部第五。
中道なかみち (中略)府より山梨郡諸村をて落合にて笛吹川を渉り(途中の詳しい村名や坂名や峠の説明を省略)弐里半にして精進村又弐里行て本栖村。駿甲の堺なり。駿州大宮より東海道吉原駅に達す。是を中道と云は、本州(甲州)より駿州へ通路三条あり。一は河内路、一は若彦路、その二道の中間にあるを以て名を得たり。(『甲斐国志』巻四十二古蹟部第五)
この続きに、次のように「春田路」という語を出して、やや難解な議論をしているところがある。重要な論点を含むので、引用する。ここは、《1》で示した『甲斐国志』古蹟部「神野路」における主張を、『甲斐国志』が自ら覆そうとしている、とも考えられる。
精進湖や本栖湖付近にいくつかの道の分岐があることを説明した後で)若彦路は東の方富士裾野より駿州の人穴、上井手に来会す。東鑑に春田路と云へるは中道を指に似たり。春田は墾田はるたの義にて、この路線の精進、本栖の辺にて刈生畑かりふはたとて焼畠を作る。この墾田と云ふは、春時山野の草莽そうもうを焼払ひつちくれを起こして種を下し耘[優の人偏が来](こうゆう 耕すこと) に労せず。熟するを候ひ(待ち)収め取るなり。明春またこの如く新墾を為す如くして耕すなり。若彦路は無人の境を歴る故に、この路(中道)は春田と呼しならん。(同前)
「若彦路は東の方富士裾野より駿州の人穴、上井手に来会す」というのは、上図・富士宮市による若彦路の理解と同じであるが、どうも、それは『吾妻鏡』と違うようだ、と言っているのである。『吾妻鏡』では「神野ならびに春田の路を経て、鉢田の辺に到る」と言っていたが、この「春田」というのは、中道街道あたりの方言「墾田はるた」=焼畑から来ている言葉ではないか。とすれば、「春田の路」は「中道」を指しているようだ。富士山麓を行く「若彦路」は、溶岩台地を行くのであるから「無人の境」であって、「春田」と呼ばれるのは奇妙だ、と。(『甲斐国志』は「神野ならびに春田の路を経て、鉢田の辺に到る」という『吾妻鏡』の語句から「神野路」と「春田路」の2つを作り、それぞれから正反対の結論を導いて見せた、ということになる。こういうところが著作として『甲斐国志』が優れている所だと思う。

なお上図中の右左口うばくち峠は中道街道の難所であった。それでこの街道を「右左口路」ともいった、という。


これまでの拙論での議論を上図に描き込んでみた。青線の大石から鉢田までが「富士北麓若彦路」である。少し時代が下った頃に、河口湖近辺から富士山麓を直線的に上井手まで結ぶ「中の金王路」ができた、と考える。


「わり石」と天保絵図にある「駿甲の堺」(上の『甲斐国志』引用)を調べておこう。次図が天保絵図の甲斐国から本栖湖と「わり石」までを切り出したところ(上が南)。地図の外に書いてある漢字3行は次のようになっている。
此所国境分杭有
本栖村より駿河国根原村迄壱里六町拾間余
此所より上佐野村出口道迄之間山国境不相知


この所が国境で、「分杭」が打ってある。
本栖村から駿河国根原村まで1里余(4km余)。
この所から上佐野村出口(南西方向、今の天子湖近く)までの間は、「山国境相知られず」。

上図を注意して見てもらいたいが、本栖村から「わり石」へ進む道が「中道街道」であり、関所が記入してある(正確には「口留の番所」)。国境近くであるから当然であろう。また、《1》で紹介した海老沼真治氏の「端足峠」もおそらく上図の範囲に入っているはずで、中道街道の西側(右)である。わたしは後世に関所が設けられるような国境近くで、武田源氏勢が待ち伏せたというのは、いかにもありそうなことだ、と思う。
わたしが最初に待ち伏せ地点として「わり石」に目をつけたのは、巨石が割れている狭い隙間を路が通り抜けている地点を「わり石」と呼んでいるのではないかと考えたからである。

現在は、東海自然歩道に「割石峠」として残っている。いくつかのハイキング記録がネット上に出ているが、地図としては「竜ヶ岳 割石峠から周遊」がスッキリしている。国道139号には「県境」というバス停があるそうだが(謎の割石峠・端足峠・割石峠)、バス停から2~300m入ったところが割石峠のようだ。端足峠はそこから2kmほど行ったところ。

