き坊のノート 目次

第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話

大橋力『音と文明』の周辺




《第1章 超可聴音》


第1章   目次

 1 《1》LPとCD
 2 《2》熱帯雨林の音
 3 《3》山城祥二



《1》  ―― LPとCD ――

わたしは、この3週間ほどの時間をかけて、大橋力『音と文明』(岩波書店2003)を読んだ。この本は602頁もあるので“大著”と言ってよいだろうが、それは、本の厚さだけのことではなく、内容的にも文句ない“大著”であると感じた。しかも、そうでありながら、有難いことにとても読みやすかった(内容は難しいが、論理の組立や用語や言い回しなどが優れているので、そう感じたのだろう)。何よりも、大橋力[おおはしつとむ]の志の高さと無私な態度が全編に貫かれていて、読んでいて気持ちが良かった。近頃、こういう感想を持つ本にめぐり会うのは、まことに稀なことだ。

この本に入る前に、わたしは大橋の論文を一編読んでいたので、その話からしたい。
わたしはもともと「音」に関心があって、ときどき、ヒマになると音に関連した書物を読むことがあった。ふとしたことから「打検士」(棒でたたいて缶詰の検査をする特殊技能者)について知りたくなり、『アフォーダンスと行為』(金子書房2001)所収の黄倉雅広「打検士の技――洗練された行為とアフォーダンス」という論文を読んでいた。関連した文献として、原島博ら編『仮想現実学への序曲』(bit別冊 共立出版1994)の中に大橋力「自然環境と人工環境」という論文が入っていることを知った。その論文は、どうやらLPとCDの音質の違いについて論じているらしかった。(この論文は、LP−CDの音質比較はその一部であって、もっとずっと広い視野で書かれていたのだが、そのことに気づいたのは『音と文明』を読んだ後のことであった。黄倉雅広「打検士の技」は、興味深い例がいろいろ挙がっているが、感銘を受けるほどの論文ではなかった。アフォーダンス関連では佐々木正人の本なども読んでみたが、感心しなかった。
LPレコードの発売は1948年コロンビア社が最初である。一方、CDは1982年ソニー社が最初。CDがLPの発売枚数を抜いたのが1986年だという。
亡くなった I さん(英語教師)が、わたしの顔を見さえすると“Oさん”(わたしのこと、数学教師)“CDの音は変ですよネ、やっぱりLPですよ”と口癖のように言っていた。 I さんは、CDが、本来アナログである音楽をデジタル化して録音することに違和感を持っていたらしかった。その理屈は正しくないので(アナログ録音とデジタル録音の間に、本質的な優劣はない)わたしは“そんなことはないでしょう”と答えていた。実際問題としてわたしが所有していたようなレベルのLPプレーヤーでは、CDの方がずっと“いい音”だったし、CDのほうが格段に扱いやすかった。 I さんは、本当は“Oさんは、デジタル人間だよ”とわたしを批判したかったのじゃないか、と今となっては、思う。しかし、シベリウスなどが好きだった I さんは、熱心なレコードマニアで、“やっぱりLPですよ”という彼の耳は正しかったのだと、大橋力「自然環境と人工環境」で確かめることができた。

