「炭 焼 と 魚」 への反響
き坊(大江希望)2015年7月




《1》

わたしがこのサイト「き坊の棲みか」を開設したのは2002年の正月のことである。この年の3月にわたしが定年退職となるので、退職後の活動の足場としてホーム・ページの開設を思い付いた。そのためにHTMLの初歩から勉強し始めたのだが、ホーム・ページの開設というものは、考えていたよりもずっと簡単であることが分かった。それで、HTMLの勉強はそっちのけで、その1月のある晩に興味に駈られて開設してしまった。その後は参考書と首っ引きで、少しずつサイトを広げていった。

「き坊の棲みか」開設の頃に自分が発想していた計画には3方面があり、今も変わっていない。
    (a):ミニサークル「烏合の会」(1977〜97)の会報に掲載された作品を出来るだけアップすること。この会は消滅してしまったが、その足跡を偲ぶことができるようにしておこうと考えたのである。

    (b):自分の日々の感想や心境を、好きなように書いておくこと。⇒「き坊の近況」

    (c):自分のまとまった考察や論文などをアップすること。⇒「き坊のノート」
当時、最初に手を付けたのが、(a)の「烏合の会」で、HTMLの参考書に出ている簡単な書式をそのまま引き写しては、少しずつネット上へアップしていった。この度、本稿を書くために久しぶりにプログラムを読み直してみたが、お粗末極まるところが多々あって、手を入れないとマズイなと反省した。つまり、「烏合の会」のほとんどの部分はこのサイトを開設した当初のままになっている。


《2》

(a) の中に、寺嶋経人さんの「炭焼と魚」(1991)がある。
400字詰で120枚ほどの中編小説であるが、氏が和歌山県東牟婁郡古座川町の高池小学校樫山分校の教員として勤めた4年間の生活がベースになっている。本稿を書くために、改めて読み返してみたが、寺嶋さんも若くて筆力があり、なかなかの力作で“読ませるなあ”と感心した。
過疎集落へ新任する独り住まいの「先生」と、そこへ小学1年生が2人入学してきて分校の生活が展開する。隣家の炭焼の女房は精神を病んでいるらしい。先生と酒を飲むようになった炭焼の男が語る、少年時代の長い話が入りこんでくる。
詳しくは上のリンクで読んでもらうことにして、今年(2015)の1月に、わたしがネットに公開しているメールアドレスに和歌山大学教授の中島敦司さんという方から「炭焼と魚」についての問い合わせがあった。

中島さんは湯崎真梨子教授と共同研究で、熊野の廃校を調査していること、実地に廃校跡を尋ねてまわっていて既に1500校ほどを訪問して、まだ500校ほどを残している云々。その研究をまとめる文章の中に高池小学校樫山分校を取り上げたいが「炭焼と魚」は純然たるフィクション作品なのかどうか、作者の寺嶋経人氏は樫山とどういう関係があってあのようなリアルな山中での炭焼きさんとの付き合いが叙述できたのか、そういう疑問を晴らしたいという趣旨であった。
寺嶋様は,実体験の中でのフィクションとして執筆されたのか,取材を元にしたフィクションとして執筆されたのか,それを知りたいと思っております。
寺嶋経人氏は樫山分校の教師として赴任していたこと、氏は健在で和歌山県東牟婁郡にいるので直接連絡を取って下さいと、わたしはメール返信をした。中島さんたちはすぐ寺嶋さんと連絡を取り、著書で作品「炭焼と魚」に言及することなど寺嶋さんの了承を得たようである。

その後、中島さんから返信を頂戴したが、
「炭焼と魚」は数年前に出会っており,廃校研究の中で訪れた樫山分校跡地の光景と非常にマッチする文章に,実体験に基づくのだろと思ってはいましたが,まさか,本当だったとは,これも感激です。
など、お礼の言葉があった。

十数年間「烏合の会」の作品をネット上に、いわば店晒ししておいたわけであるが、その御利益があって、わたしはささやかな自己満足をおぼえた。(なお、樫山分校は1975年に生徒数0となり休校、樫山部落が無人となった1988年に廃校となっている。)


《3》

中島敦司・湯崎真梨子『熊野の廃校』(南方新社2015)が4月1日付で出版されたことを知り、購入してみた。写真がとても多く、253頁、4000円は高い本だと思うが。ご覧のように、なかなか魅力的な表紙である。

