第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話 大橋力『音と文明』の周辺
ろう[聾]とは、「耳の聞こえない人」を指す。「聴覚のない人」といってもよい。小論では、誤読のない限り「ろう」表記を用いるが、文脈によっては「聾」とすることもある。 《12−1》 ―― 新生児と音声 ―― ヒトの標準的な妊娠期間は40週ということになっている(WHOの標準妊娠期間)、すなわち280日、10ヵ月弱である。 母体の中の胎児は羊水に浮いているのだが、4ヵ月目ぐらいから聴力ができてくるという。出産までの残りの6ヵ月ほどを胎児は羊水に浮かびながら、母親の内臓音や話し声、外の人の声や生活音を聞くことができる。ただし、仮に健聴な胎児の聴覚が充分に鋭かったとしても、外の音は伝わりにくいので、くぐもった減衰した音が伝わる。そして、母親の心臓の音や話し声を赤ん坊が記憶していることは、新生児に対する実験で確かめられている。つまり、健聴な新生児と、生まれながらのろうの新生児とでは、すでになんらかの、脳に蓄積する記憶が異なっているとしておかないといけないだろう。(ろうの新生児には音声の記憶はないかも知れないが、別様の記憶があるのかも知れない。振動や明暗の記憶などが、健聴の場合よりも鮮明に存在しているというような。) 子宮のなかに窮屈にはいっていた胎児が、新生児として生まれ出て、肺呼吸を開始する。頭でっかちで、しわくちゃで、泣いているばかりにみえる新生児は、しかし、おっぱいを吸うことと呼吸のふたつが、外界から積極的に物質を取り込む重大作業である。これを積極的に、貪欲になさない限り、そのあとの生存はありえない。 この重大作業は、おっぱいは口から、呼吸は鼻からと、みごとに分業がなされていることをまず強調しておく必要がある。新生児は基本的に鼻呼吸しかできないのである。はじめの3ヵ月ほどは、そののちの人間の喉の構造と違う、特別な構造をしているからである。経口の母乳と鼻呼吸の空気とが通過する道筋が喉で交叉するが、この交叉路で混乱が生じないように、初めの3ヶ月間だけは、分離通行になるように設計されているのである。これは、チンパンジーなどと同じ喉の構造であるという。 正高信男『0歳児がことばを獲得するとき』(中公新書1993)p56,60に、手を加えた 軟口蓋の先端が、われわれが通常知っている“のどちんこ”(口蓋垂)なのだが、新生児では口の中を覗いても、舌があふれんばかりにあるばかりで、喉の奥には“のどちんこ”は見えない。喉の奥に見えるのは軟口蓋である。母乳を呑み込むと、母乳は軟口蓋の両側を流れ下って、食道へはいる。図では模式的に、その母乳が下る路を点線で表している。その軟口蓋の裏側に、気管が口を開けていることになる。 気管の方から言うと、鼻腔は咽喉で気管につながり、口腔とは軟口蓋で区切られている。したがって、鼻呼吸が中心になっていて、口を使った呼吸はやりにくい構造になっている(不可能ではないが)。 3ヵ月齢までの新生児は、鼻呼吸と経口母乳とが分離しているために、肺呼吸を始めたばかりの肺へ母乳などが誤飲されてむせる可能性が少なくなっている。その代わり、この時期の赤ん坊は泣き声かゲップやしゃっくりを発するぐらいで、言語発声の態勢にはなっていないのである。それは、チンパンジーが発語できないのと(喉の構造という点で)同じである。 ところが、その時期の赤ん坊が、とてもリラックスした機嫌の良いとき「クー」とか「アー」とかの短い音声を出すことがある。通常、1ヶ月半ぐらいから見られるというが、これは「クーイング cooing」と呼ばれている。これが人間が発する最初の前言語的音声であると考えられている。鼻呼吸であっても出すことのできる音声で、条件反射的なものではなく意志的な要素が存在していることをうかがわせる音声である。 面白いことに、「クー」という声はニホンザルなどにも観察され、霊長類に見られる社会的なコミュニケーションの役割をはたしているという研究がすすめられている(正高『0歳児・・・』第7章)。 新生児のもうひとつの重大作業が、乳首から母乳を吸うことであるが、これについて正高『0歳児・・・』はその第1章で、きわめて興味深い見解を示してくれている。母親と新生児に対しておこなわれた、行動学者らしい詳細な実験にうらづけられた考察である。
赤ちゃんの乳首を吸うという行動パターンには、非常に特異的で固定した性質が備わっているらしい。まず、ある程度のあいだ吸いつづけると、次に必ず休止が挿入されるようにできている。他方、乳児にミルクを与える側のおかあさんには、休止に対する特定の反応として、揺すって刺激を与えてやるという動作が行われるようにプログラムがセットされているのかもしれない(同書p15)。ヒトの哺乳行動は、“哺乳をできるだけ短時間に効率的にすませた方が生存上有利だ”というようなタダモノ式の理屈はまったく通用しない次元にあることを、よく認識する必要がある。正高は次のように述べている。なお、正高信男は「15年間、霊長類を観察してきた履歴」を持つと前掲書「あとがき」で自己紹介している。 子どもが母親から授乳をうけて成長する哺乳動物には、無数の種が存在している。しかしながら、吸っては休み、吸っては休みというパターンをくりかえす動物は、われわれヒトの赤ちゃん以外にまったく知られていないことは、いくら強調してもしすぎることはないだろう。その行動の機能は、母親との相互作用の迅速な成立以外にはあり得ない。(強調は引用者、以下同様p26)実際に、2週齢の赤ちゃんで、実験的にお母さんからの「優しく揺さぶる」という刺激を加えないようにすると、「吸う−休む・・・・・・というサイクル」が充分に規則的には行えなくなるという。つまり、母−子の協調がないとリズムを維持していけないという。 ところが、8週齢ぐらいになると、赤ちゃんはお母さんからの刺激がなくともリズムを維持していけるようになっている。しかし、赤ちゃんは驚くべき新しい行動に出るのである。それがクーイングである。 おかあさんに(実験的な設定でわざと)揺さぶりを与えないようにしてミルクを与えつづけていると、赤ちゃんは明らかにいらいらするような印象を与えるようになるのである。休止のあいだに、やたらと体をもぞもぞ動かす。それだけではない。時には乳首から口を離して、「アー」と声をあげたりする。(p21)赤ちゃんは、お母さんの反応を期待していて、その期待がかなえられないのを待ちかねて声を上げる。「クーイングは、のどの奥にある声帯を、意図的に抑制のされた空気の流れが一定の時間通りすぎることによって、初めて産出される音である」(p26)。けして泣き声のような叫喚音ではなく、コントロールされた意図的な発声である。 6〜8週齢(1ヶ月半〜2ヵ月)で出てくるクーイングは、けして、“本能にまかせた”無意識の発声ではなく、「音声に赤ちゃんは意味を与えている可能性が高い」(p26)のである。 クーイングの声の頻度は、どんどん増えていく。3ヵ月齢ぐらいになるととても活発に「アー」とか「クー」とかの声をあげる。お母さんはその声を聞いてうれしさがこみ上げてきて、無意識のうちに思わず返事をする。 (おかあさんに感想を尋ねると)満3ヵ月を過ぎてからやっと我が子を「ヒトの子ども」らしいと思えるようになった、と答える女性がずいぶん多い。従来の泣いてばかりの時期と違って、愛情のそそぎがいのようなものを感じるようになってくる(中略)。まだ3ヵ月齢の発育段階では、おかあさんが言葉で呼びかけたところで、赤ちゃんがすぐに返答するという相互交渉が成り立つわけではない。けれども、おかあさんは赤ちゃんが声をあげるのを、注意してじっと待つようになる。クーイングが発せられると、それが言語の体裁をなしていない意味不明の音にすぎないのにもかかわらず、返事を送りかえしてやる。(p30)正高『0歳児・・・』の第2章は「おうむがえしの意義」と題して、このクーイングにおける母−子の応答のコミュニケーションに関する観察事例の詳細な分析を、様々な角度から示している。(これは、健聴な母子の例ということになる。) 「おうおむがえし」というのは、赤ちゃんが発した声に似た声でお母さんが応えることが多くなっている、ということである。 (赤ちゃんの声は)「アック」とか「オゥイ」とか、けっこうその響きは多彩におとなには聞こえる。するとたいていの場合、おかあさんもひきつづいて同じように「アック」とか「オゥイ」と応じてやるのである。つまりおかあさんの応答のパターンが、赤ちゃんの出す音の質にひきずられて影響を被っている。(p46)お母さんの応答の約8割が、赤ちゃんの発声に“似ている”、というデータが示されている(p45)。そのお母さんの声にさらに応える赤ちゃんのクーイングが、果たして、お母さんの声に“似ている”かどうか、を調べている(“似ている”かどうかの判定は、録音データを第三者が聴き、評価する)。その結果は、3ヵ月齢と4ヵ月齢とで異なっていて、3ヵ月齢ではお母さんの返答に影響されていないが、4ヵ月齢ではお母さんが“似ている”応えの場合の方が、ずっと高い比率で“似ている”クーイングを返している(p47)。 つまり、4ヵ月齢ですでに、お母さんの声を聴いて、それに似せた応答をするというコミュニケーションが成立しかかっている。「この音はぼくが今さっき出した音と似ている」(p49)と認識する能力が獲得されつつある。赤ちゃんは、自分が発したクーイングに似た母の声が戻ってきて、さらにそれに似たクーイングを再び発する、ということになる。この母子間の“応答のひきこみ”を、母だけでなく子も快いものとして体験しているとしてよいであろう。 前掲図で、新生児の喉の構造はチンパンジーの喉と似ていて、口から声を出すようにはなっていないことを説明した。気道はもっぱら鼻を通じて外界に接している。 ところが、4ヵ月齢前後に、喉頭の下降という目覚ましい身体変化が生じる。正高は前掲書第3章で「はじめての声がわり」と呼んでいる。喉頭が下がって軟口蓋が喉頭蓋と離れ“のどちんこ”状態となり、《気管−食道−咽喉−口腔−鼻腔》の複雑な形状をした空洞が喉にできる。これがヒトの発声構造であるが、《気管−食道》の2本のチューブに《咽喉−口腔−鼻腔》の空洞が接続し、気管の先端部に声帯がついていて、振動膜が開閉式になっていて、声を出すときには閉じて振動音を発する。 小嶋三「声から言葉へ」(『言葉の獲得』ミネルヴァ書房1999)から引用する。 ヒト幼児では4ヵ月齢で喉頭が下降し始める。これも重要な点で,他の霊長類ではほとんど下降しないか,下降してもわずかである。喉頭と鼻咽頭が連結していることにより,4ヵ月齢前のヒト幼児は鼻で呼吸しながら,□からミルクを摂取することができる。逆にいうと,口による呼吸は簡単でない。チンパンジーの鼻をふさいでみると,首を振っていやがる。この点に関して彼らはヒト幼児と同じ状態にある。チンパンジーに笛を吹かせる訓練をするとき,鼻を押さえる必要があるようだが,呼気が口腔でなく鼻腔を通るためだろう。喉頭が下降することにより利益を得たのは言語機能であるが,一方,誤嚥するという危険も増えた。ヒトの発声構造を認識するために、成人の喉の横断面を掲げておく。実に複雑な形状をしている。ことばを発するためには、母音−子音の組み合わせを、自在に連続的につくり出すことが必要である。そのためには、この空洞を共鳴箱として使い、舌や唇・歯や周辺筋肉を複雑・巧妙に変形するという高度な動作を、瞬間的にしかも連続連鎖的になす必要がある。これは、調音(articulation)というが、健聴の乳児は、「喉頭の下降」以後、「初語が発現する」半年から1年ぐらいの間に、それをやってのけるのである。 喉頭の下降があって(これは人によって差があり、3ヵ月〜4ヶ月半ぐらいに生じる、正高・前掲書p69)、喉が発声構造を構成するようになる。これは、空洞や舌などの配置がととのったという意味であって、声が出せるようになるためには、呼気のタイミングと合わせてそれらを一斉に作動させること(調音)を習得しなければいけない。脳がその作動をコントロールできるようになるのは、容易ではない。 ヒトが調音を習得するのに、ヒトにはいわば自動的な習得機構が作りつけられていて、それが働き始める。喃語(なんご、babbling)である。 喃語とは、6ヵ月ぐらいから出てくるが、はじめは「アーアーアー」というような母音の連続発声。これは呼気の断続的な排出が必要で、3ヵ月ぐらいから始まっている足で空を蹴る動作(寝ころがったまま、足を動かして空を蹴る。これは歩行運動の先駆とも考えられている)と連動するなど、全身の動作と相伴っている。これを過渡期の喃語(marginal babbling)という。 さらに、7ヵ月目ぐらいから、基準喃語(canonical babbling)に進む。これは日本語の音声言語のもとでは、「バ−バーバー」「ダダダ」「バブバブバブ」などの、子音+母音の音韻と見なせる音を連続的に出すようになる。 注目すべきは、クーイングや喃語が手や足のリズミカルな動きと共起することである。赤ちゃんは足で空を蹴りながら笑い声をたてるようになり、クーイングも発するようになる。やがて足の動きよりも手の動きの方が多くなり、過渡期の喃語の頃には発声と共に手を振ったり、持っている物を机などに叩きつけたりするようになる。そして基準喃語を発音するようになると、手の動きは影を潜めるようになる。これまでの段階でわかることは、コミュニケーション行動は声と動きが渾然一体となって発現するということである。(斉藤くるみ『少数言語としての手話』東京大学出版会2007 p23)後に論じることになるが、「声と動き」が渾然一体となっているという「声」は言うまでもなく「音声言語」に発達していくのであり、「動き」は「視覚言語」としての手話に発達していくのである。 健聴の赤ん坊は手の動きは減って基準喃語 からやがて 初語へと進む。ろうの赤ん坊は「手による喃語」から手話へと進む。これは次節の主題である。 ろう児は「過渡期の喃語」は出すが、「基準喃語」には至らないのが普通である。つまり、基準喃語のためには高度な「調音」をする必要があり、それには、自分の発声を聴いてフィードバックすることが必須であるらしい。見本となる音声(他者の発する音韻)と自分が発する音との比較をして、自分の発声構造の多岐にわたる筋肉−神経系への指示の調節をしつつ、その最適点を求めて記憶する、というような作業なしには、基準喃語は発しえないのである。 《12−2》 ―― ろうの新生児 ―― ろう[聾]とは、「耳の聞こえない人」を指す。「聴覚のない人」といってもよい。 われわれの脳が外界からの信号(情報)を感受する感覚を通常「五感」といっている。目・視覚、耳・聴覚、鼻・嗅覚、舌・味覚、皮膚・触覚。このうちの聴覚がない人が「ろう」である。すなわちつぎの「4感」の中に生きる人である。 目・視覚、鼻・嗅覚、舌・味覚、皮膚・触覚 生まれたばかりのろう児を考えてみよう。ろうの赤ちゃんはこの「四感」の中で生きはじめる。母親の優しい手触りと乳首に吸いつく口唇や舌の感触、母乳の匂いと甘さ、明暗の変化や目の前をよぎる動き。そういう外界からの刺激をたえず受けながら、赤ちゃんの脳は成長していく。赤ちゃんは泣き声を上げ、手足を動かし、目を閉じ開く。 健聴な人とろうの人と、どう異なる生涯になるのか、その人生の質が別れる時点はどこなのか、そして、何が異質であり、どういうところが異質ではないのか。 ろうとして生まれる比率は1000人に1人で(0.1%)、全世界のどの民族でもそれほどの変わりはないのだそうである。遺伝的ろうと、妊娠中の風疹罹患などがある。(それ以外に、難聴というカテゴリーと中途失聴というカテゴリーがある。これは現実問題としては無視できない重要なことなのだが、思想的な問題としては別にあつかった方がよいと考える。小論では後に扱う予定)逆に言うと、ろう人口の比率は大局的に見れば一定で、変わらないということである。 このことは、ろう問題をけして無視できないこと、ろう者を健聴者という多数派のなかにまぎれ込ませればなんとかなる、という手法を本質的に否定している事実である。存在しているろう者の人口が相当の多数であるというだけでなく、たえず一定の割合で増加し続けるというのだから。60億人の0.1%は600万人である。(ろうの人口比は0.3%という見積もりもある。おそらく60db以上の超難聴をろうに加えるというような、ろうの定義に関わる相違だと思う。) 前節で述べたように、健聴でもろうでも、“クーイング ⇒ 過渡期の喃語” までは同じように進む。ほぼ6ヵ月齢ぐらいである。ろうの新生児の研究報告は1990年代後半になってやっと日本・アメリカ・オランダなどからなされるようになった状態であるという 聴力を欠いていても生後6〜8週以降、クーイングは発声される。