CD作成の際に、可聴音を超える22kHz以上の音をカットすることにしたのは、人間の耳に聞こえる音すなわち可聴音が20Hz〜20kHzであることを根拠にしている。実際には、電子通信の国際規格(ITU-R)の定める方式に則った多数の人に対する聴取実験がなされ、可聴音を超える音(高周波)をカットした場合とカットしなかった場合に、聞こえ方に違いがないことが厳重に確かめられたのである。
この、〈鉄壁の根拠〉をどのようにして破ったかの、いきさつをも含めた詳細は『音と文明』の第9章にのべられているが、大橋力「自然環境と人工環境」においては、つぎのような簡潔な表現で、結論だけ述べられている。
同一のアナログ音源からつくったLPとCDとの再生信号の周波数分布をみると、CDには当然、可聴域上限22kHz 以上の成分は含まれていないのに対し、LPには50kHz を上回り、ときには100kHzに及ぶ音としては知覚できない高周波成分が含まれていた。また、このCD再生音、LP再生音、LP再生音の高周波をCDと同じレベルまでカットした音を聞かせたときの被験者の脳電位図を比較したところ、LPにまれる20kHzを超え、音としては知覚できない高周波が、快適性の指標とされる脳波α波パワーを増大させるとともに、共存する可聴音をより快適に感受させる効果(ハイパーソニック・エフェクト)をもつことを、いずれも統計的有意のレベルで見出した。
この実験で、高周波の存在そのものは意識されていない.しかし、音としては聞こえず意識できない高周波が、聞こえる音に対する脳の感受性を変調させ、結果的に可聴域を超える高周波を含んだ音と、それをカットした音との音質を違ったものにみちびいていることは、実験的に否定できないところとなっている。わたくしたちが実測した 環境音でも、特に快適性の高い環境のものには可聴域を超える高周波が豊富に含まれ、不快な都市騒音には それが欠けている。(『仮想現実学への序曲』p236)
誤解のないようにつけ加えておくが、この論文でいう「同一のアナログ音源からつくったLPとCD」というのは、特別仕様の録音機で録音し、特別仕様のLPカッターとLPプレーヤーと再生装置を用いて再生したものであり、市販のLPやプレーヤーを使ったわけではない。(特に、市販品ではレコードの溝の幅の制限から、低音を抑え高音を強調するイコライザーが作り付けてあるために、可聴域を超える高周波は減衰が甚だしい。
上の引用部から、つぎの二つの重要な結論を取りだしておきたい。
《A》:音としては知覚できない高周波が、快適性の指標とされる脳波α波を増大させ、共存する可聴音をより快適に感受させる効果をもつ



《B》:快適性の高い環境の環境音には可聴域を超える高周波が豊富に含まれ、不快な都市騒音にはそれが欠けている


《A》は、厳密に表現するために、言い回しが分かりにくくなっている。被試験者は、“超高周波”まで含む特別録音のガムラン音楽「ガンバン・タク」(3分30秒)を聴き、また超高周波をカットしたのを聴いて比較する。超高周波を含む方がより快適に感じ、それが脳波でも確認された、というのである。(実際の実験はとても複雑で大仕掛けなものであるが、要点のみ述べた。
《B》に関しては小論ではまだ触れていないのであるが、図では都会の環境音として、豊島区南大塚・中野区東中野の2例を挙げ、熱帯雨林としてパナマのパロ・コロラド島、農村としてインドネシアのバリ島を挙げている。横軸が周波数で、目盛は10kHz毎。
都会の騒音の環境というものは、数kHz以下の音が大部分であり、超高周波は存在しないものなのだということ。熱帯雨林の環境音の音圧がきわめて高いこと、都会の騒音に匹敵する。しかも、超高周波が豊富に含まれ50kHz以上まで分布している。こういう事実は、わたしは初めて知ることであった。(kHzの感覚を確認するために記しておくが、NHKラジオの時報の一番高い音(正報音)が0.88kHzである。予報音が0.44kHz。聴いてみたい人はクリック 時報もどき


《2》  ―― 熱帯雨林の音 ――

わたしは、《A》と《B》について、論文「自然環境と人工環境」によって、おぼろげな概念を持った上で、“もし、これが本当なら大変なことだぞ”と思いながら、『音と文明』を手に取った。というのは、実際に聴こえてはいない超高周波が、人間の脳に何らかの手だてで伝わっており、しかもそれが、快適性を増大させている、というのだから。つまり、人間は「聴こえる」ことを意識している以外に、「聴こえない音」=超高周波を感受しそれに脳が反応していることになるのだから。そのことは「意識」という近代的概念が、狭い限定的な意味しか持たないことを示している、ともいえる。