しかし、残念ながら現在の割石峠にはそのような巨石は見あたらないようである。




《5》  ―― 河口浅間あさま神社 ――


昔の遊び仲間のMさんが「小屋を建ててから35年経つのに、あの小屋はいまだ崩れずに立っている。床は一部抜けているが、屋根や壁は健全なので、寝られないことはない」と知らせてくれた。それで、一緒に久しぶりに大石を訪ねた。

その時に、河口浅間神社に寄った。
河口浅間神社の前を通る御坂峠越えの道が古の「鎌倉街道」(鎌倉往還)である。国道137号の御坂峠を越える新御坂トンネル(1967年完成、2778m。1994年に無料化)は知っていたが、新たにトンネルが河口浅間神社の裏山にでき(山宮トンネル2008年完成、谷抜トンネル2010年完成)そちらを大部分の自動車は通るので、「鎌倉街道」は落ち着いた田舎道の感じに戻っていた。


初めに掲げた地図を再掲する。
河口湖から御坂峠に登っていく古い街道があり、これがいわゆる鎌倉街道(鎌倉往還)であった。自動車中心のこの地図には国道137号のみ書いてあって、湖岸から離れて御坂峠への登りにかかる道は省いている。その古い街道へ参道が口を開いた形で「河口浅間神社」がある。その奥に「母の白瀧」がある。河口浅間神社周辺に、多いときには140坊もあったという御師の家で世話をされる富士登山の信者達が身を清めた瀧である(「富士吉田市歴史民俗博物館だより」「MARUBI 30号」所載の御師の町河口を行く)による。これは河口御師に関するとても優れた紹介です)。鳥坂峠から大石峠を越えてくるのが「若彦路」であるが、大石は鎌倉街道から少し引っ込んだところに位置していたわけである。

御坂峠についてこれまで触れていないので、『甲斐国志』を紹介しておく。この峠は難路であったが、富士山の絶景を賞讃し“いかにも、そうだろうな”という記述になっている。
御坂みさか 川口よりとうの木へ越る山路あり。この間二里余、道険岨にしてよぢかたし。南面の方、別して峻し。半腹より峠へ至る、十二まがりと云。とうげを望むこと咫尺しせきなれども、路屈曲して遠し。巓より富士を望めば倒扇の如く麓より抜出し、前に河口湖を湛え絶景画くが如し。(中略)景行帝の御宇、日本武尊富士の裾野を経てこの坂路を攀ぢ甲斐の国に入り給ふ。故に御坂と称すとぞ。(『甲斐国志』古蹟部第十六上)
御坂峠を越える「鎌倉街道」と大石峠を越える「若彦路」を比較すると、鎌倉幕府ができた鎌倉・室町以降、更に江戸との交通が重視されるようになった近世になれば当然、御坂峠越えの鎌倉街道の方が開け発展したと考えられる。しかし、平安末の武田信義が駿河を目差す際に、御坂峠越えと大石峠越えのいずれを選ぶか、考えてみる価値がある。少なくとも、現在さびれている大石峠越えであるが(わたしはかつて昔の遊び仲間たちと歩いたことがある)中古以前はそうではなかった可能性がある。

北側からの富士登山は富士吉田(ないしスバルライン)が当たり前の現在であるが、それは、江戸期以降に上吉田が栄えて、北口本宮浅間神社が甲斐国側の富士信仰の中心となった頃からそうだったのである。河口浅間神社が繁栄していたのは、それ以前、平安期から中世を通じる時代である。

つぎは、先に紹介した富士吉田市歴史民俗博物館の「MARUBI」にある好論文である。
かつて、甲州(山梨県)側の登山口には御師おしが集住する町がありました。江戸時代の地誌である「甲斐国志」の記述には『北麓ノ村落吉田・川口二村ニ師職ノ者数百戸アリテ・・・』とあり、ひとつは吉田で、もう一つは、川口(河口)の御師町でした。川口の御師町は、その歴史も古く、中部方面の道者を受け入れ、多いときには140坊もの御師が集住し栄えた町でした。
この河口からの登山ルートは、船津から胎内(船津胎内)を経て小御嶽に至る登山ルートであり、古くは元弘元年(1331)の地震で登山道が崩落したとの記録が見られます。
しかし、江戸時代以降になると吉田口に登山者が引き寄せられ、その後の富士講の隆盛もあって、川口御師は次第に衰頽していきました。
(布施光敏「河口湖口」「MARUBI-30」2008)
江戸が巨大な都市として発展するに従って、甲府-江戸を結ぶ甲州街道が盛んになり、江戸からの登山者が増えていったのであろう。天保地図を見くらべると、河口浅間神社と北口本宮浅間神社の違いが露骨に表されていることが分かる。次の2図は上を南にして同一縮尺で切りとったものである。