また生後6ヵ月ごろになると、過渡的な喃語も出る。さらにリズミックな身体運動と同期するという。ところがそれにもかかわらず、基準喃語が産出するようには、まずならないというのである。ろうの子どもの両親がまたろうである割合は1割ぐらいのものであるという(この数字の確かな出所は不明であるが、あちこちの文献に頻出。たとえば斉藤くるみ・前掲書 p44、181)。遺伝的なろうの因子を持つ両親であっても健聴者であることは多く、関与する遺伝子の数が数十もあり、そのうちのどれかについてホモの子どもが生まれる可能性はかなり落ちるのである。したがって、多くの場合、ろうの新生児が誕生してもその両親は健聴である。すると、わが子にクーイングが始まれば「もう、おしゃべりをはじめた」と思うのが普通であるという(正高前掲書p88)。そのために、わが子がろうであることに気づくのが遅れる場合が多かった。(日本では、近頃は新生児に対する「聴覚スクリーニング」が1ヵ月齢以前に行われるようになっている。ただし、日本の耳鼻咽喉科医師は、難聴児を発見したら、補聴器をつける・人工内耳の手術をするという発想しかないので、注意の必要がある。この点も、後述) ろう新生児が“クーイング ⇒ 過渡期の喃語” まで進んだとして、そのあと、何が起こるのであろう。 注意してみていると、ダーダーダーといいだす代わりに、健聴な子どもであるならばおよそ行うことのないような、微妙で複雑な手の運動が現れだすというのである。カナダのマギール大学のローラ・ペティトは、細かな分析によりそういう動きが、世界各地に存在する多数の手話(sign language)に共通する、基本的な表現パターンに対応することを発見したのだ。(正高・前掲書p88)ここは、非常に重要なところで、斉藤くるみの前掲書からも引用しておく。(正高の著書2冊とサイト手話はどのように進化したかを読んだ限りで、くだけた分かりやすい書きぶりなのだが、時として文意がアイマイになる。斉藤くるみの著書2冊はいずれも学術書の体裁で、厳密な硬い書きぶりである) 言語音を聞いたことのない先天性聴覚障害をもつ赤ちゃんでも、クーイングや過渡期の喃語は発する。しかし基準喃語は発達しない。聞こえなくてもクーイングや過渡期の喃語が発達するということは、赤ちゃんは言語を聞いたことがなくても、音声を発してコミュニケーションを行う準備はするということである。つまり音声言語を持とうとすることは生得的に備わっている性質だということである。さらに興味深いことに、聞こえない赤ちゃんの場合、過渡期の喃語から1単語を発する時期へと発達しないかわりに、手による喃語を発するようになる。聞こえない赤ちゃんは、基準喃語を発音するかわりに、聞こえる赤ちゃんでは示さないような手の形を示すようになるのである。(斉藤・前掲書p23)その「手による喃語」が人類に普遍的な形態をしめすという画期的な発見が、L.A.ペティト(Petitto)らの1991年の論文である。この年代の遅さに注意して欲しい。それまでは、手話の発生がどのようにヒトにとって必然的であるかということについて、充分な研究がなされていなかったのである。 下図がペティトの13手型である。このうちの12手型がアメリカ手話(ASL American Sign Language)の基本手型としてそのまま使用されているという。 斉藤は次のように加えている。 興味深いのは、手話を見たことがない赤ちゃんでも、そのような手型を表すことである。そして、親もろう者であるために赤ちゃんが手話を見て育つと、手による喃語は生後9ヵ月以降どんどん増加し、手話による単語を発する時期へと発達するのである。(同p23)正高信男は前掲書(p90)で、金沢大学の武居渡が2001年に、日本人の例として、下図のような面白い「手による喃語」を観察し、それが日本手話(JSL Japanese Sign Language)に自然に取り込まれていることを見出したことを紹介している。 (A)まず、両手を握りしめ、胸元で手首を同時に反転させるしぐさ最初の、手を握りしめる形がペティトの13手型に含まれていることはもちろんである。 「手による喃語」がどのように発生するのかは不明であるが、ペティトの13手型が世界各地の手話に普遍的にみられるということが意味しているのは、「手による喃語」に現れている“動作”がヒトに生得的に作りつけられている言語をしゃべりだすための手段(必然的な道筋)のひとつであるということであろう。 それが発展して手話が生まれるのであるが、世界の各地で自生的に生まれている手話があることは事実であり、手話は自然言語のひとつなのである。 手話に対する誤解はとても多いのだが、その筆頭は、【手話は、ジェスチャー(ものまね)を組み合わせた直感的なものである】というものだろう。従って【手話で抽象的な議論をすることはできない】とする。もうひとつは【手話は、人工的に作られた言語である】というもの、つまり、誰かが約束事として作った言語だと考えている人が案外多い。筆頭にあげた誤解【手話はジェスチャーを集めてつくった言葉である】と関連しているが、【手話は人類共通である】と簡単に考えているひとも多い。 上の、「ペティトの13手型」の発見の事実だけで、手話が人工言語であるという誤解は消えるであろう。ろうの新生児が、ある月齢にたっすると自発的に普遍的な手型をふくむ「手による喃語」を始めるのだから。じゃあ、“手話とはいったい何だ、どう考えたらいいのだ”という疑問に対する答えは簡単である。すぐ上で言ったように、それは自然言語である、ということだ。日本語が自然言語(ある人間集団のなかで自然に生まれた言語)であるように、日本手話も自然言語である、ということだ。 日本語は聴覚言語であり、日本手話は視覚言語である。おそらくヒトの脳にはそのいずれをもつむぎ出すことができる普遍文法が、生得的に備わっているのである。したがって、育て方によっては、聴覚−視覚のバイリンガルも可能なのである(後述)。 ろうの赤ちゃんが6ヵ月齢ぐらいで「手による喃語」を自発的にはじめ、周辺に(その乳児に見える範囲に)手話で応答できる人がいれば、その「手による喃語」をどんどん高度化していく。そして、手話を母語として身につける。 例えば、ろう者(ろうであって、手話を母語とする人)の夫婦にろうの赤ん坊が生まれた場合に、両親の話している手話が自然に子どもにつたえられ、その手話を母語として育つ。その子が新しいろう者となる。 斉藤くるみのまとめを引用させていただく。 言語というものは7歳頃までに獲得されないと、一生完全には獲得できないとしばしば言われる。この時期を言語習得の臨界期と呼ぶ。臨界期までに言語にさらされないと、言語発達とそれを必要とする認知・思考能力の発達が阻まれることになる。それは幽閉児・野生児などの例からもわ かっているのであるが、実は聞こえない子どもが音声言語のみで育てられることは、幽閉児・野生児が言語にさらされることなく育てられるのに似ている。過去の歴史の中で、聞こえない子どもは知能も低いとしばしば言われてきたが、その原因は言語発達が不十分であったからである。 《12−3》 ―― 手話とはなにか ―― 前節で「手話は自然言語だ」といったが、実は、その見解が認められるようになったのは、そんなに古いことではない。 チョムスキーが「普遍文法」の考え方を最初に提出したのが1956年であった(前章(11-5)普遍文法参照)。そのチョムスキーについて、面白いことを、オリバー・サックス『手話の世界へ』(晶文社1996 原著1989)が「注」で書いておいてくれた(オリバー・サックスの本はどれも詳細で長文の注がついているのでも有名)。チョムスキーが1965年の言語学の会議で、言語は「音声と意味の特定の対応関係である」とするチョムスキー自身の見解について、手話の研究者から「ろう者の手話をどう思うか」と質問されたそうである。 チョムスキーは柔軟な姿勢を見せて、こう答えたという――。なぜ音声の部分が重要なのか私にもわかりません。言語は「シグナルと意味の対応関係」というべきでした。(p271)つまり、手話では視覚的なサインが重要であるのだから、音声だけを重要視する理由はない、という見解を述べて、チョムスキーは自分の言語についての定義を訂正した、というのである。 手話の文法についての本格的な研究を始めたのはウィリアム・ストーキー(ギャローデット大学 Gallaudet University、ワシントンD.C.所在)で、1960年『手話の構造』が有名。アメリカ手話(ASL)を対象にした研究である。ギャローデット大学は世界唯一のろうのための大学。コネチカット州ハートフォードに設立1864年。その前身のろう学校は1817年開校。このろう学校−大学の歴史は手話の歴史にとって重要であるので、記憶にとどめておいて欲しい。「ギャローデット」は、フランスのろう教育の影響のもと、ろう学校を設立したトーマス・ホプキンズ・ギャローデットの名前に由来。 前章でも紹介した脳の研究((11-3)「言語野」,(11-4)「言語野(続)」参照)はMRIなど非侵襲的手法の実用化が普及する1980年代からである(人体断面像の最初の成功が1978年。「医用画像電子博物館」の年表が便利である)。 音声言語について左脳の言語野の存在が確認されたが、実は、同様に手話に関しても言語野が使われていることが確認されたことが、手話が音声言語と対等な自然言語として完全であることの直接的な証明になった。それまでは、手話は図像の認知であるから右脳で行われているであろう、という見解が強かったのである。ジェスチャーやパントマイムは図像の認知として確かに右脳が使われるのだが、手話は音韻として扱われるために図像であっても言語野が使われることが分かったのである。 PETやfMRIを使った研究も,手話が言語野で生成され,理解されることを証明している。1997年にP・マクガイヤーらはPETを使って、ろうの手話者がイギリス手話を心の中で思い浮かべるときと、聴者が英語の文を心の中で思い浮かべるときの脳の動きを調べた。この両方とも同じように左の下前頭葉の活性化が見られた。この場合、両者とも右半球の活性化は見られなかった。(斉藤・前掲書p12)手話は身体動作を媒介にして話される言語であるが、便宜上「手指動作」と「非手指動作」にわけて説明される。手指[しゅし]動作は、手型・位置・動きによって決まる「手指記号」を表す。非手指動作というのは、顔の表情(特に口形、あご、視線、眉の動き、鼻のシワなど)や首の角度などによってきまる「非手指記号」を表す。 手話の中の非手指記号には,眉を上下させたり、眼を細めたり、口を開けたり、唇を突き出すというような顔の表情と、うなずき、あご上げ、首振りというような頭の動き、姿勢などがある。たとえば日本手話の場合、文の最後で頷くのは平叙文であるとか、あごを突き出すのはWH疑問文であるとかいう非手指記号の使い方がある。(以下略)(斉藤・前掲書p17)重要なことは、手話に現れる「記号」は、すべて視覚言語の音韻としてサイナー(signer 手話者)にあつかわれているということである(視覚言語に音韻という語を使うのは本当はおかしいのだが、後発の文法学として音声言語の用語をそのまま使う場合が多い)。 もちろん、サイナーも言語表現ではない通常の表情(笑う、悲しむ,怒るなどの)をあらわすのだが、それは主として右脳があつかい、“非手指記号としての表情”は左脳の言語野があつかうのである(厳密に言うと、“非手指記号としての表情”は感情などを表現しているのではなくあくまでも手話記号の一部であるのだから、表情というべきではない)。 感情を表す顔の表情は主に脳の右半球で生産・認知されると考えられている。ところがネイティブ・サイナーが言語記号としてつかう顔の表情は主に左半球を使って生産されることがわかった。(D.P.コリーナ 1989,1999)(斉藤・前掲書p18)このように、20世紀の終わりに、非侵襲的に脳内部が調べられるようになって、聴者(ろう者に対していう語。健聴者)がジェスチャーやパントマイムをする場合の類推で、サイナーの手話動作を考えることができないことが明らかになったのである。聴者が音声言語を使用する際に言語野を働かせているのと同じように、ろう者が手話言語を使っているときには言語野を働かせていることがわかった。 前節で紹介したローラ・ペティトの「手による喃語」の普遍性の発見が1991年であった。 このように、手話がヒトに生得的な自然言語であるということが誰の目にも明らかになったのは、この十数年のことである。つまり、「手話が科学的根拠を持って、言語として認知される」ようになったのである(斉藤・前掲書p20)。 第1節新生児と音声,第2節ろうの新生児で既述のように、新生児は何段階も周到に準備されたヒトに生得的な言語を獲得するプログラムを、つぎつぎに進めていく。自動的にそのプログラムは解除され発動するのを待っており、展開してその役割を終えると,次のプログラムにバトンタッチする。胎児のときには,文字どおり母−子一体であったわけだが、新生児として肺呼吸を開始しても、母−子の系は一体関係を持続しつつ、協働して言語獲得のプログラムを進めていく。母−子が共鳴しあい引き込みあって、いくつも設定してある段階ごとにその最適点を求めて、つぎつぎにハードルを越えていくのである。 興味深いことに、6ヵ月齢ぐらいの「過渡期の喃語」の段階までは、耳の聞こえる子も聞こえない子も等しくプログラムを進行させる。言い換えると、音声言語に対しても、視覚言語に対しても平等に開かれているようにおもえる。ろう者の両親からうまれた健聴な子が聴覚−視覚のバイリンガルになることは多数の実例があり、CODA(コーダ Children of Deaf Adults)と呼ばれている。また、アメリカ・インディアンやアボリジニの社会では、音声言語と手話とが併行して共存していた可能性があるという(たとえば、斉藤くるみ『視覚言語の世界』彩流社2003 p132)。民俗的背景をもった社会の中での手話という観点は、ずっと広い視野をもたらすと思う。後に扱う予定。 音を欠く世界で生きはじめたろうの新生児の脳は、視覚世界に言語媒体を求めていく。視覚が健聴者より鋭敏になったり、特に視覚的な記憶がすぐれるように発達することなどが考えられる(健聴な者の聴覚神経のある部分が、手話の視覚的認知に使われているという脳の可塑性が明らかにされている。斉藤『少数言語・・・』p13)。「手による喃語」の段階から周囲が手話で応答するならば、手話を母語として正常な言語的発育を遂げるのである。 「周囲が手話で応答するならば」という条件は,実は、容易ならざる意味あいを持っている。また、このことが手話を特徴づける重要な条件になっている。 ろう児にとっての意味あいは、もし、ろうの赤ちゃんが「手による喃語」をさかんに発しているのに、周囲の人々がそれに気づかず音声言語を掛けることに終始すると、その脳が言語を開発する機会を逸してしまう可能性がある、ということである。つまり、このろう児が母語を十全な形で獲得し得ない可能性があるということだ。それは、前節の最後に引いた斉藤くるみのまとめの中にあった「聞こえない子どもが音声言語のみで育てられることは、幽閉児・野生児が言語にさらされることなく育てられるのに似ている」という深刻さなのである。 コミュニケーション能力の欠落とか言語情報からの遮断ということの前に、概念によって外界を切り取り命名するというヒトの抽象能力がそもそも育たないということが深刻である。前章末の(11-5)普遍文法でわずかに言及したスーザン・シャラー『言葉のない世界に生きた男』(晶文社1993)で、ろう教室に手話の教師として入った著者が、教室に来ていたろうの男が誰とも話しをしないことに関心を持ち、熱心に働きかける。男と著者の涙ぐましい努力の末、はじめて「ネコ」という一語を理解する場面は、ヘレン・ケラーが「水」を触文字で理解した瞬間と比べられて、紹介された。その男はメキシコからの不法移民の1人で、27歳。「ネコ」という一語の理解は、物には名前があるのだという衝撃的な事実に思い至った瞬間だったのである。男の手話はみるみる上達していく。著者は数年後に男と再会する。男は庭師となり自立しているのだが、著者は男の紹介で、男が日常的に接触している下層民の「ろう社会」をかいま見る。アメリカ手話(ASL)ができるのはその男だけで、他はパントマイムやジェスチャーで用をたしている。わたしには、その場面が圧巻だった。 アメリカという巨大社会の底辺には、ろう児として放置されたまま育ち、農業労働などで命をつなぎながら、不法移民として入ってくる人々がかなり存在するという。