『音と文明』は、10章からなる(それに、「序」と、短くはない「結びの論考」がつき、丁寧な「文献・資料」がある。なお、紹介されている文献の大半は英文論文で、大橋自身のものも多数ある)。第1章は、デカルトからはじまり、シャノンの情報伝達のモデルが検討される。「音の環境学」の枠組が本格的な“近代批判”とならざるを得ないことを示しているのだが、その点については、後にとりあげる。わたしが“この本は、本物だぞ”と思いはじめたのは、第2章からである。
騒音防止条例などで取り上げられている「騒音レベル」は、住宅地〜商業地の昼間で55〜65dB[デシベル]である。要するにこの「デシベル」は音の粗密波が運ぶエネルギーを対数表示したもので、騒音レベルなどの場合は、人間の持つ周波数による聴感覚の感度を考慮した「dBA」が使用される(周波数で重み付けして加える。「対数表示」がわからない人は読み飛ばしてください。本質的ではありません)。わたしは、次のような叙述にショックを受けた。《B》についての具体的なデータである。
物理構造として熱帯雨林の環境音をみると、多くの場合、十分静寂に感じられるそうした森の環境音が、騒音計で測ると信じられないほど高く目盛を押し上げることに驚かされる。それは、都市騒音としての許容度の限界値とされる70dBL[時間平均]はもとより、瞬間的には80dBAをこえることさえある。しかしその音空間のもつ快適性は、標準的な感覚感性をもつ人間であれば誰しも、至福を覚えずにはいられないだろう。この森の音については、文明社会がつくった騒音概念や騒音計の示す目盛が、それを聴く人間の惹き起こす感覚感性反応や生理反応とあまりにも隔たりすぎて、まったく使いものにならない。(p65)
理想的な森の中は、けして、“静寂”ではないのである。都会の騒音レベルを超えるほどの音のエネルギーで充たされている。しかも、その音には超高周波が多量に含まれている。次図は100kHzを超える高性能の録音機を現地に持ちこんだ、大橋らの努力・奮闘の賜物である(前掲書p66)。


中央アフリカの熱帯雨林〈イトゥリの森〉の環境音について、そこに棲むムブティ人[いわゆるピグミー人の一族だが、ピグミーは“矮小な”という意味の動物にも使う差別語になるので、大橋は使わないようにしているようだ]の素晴らしさとともに、大橋は次のように述べている。
たしかに、私自身の経験としても、イトゥリの森の快さ美しさはたとえようもなく、そこに棲むムブティ人たちの魂と振舞いの高貴さ、美にかかわる創発・発信・受容力の水準の高さそして豊かさなどは、わが身のもつ想像力の射程がはるかに及ばないものだった。それらによって醸し出される完璧な情報環境が導く至上の感覚感性反応は、言葉にも筆にも尽くすことができない。もちろん音の世界もその例外ではない。というようりは、私にとって、それは、森を彩るぬきんでた魅力の源泉以外の何ものでもない。(『音と文明』p64)

たとえばイトゥリの森では、平均標高900メートルくらいの起伏に富んだ山岳性の地形の上に、50メートルをこえ、時に70メートルにも及ぶ巨木が密生している。それらの幹と樹幹が形成するゴチック・カテドラルさながらの巨大な空間を充たす大樹のどよめきや葉枝のさやぎを背景に、虫の音、鳥の声そして獣の叫びが木霊しつつ複雑をきわめた音の殿堂が築かれている。そのひびきは、悠久の時の流れの中をゆったりと、しかし彩り深く遷移し続けて絶えることがない。(同p65)

実際問題として、純正の熱帯雨林の地面は想像とは違いブッシュをもたずすこぶる二足歩行に適した自然であることに注意を促しておきたい。かつて蜂蜜シーズンにイトゥリ森の最深部に入っているムブティ人たちを訪ねた折、出合った森の大地と、そこに敷きつめられたしっとりとして平坦な朽ち葉の絨毯は、当時50歳に達していた私の全力疾走をゆるすものだった。(同p76)
3つめの引用は、人類の二足歩行の開始(最新の学説では、600万〜580万年前とされている)を論じている所にあるのだが、「古典的シナリオ」は森林がサバンナ化して二足歩行がはじまったというものであるが、大橋は熱帯雨林の中が「すこぶる二足歩行に適した自然である」ことを指摘して、熱帯雨林の中で人類は発祥したという説を打ち出そうとしている(むろん、論拠はこのことだけではないのだが)。

もう一度強調しておきたいが、通常のCDでは22kHz以上は録音時にカットされているのである。われわれが手にするCDに盛られている音情報が、いかに、自然音の一部分でしかないことを認識する必要がある。
楽器も、シンセサイザーを除いて、すべて、自然素材に立脚していることに思いを致せば、このことは“音楽”そのものについて深刻な反省をもたらす。打楽器、笛、オルガン、管楽器、弦楽器、琴・ハープシコード・ピアノ、これらのいずれも、単に“純音”を出しているわけではなく、高度に複雑な高調波をふくむ“音色”をもっている。しかも、その高調波は“超高周波”領域にまたがって発せられていることは、熱帯雨林の環境音と同じことであって、ここでも、楽器が出している「聴こえない音」が、“楽音”の快適性に深くかかわっているはずなのである。