この和歌山大の先生たちは和歌山県内1626の廃校などに実際に足を運び、関係者が見つかれば取材し、多数の学校百年史などの学校誌を読み、町史などの行政資料に目を通したという。中島氏の専門は森林生態学、湯崎氏は農村社会学だそうだ。それぞれの専門を生かして、熊野の風土や地域社会のあり方、また、近代日本の学校教育史・制度史などを調査しよく研究している。この書物の感想を一口で言えば“労作”と言うことになるだろう。
本書は4部に分かれていて、
    第1部:廃校探しはトレジャーハンティング(東牟婁編)
    第2部:海山里に生きる−風土の中のまなびや
    第3部:それは寺から始まった−学校の設立、民の混乱
    第4部:廃校探しはトレジャーハンティング(西牟婁編)
第1部、第4部は写真集で、写真には簡単な説明が付いている。それぞれの「廃校」の関係者や「廃校マニア」は興味深く見るのであろうが、遠慮なく言わせてもらえば、他校の同窓会誌がちっとも面白くないように、退屈なものである。それに対して、第2部、第3部はしっかり書き込んである。

樫山分校が登場するのは第2部の「炭焼きさんの子どもたちの学校」(p91〜96)で、2000をもって数える多数の「廃校」があったことを考えると、特に焦点を当てて取り上げられていると言えよう(次の引用は抜粋で、省略したところがある)。
樫山分校は大正3年(1914)に高池小学校の樫山分教場として設置され、炭焼きを中心にした数家族の子どもたちが中心の分校で、古座川町の中で本校までの距離が最も遠い分校であった。本校の高池小学校までは直線距離で7.5kmもある。(樫山校は)実際には、明治期の設置、あるいは独立校の開校であった可能性もある。(p92)

樫山分校のことを題材とした『ある炭焼きの夜ばなし』という小説がある。熊野のことを題材とした小説や詩などが数多く掲載された「烏合の会」という同好会誌に掲載された『炭焼きと魚』という作品を作者自らが改編し出版されたものだ。作者は熊野在住の寺嶋経人氏、日本が高度経済成長で沸き立っていた時代、とんでもなく山深い里の学校の樫山分校に赴任し、4年間を過ごした教師と住民、生徒たちのふれ合いの物語だ。(p94)

もしも寺嶋先生が赴任されず、誰も赴任を希望しなかったら、ひとつの小説が生まれなかったばかりか、樫山分校の廃止時期はもっと早まった可能性もある。教師不在で廃止となる学校は、非常に多かったからだ。(p96)
寺嶋さんが「炭焼と魚」に手を入れた『ある炭焼きの夜ばなし』(私家版)は、文字や語法などを整えるのにだいぶ手が入れられているが、全体の構成などは変わっていない。題名を変えたのが一番の変更点かもしれない。
「日本が高度経済成長で沸き立っていた時代、とんでもなく山深い里の学校の樫山分校に赴任し・・・・」というのは寺嶋経人さんへのひとつの批評であり、間接的には、そういう寺嶋さんと親交を結んでいた「烏合の会」への批評でもあると思う。“ひとつの浮世離れした人生の行路を選んだ人たち”とでも言うところの。

寺嶋経人さんは、「日本が高度経済成長で沸き立っていた時代、とんでもなく山深い里の学校」へ赴任することで、時代へ対して彼自身を定義しようとしていたと言うことができよう。


《4》

「とんでもなく山深い里」という語に惑わされる人もあるだろうから書いておくが、寺嶋さんが赴任した頃に樫山へ入るのは確かに大変なことだった。「炭焼と魚」のはじめの部分に詳しく述べてあるとおりである。それは過疎地で人が少なく交通が不便であるという意味であって、深山幽谷に分け入るというのとは少し違う。樫山は熊野灘の海岸から直線距離では10km程度入ったところなのである。

南紀の「炭焼き」が備長びんちょう炭を造ることは有名である。「備長」は元禄時代、紀州藩田辺の備中屋長左衛門が造り始めたことに由来するのだそうだ。姥目樫うばめがしという固い材質の樫を高温で蒸し焼きにして造る、きめ細かい良質な炭である。寺嶋さんは作品中で方言の「うばべ樫」を使っている。

ウバメガシはブナ科コナラ属の常緑広葉樹、通常「暖地の海岸崖地に密生林をつくる」という説明がなされるが、紀伊半島では山奥まで生えていることを示した後藤伸(1929〜2003)の研究を紹介しておく。