スーザン・シャラーは言葉を持たないまま成人した人の例を集めようとしているのだが、オリバー・サックス『手話の世界へ』はスーザン・シャラーからの手紙で、なんと54歳ではじめて言語を獲得したろう者の例があることを知ったと書いている。そして、この2例とも、言葉の世界をはじめて直感するまえに、すでに算術を知っていたとしている(p182)。 スーザン・シャラーによると、言葉をもたない成人の存在は社会的ケースワーカーの間などでは周知の事実であっても、言語学者などは19世紀の「アベロンの野生児」(推定年齢40歳で死亡したのが1828年)の知識から前進しておらず、成人してから新たに言語を学ぶことは不可能であるという“神話”にとらわれているという。手話を身につけなかったろうの成人たちは、仲間内や家族にだけ通じるサインやジェスチャー(ホーム・サインという)で間に合わせ、往々にして半人前の扱いをされたまま生涯を送ることになる。 ろうの人口比が0.1%(あるいは0.3%)であるから、手話を母語としている人口比もほぼそれに見合う数字(またはそれ以下)であろう。つまり、視覚言語である手話を母語とする人たちは、せいぜい1000人に数名の少数であって、多数の聴覚言語(通常の音声言語)の使用者のなかで、音声言語にかこまれて生きることになる。つまり、手話はマイノリティーの言語なのである。 さらに、もうひとつの事実も重要である。それは、生まれるろう児のうち親もろうである割合は1割ほどだ、ということである。親がろう者であれば、ろうのわが子を早い時期から手話で育てることができ、その子は手話を母語として順調に言語的に成育していく。つまり、このケースでは手話が親から子へと母語として伝えられることになる。ろう者の夫婦からろう者が生まれる、という言い方をしても良い(前にも言ったが、ろう者とは「ろうで手話を母語とする人」)。しかし、それはろう者のうちの1割程度であり、「マイノリティーの中のマイノリティー」(斉藤『少数言語・・・・』p182)である。 残りのろう児に対しては、適切な「ろう教育」がなされる必要がある。その目標は、言語獲得の臨界期(6〜7歳)までに母語を獲得させる、ということ以外はない。ここまでは、異論はないと思う。 ところで、現代日本では、この先に障害者教育がまちかまえていて、問題が難しくなる。ろうに生まれたことは不幸なことであるという大前提にたって、ろうを障害としてとらえる考え方が広く行きわたっているのである。その考え方には、善意の“福祉”として強い規範力を伴っている、といっていいだろう。補聴器・人工内耳・口話主義教育などであるが、これは、後の節で扱おう。 もうひとつ、確認しておきたい事実がある。上述のようにろう者はマイノリティーであり、手話がろう者の子孫に伝わっていくのは、マイノリティーの中のマイノリティーである、という事実が意味することは、もし特別なろう者の集中がなければ、ろう者は聴者の海の中でどんどん細分化され、手話は消滅していく可能性が大きい、ということである。手話も言語一般と同様に語る人(この場合はサイナー)がいなくなれば消滅する。しかも、手話の文字化(書記手話)はいまだかって成功していないので、手話使用者がいなくなればその手話の痕跡も残らない。(書記手話については後に扱いたいが、映像記録が容易になった現代においては新たな可能性が生じていると思える。) 太古から人類の間にはろうが生まれ、ホーム・サインが無数に発生していたであろう。しかし、ろうの集中がなければ、もしくは特別な民俗的事情がなければ、発生したホーム・サインはそのまま消滅していったのであろう。たまたま、特別なろうの集中が起こったとき、ホーム・サインが集まる機会となり、その中で手話が生まれることがあった(1980年代に記録されたニカラグア手話の発生で実証されたように、生まれる手話が自然言語として完璧であるためには、そのろうの集団の中に言語獲得の臨界期以前の幼少年の集団が存在することが不可欠である。後述)。しかし、いったん生まれた手話も、ろうの集中が維持されなければ、消滅する可能性が大きい。 ろう者の集中の機会は、(1):都市化、あるいは(2):ろう学校のふたつの場合が重要であることが、これまでに知られている。とくにある手話が優越し標準化するには、ろう学校で幼少の生徒たちが手話を自由に使って会話することが決定的である。近代教育(国民教育)のなかでろう学校が設立されることで、その国の手話が標準化されていった。それ以前に、手話がどのように存在していたかは、多くの場合記録がなく不明である。 ヨーロッパでは、「ろう教育と呼べるものの記録がすでに15世紀から存在する」(斉藤『少数言語・・・』p165)という。ただし、ろうの貴族子弟に口話や書字を教えるという教育が主である。とくに「指文字」(アルファベットを指の形で表現する)が発達した。それによって、書かれた音声言語を耳の聞こえない人が学ぶことができた。18世紀半ば(1760年代)、フランスのド・レペ神父がろう学校をひらき、手話による教育を行った。「ろう教育の祖」と崇められているが、手話は文法をもたないと考え、フランス語対応手話を開発し広めようとした。パリ国立ろう学院の設立が1791年。 前述のように、このフランスの手話とろう教育がアメリカに渡り、ハートフォードろう学校が設立されたのが1817年。 日本では、1878年(明治11年)京都の盲唖院(古河太四郎)、1880年(明治13年)東京築地の楽善堂訓盲院などが早い時期のろう学校。「盲学校及び聾唖学校令」が施行されたのが1924年(大正13年)で、欧米のろう教育の流れが導入され、「口話法」が国家主導で強制され、手話が禁止された。1959年にはろう学校在籍者が2万人を超えた。これがピークで、現在2000年はその1/3になっている(生徒減によるより、「統合、インテグレーション」が望まれるため)。口話主義教育に関しては、後述。 《12−4》 ―― 世界の手話 ―― 日本手話がどのようなものであるかを知りたければ、木村晴美のサイト「ろう者で日本人で・・・」が多数公開している短い手話映像を見るのが良いと思う。たとえば“とん母”のネコの話(木村晴美さんはNHKの手話講座で顔を知っている人もあるだろう。ろう文化の理論家としても有名。“とん母”とは、晴美さんの母親。ご両親も晴美さんもろう者)。わたしは手話そのものをまったく知らないので、活発なしぐさとリズム感を眺めているだけで、一言も分からない。 日本手話を母語(第1言語)としている人は8〜9万人といわれる(すぐ下の亀井の著書p18)。なお、日本手話は日本語とは言語そのものとして直接の関係はない。しかし、マイノリティーとマジョリティーの関係にある。日本手話サイナーは聴者の日本語の大海のなかに浮かぶ小島のようなもので、たえず日本語の波に洗われている。ろう者は音響や雑音には抵抗力は強いわけだが、書記日本語(通常の日本文字)による情報に接しつつ生きざるを得ない。したがって、日本語から多数の語彙を日本手話に取り込むことになる。極論すれば、“木村晴美”という氏名も日本語表記であり、“手話ネーム”とは異なるのであろう。日本手話サイナーは、母語(第1言語)として日本手話を話し、書記日本語を第2言語として身につけている、という言語生活にならざるを得ない。日本で日本語マジョリティーの中で生きる限りは、そうならざるをえないであろう。手話だけで生活しようとすると、いわば文盲扱いになってしまい、役所で書類を書くこともできないのである。 次は、木村晴美のブログのろう者は漢字が大好きの一節である。 文字(日本語)が社会生活を営む上で重要であるということをろう者は体験的に知っている。 世界中にろうの人々が例外なく住んでいるのであるから、ほとんどの国々に手話がありサイナーが生活していると考えてよい。一般の言語と同様に、言語の境界がかならずしも国境ではないが、言語境界が国境と一致していることも多い。しかし、音声言語の分布と手話の分布は、まったく異なる場合がある。ろう学校を拠点に手話が広がることが起こったので、ろう学校の歴史や、ろう教育の推進者の活動の跡に手話分布が影響を大きく受けたりする。 ろう学校の開設がはやかったフランスの影響が、19世紀初めにアメリカに及んだことは既述。したがって、アメリカ手話はフランス手話とは近いが、イギリス手話とは通じないという。 亀井伸孝『アフリカのろう者と手話の歴史』(明石書店2006)という力作があるが(亀井は、1971年生まれ、京都大学の人類学。聴者で手話歴10年であるとこの本で述べている。現東京外大AA研、そこに活きのいい面白いサイトを開いている。ここ)それによると、ギャローデット大学の最初の黒人卒業生となったアンドリュー・フォスター(11歳で失聴している)が西アフリカのリベリアにはじめて入ったのは、1957年。彼は当時まったくろう学校が存在しなかったアフリカ中・西部のフランス語圏の都市に次々にろう学校を作る目覚ましい活動を続けた。フォスターは半年をアメリカで募金活動をし、半年をアフリカで活動した。フォスターの活動の特徴のひとつは現地の見どころのある若者(大部分はろう)をスカウトして、ろう学校で行う7週間の研修合宿に招き、その終了者をろう教師としてろう学校の教育・経営を任せていった、手法にある。そして、当時多くの先進国で口話主義教育が中心だったが(日本では今でも)、世界に先がけて、ろう者による手話によるろう教育を大規模に実践した(惜しいことに、フォスターは1987年にルワンダで飛行機事故で急死した)。 フォスターのろう学校はアメリカ手話を使用したが、 アフリカに入ったアメリカ手話は現地で受容される際に、フランス語の影響を受けたり、現地の独特の語彙を増やしたりした。「アメリカ手話の形態素を必要なだけ取り入れて、新しい言語を作ってしまった」と言った方が実態にちかい。(亀井・前掲書p171)しかも、アフリカ(中・西部のフランス語圏)のろう者たちには、すでに、自分らが話している手話がアメリカ手話が外来したものだ、という意識はほとんど無いという。それで亀井伸孝はこのあたらしく分布した手話言語を「フランコ・アフリカ手話」(Langue des Signes d'Afrique Francophone LSAF)と呼ぶことを提案している。 東京外大AA研(アジア・アフリカ研究所)のサイトには、亀井伸孝が運営している「アジア・アフリカの手話言語情報室」(ここ)がある。 ギャローデット大学のサイトには、全世界の手話に関する情報のデータ・ベースが存在している。このうち、国別データベースをダウンロードして、日本語訳をしてみた(ここ)。各国の手話のデータの中身は分からないが、全世界にさまざまな手話が分布しているという様子はつかまえられると思う。調査のできていない地域はデータが記載されていないのであって、かならずしも手話が存在しないということではない。 斉藤くるみ『視覚言語・・・』は、世界の代替手話(alternative sign language)を概観してくれていて、とても興味深い。斉藤は代替手話を4つ挙げている。ヨーロッパの修道院の手話、カナダの製材所の手話、アボリジニの手話、アメリカインディアンの手話。(以下、ヨーロッパ修道院、カナダ製材所、アボリジニの3つの手話について、斉藤の本を瞥見してみる。) ヨーロッパ中世の修道院で、沈黙の戒律を守るために開発された手話が存在し、古英語で書かれた写本テキストに記録されている。斉藤くるみは英国ケンブリッジ大学で、このテキストの研究を行ったという。 中世修道院の沈黙の時間は、基本的には夜7時〜8時頃から夜明けまでと、正午頃から午後3時頃までであった。特に前者は「大沈黙」(Graeat Silence)と呼ばれ、多くの修道制で、この時間は、どうしても外部の人間と話さなければならない等の理由で特別な許可がおりる場合を除いては、話すことは全く許されない絶対沈黙の時間であった。さらに一部の労働の時間や読書の時間も沈黙を守らなければならなかった。また場所による制約もあった。例えば教会内、食堂、祈祷室、写字室等では沈黙が保たれねばならなかった。このように一日の大半が沈黙の生活であったために、どうしてもコミュニケーションが必要な時には、声を出さずに手話を使うようになったのである。(p51)手話の記録が残っているのは10世紀の「ベネディクトの改革」の時期からだという。しかし、ベネディクト自身は6世紀の人で、「聖ベネディクトの戒律」の中に食事中に話すのではなく「サイン」を使えとあるという。さらに4世紀の聖パコミオスが「話すかわりに合図を使うことを許した」という記述がある、という(p52)。つまり、ヨーロッパ修道院の手話の歴史はかなりさかのぼることができるのである。 このように修道院の手話はベネディクト改革の広がりとともに、ヨーロッパ中の修道院に広がったが、その後それぞれの修道院の中で独自の発達を遂げたのである。そして12世紀には手話で無駄なおしゃべりをしてはいけないと警告する記述まである(p53)。つまり、当初は必要最小限のサインやジェスチャーのようなものからはじまったとしても、ヒトに生得的に備わっている視覚言語をつくり出す能力が働くと、手話としての発達が自動的に生じて、「無駄なおしゃべり」が可能なレベルにまで達していた、と理解することができる。 修道院の手話の実際は斉藤の本を参照してもらいたいが、北海道当別のシトー会灯台の聖母修道院では1967年まで手話が使われていたという。マサチューセッツ州のシトー会系の聖ヨゼフ修道院では、衰えながらも現代にいたるまで手話の使用が続いているようである(p55)。 カナダの製材所では、ベルトコンベアーを使った連続作業で、大きな騒音の中での共同作業のために手話が使われてきたという。 木材の大きさ、機械を動かす速度などをお互いにサインで伝え合うために手話が使われたのである。これは激しい騒音の中で、持ち場を離れられず、従って音声言語が役に立たないためである。作業員たちの座っている場所はその役割によって固定されており、直接視界に入らない者同士が、間に別の人を介したり、鏡を使って、情報を伝達し合うこともあった。危険を伴う流れ作業の中で、すばやい情報伝達が要求されるが、視覚言語である手話はそれに適した特徴をもっていると言える。現場が自動化される前から、この地方の製材所で使われてきたサインが伝統的に伝えられてきたと、作業員たちは考えている、という。 興味深いことに、ここでも、製材作業のサインを超えて、雑談や仲間同士のからかい合いなどの際に手話として使用されている。 製材所では作業に必要な合図だけでなく、雑談が手話で交わされることも多かった。それは仲間意識を強める機能もあったと考えられる。(中略)しかし、その製材所独特の方言のようなものもあると思われる。たとえばいつも会話を交わす位置にある2人の間でのみ通じる表現が生まれたり、臨時の作業員や新入りの作業員にわからないように、手話で悪口を言ったりすることがある。一方、年配の作業員と若い新入りの作業員の間ではほとんど作業のための会話しか見られない。また昼食の間には、決して表現豊かには見えない労働者たちが、作業に入り、手話を使い始めたとたん、お互いにからかい合ったり、時には下品な冗談を言い合うということも観察されている。(p77)非常に激しい騒音内での作業であるために、聴覚を失う作業員もいて、製材所の手話を自分の家族との会話に使っている例が知られている。また、そういうろうの作業員がアメリカ手話(ASL)を知ることもあったらしく、オレゴンの製材所では、ASLとの混成のピジンらしい手話が観察されている、という(p78)。 製材所の手話が使えることは、製材所の中で一人前として扱われ、作業員の仲間に入るために必要な条件である。この点で、修道院の手話とは正反対と言える。つまり、修道院の手話は、人間同士のコミュニケーションを紙との対話を汚染する障害と見なすという前提があり、常に話者に手話しように対する抑制心が働いてきた。製材所の手話は、聴覚障害者の母語である手話ほどの創造能力はないが、極めて肯定的、積極的に使用される手段なのである。(p89)修道院の手話も製材所での手話も、便宜的な人造語(ホーム・サイン)として始まったと考えられるが、いずれも、長時間使用され続けていくうちに、徐々に言語としての体裁を整えてきたらしいことがうかがえる。それを用いて雑談をしたりできるようになっている。自然言語としての手話を取り入れることもあって、ピジン言語として成長していったのである。 アボリジニの手話。 オーストラリア大陸に人類が棲みつき始めたのは4〜5万年前からと考えられている。幾度にもわたって様々な種族がこの大陸に上陸し、分散して棲みついたのであろう。