《3》  ―― 山城祥二 ――

“50歳になってイトゥリの森で全力疾走した”という大橋力は、いったい、どういう経歴の人なのだろうか、とやっと関心が湧き出した。それまでは、録音−再生の技術的なことなどに詳しいようだから、そういう方面の学者さんかな、ぐらいに考えて読んでいた。『音と文明』の奥付に略歴が出ているが、それを見て、驚いた。

大橋 力 (おおはし つとむ)
1933年生まれ。東北大学卒。財団法人国際科学振興財団理事・主席研究員。文明科学研究所所長。情報環境学を提唱する。山城祥二の名で芸能山城組を主宰。主著書・作品に『情報環境学』、映画『AKIRA』の音楽。

とあった。大橋の50歳は1983年ということになる。
「芸能山城組」というのは耳にしたことがあるが、どういう活動をしているのか具体的には知らない。とりあえず、近所の公立図書館が持っているCDを検索したら、3枚ヒットしたので、借りてきた。「少年達への地球賛歌:芸能山城組」、「アフリカ幻唱:芸能山城組」、「大地躍動:中央アフリカの歌と踊り」の3枚である。初めの2つは芸能山城組の合唱など、最後の1枚は中央アフリカの民俗音楽で、大橋力の録音と明記してある。「バベンゼレ・ピグミーの狩の歌」というようなタイトルのものが多数入っていた。
amazon で大橋力録音のガムラン音楽を注文したら、翌日には手に入った。「魅惑と陶酔のガムラン」。4曲入っているが、そのひとつが「ガンバン・クタ GAMBANG KUTA」で、LP−CD論争に決着をつけた実験のテスト音源としてつかわれたもの、1985年1月の録音。


22kHz以上はカットしたCDを聴いているわけだが、わたしには十分に「魅惑と陶酔」であった。
このCDは、上図でわかるように「ガムラン・スマルプグリンガン」という宮廷音楽の形式である。大橋は次のような説明を『音と文明』の中でしている。殊に、貴金属を大量に使って「銘器」をつくる話は興味深い。
中でも、スマルプグリンガンは、その典雅な音いろで王侯たちのまどろみを憩いと安らぎに包み癒しをも たらす重要な役割を担った宮廷音楽の形式であり、それを演奏するための楽器セット名でもある。この種類 の楽器は、音量はやや控えめながら音いろは華やかな中にも甘美でつややかなひびきを特徴とする。そのひ びきを生むためには、楽器の材料になる地金に貴金属を大量に融かし込み特別入念に鋳造することを惜しま ない。そして、とりわけ甘く雅な音いろをひびかせることに成功しそれが人びとに認められたセットは、そ の名声をバリ島全土に轟かせることになる。
私たちは、現地でさまざまなガムランのひびきのスペクトルを実測して、銘器の誉れ高いセットであれば あるほど可聴域上限をこえる超高周波成分がより豊かに含まれているというほとんど例外のない傾向に出合 い、ただ驚くばかりだった。その頂点に立ついくつかのセットが生み出す音は、耳にはあくまでも甘くあで やかにひびく一方、そのスペクトルは100kHzをこえるほどの超高周波領域にまで強大なパワーを保っ て拡がっていた。そしてそのひびきが脳基幹部の活性を高めて心身を癒す効果をもっていることも、私たちの非侵襲脳機能計測実験から明らかになった。
つまり、ガムラン・スマルプグリンガンを育てあげたバリ島の人びとは、あたかも超広帯域自動FFTア ナライザーや脳機能計測装置を躰に搭載しているがごとく、知覚圏外に拡がる超高周波空気振動の作用をガ ムラン音の中に読みとり、その効果を巧みに活用し、さらにはその体験をより優れた新しい楽器の鋳造と進 化に活かしてきたことが、先端的な科学技術によって時空を超えて明らかにされたわけである。私たちは、 日本の尺八のそれに勝るとも劣らないバリ島のガムランを育む伝統知に出逢い大きな衝撃を受けるとともに、 この音の文化に畏敬の念を禁じることができなかった。
大橋力は恐るべきマルチ人間であるらしい。
大橋の風貌を知りたい人は、 COMZINE 04年6月号  サイバー日本館 などを見てください。



《第1章 終わり》



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