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第三巻 22
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鳥追

鮮齋永濯
温古年中行
事所載之
人物 縮図

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『温故年中行事』に原画がある、これ。この第三巻22~33の12枚はすべて『温故年中行事』を原画としている。作者の鮮齋 小林永濯は天保十四年(1843)~明治23年(1890)の晴風と同時代に生きた浮世絵師である(永濯が八歳年長)。
わたしは「鮮永濯」が読めず、西南戦争浮世絵「西郷隆盛熊本城の激戦」の署名を探し出し納得した。ここ
ところが後で気付いたが、別の個所では「齋」の草書体を正しく読んでいた。巻三 60の「立広重」および巻八 48の「容

【鳥追 とりおい】
正月の祝い芸として各戸を回って鳥追い唄を歌う門付芸人。江戸中期以降、新年に女太夫たちが、新しい着物に日和下駄・編み笠姿で三味線などを弾きながら、鳥追い歌を歌って家々を回ったもの(ウィキペディアより)。

『江戸の下層社会』から引く。
女太夫たちは)正月松の内七日間は鳥追ひと称して、彼らの風体少しく平常と趣を異にし、かの丸形の菅笠にゆるに韮山笠にらやまがさを以てし、赤の鹿の子絞りの縮緬ちりめんを笠紐に縫ひ付けこれをば頬より顎へかけて顔面一半を覆ひたるもゆかしく(以下略
頬から顎にかけて赤い鹿の子絞りの縮緬を付けるのが、とりわけ印象的で魅力的だったという。
鳥追いとしての貰いは多く、また、その多さを自慢し合うために、亭主が頭の上に「浅き目笊」を掲げてそれに戸毎に貰った銭を入れて、ついて歩いたという(p63~64)。

笠の違いは左図や巻三-29「女太夫」を参照してみて欲しい。

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