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第五巻 29
第三巻には天狗の面を背負った金比羅参りが2つあった。巻三-57 と 巻三-78。いずれも縦長の箱のようなものを背負い、天狗の面が入っていた。 しかし、これは背中に横長の平らなものを背負っていて、ちょっと様子が異なる。 「金比羅参り」は明治維新に行われた神仏分離以前は、象頭山松尾寺金光院の「金毘羅大権現」に詣るのが本来である。江戸時代に修験道がさかんになり、金光院別当の某が天狗となったという伝説がある。逆に天狗が行者になったとも言う。次は『和漢三才図会』の「金毘羅権現」 相伝ふ、当山の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く、江戸中期から「金毘羅道者」が全国を回って、金毘羅大権現が海難を救うという信仰を広めたという。やがて、各地に金毘羅講が生まれた。 金毘羅講は伊勢講や出雲講と同じようにその第一の目的は代参講であった。講に加入している人が講金を集めてくじ引きで決まった人を代参に立てる。代参の者は餞別をもらって、金毘羅大権現に到りわが村の安穏を祈ってから大権現のお礼なりお守りを貰い、金毘羅飴や団扇などの土産を求めて帰り、講の仲間に渡す。(武田明「金毘羅信仰と民俗」『大山・石鎚と四国修験道』 山岳宗教史研究叢書12 p463)天狗の面を背負って歩いたのは、金毘羅道者なのであろう(巻三-57 で参照したウィキペディアは「金比羅行人」としていた)。 清水晴風は『街の姿』に左図とほとんど同じ人物を描いてやはり「金比羅参り」と名づけ、次のような解説を付けている。 金比羅参りは白き行衣を着し、金刀比羅の守札を油紙にて包ミ、朱にて丸に金の文字を書たるを背負ひ、手に願人坊主はなんでもやったというから、金毘羅参りを装って江戸やその近郊を歩いた者もいたのだろう。それを承知の上で江戸の庶民たちは彼らに「賽銭」を恵んでやったのであろう。(加筆修正 2021年7月2日) |