 
【左】上吉田村には大鳥居が見え、富士浅間宮(北口本宮浅間神社)には御供所ごくうしょや諏訪明神社など数多くの建物が描かれ、登山門が示されている。【右】それに比べて、川口村は「みさか峠」へ向かう道が描かれているだけで、河口浅間神社は無視されて何も描かれていない。この神社がすでに過去のものになっていることをはっきり示している。ついでに、興味深いことに大石村には大石峠のほうから「川口之湖」に下ってきた道が西湖の方へ伸びているだけで、川口村とは結ばれていない。湖岸に道はあったであろうが、主要道ではないのである。西湖の方への道こそが、古の若彦路である。

上吉田は計画的に造られた町だそうだが(古吉田から移ったのが元亀三年(1572)(「MARUBI 34」))、そのころから河口の御師の町としての繁栄は序々に上吉田に吸収されていったのだろう。上吉田に計画的に移ったのは北口本宮浅間神社の為だけでなく、雪代ゆきしろ 雪解けのときに発生する大規模な土石流)の被害を避けるために最大勾配方向へ直線上の町作りをしたのだという。


河口浅間神社の鳥居をくぐって、参道を行く。静かな境内に、杉の巨木が列をなしているのは圧巻。見えている屋根は中門で、それを入ると本殿である。


参道の杉並木の説明板。小論で紹介したような、『三代実録』貞観七年(865)十二月九日条の「官社」であることをこの神社が主張しているのは当然であるが、富士河口湖町として主張しているわけである。
中世において「富士山信仰の御師の街として栄えた」と言っている。正確な表現である。そして、参道の杉並木は800余年の樹齢であるとしている。


本殿の前に、苔蒸した石塔の頭みたいなものが大事そうに置いてある。これは「美麗石」ないし「ヒーラ石」というもの。前掲「MARUBI 30」の別論文の説明を聞いてみよう。
拝殿の前に祀られている美麗石ひいらいしは、当初祀られた社殿の一部と伝えられています。地元では「お宮の前のヒーラ石上がれば草履の緒が切れる」と神聖視していますが、以前は「お宮の上のヒーラ石上がれば草履の緒が切れる」とうたわれていたといわれ、以前は現社殿の裏山にあったことになり、この神社の創立を考えるうえで、注目される文言だと思われます。
前述の「河口浅間編年史」(昭和3年1928 当時の社司の著)は、明治20年4月に「ヒーラ石前ヲ掘リテ雷斧石及ビ管玉ノ破片ヲ発見シ神社ニ珍蔵ス」と記しています。
(中村章彦「御師野町河口を歩く」)
わたしは実はこの「美麗石」で連想したのは、『三代実録』貞観七年(865)十二月九日条の長文の記述の最後で、使者を遣わして検察させたところ、「正中の最頂」に社宮が石で造られていて、その「彩色の美麗は言うに勝ふべからず」と報告してきた、というところであった。なんの根拠にもならないが、連想したのは事実なので記しておく。「ヒーラ石」という奇妙な語も気にかかるところだ。何か、古層が伝承されているのではないか。

【追記 (2/11-2013)】

河口浅間神社の本殿で無料配布しているパンフレット(両面印刷1枚)の最末尾に「美麗石(ヒイライ石)」という項目があることに気づいた。項目全文を書き写してみる。
美麗石(ヒイライ石)
「三代実録」に言う浅間神社を初めて祀った古代祭祀の石閣と言われ、石を以て造営された祭祀は彩り美麗であったと言われる。
ここで言及している「石閣」は、わたしが連想した「正中の最頂」にできていた石造の社宮と同じものを指しているように思える。
次図は、このパンフレットの上の文章の隣についている写真を切り出したものである。美麗石の正面からの像も私の写真と別角度であって意味があるが、右下の「出土品」と書かれた箱の写真が興味深い。「ヒーラ石前ヲ掘リテ雷斧石及ビ管玉ノ破片ヲ発見シ神社ニ珍蔵ス」に相当するもののようである。


