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第三巻 83
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浮浪人


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第三巻-76「願人坊主」で乞胸ごうむねに触れたが、乞胸発生には江戸社会に大量の浪人が集まったことと関連がある。

由井正雪、丸橋忠弥らの慶安事件(慶安四年1651)は3代将軍家光が没した年であるが、当時数多くの大名家の改易・転封によって牢人(浪人)が巷に充満していた。そのひとり長嶋磯右衛門が上方から江戸へ下り、編笠で面をかくし、習い覚えていた謡・浄瑠璃を唄って家々の門口に立ち銭を乞うた。追々同じ境遇の者が加わり大勢となった。磯右衛門が中心となって、草芝居や見世物芸などをも行うようになった。
浅草の非人頭車善七から「磯右衛門らが行っているのは非人等の家業であるから止めるように」と申し入れがあり、幾度かの交渉の後、その家業についてのみ非人頭車善七の支配を受けることで双方得心した。この結論をもって穢多頭・弾左衛門が北町奉行へ申し出て、承認された。同じく慶安四年のことである。これが「乞胸」の発端であり、乞胸頭は磯右衛門であることが認められた(高柳金芳『乞胸と江戸の大道芸』柏書房1981 p6~7)。

塩見鮮一郎『乞胸 江戸の辻芸人』(河出書房新社2006)は乞胸の起源が武士出身者であることを強調して、見通しの良い論を立てている。

この原画は「広重人物画稿」のこれ。この絵の浮浪人は大き目の扇子をもち、謡か浄瑠璃をうなって、いくらかの喜捨を期待しているのであろう。
晴風『街の姿』(太平書屋1982)の「226 浮浪人の地謡ひ」はこれと同一の原画を用いている。それには説明書きがある。
浮浪人ハ編笠を目深に冠り黒の羽織を着し手扇子を持地謡を謡ふて生活する者也


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