ヨーロッパ人が侵入し始める前には、人口が75〜100万人ぐらいになっていて、250言語・700族以上の多彩な人々が生存していたと考えられている(これら数字は推定で、漠然とした概数である。なお、アボリジニはラテン語に由来する語で“原住民”の意。したがって、「オーストラリアのアボリジニ」というのが正規だが、その意味で単に「アボリジニ」というのが一般的)。 イギリスが本格的に侵入し始めたのが1788年からで、スポーツハンティングの対象として虐殺されたりした迫害の歴史はよく知られている。彼らが免疫をもっていない病気の蔓延もあって、20世紀のはじめには6万人程度になっていたという(その当時オーストラリアの全人口が380万人)。その間、多くの部族やその文化が消滅した。20世紀初頭から1970年代までの白豪主義(政府が公式否定したのが1972年)や、1910〜70年に行われたアボリジニの子供たちを親と引き離す政策の無慈悲さも有名。子供の人口の1割程度に対し実施した。(「盗まれた世代」と言われるが、白人とアボリジニの間に生まれた幼児を強制的に親と引き離した。2度と親と会うことはできず、白人家庭などで養育された。10万人と言われる。) その後、アボリジニ側からの土地訴訟などもあり、政府の保護政策もとられ、2001年現在でアボリジニ人口は、混血を含めて46万人という(全人口が約2000万人)。2008年2月にラッド首相が、政府としてアボリジニに正式に謝罪を声明した。 アボリジニを見下しけもの扱いするような偏見の中で、アボリジニの生活や文化を調査・研究するという態勢がそもそも成立しにくかったことは想像に難くない。その消滅しつつある風習や言語の調査さえ不充分であるのに、秘密の神聖な場での使用が多い手話にまではさらに目が届かないこととなった。その上、欧米先進国においてさえ、手話が複雑精巧なもので音声言語と同等の自然言語であるという認識が確立したのは20世紀後半以降であった。したがって、まともな研究対象として取りあげられてこなかった。 とくに、アボリジニの社会には文字がないために、消滅した部族の文化の再構成はほとんど不可能なのである。以下わたしは、斉藤くるみ前掲書、「第2章代替手話、第3節オーストラリアのアボリジニの手話 1.オーストラリアのアボリジニの手話とは」の中から、興味深そうな部分を抜いて示したい。 初めてアボリジニの手話を広範囲に渡って調べ、言語として分析したのは、アダム・ケンドンであった。ケンドンは1978年から1988年にかけて、多くの部族の手話を調査・記録し、同時に過去のアボリジニについての研究文献の中から手話や手話に近いジェスチャーについて(それらは “sign language” 以外に“handsignalling”、“finger-talk”、“gesture signs”、“masonic signs” などのことばで記されている。)記述を集め、記述された時代にその部族が、どの程度の手話を使っていたかを類推しながら、様々な部族の手話の比較・分析を行った。その結果、彼は手話の発達がスピーチタブーと密接に関わっていると考えた。しかし19世紀に記録されていても、現在は消えてしまった部族やその文化もあり、正確な比較はもはや不可能である。残念ながら我々は氷山の一角しか知ることができない。おそらく入植前には、手話を使う人々が、現在我々が持つ証拠よりはるかに多くいたであろう。(p90)民俗的な理由で沈黙を強制される、声を出すことを禁じられる、ことを「スピーチタブー」と言っている。それは、厳粛な儀式であるから声を出すことがはばかられるという消極的意味ではなく、発語そのものがタブーとなるのである。 たとえば、「死」についてのことばを口にすることに対するタブーがある。ある部族では配偶者が亡くなった時、そのことを親戚に知らせるには、口には出さず、手による合図を使ったり、残された配偶者(特に妻)は数ヵ月間口をきいてはいけないので手話で会話したりした。あるいは死亡した者の親戚が、死体の一部を焼いて数ヵ月間少しづつ食べたり、遺骨を樹皮に包んで守ったりする儀式の間、話すことは許されず(話す力を失うものと考える。)、手話を使った、などという記録もあるし、亡くなった者の配偶者は白い粘土を体中に塗り、それが自然に剥がれ落ちるまでの間しやべってはならないことになっており、その期間手話を使った部族も観察されている。家族が亡くなった時に沈黙を守る理由は、死者と共 に自分も死んだ状態になるという意味があるらしい。また多くの文化に見られる ように社会生活から引きこもるという意味もあるようだ。しかしアボリジニの 人々自身も多くは「理由はよくわからない」と言う。ここに断片的に挙げられている多数の部族での手話の例でわかることは、該当する部族の構成員はおそらく全員が手話に通じていたのだろう、ということだ。「死」に関するタブーに無縁な人間はあり得ないし、イニシエーションはどの男子も経験することであるからだ。したがって「女子は幼いころから手話を身につけるという部族」という表現は、それほど特殊な部族の例ではない可能性がある。つまり、その部族のまっとうな成員であると認められるには、自分がスピーチ・タブーに遭遇した場合にすぐに手話が使用できること、スピーチ・タブーにある部族員と手話で会話できることが、当然の資格として求められるだろう。 次に挙げるのは、かなり長期にわたる手話使用を意味している例である。 19世紀末にB・スペンサーとF・J・ギレンは、ワルムング族の未亡人が沈黙を続けること、そしてある女性は25年間それを守ったことを伝えている。スピーチタブーは未亡人だけでなく他の女性の親戚に及ぶところもある。中には死んだ夫の名前だけ避ける部族もあったという。またワルピリ族の年配の女性が常に音声言語と併用して手話を使ったという報告もある。彼女たちは大きな声を出すことが面倒くさい時や不適切な時に、あるいは離れた人と話すために手話を使ったり、話す内容が敬意を表する必要のある場合に手話を使ったりした。あまり冗長になることを怖れて、これぐらいで引用を止めにするが、アボリジニの社会が音声言語と視覚言語(手話)を共につかっている社会であった可能性がある、とわたしは考えている。 ある小さな社会に口をきくことのタブーが存在していると、その社会の構成員はだれもがいつかはそのタブーの対象になる可能性をもっていて、皆が手話を身につけていたのではなかろうか。また、ある部族の中に手話を使用する人々が存在していれば、それを見て育つ子どもたちに強い影響を与えると思われる。音声言語と手話とが共存していた稀有の島、マーサズ・ヴィンヤード島についてのN.E.グロース『みんなが手話で話した島』(築地書館1991)では、ろうであることが障害者ではなかったことがごく自然に述べられていて、感動的である。この島はマサチューセッツ州の南東沖に浮かぶ島で、17世紀に最初の島民が移住したとき、イギリスから新大陸に来た初期開拓者の遺伝的血筋によってろうの人口比率が高かった。そのために、島民がみな手話を覚えた。最後のろう者が死亡したのが1952年のことである。(アメリカインディアンの手話は、アボリジニの手話と類似するところが多いように思えるが、省略する。) 民俗的手話やスピーチタブーというと、日本の現実とかけ離れていると思う人もあるだろうから、わたしの感想を述べておく。 わたしは、紀州のある漁村の人たちとの付き合いがあるが、現在60年配(終戦前後の生まれ)以上の男たちは少年時代に村祭りの囃[はやし]の楽器をひとつは必ず受け持たされ、それがこなせることが村の少年組・青年組に入る資格のようなものだったという。毎年一度、祭に帰郷して祭囃を奏することがアイデンティティになっていたという(それさえも、すでに消滅したようだ)。かつての村落生活を考えると、男であればだれでも笛・鼓・太鼓・鉦などを受け持つことができて、年何度かの機会に演奏した。また、後輩に技能を伝えるために少年組などの活動に指導者として参加した。手話と祭りの囃は比べられないと考える人のために、手話も数週間でなんとかなる例を挙げる。東京外大でこの夏(2008年夏)、亀井伸孝が講師となって、「フランス語圏アフリカ手話(Langue des Signes d'Afrique Francophone [LSAF])」の4週間の手話講座を開いている。10名の生徒たちが全員修了証をもらったいきさつが、おもしろく、言語研修「フランス語圏アフリカ手話 (LSAF)」に、日記風に亀井によって書かれている。講師は亀井とカメルーンのろう者のエブナ・エトゥンディ・アンリ氏である。まったく手話は初めてという人も含めて、4週目にはLSAFのみによる大学講義レベルの内容がこなされていて、質問も活発に出ている様子(もちろん手話で)が活写されている。エブナ氏の2時間の手話講演「わが国カメルーンとろう者コミュニティ」で、終了する。4週間の集中講義で、手話習得の意欲さえあれば、相当のところまで行くことが分かる。 最後に、もうひとつ、わたしは子供時代を山陰の山村で過ごしたが、旧正月元日の年明けのとき、村の神社にお詣りする。そのとき、家を出てから、もどってくるまで、一切口をきいてはいけないのである。雪路を提灯をさげて、村はずれから田の間の参道を行き、お詣りして、また同じ路を帰る。戦後間もなくの頃、懐中電灯はなく、ロウソクをともした提灯の黄色い光で、おぼつかない雪路を歩いた。村の人と行き会っても互いに黙っている。わたしは父と一緒だったが、家を出る前に「足が滑ったりして、アッと、声を出したら、もう一度やり直しだからな」と言われた。それで、わたしはひどく緊張して神社へ出かけたのだった。 《12−5》 ―― ニカラグア手話 ―― 視覚言語である手話が、通常の音声言語と同等な自然言語として、ヒトの脳が生得的に備えている言語獲得能力によって実現するものであることが理論的に証明されつつあった1980年代に、中米のニカラグアで、まさにその理論通りの進行を示しつつ新しい手話が誕生した。気鋭の言語学者らがそれをつぶさに観察・研究することができたのである。 その新たな手話を「ニカラグア手話」(Idioma de Senas de Nicaragua Sign Language of Nicaragua)と呼ぶわけだが、ニカラグア手話の誕生は、手話がヒトに生得的な自然言語のひとつであることを説得力をもって示す決定打となったといってよい。 1979年6月にサンディニスタ革命が成功し、1934年から45年間も3代にわたり続いたソモサ政権が倒れる。キューバ、ソ連に後押しされたこの左翼政権は公教育を推進し1980年に、ニカラグアで初めてろう学校を首都マナグアに開設した。1988年に、大西洋岸のブルーフィールズにもろう学校ができる。(中南米の近現代史の例にもれず、ニカラグア史も幾度も政権の変転があり、簡単に概観できない。「サンディニスタ」は「サンディーノ主義者」の意味で、初代のソモサに殺されたA.C.サンディーノを政治シンボルとして掲げるFSLN・サンディニスタ民族解放戦線が幾多の変遷を経て勝ちとった革命である。ところが、FSLNは1990年に選挙で敗北、そののち、穏健派のD.オルテガが2006年に大統領に当選するなど、複雑だ。膨大な情報量と活きのいい文体がすばらしいラテンアメリカの政治がやはり、最高でしょう。ニカラグア革命史を一読して、頭に入れるといいです。) 1980年に首都マナグアにはじめてろう学校ができたことにより、国内に分散し家庭内で「ホームサイン」による最低限の言語生活しかしていなかったろうの子どもたちが、一個所に集められ寮生活を始めた。そういうことが、ニカラグア始まって以来の出来事として起こったのである。 ろう学校では、ソ連の指導もあり、指文字と口話教育(アルファベットを手型で表しスペイン語を逐字的に表現すること、それが「指文字」。耳が聞こえないために喋ることができない子どもに、発音法の訓練をするのが「口話教育」)を施そうとしたが、まったくの失敗に終わった。教師たちの未熟さもあったが、教師は子どもたちとコミュニケートすることすらままならない状態であった。 ところが、子どもたちの間では不思議なことが起こっていた。あちこちから持ち寄られたホームサインが互いにつき合わされて徐々に共通のサインに統合されていく現象が起こっていた。斉藤『視覚言語・・・』p155 では、「共同ホームサイン」という語を宛てている。共同ホームサインによって子どもたち同士の意志疎通は相当程度はかられているようであった。 ジル・モーフォードとジュディー・ケーゲルという言語学者がアメリカから招かれ、ろうの子どもたちの間で起こってる手話現象を解明することが求められた。 ジュディ・ケーゲルは始めに10代の年長生徒たちが理容技術を学んでいる実業学校に行き、そこで使われているサイン言語を解明しようとするが、個々の単語はともかく、文法的なものがまったく読み取れず、絶望的になる。そこで、年少のろうの子どもたちの学ぶ小学校へ行ってみた。すると、そこでは、文法を持っているとしか思えない見事な手話を流暢に話しているのを発見する。彼女は「言語的なビッグバンを、いま目にしているのだ」と感動する。そして、ケーゲルのニカラグア手話の解明が始まる。 ホームサインがあちこちから持ち寄られて、共同ホームサインに統合されていく。共同ホームサインはピジン的な段階にあると考えられる。ところが年長のろう少年たち(臨界期の7歳を超えている者)は、それ以上の段階に発展させることができないまま、なんとか日常の用にまにあうように、そのサイン言語を使用していく。それは流暢でなく、文法的な骨組がないために充分な発展性がない。斉藤くるみは前掲書で次のように共同ホームサインを特徴づけている。 (ホームサインでは)ひとつのジェスチャーで意味が決定するものであることが多いが、(共同ホームサインでは)いくつかのサインが連なったものもでき、合成語形成のシステムができる。また文脈に頼るのではなく、規則によって語順が決まるようになる。このように散発的に言語構造を見せるようになるのである。(p156)そのろう少年たちの集団に、臨界期前の幼少のろう児たちが入学してくると、共同ホームサインをまたたく間に身につけるだけではなく、語彙を普遍化し、文法を作っていく。そのことによって、手話は語彙がいくらでも増やせる抽象化能力を獲得し、言語構造が複雑化し、流暢になる。年長組や大人には無理でも、わずか4,5歳の子どもにはそれが可能なのである。 まったく、エスペラントのような、大人によって技術的に練られて作られた表現形式は、(ニカラグア手話と)比較してみれば実に面白味に欠ける。ケーゲルは驚嘆している「どんな言語学者もひとりの4歳児が誕生せしめた言語の、半分ほどの複雑さや豊富さをもった言語さえも創造することができない。」(ローレンス・オズボーン「言語的ビッグバン」ニューヨークタイムズマガジン1999)まったく、驚嘆に値する事実である。 われわれは従来、言語獲得の臨界期が7歳ぐらいだという意味を、7歳ぐらいまでなら周囲の者から言語がインプットされれば、それが音声言語だろうと手話だろうと、言語として十全に習得することができるということと解していた。だが、それはことの一面に過ぎないのだ。ヒトの子どもは臨界期前なら、適当なインプットによって、言語を創造することができるのである。つまり、「幼児が言語を習得することができる」というのは、じつは、あの過程で、「幼児は自分なりに言語を創造している」のである。創造することによって習得している。 ただ、本当にろう児たちが手話を創造する(“無”から創造する)ことができるためには、つぎの3点が必須である。