後藤伸によると、紀伊半島の炭焼きたちの間に長年伝えられた「智恵」によって、ウバメガシが山奥まで残ったのだという。
ウバメガシの森が山の中にあることは自慢になります。というのは、四国、九州、中国地方にも、もとはたくさんあったんです。しかし、そこの人たちは全部ノコギリで伐ってしまったんです。ウバメガシは薪にも炭にもいいんで、何回も何回も伐っているうちにそれが全部なくなったんです。だから、今ではウバメガシしか生えないような海岸の崖山にしか残っていません。(中略

熊野の山奥までウバメガシが豊富に残ったのは、)紀州の人間、とくに田辺の奥の秋津川と、南部みなべ川の奥の清川、そのあたりの人が考え出した伐り方をしてきたからです。どういういことかというと、ウバメガシの木はヨキ(ナタの一種)で伐る。絶対にノコギリは使わない。、そして、ほかのシイなんか炭の材料にいいことないやつはノコギリで伐った。
(『明日なき森』p248〜249)
ノコギリはウバメガシには使わない。特に、チェーンソーウは使わない。チェーンが油の中を廻りながら切っていくので切断面から切株が死んでしまうのだそうだ。南紀の炭焼きたちの間にそういう先人の「知恵」が永年にわたって受け継がれていたがために、上のようなウバメガシの分布図ができたのである。

後藤伸は和歌山大学教育学部出身で、和歌山県の中学、高校の教員。カメムシの専門家。終生南紀の自然を深く追究し続けた。その立場から鋭い発言を多く残した。講演集『明日なき森』(新評論2008)の題名が“明日なき森”という絶望的なものになっていることに目を見はらない人はおるまい。

特に昭和30年代からの「国土緑化」で自然林を皆伐してスギやヒノキをどこもかしこも植林したのが大間違いであった、とくり返し述べている。
昭和三五(1960)年以降の植林はほとんどすべきではなかったんです。ええところはすでに全部植えとったんです。昔は、植林によくないところは全部自然林で残しておったんです。山のてっぺんなんか全部自然林を残した。(前掲書p210)
「スギやヒノキ、あれは森林じゃなく植林です」(p222)。そこには鳥も獣もいない。
小学校の五年の教科書に、「森林」についてこんなことが書いてあるんです。
日本の70パーセントが山地で、その山地の大部分は森林で、こんなに森林の多い国は世界でも例がない、すばらしい国だと。で、その森林からは材木がつくられて、いろいろに利用される。そこで鳥が生活し、動物が生活し、一般の人が中に入って森林浴をし、いろいろな水資源が養われる。
いかにもこれは酷い話です。小学校の子どもにそうやって叩き込んでいるあたりが、僕は恐ろしいことだと思うんです。ちょうど僕らが小学校へ入ったとき、教科書に「進め、進め、兵隊進め」とあった。これとまるっきり同じですよ。
(前掲書p222)
熊野の山中に散らばっていた集落が消えていき、止めようのない過疎化が進行している。ダム建設のための工事道路や山林営業のための林道が、過疎化をいっそう進めた。
もちろん道路がなかったらダム建設はできませんけど、この道路があとで日本の山村の過疎に拍車を掛けた。結局、「道ができたから、もう山村で生活する必要ない」というわけで、山で仕事するのも町で暮らして山へ通えばええやないかというような形で過疎が促進されたんです。(前掲書p204)
山村で生活していた人々がちりぢりになったために、長年伝えられてきた「智恵」が消滅してしまった。ダムの湖底に沈むことで、多数の生物的遺伝子が永遠に失われてしまった。後藤伸は、そう訴えている。




《5》

わたしの手元にある写真を2点披露する。いずれも、2006年6月撮影。


これが「先生」の住宅で、ここで炭焼きのKさんと酒を飲んだ。廃校となってからすでに18年が経過しているわけで、屋根も庭も草に埋もれつつある。階段の右が椿の木。「四章」冒頭の椿はこれである。

熊野らしいよく茂った森林の裾に道がある。「二章」で那智勝浦に通ずる道を「太田川線」と言っているが、これが太田川線。樫山と小匠こだくみを結ぶ道で、護岸の下に水面がちょっと見えているのが太田川の上流部(写真の右が下流)。雨量が増えると小匠ダムを閉じるので、その時この道は水没して通れなくなる。