蓋に書かれている文字は、次のように読める。
   「美麗石ヒヒライシ」下 出土品
              濫りに持出しを不許
したがって、パンフレットの「美麗石(ヒイライ石)」は誤記で「美麗石(ヒイラ石)」のつもりであろう。


この美しい少女の映像は、この神社の本殿で舞っている「稚児舞」の1シーンである。この稚児舞の歴史がどれほど昔へさかのぼるものであるかは分からないが、中世から江戸時代にかけて、河口浅間神社が御師と共に発展していた頃の、洗練された信仰の形が美しく残っていることは確かである。(「地域文化資産ポータル 」に置いてある動画「河口浅間神社の稚児の舞 」から頂戴しました。この動画はとても水準が高く、映像も語りも優れている。ぜひ本編20分をご覧になることを勧めます。


社殿の横から後へかけて、ひときわ大きな杉が点々とそびえている。「七本杉」という。説明板によれば樹齢1200年ということだ。もしその通りであれば、これらは貞観六年の富士噴火より半世紀前に芽ばえた杉である。七本杉には番号が振られていたが、これは第7番目。人物は同行のMさん。

おわりに
自分の興味と関心だけで突っ走ったので、読者には読みにくいものになったと思う。「合戦」と「噴火」と「街道」の三題噺のようになって、しかし、オチのないまま終わってしまう。

有史以後に限っても富士の噴火は幾度も繰り返されていて、溶岩流や火山砕石物で大きく地形が変えらた。富士の裾野を行く道はそのたびに埋まり放棄され、また、異なる道がつけられてきた。
しかし、歴史的な特定の噴火が噴出した溶岩流なり砕石物は、富士山麓に現存するどれに相当するのかを特定するのは決して容易なことではないことを、小山真人(1998)で教えられた。

『日本紀略』に延暦噴火(800~802)において「富士山噴火の砕石が道をふさいだため、足柄路を廃して箱根路を開いた」と記されているが、小山真人らの発掘ではそれほどの降灰ではなかったはずだという。
富士⇒三島⇒御殿場⇒足柄峠という富士山南麓を通る東海道のコースを考える限り、「砕石に道を塞がれた」という正史の記述は、実際の堆積物分布と矛盾するようにみえる。(小山真人1998)
小山真人は古代東海道が富士山北麓を回っていたという「宮下文書」の説に賛成しているわけではない。その可能性を議論しているのだが、それは小論の範囲を大きく逸脱するので扱わない。ただ、この論文は東海道と甲斐国を結ぶ山中湖-河口湖をとおる街道(後の鎌倉街道)が延暦噴火で大きく変更されたことを述べているので、そこだけ引用しておく。
御殿場付近から分岐して甲斐国府に向かう街道が、延暦噴火前には山中湖西岸を通っていた。この山中湖西岸の街道は、延暦噴火によって鷹丸尾溶岩・檜丸尾第2溶岩の下に埋もれてしまった。(小山真人1998)
なお、先に紹介した海老沼真治「『富士北麓若彦路』再考」(2011)は、「中の金王路」とほぼ同じ路を指す「郡内道」という呼び名があったことを示している(「郡内」とは、現山梨県都留郡富士吉田市・都留市方面を指す)。それらの道が戦国期までさかのぼる可能性があることを推論しているが、『吾妻鏡』の時代にすでに使用されていたのかは、「疑問符をつけざるを得ない」としている。そして、次のように貞観噴火(864)との関連を述べている。
富士北西麓地域は、いわゆる富士山貞観噴火によって大きな損害を被ったと考えられ、噴火から三百年以上を経てもなお開発は容易でなかったと考えられる。御坂路の事例を見ても、溶岩を避けた道が利用されており、「富士北麓若彦路」についても、貞観噴火による溶岩を避けて成立した道と考えることができるのではなかろうか。(海老沼真治2011)
小論も、貞観噴火の結果青木ヶ原溶岩が生まれたとき、何が埋まり、どのように森林が焼亡してしまったのか。森林の再生にどれほどの年月がかかるものであって、新たに生まれた西湖・精進湖を回る路がどのようにできていったのか、などの考察をしたい。現在の青木ヶ原と対比しながら、議論ができれば良いオチになるのだが、まったく手が出なかった。



「大石駅」の出る合戦
 ――貞観富士噴火と河口浅間神社――


おわり
(最終更新 3/24-2013)


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