幼いろうの子どもたちの集団の中で、どのような集団的機制が生まれて、どのようにして個々人の脳と身体に言語(いまの場合は手話)が高度化しつつ実現していくのであろうか。 ここがもっとも難解で、見通せないところである。ニカラグアに入った言語学者ケーゲルの述懐である。 「私たちはこれらの子どもたちが、どの手話サインを使用するかどれは捨てるかについて、無意識のうちの合意のようなものに達するのを知った。」と彼女は続けた、「しかし私たちはそれを十分に説明することはできず、結果を示すことができるだけだ。ひとりひとりの子どもがその方法に適応し、そしてそれによって言語を変化させていくやり方の神秘の要素がそこに存在する。」確かに、「神秘の要素」が存在する、と言いたくなってくる。個と集団といっても、要するに実在しているのは個々の脳であり、それが相互に緊密な情報交換しているということなのである。いまの場合は、視覚情報の交換である。脳が記憶し、その記憶情報のなにがしかを規範化(音韻化、語彙化)し、文法構造や統語法を造っていく。造っていくといっても、すべて無意識のうちに造られ各人の脳に蓄積されていく(われわれがしゃべっている日本語の文法について、まるで無自覚であるのと同じことである)。4,5歳児の集団のなかでそういう「神秘」が行われ、それを言語学者が観察・記録したのである。 つまり、その「神秘」は特殊な神秘ではなく、聴覚的であれ視覚的であれ言語を持つかぎり、誰もが自己の脳に実現している普遍的な神秘なのである。 ローレンス・オズボーン「言語的ビッグバン」はニューヨークタイムズマガジンに1999年10月24日に掲載されたルポルタージュで、日本語訳がないようなので拙訳を作ってみた。「言語的ビッグバン」。 《12−6》 ―― 口話主義 ―― ヨーロッパ中世の貴族社会では、ろう(聾唖者)の子弟には遺産相続の権利がなかったそうである(ローマのユスティアヌス法典(533)では、先天性聾唖者には権利も義務もないとされた。さらにアリストテレスが先行し、「耳が聞こえない者は学習が不可能で、いかなる種類の教授も無益である」としているという)。そのために、ろうの子弟に対して、高給で家庭教師を雇ってでも「ろう教育」(聾唖教育)がなされた。教師のほうでは、指文字でアルファベットを教え、書字を教えた。口や舌の動かし方を教えるなどの様々の発声法の工夫がなされ、読唇法も研究された。それらは場合によっては秘伝とされた。 また、自分のろう教育の方法を出版して有名となり、引っ張りだことなった者も多い。自分の教育の成果を示すために学会などの公衆の前で、自分のろうの生徒にラテン語を朗読をさせたり、学術的な論議をさせたりすることも行われた。 既述のように修道院では代替手話が用いられていたので、指文字の使用が一般的であり、修道士がろう教育を行う機会が多かった。ろう教育の最初に指文字でアルファベットを教えることが普通であったので、そこから手話の中に取り込まれ、現在では全世界の手話に、それぞれ変形を受けながら、広まっている。 次の引用は、斉藤『少数言語・・・』から。 ヨーロッパでは指文字の起源はろう教育よりも古く、沈黙の掟を守るための修道院の手話と共に見出すことができるが、いまではろう者の手話の一部である。ヨーロッパの指文字にはイギリス発祥のものもあり、これはイギリスの旧植民地に広まった。そのほかにスウェーデン発祥のものもあり、これはポルトガルに持ち込まれた。しかし、もっとも世界の広範囲に影響を与えたのはレオン(ペドロ・ポンセ・デ・レオン 1520〜84、スペイン)からボネット(ファン・パブロ・ボネット 1579〜1629、スペイン)、そしてはじめてろう学校というものをつくったアベ・ド・レペ(1712〜89、フランス)に引き継がれ、ついにアメリカにも渡ったアメリカ式指文字と呼ばれるものである。(p198)なお、日本の指文字はアメリカ式指文字を取り入れており、例えば「あ、い、う、え、お」は「A,I,U,E,O」からだという。 常にマイノリティの言語であらざるをえない手話は、マジョリティの音声言語に取り囲まれており、音声言語の単語を(外国語として)取り入れざるをえない。その際に、指文字が必須の手段になるのである。 ド・レペ神父(「アベ」は神父)はろう教育史上もっとも有名な人物だといっていいだろうが、1770年にはじめてろう学校を作ったこと、および、そこでろう者に手話を教え、手話を用いて教育を行った点が画期的であった。ド・レペ神父の弟子であると自認するろう者のピエール・デロージュ[7歳のとき病気で失聴した]という人物の『ろう者の意見』(1779)という論文がある。この論文は手話の価値を認めないデシャン神父[デシャンも聾唖教育者]に対する反論の形をとって、ド・レペの方法を称揚するという体裁をとっている。ド・レペと同時代の雰囲気が分かる。 私は、デシャン神父その人にこう尋ねたことがある。――もしあなたが、英語や他の外国語を学ぼうとしたら、どうしますか?一語たりとも分からない英語で書かれた文法書を読むことから始めますか。おそらくそうはなさりますまい、フランス語で書かれた英文法の本を読むのではないですか、自分の母語の助けを借りた方が、より簡単に、見知らぬ言語を新しく学ぶことができるでしょう、と。(ハーラン・レイン『聾の経験』石村多門訳、東京電機大学出版 p60)この『ろう者の意見』の記述から、当時のパリにろう社会とでもいうものが存在していてそこで手話が使われていた様子がわかる。都市が成立するとろう集団が自ずと形成されることには必然性がある。(ろう人口比率を0.3〜0.1%とすると、5万人都市で150〜50人のろう人口となる。本章第3節(12-3)で、手話の発達と都市化の関係を指摘しておいた) (手話は物理的物体や身体的な欲求を表すことしかできないという見解は)たしかに、他のろう者とつき合う機会が奪われたろう者、施設に捨てられたり、どこか僻地に孤立して暮らしているろう者の場合、そういうこともあるかもしれない。逆に言えば、そのことはまた、われわれが聴者と一緒に暮らしていても通常は聴者から手話を教えてもらうことはない、ということの疑問の余地なき証明である。しかし、例えばパリのような大都市の中で社会生活を営むろう者にとっては、事情は全く異なる。パリは、まさに宇宙の驚異の縮図である、ということができよう。(中略)このようにデロージュは、手話によってこの世のありとあらゆる現象を取りあげて論じることができ、いかなる思想も想念も表現できないことはないことを、明瞭に言い切っている。これは手話が言語として完全性を備えていることを、実感として述べたものと言える。 フランスに続いて、18世紀末葉にヨーロッパ各国でろう学校の設立が相継いだ。 1770年 パリ(フランス)ただ、手話教育を行うフランス流(これを「手話主義」と言おう)といえども、そのろう教育の目的は正しいフランス語が話せるようにすることであったことは注意する必要がある。ド・レペはフランス語とフランス手話を比較して、フランス語にあるような詳細な文法規則がフランス手話には存在しないとして(それは誤解なのだが、その誤解が解かれるのには、20世紀後半まで待つ必要があった)、フランス手話にフランス語文法を付加して言語として正しい手話に改造するという無益な努力を行った。 フランス流の手話主義にたいして、手話を否定し口話(コウワ:ろうの人が音声言語を発声すること)を直接に教育することを主張するドイツ流やイギリス流があった。後者を「口話主義」教育というわけだが、手話はジェスチャー(ものまね)に過ぎず文法もない原始的なものだという偏見と、耳の聞こえない人たちに手話を許すと手話に頼って口話の訓練を怠り、口話が身につかないという手話禁止の積極論との両方が「口話主義」を後押ししていた。 19世紀半ばまでは、いわば手話主義と口話主義とが論争しつつ共存していた時代で、トーマス・ギャローデットがフランスからローラン・クレール(ろう者でド・レペの弟子シカールの生徒)を招いて、ハートフォードにろう学校を開設したのが1817年であった(本章第3節(12-3)で既述)。これをきっかけにアメリカではフランス流の手話を用いたろう教育が普及していく。 フランス流の手話主義による教育効果はめざましく、「19世紀の中盤に向かうあたりが、聾教育の黄金時代なった」と上掲の『聾の経験』を訳出した石村多門が「序論」で述べている。 19世紀の中盤に向かうあたりが、聾教育の黄金時代となった。聾者の第1言語である手話によって、各々の民族語(音声国語)が、あるいはまた知の伝統的な諸分野が教えられるようになり、欧米中の聾の子どもたちは、うなぎ上がりの数で初等教育を完了していった。そこを卒業した後の「高等教育(High classes)」を引き継ぐ学校としては、特にハートフォードやニューヨーク、パリなどがあった。初等課程を修了した学生の中で有能な者は、さらに4年間勉学を継続し、そこから多くの学生が、自ら聾学校の教師に巣立っていったのである。世紀の半ばの頃には、全米の聾学校のほぼ半分の教師が聾者であったが、これは今日の状況と全く対照的であろう。(前掲書p18)ろうの教師が教壇に立てば、ろう生徒は手話で行われる授業は自分の母語で行われるのであるから分かりやすく、教育レベルも普通校と変わらないものとなるのである。ところが、その一方で、保護者の中には(殊に上流層の保護者)自分の子弟がろう社会でしか生活できなくなることへの不満が存在しており、口話主義教育を求める動きがあった。パリろう学院では、学院理事長となったドジェランド男爵が、口話を教えることのできないろうの教師を追放する、という事態となった。 口話主義の台頭が決定的となるのは、1880年の「ミラノ国際ろう教育者会議」で「純粋口話法を宣言」したときからである。つまり、簡単にいうと、「ろう教育から手話を追放する」という宣言である。 グラハム・ベル(1847〜1922 Alexander Graham Bell グレアムとも書く)は電話の発明(1876)で有名。彼の父親メルヴィル・ベルはスコットランドの音声学の学者で、「視話法 Visible Speech」の発案者(視話法は、一種の発音記号による音声表現法で、人の喉・舌・唇などの動きを記号で表現している。伊沢修二と視話法を参照)。母は難聴者であったが、積極的にピアノ演奏をしたりする活動的な人であった(彼女は、大きな集音器式の補聴器を使っていたが、自分がろうであることは決して認めなかったそうだ)。一家はカナダに移住(ベルは1882年にアメリカに帰化)。ベルも音声学を学び、音声の電気信号化というモチーフは当初からあったようである。1873年からボストン大学で教える。父譲りの視話法によって、聾唖者に発話法を教授することにもすぐれ、評判となる。伊沢修二とベルとの関係が生じたのも、フィラデルフィア博覧会視察に渡米した伊沢が自分の英語の発音法の改善のためにベルを尋ねたことからである(1876)。また、ベルの妻マーベルは友人G.G.ハバートの3女であるが、ろうのためベルに発話法を習った生徒であった。盲聾者であった6歳のヘレン・ケラーに、ベルが教師アン・サリバンを紹介したのは1887年のことで、これは有名な逸話である。 このようにベルの周辺にはろうの人々が常にあり、ベル自身が口話主義の側からのろう教育の実践者で、しかも、全米に知られるほどのすぐれた発話法指導者であった。彼の電信の多重通信の研究や電話の発明は、そういうろう教育実践から自然に出てくる発想だったのである。 ベルはその巨大な富と名声と学識をあげて、口話主義教育の普及を主張した人物である。石村多門は「今世紀最大の口話主義者」と注している(前掲書p432)。1880年のミラノ会議で「手話の排除」が宣言されたとき、ベルは「純粋口話主義の勝利は淘汰という自然法則の貫徹である」と述べたという。口話主義の世界的な台頭にはベルの影響が大きかったのである。 先に紹介した『聾の経験』の付録として、グラハム・ベルの「聾者という人類の変種の形成についての覚書き」(1883)が石村多門によって訳出されている。これは全米科学アカデミーでの講演記録である。その内容は、当時、進化論と優生学が流行しており、しかし、遺伝学がいまだ確立していなかった時代を反映している。 ベルがこの講演の前段で、統計資料を用いて示そうとしたのは、聾者同士の結婚から聾が生まれ、それが重なることによって「聾者という人類の変種」が形成されつつある、ということである。そして、その「深刻な惨禍」をどのようにして避けることができるか、というのが後段である(石村の訳出は後段のみ)。 ナチズム・ドイツでのユダヤ人撲滅運動や、近代日本でのライ隔離政策のような優生学的発想をからめた社会・政治運動の結果を知っているわれわれは、グラハム・ベルの講演での発言が信じられないほどどぎついものであることに驚く(ベルはこの講演を自ら望んで、ギャローデット大学(当時はワシントン国立聾大学)で行った。当然の事ながら、学生からも聾社会からも激しい反発を買った、という)。ベルは政治的扇動家ではなく“科学的真理”を述べているつもりで誠意を持って講演を行っているのである。 次は、ベルのこの論文の第6章の冒頭である。 前章まで、性的な選択が聾者の間で行われるために、聾者という人類の変種が形成されつつあることを示してきた。「聾者同士の交婚」の原因は、寄宿制のろう学校が聾の人間を多数集め、そこで手話を身につけるところにある。手話は英語の獲得を阻害し、「聾者同士を結びつけ、聴者との交際を忌避させる。それゆえ、手話は聾者同士の交婚の原因となり、その身体的欠陥が繁殖する原因となる」(p386)。このような観点から、ベルのような影響力のある人物が、“聾者同士の婚姻の禁止”の立法の可能性について論議していたことは、記憶に止めておくべきだろう。 聾者同士の婚姻を完全に禁止する措置をとらないにせよ、聾の子孫の出産の確率を最小限に縮小する方向に向けて聾者の婚姻を規制することは可能であろうか。例えば、先天性の聾者同士の交婚についてのみ法で禁じたとすれば、長い間には、この災禍の発生も抑制される方向に向かうだろう。しかし、そうした法も、その人が先天聾として生まれたのか否かを証明することが不可能な場合には効果がない。ベルはこういう立法のためには統計的な完全な調査がなされる必要があるとし、結論として、「聾者の婚姻に立法的に介入することが賢明であるか否かは、疑わしいものとなる」(同p390)とアイマイにしている。 ベルのろう者についての研究は優生学に強い影響を与えてきたと、グロース『みんなが手話で話した島』は述べている。 ベルがヴィンヤード島で集めた情報は、『人類にろう者という変種が形成されたことについての回想録』とい題する名高い研究論文の核心をなすものであった。その後20世紀にいたるまで、優生学者たちは、ほぼ全面的にベルのデータに依拠して、アメリカのろう者はむやみに結婚すべきではないとする論文を発表し続けた。ろう者の中には不妊手術を施される者もいたが、その際、本人には無断で、あるいは本人の意志を無視して、手術が行われることも少なくなかった。・・・・・・ベルのノートはつい最近入手できるようになったが、これを読むと、劣性遺伝の性質に関するメンデルの理論を知らないために、家族に聴覚障害が発生する問題について、まったく見当違いの結論を出してしまっているのがよくわかる。(p102)しかし、ベルの講演から115年後の現在、「欠陥ある」人間を生みだす遺伝子を排除する議論が大まじめになされてないだろうか。それどころか不妊手術についていえば、日本ではライ予防法によって、ライ病患者を隔離するだけでなく、患者らの断種手術が合法的に行われていた事実を、日本人はたえず思い出す必要がある。“正常でない者を排除する”という根強い偏見がわれわれの内には存在することに強く自覚的である必要がある。あるいは、マジョリティーを“正常”とし、マイノリティーをマジョリティーに同化させようとする、強い圧力である。 ベルの議論は、幼少年のためのろう学校の改革に進むのである。聾の子どもたちは(アメリカ)全国に薄く広く散らばっているのだから、それを集めることなく教育するために、寄宿制ではなく、小規模校を多数つくる必要がある。「デイ・スクール day-school 昼間制」の聾学校。そのために、既存の小学校に聾学級を新設する、そこで、口話教育ができる教師を採用し、部分的な統合教育を施せばよい。なぜなら、 普通学校で行われている学科のうち、情報が目から入ってくるような科目については(統合が)可能なのである。例えば聾児は、綴り方やお絵描き、地図の作成、黒板を使った算術、裁縫などを行う際には、聴児と同じクラスに入って一緒に勉強することが可能であるし、また適切であろう。ド・レペ以来のフランス流のろう教育の影響を受けていたアメリカでは、当時、聾者が教師となっている率が32%あったという。ヨーロッパではドイツ流の口話主義が台頭しており、フランスでも口話法を教えられない教師の追放が始まっていたことは既述した。 明瞭な発音ができないことが、成人生活における隔離の間接的な原因となり、聾者を聴者から切り離す機能を果たしていることにも注目すべきである。それゆえ、発声や読唇の教育がすべての聾児たちに施されなければならないのである。このようにして、グラハム・ベルの結論は次のようになる。 聾者の隔離、手話の使用、聾教師の採用、――これらが、発声や読唇の陶冶に不都合な環境を生みだし、一切発声を用いず、聾者とのみ話そうとする傾向を生んでいるのである。(同p394)ベルがポイントを押さえていることがよく分かる。この正反対をやったのが、口話主義教育である。口話ができるようになることを教育目標とし、手話を禁止して、聾教師を追放する(口話の教授ができないから)。 明治以前の日本でのろう者の歴史は、よく分からない。例えば『古事類苑』で「聾」を索引で調べるとわずか2件しか出ていない。