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第八巻 06
「次」は「ついで」。 第六-25 飴細工に、小松島という飴細工名人のことが出ていたが、明治15,6年頃より、としていた。それから二十年ほど経て精緻な写生的飴細工が再び流行りだした、ということだろう。 図にはいくつものトンボの飴細工がある。 E.S.モース『日本その日その日』の明治15年1882の夏、和歌浦へいく途中、大人や子供がトンボを捕らえて遊んでいる様子を書いている。 我々が(人力車で)越した一つの小さな橋の上では、大人や子供の群れが蜻蛉を捕らえて遊んでいた。彼等は正規的な捕虫網を持っていたが、ある一人は両手を自由にしておくために、四匹の蜻蛉を翅を後に廻して、口でくわえていた。また一人の男の子は、同じようにした蜻蛉数匹を、指の間にはさんでいた。子供達は、蜻蛉の胸と腹との間に糸を結びつけて遊ぶ。虫は飛びながら、軽い糸を数フィートぶら下げている。これは日本いたる所で見受ける子供の遊びである。(東洋文庫 下p111)明治時代、トンボが子供たちに人気があったことの証言である。トンボを指の間にはさんで持つことは、今の子供もする。 |