《6》

わたしは寺嶋経人氏のご好意で、『熊野の廃校』で扱われているいくつかの学校を訪ねているし、教員住宅などに何週間か滞在したことさえある。分校の生徒たちや周辺の住民と懇意になった場合もある。樫山分校(古座川町)・浦神小学校(那智勝浦町)・七川中学校(古座川町)・四村中学校(田辺市本宮町)。したがって、わたしは『熊野の廃校』のいくつかの部分を、いわば、身内の思いで読むことができる立場にある。
だが、率直に言って、わたしはこの本からさして感銘を受けなかった。なぜであろう。

この本の「まえがき」は次のように始まっている。
筆者らが廃校研究に着手したのは、紀伊半島を近いうちに襲うと予想されている東南海、南海地震に備える防災拠点としての活用方法を探るという極めて現実的な動機であった。しかし、調査の過程で著者らを魅了したのは廃校と密接に関わる土地の風土、集落の盛衰、地域社会のありようだった。(p4)
すなわち、驚いたことに、この著者らが研究を開始してからいまだ3〜4年間しか経過していないのである。
筆者らがこの3年間に調査した和歌山県内の1626件の明治以降の学校変遷(p4)
とすると、「廃校と密接に関わる土地の風土、集落の盛衰、地域社会のありよう」がどのようにこの著者らを「魅了」したのでろうか。わたしには軽薄な言葉だけのように聞こえる。

和歌山大の2人の教授の調査チームは、熊野の廃校を調査・研究する特権的で有利な立場にある。和歌山県の小中高の学校教員はほとんどが和歌山大教育学部出身である(後藤伸さんがそうであったように)。その特権的で有利な立場を最大限生かして、すぐれた調査・研究を残すべきである。特権も何もない素人には及びもつかない広範で徹底した探索と、かくも多くの廃校が生まれた事由の深い研究と考察を残す義務がある。
この2人の教授は「トレジャーハンティング」とか「廃校マニア」という語をストレートに使用して、恥じない。先に『熊野の廃校』の目次を紹介したところで、第1部と第4部に「廃校探しはトレジャーハンティング」という語が使用してあることを示しておいた。目次に使うのだから、ジョークではないだろう。
「廃校マニア」という語は本書のあちこちに出るのだが、樫山分校のところから引用しておく。
熊野の山中には、とんでもない山奥に学校があることがある。昭和63年(1988)に廃校となった、古座川町の高池小学校の樫山分校も、そのひとつだ。現在は校舎の基礎などを確認することができるだけで,既に校舎は取り壊されている。世の中には「廃校マニア」と言われる人々がいる。廃校となった集落を訪ね、写真を撮るパターンが多いが、中には沿革を調べたりしながら、資料として整理する人もいる。そういう意味では,筆者らも「廃校マニア」である。ところが,廃校の書を出版するような著名な「廃校マニア」でも,樫山の件では、無人となった集落を訪れては見たものの、校地にまではたどり着けていなかったりしている。筆者も、古座川の友人の助けがなければ同じ結果となっていたと思う。 (p91)
筆致は素直でこの教授たちの善意は感じられるが、なんとまあこころざしの低いことか。『熊野の廃校』は、限りなく進む過疎への、絶望的な問いかけであるべきだったのではないのか。

調査を始めてわずか3〜4年で、こういう書籍を出版することの意味を筆者らはどう考えているのか、いぶかしく思う。調査結果をとりあえず、資料集の意味で公表したい、と考えたのだと解釈したいが、『熊野の廃校』は資料集としては致命的である。
まず、統計表のようなものがほとんどない(「高台移転した履歴のある主な学校の標高」p53 がおそらく唯一)。熊野地方の廃校の状況を俯瞰する(地理的にも時間的にも)ものが欲しいが、そういう統計表や歴史年表はない。廃校一覧表に、判明する限りの生徒数の消長をつければ、素晴らしい資料となったはずだ。
GooglEarthで作図した図をじかに印刷した「廃校探しはトレジャーハンティング 1626の真実」というカラー印刷の見開きがあるが(p2〜3)、記号の説明さえない、コケ脅かしの無駄なカラー印刷である。

索引がないことも、致命的である。せめて、学校名索引ぐらい作ったらどうかと思う(わたしは索引作成の経験があるが、全文が電子化されていればけして手間のかかることではない)。
文献表もぜひつけて欲しかった。和歌山大学にいれば県内の学校資料・行政資料は十分に利用できるはずで、また、筆者らはそれを利用しているはずである。どのような資料が存在するのか、というだけでも読者は知りたいのである。

この本に索引と文献表がないことは、どのようにも申し開きの立たない欠陥だと思う。





《以上》
き坊(大江希望)2015年7月




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