「盲」に関しては、有史以前からの金属精錬との関係や、琵琶法師のことや、塙保己一という大学者も思い出すのに・・・・・・。江戸期の聾であった文化人の名前は何人かあがっているが、わたしがこれまで調べたところでは中途失聴者であって達者な筆談ができたようである。そういう人の伝記を丹念にしらべると、手話を使用していたことが判明する例が出てくる可能性があるだろう(「手話」という語は新しく、「手勢」、「手まね」、など古い語で、おそらくホーム・サインに相当するものをさしているのであろうが)。 日本では、7,8世紀からかなりの人口を有する都市が成立していたので、ろう社会が成立し手話ができていた可能性がある。17世紀イギリスの例では、ろう者は警察の手先として働いているので(グロース前掲書 p65)、日本でもその方面で何らかの痕跡が見つけられる可能性がないだろうか。被差別部落関係の歴史も調べる必要があろう。今後の、わたしの課題のつもりでいる。(伊藤政雄は自身ろう者で、『歴史の中のろうあ者』(近代出版1998)という労作をものしている。また、氏のサイトここは興味深い。特に、自分の幼少時代を書いた私のおいたちは、戦前のろう学校の生徒たちの様子を書いていて、貴重。) 1878年(明治11年)京都の盲唖院開設(古河太四郎)のことなど、本章第3節の末尾に、名前だけ出しておいた。同年5月24日に、盲唖院の開校式が行われた(当日の入学者は、盲生17名、唖生30名、聾生1名の計48名という。唖生と聾生の違いは不明)が、その時の詳細が「大阪日報」という新聞に報じられていて、その中で、古河太四郎が入学生と「手勢」を用いてデモンストレーション授業をする様子が出ている。なお、古河は京都の上京[かみぎょう]の小学校の教師で、すでに数年前から同校に「いん唖教場」(「いん」は、“やまいだれ”に音)を設けて、3名のろう児に教育を行う試みをなしていた。そういう先行する努力があっての「手勢」だったのだろう。(引用は、小原二三夫という全盲の方の、膨大なサイトから、ここ。京都市学校歴史博物館で2008年の1月から4月まで行われた「京都盲唖院発!障害のある子供たちの教育の源流」を“見に行った”ときの詳細な記録ですが、会場に入る前の石垣の様子などからはじまって、一読の価値があります。このレポートだけでなく小原さんの達意の文章は読みやすく、面白いです。特に、引用文献の扱いの厳密さなど信頼感があります。なお、この3ヵ月余の展覧期間中、資料に触って良いという日がわずか4日だけ指定してあり、そのうちの一つ2月11日に“触ってきた”というレポートである。じんわりと批判が伝わる。) 一昨廿四日は先号に記載せし京都府仮盲唖院開業式の模様を、同地の探訪者より報じたれば悉しく記るす。入学式でのデモンストレーションなのだから、ある程度の“やらせ”があったのかも知れないが、京都盲唖院で「手勢」がその後、日常的に使用されていったことは事実である。そしてろう者の教師も輩出した。おそらく、その過程で現在の「日本手話」が形を成してきたのであろうと、考えられる。 古河太四郎は、維新の混乱期に2年間入獄していて(明治2,3年?)、そのとき獄中からろう児たちがイジメを受けている様を見てろう児教育を興すことを決心したといわれる。平安京以来の都市である京都には、聾の集団があったことが推測される。そして、不充分な“身振り・手ぶり”言語の段階であろうとも、手話が存在していたことが想像される。 日本ではミラノ会議(1880年、明治13年)での口話主義宣言は、直接の影響はなかったが、欧米の口話主義の教育の影響がおよんでくるのは1920年代(大正中期〜昭和初期)とされる。多くの全国のろう学校で手話が否定された。1933年(昭和8年)鳩山一郎文部大臣の「口話を指示する訓示」が全国盲唖学校校長会会議において指示され、教育機関で手話は公式に禁止された。それによって、手話による教育はなされなくなったのは勿論だが、手話は、ろう学校で隠れてこそこそやるもの、という地位に落とされた(上で紹介した伊藤政雄の「私のおいたち」は、先生に見つからないように隠れて手話を使う少年たちの様子が、活き活きと、描かれている)。そのために、手話は間に合わせの不完全な言語である、という偏見が強く醸成された。 だが、手話はヒトにとって生得的な視覚言語であって、ろうなどのような聴覚言語の獲得がむずかしい状況にある場合、多くのろう児が1個所に集まるというような条件さえ整えば、自律的にその獲得のためのプログラムが解発するものである。したがって、政治行政や社会がいかに圧迫・禁止しようと、けして手話が消滅することはなかった。(手話が人工的言語であれば、使用禁止の処置によって消滅してしまう可能性が大きい。世界中のどこにでも一定の割合でろうが存在しているが、そこにそれぞれの手話が存在していること以上に手話が生得的な視覚言語であることを雄弁に証明している事実はない) 19世紀後半から20世紀後半にかけて、欧米や日本など、ろう教育が存在していたところではそのほとんどのろう学校で口話主義教育が採用され、手話を追放した。生徒たちは聞こえない耳で必死に教師の発音を聞き取ろうとし、口元を見つめ(読唇)、教師の口をまねて発声しようとした。しかし、見本となる発音も、それをまねているはずの自分の発声も聞き取ることが難しいのだから、口話主義教育が要求することは無理難題に等しかった。言語獲得については、聴覚言語にせよ視覚言語にせよ、自律的な言語獲得の過程に乗ればなんの苦痛も強制もなしに身につくのであるのに。 ろう学校では家庭での口話教育をも推奨され、熱心な母親は必死にわが子に読唇や口話を教え込もうとした。言語獲得は本来、母子にとって楽しく喜びを伴う自然な過程であるはずなのに、厳しく緊張を強いる訓練の毎日になってしまうのである。しかもその訓練は実りのないものに終わってしまうことが多かった。 読唇法をマスターし、発話できるようになったろう児もあったが、それはごく一部で、大多数のろう児は充分に音声言語を身につけることができず、手話も不徹底なまま成人するのが実情だった。完全な母語を身につけていないので、書記言語(音声言語の文字書きしたもの)をマスターするのにも限界がある。それは、当然学力不足を結果する。 口話主義教育の失敗は明らかだった。たとえばグロース『みんなが手話で話した島』の中で、 ろう者の大多数が教育を受けるようになった今日でさえ、意志伝達能力の獲得の遅れや、特殊教育プログラムの失敗のために、多くのろう児がわずか小学校の4,5年程度の学習レベルで学校を出ているという。(グロース前掲書 p164)と述べている。この引用の「今日」というのは1980年代のことである。 口話主義教育がうまく行かず、ろう学校の学力低下が明らかとなってきたことから、口話主義への反省が起こってきた。アメリカで「トータル・コミュニケーション」(TC)という教育法が出てくるのが1960年代のことである。これは聴者の教師がろう児とコミュニケーションできることが大事である、と考えて、口話法のみならず手指記号でも読唇法でも読み書きでも、ともかく、あらゆる手段を用いてろう児と関わろうとするものである。TCのポイントは、教師の側はマジョリティーの音声言語(音声英語)の立場にたったまま、あらゆる手段を用いてろう児に音声言語を教えようとするという点である。 その中で改めて注目されたのが「手指・音声言語」である。これは、「指文字」などと共に古くからあった聴者が「サイン」を併用する方法で、手話単語の「サイン」を用い、教師が音声英語を発話しつつ、同時に手指記号をも並べて表現していくものである。音声英語に手話単語をつけながら話すので、シムコム(simultaneous communication, Sim-Com)という。また、音声英語を手指記号でおきかえたものが行われた(現在も、行われている)。ともかく、教育現場に「サイン」を持ち込むことが復活したのである。 音声言語の上に手話単語をどれだけ取り入れるかによって、さまざまな程度の「手指・音声言語」ができる。これは、音声言語と視覚言語(手話)のあいだにできたピジン言語と考えることができるが、基本構造は音声言語側においているのである。そして、実用上の理由によって、様々な程度の異なったピジンが生まれる。 日本にも、これの影響はすぐに及び、日本語対応手話と言われているものとなっておおいに流行している。文法構造は日本語(音声日本語)のままで、手話の手型(サイン)を併用するというもので、多くの手話講座やボランティアの聴者が教えられるのはこれである。マジョリティー言語の構造はそのままに残しておいて、単語だけを手話に置き換えているものである(手話におきかえる程度がいろいろありうるので、「中間手話」ということもある)。 音声日本語を母語とする者(聴者だけでなく、中途失聴者の多くや口話法を身につけた聾者)にとっては日本語対応手話は都合がいいのだが、ろう者からすると不自然で不便である。場合によっては我慢ならないことであったりする(日本語対応手話が“本物の手話”だと思い込んでいる善意のボランティアの振る舞いなど)。 改めて述べておくが、日本手話は明治初年にろう学校ができた頃に成立した(と考えられている)日本自生の視覚言語であり、関東方言、関西方言などあるそうである。第4節「世界の手話」で紹介したギャローデット大学のサイトにある世界の視覚言語:国別の日本を見ると、日本手話、アメリカ手話以外に「奄美大島手話」が上がっている(わたしは奄美大島手話に関する情報を全く持たない。前に紹介しておいた木村晴美さんのブログ「ろうで日本人で・・・」に「奄美大島などで漁業をなりわいとしているろう者は、イカにしても種類ごとにたくさんの手話を持っている」という一節がある。そこでは生活上必要な場合には詳細な語彙が生まれるという趣旨で奄美大島に言及してあるだけである。ここ)。 日本語というマジョリティの音声言語にかこまれて、日本手話はマイノリティの視覚言語として存在している。日本語と日本手話は、言語としてまったく別ものである。日本語と英語が別ものであるように、語彙も文法構造も別である。しかも、聴覚言語と視覚言語というふうに、依拠する物理現象・感覚器官が異なる(モードが異なる、という)。両者に共通しているのはヒト特有の、脳の言語野を使用するということである。 聴者のマジョリティ側からすると、マイノリティのろう者を抑圧していることに気づかないことが多々ある。特に日本手話には文字(書記手話)がないので、日本のろう者の多くは書記日本語に堪能である。日本語の読み・書きが自在にできる(ように見える)ので、あたかもろう者が日本語でものを考えていると誤解しやすい。いうまでもないことだが、ろう者は母語である手話で思考している。 口話主義とは、改めて言えば、ろう学校で音声言語(マジョリティー言語)を身につけさせるという教育方針のことである。日本で言えば、耳の聞こえない子どもたちに日本語を身につけさせる、という教育目標をかかげて、教育するということである。 その口話主義が存続するためには、基本的につぎのふたつの前提(偏見ないし価値観)があることが重要であった。 (1):手話(マイノリティー言語)は原始的な言語で、視覚と直感によるジェスチャーの集合でしかない。したがって、聾同士の意志疎通の道具としてならばともかく、高度な抽象的な思考にたえられない。(1)の手話に対する偏見が誤りであったことは、現在では、完璧に科学的に示されている。小論においては、そのことがむしろ論の中心であり、偏見や差別問題は小論にとっては派生的に生じてきた問題である、といってよい(派生的だから重要でないというのではない。派生したことの中に問題の本質が集中的に現れることもある)。だが、「手話は音声言語の補助的道具である」という認識の人は案外多い。それは、日本語対応手話や指文字に対していえることであって(いずれも人工言語である)、自然言語としての手話には当てはまらないことである。 (2)については、一口で言い表せない、さまざまな問題を感じる。“学歴社会”とか“勝ち組、負け組”とかの。ただ、ここでも問題は「耳の聞こえない子がどう生きるのがよいか」という原点にもどって考えるべきだということだろう。わたし自身は聴者で、周囲にろうの知人もない。実情はなにも知らない(わたしの知識は、すべて本とネット上の見聞だけである)。でも、原則は耳の聞こえない子は、その自然性として備わっている視覚言語の世界の道に導くのが正しい、ということだと思う。 なぜなら、ヒトに生得的に備わっている言語獲得能力が解発されれば(解発されるような条件を満たしてやれば)、基本的には容易に・苦労を伴わずに・自動的に言語習得がなされるからである。それどころか、自然言語を生得的に獲得していく過程は、この上もない楽しみであり拡大する世界獲得の喜びが伴うのである。それは聴覚言語も視覚言語も変わりがない。それに対して、ろう児が口話を身につけるのには、何年にもわたる自覚的な厳しい努力と緊張が要求されるので、その心的負担は重大で深刻なものである。その心的負担は本人だけでなく、両親や家族、周辺の関係者にも要求される。しかも、その努力の結果が必ずしも100%報われるとは限らない。口話主義で育った多くの耳の聞こえない人(難聴者ないし聾者)は、生涯たえざる聴覚についての緊張から解放されることがない。 ヒトの集団では一定の比率でろう者が必ず生まれることが、人間社会におけるデフ・コミュニティーの普遍性と永続性の基礎になる。そして、手話を継承するためにろう学校が必須である。そこにおいてろう児たちが手話を母語として身につけ、活き活きとした言語コミュニケーションを体験する場となる。 ろう学校で過去百年にわたって猛威をふるってきた口話主義教育が誤りであることが、ようやく、公認されつつある(日本社会は規範性が強く、マジョリティ言語=日本語の支配力が強い。そのため、ろう学校の“手話化”はなかなか進まない)。 さらに、もうひとつの深刻な問題は、ノーマライゼイションといわれる福祉教育の理念の影響である(1960年代に北欧に発した理念で、障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常であり、本来の望ましい姿であるとする考え方。アメリカでは「メインストリーム」というのが普通)。ろう児はろう学校で耳の聞こえない者ばかりの集団で育つのではなく、普通学級で健聴者に混じって育つのが望ましい、とする考え方になる。これによって、ろう学校への就学児童数が減少した(する)と言われるが、DINF(財団法人日本障害者リハビリテーション協会)が示している数は(年度が古いが)、下記のとおりで、横ばい状態から減少に移っている(ただし、児童数全体の減少もある)。
生徒数の減少だけでなく、教育行政の方で盲・聾・擁護学校の「統合」を進めていることも、ろう児の教育にとっては不利な材料である。学校数が減ることになり、通学条件がより困難になる。親に対して、ノーマライゼイション(普通学級へ通学させる)の圧力はより強くなる。 ろう児にとって普通学級での最大の問題は、多数の中での会話や教師の話を聞き取ることが困難である、という点にある。補聴器・人工内耳を装着し、口話法をある程度身につけていても、それは、1:1の対話や聴覚障害者であることを承知してゆっくり・明瞭に話してくれる場合などに対して有効であるということであって、普通教室での多数の会話が飛び交うのに入りこんでいくことは難しい。学年が上がって話の内容が高度化してゆくにつれて、ますます困難となる。 《12−7》 ―― 中途失聴者 ―― 日本では聴覚障害者として「身体障害者手帳」を交付されている人は約36万人(両耳で、70dB「高度難聴」と言われる区分以上。耳元で大声で話せばかろうじて聞こえる程度以上。WHOでは41dB以上を聴覚障害とすることを推奨している)。これは事実上「ろう」と考えられる聴力である。聴力が衰えた高齢者や「話すのにやや不便を感じる」というレベルのもの(WHOの基準に近い)まで含めると、約600万人いると言われる。そのうちの75%(450万人)が加齢によるものと見積もられている。 したがって、以下「失聴」というのは「ろう」のレベルに聴力が落ちているという意味で使用する。 言語獲得の臨界期(7歳以前)を越えて、音声言語を母語として身につけている場合を中途失聴者というのが適当だと思う。臨界期までの幼少期に失聴した場合には、すぐさま手話を習得させるなり、補聴器・人工内耳などの手段で音声言語を習得させるなりの緊急の手当てが必要だからである。その場合は先天性のろう児と同じく、「ろう児」と言うのが適当だろうと思う。 とすると、中途失聴者はすでに音声言語(日本語)を母語として身につけていると考えることになる。聞きとれないが、自分で発話できる、という状態となるのである。失聴の原因も様々で、病気・事故・薬物(ストレプトマイシンの副作用が有名)などのほかに、大音量聴取・ストレスや原因不明の突発性難聴などもある。(実際には、突発性難聴のように気がついてみたら突然聴力がなくなっていたというケースや、徐々に聴力が落ちていき、何年もかかって“ろう”状態に至るというケースもある。) いずれにせよ、健聴であった者が、音響世界とくに音声から遮断されると、そのとき体験する孤立感や疎外感は非常なものがあるようである。周囲からの誤解やまた過剰な同情によって深く心理的に傷つけられるのである。社会生活がうまく続けられなくなる。 中途失聴者が失った音声世界を、なんとか細々とでも回復させ、音声世界につなぎ止める補助的な役割を持つ手段が、
これらはいずれも、それだけで充分な働きを持つものではなく、ひとつずつは部分的で間に合せ的な補助手段であると考えるべきである。しかし、中途失聴者にとってはそれぞれが手放せない重要な手段であることも間違いない。年齢や生活環境や病歴や個々の能力に応じて、それらを組み合わせて自分の命の通った道具として生かしていくことになる。 日本語対応手話や、さらに日本手話の文法構造などを取り込んだ中間手話といわれるものがある。音声言語(日本語)を母語とする人が中途失聴したとき、日本語で考え、自分の考えを日本語で述べようとして、単語を手型(サイン)で置き換えて表現するというのは自然である。自然ではあるが、その自然さというのは健聴者や中途失聴者にとっての自然さであることをわきまえておくべきである。なぜなら、自然言語としての手話(日本手話)は、ヒトの生得的な言語能力に依拠しているもので(視覚)言語としての普遍性と効率性をもっている。したがって、ピジン言語である日本語対応手話や中間手話を長期間使っていると、日本手話の方へ“動いていってしまう”という現象が起こる。つまり、ピジン言語は自然言語に比べて不充分な表現力しか持たず非能率であるというだけでなく、本当に安定した言語構造を持ってはいないのである。そのことをわきまえておくべきなのである。 そして、視覚言語の純系のひとつである日本手話の普遍性と効率性から学ぶ、という姿勢が当然である、と考える。 むろん、そのことは日本語対応手話が中途失聴者にとっての必然性のあるピジンとして尊重されるべきであることを否定するものではない。わたしは多様な手話ピジンが出現することは必然的であると考えており、それぞれの質の手話ピジンにはそれぞれの必然性があるのであろうから、それぞれ尊重されてよいと考える。 ある人の生涯に中途失聴のような予期せざる出来事が(〈聴覚−視覚〉言語の間に)生じることは避けられないことである限り、聴覚言語(日本語)と視覚言語(日本手話)の間に様々な手話ピジンが生まれるのは、必然的であると考えざるをえない。 補聴器は、ほとんどの聴覚障害者(先ほどの見積りで600万人)が一度は購入してみる、大きな市場をなしている。それゆえ、補聴器がどんなものかは多くの日本人が理解している。ようするに、音声拡大の機器である。 もちろん、単純に音響を拡大する、というのではなく、(1)ダイナミックレンジを適正にする(最大の音量を制限して危険を防止し、最小の音量でも着装者が聴取できるように設定する)、(2)周波数の帯域を音声を聞き取りやすいように設定する、あわせて雑音を可能な限りカットする。 個々人によって設定が違うことは当然だが、その時その時で適正な設定が異なるので(静粛な室内、会議室、街路など・・・)、機器がその場の環境を自動的に判断して適正な状態を保つような機能がある程度可能になってきた。そのために、補聴器の性能が向上していることは確かである。 ただし、失聴は単純に聴覚の音響感度が落ちたというだけでは測れない言語認知能力の問題であって、補聴器の性能アップがただちに難聴を解消することに結びつかない場合がむしろ多い。 誰でも補聴器を装着すれば聴こえると思ったら間違いで、あくまで聞こえをサポートする機械です。お客様もなれる事が重要です。大事なのは、ご家族や周りに居る方のご理解も重要です。はっきり、大きな声で、分かりやすく話してあげましょう。これは、ある有名補聴器専門店のサイトにある一節で、良心的だと思う。 人工内耳とは、1990年代以降装着者が増えているインプラント式の装置である(日本での手術初例は1985年で、94年から医療保険の対象となった。日本では毎年400例ぐらいの手術が行われている)。開頭し、内耳の蝸牛部分に電極の露出した端子を挿入する手術なので内耳破壊を伴う。それゆえ、補聴器による改善がないろう[聾](重度の難聴者)に対してのみ手術が施される。中途失聴者に対する施術が多いが、幼児に対する手術例も増えている(2006年の数字で、日本では18歳未満の小児が35%、全世界では52%。つまり日本では小児の手術の比率が少ない)。 現在の人工内耳がどの程度の能力(限界)を持つものか、それのためには内耳の蝸牛がどうやって音波を電気パルスに変換しているかについて、のおおよその見当をつける必要がある。 音波は、外耳を入って中耳で鼓膜・耳小骨を経て、内耳の蝸牛にその振動が伝わる。鼓膜までは空気振動(粗密波)であるが、3つの耳小骨の組み合わせの働きで、固体(骨)の振動となり蝸牛内を充たすリンパ液の振動に変換される(電気回路式に言えば、耳小骨がインピーダンス・マッチングをして、空気振動が液体振動に変換されることになる。振幅は小さくとも圧力は大きくなる。) この蝸牛は極めて精妙な構造をしている。 耳小骨のある場所は鼓室というが、そこは空気で充たされ、外気圧と耳管で通じている。鼓室側(つまり中耳)から内耳をみると、骨でできた非常に複雑な構造(解剖学では「骨迷路」という)があって、前庭・蝸牛・半規管の3部分からなっていて、リンパ液(外リンパ液)で充たされている。耳小骨のひとつ、アブミ骨が前庭部の一部にある前庭窓(卵円窓)に付いていて、その窓を通じて振動がリンパ液の振動になって、前庭部の内部に伝わる。その振動は蝸牛内のラセン路を伝っていくが、振動の入っていく路を前庭階という。2回半のラセンをまわった振動は、蝸牛の頂上に達し、そこから別の路、鼓室階を伝わって、帰り路のラセンを2回半まわって、出口である蝸牛窓(正円窓)に達し、そこで振動は鼓室に解放される。 蝸牛は指先ぐらいの大きさ(径1p)で、仮に全部をまっすぐ伸ばすと3p余になる(基底膜が34o)。肝心の、振動が神経パルスに変換されるところは、骨迷路のラセン構造の内部に、別の閉構造をもって造られている(上図には描かれていていない)。 つまり、蝸牛は全体として二重構造になっていて、骨迷路としての蝸牛(骨性の蝸牛、上図)がラセン構造の骨組をなしているが、その内部に膜迷路と呼ばれる、膜でできた複雑な閉じた構造が内蔵されている。その中にはリンパ液が入っているが、それは外リンパ液とは異なる成分であるので内リンパ液と呼ばれる(前庭や半規管も同様な二重構造となっている。メニエール病は、膜迷路の一部が破れ内・外リンパ液が混合することで発症すると考えられている)。 骨性蝸牛のラセンの中に、ラセンの内部壁の回転軸側から、ちょうどラセン階段のように「骨ラセン板」と呼ばれる骨組織が伸びだしており、その先が「基底膜」という組織になり、基底膜は靱帯組織によって骨性蝸牛の外側の壁についている(基底膜は振動可能なゆるい構造になっている)。その基底膜に乗る形で膜性の蝸牛がチューブのようにしてラセンにそって延びているのである。それを蝸牛管という。蝸牛管は、前庭階と鼓室階にはさまれて、ラセンのなかを延びており、蝸牛の頂上付近で閉じている(つまり、盲管になっている)。 したがって、ラセンの回転軸を含む平面で蝸牛を切ると(下図)、ラセンの切断面が、前庭階−蝸牛管−鼓室階の3層に分かれていて、蝸牛管と鼓室階の間に基底膜があることになる。 蝸牛管の内部に基底膜に接して、コルチ器官(Corti は人名)が存在する。これが、振動を神経パルスに変換する器官である。 コルチ器官は内リンパ液で充たされた蝸牛管の中に、長さの方向に有毛細胞が規則正しく並んでいて、それを上から蓋膜(オオイ膜、ガイ膜)が覆う構造になっている。内側(回転軸側)に「内有毛細胞」があり、これが約3500本、外側に「外有毛細胞」があり、これが15000〜20000本ほどある。 上図と左図は、東京医科歯科大学教養部生物和田勝氏によって作られているサイト生命科学からいただきました。とても分かりやすい、すぐれたサイトです。特に、左図は蝸牛管を引き伸ばして理解しやすくしたもので、納得がいきます。 上述したような仕組みで蝸牛管の上下を包む前庭階・鼓室階の外リンパ液に振動が伝わると、基底膜が振動する(実は、中耳から伝えられる振動が前庭階・鼓室階を往復することの意味も分らないところがあるようだ。波動の圧力差が境界面の基底膜に作用する)。基底膜は内耳側(入口)で幅が狭く(0.04o)、蝸牛の頂点に向かうにしたがって柔軟で幅広くなる(0.5o)。基底膜の幅とラセン構造とリンパ液の流体としての性質によって、基底膜の場所々々によってもっとも良く振動する周波数が決まっている、と考えられる。その周波数は入口側で高く、頂点側で低い。 その振動を3500本の内有毛細胞のそれぞれが感受して、昂奮し、シナップス結合を通して、蝸牛神経に電気パルスを出す。神経の束は、回転軸側に集められ、半規管側と一緒になり、さらに顔面神経と一緒に脳中枢へ行く。これが求心性の情報の流れである。一口で言って、3500チャンネルの周波数帯域別の多チャンネル装置になっている。 その一方で、外有毛細胞の働きがいまだよく分かっていないのであるが、内有毛細胞もふくめて遠心性の神経末端が分布しているという。そして、蝸牛が単なる線形な周波数分析装置(フーリエ変換装置)ではなく、「非線形な能動的フィルター」であろうとする新しいイメージをもって研究が進められているという。(これ以上は、ウィキペディア「蝸牛」を参照のこと。) 内・外有毛細胞の合計19000〜24000本と結ばれる聴覚神経の繊維は約30000本と見積もられている。 われわれの目標は、しかし、ほぼ達した。われわれの聴覚器官の一部にすぎない耳について概観しただけで、それがとてつもなく精妙な仕組みになっていること、それが脳中枢と結んで行っている能動的な活動の全体はいまだ見通せない謎の領域になっていることなどが分かる。 それにたいして、人工内耳がどの程度迫っているものなのか、を見ておく。そのことが、人工内耳の意義と限界を見さだめる手がかりとなるであろう。 人工内耳の基本的な発想は、つぎの2点であると思う。
次図は、クラリオンのサイトから頂戴したもの。 電極挿入角度約530°。これがクラリオン人工内耳を聞こえの神経蝸牛に埋め込んだところです。蝸牛にアナをあけまして、電極をずーっと奥に入れています。この小さい丸がそれぞれ蝸牛を刺激する電極です。(クラリオンの図の説明)20数個の電極を、3万本はあるという聴覚神経に接触させる。個数が桁違いに少ないことと、1個の電極に接触する聴覚神経が何本も(おそらく数十本も)あるという、ごくアバウトなやり方である。精妙きわまりない内耳のごく粗雑なシミュレーション(近似)に過ぎない。したがって、仮に音分析器が理想的にすぐれていたとしても、脳中枢へ送りこまれる電気刺激は、生体で実際になされる神経興奮とそこから生じるパルスが各神経繊維を伝わるのとは、まるで違っているのである。それゆえ、それを脳が何らかの音刺激として受けとることはあっても、そのままではそれが人の音声として認識されるのはむずかしい。 そのために、かなり長期にわたる(数年間)音分析器の調整とリハビリが欠かせない。脳を人工内耳からの刺激に慣れさせ、それを人の音声であると認識させる訓練が重要なのである。どの分野のリハビリでも本人の意欲が決定的に重要であるが、人工内耳の場合は直接に脳中枢へ働きかけているわけであり、殊に本人の意欲が大切である。黒田生子『人工内耳とコミュニケーション』(ミネルヴァ書房2008)は、この分野の実際をていねいに書いていて感動的でもある。良心的な本であると思うが、言語聴覚士としての作者が、自然言語しての手話(日本手話)の意味をよく認識していないらしいことがうかがえて(特に終章)、残念に感じた。また、彼女は音響世界を絶対視しているようにも感じられた。(黒田自身は聴者で、日本語対応手話を使用している。) 以上のように、人工内耳は内耳の機能のうちの一部(求心性の聴覚感受)を非常に粗い仕方で近似しようとしている(電極数÷内有毛細胞数=22÷3500=0.0063=約0.6%)。遠心性で非線形な内耳機能はまったく考慮されていない。それにもかかわらず、ある程度の音声理解の機能を回復することができているのは、人の脳の融通の効く優れた能力によるものであると考えるべきであろう。(人工内耳の手術の成功というのは、100dB以上の聾に対し、手術によって中程度の難聴に改善することを言っているようである。30〜40dB程度。けして、健聴になるということではない。) メルボルン大学でクラーク教授によって初例の手術が行われたのは1978年で、10チャネルであったという(服部琢人工内耳の歴史と今後の展望)。それからいまだ30年しか経過していない。おそらく、今後の人工内耳の進歩は目覚ましいものがあるだろう。 中途失聴者は音声記憶を持っているわけであるから、人工内耳の手術後のリハビリも、何をめざしてのリハビリであるかがはっきりしていて、努力のしがいがある。補聴器が有効でない中途失聴者の音声言語へつながる手段として有望である。 問題なのは、ろう児(言語獲得臨界期以前のろう児)に対する人工内耳手術である。これに関しては、少し異なる視覚から、問題点の指摘があり論争がある。
トーヴェ・スクトナブ=カンガス「バイリンガル教育とろう児の母語としての手話言語」の中に、人工内耳は「加算的に」使われるべきであるという一節があり、同感した。 人工内耳を使用していない人たちと同様に、人工内耳の使用者も手話言語を学び手話言語で話す権利を認められるべきである。これは、ほとんどの場合明白なことだ。人工内耳は加算的に(手話言語につけ加えて)使うのなら、おそらくは良い物だろう。しかし減算的に〈引き算として〉、つまり手話言語の代わりに使うのであれば悲惨な結果になりうる。(全国ろう児をもつ親の会編『バイリンガルでろう児は育つ』生活書院2008)だが、現実には、ろう児の親も手術する医師もその多くは、人工内耳の手術をすれば手話を習わなくてすむ(ろう社会から離れられる)と考えている。その考え通りになるのは稀な場合であり、むしろ「悲惨な結果」になることが多いのは人工内耳が極めて粗雑な内耳の近似でしかないことから、当然なのである。 ろう者にとって書記音声言語(日本語の読み・書き)の習得はどうしても必要であるから、そのためにも、第2言語として音声言語を習得するのに、人工内耳は有利である。手術が成功して、発話も上達し、手話−音声言語のバイリンガルになるのなら、さらに素晴らしいことである。聴者の乳児を育てる際に、積極的に手話を教えることで聴者側からのバイリンガルも将来性があるとわたしは考える。 後者《B》については、従来、ろう文化を守るという観点から、むしろ、悲観的な(防衛的な)見解が述べられてきた。補聴器や人工内耳の技術的医療的発達によって、ろう者の社会(デフ・コミュニティー)が人口減少をきたす、と。カンガスの「減算的」がはたらくからである。 わたしは上述のように、自然言語としての手話を身につけることをろう児の言語獲得の基本にすることが常識となれば(なにせそれは、生得的能力であるから、環境さえ整えれば習得は自動的に行われる)、人工内耳が「加算的」に発想されるようになっていくだろうと、むしろ楽観的に考えている。 次の引用は「ろう文化宣言」(1995)の、ろう者の立場からの発言である。 デフ・コミュニティーを揺るがすもうひとつのトピックは、人工内耳(cochlear implant :内耳埋め込み)である。蝸牛に電極を差し込むこの機械は、聞こえない耳を聞こえるようにするものとして、医者や教育者、ろうの子どもをもつ親や、中途失聴者から大きな期待を寄せられている。だが、この『ろうを治す』という努力の中でも、もっとも究極的な方法は、デフ・コミュニティーからの大きな反発を招いている。中途失聴者と違って、先天性のろう者にとって「ろう」は突然ふってわいた災難ではない。「ろう」は生まれ落ちた時からずっと自分自身の一部なのであり、まさに「自分自身であることの証し」である。そうした人にとって、「ろう」は決して治療すべき「障害」ではない。遺伝性のろうの場合は、なおさらだ。「遺伝性のろうを予防する」という考え方のもとには優生思想があり、そこには倫理的な問題が大きく横たわっている。アメリカのろう指導者のひとり、MJ Bienvenu はこう書いている。「あなたがたが(ろうに対する)予防や治療、早期の干渉について語る時、それは何を意味しているのでしょうか。あなたがたは、この地球上から私たちのような人間を消し去りたいとでも思っているのですか」。(現代思想編集部編『ろう文化』青土社2000 p12)わたしは、現在のような粗雑な内耳シミュレーションでしかない人工内耳に対して「ろうを治すという努力の中で、もっとも究極的な方法」というのは評価しすぎだと思う(ただ、遠い将来、非常に精巧な技術レベルに達した人工内耳ができないとは限らない、が、それを議論するのは無意味だ。他の価値系も大変動しているであろうから)。少なくとも現状においては、「ろうは決して治療すべき障害ではない」というのには、断然、賛成である。その自然性に則って手話を話し、聴者に卓越した視覚世界をもってそれを享受していくことが〈ろう文化〉を開いていくことになるのだと思う。 《12−8》 ―― ろうと障害 ―― 拙論を初めから読んでくださった方は分かっておられるでしょうが、わたしが手話について考えはじめたのは脳の言語野の話からである。手話関係の本をずいぶんたくさん読んだつもりだが、比較的早い時期に読んで感動したのは、グロース『みんなが手話で話した島』だった。既述のように、この島はマサチューセッツ州のマーサズ・ヴィンヤード島というところで、聴者もろう者も手話で話せたので、ろう者であることが少しも特別なことではなく、まして「障害者」ではなかった。そういうことを知って感動したのだが、その段階で、わたしはどちらかというと、“差別”とか“偏見”という観点を持っていて、そういう観点から感動したのだと思う。 マーサズ・ヴィンヤード島は、ニューヨークから東北東に290q。ケープコッドの南8kmのかなり大きな島。東西37q、南北16qで260q2。原図はGoogle Earth より。 だが、わたしが本当に手話は、わたしが知っている音声言語とは別の自然言語なんだと悟ることができたのは、グロースを読んでからだいぶ経って、オリバー・サックス『手話の世界へ』の次の一節を読んだときである。 サックスもグロースの本を読んで感動し、すぐさま自動車を駆ってマーサズ・ヴィンヤード島へ行ってみる。 すっかりグロースの本に魅了されてしまった私は、読了するや、とるものもとりあえず、歯ブラシとテープレコーダーとカメラだけを手にして、大急ぎで車にとび乗った。この魅惑的な島を、この目でひと目でも見ずにはおれなかったのである。(既述のように、ヴィンヤード島で遺伝的ろう者の最後の1人が死亡したのは1952年のことで、サックスがヴィンヤード島を訪ねる30年も前のことである。それでも、古老たちはサックスの目の前で手話を日常的に使っていたのである。 なお、〈手話〉という記法は、前章(11-5)普遍文法で『手話の世界へ』を引用したときに説明したが、この翻訳では日本手話やアメリカ手話のような自然言語としての手話を〈手話〉と記している。シムコムや日本語対応手話のようなピジン言語と区別するためである。) アメリカ合衆国東北部の6州をあわせて、ニューイングランド地方というが、そこへイギリス本国から最初に植民が入った。ニューイングランド地方でもっとも大きい島であるヴィンヤード島は、その東隣のナンタケット島と並んで、現在では観光や別荘地で名高く、マサチューセッツ州で一番土地の値段が高い、と言われたりする。ナンタケット島は18〜19世紀には捕鯨基地として知られ、ハーマン・メルヴィル『白鯨』の中に幾度も登場するので、わたしなどには少年時代からなじみの地名であるが、ヴィンヤード島のほうはまるで知らなかった。 アメリカ原住民(インディアン)がこの島に住みついたのは、少なくとも4000年以上さかのぼるとグロースは述べている(p34)。ニューイングランド地方への移民の最初の募集が1616年であるが、マサチューセッツ湾植民地からヴィンヤード島に最初の入植者が入ったのが1644年であった。島の東部(現在のエドガータウン)から入植がはじまり、徐々に島の西部に進出していった。農業と漁業が主要な生業で、自給自足が可能であった。 1680年までに入植者は120名を数えるという。その後、1710年までで移住は終わった。そのころボストン西部の肥沃な土地が入植可能になったためで、交通不便なヴィンヤード島では、合衆国の他地域との交流はほとんどないまま、人口は順調に増加していった。 独立戦争(1775〜83)の時には、イギリス船が糧食を求めて島を襲うことさえあったという。戦後の島の経済は大混乱に陥り、漁業に積極的に乗り出す島民が急増した。エドガータウンは捕鯨業の中心地となり、ニューイングランドを代表する港となった。ヴィンヤード島はナンタケット島と並んで全世界の海にその勇名をとどろかせた(p42)のである。ヴィンヤード島の「捕鯨黄金時代」は1820年代〜60年代であった(p47)。19世紀初頭の人口が約3千人、1850年には3,680人である。 ヴィンヤード島には3つのタウン(町)があり、東部にエドガータウン、中央部と西外れにウエスト・ティズベリーとチルマークがある。後者のふたつを合わせてアップ・アイランド(島西部)という。 捕鯨業の中心地となった島東部(ダウン・アイランド)と、農業・牧畜にくわえて小舟で自家用の漁をする程度の島西部とでは人の流動や生活ぶりもだいぶ異なっていたようである。次は、チルマークについての記述である。 二百年近くものあいだ、チルマークの経済は島の農業の中で、もっとも収益率の高い牧羊に大きく頼っていた。羊を囲い込むために作られた「レース・フェンス」と呼ばれる数キロにおよぶ石の壁は、かって短く刈りこまれた牧草地であった所をなぞるかたちで、いまでもえんえんと下生えの灌木の中に続いている。今日のような自動車道路がすみずみまで造られている時代とはまったく違う生活ぶりが、19世紀まで一般的であったことを思い出す必要がある。ヴィンヤード島のタウンの中でも、年に何度かの行事や宗教的お祭りを除いて、他のタウンを訪問する機会はめったになかったことを次のように語っている。 チルマークとウェスト・ティズベリーのような隣接しあうタウン同士の交流も多くはなかった。あるインフォーマントは、このことについて、かなり具体的な話しをしてくれた。この島で、このように堅実に働いてきた人々は、イギリスのケント州ウィールド地方(ロンドンの東南東に広がる森林地帯)からニューイングランド地方へ入植した清教徒たちの後裔であった。ウィールド地方には清教徒が多かった。忘れないでおいてほしいのは、私が小さいころは、今よりずっとタウン間の行き来が大変だったということです。当時はチルマークにちゃんとしたお店が一軒もなかったので、嫁いでからも、母を連れてよくウェスト・ティズベリーまで買い出しにいきました。いくだけで一日がかりです。ええ、馬車に乗っていくんです。お弁当とかも用意して。何しろ、一日がかりでしたからね。日に2,3度出向けるようになった今では、昔の苦労がわかりにくいかもしれません。現在90代のまた別のインフォーマントは、チルマークのある家族についてきかれたとき、次のように話している。 ウィールド地方の森林地帯に住む比較的狭い交婚集団のなかで、かなりの過去に、ろうの突然変異遺伝子が発生したと考えられる。それは劣性遺伝子であり、たまたまその遺伝子を持つ男女が結婚するとろう児が生まれる確率がゼロでなくなる。したがって、遺伝の法則が理解される以前は(20世紀初頭)、あたかも“神の意志”ででもあるかのように偶然に、ろう児が生まれたと受けとめられてきた。 ヴィンヤード島に入植した人たちが、この遺伝子保有の集団のなかの一部であった可能性がある。しかも、島の外との人的交流が少ない島のなかで、300年ほどにわって比較的狭い交婚が続けられたのである。島の人口が数百人から数千人に増加する間に、“新しい血”がそれほど入らなかったのである。したがって、異様に高率にろう者が存在することになった。 全世界的に見れば、ヴィンヤード島のような例は、実はありふれたことだったかも知れない、とグロースはいう。 遺伝性聴覚障害は、メンデルの法則にしたがってあらわれる遺伝的性質としては、もっともありふれたものだし、悪くすると初期の段階で聴覚障害が現れる病気、たとえばヨウ素摂取不足症のような病気が、数世紀にわたって風土病であり続けた地方もあるからである。結局、聴覚障害が珍しくない場所では、かならずある種の手話が発達すると考えてよいのではないか。シュレシンジャーとナミールが指摘するように「手話と呼ばれるものが生みだされなかったろう社会は一つとして存在しない」のだから。「ガーナのアダモロベ族」について、亀井伸孝『アフリカのろう者と手話の歴史』では、「ガーナの東部、アダモロペ村は人口の15%が耳が聞こえないという世界一ろう者人口の割合が高い村で、ここでは村独自のアダモロペ手話が話されており、聴者の村民もともに使っている。(p36)」と詳しく述べている。 19世紀、アメリカ全体で先天性ろう者の割合は、1/5728(0.02%) であった。ヴィンヤード島では1/155(0.6%)だった。実に37倍となる。(上のアダモロベの15%がいかに途方もない数字かよくわかる。)ノーラ・グロースは、 私はこれまでに、3世紀にわたって島の家系にうまれたろう者を全部で少なくとも72人確認している。よそへ移住した島の出身者たちの子孫からも、少なくともさらに十数人以上のろう者が生まれている。(p15)と述べている。 ろう者が高率で生まれるといっても、それは、平均と比べれば高率だということであって、ろう者が少数者であることには変わりがない。ろう者によって使用されるようになった手話が、なぜ、どのようにして、聴者も習得して日常的に用いるようになったのか、は不明である。不明であるが、ヴィンヤード島のほとんどの住民が、ろう者も聴者も手話を自由に使いこなせるようになっていたことは事実である。おそらく、ケント州ウィールド地方においてすでに聴者が手話を身につける習慣があった可能性が高い(グロースp65〜67)。 ヴィンヤード島で、耳の聞こえる子どもが、どのようにして手話を学んだか、グロースによって幾つも採集された話は感動的である。少し長いが、そのまま引用する。 島民は幼児期に手話を習得した。健聴児やろう児の手話習得法をたずねると、どのインフォーマントも、子供は英語を覚えるときと同じように、成長とともに自然に手話を覚えてしまうのだと答えた。家の中でろう者といっしょにくらしていると、「見よう見まねで手話を覚えてしまう」のだという。これは大勢の人が証言するところである。たとえばろう者を母にもつある女性はこんなふうにいう。ろう児が周囲の手話を使える人(サイナー)から手話を学んだのは当然として、耳の聞こえる子どもはろう者・ろう児と接触があるかぎり、手話を習い覚えたのである。肉親・近所の人・遊び仲間にろう者・ろう児がいない人などは存在しないぐらいには、島のろう者の人口比は高率であったと考えることができる。 島のくらしの他のあらゆる面についてそうであったように、人間関係の面でも、ろう者と健聴者を区別した者はいなかった。どのインフォーマントも、ろう者だけがかかわっていた社全活動を1つとしてあげていない。各種各様のろう者のクラブや活動が多くのろう者の触れ合いの中心となっている本土とちがって、ヴィンヤード島では、ろう者も健聴者も、いっしょに島内活動に加わっていたのである。それは単に、島の健聴者が、ろう者を自分たちの中にあたたかく迎え入れたというだけではなかった。ろう者の方でも、健聴の家族や友人や隣人から離れて、独自の活動を始めようとはしなかったようなのである。ろう者がろう者しか仲間として認めなかったとしたら、そのろう者は配偶者、きょうだい、親友、隣人、子供たちを仲間から除外せざるを得なくなり、そうした人たち全員を傷つけてしまうことになったはずである。手話を使えば会話ができることが分かっているときに、手話を覚えようとしないのは、ろう者の存在を無視する非道徳な態度であると考えられていたのではなかろうか。そこにはもともとろう者を「障害者」とする思考法がなかったのである。 「聴覚障害者」の概念の中には“聴覚を持たない不幸な人”という考え方が含まれており、「庇護の対象者」とみなすマジョリティーの傲慢さが存在する。(中途失聴者を「障害者」と見なすのは合理性がある。しかし、先天性ろう者は「障害者」ではなく、「少数者 マイノリティー」としての特別な社会的配慮があってしかるべきだ、という考え方が妥当ではないか。) 歴史的には、ろう者をけだもの同然に見なしたり、半人前扱いすることが広く行われていたし、ろう者を精神薄弱と結びつける理解も普通のことだった。ろう者を片輪者扱いする偏見の一部は、近代的な国民の成立(軍隊と普通教育と納税義務)によって助長されたことは間違いない。 ヴィンヤード島のろうについて広範な調査を行ったグラハム・ベルの影響もあって、19世紀末〜20世紀にかけて、優生学的な偏見に満ちたヴィンヤード島に関する論文が大衆誌や専門誌に書かれた。“近親相姦をくり返す未開人”というような描き方である。(ただし、グロースはベルの膨大な調査ノートを再発見して、ヴィンヤード島のろうの歴史の研究に大いに役立てている。) 次のエピソードは、ヴィンヤード島では、暮らし向きの面だけでなく、政治的諸権利(集会での発言、参政権、民兵登録など)についても完全に平等であったことを良くものがたっている。 アメリカ合衆国とマサチューセッツ州の法律は、成人ろう者の参政権、選挙権、被選挙権を否定していなかった。とはいえ19世紀以前は、ろう者の政治参加を認めるべきではないとするのが体勢だったため、ほとんどのタウンや市では、これが論議の的になることが少なくなかった。ヴィンヤード島では、そのような形でこれらの権利が制限されることはなかった。ろう者は積極的にタウンの政治に関与しただけでなく、民兵としての登録もおこなった。成人ろう男性のすべてが選挙権、被選挙権を与えられていたらしいし、中には、政治に深くかかわったろう者もいたようである。(p178)グロースは、このエピソードについて「こうして島のろう者は、島外のろう者が抱えている問題のいくつかに、初めて取り組まなければならなくなった」と評を加えている。 だが、ヴィンヤード島の遺伝性ろうは、島外との交流が盛んになるにつれて、減少していった。理由は明らかである。この遺伝性ろうは劣性遺伝であるから、男女の両者がともにこの遺伝性ろうの遺伝子保有者である場合に限って、ろう児が誕生する確率が生じる。遺伝子保有者が島外に出ていくこと、非保有者が島外から入ってくることで、ろう児誕生の可能性はどんどん減少する。 コネティカット州に新設されたアメリカ聾唖院にヴィンヤード島のろう児たちが送られて教育を受けるようになったのは1820年代からだという。1860年代には10代の終わりまで学校で暮らすようになった。「その結果、多くの者が島外出身の同級生と結婚することになった」(グロースp103)。そして、19世紀の後半までに、避暑客やポルトガル人(アゾレス諸島から)の流入の増加もあった。そうして、劣性遺伝の遺伝子がどんどん拡散し、劣勢の遺伝子同士の結婚の割合が減っていったのである。 そして、既述のように、最後の遺伝性ろう者がこの島から消えたのが1952年であった。 次が、本書の最末尾である。 こうした高齢の島民たちは、島のろう者が残した遺産について語ってくれたわけだが、かれらの話には注意深く考察するだけの値打ちがある。だれ1人聴覚障害をハンディキャップと受けとらなかったという意味で、ろう者にハンディキャップは存在しなかったのだ ―― これこそ、島のろう者についていえるもっとも心に残る事実であろう。この点について、ある女性はこんなふうに語っている。わたしは、つぎの挿話もとても気に入っている。 話し始めは口話だったのが、話し終わるときには手話に変わっていることがよくありました。とくにワイ談のようなしもがかった話の場合、最後のオチは手話であらわされることが多かったのです。たとえば雑貨店に集まった男たちがワイ談に花を咲かせているそのさなか、女性が1人、顔を出したとしましょう。そんなとき、男たちはその女性に背を向け、手話で話を終えるようにしたものです。(p143)この節のはじめに引用したサックスが見た老人たちの笑い声も、この挿話のような事情だったのかも知れない。 〈参考文献〉:第5章で引用した文献。ほぼ引用順です。これだけのデータで、公立図書館で検索できるはずです。
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